第十夜 Another


 こんな夢を見た。

 友人の男が死んだ。男は音楽家であった。自分と違って、彼は幼い頃から神童と呼ばれていた。

 数日前に男が送って寄越した手紙があった。それには、狂喜の滲んだ筆跡で、音楽を見付けたから、これから交響曲を書く、そうしたら暫く自分は留守にするから、楽譜を取りに来てくれと書いてあった。けれど男は死んだ。自分は、音楽を見付けたという一文の意味が分からなかったし、何よりも、男が嫌いであった。楽譜を取りに行くつもりなど、端から無かった。

 それなのにわざわざ楽譜は自分の所に送られて来たのである。

 使いの者から妻が受け取った平たい箱を開くと、五線譜の束が入っていた。楽譜はまったくばらばらであった。まるで床にぶちまけたものを、楽譜の読めない者がかき集めて箱に詰め込んだようである。迷惑極まりない。狂気の沙汰の後始末をさせられているに他ならない。自分は怒りを覚えた。それならば、貴様の見付けた音楽を俺も見付けてやろう。そう思って、楽譜の箱を床に投げつけた。音楽の成れの果ての、紙の海が出来た。音楽が何処に居る。あの男が見付けた音楽が見付かるなら、悪魔とでも契約しよう。奴の後ろを付いて歩いて、楽譜を拾って歩くなど真っ平だ。楽譜の海から無造作に数枚を掴み上げて、自分はピアノに向かった。そして一枚ずつ、弾いては暖炉の炎に投げこんだ。

 何枚目かを焼いた時、赤い灰の山から人の形をしたものが這い出した。少女だった。黒髪が絡み合い、頬の周りで揺らめいていた。裸の肌の身体じゅうに沈んだ血の色がまだらに走り、まるで死体であった。それが口を開いて

「私を呼んだね」

 と云った。喉が渇いていた。声が出なかった。ようやく絞り出して訊いた。

「お前は何だ」

「私はお前が呼んだ音楽だよ」

「音楽がそんなに醜い筈が無い」

「知らなかったか」

 音楽が冷たく唇の端を上げて微笑んだ。

「醜さは人だ。腐敗も憎しみも嫉妬も人だ。穢れを総て引き受けた者が音楽だ」

 自分は耳を疑ったが、先に自分の口から言葉が湧き上がり思考を押し遣った。

「お前が音楽か。それならば、私に何を与えられる」

「対価無くして与えられるものはない」

「何を差し出せばいい」

 沈黙が清かに流れた。目の前の音楽は腐敗の海から生まれた色をしていながら、至高の芸術と繋がる道標の気配が、確かにした。音楽の足元が金色に光った。

「穢れを総て知る覚悟はあるか」

 覚悟とは命か。

 訊こうとしたら、周りに音のうねりが巡った。その途端に自分は理解した。

 音楽の云う通り、腐敗も憎しみも嫉妬も人であった。あらゆる時代のそれらが、坩堝の中でどろどろに溶け、音楽の内に握られていた。過ぎた無数の時代の音が、自分と音楽の周りで巡っては死に、死んでは生まれ、生まれては血を流し、血を流しては巡っていた。それらを取り込んだ果てに、完璧な芸術が紡がれ綴られたのが見えた。自分の耳が今聴いているのが、まさに音楽であった。音楽が訊いた。

「どうする」

 あの男は死んだ。音楽に覚悟を差し出したのであろう。そして完璧な芸術へ逝き着いた。

 自分も頷こうとした時に、後ろで声無き声が聞こえた。振り返ると、女が泣いていた。誰だか思い出せなかった。しかし何故だか、思い出さねばならないような気がした。

 音の流れを掻き分けてやって来た女が、背後から自分をひしと抱いた。背が温かくなった。

 音楽がこう云うのが聞こえた。

「憎しみと嘲りと死と、失意と絶望と腐敗の渦へ帰る覚悟が満ちたら、また私を呼びなさい」

 音楽が、渦巻く時代の潮流を連れて頭上へ舞い上がり、消えた。残ったのは幻のように幽かな残響と、美しい美しい暗闇であった。そこで自分は、嗚呼、と呟いて背後の女の名前を思い出した。

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贋作 夢十夜 森くうひ @mori_coohi

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