第6話
帰る場所
一時間遅れだから、大丈夫だろうと思っていたら、着信があったのに気が付いた。折り返しかけてみたが電話に出ない。ただショートメッセージで到着時刻が入っていた。あと三十分で到着となる。
「そろそろ駅に行かない?」と一樹が声をかける。
ピンクも頷いて、レストランの従業員に歌わせてもらったお礼を言った。
「また来て」と最初とは全く違う態度で手を振られて、見送られた。
その場で飲んだものはお金を払わなくていいと言われた。
「楽しかったです」と少し飛び跳ねるように歩いて、ピンクは笑った。
何をするかと思って、最初は驚いたけれど、いい時間潰しになったな、と思った。駅までゆっくり歩きながら、途中のケーキ屋でドイツのお菓子を買って、渡す。素直に嬉しそうに受け取っていた。一樹もようやく一件落着になるであろうと心が軽くなった。
駅でしばらく待っていると、一時間遅れで予定通り電車が着いた。ピンクはすぐに電車の方へ向かう。一樹も降りてくる乗客の中を目を凝らして桜の姿を探した。
「あ、アオ」とピンクが駆け出した。
そっちの方へ視線を送るが、桜の姿はなかった。遅れているのか? と思ってその他の乗客も見てみるが、最後の乗客が出て行っても桜はいなかった。
「こんにちは」と声をかけられる。
背の高い、青い目と髪の国籍不明な男性が立っていた。
「こんにちは…。あの…一緒に来なかったんですか?」
「ご連絡したんですけど、電話が繋がらなくて…」と流暢な日本語で話しをした。
「あ、すみません。ピアノを弾いてたので」
「本当にピアノを弾いてたんだ…」と苦笑いをした。
横にいたピンクが日本語が分からないようで、どっちの顔も見比べていた。
「それで…一緒にいたと思うんですけど…」
「ムール貝を…食べるためにブリュッセルに戻りました」
それを聞いて、一樹は言葉が出てこなかった。いや、理解ができない。
「彼女はどうしたの?」とピンクがアオに聞いている。
「ブリュッセルを観光したいって」と答えていた。
ムール貝でも観光でもどっちでもいいけれど、桜は外国語を話すこともできないし、携帯もお金も持っていないのに、と一樹は不安になる。
「お金だけ…渡しました。彼女、しっかりしてるので大丈夫だと思います」
「…いや、あの…どうして一人でブリュッセルに?」と彼に聞くのは筋違いなような気もしたけれど、事情を知っているのは彼しかいない、と一樹は思った。
「初めは…こっちに来ようとしてましたけど…。途中下車しました」
「何か…あったんですか?」
「何か…」とアオは少し考えてから「そう言えば『自分は三番目』って言ってました」と答えた。
「三番目…」
一樹はその言葉の意味がすぐに分かった。
(三番目なんて思ってもないのに)
それは一樹の考えであって、桜の考えではない。桜はそう思っていたなんて思いもしなかった。ピンクは深刻な顔をしている一樹を見て、アオに説明を求めた。どうして彼女がここにいないのか、ピンクも納得していない。
「ちょっと悲しくなったのかな。電話は繋がらないし…。かけて来ないから」と言ったのを聞いて、一樹ははっとした。
「あのね。それは私が…ピアノ弾きましょうって誘ったから。…どうしよう」とピンクはおろおろし始めた。
「きっかけは…まぁ、そうかもしれないんだけど…。もともと抱えてたことだから、ちゃんと一人で考えたくなったんじゃないかな」
「でも…一人で…って。早く戻りましょう?」とピンクが言った。
「あの…どこに行くって言ってましたか?」
「一緒にブリュッセルに行きますか?」とアオは聞いた。
「もちろん、今から。でもどこを探せばいいか…」
「大丈夫です」とピンクとアオが同時に言った。
「え?」
GPSで居場所が分かるのだと言う。
「私の服を着てるんでしょ? そこに付けてるから」
「え?」と思わず声が出た。
束縛するタイプなのか、と思ったがピンクが特に気にしていないようだったので、それについては黙っておくことにした。三人で電車に乗って引き返す。アオとピンクが通路を挟んで隣側の席に座った。ピンクがブラウハウスで歌ったことを楽しそうに話していた。一樹は窓枠にもたれながら、流れる風景を眺めていた。海外旅行もしたことがなかった桜が全く身に覚えのない場所にいて、知らない人と一緒にいて…。もっと気にかけてあげればよかった。午前中には会えるし、何も問題ないと思っていたのに。そう思えるのは一樹が海外で暮らしていたこともあったから、そんなに大変なことは思わなかったからだ。
ふと隣の席を見ると、幸せそうに笑い合っている。
桜はいつも一樹のことを考えてくれていた。自分はそうだっただろうか、と。気がつけばいつも自分のことを優先していた気がする。今回のドイツだってそうだ。自分の都合で連れてきて、もちろんコンサートの予定があるから、それに合わせて、桜は付いてきた。リハーサルの間もずっと側にいて、おにぎりを差し入れしてくれたりした。夕ご飯も指揮者と一緒だったし、一樹の都合を優先していたが、楽しそうにしてくれているから、何も気にしていなかった。
ただ…今回、違う男の人と一緒で何か考えることがあったのかもしれない。確かにこちらから連絡を取ってはいなかった。
(すぐ会えると思っていた…は言い訳にしかならない)
一樹は曇り空を見て、一人で歩いている桜のことを思ってため息をついた。
アオからもらったお金を使いたくなかったが、ブリュッセルに戻るにも早速お金が必要だった。ちゃんと後で返そうと思い、切符を買って、ブリュッセルまで戻ってきた。知り合いも誰もいない場所で、言葉も通じないし、どうしたものかと思案した。
仕方なく駅からぷらぷら歩いて、どこか気になるところを見に行こうかと思った。もともと来る予定ではなかったので、何があるのかさっぱり分からない。しばらく歩いていると楽しそうな音楽が流れてくる。人だかりの中にはアコーディオンやクラリネットで演奏している人たちがいた。陽気な音楽に乗ってまるでお祭りみたいな気分になる。
海外に来てから一人で街を歩くことがなかった。一樹と一緒にコンサートホールや練習室に行って、付き添っていたり、指揮者の家でおにぎりを作って差し入れしたりしただけで、街をゆっくり歩いたりしていなかった。一樹と一緒だったからそれはそれで幸せだったけれど、自分で行きたいところに行ったりしていなかったな、と気づいた。ゆっくりと腕を空に伸ばして背伸びをする。不思議とさっきまで捻れていた気持ちが軽くなった。
(ケルンに行かなかったから一樹さんに心配かけてしまったな)と桜は少し反省したけれど、あのまま一樹に会うのは何となく嫌だった。
別に一樹が何をした訳ではない。むしろ何もしなかったことに少し気持ちが沈んだだけだ。悪気があった訳でもないし、もともと一樹は必要な時にしか連絡を取らない人だと分かっていた。ただ幸せだったから、欲が出ただけだ、と桜は思った。せっかく時間ができたのだから、一人で観光を楽しもうと気持ちを切り替えることにした。道で日本人を探して、話しかけて、観光名所の場所を訪ねて、うろうろすることにした。突然、話しかけるとびっくりされるけれど、大抵親切に教えてくれる。
美しいグランパレス広場も行ったし、有名な小便小僧も見た。歩いて行けるところは頑張って、歩いた。しかし観光名所に来たところで、スマホもなければ写真を撮ることもできない。しばらく眺めて、違うところに移動するくらいだった。美術館にも入ってみたかったが、入場料がかかるので、気が引けた。外国に来て驚いたことはトイレも有料だと言う事だ。渡されたお金を使うのは申し訳ないと思ったけれど、こればっかりは逼迫しているので仕方がない。
(だからわざわざ電車から降りて、お金を渡してくれたのか…)と桜は今更納得した。
そんなことも知らないで、無謀にもブリュッセルに残ろうとした自分が情けなくなる。観光スポットを歩き回ると流石に疲れて、公園のベンチに座った。寒さと空腹が襲ってくる。でも人様のお金でムール貝を食べる気持ちにもなれないし、まして、言葉が通じないお店に入って注文する勇気もなかった。
「あ、チョコレート」と言って、紙袋からもらったチョコレートを取り出す。
寒くて手がかじかんでいるが、ゆっくりとチョコレートを取り出す。アーモンドが乗ったチョコレートだった。中には甘いプラリネが入っている。
(空腹は最大の調味料って言うけど…このチョコレートは本当に美味しい)
知らない街の公園でチョコレートを食べていると、少し寂しくなった。意地を張らずにケルンに行けばよかったと後悔すらしてくる。
(本当にGPSで見つけてくれるのだろうか)と一抹の不安も生まれてきた。
もう一粒チョコレートを食べていると、天使のような金髪の男の子ががじっとこっちを見ている。
「チョコレートいる?」と日本語で話しかけたが、じっと見ていた男の子が逃げるように走り去った。
口で溶けたチョコレートの中のプラリネの甘さが粘り気を伴って喉に広がっている。その子の行方を見ると、母親がいて、彼女のコートにしがみついている。母親は走ってきた男の子を見て、何か言っているようだった。その親子を見ていると、不意に帰れる家があることが羨ましくなる。
自分がマッチ売りの少女のような家に帰れない境遇に思える。
(でも私は売るマッチもないから、本当にどうしたらいいんだろう)
曇り空のせいで寒さが厳しい。どこか公共施設の…例えばデパートとか…そういう暖かい場所に行こう、と桜は思って、立ち上がった。
「…桜」
さっきの親子とは反対側から声を掛けられた。
「あ…一樹さん」
「観光は終わった?」
「…はい。あの…ごめんなさい」
立ち上がった桜の横に一樹は腰を下ろした。桜も隣に座った。
「いや、謝るのは僕の方で…。ごめんね」
「一樹さんは悪くないです。私が…」
「三番目じゃないから」と話を遮って、一樹が言った。
「…ごめんなさい。そんなの…関係ないのに。私…」
桜の言葉が一樹のキスで塞がれた。驚いて、体を離そうとしたが、一樹の腕が背中に回って動けない。さっきまで寒くて辛かったのに、一気に体の体温が上がる。
唇が一瞬離れて「チョコレート食べてた?」と訊かれる。
頷いたら、すぐにまたキスをされた。一樹の匂いで包まれる。桜が身じろぎして、キスは終わったが、まだ背中の腕は解かれなかった。こんなに寒いのに、一樹の額に汗が滲んでいる。
「…走ってきたんですか?」
「すぐに会いたかったから」
「ごめんなさい」
「…桜。ごめん。一番大切にしたいのに…自分のことばかりで、伝わってなかった」
「…私、一樹さんが忘れられないの…ちゃんと分かってるつもり…なのに。寂しくなって」
「うん。ごめん」
本当は分かっているし、伝わっている。でも時々、寂しくなるのも本当。桜は一樹の腕の中でそんなことを考えて、帰れる場所がある幸せを思った。
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