第56話 小さな樹の、大きな一歩
清樹、清らかで、強く生きる樹。
これは凛音様からいただいた、何よりも大切な名前。
ほかにも、たくさんのものをいただきました。
武術と学問に触れる機会を作ってくれ、林家の人々も温かく迎え入れてくれました。
凛音様と出会ってから、まさしく友と家族に囲まれた幸せな日々。
しかし、私は未だ凛音様に何一つ報いることができていません。
凛音様のそばにいるとき、自分の不器用さを感じることばかりです。
もっと強くなりたい——凛音様のために役に立てるように。
だから、今回はどうしても自分から手を挙げて偵察に行きたいんです。
あの強者揃いの中で、私には私なりの戦い方があるはずです。
武器を振るうのは得意じゃなくても、頭を使えばきっと勝負できると思っています。
そう誓った清樹は、難民キャンプへ向かっていた。
最近、流賊の活動が活発化し、状況は混沌としている。内輪の問題と外敵の脅威、その境界線は曖昧だ。だからこそ、潜む脅威を見逃さないよう、自分にできる限りのことをしようと決めていた。
彼に課せられた任務は二つ。
一つ、難民キャンプの安全を確認すること。
一つ、流賊に関する情報を掴むこと。
馬の蹄が乾いた土を叩く音が、風の中に小さく響いていた。 彼の目はまっすぐ前を見据えている。後ろを振り返るつもりはない。
清樹は、静かに手綱を握り直した。
難民キャンプに足を踏み入れると、清樹は一瞬驚いた。
想像していた荒れ果てた光景とは違い、そこには穏やかさすら感じられる雰囲気が漂っていた。仮設の住居は質素だが整然と並び、中央には薪火が焚かれ、子どもたちが互いに笑い合いながら遊んでいる姿が見える。
「……洛白様…いいえ、蓮殿下のおかげですね。」清樹は心の中でつぶやいた。
聞いた話では、洛白様がここで傷病の治療を施し、さらに王子として指示を出して難民たちの生活を支えていたという。
だが、それでも目を凝らせば小さなほころびが見えてくる。
例えば、仮設住居の隅に目を引く人物。 一人だけ、火の輪に加わらず、薄汚れた服装でポツンと座っている男。
あの人……何かがおかしい。
清樹は目線を落とさないよう気を配りながら観察を続けた。 袖口から覗く腕には、明らかに剣を握り続けた者の茧が見える。さらに足元の靴――見た目は汚れているが、靴底は驚くほど新しい。これは、長距離を歩いてきた難民のものではない。
しばらく様子を伺っていると、その男がふと立ち上がり、周囲を警戒するように辺りを見回した。そして、焚き火の輪を避け、足早にキャンプの外へ向かう。
……どこへ行くつもりだ?
清樹は注意を引かないように距離を取りながら、男の後を追った。
月明かりに照らされた道を進む男の影を、清樹は息を潜めて追う。木々が生い茂る道に入り、周囲の音がより静かになると、男がふと立ち止まった。そこには、もう一人の影が待っていた。
「遅いぞ。」低い声が聞こえる。男と合流した相手が口を開いた。 「外の警戒が厳しくなっている。今は目立ちたくない。」
二人の間で何かが手渡されるのが見えた。清樹は木の陰から目を凝らす。その瞬間、受け渡された物の一部が月光を反射した。
あれは……封筒?
あの印……どこかで見たことがある。
紋章の意味を凛音様に確認すれば、何か分かるかもしれない。
この男……やはり普通の難民じゃない。ここは何か、裏で大きな動きがある。
「……予定通りに進める。こっちはすでに動き出している。」
「辺境に目を向けさせろ。それが済んだら、次の段階だ。」
清樹は木の陰に身を潜めながら耳を澄ませた。会話の内容は断片的だが、ただ事ではないことが分かる。
男たちが去ろうとしたその瞬間、清樹の足元で小枝が軽く折れる音が響いた。 「誰だ!」一人が鋭い声で振り返り、周囲を睨みつける。
清樹は瞬時に周囲を見回し、手元に落ちていた小石を拾い上げた。
……落ち着け。慌てるな。
指先で小石をそっと弾き、反対方向の茂みに向かって転がす。枝葉を擦る微かな音に、彼らの視線が逸れた。 「こっちだ!」先ほどの声の主が音のした方へと急ぐ。
その隙を見て、清樹は木々の陰に身を潜めながら、安全な位置へと移動した。男たちは何も見つけられず、苛立った声を上げながらその場を離れていく。
危なかった……でも、まだやるべきことがある。
急いで戻らないと……凛音様に、このことを報告しなければ。
清樹は静かに息を整えると、すぐに体勢を立て直し、そのまままっすぐ難民キャンプへ戻り、李禹のもとへ向かった。
「李禹さん、少しいいですか。」
小声で呼びかけると、李禹が振り返る。疲れた表情だが、その目は鋭い。
「どうした、清樹。」
「一人、気になる男がいます。普通の難民ではありません。」清樹は周囲を一瞥し、声を潜めて続けた。「先ほど、キャンプの外で誰かと接触しているのを見ました。状況から考えて、少なくとも二つの可能性があります。」
李禹は眉をひそめ、身を少し乗り出してきた。「聞かせてくれ。」
「一つは、ここで意図的に騒ぎを起こし、誰かの目を引くこと。」清樹の声は静かだが、緊張感を帯びている。「もう一つは……さらに多くの難民を作り出そうとしている可能性です。」
「難民を?」李禹が問い返す。
「ええ。つまり、辺境で何かを仕掛け、人々を追い詰めることで、難民を増やす。そして、軍や凛音様の注意をそちらに向けさせるためです。」清樹は一拍置き、最後にこう結んだ。「どちらにしても、これは調虎離山の一環。では……彼らの本当の目的は何でしょうか。」
李禹はしばらく考え込んだ後、低く呟いた。「そこまで言うなら、蓮殿下と凛音様にも伝えた方がいいな。」
清樹は頷き、手元の紙を取り出した。「そのために、これを描いておきました。」紙には簡易的だが明確な紋章が記されている。「あの男が持っていた封筒に刻まれていた紋章です。凛音様に届けていただけませんか。」
李禹がその紙を受け取った瞬間、目が僅かに揺らいだ。「……これは慕家の紋章だ。」
清樹は驚いた様子で李禹を見つめた。「慕家、ですか?」
慕家はすでに滅びたはずだが……なぜ今になってこんなものが出てくる?
人がまだ生き延びているのか、それとも誰かが偽って利用しているのか……
どちらにしても、これ以上放置するわけにはいかない。
清樹はすぐに提案した。「それなら、この文書そのものを凛音様と蓮殿下に直接お見せした方が確実だと思います。」そして、先ほど目撃した男の行動を詳しく説明し、隠れていた場所を指し示した。
「分かった。その男を捕らえ、文書を確保する。」 李禹はすぐに行動に移し、素早く男の腕を掴み、その場で組み伏せた。もがく相手の懐を探り、封筒を引き抜く。
「やはり……これだ。」李禹が封筒を手に取り、表面に刻まれた紋章を睨む。「これを早急に蓮殿下と凛音様に届け、真偽を徹底的に調べてもらう必要があるな。」
清樹は深く頷いた。「はい、これで少しでも明らかになれば。」
男はなおも抵抗を試みたが、李禹の手によって完全に制圧され、動きを封じられた。その場の緊張感が僅かに和らいだ時、清樹は次に取るべき行動を考えながら歩を進めた。
まだ終わっていない。これが次の一歩になる――そう信じて。
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後書き:
物語の中に描かれる人物たちが、それぞれの温度と成長を持てるように――そんな思いを込めて、この55話と56話を書きました。
誰にでも、その力が届く役割と、歩むべき道があるはずです。ここまで読んでくださった皆さんにも、どうかあなた自身の物語がありますように。
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