第60話 籌を帷幄に運らし
難民キャンプの人数は膨大で、蓮の言う通り、老若男女を問わず、戦う力を持たない者ばかりだった。移動も困難、この場を守り切る以外に道はない――だが、たった数日で状況を一変させることは可能だった。
李禹が間者を捕らえたその日、清樹の布陣は密かに動き始めていた。
「敵は難民を手軽な獲物だと思っている。でも、その思い込みを利用すれば、逆に奴らを追い詰めることができる。」
清樹は李禹と凛音にそう告げると、手早く地図を広げ、さらさらと線を引き始めた。彼の指先が、地図上に滑るように大きな円を描いた。まるで敵を取り囲む罠を示すかのように。
「まずは最外周だ。駐屯兵を配置し、民間人を装ってもらう。敵に『弱者の群れ』と錯覚させることで、奴らはそこを弱点だと思い込み、必ずここから攻め込んでくる。――その油断を叩くんです。」
彼の自信に満ちた口調と綿密な策に、周囲の兵士たちは一瞬の驚きの後、次々と頷きを返した。
次に、彼の指先がもう一つ小さな円を描く。
「この防線には林家軍を配置する。林家軍は、中心部に辿り着いた敵を迎え撃つ要の防線だ。ここで確実に敵を叩き潰す。」
最後に、清樹は地図の中央を力強く指し示した。
「守るべき核心――本物の難民たちをここに集める。」
彼は周囲の将兵たちに目を向け、言葉を続ける。「つまり、林家軍と駐屯兵で二重の壁を築き、敵を翻弄しながら力を削ぐ。そして、核心である難民たちには指一本触れさせない――そのための布陣です。敵がここまで辿り着こうとすれば、必ず大きな代償を払うことになるでしょう。」
その日から、帳篷の配置は次々と組み替えられ、兵士たちは防御線でそれぞれの役割を着実に果たしていった。夜になると、難民キャンプの外周には簡易的な防線が設けられ、炬火と旗を手にした兵士たちが巡回し続けた。揺らめく炬火の光は夜闇に散らばり、まるで大軍が駐屯しているかのように見せかけ、敵の斥候の目を欺いていた。
「敵の目を欺き、こちらが圧倒的に有利だと思わせるんだ。」
そして――静寂に包まれた夜明け前、清樹の指示が再び動き出す。
「柳隊長、こちらの高地に弓兵隊を配置してください。」
地図上の高地を指し示しながら、清樹は的確な指示を続ける。
「明日、敵が攻撃を仕掛けてきた時、合図を送る。それまでは息を潜めて待機だ。」
「合図……ですか?」柳隊長が確認するように尋ねる。
「明朝、敵の間者が内部から号令を出すはずだった。その役目はこちらで奪わせてもらう――敵が動き始めたら、弓兵隊は背後から矢の雨を降らせる。」
「……清樹、あなたはそんなことまで考えていたのか。」 凛音は思わず驚きを隠せず、息をのんだ。
「はい、凛音様。」 清樹は静かに頷き、淡々と答えた。「私は戦力にはなれませんから……だからこそ、知恵を尽くして先を読むんです。」
「戦いは武力だけじゃない。あなたのしていることだって、立派な戦いよ。」
凛音は真っ直ぐにそう言い切る。その言葉には、確かな信頼と敬意が込められていた。
「お前は幾重にも布陣を敷き、巧妙に偽装して敵を欺き、さらにその裏で密かに事を運ぶ――逆手に取るとはな……なかなかだ。」 李禹は感心したように目を細め、しみじみと続けた。「清樹、お前はもうあの頃の、助けを待つだけの子供じゃないんだ。」
「ありがとうございます。少しでもお役に立てたなら嬉しいです。」
清樹は照れくさそうに頭をかきながら、小さく笑った。しかし、その表情の片隅に、ふと曇りが差す。
……なんだろう、何か大事なことを忘れている気がする。
夜明け前の静寂が難民キャンプを覆う一方で、皇宮の一角では――
凛律は単膝をつき、真っ直ぐに前を見据えながら口を開いた。
「陛下、辺境の情勢は依然として緊迫しておりますが、凛音が率いる部隊は既に難民の防衛に着手し、布陣を整えております。」
皇帝は御座に身を預け、冷徹な表情を崩さぬまま低く言う。
「凛音の判断は正しい。……だが、そなたがこの時間に朕を訪ねた理由は、それだけではあるまい。」
「仰せの通りでございます。」 凛律は深く頭を下げ、慎重に言葉を続ける。 「先日、難民キャンプで捕らえた間者を調べたところ、その者は玄霖国の者と判明しました。」
「玄霖国だと?」 皇帝の眉がわずかに動き、その眼差しは凛律を射抜くように鋭さを増した。「それが何を意味するか、申してみよ。」
「蓮殿下の見立てでは、玄霖国の攻撃は陽動にすぎず、本当の狙いは国境線への侵攻だと。」
凛律は背筋を伸ばし、続ける。
「そのため、蓮殿下は独自に少数の兵を率い、国境の守備に進軍されたと報せを受けております。」
「何……?」 皇帝の瞳がわずかに揺れたが、その表情はすぐに冷徹に戻る。
「そして――微臣は、ある筋より奇妙な報せを受けております。」
凛律は深く息を吸い、慎重に言葉を紡ぐ。
「詳しいことはまだ掴めておりません。ただ……皇太后が玄霖国と何かしらの繋がりを持っているという噂が、耳に入ったのです。」
「母后が……?」
皇帝の瞳が僅かに揺れる。肘掛けに置かれた指が静かに動き、寝宮に張り詰めた空気が漂った。
だが、すぐに皇帝の瞳には鋭い光が戻り、ゆっくりと立ち上がる。
「今は、最悪の事態を見据えて動かねばならぬ。」
彼の動作ひとつひとつが威厳に満ち、発せられる命令は広間に重く響き渡った。
「まずは、蓮に援軍を送れ。国境に向かう敵の動向を牽制せねばならん。」
「そして――天鏡国と玄霖国の皇帝に密使を送り、彼らの動きを探れ。朕は事の真相を見極める必要がある。」
皇帝は振り返り、最後に力強く言い切った。
「戦は避けたいが、国を守る覚悟は常に持っておる。」
「御意。」
凛律は深く頭を下げた。
その心中には、ただ一つの願いが浮かぶ――
どうか、音ちゃんと蓮殿下が無事でありますように。
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雪の刃—殺し屋の元王女さま 栗パン @kuripumpkin
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