第六夜 猫と花嫁
こんな夢を見た。
窓を開け放った真昼の部屋の中で、女が豊かな黒髪を梳っている。闇は光るものであったかと思うほど、奥の深い漆黒である。前髪の下で大きな瞳が池のように潤んでいる。髪は肩の上でゆるやかに束になる。女は白いドレスを身に着け、黒檀の首飾りを身に着け、椅子に腰掛けて目を伏せてこちらを向いた。若い娘だった。肌が百合のように白い。
婚礼の日に随分憂鬱そうな顔をしている、と言うと、娘は自分を睨みつけて、
「あなたには関係ありません」
と細い針のような声で言って、首飾りを胸の下で握り締めた。
「おまえとおまえの夫になる男のためにどれだけの人々が祝いに駆けつけてくれたと思っているのだね。他人にそれと分かるほどの不愉快な顔をしていたら失礼じゃないかね。」
と諭してみたら、再び娘に睨まれ、
「あなたみたいな猫にお説教される筋合いはありません」
と言われた。そんな馬鹿な、と思い後ろを振り返ると、焦げ茶の筋の入った毛並みの背中が見えた。自分の尻尾を振ってみたら背中の後ろで同じ縞模様の長い尻尾が揺れた。なるほど猫だ、と思ったので自分は黙った。猫に人の道を説かれて愉快な者はおらぬ。
暫く黙っていると、娘が口を開いて、
「怒ったのでしょう」
と勝手な事を言ったので、自分は、怒ったのではない、私が確かに猫で、確かにおまえに説教する筋合いは無いと思った、と答えた。
「私は何処にでもありふれた田舎で、幼馴染と結婚して夫婦になるんです。深く焦がれる恋も他の男も他の町も知らないまま年老いて死ぬんです。私は不幸だと思いませんか」
随分と勝手な娘だ。他に男が居て添い遂げると心に誓ったわけでもないらしい。聞いているうちに腹が立ってきた。
「誰にでも、ひとつやふたつ世の中には不満がある。いちいち不幸と名づけたらきりがない」
「不満はありません」
「それでは不満が無い事が人の幸いではないかね」
「私は不満を知らないだけなのです。気が付いていないだけなのです。ましてや私の夫になる男は、己が何も知らないという事にすら気が付いていません。ただ喜んでいます。私を愛しているかどうかなど、考えていないようです。愚かだと思いませんか」
「何の罪も無い男だとしか思えぬ」
「それでもせめて一度くらい、夜も眠れなくなる恋をしたかったけれど、もう叶いません。あなたにはお分かりにならないでしょう」
押し問答を続けるのが馬鹿らしくなった。頭の上に右手をやると、三角の耳がぴんと立っている。下ろすと横に縞模様のある焦げ茶色の前足である。やはり猫だ。自分は部屋の窓辺に丸く座っている猫に間違いない。外は真昼の日差しに向かい、欅の葉の色が鮮やかに立っている。
娘が口を開いた。
「私はどうすれば良いのでしょう」
猫に訊くので呆れた。一層馬鹿らしい。
「お前の夫になる男は、不細工かね」
「細工は整ってはおりません。醜男でもありません」
「貧しいのか、金持ちか」
「日々の食事には困りません。鼈甲の櫛や金の耳飾は買えません」
「女の尻を追いかける男か、博打を好むか、大酒を食らうか、お前を毎晩叩くかね」
「どれも違います。平凡な生まれの平凡な男です」
「それでは何もいけない事は無かろう。私は猫であるのが不幸でなければならぬとも思わない。ましてやおまえの言う平凡の何が悪い。不幸を知らぬのなら幸いを知ればよい」
娘は立ち上がり、暫くとっくりと自分の目を覗き込んだ。そうして踵を返し、ふと首飾りを外して、部屋から出て行った。心なしか顎が先ほどよりも上を向いているように見えた。暫くすると、廊下のずっと向こうから十人分の笑い声が聞こえた。婚礼が始まるのだと思った。
自分は尻尾を再び持ち上げてみた。毛並みがさやさやと揺れた。
世の中は理不尽である。
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