とある紙の話

またり鈴春

とある紙の話


●2044年4月4日

 

 スパッ


音はなかった。

しかし今の切れ味を表現するとしたら、まさにこう。


「いったー。紙で、手を切った」


球状に湧いた赤い血が、人差し指を伝って滑らかに移動する。床に落ちてしまわないよう、慌ててティッシュを探す。すると意図しない場所から、急にソレは現れた。


「ほれ、橘」

「お、さんきゅ」


同じ会社で働く安土(あづち)が、ポケットティッシュを俺に渡す。大雑把で有名な安土がポケットティッシュを携帯していることに驚きながら、有難く頂戴する。


「痛そーだな、絆創膏もらうか?」

「はは、お前から?」

「さすがにねーわ。女じゃあるまいし」


だよな、とその場を後にする。指を見ると未だ血が流れている。どうやら、すぐ止まってくれそうにない。やはり絆創膏が必要か。


「あ、友(とも)さん、絆創膏ある?」

「ありますよ、はい」

「おぉ、さんきゅ」


オフィスで会計をしている友さんに尋ねると、すぐに絆創膏をくれた。あまりに早い対応に驚くと、フワフワな髪を一つくくりにした友さんが苦笑を浮かべる。


「私もよくお札で手を切っちゃうんです。だから常にデスクに絆創膏を置いているんですよ」

「なるほどね、大変だね」


「私がドジなだけです。でも最近は皆さんも、よく紙で切られていますね。私の絆創膏、前より人気になりましたもん」

「そういえば、俺も久しぶりに紙で切ったな。これ、地味に痛いから嫌いだよ」


「同感です。スパッ、ですもんね」

「そう、スパッ」


手を左右に動かして、切るジェスチャーをする。その時、俺たちの元に砂本(すなもと)さんがやってきた。俺たち、というか友さんがお目当てらしい。砂本さんの懇願する瞳が、まっすぐ彼女に向いている。


「友ちゃん〜、絆創膏あるかな?紙で手を切っちゃって〜」

「ありますよ、はい」

「ありがと〜」


砂本さんの手を見ると、指ではなく手の平の端をスパッと切っていた。うわ……、これは痛そうだ。


「もー、課長に言っちゃおうかな〜。

〝用紙〟を変えてくださいって!」

「用紙?」


「橘くん知らないの?この前から、課長が経費削減だってコピー用紙の購買元を変えたんだよ〜。確かに安価でいいんだけどさ、その切れ味ときたら」


自分の手に絆創膏を巻きながら、砂本さんは苦い顔を浮かべる。


「薄っぺらい用紙なのに何で切れるんだ!って、各部署から不満爆発よ〜」

「へぇ、紙の種類でここまで違うのか。驚いたな」


手の平なんて、特に痛そうだ。再び砂本さんの手の平を見る。すると俺と同じく、友さんも一緒に眺めていた。そして思いもよらない事を言い始める。


「砂本さん、気をつけてくださいね。

これ、健康線をスパッといっちゃってますよ?」

「健康線?」


「手相ですよ、手相」

「へぇ〜!友さん詳しいんだ」


「昔ハマったことありまして」

「でも私、ここ数年で風邪すら引いたことないんだよ?それに健康なら、この怪我でもう損なわれてるよ〜」


「確かに。それもそうですね」

「砂本さん、うまい。はい、座布団」

「あら、こりゃ失礼して〜」


ハハと、場が盛り上がる。しかしあまり騒いでも課長に睨まれるため、挨拶もそこそこに三人は解散した。


●2044年4月5日


毎日恒例の朝礼が始まる。


「今日は砂本さんが体調悪く欠勤なので、皆でフォローよろしく。では解散」

「……え」


正直、驚いた。昨日“ここ数年風邪すら引かない”と聞いていただけに。


もしかして課長が冗談を言っているのか?でも、ここに砂本さんの姿はない。どうやら本当に休みらしい。


朝礼後。各々がデスクに戻る際、友さんと鉢合う。彼女の大きな瞳の上で、眉が八の字に下がっていた。


「砂本さんが心配なので、メール送ってみようと思います」

「きっと砂本さん喜ぶよ。じゃあ友さん、今日も頑張ろうね」

「はい」


彼女と別れようとした時。

こちらに駆け込む、一人の男性。安土だ。


「友さん、悪ぃ。絆創膏ある?手ぇ切っちゃって、血が止まらねーんだ」

「はい、どうぞ」

「ありがとー、助かるわ」


まさに昨日の俺だ、と安土の手を見る。指は五本とも無傷で、昨日の砂本さんと同じ〝手の平〟を切っていた。


「げー、また痛そうなとこを切ったな」

「デスクからはみ出た紙に当たっただけで、このザマだ。ついてねーわー」

「切った場所、ちょっと見せてくれますか?」


友さんが、安土の手をそっと握る。友さんの可愛さにあてられた安土が、反射的に顔を赤らめる。


「おい新婚、可愛い奥さんに言いつけるぞ」

「な!?う、うっせーよ!」


安土は今週末、結婚式を控えている。長年付き合った彼女と、やっとこさゴールインする。


「本当に長かったな。十五年?」

「そんくらい。けど〝気づいたらそんなけ経ってた〟って感じだわ」


「言ってろ」

「はは、じゃーな。ありがと、友さん」


「あ……はい」


この場から去る安土から目を離さない友さん。まさか友さん、安土のこと気になるのかな?

若干、焦りながら彼女の名前を呼ぶ。顔を見ると、とてもじゃないけど恋をしている風には見えない。言うなれば、苦悶の表情だ。


「友さん、何かあった?」

「安土さんが怪我した場所…… 結婚線なんですよ。安土さん、週末に結婚式ですよね?だから、ちょっと心配で」


「え……」

「……」


正直な感想、気にしすぎだと思った。しかし明らかに心配している友さんを前にして適当に流すことも出来ず「大丈夫だよ」と宥める。すると友さんは、僅かに元気を取り戻したらしい。


「そうですよね、変な事を言ってすみませんでした」


彼女らしいほんわかした笑み。それに癒された俺も同じく口角を上げた後、その場はお開きになった。


●2044年4月6日


朝礼後、安土から「話がある」と言われた。仕事が始まったばかりだが、深刻な顔してる安土を足蹴にも出来ず。二人揃って喫煙所へ向かう。


 バタン


「どうした?」

「……ダメになった」


「なにが?」

「結婚、白紙に戻った」


「は?」


冗談かと思ったが、いつも強気な安土が涙を流している所を見ると……事実だよな?「落ち着け」と安土の背中に手をあてると、声に詰まりながら、昨晩起こった事を話してくれた。


「彼女が、急にいなくなった。置き手紙があって、好きな人と駆け落ちするって。指輪も返されてた。手紙と一緒に置かれてて……」

「好きな人って、お前の事だろ?」


「俺じゃない奴とのツーショット写真があった。後ろ姿しか写ってなかったけど、確かに男だった。二人でホテルに入ってて……日付も、バッチリ最近のだ」

「……」


信じられない。相思相愛だと思っていた二人が、まさかこんな顛末を迎えるなんて。予想外の出来事に、俺もなんて声をかけたらいいか分からない。


「う……っ」

「……」


涙としゃくりが止まらない安土に、今日は帰るよう促す。反抗する意思はないのか、安土は力無く頷いた後、スマホと鍵だけ持って会社を後にした。カバンを渡すと「いらない」と言われた。まさか、このまま辞めたりしないよな。


「しかし、まさか結婚式が流れるとは……」


スマホのカレンダーに入れていたスケジュールアプリを開く。そこにはいつもと同じように「結婚式」の三文字が表示されている。


「……」


三文字を苦々しく見つめた後。カバンだけ残る安土のデスクに目をやる。空っぽなあの席だけ、ひどく冷え込んでいるように見えた。


そして、この日、初めて。

無遅刻無欠席だったあいつの皆勤記録が途絶えた――


「友さん、どう思う?」

「手相と現実に起こることが、偶然かどうか、ですか……?」

「うん」


ここまで来ると、流石に不気味だ。昼休み、俺は安土のことを友さんに話し、率直な感想を尋ねた。友さんは語る。


「昨日、砂本さんにメール送りましたが、返ってこなかったです。今日も休んでますし、かなり体調が悪いのかと」

「そうなんだ……」


「あと、さっき課長が私の元に来られました」

「なんて?」


「“絆創膏くれ”と」

「……」


ちょっと……いや、かなり嫌な予感がした。


「課長は、どこを切ったの?」

「財運線です。橘さん……私、怖くなってきました」

「……」


大丈夫だよ

きっと、何かの偶然だ


昨日のように、強がりだけで言い切ることは出来なかった。そして重たい空気だけを残したまま、俺たちは解散する。デスクに戻る際、各々の視線の先には、熱心に仕事に取り組む課長の姿が写っていた。


●2044年4月7日


「総務の木戸です。今日は皆さんにお話があって参りました。こちら三課の釜尾(かまお)課長ですが、昨日の夜、夜逃げしたと連絡がありました」


 ザワッ


「まだ詳しいことは分かりませんが、膨大な借金を抱えていたようです。皆さん、お金の管理は呉々もよろしくお願いします。新しい課長については検討中なので、数日の間は空席になりますが――」

「……」


その後の話は、全く頭に入ってこなかった。昨日、あれだけ意気揚々と業務にあたっていた課長が、まさか借金を抱えていて、夜逃げをしたなんて。冗談か?これは悪い夢か?――頭の中を、何度も何度も、同じ疑問が反駁する。


そして昼休み。遠くにいる「俺と同じ顔をした女性」に近づく。もちろん、これまでの経緯を全て知っている友さんだ。俺と同じ気持ちなのか、ずっと床を見つめたまま視線が動かない。


「友さん、はい」

「ココア……ありがとうございます」

「ううん」


「……」

「……」


「やっぱり、おかしいですよね」

「……手相のこと?」


「はい。私が、変なこと言っちゃったから。私が、あんなこと言わなかったら……私のせいで、皆が!」

「友さん……」


俺の横で小さくなり、体を震わせる友さん。その肩に、ソッと手を置く。


ありえない現実に恐怖した俺が足を震わせながら休憩所まで来たわけだが。不思議なことに、彼女を前にすると震えは止まっていた。反対に〝彼女を守らなければ〟とさえ思っている。


「友さん、元気出して?」

「でも橘さん、私のせいで!」


「友さんのせいじゃないよ。ただの偶然が重なってるだけ。だから暗いことを考えるのはやめよう?友さんが潰れちゃうよ」

「でも、でも……!」


「とりあえず、ココア飲もう。ね、友さん」

「は、い……」


俺から渡されたココアを、喉が鳴るほど勢いよく友さん。良い飲みっぷりに、思わず吹き出した。


「ぷっ!友さん、喉が乾いていたの?」

「こんなことが続いて、私、怖くて。昨日から何も喉を通らないんです……」


「じゃあ、いま飲めてよかったね」

「橘さん……ありがとうございます。少し元気が出ました」


「そっか、良かった!」


友さんを見れば、確かに顔色が良くなっている。もう震えてもいないし、二口目のココアを飲んでいる。さっきまで倒れそうだった彼女を、俺が元気にしてあげられたと思うと、嬉しくてくすぐったい。


「じゃあ友さん、俺は先に戻るね」

「はい、ありがとうございます」


「今日二人で、砂本さんのお見舞いに行こうよ。あと、昨日から休んでる安土の所にも」

「はい、行きます!」


「うん、じゃあ後でね」


俺は断じて、口実にしているわけではない。いくら偶然とはいえ、こんなことが続いた後にデートなんて、不謹慎すぎる。しかし、どこか喜んでいる俺がいるのも、また事実だった。


「もしかして今日、友さんとディナー行けるかも?」


口元が緩んだ、その時だった。


 スパッ


「……え?」


目を動かし、無意識に手の平を見る。傷口は、親指の付け根の辺り。どうやら、デスクに置かれてあったコピー用紙で切ったらしい。


「え、え……え、え、ええ?」


すぐに現状を理解できなかった。混乱した頭のまま、もつれる足を一生懸命動かして、ある方向を目指す。それは休憩所。着くと、目的の彼女が、今だ座ってココアを口に運んでいた。


「橘さん、どうしたんですか?すごい汗」

「友さん!こ、ここ、これ!これ!

これ!!」


彼女に迫り、強引に手の平を見せる。狼狽する俺に友さんはビックリしているが、それ以上に――俺の手の平を見るや否や、みるみる顔を青ざめた。


「ひ、い、いゃ、や……!」

「友さん!これなに!何!?」


「いやぁ!橘さん!それ!

生命線ですよぉ!!」

「……え?」


その瞬間、近くにあった自販機が傾く。そして涙で視界がぼやける友さんの上に、ゆっくり倒れた。



〇2047年4月4日



「……」


友さんがいなくなってから三年経った今日も、俺は出社している。

数年前より、俺のデスクは窓へ近づきつつあった。今年は正に、真横。ふと横を見れば、隣のビルが並んでいて、朝の時間だけ、すすけた俺を醜く照らしている。さらに、追い打ちをかけるヒソヒソ話。それは今日も俺の耳に届いている。


「あ、窓際族だ」

「こら、聞こえるよ」


明らかな左遷を受けた俺を、興味本位に眺める奴は多い。多い、が、それが何だと言うんだ。反論する気は愚か、働く気さえ削がれた俺に、ヒソヒソ話なんて何のダメージもない。俺のダメージは、数年前、あの瞬間が全てだ。


「三年前はやり手だったらしいけど、なんだっけ?同僚が亡くなったかなんかして、もぬけの殻になったんでしょ?」

「同僚ってか、好きな人ね」


「え、そうなの?好きな人がこの世からいなくなって、生きてて辛くないのかな?私は無理だわ、生命を取られた感じ?」

「こら、口を慎め?」


諌められた方が「すんませーん」と軽い口調で謝る。


「そうだ、今日ディナー付き合ってよ、美味しいお店を見つけたんだー」

「あんたの奢りね?」

「えー、やだ〜」


ディナー。

その言葉が耳に飛び込んだと同時に、空っぽになった俺の目から涙が流れる。


その瞬間を目撃した人が、俺から距離をとるように迂回してフロアを抜ける。その際、デスクに置かれたあったコピー用紙に手が当たった。しかし手を切ることなく、むしろ紙の方が負けてぐしゃりと歪んで折れた。


そう。様々な事件が起こったと同時に、会社の内部から改革しようと上が動いた。社員のメンタル管理だとか、残業0目標だとか。それに伴い、ケガ人が続出していたコピー用紙の購買元も〝変わってしまった〟。


思えば、あのコピー用紙があったから、友さんと話すようになって、仲良くなれた。あのコピー用紙のおかげで――


 ガラッ


デスクの引き出しを開ける。そこには、封が切られていない「あの時のコピー用紙」が置いてある。これは三年前、回収されるコピー用紙を、俺がこっそりデスクにしまったものだ。指先で触れると、友さんの事を思い出す。


「……」


薄気味悪い、変なコピー用紙。これを使うと、震えていた友さんのことを思いだす。当時は「忌まわしい物」でしかなかったが……今となっては、俺と友さんを繋ぐ唯一の思い出だ。


「わー、最悪」


近くのコピー機で、落ち込んだ声が聞こえる。用紙のトレイを開けたまま、コピー機の前で項垂れているところを見ると、どうやら用紙切れらしい。


「しかもストックも無いし。事務室まで行かなきゃじゃん、ダル―」


事務室へ行くのか、無人となったコピー機。

それを見た俺は――



●2047年4月4日/同日



「コピー用紙で、手を切っちゃった。

誰かー、絆創膏もってない?」



【完】

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