第5話

繋がらない電話


 ホームで電車を待つ間、無言で過ごした。多少、二人の間の雰囲気はましにはなったとは言え、話すことが特にないことは変わりがない。桜は読めない案内表示のフランス語を眺めてみたりしたけれど、読めない上に意味も分からないので首を傾げるしかなかった。

 すると後ろから赤いコートを着たさっきのおばさんが声をかけてきた。桜は何を言っているのかさっぱり分からなかったので、アオを見たら、どうやらアオに助けてもらったお礼を言いにきたらしい。まだいるか分からなかったが、警察署からここに戻ってきてよかったと言って、喜んでいる。そしてアオに小さな包を渡して、これから赤ちゃんの生まれた娘のところに行く予定だったと言ったらしい。手を振って違うホームに歩いて行った。

「喜んでいるみたいでよかったですね」

 小さな包にはチョコレートが入っていた。

「いる?」

「え? だって、これはあなたにって…」

「よかったらどうぞ」と言って、手渡された。

「あ、でも彼女さんに…」

「彼女には僕が買うから」

 そう言われて、受け取るしかなかった。綺麗な箱に小さなチョコレートが並んでいた。

「ベルギーって美味しいものたくさんなんですね」

「ドイツはそうでもないの?」

「…そんなことないですけど、素朴な感じがしました。まだ全て食べてる訳じゃないんですけど。でも電車で二時間くらいで違う国に行けて、違う食べ物があって、もちろん言葉も違うんですけど…。すごくいいなぁって思います。またゆっくり来たいなぁ…」

「食べることがそんなに好きなんだ」

「家がお弁当屋さんしてて…」

「お弁当屋?」

「だから私はおにぎり屋さんでもしようかと思って」

「おにぎり?」

「おにぎりって、あんまり食欲なくても一口食べると食べてしまいますよね?」

「そう…かな? 食べる機会がなくて」

「あ、そうですか。美味しいのに…」

「日本にいた時、母がたまに作ってくれたけど、中に具を入れるのが面倒なのか、ふりかけがまぶされてた」

「でも…それも美味しいです。塩を振ったご飯をぎゅっと握って、海苔巻いてるだけでも、満足感ありますよ。あ…食べたくなってきた。こっちのご飯も美味しいですけど。そうだ、死ぬ前に食べたいものってありますか?」

「死ぬ前に? 特に思いつかないかな。死ぬ前なんて貴重な瞬間なのに食に時間を割けない」

 そう言われて、桜は青天の霹靂のようなショックを覚えた。確かに死の直前という貴重な時間ではあるが、食に使えないと考える人がいることを初めて知った。一樹はそんなことを言わずに考えてくれたが、確かに人によっては食に興味ない人もいるだろう。

「…なんかすごい顔で見てるけど、どうかした?」

「…いえ。新しい価値観を…知った衝撃です」

「え? だって食なんて、栄養補給をする役目か、楽しい時間を過ごすためのツールでしかないから…」

「…解脱してるんですね」

「げだつ? って何?」

「いいえ。悟りを開いてる方だと思います」

 アオは不思議そうに桜を見た。

「そんな大層なことかな。もちろん美味しい食事はいいけど…、誰と食べるかの方が需要だし」

「まぁ、そうですけど」

 スポーツが好きな人もいれば、アイドルが好きな人もいる。人それぞれだとは思うけれど、食に対してそんなに割り切った考えをする人に初めて出会ったような気がした。いや、もしかしたらそういう人は案外多くて、今まで桜が気が付かなかっただけかもしれない。

「…なるほど、勉強になりました」と呟くと、アオは不思議そうに見ていた。

「まぁ、でも君は死ぬ前に食事がしたいんだよね? じゃあ、何が食べたいの?」

(…それ、興味あります?)と桜は心の中で思いながら、ため息をついた。

「…じゃあ、死ぬ前はどうしたいんですか?」

「好きな人と一緒にいたい。でも状況はわからないから、一緒にいれないかもしれないし。だから同じ時間を過ごすのを大切にしてるのに」と少し苛立ちが見えた。

「何時着になるか、連絡しておきましょうか?」

「さっき電話したけど」と言いながら、スマホを取り出す。

 呼び出し音が鳴るが、電話に出ない。

「君の彼は電話を携帯してないの?」

「してるとは…思いますけど」

「出ないってどういうこと?」

「…ピアノ弾いてる…とか?」

「は? どこで?」

(一樹さん、早く電話に出て)と多少、涙目になりながら桜は思った。

 そしてその願いは届かず、無駄に着歴を残しただけだった。何だかんだと電話するその様子を見て、愛してるんだな、と桜は思った。そう言えば、こちらからかけるだけで、最初にかけてきた意外では、一樹がかけてくることはなかった。

 お互い無言になる。

「…」

「…」

 ようやく待ち侘びていた電車がホームに入ってきた。

 ドアが開いて、アオが乗り込んだが桜は動かなかった。

「え?」と振り返ったアオに「ムール貝食べたくなりました」と言って、手を振った。

「ムール貝…」と呟いて、アオは乗った電車をすぐに降りて、コートのポケットにお金をねじ込んだ。

 桜はそのお金を戻そうとした。

「お金ないのに、どうやって食べるの? 来ないなら、来ないでいいけど。気持ちは分かるし」

 自分の気持ちの捩れで迷惑をかけることになっていると桜は思って、黙って電車に乗り込んだ。席についてから、お金を返した。

「…ちょっと前に三番目って言ってたよね?」とお金を受け取りながら聞く。

「はい」

「彼、電話にも出てくれないし…」と言って、窓の外に視線をやる。

「…」

「まぁ、少し心配させてもって思うんだけど? やるなら計画的にしないと。ここは外国だし、君、何も持ってないから」

 アオは少しも怒った様子でなく、むしろ少し楽しそうに笑った。

「いい? 今から作戦を考えよう。ケルンについたら、君はまたブリュッセルに戻って、ムール貝を食べる。僕一人で君の彼に会うから。彼にはブリュッセルにいるって伝えておく。きっと迎えに来るだろうから、それまでぶらぶら観光してるといいよ」

「でも…連絡手段が」

「どうせ電話通じない相手なんだから、必要ないだろう? そのコート、ピンクのだよね? GPSテープが貼られてるから」

「GPSテープ?」

「だから君の居場所は僕が把握できるから。少し観光でもして。夜になっても会えなかったら、僕が教えてあげる。万が一、会えなくても迎えいに行くから」

「…でも…」

「もやもやしてるんだったら、観光して楽しんだらいいよ。一人で考える時間も必要だと思うしね」と言って、返されたお金を渡す。

「このお金…」

「ぶらぶらするのに必要でしょ?」

「…私、ケルンまで行かずに、次の駅で戻ります」

「分かった」

「だって、その方が長く観光できるから」

「そうだね。僕がうまく言っておくから…。でも三番目って…どういうこと?」

「彼には忘れられない女性が二人いるんです」

「え?」

「一人は大学の同級生で、今も…繋がりがあって。もう一人は亡くなった奥さん。私はどっちにも勝てなくて。勝ち負けじゃないけど…」

 自分が決めたことなのに、同じことを何度も考えてしまうのが嫌だった。

「…それは辛かったね」

 そう言われて、桜は驚いた。誰かにそう言って欲しかったのか、首を横に振ったけれど、思わず涙がこぼれた。無言でティッシュを渡すと、アオは顔を窓に向けた。

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