離婚したくなかっただけなのに・・・
403μぐらむ
もう終わり
目に見えて夫婦喧嘩が増えていったのが夏の始まりころ。
わたしは春の辞令で部署が異動していた。異動先の部署は会社でも花形と言われるようなところで、当然ながら仕事自体もハードだった。
でもわたしがそこに抜擢されたのはそれだけ期待されているってことの証左でしかない。自信もついたし自己肯定感もバク上がりでやる気に満ちるのが自分でもよく分かる。
ただし朝から夜遅くまでほぼ毎日働いていると当たり前だが家のことは疎かになる。週末にはやると言っていた部屋の掃除も約束していたお出かけも仕事を優先したがためにドタキャンすることが一度や二度では済まない。
『慣れるまでは大変だろうから』
と最初は大目に見てくれていた夫も数週間も数月も同じことを繰り返していれば心穏やかでいることも難しいのだろう。
「いいかげんにしろよな。何でもかんでも仕事、仕事っていって他のことは全部俺に押し付けてなんにもしやしないじゃないか!?」
「だって今がチャンスなのよっ。今やらないとこの先もうこんな好機は絶対に手にすることができないんだから」
「何がチャンスなんだ? おまえはこの先ずっと仕事だけするつもりなのか? 子供はどうするんだ? そもそもおまえは誘ったって嫌だの一点張りでずっとレスじゃないか!」
「だって……」
そのことを言い出されると返す言葉がなくなる。
結婚する際に子作りのことなど将来の家族像についてはたくさん話し合った。結婚から2年は二人きりでいてその後には子供をもうけるように動こうっていう内容だったと記憶している。
それなのに結婚から1年もすぎるとレスになった。わたしの方から彼のことを拒否するようになったのだ。
でも彼のことが嫌いになったわけではない。
だけれど何故かそういうことをする気分にはならなかったし、仕事でも少しずつ重要な案件を任してもらえるようになっていたので、気持ちが仕事の方にばかり向いていた気がする。
それでも分担を決めていた家事を足りないながらもこなしていたつもりだし、夫ともデートしたり小旅行に出かけたりなどはしていたので、それなりに夫婦関係は良好だと思っていた。
「もういい。来月までに決めろ」
「何を?」
「今の仕事を辞めて以前のような余裕のある仕事をするようにするか、今の仕事を続けて――――俺と離婚するか、だ」
「え!? 離婚って……。なんで? 仕事はしてもいいって言ってくれていたじゃない? なんで今更」
結婚するときの約束事の一つに仕事は辞めなくていいと言うのがあった。他にもたくさんの約束事があったけど今はそのことが問題ではない。
「何がどう今更なんだ? おまえこそ約束がまったくなされてないじゃないか! セックスを断るのもそう、家事を殆どしなくなったのもそう、二人の予定をドタキャンすることもそうだ! 約束のことをいえた義理じゃないだろっ」
「だって、それは仕方ないじゃない」
「ああ。仕方ないな! じゃ、離婚も仕方ないなで済まそう。俺ももう我慢の限界だよ。良く考えて一月後答えてくれ。もう今日はこれ以上おまえと話したくない」
夫はそのまま自室に籠もってしまった。この部屋も去年までは一緒の寝室だったのをわたしのわがままで分けてもらったのが始まりだった。
仕事で疲れて帰ったら、夫と今までで最大の喧嘩をしてしまった。もちろんわたしの方に非があるのはわかっている。
でもどうしても今の仕事はやり遂げたいし、輝ける自分をやっぱり目指したいと思ってしまう。
だからといって彼と離婚なんてこれまでも一切考えたことはなかった。むしろおじいちゃんおばあちゃんになるまでずっといっしょにいるものだとさえ考えていたほど。
『紗絵子のキャリアに嫉妬しているんじゃない?』
高校の時の親友に相談をしてみたらそう言われた。一人で考えても何もいい案が出てこなかったし、昔から何かあればお互いによく相談をしあっている長年の友人だった。
『そうなのかな?』
『そうだよ。自分に比べて紗絵子がキャリアップしちゃって給料の面でも上になったら男としてのメンツも丸つぶれじゃない?』
『そういうものなの?』
だとしたら夫はなんて器の小さい男なのだろうかと少し蔑むような気持ちになる。
しかし果たして本当にわたしのキャリアに嫉妬しているだけなのだろうか? そもそもわたしが憧れの部署に転属が決まったときいの一番で喜んでくれたのは夫だったはず。
あのときもお祝いだって言ってイタリアンの高級なコース料理をごちそうしてくれていた。頑張ったご褒美だってちょっと値の張るバッグまで買ってもらっている。
それなのに嫉妬? ありうるのだろうか。
n=1では納得できなかったので大学時代の友人にも聞いてみることにした。
『離婚だって? そりゃ、女がいるね』
『おんな? あの人が浮気しているってことなの?』
『レスだってさーこ言っていたじゃない。きっと性欲のはけ口を他に求めたって口だよ』
『そういうことなの?』
たしかに以前は良く求められていた(拒否していたけど)のに最近ではそういった素振りさえ見せなくなっていた。ただ単純に諦めてくれたのかと思っていたけれど、他に女がいればその説明もつくというもの。
でも浮気できるほどの甲斐性が夫にあるかは少し疑問なところ。夫は見た目がごく普通で何処にでもいるようなビジネスマン。特段立派な企業に勤めている訳でもないし、収入も平均より少し上ってくらい。
中肉中背で性格的にも穏やかだけど、他の女性に言い寄るだけのコミュニケーション能力があるとも思えない。
「そんな人が浮気なんてできるのかしら?」
風俗くらいには出入りしているかもしれないけれど、それはわたしがセックスを拒否している以上、気に入らないけどそれくらいは許容範囲だと思っている。
今度彼の交友関係を探ってみるのもいいかもしれない。
他にも2~3人の友だちに相談をしてみたが皆一様にわたしに問題があるのではなく、夫に問題があるという意見で一致が見られた。答えの内容はそれぞれ少しずつ違うがそこだけは一致していたので少し安心できた。
喧嘩をしても一晩経てばけろりとしてしまうのも私たち夫婦の特徴だったはずなのだけど、今回はまったく違っているようだった。
朝リビングで顔を合わせてもわたしから挨拶をしても夫はわたしのことを完全に無視してきた。まるでそこにわたしなんていないような振る舞い。
自分だけの食事を用意して、さっさと洗い物まで終わらせて身支度を終わらせたら無言のまま出社していった。
わたしは転属で勤務地が少し遠くになったけれど、始業時間もそれにつれて遅くなったので朝は結構余裕がある。とは言っても花形のオフィスに所帯じみた格好で出社するわけにはいかないので、メイクにも以前より時間をかけるようになっている。
そのせいで、時間的な余裕があるはずなのにいつも出勤はギリギリになってしまう。朝食もそこそこにとりシンクにお皿とコーヒーカップを入れたらすぐに出社する。洗っている暇などないので、いつも片付けは夫に任せてしまう。
今日もハードでありながらもやり甲斐に満ち溢れた一日を終えて帰宅した。時刻は22時少し前。ここのところもっと遅かったのでだいぶ早くの帰宅になれた。これなら夫も文句はあるまい。
玄関扉を開けると真っ暗な廊下が出迎えてくれた。わたしたちの住んでいるのはマンションの一室で、玄関には玄関灯もあるし、玄関に入れば照明だって当然にある。
そして今まではわたしの帰る前にはそれらは煌々と照ってわたしの帰りを出迎えてくれていたものだった。もちろんそれは夫がしてくれていたことなのだけど。
それが今日は真っ暗。玄関灯も点いていないし、玄関内部も廊下もリビングさえも明かりは灯っていない。真っ暗で寒々しい感じ。7月の蒸し暑ささえ一瞬忘れたくらい。
夫の部屋の扉からは明かりが漏れているので、夫が在宅なのはわかる。わたしが「ただいま」と言ったのにもかかわらず顔を出すどころか「おかえり」の声さえかからなかった。
『話したくない』という夫の意思は強固なようで、無理を強いても悪化するだけだと思い放置することにした。
いつもなら夫が用意してくれている夕飯がキッチンにおいてあるのだけど、ダイニングテーブルには何も乗っていなく、冷蔵庫を覗いても調理された食材は一切入っていなかった。
それどころかシンクには今朝放置したお皿とコーヒーがこびりついたカップがそのままの状態で放置されていた。
パックご飯に買い置きしてあった冷凍食品。インスタントの味噌汁。
これが今日のわたしの夕食だ。第一線で活躍しているキャリアウーマンの夕食にしては侘しいにもほどがある。
このときのわたしの気持ちとしては虚しいよりも夫に対する苛立ちのほうが大きかったと思う。
その後も何度か夫との会話を試みるがほぼ無言か無視されるのが殆どであった。それでもその間もわたしはそれまで通りに仕事をこなしており、夫の指摘していた家事についても特に手を付けることはしなかった。
しなかったというよりも仕事が忙しくて手を付ける暇さえなかったというのが正しい。だからわたしが悪いのではないのだけど、夫はまったくそこは理解してくれようともしてくれない。
あまりにも忙しくて、でも仕事も楽しすぎて完全に忘れていたけれど夫に離婚を言いつけられてから一月が経っていた。
その日いつものように22時過ぎに家に帰るとリビングの明かりが久しぶりに点いていて夫がソファーに座っていた。
「あ、ただいま」
何気なく挨拶したが、やはり夫からの返事はなく、じろりと睨まれただけで終わってしまう。
珍しく夫がいるのだから何か話をするのだろうと急いで自室で部屋着に着替えるとわたしもリビングに向かった。
「なにか、お話、あるの?」
「話がある? あれからちょうど1ヶ月経ったんだぞ。もうどうするか決めただろうな。おまえの日頃の行動を見る限りでは大体察しはつくけどな」
「……なんのこと?」
「……なんのこと、だと? おまえ、本気で忘れているのか。仕事を続けるか俺と離婚するかの決定についてだろっ」
夫に言われて初めて思い出した。言われた最初こそ気にしてばかりいたが、友人に相談したらわたしは悪くないんだってわかって完全にそれについては思考を放棄してしまっていた。
「離婚、って冗談なんでしょ? だって、わたしが異動したときあなたお祝いしてくれたじゃない? それとも何処かにいい人でもできたの?」
「離婚は本気だ。あとあのとき祝ってやったのは失敗だと思っている。こんなにもひどい状況になるなんて想像すらしていなかったからな」
「じゃ、やっぱり浮気なのね」
「……どこから浮気の話が出てくるんだ? 誤魔化しはやめろ」
少し間があったのは気になるが、それよりもこの時点では彼との離婚はまったくわたしは考えていないし、彼のいう離婚もこの期に及んで冗談だって本気に思っていた。
「もういい。これに今すぐ記入しろ」
そう言って彼がクリアファイルから出してきた紙には【離婚届】の文字が書いてあった。
「えっ……」
「俺らは生活費用にお互い金を出し合っているだけだから分配する資産もない。自宅も賃貸だし子供もいない。分けるとしたら僅かばかりの家財道具ぐらいだがお前が欲しいなら全部くれてやる」
「この書類、わたしの所以外は全部書いてあるんだ……」
「そうだ。後はおまえが署名すればそれで離婚は成立する。だからさっさと書いてこのくだらない夫婦生活を終わりにしてくれ」
音が何も聞こえなくなった。さっきまで耳触りだったエアコンのブーンという低音さえまったく聞こえなくなった。いや、一つだけ聞こえる。それはわたしの心臓がバクバクと激しく鼓動する音だけが。
結局その離婚届にわたしが署名することはなかった。
半狂乱になったわたしがその離婚届をビリビリに破り捨ててしまったから。
泣き、叫び、暴れて何もかもを無茶苦茶にしていた。テーブルにあったコップは粉々に割れていたし、観葉植物は横倒しになって鉢の土が派手にこぼれていた。
わたしはただ「離婚なんてしたくない!」とだけ叫んで彼にすがるような態度を取っていたと思っていたが、思いの外酷い有様だったようだ。
気がついたときには自分のベッドの上だったので夫がここまで連れてきてくれたようだった。あんなにひどい状態だったのにちゃんとケアまでしてくれる彼はやはり優しくて大好きだった。
しかし目が覚めた時点で夫は自宅にはおらず連絡もつかなかった。今日は土曜日なので仕事ではないと思う。
スマホで追跡アプリを立ち上げ彼の居場所を特定する。
以前、まだ仲が良かった頃、スマホゲームを貸してもらったときになんとなく指紋認証にわたしの指もこっそりと登録していたのだ。
それをこの前友人に相談したときに浮気の話が出たので彼が風呂に入っている隙にロックを解除して内緒で追跡アプリをインストールしておいたのだった。
「どこ、ここ……」
アプリは彼の居場所を示しているのだろうが、地図が読めないわたしは彼の居場所が特定できない。移動している最中らしいが、何処に向かっているのだか一向にわからない。
地図上の赤い丸を見ていると途中でぷつりと光点が消えた。
「あれ? 壊れたのかな?」
アプリを再度立ち上げたりしたけど彼の居場所は一切示してくれなくなった。
ピコン♪
メッセージアプリに着信がある。夫からだった。
『変なアプリは削除した。インストールしたのはおまえだろ?』
『今は実家に向かっている。今日は戻らない。離婚についてはおまえが泣き叫ぼうと暴れようと決定事項だ。拒否するなら裁判も辞さない』
夫はIT企業勤めでスマホとかパソコンには詳しくて強い人だったことを忘れていた。スマホに変な挙動があったことがバレてすぐさま削除されたようだ。
しかも余計なことをしたせいで彼の怒りを買ってしまい、離婚についてより頑なにしてしまった感もある。
『どうしよう、離婚されちゃう』
『離婚したっていいじゃない。そんな男のどこがいいのよ?』
『だって優しいし頼もしいし一緒にいて安らぐんだもん』
『一緒にいないじゃない、今のあなた達』
確かに。でも彼に捨てられたらわたしは誰を頼りにすればいいのかわからない。
『やっぱり仕事を辞めるしかないのかな?』
『えーそれはもったいないよ。せっかくのキャリアだよ? 男はいくらでもいるけれど、このキャリアは二度と手に入らないって!』
『でも彼の条件が仕事を辞めることなんだもん』
『だから、ダンナの方を諦めなって言っているんだけどね』
高校の時の親友は離婚推奨派。まだ若いんだからやり直すチャンスはいくらでもあるし、今どきバツがついていても気にしない男も山ほどいるという。
でもな。できれば離婚はしたくない。
『そこまでムキになるなんてやっぱり浮気だろ?』
『そんな素振りはまったくないんだけど』
『それはあんたが甘ちゃんだからでしょ? さーこはちゃんと調べたりしたの?』
『してない。調べるってどうやるの?』
大学のときの友人にも聞いたけど、以前と同じようなことを言われる。またそれ以上に彼のことを調べたのかと問い詰められたくらい。
彼女がいうにはお金はかかるが、探偵や興信所といったところでプロの浮気調査員に依頼をするのが一番間違いないそうだ。確かにアプリは一発でばれたし。
自分の働いたお金を夫の不貞調査に費やしてしまうのはもったいない気がするけど友人が強く勧めてくるので明日にでもその興信所とかに行ってみようと思う。
夫のいない日曜日の朝。すごくさみしい。
離婚を言い出されているのにまだ彼のことが好きだなんておかしいとは思うけれど、自分の気持ちに素直になるなら、やっぱり彼のことが好き。ならなんでレスになんかなったのだと問われると答えようがないけど、それとこれとは別物だとしか言いようがない。
彼のことを疑うのは本望ではないけど、もし本当に浮気をしていたならばこのわたしの気持ちも少しは変わるような気がするので思い切って訪ねることにした。興信所の見積もりは20万もしたが依頼することに。
結果だけ言うとお金を捨てただけになった。
夫は毎日会社帰りに寄り道をしていたが、ほぼ100%趣味のボードゲームサークルに顔を出していたに過ぎなかったのだ。
サークルの活動拠点がいくつかあってそれを毎日渡り歩きながら2~3時間ほどゲームに興じてからスーパーマーケットやコンビニに寄って、後はまっすぐに帰宅していた。
ボードゲーム場にも調査員さんは潜入調査に入ったようだけど、普通にゲームをしていただけだったそうだ。男女比はその日によって違うがだいたい7:3から8:2ほどで女性に対し夫が親密にしていることもなかったという。
1日だけ居酒屋に男性と入ったことが確認されていて写真も見せてもらったけど、その人は夫の高校時代の親友だったのでただの飲み会だったと思われる。
たった1週間だけだったけど、妻のわたしに邪魔されない環境下だったなら浮気のチャンスはいくらでもあったはずなのに一度もそういう場面にはなっていないということなので浮気はしていないということで間違いないと思う。
この結果に対しわたしは残念がればいいのか喜べばいいのか良くわからなくなった。
「いい加減署名してくれ」
夫にはまたもや離婚届を突きつけられている。約束の期日からはすでに1ヶ月弱が過ぎてしまっているが、この間は、口には出さないがわたしに猶予をくれていたものだと思う。
「離婚したくない」
「今更言われても無理だ。そもそも2ヶ月ほど考える期間も与えていたし、それでも働き方を変える気がさらさらなかったのは紗絵子のほうじゃないのか?」
こんなときなのに名前を久しぶりに呼ばれて喜んでいるわたしがいる。喧嘩をするようになってから夫はわたしのことを「おまえ」と呼ぶようになっていた。
彼は仕事、仕事と言っているが多分それは切っ掛けに過ぎず、それ以上にわたしに不満を募らせていたのだと思う。
部署が変わる前から度々約束は反故にしていたし、部署が変わってからは約束なんてできないような状況にもなっていた。レスは1年以上にも及ぶし子供が欲しいと言っていた彼の願いも今のわたしには叶えてあげられそうもない。
彼も最初は仕事を控えてくれと言った感じだったのにわたしが無視するような態度を取っていたので最終的に辞めろというようになってしまった。わたしがそう言わせたようなものだ。
「小っ恥ずかしかったが役所で離婚届を5枚ももらってきた。この5枚とも俺の署名は入っている。どれでもいいからおまえも署名して俺に渡してくれ」
封筒を5通渡された。わたしは無言でその封筒を受取る。
「今月末で俺はこの家を出る。簡単に言えば別居だ。実家には話をつけてあるから俺は暫くそっちに身を預ける」
更に一月猶予を与えるから良く考えて離婚を決断してくれといい、彼は自室に入っていってしまう。断れば更に神経と労力を無駄に使う離婚裁判になることだと言い残して。
取り付く島もないというのはこういうことをいうのか。
真夜中に目が覚めてしまいのどが渇いていることから水でも飲もうかと静かにキッチンへ向かう。
すると深夜だというのに夫の部屋から明かりが漏れているのに気づいた。
(起きているの?)
明日も仕事だからこんな時間まで起きていることは彼の普段の行動からしてありえないのだけど。不思議に思い更に物音を立てないようにゆっくりと彼の部屋の扉に近づく。
「…って……から……」
話し声が聞こえる。夫はIT企業勤めのくせにあまりメッセージアプリのような文字コミュニケーションを好まない。仕方ないときや文字のほうが効果のあるとき以外は基本的に声で伝えることを好む傾向がある。
つまりはこんな時間に誰かと電話しているってことだ。
「すまない。こんなにも強情だとは思っていなかった」
扉に耳を押し付けて夫が何を話しているか聞き耳を立てる。
「ああ、確かに。レスだってあいつからいい出して頑なに拒否していたもんな。もとからそういうやつだったんだな……うん。そうだな……」
相談事? わたしのことを話しているのであろうことはなんとなくわかった。
「キミには待たせてばかりで済まない。うん、ありがとう。でも、もっと早くから踏ん切りをつけていればここまで長引かせることは……そうか、うん」
…………女? 相手は女なのかしら?
「あえて言わせてほしい――愛している。……うん、じゃ、また。おやすみ……」
愛している。もう何年もわたしは言われていない。わたしからも言っていないし、言われるような行動も取っていないので言い訳しか浮かんでこない。
やっぱり浮気していたのね。
だから早くに離婚を迫ってきたんだ。
怒りで一気に頭が沸騰してしまった。そのままの勢いで夫の部屋の扉を押し開けた。
「うわっ、なな、なんだ!?」
「あなた、今女の人と電話していたわね! 浮気していたんでしょ?」
「……ああ、聞かれていたか。そうだ、相手は女性だ。しかし、残念ながら浮気はしていない。彼女には指一つまだ触れていないからね」
「う、うううウソいいなさいっ」
ウソと決めつけているが、彼が電話の相手に触れていないというのは本当だと思う。夫はそういう人だからだ。わたしとお付き合いを始める前もそうだったし、レスになっても無理に何かをしてこようとなんかしてこないような人だった。
悲しいかな、こんな場面においても彼のことを信じてしまっている。
「もういい! あなたを殺してわたしも死ぬ!」
もう方法が見つけられなかった。別れたくない、別れたくない。死ぬまで一緒に夫婦でいるなら今彼を殺してわたしも死ねば死ぬまで夫婦であったことに何らかわりはないではないか!?
そう考えたわたしはキッチンに向かい包丁差しから一本の包丁を抜き出す。浅草のかっぱ橋道具街で3万円ちょっとで買ってきたすごく切れる良い包丁だ。
「死んで!」
「止めろっ!! 落ち着くんだ。そんなことして何になる!?」
「うるさいっ。絶対にあなたとは別れないんだからっ。死が二人を分かつまでって誓ったでしょ!」
「そんなものただのテンプレだろうが。とにかく落ち着け。その包丁を床において離れて!」
ガシャン! ドッターン!
部屋中のものが倒れ壊れていく。観葉植物も包丁の一振りで真っ二つになってしまった。
「死ねっ」
「おいっ、本当に止めろ」
だんだん興奮してきて、いろいろと夫に言われたことに対して怒りが湧いてくる。一緒に死のうから殺してやるって気持ちのほうが上回って来た。
「うやー!!」
「ぎゃーーーーー!!!!!!!!!!」
刺さった! やった! 刺してやった。夫は包丁を腕に刺したまま床を転げ回っている。鮮血が部屋中の壁や床に撒き散らされる。
「あはっ、あはははは! やってやったぞ! あたしはやったんんだぁぁぁ!!!」
静まり返った深夜のマンションで大暴れすれば近所にも丸聞こえになるのも当然。
すぐに通報されたようで、何人もの警察官がリビングになだれ込んできた。それもベランダ側から。玄関の鍵は閉めてあったので隣家からベランダ伝いにこちらに入ってきたのだろう。
わたしはその場で取り押さえられた挙げ句に現行犯逮捕され警察署へ連行されることになる。
夫は腕に全治3ヶ月の傷を追ったそうだが後遺症もなく回復する見込みのようだ。あとほんの数センチずれていたら神経を切断していて手首から先が動かせない後遺症を持ってしまっただろうということ。
その場合は量刑にも影響があるかもしれなかったそうだが、そんなものどうでもいいような気がする。
彼の介抱には夫の友人だという若く可愛らしい女性が甲斐甲斐しくつきっきりでいるという。
これらは弁護士から聞いたものだ。
わたしは殺人未遂罪で告訴され、多分そのまま有罪となり服役することになることが確実だと言われた。
そうなると離婚も成立するだろうし、会社だって懲戒解雇になるのは間違いない。
なんでこうなってしまったのだろう?
後悔だけで押しつぶされそうだ。
ああ、わたしって生きていく意味、あるのかな……
離婚したくなかっただけなのに・・・ 403μぐらむ @155
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