第2話
連絡
桜はピンクの可愛らしいワンピースとコートを借りた。本当に可愛らしいデザインと明るい色合いの服で、滅多に着ないので、似合ってないような気持ちになる。
「ごめんなさい。お借りしますね」とバスルームの中で着替えながら鏡に向かって、呟いた。
まるい襟に、前あきのワンピースは大きなリボンのベルトがついている。きっと可愛らしい女の子なんだろうな、と思いながら、でも相手の男の人は整った顔立ちではあるが、目が少しも笑っていないので、不機嫌そうに見える。二人が釣り合っているのか不思議な気持ちになった。
着替え終えると、バスルームから出た。向こうはさっさと着替えて、もうコートまで着ている。
「あ、お待たせしました」と声をかけると返事もせずに部屋を出て行こうとする。
桜は脱いだパジャマを慌ててもらった紙袋に入れて、コートを羽織って、ついていくことにした。
(お腹空いたなぁ)と思ったけれど、朝食を食べたいと言えるような雰囲気ではなかった。
仕方なく黙って、着いていくことにした。ホテルを出ると、桜は思わず声を上げた。街並みが玩具箱のようにとっても可愛いからだ。ドイツの街並みも綺麗だったけれど、ブリュッセルはおとぎ話の世界のようだ。キョロキョロしてしまうが、男性は桜を待ってはくれないようで、素早く歩いていく。
「あの…」
「何?」と冷たい返事がきた。
桜はさっきから何軒も、おいしそうな匂いのするワッフル屋さんを通り過ぎているのが、我慢できなかった。
「お金を貸してください」
「はあ?」と怪訝な顔をされた。
「どうしても…あのワッフルを食べてみたくて」
目を細めながら桜を見ているが、仕方ないと言う感じで店の中に入った。
「どうぞ、注文して」と席について言う。
「ありがとうございます…。きっと一樹さんも優しいので、彼女さんにご飯は食べさせてくれてると思います。私もそうだったから」
そう言っても特に返事がないので、メニューを眺めてシンプルなホイップクリームが乗ったワッフルを注文した。男の人はコーヒーだけ頼んだ。
「あの、お名前は…。私は桜です」
「アオ」
「あ、そうなんですね。ハーフ?」
黙って、頷いて、横を向かれた。話したくないという意思表示だろうか。仕方なく、桜も話すことを諦めて、店内を見る。壁には小さな絵がかけられていたり、ポスターが貼られている。赤のギンガムチェックのテーブルクロスのかかったテーブルが狭い間隔で並べられている。まだ朝の早い時間だからか、そこまで人は多くなかったが、新聞を読みながら朝食を食べている人もいた。その新聞を眺めていると一樹のコンサートの様子が乗っている。それを見ていると、ふと桜は思いついた。
「あの…。一樹さんに連絡取れると思うんです」
「連絡先、覚えているの?」
「覚えてません。でも一樹さん、ピアニストで、ドイツでコンサートしてて。その問い合わせ先に連絡できると思うんです。私は英語で話せないけど…。携帯、貸してください」
ロックを外した状態で携帯を差し出してくれる。検索で一樹のニューイヤーコンサートを調べた。
「ほら、ここの問い合わせ先に、メッセージ伝えたらどうですか?」
「分かった。電話してくる」
朝早いから繋がらないかも、と桜は思ったが、声をかける前に席を立って店を出た。何だか携帯を操作しているようだったが、桜は運ばれてきたワッフルを目の前にして、そっちに気がとられてしまった。サクサクした生地にナイフを入れる。たっぷりホイップクリームを乗せて口に入れた。バターの香りとクリームの味わいが広がって、桜は思わず、「美味しい」と声が出た。
こんなに美味しいものを一人で食べるのは申し訳ないと思ったが、思いがけず口にできたのだから、遠慮せずに堪能しようと考えた。半分ほど食べ終えた頃にアオが店に戻ってきた。
「繋がったよ」
「よかったです」と言いながら、口をもぐもぐさせていると、今までにこりともしなかったアオが少し笑った。
「さっきの問い合わせ先は繋がらなかったけど。検索して、日本の方に電話して…滞在先は分からないって言われたけど、メールを送ってくれるって」
「あ、山崎さんですか?」
「そう。君を預かってるからドイツの駅まで送るって伝えて欲しいって言ったからちょっと変だと思われてるけど」
「…確かにそうです」
少し話してくれるようにはなったけど、急いでいる様子は隠していなかったので、慌てて食べることにする。せっかくの美味しいワッフルが台無しだが、食べれないよりはマシかと思った。
「急がなくていいよ。連絡もつきそうだし」
「…でも」
「甘いの好きなの?」
「甘いのも、なんでも。食べものは大好きなんです。あの彼女さんは甘いものが好きですか?」
「アイスクリームが大好きで」
「可愛い人なんですね。この服もそうだし…」
「うん。可愛い」
結構、ツンツンしているのに、そう言うことは素直に言うんだ、と思って驚いた。
「写真、見たいです」
「早く食べて」と冷たく言われた。
でも食べてる間に、写真を見せてくれた。
ピンク色のふわふわした髪の毛で、まだ少女みたいな笑顔をむけていた。だから服も本当に可愛らしい服が似合っていた。
「…どうして…付き合ってるんですか?」と思わず本音が漏れてしまったが、返事はなく、早くワッフルを食べるように促された。
気まずいながらも美味しいワッフルをご馳走してもらったので、桜は大人しくついていくことにした。
「あ、そうですか」と一樹は電話を切る。
ブリュッセルの滞在先のホテルに電話をしたが、宿泊客は部屋にいないと言われた。やはりピンクの言う通り、飛び出したのだろう。桜は朝ご飯を食べさせてもらったのだろうか、と少し心配になった、と同時に、この目の前にいる少女にもご飯を食べさせるべきだと思う。指揮者が起きてくると面倒なので、街中でご飯を食べようと思った。
「とりあえず、駅に行くんだけど、外で朝ご飯を食べない?」と聞くと、黙って頷いた。
桜のワンピースとコートを渡して着替えるように言うと、ちょっと服を見て戸惑ったような顔を見せた。ベージュのコートと、紺色のワンピースだった。
「どうかした?」
「あ、いいえ。着替えてきます」
そう言って、ふわふわした髪を揺らしながら二階へ上がっていった。いくら早く出たとしても、二時間はかかるから、一樹はピアノを少し弾くことにした。リビングに置かれたピアノを開けて、トロイメライを弾いた。桜は大丈夫だろうか、と心配にはなったが、安全ではあるだろうと思って、無事に駅で会えることを祈りながら弾いていた。着替え終えたピンクがすぐ横に居て、「私もピアノ弾けます」と言うので、随分前、桜が弾いた四拍子のメヌエットを思い出して、苦笑いをした。
「弾いていいですか?」
「いいよ」と言って、席を変わる。
突然「La vie en rose」の弾き語りが始まった。ちょっと英語訛りのフランス語が可愛い上に、想像に反してピアノも上手かった。
「声もいいし…。音楽学校に行ってるの?」
「今は幼稚園で働いてて、後、夜のバーで時々、歌ってます」
「そうなんだ…。伴奏で歌ってみない?」
「え? 上手くできるかな…」
「できるから。やってみて」と言って、一樹がピアノの前に座った。
さっき弾いてた曲を弾く。でもピンクは出だしの音を聞いて、驚いた顔で一樹を見た。同じ曲なのに、音が全然違う。それに人の伴奏ではいつも歌える気がしないのに、今は逆に心地よく歌える。ピアノを弾きながらもいいけれど、こんなに上手い人の伴奏だったら、そっちの方が楽しいと思った。
「すごく楽しいです」
「誰かと一緒に演奏すると音楽って楽しいよね。もっと勉強しないの?」
「今は…どっちのお仕事も楽しいし…。何より、アオと一緒にいたいから」と言って、にっこり笑う。
「じゃあ、絶対、今日中に会わないとね」
「はい。早く会いたいなぁ。だって…ものすごく優しくて、格好いいんです」
この後も惚気を聞かされるような予感がして、一樹は外に出ることにした。
「朝ご飯は何がいい?」
「パンケーキとか…」
「パンケーキかぁ…。アメリカらしいね」
「あ、でもなんでも…」
「じゃあ。駅前のカフェに行こうか。まだ到着しないとは思うけど…」
「はい。きっと出てきたらすぐに分かりますよ。だって本当に格好いいですから」
カフェで朝食を取っていると、一樹の予想は当たって、惚気話を長々と聞かされた。人の惚気話ほど、どうでもいいものはない、と一樹が思いながら聞き流していると、携帯が鳴った。表示を見ると、山崎からだった。
「もしもし? 桜ちゃんとはぐれた?」
開口一発で聞いてくる。
「連絡来た?」
「あ、うん。俺の会社に…ベルギーから国際電話が入って。なんか…桜ちゃんをそっちの駅まで送るって伝えて欲しいって言うから、メールしておきますって言って切ったんだけど。なんか変だなと思ってさ。俺がまだ会社にいてよかったけど。大丈夫?」
「連絡ついたなら、大丈夫だよ。こっちの駅で待つよ。ところで相手の連絡先聞いてない?」
「あ、ちょっと待ってて。着信履歴から電話番号が分かるから」
そう言って、山崎は電話番号を教えてくれた。電話を切って、ピンクを見ると会話が理解できていないようで、不思議そうな顔をしている。
「君の彼氏に電話が繋がるよ」と言うと、ピンクは心底、ほっとしたような顔を見せた。
電話をかけると、ワンコールでつながった。
一樹が何か言う前に向こうが「もしもし」と言ってきた。
「え? 日本語?」と思わず一樹は言ってしまった。
「あ、そうです。桜さんといます。ピンクがそこにいたら代わってください」
一切の隙を与えず、そう言うので、ピンクに携帯を渡した。
「ありがとうございます。…アオ? 元気だよ。びっくりしちゃった。うん。今、駅前のカフェでご飯食べてるの。ここで待ってるから。うん、大丈夫」とにこにこしながら話している。
午前中にすべては終わるだろう、と一樹は楽観視した。午後からは桜とのんびりしたいな、と思いながら目の前の恋人同士の会話を聞き流した。
「あ、桜さんです」と言って、携帯を渡してくれる。
「桜? 大丈夫? ご飯は食べた?」
そう言うと、ワッフルを食べて、とても美味しかったと報告してくれた。元気そうだったし、何より朝ご飯を食べさせてもらえていることに安心した。
「あの、相手の人に代わってもらえる?」と一樹は聞いた。
ボンまで来てもらわなくても、こちらからケルンに行くので、ケルンで待ち合わせをしようと言うことにした。なるべくお互い早く元の状態に戻った方がいいと思ったからだ。もちろん相手は了承してくれたので、一樹は携帯を切った。
「ケルンまで迎えに行こう。そしたらもっと早く会えるから」と一樹が言うと、ピンクはとびきりの笑顔になった。
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