第7話
鐘の音が鳴るまで
公園を出ると、二人が入り口で待っていた。
「あ、あの…ありがとうございます。お金も…」
「それは彼から返してもらったから」
「初めまして。私の服、とっても似合ってます」とピンクが言うので、桜は驚いて目を大きくした。
お人形のような可愛い顔をしているからこそ、この服が似合うのでは…と桜は思ったが、早速服を着替えようということになり、二人が宿泊しているホテルに戻ることにした。一樹とアオはロビーで待つことになった。
「あの…ピアノ弾いてもらってて…それで連絡つかなくてごめんなさい」と部屋に行くまでのエレベーターで謝られた。
桜が理解出来なさそうだと分かると、簡単な英語でゆっくり言ってくれる。
「あ、いえ。それは…」
「でも本当に上手でした。私、合わせて歌ったんですけど、とっても歌いやすくて、楽しかったです。…でも桜さんのこと…特別だって言ってました」
部屋について、お互いの服に着替えることにする。何だか脱いだ服をそのまま返すのも気が引けたが、ピンクは少しも気にせず「はい」と言って渡す。人肌で温まっているけれど、それを着るかパジャマを着るしかないので、選択はできない。ほんの少し甘い匂いがした。ピンクは返ってきた服をすぐにそのまま着た。やっぱり可愛いお人形のようだ。
「可愛い」と思わず呟くと、「カワイイ? 知ってる。その言葉」と嬉しそうに笑う。
そして本当に楽しそうに「カワイイ」と何度も言いながらスカートを持ち上げたりしている。確かにこんなに可愛い子だから、あの仏頂面のアオも表情が緩むのだろう。
「あ、日本語、教えて。今から覚えて、アオに言ってみたい」と言うので、「こんにちは」と「ありがとう」を教えた。
「アリガトは分かる」
「じゃあ、後は『お願いします』かな」
「オネガ…マ」
真剣なのに言えてないところも可愛くて、桜は少し楽しくなった。
「お願い、だけでも大丈夫」
「オネガイ、オネガイ」
「PLEASEと同じだから」と意味を教えると、嬉しそうに繰り返した。
そしてオネガイを呟きながらロビーに降りた。ロビーで立っている二人は特に話していなかった。ピンクはアオに駆け寄って、早速日本語を話す。
「コンニチハ、カワイイ?」
驚いたようなアオの顔を見て、桜もなぜか得意気になる。
「え? ピンク?」
「オネガイ オネガイ」
アオが手で口を押さえる。ピンクが振り返って、桜を見た。オネガイは何をオネガイすればいいのか分からないのだろう。桜はその様子も可愛いと思って、ピンクに近寄った。
「日本語教えたの?」とアオが桜に聞く。
「あなたと日本語で喋りたいって言うから」
少し不機嫌そうな顔で「可愛すぎて困る」と言った。
ピンクはその顔だけを見て、日本語が分からないので、不安そうな顔をした。
「あなたの日本語がカワイイんだって」と簡単な英語で言うと、ピンクはパッと笑顔を見せた。
そして桜の耳元で日本語で教えてほしい言葉を聞いた。なので、桜も耳元でこっそり教える。大きな目を動かしながら、覚えているようだ。
「え? 何?」と不機嫌そうな顔のままでアオが言う。
そして覚えたのか、ピンクは一人で頷いて、アオに言った。
「アオ…スキ」
不機嫌そうなアオの顔が固まった。そして次第に溶けていく表情を見るとなかなかの攻撃力があったようだ、と桜は内心、楽しくなった。いつも不機嫌そうな顔をしていたのに、その顔を崩せたことの満足感がある。
「ピンク…好きだ」
「あ…嬉しい。通じた」とキラキラした笑顔を見せる。
肩を一樹に軽く叩かれて「行こうか」と言われる。
「あ、はい。ありがとうございます」と二人に言うと、ピンクが「待って。ランチ、ご一緒してから…はどうですか?」と聞いた。
桜はまだピンクと話したかったので、喜んで頷いた。
「じゃあ、ムール貝食べたら?」とアオが言うので、みんなでムール貝を食べることになった。
鍋いっぱいのムール貝とフライドポテトが運ばれてくる。味付けはシンプルなのに、貝の出汁が味わい深い。貝に馴染みの深い日本人には特に美味しく感じられる逸品だ。
「美味しい」
「オイシ?」とピンクは桜の真似をして言ってみる。
その様子が可愛いので、桜はまた言葉を教える。ピンクは何度も「オイシイ」と繰り返しながら食べていた。
(確かに…可愛すぎる)と桜は思った。
この二人が出会って付き合うに至るのが不思議だけど、でも付き合ったのなら稀に見る相性の良さも分かる。アオの表情が桜と一緒にいた時と全然違っていた。
「桜…」と一樹に呼びかけられて、隣にいる一樹の方を見た。
「はい?」
「食べないの? …食べさせてあげようか?」
「大丈夫です」と慌ててフォークで貝を取り出す。
すっかりピンクに気を取られて、食べることを中断していた。
「最後に何のご飯を食べるか…って聞いたよね?」とアオが桜に話しかける。
ピンクにもアオがこの会話の説明をしている。
「あ、はい」
「ストロベリーアイス」
「え?」と言ったのはピンクだった。
「アイス?」と桜も不思議に思った。
「アオ…ストロベリーアイスは絶対食べないのに?」とピンクは不思議そうに言う。
アオが英語でピンクに何か言うと、ピンクは何も言わずに大きな目から涙を零した。アオはその涙を優しく拭いている。桜は一樹に何を言ったか、聞いてみた。
「最後は好きな人が好きだったものを食べて…できれば一緒に過ごしたいって…」
涙を零した理由がわかった。きっと年老いても素直なピンクはアオとの別れを悲しむだろう。その瞬間に僅かでも幸せな時間を持ちたいと思う愛情深さに触れたのだから。もし一人でその瞬間を過ごすことになっても、好きな人の笑顔を思い出しながら…。
(すごく愛情深い人なんだな…)と桜は思った。
そして食べ物は美味しいだけじゃなく、人を幸せにもしてくれるものだと教えられた。
泣いていたピンクだったが、慰められたのか、なんとか落ち着いて食べ始める。その二人を見ていると、なんとなく幸せがそこにあるような気がした。
「桜…。不安にさせて悪かった」
「え?」
不意に言われて桜は一樹を見た。
「それに我慢もさせてて」
「我慢?」と思わず聞き返した。
「三番目なんて思わなくていいんだ」
「でも…」
「一番に思ってるから」
嘘かもしれない。気を遣って、そう言っているのかもしれない。だから桜はその嘘を受け入れた方がいいのか、少し悩んだ。
「もっと我儘言って欲しい」
「え?」
「今日みたいに…、一人で解決しようとするんじゃなくて、僕に教えて欲しい。いつも桜は…自分の気持ちでなんとかしようとするけど…。もっと伝えて欲しい。気持ちをちゃんと考えてあげれてなかったみたいで…ごめん」
「そんな…。謝ってもらうことじゃないです。いつも良くしてもらってるし。それ以上は私の…勝手な思いで」
「うん。…それを知りたい」
「でも…言うの恥ずかしいです」
「どうして?」
「どうしてもです」と言って、桜は俯いた。
「分かった。とりあえず、冷めるから…食べてしまおう」
ピンクが一樹に何かを言った。
「本当だね」と一樹が答えていた。
桜はその時は聞き返さずに、食べることに集中することにした。デザートまで食べて、無事に解散することになった。
「サクラ…スキ」とピンクは覚えた日本語で言ってくれる。
桜は思わず抱きしめたいと思ったが、そうして良いのか分からなくて、戸惑っていると、ピンクから柔らかくハグをしてくれた。甘い匂いと、ふわふわな髪の毛が頰に当たる。暖かくて、胸が詰まった。
「きっと大丈夫よ。元気でいてね。じゃあ、またね」と言って、体を離す。
「私も…スキ」と桜が言うと、ピンクはとびきりの笑顔になった。
(本当に天使だ)と桜は少しぼんやりしてしまう。
二人を見送ると、少し淋しくなった。
「桜は綺麗な人とか可愛い人とか…、本当に好きなんだね」と隣の一樹が言う。
「はい。だって…可愛い人も、物も…見てるだけで幸せなのに…。今、ハグしてしまいました」と言って、自分の手を見る。
「さっき彼女に言われたんだ…。あなたの特別な人はとっても親切で素敵な人だから手を離さないようにって。だから…その手を繋いでいいかな?」
目の前にある手をそっと握って、駅に向かって歩き出した。ブリュッセルは短い滞在時間だったけれど、思い出深い場所となった。
「…桜は最後は甘い卵焼きを食べたいって前に言ってたから、作る練習しようかな?」
桜は首を横に振った。
「食べ物じゃなくて…私は一樹さんのピアノを聴きながら…がいいです」
「僕の方が長生きするわけないから…」
「します。一日でも私より長生きして…、それからは好きにしてください」
「じゃあ…おにぎりはどうするの?」
「冷凍しておきます」
「…それは…いいかな」
「ひどい」と言って、桜は笑った。
「桜の我儘聞きたいんだけど?」
「ものすごく我儘ですけど…言っていいんですか?」
「何でも言って」
「私は、一樹さんの、一番に、なりたいです」
最後の方は聞こえないくらい小さな声だった。そして慌てて「忘れてください」と付け足した。寒さからか、恥ずかしさからか、俯いた体が震えている。一樹は桜を横から抱きしめた。
「もうなってるから。一番。ずっと前から。…だから」
「え?」と力の抜けたような声を出す。
「他に我儘ないの?」
首を横に振る。そして一樹の抱きしめた腕にそっと触れる。しっかりした固い腕だ。
「あ…。一つだけ…お腹いっぱいだけど、一樹さんとワッフル食べたかったな」
「ワッフル?」
「ベルギーの…サクサクしてて…バターの香りが豊かで」
「いいよ。明日、行こう」
「明日? また来るんですか?」
「今日、ここに泊まってもいいし。幸い、桜はパジャマをもってるし…」
「パジャマしかない…ですけど」
「僕はパジャマもないけど? 慌ててたから髭も剃ってないし…。指揮者の家には電話しておくから…」
「…そろそろ腕を解いてください」
「分かった。じゃあ、どこに泊まるか、探そうか」と言っても、腕はそのままだった。
「一樹さん?」
「やっぱり…甘い卵焼きの練習させて欲しい」
桜はちっとも動きそうにない腕にキスをした。
「桜の笑顔を見たいから…」と言う一樹の声を聴きながら。
同じ時間を過ごす間、何度でも…笑顔になれるように、お互いに幸せな時間を作れるように、願いを込めて。
今日、一人で歩いた街は今は違って見える。灰色の空の下を一人で歩いていた時は景色がモノクロだったけど、今は優しい夕暮れの景色に見える。相変わらず知らない場所だけど、一緒にいるだけで温かな記憶になる。
「我儘言っていいですか? やっぱり一泊して、明日の朝、ワッフル食べたいな」
「嬉しい我儘だな…」
少しずつ、時間を重ねて、気持ちが同じになれたらいい、と桜は思った。
グランパレスの夕方の鐘が遠くから聞こえる。空にゆっくり幕を下ろすように。
〜終わり〜
冬のきまぐれ かにりよ @caniliyo
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