第四夜 ange
こんな夢を見た。
年が明けたばかりの凛と凍る日に妻が産んだ子が、紺碧の小さな魚だったので、自分は納戸から硝子の金魚鉢を引っ張り出した。金魚鉢は木箱の中でかたかたと鳴った。箱を開くと、季節外れの澄んだ色が顔を出した。廊下を抜け、薄く雪化粧した草履に足を突込み、裏の井戸から水を汲み上げ、鉢に満たし、再び廊下を戻るまで、魚は妻の両手の上で、鰓をじっと閉じて妻を見上げていたそうである。水の中に入れてやると、魚はひとつ身震いして、瞬きをした。
「魚は瞬きをするものだったか」
と云うと、
「ふたつ続けざまに瞬きをして、それから大きく眼を開くのが、貴方にそっくりです」
と妻が答えた。水が冷た過ぎるのではなかろうかと、そればかりが気懸かりであったが、魚は意に介さぬそぶりで泳いでいる。自分は卓の上に置いた金魚鉢をいくら眺めても飽きなかった。柱時計が四度、刻を打ったので、仕事に戻った。それで書物机に向かったが、深夜になってとうとうじっとしていられなくなった。金魚鉢を見に行くと、魚は昼間に見たより心持ち立派になったようである。
「此れは昼間よりも少し大きくなったね」
と訊くと、妻に
「幼い子は時々刻々と成長するものです」
と呆れられた。鉢の中の魚までもが、自分に呆れた眼差しを向けている気がした。赤子は天使だ、と云ったのは、自分の原稿を三日に一度見張りにくる出版社の男である。自分は騙された心持ちになった。長い睫毛と円い目と奥二重の瞼は妻にそっくりであった。そして真ん丸い鼻先が自分である。
金魚鉢の底には、妻の小指の爪ほどの大きさの、薄い雲母のような欠片が幾つも沈んでいる。魚から剥がれ落ちた鱗だという。なるほど脱皮して成長するらしい。それから金魚鉢を眺めていると、鉢の中を泳ぎ回っていた魚は二刻目に尾を咥えるように肢体を丸め、水の上へ弾け跳んだ。数十の鱗が卓の上に舞った。ひとつが自分の手の甲に落ちた。自分はそれを爪先で慎重につまみ上げて明かりにかざした。思ったよりも硬かった。
翌朝になると、魚はまた一回り大きくなっていたので、自分は水槽を買いに出掛けた。子は気が向くと水の外へ跳ね出してくる。そうして畳の上に座っている。妻が煮た南瓜を吹いて冷まして差し出すと、美味そうに食べて水槽に戻った。毎日脱皮する度、剥がれ落ちた皮膚が水槽の底に貯まる。自分は水を替える時に、毎日その欠片を拾い集めて、庭先の、隣の家との境目の壁に貼る事にした。朝日が当たると、壁の上には、あたかも真珠貝の裏側を剥がして貼り集めたように、淡く無数の色が揺らめいた。二十日が過ぎた頃、少しずつ伸びた胸ひれが両の手らしくなり、四十日が過ぎた頃には、尾ひれが段々にふたつに分かれて、足らしくなった。その間に自分と妻は二度、水槽を買い求めて出掛けた。子は妻が綿入れに包んで抱いて歩いた。水の外でも愛想が好い。だが疲れると、水の中を恋しがって泣く。魚ではなく、井守かもしれぬ。そう思っていたら、今度は子の背中にわずかな羽らしいものが生えてきた。
「此れは魚でも両生類でもなく鳥になる心づもりかね」
と云ったら、妻に今度こそ
「魚であろうが鳥であろうが貴方と私の子であるのに何の違いがありましょう」
と心底呆れられた。そうは云っても、こう掴み所が無いと、未だ何と名づけたら好いか決めかねる。玄関先では、もう桃の芽が膨らんでいる。今日こそは名を付けねばならぬ。
覚悟を決めて縁側に座った。目の前には、すっかり一面が隅々まで、雲母か蛋白石か真珠貝の如く化粧された壁がある。無数の光がゆらめき瞬いている。それでいて滑らかな苔のようである。何刻そうして座っていたか、数千回目の瞬きで背後を振り返ると、卓の上の水槽が空だった。畳の上にも子は居なかった。
驚いて何故だか再び庭のほうに目を遣ると、壁の前に幼い子が立って居た。耳の下までの髪は、妻が切り揃えてやった柔らかな黒である。そして背中に、豊かな翼が在った。細く白い羽毛が、万と重なっている。自分は、子が生まれた日に降った雪を思い出した。純白とは、この翼の色の事を指していることばであった。その羽毛の隙間から、瞬くたび色を変える光が覗いていた。
その日、子を安寿と名づけた。
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