第4話

ケルン


「向こうの電車が遅れてるみたいだけど、とりあえず僕たちは先にケルンに行こう」と一樹が言うと、ピンクは頷いた。

 髪の毛をふわふわさせながら、にこにこ恋人と電話している様子は可愛らしく、電話が終わった後もご機嫌だった。一方、一樹は桜が美味しいものを食べさせてもらったというので、それが何だか気に食わなかった。

「あの…、彼氏はどんな人?」と一樹が聞くと、ピンクはまた嬉しそうに惚気話を始めた。

 それをまとめると、優しいイケメンだということが分かる。そんな人に美味しいものを食べさせてもらって…、というか美味しそうに食べる桜の姿をそのイケメンが見ていることを考えるだけでも、気が収まらない。年齢も桜に近いようだし、一樹より話が合うかもしれない。

「アオは…以前は女の子をとっかえひっかえしてて…」

「え?」

 一樹は思わず聞き返した。

「あ、でも今は…違いますよ?」

「…とっかえひっかえって」

「そうなんです。自分からはなかったみたいなんですけど…デートを申し込まれたら、断らなかったみたいです」

「え? そうなの?」

「だから複数の人と同時もあったって」

「そんな人と…付き合ってるの?」

「…確かにそう聞くと、ひどいですよね。…でも今はそんなことないです」

 不思議と自信を持っている表情で語るので、それ以上は何も言わなかった。切符を買ってケルンまで向かうことにした。

「ドイツ語も喋れるんですね」

「日常会話程度だけどね。昔、住んでたから…」

「へぇ。留学ですか?」

「留学はイギリスで…そこからピアニストとして、ドイツに移動して…」

「ピアニスト? だから上手だったんですね」と言ってにっこり笑う。

「ありがとう」

 そう言って、ケルンに向かう電車のホームに行く。向こうの電車が遅れていると聞いたから、ケルンで大分待つことになるけれど、とりあえず、待つしかできない。幸い、携帯が繋がれたからどうにかなるだろう、と一樹は思いながら電車を待った。横でピンクは楽しそうに鼻歌を歌っている。本当に歌が好きだと言うことが伝わる。こんな素直な女の子が、さっき聞いてたような男性と付き合っていると言うのが理解できない。電話では落ち着いた声と態度だったから、それで顔が良ければ女性にモテるだろうが…。ふと桜がどうしてるか気になる。美味しいものを食べさせてもらってはいるらしいが。

「あの…お相手の方はどんな人ですか?」と突然、尋ねられた。

「桜? 彼女は…真面目で…」

 食べている姿が可愛いけど、他にも思い出すと、喜怒哀楽が豊かで、泣き顔も笑顔もたくさん見た。

「精神的に強くて、可愛い人」

「それは素敵ですね。会えるの楽しみです。あの…聞いていいですか? 他に好きな人がいましたか? お付き合いしてた人のこと…思い出したりしませんか?」

 さっき、平気そうに話していたけれど、やはり不安なこともあるのだろう。そう聞いてきた。ピンクは大きな目を真剣に向けて聞いてくる。ちょうど、電車がホームに入ってきた。

「僕は…」

 返事を待っている顔を見ながら、

(君の彼を責めるような資格はないな)と思っていた。

 電車がゆっくり止まった。

 電車に乗り込んで、窓際をピンクに譲って座る。

「…さっきの話だけどね」と言って、指を組み合わせて、どう話したらいいのか考えた。

 ピンクは体ごと一樹の方に向けて、真剣に話を聞こうとしている。

「過去に好きな人もいたし…、結婚もしてた。本当に好きだったけど…幸せにしてあげられなくて、後悔ばかりしてたんだ」

 驚いたように目を開いたが、黙って話を聞いていた。

「好きな人も嫌いになって別れた訳じゃないし…、妻には…後悔しかなくて。もう誰かを好きになんてなるつもりなかった。ずっと息をしながら過去の中で生きてた。それでいいと思って」

「奥さんと…別れたんですか?」

「…僕のせいで…死んだんだ」

 ピンクの目は思い切り開かれて、そして小さな声で謝った。

「だから…もう二度と誰とも生活をしないって思ってて」

 桜が隣のアパートから庭に落ちてきて、「しばらく家に置いてください」と言った時は面倒ごとに巻き込まれたとしか思っていなかったはずなのに、多分、その時、桜の命の輝きに触れてしまって、そこから止まっていた時間が動き出した。

「でもそれを変えてくれたのが彼女だから。彼女は特別なんだ…。だから過去の人についてはもちろん嫌いになることも、忘れることもないけれど、これからずっと側にいて欲しいのが彼女なんだ」

「そう…ですか。変なことを聞いて、ごめんなさい」

「いや。それは僕が背負っていくものだから。だから彼が過去に何をしたか知らないけど…、今、君を大切にしてることは本当だと思うよ」

「はい…」

 そうピンクには言ったものの、桜がどう感じているのかは一樹には分からなかった。だいぶ辛い思いをさせたと思っているが、今も不安になることだってあるだろう。

 ケルンまで二十分で着く。あとはピンクの日常を聞いたりした。探偵業もやっていると聞いて、割と楽しい話も多かった。

 駅に着くと、待ち合わせまでまだまだ時間があった。

 カフェにでも入って時間を潰そうかと思っていると、何処かからピアノの音が聞こえてきた。

「あのお店、ピアノ置いてます」と言って、指差すと、赤茶色の壁のブラウハウスというレストランだった。

 レストランは営業中だったけれど、朝ご飯をさっき食べたので、入るのに躊躇したが、ピンクはさっと中に入って、何か従業員に話をしている。そしてにっこり頷いて、こっちを見て、手招きした。

「ピアノ弾いて、お客さん、呼び込みますって言ったんです」

「え?」

「私、歌うので、伴奏してください」

 飛び込み営業をしていたようだった。確かにいい時間の潰し方だけれど、と思いながら、一樹はピアノの前に座った。

「何するの?」

「Fly me to the moonできますか?」

「ちょっと待って」と言って、携帯で検索して一度聞いた。

 まさか、あのラジオのリクエスト企画がこんな場所で役立つとは思わなかった。一度聴いているのを待っている間の従業員たちの冷たい視線を感じてはいたが、驚かせる自信もあった。

「いいよ」と携帯を置いて、ピアノを弾き始めた。

 調律は何年もされていないんだろうな、と思いながら、ピアノを弾く。ピアノの軽い音と、ピンクの甘い声が広がった。まだ朝の営業時間だったから、お客もまばらで従業員は周りに集まってきた。通りすがりの人も足を止めて聴いている。さすがアメリカ人だな、と思うようなパフォーマンスだった。ピアノが間奏を演奏している間も、肩を揺らして音楽に乗っている。ハスキーな声とはまた違う魅力があって、人々が集まってきた。幾人かはお店に入ってくれたので、営業的には成功と言える。

 一曲で終わるかと思ったが、次の曲は…と言い出し、その都度、検索して、演奏することにした。知っている曲もあって、気が付いたら三十分は過ぎていた。さすがに疲れたのだろう。

「休憩したら?」と言うと、従業員が「何か飲むか?」と聞いてくれた。

 お酒はまだ飲めないようなので、レモンシロップの水割りを注文した。ソーダは歌うのに支障が出るから飲めないのだそうだ。ピンクが喉を潤している間に、従業員から何か弾いてくれ、と言われたので、ブラームスのハンガリー舞曲を弾く。スピード感のある曲は客のビールの消費も進むようだった。

 すっかり気を良くした従業員のリクエストもあり、ピンクも歌ったりと…携帯が鳴っていることに気が付かなかった。

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