第八夜 鏡


 こんな夢を見た。

 西の空の、先刻まで雨を降らせた雲の間から、細い帯状の光が降りている。卯の花腐しもじきに止む頃である。硝子窓に突いた指先がひんやりとする。自分は徒然に窓から表通りを見ている。

 硝子に張り付いた水滴の向こうに、何の変哲も無い荷車や笠の往来が見える。硝子に纏わりつく細かな水玉を見ていたら、ざらめを思い出した。綿菓子にすると旨そうだと思った。振り返ると、漆喰の壁に古めかしい真鍮の枠に囲われた大鏡があって、自分の姿が映りこんでいる。自分の姿などまじまじと見ても、退屈が増すのみで、目新しい事はなにも見つからぬ。

 何か面白い事は起こらぬものかと、大通りに目を戻した。天秤棒に鉢を七つ提げた金魚売りが、右のほうから歩いてきた。すると、がま口を首から紐で吊る提げた猫が、金魚売を呼び止めた。猫はがま口から小銭を出したが、金魚売が首を振った。もう一度猫が小首を傾げた。金魚売がまた首を振った。猫はあかんべえをして往来を左に走って横路地に消えた。金魚売も、丹精こめて育てた長い尾の金魚を、猫の御馳走にされたくはないであろう。至極当たり前のことである。

 続いてやって来た男は、荷車に大きな円い鉄のたらいの様な物を載せている。男は行きずりに、雨で濡れた床屋の窓硝子を、左官屋の小手の様な道具で舐め取った。続いてその小手にくっ付いた透明な水滴を、背後の荷車の上の金盥に放り込んだ。腰に下げた筒から小枝を一本引き抜き、金盥の上で暫く振り回していたら、小枝の周りに綿菓子が巻きついた。通りがかりの子供が、なけなしの小遣いを差し出した。男は小枝を子供に渡した。やはり硝子窓に付いた細かなこれは、ざらめ糖だった。想像通りである。面白くもなんとも無い。しかし雨の日にしか商売にならぬ綿菓子屋が、儲かるとは到底思えぬ。あの男は他にざらめ糖になるものを探したほうが、身の為であろう。

 左手の道の先に、川が流れており、弓なりに橋が架かっている。橋を渡って来た婦人達二人連れの、片方の夫人の頭の横に、やけに大きな蝸牛の殻のようなものがへばりついている。しばらく見ていると、婦人たちは自分の前を通り過ぎた。馬鹿に大きな蝸牛に見えたのは、羊の角である。雌の羊には角は無いものだと思っていたが、婦人達の頭に角が生えているところを見ると、そうでもないらしい。これも、さして新しい発見でもないように思える。

 婦人達が窓の端に消えると、三羽の鶏を連れた大道芸人が通り掛かった。鶏の頭に、真直ぐ上を向いた草の茎が生えている。一羽目の鶏の茎のてっぺんには、菖蒲の花が咲いている。二羽目は蓮で三羽目は菜の花らしい。一番後ろに、年端もいかぬ幼い娘が続く。娘は左手に笛を持っていて、笛の筒の先からゼラニウムの色をした花弁が次から次へとひらひら落ちた。娘の足元に花弁が纏わり付いて、娘は鬱陶しそうに片足を持ち上げて花を払った。裸足であった。足の裏にびっしりと何かの絵がかいてあるのが見えた。それもどうやら花らしい。流行なのかもしれぬ。自分には興味のないことである。

 大道芸人は立ち止まると、太鼓を鳴らしだした。娘が笛を吹き始めた。しかし、拍子が全く出鱈目である。菖蒲が蓮の背中に飛び乗った。菜の花が蓮の上に飛び上がった。三羽の鶏が縦に重なった。娘が吹く笛に誘われて、菖蒲と菜の花の茎が伸びた。蓮は拍子に乗り損ねたらしい。往来を通り過ぎる男女が五、六人ほど足を止めて、菖蒲のつぼみがもう一つ増えたところで手を叩いて喝采した。しかし自分には、あまり上手い芸だとも思えなかった。

 自分が外を眺めている窓の、真向かいの薬屋の軒の上に、鳩がとまっている。鳩は、こっそりと薬屋の軒先に掛かっている鳥篭の中の鸚鵡を眺めている。片恋のようだが、さてその鸚鵡は大道芸人の鶏をうっとりと見ている。笛に合わせて鶏が羽ばたくと、それに合わせて鸚鵡が左右の羽を打ち鳴らした。拍手のつもりらしい。片恋とは、いつの世もそんなものである。目新しい事ではない。

 何も面白い事が見当たらないので、自分は部屋の中へ向き直った。真鍮の鏡をぼんやりと眺めていたら、鏡の中の自分が両目をつぶった。唖っと声を上げた。その途端、鏡が白く揺らいで溶けた。

 窓の外も溶けたかと思って、後ろを振り返ると、往来では、自分が鏡の内と外の見分けが付かなくなった事などかまわず、何の変哲も無い羊が洒落たスカーフを巻いて歩いていた。自分は、ありふれた日常があったのを、生まれて初めて安堵した。

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