第58話 明日への願い

「李禹、蒼岳、今日は凛凛の誕生日だ。この話は明日にしてもいいか。」


蓮が静かに切り出すと、蒼岳は普段見せない険しい表情を浮かべた。

「しかし……敵国は待ってくれるわけではありません。」


「それでも、少しくらい猶予を与えることはできるだろう。」


「できません。」蒼岳の声は低くも断固としていた。


蓮と蒼岳が珍しく声を荒げ、意見をぶつけ合う。いつも冷静な二人の間に緊張感が漂う中、李禹が一歩前に進み、控えめながらも口を開いた。


「捕えた者を調べた結果、蒼霖国の名が出てきました。奴らの目的は、流賊の襲撃計画を確認することだったようです。」


彼の穏やかな声には、隠しきれない不安の色が滲んでいた。


蓮はこれまで、陽動作戦の可能性を考えていたが、それが現実のものとなった。

それどころか、事態はさらに複雑だった。

蒼霖国の狙いは、駐屯地の兵力を分散させ、辺境に新たな火種を作り出すことにあったのだ。

だが、この陰謀を仕掛けたのは誰なのか――蓮には答えが見つからない。


もしこれが地方の腐敗した役人によるものなら、難民キャンプを攻撃する目的は単純だ。自らの利権を守り、不正な交易を続けるためだろう。しかし、それだけで他国が介入する理由にはならない。

もし祖母上が関与しているのだとしたら……なぜ蒼霖国と手を組み、自国を危険にさらす必要があるのか?

さらに、陶太傅……学識ある儒雅な夫子が、果たして多数の民を犠牲にするような行為に及ぶとは到底考えられない。


だが現実は、そんな疑問を考える余裕すら奪っていく。
王都に戻って援軍を要請する時間はない。
辺境を守るために難民を見捨てることもできない。
しかし、難民を守るために辺境を放棄するわけにもいかない。


どちらを選んでも犠牲を避けることはできない――蓮はその苦渋の選択に思いを巡らせながら、静かに目を閉じた。


「それなら、明日、李禹は凛音と共に精鋭を率いて難民の保護に向かえ。私は駐屯地の兵を率いて国境を守る。民なくして国は成り立たない。まずは民を守ることが最優先だ。国境での戦いが火種になるのは避けられないが、蒼岳が急ぎ朝廷に戻り、凛律と共に父上へ報告すれば、最速で援軍を得られるはずだ。私は可能な限り国境を守り、戦火を引き延ばす。」


蓮の言葉には迷いが一切なく、全てを背負う覚悟が滲み出ていた。


「殿下、それは無理です!」


李禹が即座に反論した。その声には明らかな焦りと苦しさが滲む。


「それでは殿下の身にあまりにも大きな危険が及びます。それが殿下である以上、私は……!」


最後の言葉が詰まる。



自らの主君であり、幼い頃から共に育った兄弟のような存在。

その命を危険にさらす選択肢を、李禹はどうしても受け入れられなかった。

しかし、この状況で他に策がないことを理解しているのも、また彼だった。


「蒼岳、すぐに出発してくれ。」
蓮は静かに、だが揺るぎない意志を込めて言葉を紡ぐ。
「戦いが終わったら、彼女にはもっと広く美しい世界を見せてやりたいんだ。」


午後、蓮はずっと厨房にこもりっきりだった。誰もその姿を見た者はいない。



「珍しいわね……」
凛音は少し不思議そうに呟いた。今日は蓮が排兵布陣を李禹に任せ、自分は午後の監督を放棄したと聞いている。最近特に真面目な蓮が任務を他人に委ねるなんて、よほど大事な用事でもあるのだろうか――そう考えながら、あまり深く詮索しないことにした。


一方、昨夜難民キャンプから戻った清樹の姿も見当たらない。
「みんな何をしているのかしら……?」
凛音は首を傾げながらも、特に気にする様子もなく、自分の仕事を続けていた。


彼女はまだ知らない。この静かな午後が嵐の前のひとときであることを。
待ち受けているのは、笑顔溢れる驚きと、突如訪れる激しい戦火の揺らぎだった――。


テントの外は冷たい夜風が吹いていたが、中は灯された明かりのおかげで不思議と暖かい空気に包まれていた。さらに、清樹が昼間に山から摘んできた花があちこちに飾られ、質素な食卓がまるで華やかな舞台のように変わっていた。

凛音は驚いたように周囲を見渡し、小さく声を漏らした。「これ……どうしたの?」


「やっぱり凛凛は自分の誕生日を忘れてたんだな。」

蓮は冗談めかして笑いながら、凛音の肩を軽く押し、席に座らせた。


「凛音様、お誕生日おめでとうございます。」

李禹と清樹が揃って声を上げた。


その時、蓮が厨房から長寿麺を持ってきた。自らが作ったものだと言わんばかりの満足げな顔で置くと、少し照れくさそうに言った。

「最近、生活が荒んでるからな。たまにはこういうのも悪くないだろう。」


「これ、蓮が作ったの?」

凛音が驚きながら尋ねると、蓮は得意げに頷いた。

「そうだ。ただ、麺の太さを揃えるのがこんなに難しいとは思わなかったな。剣術の稽古より厄介だ。」


思わず笑みがこぼれる凛音。その笑顔は、この数日の緊張感を少しでも和らげるような、柔らかな温かさを持っていた。

「ありがとう、みんな。」


蓮はそんな彼女の笑顔をじっと見つめながら、少し真剣な口調で言った。

「凛凛、戦いの最中でも笑顔を忘れるな。それだけは覚えておいてほしい。」


その言葉は一瞬、テント内に小さな重みを落としたが、すぐに蓮は杯を手に取り、いつもの調子に戻ったように軽やかに続けた。

「今日は全員、ゆっくりしてくれ。」


穏やかな時間が流れる中、李禹だけはどこか落ち着かない様子で蓮に近づき、そっと耳打ちした。

「殿下、やはり明日の出発について、もう一度……」


「今日はその話はするな。」

蓮はすぐに遮ったが、ふと凛音に目をやった。彼女はまだ何も気づいていない。ただ、この穏やかなひとときが彼にとってどれほど大切か、それだけが彼の心を占めていた。


李禹と清樹が休憩に向かうと、残されたのは蓮と凛音だけだった。


二人は無言のまま並んで軍営の外へと歩き出す。

月が雲の切れ間からぼんやりと顔を覗かせ、その淡い光が静かな夜の空に漂っていた。


最後にこうして外を歩いたのは、凛音が雪華国へ旅立つ前日だった。

あの日、二人は夕陽を見に行くと称して歩き出した。


時が流れた今、それは遠い昔のことのようにも思える。しかし、凛音の心にはまだ鮮やかに刻まれていた――あれが、自分から蓮への別れだったことを。


そして、今度は蓮の番だった。


「凛凛、これを受け取ってほしい。」

蓮が手にしたのは、薄朱色の蓮の形をした、透き通るような美しい玉佩だった。


「これは、生まれたときからずっと私のそばにあったものだ。もし凛凛が私にとって一番大切な人なら、これは私にとって一番大切なものだ。」


凛音は一瞬戸惑ったように視線を落とし、玉佩を受け取るべきか迷っているのが伝わった。手を伸ばそうとしながらも、ためらいがその動きを止めている。


蓮はそんな彼女の様子を見つめると、静かに膝をつき、手にした玉佩を唇に軽く触れさせた。そして、そのまま凛音の腰にそっと結びつけた。


「凛凛、またこうして一緒に月を見られる日が来るといいな。」

蓮の声は一瞬震えているように聞こえたが、すぐに穏やかな微笑みを浮かべた。その笑顔は、暖かいようでいてどこか儚げだった。

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