罪と贖罪のアムネジア

黒蓬

罪と贖罪のアムネジア

その夜、雨は止んだが冷たい風が窓を叩き続けていた。

昇平は、無意識に指でテーブルをトントンと叩きながら、自分の周囲をぼんやりと見回した。何もかもが知らない部屋だった。木の床に、白い壁、そして無機質な光を放つ蛍光灯。病院の一室のようでもあり、どこか古びたホテルの一室のようでもあった。


彼は、自分が誰なのか、どこにいるのか、まったくわからなかった。視界に入るものは全て、初めて目にするものばかりだった。頭が痛くひどく混乱していたが、何かに押しつぶされるような感覚があった。

そう、何かを忘れている。それが自分にとって非常に重要なことで、忘れたことで取り返しのつかない何かが失われた気がした。


突然、扉が開き看護師が入ってきた。小柄で優しげな顔をした女性が、彼に穏やかな声で話しかける。


「昇平さん、目が覚めましたね。大丈夫ですか?」


昇平は反射的に聞いた。


「俺は・・・あなたは誰ですか?」


看護師は一瞬、困惑した表情を見せ、すぐに笑顔を取り戻した。


「昇平さん、記憶を失われたんですね。大丈夫です。ゆっくり思い出していきましょう。」


その言葉に、昇平は無意識のうちに手で額を押さえた。

記憶喪失。そう、彼には何もかもが失われている。名前も、顔も、何も。どんな過去を持っていたのかさえ、全く思い出せなかった。

しかし、彼の心には深い空虚感と共に、何かしらの罪のようなものがひしひしと感じられた。何かを犯したような気がしてならない。


看護師が去った後、昇平は無意識のうちにもう一度自分の過去を思い出そうとした。すると、一瞬、ぼんやりとした映像が頭をよぎった。

真っ赤に染まった手、見知らぬ女性の泣き顔。そして、誰かを傷つけてしまったような感覚。それが何を意味するのかはわからないが、彼の胸に痛みが走った。


「今のはいったい・・・?」


それから数日が過ぎ、昇平は病院の外に出ることを許された。しかし、外の世界に一歩足を踏み出した途端、彼はひどく息苦しさを感じ足元がふらついた。

外の景色がぼやけ、頭が重く何もかもが遠く感じられた。


「あなたは誰?」と、どこからともなく声が聞こえた。


昇平は振り返ると、そこには一人の女性が立っていた。

彼女の顔にはどこか見覚えがあるような気がしたが、名前が思い出せない。

その女性は、昇平の目をじっと見つめ、静かに言った。


「私は・・・あなたを許すことはできない。」


その言葉が、昇平の心に深く突き刺さった。彼は思い出せない自分の過去を、必死に探り続けた。しかし、どうしても思い出すことができない。

そんな苦悩をしているとやがて、女性が語り始めた。


「あなたは、私を・・・殺したんです。」


昇平は、その言葉を聞いた瞬間、全身が凍りついた。何もかもが崩れ去り、彼の心は真っ白になった。あの映像、赤く染まった手、泣き叫ぶ女性。彼はその女性を殺してしまったのだ。


「でも、あなたは覚えていない。覚えていないから、何も感じないのでしょう?」


その女性の言葉は、昇平を追い詰めた。彼はその場に膝をつき、頭を抱えた。罪悪感が胸を締め付け、体が震えた。記憶を失ったことが、こんなにも恐ろしいことだとは思わなかった。自分が犯した罪を思い出すことができないことが、彼にとっての最も大きな罰となった。


「どうすれば、俺を許せる?」昇平は呟いた。


その女性は、無言で背を向けた。そして、最後に彼に一言だけ告げた。


「贖罪の方法は、あなたが自分で探し出さなければならない。」


昇平は涙を零しながら立ち上がり、女性の後ろ姿を見つめた。

彼の罪が、彼自身をどれだけ苦しめるのか。

それがわかるまで贖罪の道は始まらないのだと、彼はようやく理解した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

罪と贖罪のアムネジア 黒蓬 @akagami11

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ