第57話 本当に情けない

「……皇太后からの指令……。一週間後に難民キャンプを攻撃せよ……。」

軍営のテント内、蓮の低い声が静けさを破るように響いた。


凛音の表情が僅かに動いた。その名前が耳に届いた瞬間、胸の奥にざわめきが広がる。脳裏には、母の悲劇が鮮明に甦っていた。


蓮が指先で紙の端を軽く弾きながら呟く。「この筆跡……どこかで見覚えがあります。」


「筆跡、ですか?」


凛音が顔を上げると、蓮は慎重に頷き、言葉を続けた。

「確証はありませんが……陶太傅の書簡に似ている気がします。」


その名前に凛音の胸が一瞬強く揺れた。無言で密書を受け取り、目を凝らして筆跡を眺める。一文字一文字がまるで刃物のように鋭く胸を刺してくる感覚がした。


「陶太傅は……そんなことをする方ではありません。」

手元が僅かに震えそうになるのを押さえつけながら、凛音は密書を机の上にそっと置いた。


蓮はいつも彼女を見ているだから、その震える手元、押し殺した表情――それら全てを見逃すわけがない。彼は優しく口を開いた。

「証拠が揃うまで、決めつけるべきではありません。」

蓮は少し間を置き、密書を見つめながら慎重に言葉を選んだ。

「まずは情報を整理しましょう。慕侯爵が死んでいることは確かです。慕家の残党も、全て私が直接手を下して処理しました。この地に生き延びた者がいる可能性は低い。」


蓮の口調は穏やかだが、その中には揺るぎない自信があった。

「それに、ここはまだ王都から遠く離れています。慕家の敗北が伝わっていないという可能性もあります。」

「もし誰かが慕家の名を騙っているなら、その行動が本当に皇太后の指示によるものなのか……その点も疑わしいですね。皇太后が慕侯爵の死を知らないとは考えにくい。」



突然、凛音は顔を上げて問いかけた。

「蓮、あなたはただ、自分のおばあさまがそんなことをしたって認めたくないだけなんじゃないの?」


蓮の目が驚きに見開かれる。だがその表情には、どこか怒りの色も浮かんでいた。

「凛凛こそ、ただ自分のおじいさまが慕家の文書を偽造したなんて認めたくないだけだろう。」


その言葉が凛音の胸を深く刺した。胸に何かが張り詰めるように広がり、理性では否定したかったが、心の奥底でその可能性に怯えている自分を自覚してしまった。そして、それが崩れるように、涙が溢れ出した。


「……っ!」 蓮は目の前の光景に一瞬言葉を失った。凛音が彼の前で涙を見せるなど、考えたこともなかった。

「ごめん、ごめん、私が悪かった!私はそんなつもりじゃなかったんだ!」


慌てた声で言いながら、蓮は続けた。

「私はただ……凛凛に私の気持ちを疑われた気がして、少しカッとなっただけなんだ。祖母上が単純な方ではないことは、私も重々承知しています。彼女が何をしてきたのかも、大体想像はついてる。だけど、冷静に考えれば……これは二つの可能性しかない。」


蓮は一息に言葉を続ける。 「一つは、祖母上が本当に模倣者と共謀していること。もう一つは、模倣者が祖母上の名を騙って指令を出していること。どちらにせよ、私たちにはまだ証拠が足りない。」


凛音はただ涙を流すだけで、言葉を返すことはなかった。

「ごめん、本当にごめん……!」 蓮はそっと凛音を抱きしめた。その腕の中で、彼女の震えが僅かに伝わる。


彼女を守るためなら、何だってできると思っていた……なのに、こんな形で泣かせてしまうなんて。本当に情けない。


凛音自身、泣いてしまったことに驚いていた。涙はすぐに止まったものの、彼の腕から逃れることはなかった。彼女は自分がどんな表情をしているのか、分からなかった。


蓮が嘘をつくとは思えない……それでも、なぜ。

唯一残された血縁者がこんな人間だなんて。いったい、何が真実なの……


立っていた蒼岳が、耐えきれずに咳払いをした。

「……」二人の視線が一斉に彼に向く。

「いやはや、千年生きてもこういう場面を見ているこっちが恥ずかしくなるな。」

浮游が肩をすくめ、呆れたようにぽつりと言った。


凛音はハッと我に返り、慌てて蓮を押しのけた。

「これ以上、感情に流されるわけにはいきません。」 顔を伏せながらも、気持ちを抑えるように言葉を続けた。「皇太后や陶太傅を直接疑うのは、今は置いておきましょう。当面の急務は駐屯兵団を突発事態に対応できるようにすることです。」


蓮は一瞬困ったように笑みを浮かべたが、すぐに穏やかな声で応じた。「凛凛らしい判断ですね。ただ、この密書が陽動作戦だとしたら、何か大きな仕掛けが裏にある可能性もあります。」


一週間という時間は、長いようで短いものだ。駐屯兵団を死ぬほど訓練しても、林家軍のような精鋭にはなれない。それでも、誰もが自分にできる限りのことを必死にやり遂げていた。


蓮と凛音もまた、日々忙しさに追われていた。顔を合わせる機会はほとんどなく、陶太傅の話題が出ることもなかった。けれども、その名が二人の心に影を落とし、不安と疑念が絶えず渦巻いていた。


そして、迎えたのが11月5日――凛音の誕生日である。

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