第九夜 黄泉醜女
こんな夢を見た。
底知れぬ海をゆらりゆらりと沈んでゆく。耳孔を暗く柔らかな水が埋めている。次第に目が開いてくる。あたかも自分の両の目が遠眼鏡になったように、薄らいだ水底が見えてきた。いまだ水底は遥か遥か下である。
遠い水底に、黒々と川が流れている。水の下に川がある。河原に石ころと砂利が続いている。そこに黒髪の女が寝そべっている。川を渡った先は、暗闇である。ひどく純粋な闇であると自分は思った。雑じり物の無い、透き通った闇を見たと思った。
暗闇から男が逃げてくる。
男はひどく怯えている。足が縺れ、こけつまろびつ走ってくる。膝にも脛にも血が滲んでいる。それも当人には見えておらぬ。男は川に飛び込んだ。川を泳いで此方の岸に辿り着いた。そうして再び走り出した。
そこで黒髪の女がすっくと立ち上がった。
女は男を追って駆け出し、瞬き一つの間に男に追いついた。追いつくや否や、首根っこを掴んだ。そうして両手で捻りあげた。男が叫んだ。小麦粉の塊をこねるが如き手つきで男は泥のように丸められて、女の両掌に握られた。その哀れな鞠を女が呑み込んだ。呑み込まれた男の泣き叫ぶ声だけが残った。声は往き場を失い、川面をどろりと流れていった。その始終を、遥か上で自分はゆらりゆらりと沈んでゆきながら見ていた。
男が丸められるところを、河原でもう一人、若い女が見ていた。男を呑み終えた黒髪が、若い女に云った。
「此処は生ける者の来る所ではないよ」
「けれども此処に来る筈なのです」
「そうだろう」
「ですから此処で連れて帰ります」
自分は二人を見下ろしている。河原に明かりは見当たらぬ。それなのに砂利の河原には二人ぶんの暗い影が長く伸びている。そういえば黒髪の女の影がおかしい。頭は長い黒髪が流れているのみなのに、女の影を見れば、角が生えている。また、女の指は幼子のようにふっくらとしているのに、影は指が長く虎の爪先のように尖っている。男を捏ねて飲み込んだこれはきっと鬼であると自分は思った。鬼が口を開いた。
「此方側へ落ちて来るとは限らぬ」
「それでも見届けなくてはなりません」
「向う側に落ちてきたら、お前は川を渡るのか」
「いいえ渡りません」
その時気がついた。自分が沈んでゆく先は、川の向う側であろうか、それとも此方側であろうか。そう思ったら、自分の体の沈む速さが変わった。自分は川の向う岸へと落ちてゆくのである。女が棒立ちのまま、瞼を閉じるのが見えた。眉間に哀しみが満ちていた。滑らかに水が上へ通り過ぎて、石の河原が目の前に迫った。
女が云った。
「仕方がありません。お前は向うへお往きなさい。そうして早く戻っておいで」
自分の身体が冷たい砂利の上に柔かく沈んだ。目の前に暗い川が流れていた。鬼と女は川の此方の岸に居た。自分が沈んだのは向うの岸であった。間違いであって欲しいと思った。自分は口を開いた。詫びようとしたが喉と肺に水が満ちていた。
「お前は悪くありません」
自分が詫びようとしたのがどうして女に判ったのか、自分には判らなかった。
「私はお前を叱りません。ただ私の声を憶えておいで。そうして早く戻っておいで。私がもう一度お前を産んであげます」
女の声が闇に溶けた。鬼が両腕を真っ直ぐ伸ばして、女の両肩を突き飛ばした。女の姿も闇に溶けた。女の声だけが残って、川を渡ってこちらへ来た。声は自分の掌の上に落ちた。僅かに温かかった。
掌の上で女の声が光るので、自分はこれをずっと灯りにして、あの美しい暗闇のほうへ歩いて往こうと思った。
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