第3話
美味しいもの
ベルギーの窓口でチケットを買って、ホームに向かっていた時に、向こうのほうで何かを叫んでいる声がして、ハッとした時には桜の方に男が走ってきた。
「危ない」とアオが庇ってくれたが、その走り去る男を追いかけ始めた。
「え?」と桜が驚いていると、みるみる間に男との距離が縮まり、腕を掴んだと思うと地面に押し倒していた。
すると後ろから赤いコートをきた小柄なおばさんが何かを叫びながら、息も絶え絶えに走ってくる。倒された男の周りに人だかりができ、その中におばさんが入っていった。桜も慌ててその後ろについて行く。
なんとか覗き込むと、おばさんはアオから財布を手渡されていた。どうやらスリを捕まえたようだった。
「わー、すごい」と桜は呟いた。
たまたま近くにいた警察を誰かが呼んだようで、人垣を割って入ってきた。おばさんが身振り手振りで警察に説明している。もちろん桜は何を言っているのか分からなかったが、アオがフランス語で説明しているのには驚いた。
(あの人って…何者? 何か国語も話せて、しかも躊躇せずに捕まえにいって…)と考えて、桜はハッとした。
(もしや伝説の…殺し屋では? なんか映画で見たことがある。もう少し若い女の子だったけど、その女の子と殺し屋の…。だから眼光鋭かったのかも)
何か警察と喋って、しばらくするとこっちに来た。
(大人しくしてれば、殺されないよね)と桜はちょっと心臓が大きく鳴り出したので、深呼吸をした。
「行こう」
黙って、ついて行くしかない。少し距離を開けつつ、歩いた。さっきと違う様子の桜にアオが振り返って「何?」と聞くので、桜は慌てて首を横に振った。
(まだ死ぬわけにはいかない)
「なんか…誤解してない?」
首をさらに横に振った。
「まぁ、いいけど」
そのまま駅のホームの方へ向かう。行き先を確認して、ドイツに向かう電車が来るホームを探している時、電車が遅れるとの表示があった。
「一時間、遅れる…かぁ」
その呟きも黙って大人しく聞いておくことにした。
「寒いし…どこかで待とうか」
桜に拒否権も決定権もない。言われるまま頷いた。訝しがる顔をしたが、何も言わずにそのまま歩き出した。桜もついて行かなければいけないような気がして、そのまま後につく。駅を出て、しばらく歩いて、チョコレート専門店に入った。チョコレートが宝石のように並べられている。そこで何かを注文していたが、桜は目の前の綺麗なチョコレートを眺めることしかできなかった。せめてお財布があれば一樹さんにお土産買えたのにな、と残念な気持ちで眺めることしかできない。
「はい」と手渡されたのはホットチョコレートだった。
「え?」
「寒いから、これ飲んで待とう」
「あ、ありがとうございます」
手渡されたホットチョコレートは冷たくなった手を温めることができたし、一口飲めば暖かさが体の中を伝わっていく。
「美味しい」
アオも飲んでいて、別に甘いものが食べられない人ではないのか、と桜は思った。相変わらず態度は変わらないけれど、悪い人ではないのかもしれない、とこっそり思った。暖かいものを飲んだから吐く息が白く溶けていく。アオの方を見ると、ちょっと悲しそうな顔をしていた。
「早く会えるといいですね」と桜は言った。
それには意外なことに素直に頷いてくれた。
「初めて好きになった人だから」
さらに意外なことを聞いて、桜は驚いた。
「たまらなく不安になる」
確かに可愛らしい彼女だったが、アオの態度は冷たいが外見はかなりハンサムだったから、年齢的にも付き合ったことがないとは思えなかった。
「大丈夫ですよ。…あの一樹さんのことを心配してるなら。えっと…ご飯は食べさせてくれると思いますし、優しいしから…」
「すごく男前だよね」
「え? 見たんですか?」
「検索した時、顔が載ってたから」
「はい。男前で…やさ…」
桜も何だか不安になってきた。可愛い女の子に優しくしているであろう一樹のことを思うと、何だかもやもやしてきた。一樹が冷たくしていたのは、桜が落ちた時くらいで、今となってはかわいそうな女の子に冷たくするようなことはないはずだ、と思った。
「しかもピアニストだし…」
「ピアニストだとダメなんですか?」
「…彼女もピアノの先生してる。幼稚園でだけど」
「え? えぇ?」
桜は自分がダメだしされたことを思い出した。もしかしてピアノが上手かったら…、それで意気投合とかしてしまわないだろうか、とさらに不安が膨れた。
「あの、もう一回、彼女の写真を見せてください」
「え?」と言いながらもスマホの写真ホルダを見せてくれる。
「…可愛い」
「うん」
「なんか、天使みたいに可愛い」
「…そうだけど」
こんな可愛い子が横にいて、ほだされない男がいるだろうか、と桜は思った。
「あの、電話してみましょう。一時間、電車が遅れることも伝えた方がいいし」と桜は提案した。
アオも頷いて、電話をかけた。呼び出し音が鳴るけれど、電話が繋がらない。二人は顔を見合わせて、言葉を探した。電話に出られない理由が分からなかった。仕方なく少し温度の下がったホットチョコレートを飲んだ。
「もう一回、かけましょうか」
「うん」
そして三回コールでつながった。
「もしもし」と微かに一樹の声が聞こえた。
「あの電車が一時間遅れになるので、到着も一時間遅れます」
「あ、わかりました。ちょっと…お待ち下さい。彼女に代わります」
横で見ると、彼女と話している時の顔が全然違っていて、桜は驚いた。本当に優しそうな顔で喋っている。英語だったので、会話内容はあまり分からなかったが、何だか安心するような表情だった。
「彼と話す?」と聞かれたけれど、桜は首を横に振った。
特に話すことはないし、聞けることもなかった。
「でも…彼が代わってって」
そう言われて、恐る恐る電話口に出た。
「もしもし?」
「桜? 困ってない?」
「困って? ないです」
「よかった。お腹空いてるとか、喉乾いてるとか…ない?」
桜は一樹の心配が桜の胃袋のことしかないのか、と少し残念に思った。
「お陰様で美味しいもの食べさせてもらっています」と少し慇懃な口調で返してしまった。
「え?」
「え?」
「美味しいもの?」
「はい。…ワッフルとホットチョコレート…どっちも本当に美味しくて…」
「ふうん」と何だかはっきりしない言い方だった。
「でもベルギーはいろんな食べ物が美味しそうで…もっとゆっくりできたらって」
「とりあえず、今日は早く戻ってきなさい」
「それは…もちろん」
「じゃあ」と言われて、切られてしまった。
スマホを返すと、首を傾げた。
「どうかした?」とさっきとは違って、多少、ご機嫌な様子のアオが聞いてくる。
「なんか…美味しいもの食べてるって言ったら、早く戻って来なさいって。それに…その前は私の胃袋のことだけ心配してたのに…」
そう言うと、アオは軽く笑った。
「時間があったら、ムール貝とポテトもベルギー名物だけどね」
「え? それは…ぜひ食べてみたかったです」
しかしそれを食べる時間はなく、仕方なく駅に向かった。駅に向かいながら「それは嫉妬してるんだよ」とアオが言う。
「嫉妬?」
「まぁ、知らないふりしてあげて」
「どうして美味しいもの食べてるのが嫉妬になるんですか?」
「…好きな人が好きなものを違う誰かとしてるからじゃない?」
「…でも」と言ったものの、確かに桜もピアノについては色々思うことがあったので、分からない訳ではなかった。
アオはすっきりした顔をしているけれど、桜は心のもやが晴れなかった。でも多少、アオの態度が変わった気がしたので、疑念を口にしてみた。
「あの…語学も堪能ですし、さっきのスリへの対応も素晴らしくて…お仕事ってなんですか?」
「仕事? あ、もしかして怪しんでる?」
「えっと…はい。殺し屋かと」
ポカンとした顔で桜は見られた。
「殺し屋は…言われたの…初めてかな」
「…ごめんなさい」
「いや、こちらこそ。多分、苛々してたし…。悪かった」
素直に謝ってもらえたし、心配もあったのだから仕方のない態度だったのだろう、と桜は思った。
「アメリカで警察してる」
「え? どうして?」
「…色々あって。でもその中で出逢ったピンクは特別なんだ」
桜はそう言うアオの顔を見て、なんとなく気持ちが分かった気がした。
「君は?」
「彼にとって…二番目…三番目かな」
そう口に出すと少し悲しかった。青い目がガラス玉のような透明で見ている。その瞳に、無理に微笑んでみた。そしてアオより先に駅に向かった。
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