第七夜 名残雪


 こんな夢を見た。

 老いた父母の暮らす村まではもうあとわずか、峠を越え渡しを越えるばかりという所で、春までいくばくかというのに雪が降り出した。それでも夕刻までには渡しに着けようと思い、このまま山道を急ぐことにした。白い粉雪を抱いた風は身に染み入る。足元ばかりを見て先へ先へと登っていたら、被っている笠に何かがぶつかった。木の枝ではない。歩を止めて笠を取ると、柄長が小首を傾げて自分を見上げていた。柄長は自分の手の上に降り、豆粒ほどの黒いくちばしを開いて云った。

「名残雪が旅のお方をおもてなししたいと云っているよ」

「しかし先を急ぐのだがね」

「この先の草庵にお立ち寄り下さいましなと言付けるよう云われたよ」

 行く先へ向かって目を凝らしてみたら、枯れ枝の狭間に庵が見えた。しばらく四羽の柄長に先導されて山道を登ってゆくと、草庵を囲う竹の塀と木戸の前に、葡萄染めの半襟、暗い緑に金の模様の帯を締めた、真珠色の着物の娘が立って自分を出迎えていた。

「此の冬は雪があまりございませんでしたゆえ、勿体のうございまして、僅かずつ降らしておりましたら余ってしまいました。残りを使い果たそうと思いまして、旅のお方がおられるのに気付かず雪を降らせてしまいました。ご迷惑で無ければ、暫しお休みになってからお行きなさいませ。少しばかりのお詫びに、温かな甘酒が御座います」

「しかし日暮れまでに山を越えたいのだが」

「でしたら尚のこと。此の草庵の裏木戸を抜ければ、峠の端はすぐ近くでございます」

 それで一休みさせて貰う事にした。

 草庵は入り口の直ぐ正面に茶室ほどの部屋が設けており、畳の中央に大ぶりの火鉢が置かれ、暖かかった。火鉢の傍を勧められて暖を取っていると、名残雪が小さな盆に蓋をした湯飲みを載せて戻って来た。差し出された器を受け取ったが、氷のように冷たかった。蓋を開けると、乳色の氷が縁まで満ちている。

「凍っているようだね」

「まあ、これは重ね重ねご無礼を。温めましょう」

 娘がそう云って湯飲みを受け取り、蓋をして両掌で慈しむが如く包み、再び自分に差し出したら、中には湯気をほんのりと纏った甘酒がなみなみと注がれている。口に含むと、柔らかく喉に溶けて流れた。わずかに生姜の香りがした。

 名残雪が障子を開いた。粉雪が降り続いている。坪庭があり、立ち木は山肌と同様に冬枯れの面持ちである。だが、よく目を凝らすと、枝に無数の芽があった。

「此の木もその木も、もうすぐ芽吹くのだね」

「あの枝にございますのは芽ではございません。蕾です」

「梅でも桃でもないように見えるが」

「ご覧に入れましょう」

 娘は立ち上がり、草履で坪庭へ降りた。雪が舞い、草木の枯れた庭で、名残雪の眦とうなじと唇と指先ばかりが紅かった。その指先で木の幹に触れた。枝という枝のあちこちで、綿雪が膨らむが如く軽く、目の覚める黄色の花が開いた。焦げ茶の枝のそこここで、十重二十重の薄い花弁を重ねた花が、次から次へと咲いた。名残雪が花をひとつ枝から折って、自分に渡した。花は湯飲みよりも大きかった。

「冬の山は死んではおりませぬ。ただ天より与えられた眠りに落ちているのみ。わたくしはその眠りを誘うのがつとめでございます。そしてまた、眠りの狭間に為されるべき万象を見守るのが、つとめでございます」

 娘は自分の笠に、手折った花を挿した。旅の守りになりましょう、と云った。

 甘酒を飲み干したところで礼を述べて、火鉢の前を立つと、名残雪が

「此の草庵の裏からお行きなさいませ」

 と裏口を勧めた。入ってきたのと逆の木戸から外へ出ると、尾根の端であった。渡し場を見下ろせた。船着場に人影が見えた。背後を振り返ると、枯れ木に音も無く名残雪が降るばかりの冬山が続いていた。

 残る旅路は、あともう僅かである。


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