第59話 守るべきもの

冷たい朝靄が辺境の空気を覆っていた。仄かな陽光が遠くの山影に滲み、緊張した静けさが辺りを支配している。臨時の作戦本部の中、地図が広げられた卓を囲む数名の将兵たち。その中心に立つのは、柔らかな笑みを浮かべた青年だった。


「明日が文書に記されていた襲撃の予定日だ。」


蓮は落ち着いた口調で、目の前の少女に視線を向けた。

「凛凛、お前は李禹、清樹、そして林家軍の精鋭と駐屯地兵の半分を連れて、難民を守るために向かってくれ。」


その声には、どこか優しさが込められていた。しかし、その裏には、深い覚悟と躊躇のない決意が滲み出ているようにも聞こえる。

「難民キャンプには、傷を負った者や老人、子どもたちが多い。移動も困難だし、戦う力も術も何ひとつ持たない、無力な人々ばかりだ。彼らを守るには、大量の兵力が必要だ。」



凛音は短く頷いたが、その目には疑念と何かを探るような光が浮かんでいる。

「では、蓮は?」


凛音は冷静に短く問いかけた。僅かに声のトーンを落としたその言葉は、蓮の計画に一抹の疑念を示している。

「私はここに残るよ。残りの駐屯兵とともに、この場所を守るつもりだ。」


蓮はわずかに笑みを浮かべながら、肩をすくめた。


「どうしても気になることがあってね。もう少し、研究しておきたいんだ。」

「……分担して動いたほうが安心できるだろう?」



彼はまるで反論の余地を与えないかのように、続けざまに言葉を紡いだ。その穏やかな声色が、かえって一種の確信を感じさせる。


凛音はしばらく蓮の顔をじっと見つめた後、視線を落とし、小さく息を吐いた。
「分かりました。」


彼女の胸にはまだわずかな不安がくすぶっていた。

「何かを隠しているのでは……」そんな思いが脳裏をよぎる。

しかし、蓮の確信に満ちた言葉と穏やかな表情が、それ以上の追及をためらわせた。――彼の判断を信じよう。


清樹は難民の保護に専念し、防御布置の初歩的な計画を次々と提案していた。

その熱心さの裏で、蓮の深い意図には全く気づいていなかった。


一方、李禹は控えめに反論を試みようとしたが、蓮の低い声に遮られた。

「李禹、お前は凛音の側にいてくれ。頼む。」

重く響く「頼む」の二字に、李禹は言葉を飲み込み、言い返すことができなかった。

彼は胸の奥に湧き上がる葛藤を必死に押し殺しながら、その場を引き下がった。


凛音は出発の準備を整えた後、もう一度蓮に尋ねた。


「本当に一人でここに残るの?」

蓮は微笑みながら答える。
「もちろんだよ。難民を守るのは君の方が適任だ。」


凛音小さく頷いた。疑問が完全に消えたわけではなかったが、それ以上問い詰めることはしなかった。


李禹も最後にもう一度蓮を引き止めようとした。


「殿下、やはり一人では……」


しかし、蓮は淡然とした笑みを浮かべながら静かに言い放った。


「問答無用。」


李禹は目を伏せ、小さな声で応じた。


「殿下が無事であることを願います。」



一方、朱寧宮。

月の光が紅の簾を透かし、冷たく鋭い輝きを放っていた。


一人の女性が静かに歩みを進める。深い紺色の長袍を身にまとい、その衣には赤金の鳳凰が翼を広げるように見事な刺繍が施されている。頭には五彩の金冠を戴き、髪には点翠の鳳凰簪が月明かりを受けて淡く輝いていた。

唇の端に浮かぶ微かな笑み。それは穏やかさを装っていながら、どこか底知れぬ不気味さを秘めている。その笑みは、まるで地獄の底から這い出た修羅のように冷たく、見る者を凍えさせる威圧感を放っていた。


「陶太傅。任せた件は、わらわにいつまで待たせるおつもりですか?」


その声には否応の余地を許さぬ威圧感が漂っていた。

「ご安心ください、皇太后様。天鏡国への攻撃準備は順調に進んでおります。玄霖国の部隊もすでに境界付近で待機しており、指示通りに動く準備が整っております。」
陶太傅は丁寧に頭を下げながら、静かに口を開いた。


「それならよい。」
皇太后は椅子の肘掛けに指を置き、ゆっくりと指先を滑らせた。「で、玄霖国の軍勢と我が国の兵士が合流するのは、いつになるの?」

「おそらく数日のうちに、最適な時機を迎えるかと存じます。皇太后様の大望を果たすべく、微臣一同、全力を尽くしている次第でございます。」


皇太后は、再び椅子にもたれかかりながら、目が細められる。「期待通りですって?」
その声には微かな冷笑が含まれていた。「玄霖国の動きが妙に慎重に見えるのは、わらわの気のせいかしら?わらわに背く気はないでしょうね、陶太傅?」


「そのようなこと、決してございません。玄霖国も利益を求めております。表向きは協調を見せつつ、確実な成果を得る好機を探っているだけにすぎません。しかしながら、皇太后様のお導きのもと、天鏡国攻略に彼らを存分に活用することで、我が国の負担は大幅に軽減されるものと存じます。」


「利用、ね。」
皇太后は薄く笑みを浮かべた。「わらわは確実なものしか求めていない。あなたの策略が失敗すれば、その責任をどう取るつもり?」

一瞬の静寂が広間を包む。陶太傅は、計算されたような間を置いて答えた。
「失敗することは万に一つもございません。すべては皇太后様のご指示通りに進んでおります。」

「それに……雪華国の遺産も、各国への輸出が順調に進められております。その資金はすべて、皇太后様が進めておられる新たな離宮や御苑の整備に充てさせていただいております。」


皇太后の表情がわずかに緩む。「そう。ならばなおさら、無駄な動きは許されないわね。」

「仰せの通りでございます、皇太后様。すべてはお心のままに。」

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