第五夜 砦の月


 こんな夢を見た。

 石と木で組み上げられた大きな砦にいる。頭上には丸々とした月が金色に光っている。さらに砦の上には数十もの灯が赤く燃えていて、昼のように明るい。

 自分は甲冑を着て腰に太刀を提げたまま、同じ出で立ちの数人の仲間と砦の廊下を歩いて、大きな扉の前に来ている。太い閂に錠前が五つも下がっている。牢番が甲冑の下から鍵の束を取り出し、重たい音をさせて一つずつ開いたので、自分は仲間と共に閂をずらした。扉を開けるとそこにもう一つ月があった。

 牢の壁は石が積まれているだけであったが、寝台の上には絹の下がった天蓋が掲げられており、床は掃き清められている。その部屋の真ん中に、豊かな黄金色の髪を腰まで落として、若い女が座っていた。部屋の隅に、金の留め金で飾られた大きな箱が蓋をあいており、その中に着物がきちんと畳まれていた。それを自分は見慣れた柄だと思ったが、一度も袖を通された気配がなかったうえに、女が袖を通したところを思い浮かべることが出来なかった。

 女は、伏せた睫毛で自分の膝の上をじっと見つめていた。

「立て」

 と自分が云うと、女は黙って立ち上がった。自分達が女の両側に立って腕を掴み、牢から廊下へ連れ出した。背後で扉が軋んで閉まった。女の左の腕を掴んで歩き出した。

 女は白い薄絹の衣装を纏い、大きな瑠璃の首飾りをしていた。瑠璃の周りを藍玉が見慣れぬ形で囲み、鉛色の細い鎖が胸の上に落ちている。頬の両側を、波打つ黄金色の髪が包み、その間に二つの大きな瞳があり、常にそれらは石の床を見つめている。しかし、牢番が女の涙を見ることはおろか、女の嘆きを聞いたものすら一人たりともおらぬらしいと、先ほど砦の廊下で仲間から聞いた。

 廊下を抜けると、月明かりに目が眩んだ気がした。さらに四方から、松明の爆ぜる音が耳を満たした。女が捕囚となっていた牢には、つま先で破れそうな張り詰めた夜の帳と静寂とが満ちていたので、女もまた目を細めた。ふと、牢に満ちていたのは死であったように思えた。

 自分と仲間の男がそれぞれ女の両の腕を掴んだまま、砦の正面に進み出た。

 砦の前には黒々とした宵闇が広がっていた。篝火に眩んだ目をしばらく闇に放っていると、荒野の中に灯りが見えた。それが敵軍の陣営であった。向かいの陣営には、女の父と兄の旗が掲げられているはずである。どれほどの人馬が集まっているのか判らない。しかし満ちた月と篝火の明るさで、向こうからこちらは容易に見えているに違いなかった。

 いま砦の正面の石垣の上で、女は旗のように掲げられている。仇の手に握られ、夜中に牢から引き出され、人質を誇示する為に吊るされている。女は、宵の中に浮かんだ二十ほどの火を見据えていた。自分はこの時初めて、長い睫毛に縁取られた女の瞳を見た気がした。

 ふと女の目が脇に落ちた。篝火に誘われて飛んできた蛾が、自分の前を横切り、赤く燃える薪に飛び込んだ。燐粉が飛び散る間もなく蛾は灰になり、落ちた。女は、蛾を焼き殺した事など知らぬが如く燃え続ける火をしばらく見ていた。そうして再び、砦の正面に向き直った。

 突然、女が細い左右の腕を大きく振って、両側を固める兵の手から抜けだした。

 自分はその刹那、身を翻した女が、砦の石垣の上から身を投げると思い、女の前に立ちはだかった。しかし女の意図は違った。女はそれまで己を捕らえていたもう一人の兵の懐に飛び込み、腰の剣を抜いた。不用意に構えていたその兵が左腕を切られた呻きなど、女は気にも留めなかった。奪った刃を女は両手で握り、自分の胸に向けて躊躇いなく腕を引いた。だが女が己の肌を裂く一寸前に、自分が女の腕を固く掴んだ。

 石の上に剣が落ちた。

 女は三人の男に両腕と肩を押さえつけられて、砦の上で倒れ伏していた。女の肩は折れそうに細く、絹を透かして赤く上気しているようであった。女の喉から、ああ、という声が零れた。噛んだ唇が震えたかと思うと、女は言葉にならぬ叫び声を上げて、泣いた。兵の指は女の細い腕を容赦なく握っていた。兵の指のかたちが白い肌に痣を作っているであろう事など、女にはどうでもよい様子であった。女は闇夜に向かって、父と兄の名を叫んだ。大粒の涙がとめどなく落ちた。黄金色の髪が広がって、砂にまみれていた。女の慟哭が、篝火の燃える音を掻き消して響いた。

 頭の上では円い月が、砦と敵陣を等しく照らしている。

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