帰る場所

蒼開襟

第1話


磨かれた革靴に視線を落としてアスファルトを歩く。

岡田ハガネはポケットに手を突っ込むと手に当たったジッポライターを取り出した。カチッと蓋を開けると火をつける。

少し蒼い炎を眺めて蓋を閉めるとまたポケットに突っ込んだ。

古い町並みに商店街の看板が見える。橋のようにかけられた看板をくぐって道なりに行くと商店街の終わりに一軒だけ開いている煙草屋がある。

煙草屋は津場砂と書いてツバサと読む。津場砂竹千代という老婆が一人で店をやっている。ハガネの産まれる前からある店で彼女は亡くなった母の友人でもある。ポケットのジッポライターの元の持ち主だ。


ゆっくりと津場砂へ向かう。昔ながらの店構えでショーケースには今は懐かしい紙煙草、電子煙草が並んでいる。店の前には小さなベンチが置かれていて竹千代はそこで紙煙草をふかしていた。

『アイリスか。』

ハガネを見るなり竹千代は眉を少しだけ上げて笑う。七十を超える老婆のわりに随分と若く見えるのは人種のせいらしい。

『こんにちは、竹千代さん。』

ハガネは軽く会釈すると竹千代は指先で煙草の灰を落とした。

『昨日約束したろう?覚えてるかい?』

『え?ああ、はい。』

そうだ、昨日散歩の途中で寄ったときに竹千代が焼き菓子を用意しておくと話していた。世間話程度で考えていたから軽く流していたが本当に守ってくれたらしい。

『なんだ、期待してなかったのかい?小さい頃はもっと喜んでくれたのになあ。』

『いえ、そんな。無理にとかではなかったですか?』

『アハハ、そんなことはない。アイリスは気にしいだな。』

竹千代は煙草を銜えると店の隣の路地を指さした。

『ウチ分かるだろ?裏から入って。私も後で行く。』

『それなら待ってますよ。・・・一緒に。』ハガネが言い終わる前に竹千代が顎をしゃくって視線を前方に飛ばした。その先に遠くを歩く老人が見えた。

『あの爺さんは歩くのが遅い、電子煙草を買いに来るんだ。開けててやらないとな。キッチンの使い方は知っているだろ?お茶を入れておいてくれると助かる。』

『分かりました。』


ハガネは頷いて店の隣の路地を進む。一本道で右に折れると垣根が現れる。そこを道なりに行くと小さな裏口があり、そこを開けるとこじんまりした綺麗な庭に出る。小さな生垣を超えると一軒家の縁側のガラス戸は少しだけ開いており靴を脱ぐと戸を開いて中に入った。

廊下から襖、そこを抜けると畳の客室があり、その向こうにもう一部屋、その向こう側がキッチンだ。小さい頃は縁側から襖を開けて部屋を通り抜けてキッチンへと向かっていた。それが近道だったから。

さすがにそうはいかず廊下をぐるっと回って、キッチンへと歩き出そうとした時、襖の向こうで女の声がした。誰かと話しているようでよくは聞こえない。

竹千代は誰かがいるなんて話はしていなかった。

まさか・・・泥棒?と身をかがめて襖を少しだけ開く。

少し鮮明になった女の声は誰かと話しているようだった。


『いいじゃん、ね?お婆ちゃんいないじゃん。』

『・・・そうだけど。』

どうやら女と男が話しているらしい。

耳を澄ませていると畳を擦る音がした。少しだけ覗き込むと奥のほうでもそもそと人が動いている。視線の先に赤い服が畳の上に投げられた。

細い腕に長い髪が揺れて女の背中が見える。

その向こうから女の体を抱くようにして手が伸び、その肩越しに男の顔がこちらを見た。乱れた髪の奥で視線が合った気がしてハガネは体を隠した。

ドッと心臓が走り顔が紅潮する。ぎゅっと目を閉じると襖の奥で、言い争う声とパチンと何か弾けるような音とバタバタ走る音がして、静かに畳を踏む音が聞こえるとゆっくりと襖が開いた。

襖を開いたのはさっき目が合った男で肌蹴たシャツにジーンズ姿でハガネを見下ろした。

『・・・お客さん?』

ハガネが真っ赤な顔で彼を見上げると男は口元をにこりとした。

『婆さんのお客さん?入って。ごめんね、見苦しいもの見せて。』

男はそう言うと踵を返して部屋の奥へと消えて行く。

どぎまぎしながらハガネは立ち上がり男を追うように部屋の奥へと進む。キッチンにたどり着くと男は流しで頭を洗っていた。


『お邪魔します。』

『・・・うん。』

テーブルにあったタオルを頭に被り、椅子に座って男は小さな溜息をつく。

ハガネはとりあえず薬缶に水を入れて湯を沸かす。焜炉の火を見ながら、男に視線をやると彼はハガネを見つめていた。

『ええと。』

『ああ、ごめんね。俺はヨシノ。藤木ヨシノ。婆さんは俺の母の親族にあたるんだ。あんたは?』

ヨシノは頬杖をつくと頭からかぶったタオルを首にかける。濡れた髪のせいかさっきはよく見えなかった顔がようやく見えた。縁取りの濃い目に黒い瞳、バランスの良い顔だ。少し陽に焼けた体は程よく筋肉がついている。

『僕は岡田ハガネです。竹千代さんは母の友人で・・・小さい頃からの知り合いなんです。』

『そう。ハガネでいい?』

『はい。』

『さっき見たことナイショで。婆さんに言ったら怒られるから。』

『ああ。』

ヨシノは歯を見せて笑うと立ち上がりハガネの傍に寄り添った。ハガネよりも頭一つ分大きな彼は手を伸ばしてハガネの後ろの焜炉の火を止めた。いつの間にか沸騰していたらしく薬缶は湯気を上げていた。

『あ、すいません。気付かなくて。』

『別に。昔は薬缶も沸騰するとピーって音が鳴るんだって婆さんが言ってた。もうないらしいけどね。』


ヨシノはコーヒー缶を取り出すと手際よく準備を始めた。

『今じゃ珍しいみたいだ。こうやって飲み物を用意するのだって。便利になると何でも手間に感じるんだってね。』

『そうですね。ボタン一つで何でもできるから。』

今はロボットが主流で人が手でお茶を入れたり料理をしたりというのは珍しくなっている。竹千代の家にもロボットは存在するが、簡単なことだけがプログラムされていて殆どは彼女が自分で行っている。理由はボケるからだそうだ。

コーヒーに湯を落としながらヨシノは笑う。

『俺さ、この家に来るのは半年ぶりなんだ。ハガネはよく来てんのかな?偶然ってあんまないんだな。今日みたいのはちょっと俺にも都合悪いけどさ。こうやって自分でコーヒー入れたりなんかするのな、俺好きなんだ。うちはもう何かするってのはなくて。』

『うちもそうです。だから僕はここが好きで・・・。』

ハガネが笑うとヨシノは少し驚いた顔をして俯くとはにかむように笑った。

『ああ・・・そっか。』


コーヒーをマグカップに入れてテーブルに運ぶ。二人で席に着くと竹千代が入ってきた。

『お?ヨシノいたのかい。』

『うん。お客さん来るなら教えといてよ。』

ガハハと笑いながら竹千代はオーブンを開く。余熱で暖められたクッキーを取り出すと皿に放り出した。昔ながらの形のいびつなクッキーが山盛りに積まれた皿がハガネの前に置かれた。

『ゆっくりしておいきよ。あたしはまだ店のほうにいる。ヨシノ、あたしは今日は店のほうに泊まるからちゃんと戸締りしておきな。』

『わかった。』

竹千代がまたキッチンを出て行き、二人きりになるとヨシノがクッキーを一つ摘んだ。

『婆さんってさ、不思議な人だよね。』

『・・・確かに、そう。』

ハガネも一つクッキーを摘んだ。


時刻は竹千代の家に来てからもう二時間経っていた。不思議と話が弾んで二度コーヒーをお代わりして、何気ない世間話を繰り返していた。

ハガネはコーヒーがなくなると立ち上がり流しへ持っていく。綺麗に洗うとヨシノが少し残念そうに言った。

『帰っちゃう?』

『え?・・・ああ、そうだね。』

『そっか。』

ヨシノは立ち上がりキッチンの棚を開けるとタッパーを取り出して、そこへ皿の上のクッキーを流し込んだ。蓋をしてハガネへと差し出す。

『はい、おみやげ。』

『で、でも。』

両手を振るハガネに強引にヨシノはタッパーを押し付けた。

『持っていって。そして返しに来て。そしたらもう一度会える。』

『・・・ええと?』

ヨシノはハガネの顔を覗きこむ。その目がなんだか寂しそうでハガネは小さく頷いてタッパーを受け取った。

『うん、わかった。でも・・・返しにくるのはいつかわからないよ?』

『うん。いいよ・・・それでも。』

『それでも?』

タッパーに触れていた手を引いてヨシノは俯いた。

『もう一回、会いたいから。』




岡田商会。リクノビューティという化粧品を展開している。

最近ではコンパクトタイプのパレットで、鏡に顔を映して数秒でメイクを転写するミラージュという商品を発売、ロボットとは違い自分で何かしたいという層に好まれ次も待望されている。

ハガネは岡田商会の長男であるが、長女のメアリが社長に就任している。メアリとは年が離れており、姉という感覚はない。自宅で会うにしてもすれ違う程度であまり話をすることもない。


自宅のリビングのモニターには多くの化粧品メーカーのCMが流れている。

殆どはロボットやカプセルなどのもので、主流になっているのはカプセル型のメイク用品で幾つかのサンプルから好きなものを選んで登録し、カプセルに入るとヘアメイク、フェイスメイク、ネイル、肌の装飾などが出来る。

数分で出来るために人の技術などはもう必要がなくなったが、やはり自分でやってみたいと思う人も少なからずいるらしく、そこをリクノビューティが狙い目にしている。


ハガネはモニターを横目に、自室に戻るとテーブルの上の空のタッパーを見る。あれから少し忙しくしていたためにほったらかしにされていた。返却の必要がある。

スケジュールを確認してから鞄にタッパーを入れて玄関へ向かう。丁度玄関先で車から降りてくるメアリとかち合った。

『アイリス、出かけるの?』

すらりとした体に美しいドレスのようなスーツを見に纏っている。異国人の母に似た顔に父譲りの美しい漆黒の髪が巻き毛で彼女の動きに合わせて揺れている。

『ええ。』

ハガネは彼女の隣を行くとその腕を掴まれた。

『たまには目を合わせて話してくれてもいいんじゃない?子供の頃はそうしてくれたでしょ?』

白い指先は薔薇色のネイルが毒々しい。大きな装飾の指輪がキラキラと光っている。

ハガネはいやいや顔を上げるとメアリを見下ろした。

『・・・急ぎます。すいません、お姉さん。』

メアリの指をはがしてハガネは振り返らず歩いていく。黒光りする車を通り過ぎ海の方角へ歩き出した。


この家は好きじゃない。ぐっと歯を食いしばってポケットに両手を突っ込んだ。いつの間にか綺麗に磨かれた革靴に舌打ちして煉瓦の道を歩いていく。

潮風が頬を撫でる頃には少し気分も落ち着いてきて、商店街に入ると津場砂を目指す。煙草屋に着くと竹千代の姿はなく店は休みの札が上がっていた。

店の中をガラス越しに確認してから路地に入る。裏から竹千代の家へと入ると縁側から声をかけた。

『こんにちは。竹千代さん?』

縁側のガラス戸は開いているが返答はない。もう一度声をかけると畳の上を走る音がして襖が開いた。顔を出したのはヨシノだ。


『やっぱり。よかった・・・ごめん、婆さんいなくて。』

くしゃくしゃの髪に服が少し乱れている。

『寝てた?ごめんね。』

『いや、それはいいんだけど。婆さんギックリやっちゃって病院行ってる。今日は大事とって入院するみたい。』

『え?大丈夫なの?』

『うん、大丈夫。俺がやるって言ったのに聞かなくて・・・自分で棚を動かして・・・。』

『そっか。』

ハガネは鞄からタッパーを取り出すとヨシノに差し出した。

『あ、これ。返却する。遅くなってごめんね。』

『ああ・・・そっか。』

タッパーを受け取ってヨシノは唇を噛む。

『どうかした?』

『あ・・・ううん、そうだよなって思って。』

『うん?』

ヨシノは顔を上げるとハガネの手を掴んだ。

『・・・時間あるなら少し話さない?もしよければだけど・・・。』

彼の手が震えている気がしてハガネは頷いた。

『いいよ。一人じゃ不安だよね?』

『うん?・・・ああ、うん。』


二人してまたキッチンへ行き、この間のようにお湯を沸かす。手際よくコーヒーを入れて席に着くとヨシノが大きな溜息をついた。

『あのさ・・・ごめん。なんか誤解してるんなら先に謝っておく。』

『何が?』

『婆さんが心配なのはそうなんだけど・・・俺、ハガネに会いたかったんだ。だから、こうやってお茶に誘ったんだけど・・・。』

『ああ、そうなの?・・・うん、僕も会いたいなって思ってたから。』

ハガネはコーヒーを口にすると視線を上げた。ヨシノはなんとも言えない嬉しそうな顔をして唇を結んだ。

『・・・うん。そっか・・・よかった。』

その顔がなんだか嬉しくてハガネも微笑む。

『うん、僕も・・・良かった。』

それから二人会えなかった時間分の世間話をしてコーヒーをお代わりする。

時間が経つのが早い。ハガネとヨシノは年がそんなに離れていないけど、お互いの生活や育った環境が違うせいで耳にする話は新鮮だった。


ハガネはマグカップを持って立ち上がると流しでそれを綺麗に洗う。ヨシノは黙って傍に来ると後ろからハガネの抱くようにして肩に顎を置いた。

ハガネは少し驚きながらも手を拭いて顔を上げる。

『どうしたの?』

『ごめん・・・なんかさ。』

ヨシノの声が震えている。ハガネは片手でヨシノの頭をわしわしと撫でた。

『大丈夫。どうしたの?』

『うん・・・俺さ。好きになったみたいだ。』

『何が?』

ヨシノは両手でハガネの体を抱きしめた。

『ずっとさ・・・俺は女の子と付き合ってた。女の子って柔らかいし気持ちいい。でも心がときめくってのは一度もなかった。』

『うん。・・・ああ、誰か好きな人ができたとか?』

『そうじゃなくて・・・。』

ヨシノはハガネの体をくるりと自分と向き合わせるとその目を覗き込む。

『気持ち悪いかな・・・。気持ち悪いよね。男だし、俺。』

額が触れそうな距離でヨシノが呟く。

『あんたが好きだよ、俺。』

ハガネは固まったまま、でもヨシノのまっすぐな瞳に気分は悪くなかった。ただどう受け止めていいのかわからず言葉を捜す。

『答えが欲しいとかじゃないんだ。ただ・・・伝えたくて。俺、こんな風に好きだって、会いたいって思ったのは初めてで・・・だから。知っていてほしくて。』

ヨシノの顔が赤く染まる。目をぎゅっと瞑っていた。ハガネは微笑むと頷いた。

『うん、わかった。』




あれから一週間、ハガネはヨシノには会っていない。仕事が忙しくて会えなかったが正しいが、自宅に缶詰状態でリビングでの会議に付き合わされていた。姉のメアリの隣に座り書類を確認し、その都度渡す。普段はロボットにやらせているこれを何故か急にハガネを指名してきた。独占欲が強いメアリの悪い癖が出ていた。小さい頃はよく見たが大人になってからは久しぶりだろう。

会議が終わりソファに座り込むメアリは、ハガネが自室に戻ろうとすると毎回部屋へと運べと催促する。

『ねえ、お願い。』と甘ったるい声色でハガネに手を伸ばすが、自分とさほど変わらない体重の女性を運べるほど筋力があるわけじゃない。

『ロボットを呼びましたよ、ほら乗ってください。』

メアリの手を引いてロボットの上に乗せると不愉快そうに目を吊り上げた。

『アイリスに運んで欲しいのよ。ダーリンはいないし、運んでくれてもいいじゃない。』


メアリの夫は今海外出張中だ。宇宙開発のプログラムに参加しているらしく一年ほどはとんと顔も見ていない。彼女は逐一会っているらしいが。

『無理ですよ、運べる力はありません。それから・・・僕はリクノではもう仕事はしません。他に声をかけてもらっていますから。』

ハガネが通っていた大学の教授から研究に参加しないかと誘いを受けていた。

連絡を受けたのがメアリのため彼女は眉をひそめる。

『いやだ。あんな仕事をするの?大学なんて今や生徒はいないじゃないの。皆家から出ることなんてないし。』

メアリの言うとおり学生たちは家でモニターを通して勉強をする。学校へ足を運ぶものなど殆どいない。

『研究は家ではできないこともあるんですよ。』

メアリは自分が認めないものは全てくだらない仕事だと思い込んでいる。いつからか愚かな思想に染まってしまったようだ。


ハガネはメアリの声を無視して自室へ戻ろうとすると彼女が笑った。

『ねえ、アイリス。覚えてる?小さい頃のこと。あなたはあんなに可愛かった。』

彼女の声を振り払って階段を上がると部屋に入った。

ぐっと口元を抑えると胸元まで上がってきたものを必死に飲み込んだ。

階下ではメアリが歌っている。小さい頃によく聞いた歌声だ。ドアを閉めれば聴こえないはずなのに、耳には幻聴が響いている。

ハガネはドアにもたれたまま、そのままずるずると座り込む。


小さな頃、まだ母が存命だった頃。ハガネはよくメアリと遊んでいた。10個上の姉は大人びていて、教えてもらうことは素直に飲み込んだ。

ある日、メアリはお人形遊びからハガネを人形として遊ぶことにした。

着替えをさせられ化粧をされる。じっとしている、話さない人形として振舞うことを強要されてハガネは黙っていた。

それからは断片的にしか覚えていない。痛い、怖い、悲しい、そんな感情が傷みと一緒に繰り返されて泣きながら、仕事から帰った母の胸に飛び込んだ。

その後も同じで、それが虐待だと気付いた頃にはハガネは動けなくなっていた。今でこそメアリの言葉を拒否できるようになったが、学生の頃は名前を呼ばれるたびに体が凍って動けなくなっていた。

メアリとの事もあって他人との交際もうまく行かず、母が死んでしまってからは逃げる場所すらなくなっていた。

うっと咳き込んでハガネは自室のトイレに駆け込むと、喉元まで来ていたものを吐き出した。今は何もなくなったものの、こうして心理的な影響が体を蝕んでいる。

洗面所で顔を洗ってフラフラとベットに倒れこむ。

ふとヨシノの顔が浮かんで、ハガネは枕を抱きしめるとそのまま気を失った。





幼生国立病院。ギックリ腰で入院していた竹千代が退院する日、ヨシノは病室に顔を出した。ベットの上でピンピンしている竹千代が手を上げた。

『お、ヨシノじゃないか。きてくれたのか?』

『うん。入院が長引いてびっくりしちゃったよ。』

ガハハと竹千代が笑う。ギックリはすぐに治っていたものの、病院を出た先で運悪く自動運転タクシーに轢かれ、軽症だったもののタクシーが病院専用だったこともあり、ほぼVIP扱いで入院させられていたのだ。


『一人で帰れるもんだけどね?』

『まあ、そうだろうけど。病院から連絡があったんだよ。事故があったから不安なんでしょ?』

竹千代は微妙な顔をして笑うとヨシノの顔を見て眉をしかめた。

『うん?何かあったか?』

『え?』

『あんたの母さんも同じような顔してた時があった。あんたの父さんと会った頃かなあ・・・。うん?恋でもしたか?』

『ああ・・・うん。』

病室を出て医療者に見送られ自動運転タクシーに乗り込む。すうっと音もなく走り出すと竹千代は隣に座るヨシノの背を叩いた。

『聞いてやる。なんだ?』

ヨシノは大きく息を吐くと竹千代の顔を見た。


『なあ・・・婆さんはハガネのことどう思う?』

『ハガネ?・・・ああ、アイリスか。どうした?友達にでもなったか?』

『・・・うん。』

『アイリスのことを聞きたいのか?』

竹千代の言葉にヨシノはこくりと頷いた。

『・・・ふうん。まあいいか。アイリスはいい子だよ。お前もそこが好きになったんじゃないのか?』

『なあ、婆さんは・・・俺の事、変だと思う?』

竹千代は少し黙るとうんと小さく唸ってから腕を組んだ。

『いいんじゃないか?今の時代はなんでもありだ。お前が選んだのならそれでいい。それにアイリスなら問題なんてないさ。』

『なあ・・・なんでアイリス?』

『ああ、アイリスはハガネの子供の頃の名前だ。母親がつけていた名前。母親が異人でな、ほら・・・容姿がああだろ?』

『ああ、うん。』


初めて会った時、光りに照らされたハガネは宗教画で見るような綺麗な人に見えた。柔らかそうな髪に白い肌、少し淡い色の瞳が印象的で。

『母親も大層綺麗な人でな。あたしの友人だったんだ、息抜きにあたしの店に来ては遊んでたよ。アイリスは・・・ちょっと色々あってね、母親も心配してたがポクっと逝っちまって・・・あの子の家にまでは乗り込んではいけないからアイリスに何かしてやるのは難しかったんだ。だから今もこうしてあの子が来るたびに受け入れてる。』

『何か・・・って?』

竹千代は首を振る。

『それは本人が言うべき話だ。ただ・・・お前がアイリスを好きなら、大切にしてやれ。時々寂しそうに笑うからな。』

『・・・うん。』

ヨシノが少し思い悩んだように俯くと、竹千代がその頭をくしゃくしゃとかき回した。

『しっかりしろ。お前の母さんはもっと強気だったぞ。』

『強気って言われても・・・。』

ヨシノの思い出の中にいる母はそんなに多くはない。父も先に他界してしまったから、そもそもなれ初めなんて知らない。竹千代に聞いてもいいんだろうが、そこまで興味も持てないし。

『まあいい。お前がすべきはしっかりすることだよ。』

竹千代はもう一度ヨシノの頭をわしわしとかき回した。



煙草屋津場砂、店のガラス戸を開けて商品を整える。右手にあるロボットを起動させて営業開始をさせるとヨシノは小さく息を吐いた。

煙草屋は竹千代の道楽だ。この時代に煙草を好んで吸う奴なんて殆どいやしない。

昨日、竹千代が店に立つと聞かないので、今日は大事をとってヨシノが変わったのだ。といっても座ってばかりで何かをするわけじゃない。

殆どの店は形ばかりで店番ロボットが居れば成り立つ。特に人が何かする必要はない。閑古鳥が鳴く店先のベンチで、竹千代が煙草をふかしていても問題はないのだ。

あ、と思い出して祖母専用の引き出しを開ける。小さな道具箱を取り出すとヨシノは手際よく紙巻煙草を作る。

『どうせ暇ならあたしの煙草を作っておけ。』という命令だ。どっちみち彼女は自宅のほうでお菓子を作っていることだろう。それも道楽の一つらしい。

幾つか煙草を作って専用の箱に収めると綺麗に片付けた。


視線を上げると昔ながらの時計が秒針を刻んでいる。もう昼だ。

ヨシノはいつも竹千代が座っている表のベンチに移動すると、うんと背伸びをした。シティは当分は快晴らしく人工雨の予報もない。ベンチに座ると足を投げ出した。

見上げた空に人工太陽が光っている。青空には不似合いなオレンジで本物の太陽もあるらしいけど観測するのは難しいらしい。


ふうと溜息をついて遠く視線を投げる。その先に見えた人影にヨシノは立ち上がった。

優しい風に吹かれて遠くからゆっくりとハガネが歩いてくる。髪がキラキラ光って時々邪魔なのか手で押さえてを繰り返す。ポケットに両手を突っ込み歩いてくる姿が嬉しくて声をかけようか考えたが、逸る気持ちを抑えてベンチに座った。姿が見えただけで気持ちがこんなにも嬉しくなるなんて。一刻も早く声を聞きたいと思うなんて。


それでもハガネがこのまま津場砂に向かってくるかはわからない。用事なんてないかも知れないし、ましてヨシノに会いたいと思っているとは限らない。

声をかけたほうがいいだろうか?少し手前の道で曲がって行ってしまったら・・・。悩んでいる間にハガネとの距離は近づいてくる。顔を上げるとハガネはこちらを向いて手を振った。それだけなのに心臓が爆発しそうだった。

『こんにちは。』

ハガネはすぐ傍まで来てにこりと笑った。

『うん、こんにちは。・・・今日は散歩?』

『そう。仕事がめんどくさくて逃げ出してきた。竹千代さんは?』

『ああ、うん。婆さんなら平気。今日は大事をとって休ませてる。』

ベンチの隣に促すとハガネはヨシノの隣に座った。

『そっか。良かった。』

ハガネが笑うのを横目で見ながら、彼の顔色が悪いことに気付いてヨシノは顔を覗きこむ。

『あれ?どうした?なんかあった?』

『え?』

『なんか・・・具合悪そうに見えるけど。』

『・・・そんな・・・ことはないよ。大丈夫。・・・もしかして心配してる?』

ハガネの言葉にかぶせるようにヨシノは声を荒げた。

『心配する!・・・ごめん、大きな声出した。』

大きな目を見開いてハガネがヨシノを見る。そして可笑しそうに微笑んだ。

『うん。ありがとう。本当に大丈夫だよ。』

『そっか。』

心配している自分もいる、けど微笑むハガネが愛しくてヨシノは目を逸らした。

『あのね・・・僕は。』

ぽつりぽつりとハガネが話し出す。

『君に会いたくなったんだ。』

優しいハガネの声にヨシノは泣き出しそうな気持ちで彼を見た。ハガネはただ嬉しそうに微笑んでいた。




『こっち。』

ハガネの手を引いてヨシノは自室に入る。竹千代に断って店を閉めると、二人だけで話をしたくてハガネの手を掴んでしまった。彼は怒ることなく小さく頷いておとなしく付いてくる。

ヨシノの自室は竹千代の自宅二階にある。階段を上がって廊下越しに二部屋あり、手前を寝室、奥のもう一つを趣味の部屋にしていた。

ドアを開いて窓際に立つとカーテンを開く。この部屋の電気は壁際の小さな照明だけ。

ヨシノの後からハガネが部屋に入ると彼はぐるりと見渡した。

『本が沢山あるね。・・・沢山絵もあるね。』

『うん。本は母さん・・・えっと亡くなった母の遺品でもある。俺も読むんだけどね、母の本は難しいんだ。』

『そっか。大切なものだね。』


ハガネは窓際の明るい場所に立つと窓に手をかけた。

『開けてもいい?』

ヨシノが頷くとハガネは窓を開けた。ふわりと風が入ってくる。風に吹かれながらハガネは窓に背を向けてヨシノに向き合った。

『少し・・・話をしてもいい?』

『うん。』

ヨシノは本棚の前の椅子に座る。目の前にいるハガネは後光が射したように綺麗に見えた。

『・・・ここのところ仕事が忙しくて、散歩もできなくてね。外に出たくなったんだ。フラって歩き出したら津場砂が浮かんで・・・来てしまってた。』

『うん。』

『来る間・・・君が僕を好きだって言ってくれてたのを思い出してた。』

ヨシノは言葉に出さず頷くとハガネは首を傾けて微笑む。


『僕は・・・誰かに好きなんて言われるのは初めてだった。ずっと自分は嫌われ者だと思ってたし、誰かが自分に会いたいなんて思わないって思ってた。だから人と関わるのは避けてたんだ・・・って言っても今はそんなに人と会うってことも少なくなってしまったんだけどね。津場砂に来たら竹千代さんに会える。そして君、ヨシノもいる。初めて会った時・・・驚いたけど、少し話が出来て嬉しかったんだ。』

『うっ・・・。』

あの日のことを思い出して、ヨシノは両手で頭を抱えてうな垂れた。

『ごめん・・・あの日は本当に。』

『いいよ、別に。あの子とはもう?』

うん、と頷いて右手で頬に触れた。あの日、服をかき集めた彼女は真っ赤な顔で目を吊り上げて片手を振上げるとヨシノの頬に叩きつけ、さよならと告げると二度と会うことはなくなった。


『・・・あれ以来さっぱり。』

『悪いことしたね。ごめんね・・・』

『違うから。・・・っていうか、本当に気にしないで。もうああいうことないから。・・・って、違うか。』

ハガネの言葉を遮って被せるように言い訳をする。ヨシノはああ、と片手で額を押さえた。

『ごめん。俺・・・なんか余裕ないんだ。』

『・・・そっか。分かった。』

ハガネは怒るでもなく呆れるでもなくただ微笑む。なんでこんなに優しいんだろう?ヨシノはそんな風に思うと胸がぎゅっとした。

『・・・まだ、自分の気持ちがよく分からないんだけど。』

『うん?』

『僕は君と一緒にいるのが好きだと思う。リラックスできるし・・・触れられても嫌な感じがないから。』

『それって・・・。』

ハガネは首を横に振る。

『・・ううん、まだよくわからない。だから・・・それでもいいかな?まだ僕も自分のことよくわからない。それでも君の傍にいてもいいかな?もっと話して、もっと触れてみたい。そんな風なのは駄目かな?』

凛としたハガネの瞳がヨシノに注がれている。告白のように聴こえた言葉が嘘みたいでヨシノの心臓は大きく音を立てていた。

『・・・も、勿論。』

顔を見るだけで、好きが口から零れそうになる。

『・・・と、友達ってこと?』

そう言って少し後悔した。もし彼がそうだと言えば、この気持ちの行き場はなくなってしまうから。ヨシノはちらりとハガネを見る。ハガネはまた首を横に振った。




岡田家。シティの高級住宅街にある。周りは大体金持ち連中で、セキュリティに関しては恐ろしいほどにしっかりしている。だからこの辺りでは人の出入りは多いが外を歩いている姿を見ることはない。

セレスマンションと書かれた札の建物は三階建てで、それぞれがワンフロアとなっている。全て岡田の持ち物だ。


入り口のロボットが識別するとドアが開く。ハガネは玄関を抜けると、リビングでコートを脱いでいる姉メアリと目が合った。

『あら、仕事を放り出してどこへ行ってたのかしら。』

『・・・すいません。』

隣を通り過ぎようとするハガネの腕を掴んで、メアリは顔を覗きこむ。

『アイリス、今夜は一緒に食事をしましょう。ダーリンが帰ってるの。いいわね?』

ハガネは眉をひそめると彼女を見下ろした。

『お二人でしたほうがいいのでは?僕は邪魔になります。』

『いいのよ。ダーリンからの指名だから。私だって邪魔者なんて欲しくないわ。でもアイリスがいたほうがいいみたいなの。いいわね?』

『はい。』

ハガネはメアリの手を解くと階段を上がっていった。


メアリの夫・ダーリンが自分に何の用があるのだろう?彼女が結婚してから幾らか話をした程度で親しくもない。面白い人ではあるが。

夕食の時間になり食堂に向かうとメアリとダーリンが二人寄り添っていた。見る限り仲睦まじい夫婦で何の害意もない。ダーリンはハガネを見ると歯を見せて笑った。

『悪かったね。夫婦で色々話合ったことを君にも聞いてほしくてね。』

『はい。』

ハガネが席に着くと夕食が始まった。テーブルにはメアリが好きそうなメニューが運ばれてくる。それに手をつけながらダーリンが話し出した。

仕事の話から始まり、夫婦のこれから、そしてハガネの話に移った。


『アイリス、君のことはメアリから聞いている。色々とね・・・それで私としては君に結婚を勧めたい。そうすればリクノで働く必要もないし、どうだろう。今度、君のために内輪でパーティを開こうと思う。そこには私が招待した人が沢山来る。婚約者候補ともいえるだろうか。』

ハガネが黙っていると声を荒げたのはメアリだった。

『待ってよ!ダーリン。それじゃあアイリスの意思なんてないじゃない。』

『勿論決めるのは彼だ。誰を選ぼうとも。ほら、時間だよ、連絡をしないといけないんだろう?しておいで。』

メアリが腕にしていた通信機を見るとダーリンに口づける。

『もう・・・分かった。この話はまた後で。』

食堂をメアリが出て行くとダーリンは大きな溜息をついた。

『悪かったね、失礼なことを言った。』

『はい?』

『この間メアリが酔って色々話してくれてね。君のことも・・・君にしたことも。彼女は酔いすぎて覚えていないから、それぞれ調べたんだ。』

ダーリンは両手を組むと顎にあてる。甘いマスクではないが端整な顔立ちでマッチョと言える体に白いシャツがよく似合っている。人当たりが良いのは仕事柄なんだろう。

『・・・そう、ですか。』


メアリや自分のことなどは、いずれバレてしまうだろうと考えていたから、特には気になることはなかった。ただ思い出したくないだけで。

『アイリス、君はメアリと離れたほうがいいだろう。結婚と言うのは急な話だが、彼女が納得する唯一の方法だとは思う。傍にいればまた君を・・・。私は出来ればそれを避けたいと思っているんだ。』

『そう・・・ですね。』

『勿論、君に好きな人がいるならその人と一緒になるのがいいんだと思う。パーティはまだ少し先になるから考えておいて欲しい。それと・・・。』

ハガネが顔を上げるとダーリンは微笑む。

『困ったことがあるなら相談して欲しい。私は君の味方だから。』

ハガネが返答しようとした時、食堂にメアリが戻ってきた。プリプリと怒りダーリンの膝に座り文句を言っている。ハガネはテーブルのワインを飲み干すと食事を終わらせて席を立った。



深夜、自室のドアを叩く音がしてハガネは返事をした。ノックの主はダーリンで彼は部屋に入ると入り口近くのソファに腰かける。

『夜分遅くに悪いね。』

『いえ。』

ハガネも彼の前に座り向き合うとダーリンは足を組んだ。

『うん、やっとメアリが眠ったから。さっきは言いっぱなしになっていたから君の話も聞けたらいいと思ったんだ。必要なかったかい?』

『いいえ・・・あの。』

『何かな?』

『僕たちのこと調べたというのは・・・その、チャイルドシステムにアクセスを?』

『うん。メンテナンスのときにね。』


チャイルドシステムはいわゆる子供たちを監視するシステムだ。何か会った時に警察や軍に提出される。個々で管理はされているものの、アクセス権は所有者にもある。削除などは許可されてはいないが、事件が明るみに出ないと秘密は保持される。

ダーリンはメアリと結婚した際に家の共同所有者となったため確認ができたのだ。

『膨大な量だった。君には話しておいたほうがいいのかわからないが・・・メアリも同じだった。』

『お姉さんですか?』

『そう。彼女は君たちのご両親を憎んでいる、それは君も知っているだろう?どうしてかはどれだけ酔っても話さなかった。それでもいいと思ってはいたんだが、メアリの口から君のことが出てきて確認する必要があると思った。人の秘密を探るなんてあってはいけないことだけど・・・それがわかった。』


ダーリンはソファに頬杖をつく。彼はゆっくり話し始めた。

メアリがまだ小さい頃だ。リクノビューティが波に乗り母親が家を空けることが多くなる。父親は彼女を献身的に支え娘の面倒を見ていた。

ある日、母親が家に帰ると娘が泣きついて、ただひたすら嫌だと泣いた。

話を聞くと人形遊びは嫌だと泣く。娘に父親が何かしたことに気付いた母親は彼と話し合いをする。全ては誤解だという話に収まりそれから何年かして息子が産まれる。


母親は子供に付きっきりで娘が癇癪を起こすことはなくなっていた。会社は父親が代わりを勤め軌道に乗った頃だ。息子は五歳になっており母親はまた仕事に戻ったが心労が祟って死んでしまった。

十五歳になった娘は母親の死に悲しみながらも、また部屋に入ってきた父親の姿に凍りつく。それから父親は社長となり会社を回し始め、小さな弟の面倒を娘は見始める。母親に似た弟を前に娘は人形遊びをする。二人の遊びは彼が思春期を迎えるまで続いていた。


ダーリンは目の前のハガネの様子を伺いながら真っ青な顔で話し終える。

ハガネは喉元まで上がってきたものに口を抑えるとトイレに駆け込んだ。ひとしきり吐いて洗面所で口と顔を洗うとまた席につく。

『すいません・・・。』

『いや、仕方ない。悪かったね。思い出したくないことだろう。』

『・・・いえ。見たのなら・・・そうですか。全部・・・。』

ハガネの顔が青くぐったりとソファにもたれこむ。

『大丈夫かい?』

『すいません。大丈夫です。』

『メアリも同じく被害者だ。けれどもう加害者でもある。』

黙り込んだハガネにダーリンはじっと視線を向けた。


『このままだと彼女は狂ってしまうだろう、君も。・・・私はお父様がなくなったときに変だなとは思ったんだ。出来れば君がリクノビューティを継いで、メアリを連れて宇宙開発の仕事に行けたらいいんだが。君は継がないのだろう?』

『ええ。僕は・・・あまり興味がなくて。できればひっそりと暮らしたいと思っているので。』

『うん。そうだね、リクノビューティがあそこまで大きくなれたのは彼女のやり方が正解だったんだろう。表舞台に立ち人々を啓蒙し先導する。彼女の性格にも会っているし、ああして表舞台にいてくれたからこそ、私も出会うことができ結ばれることができた。』

『そう・・・ですね。僕はお姉さんとあなたが結婚した時嬉しかったですよ。』

ダーリンはにっこりと笑う。

『覚えている。結婚式の時、君は嬉しそうに笑っていた。私も嬉しかった。アイリス・・・次は君が幸せになる番なんだ。けれどメアリの傍にいれば、君はいつまでも足かせをつけられたままじゃないのか?』


ハガネは俯き瞼を落とした。

小さな頃、姉はハガネが泣くと自分も泣き始め、『ごめんなさい、私あなたを大切に思っているのに。どうしてこんな酷いことしちゃうんだろう。どうして。ごめんなさい。ごめんなさい。』

そう懇願していた。

彼女がハガネに酷いことをし続けた理由は一つ。母に似ているからだ。

ダーリンの話から確信に変わったことは、姉は父から助けてくれなかった母を憎んでいた。ぬくぬくと幸せに育てられた弟のハガネに嫉妬し、憎んでいたんだろう。死んでしまった母に果たせない憎しみを、まだ幼い自分に向けた。

そして父がしたようにそれをやってのけた。

ハガネは小さな咳をして小さく息を吐く。

『・・・わかってはいるんです。』

泣きながら懇願する姉の姿は悲しくて、自分がされたことよりも大きく感じられていた。それが悲しくて切なくて、あの時の小さなハガネには理解しきれなかった。




ハッと暗闇の中でハガネは目を覚ます。見知らぬ天井にそういえばと体を起こすと自分がベットで寝ていたことに気がついた。

いつ眠ってしまったんだろう?暗闇の中、少し目が慣れてきたので周りを見る。ここはヨシノの部屋だ。映画のポスターが壁にかけられている。

部屋に案内された時、彼は色んな話をしていたが浮かれているようでハガネの返事すら聞こえていなかった。


ハガネは顔を押さえて俯いた。

メアリの夫ダーリンと話したのは数日前のことだ。夢で見るほどに鮮明だ。

あの後ダーリンはハガネに釘を刺した。

ソファでぐったりとしていたハガネを残し、ダーリンは立ち上がるとドアのぶに手をかけた。そして振り向き冷たい声で言った。

『アイリス。私は君の味方だ。今は・・・。けれどどうか妻には触れないでくれ。どんな事情があろうとも君が妻に触れた時、私は・・・君を殺したくなるだろう。』

ダーリンの瞳が冷たく光っている。彼が本気だということがよく分かった。

それはハガネの意思でなくともそうなるということだ。


ハガネは大きく溜息をつくと足元にかかっていた毛布を引き寄せる。ふわりとヨシノの匂いがして胸の奥がじんと痛んだ。

久しぶりに竹千代の家にやってきてヨシノに促されて泊まる事になった。

客室で雑魚寝でもいいと言ったのに、それは駄目だとヨシノに叱られ、ハガネはヨシノのベットで、ヨシノは隣の部屋で眠っている。

そういえば隣の部屋にはベットなんてなかったがどうしているんだろう。

静かに部屋を出ると廊下に出た。廊下の窓から月明かりが覗いている。ハガネはゆっくりと隣のドアを開くと中を覗きこんだ。


部屋の中は小さな照明がついている。部屋の中央で猫のように丸まって眠るヨシノを見つけて、ハガネは傍にしゃがみこんだ。部屋が冷えるのか両手を巻きつけている。

そっと眠るヨシノの髪に指を触れさせた。さらりとした感触で少し冷たい。頬に触れると柔らかく暖かかった。指が触れたことでヨシノの睫毛が揺れた。

眠りから覚めたようにその瞳が開くとこちらを向いた。

『ハガネ?』

かすれた声でヨシノが微笑む。優しい声にハガネは頷いた。

きっとまだ寝ぼけている。夢だと思っているんだろうか?そう思えると可愛くてもう一度頷いた。


『何?』

ヨシノは両手でハガネの顔に触れるとそっと引き寄せた。胸に抱かれてハガネはヨシノの心臓の音を聞く。規則正しい音、ゆっくりと呼吸して上下する体に体重はかけないようにしてもたれた。

『ハガネ・・・会いたかったんだ。ずっと。』

『うん。』

『どこに行ってた?探したんだ。』

夢でも見ているのか唐突な言葉に笑みがこぼれてしまう。

『ごめんね。』

両手で押し戻されるように体を起こされる。ハガネが顔を上げるとヨシノの手が首元を掴んで顔が近づいた。触れる唇に息が漏れる。

『好きだ。ハガネも俺が好きだよね?』

夢見心地の瞳にハガネは頷く。

『・・・好きだよ。君が。』

ヨシノは幸せそうに笑うとハガネを抱き寄せてまた目を閉じた。すうすうと寝息を立てて夢に落ちていったようだ。ハガネはヨシノの胸で目を閉じる。


彼が完全に眠るのを待って、ハガネは体を離すと一度寝室に戻り、端に丸められていた掛け布団を取る。ヨシノの上にかけるとそっと髪に口付けた。

『おやすみ。』

ドアを静かに閉めて寝室に戻る。ベットに座ると毛布を引き寄せた。くんとヨシノの匂いがして、急に顔が火照るのがわかった。

口から出たでまかせだったのか?『好きだよ、君が。』その言葉が頭の中で繰り返される。今になって体の中に落ちてくる言葉がやけに馴染んでいる。

夢見心地は自分なのかも知れないと・・・なんだかわからない涙が溢れて仕方なかった。




背中が冷たいのに体は温かい。ぐんと腕を伸ばして体を起こすとヨシノは目を覚ました。今までで一番幸せな夢を見た気がする。

昨日からハガネがこの家に泊まってはいるが、夢の中で恋人として現れるなんて思いもしなかった。大きな欠伸をして体の上の布団に気付く。

そういえば布団なんて被っていたろうか?まあ、いいかと部屋を出ると階段を降りる。洗面所で顔を洗ってからキッチンへ行くと竹千代とハガネがいた。


テーブルには軽い朝食が置かれて、ハガネはコーヒーを飲んでいる。ヨシノに気付くと優しく微笑み頷いてからまたカップに口をつけた。

『おはよう、ヨシノ早いじゃないか。』

『婆さん、ハガネもおはよう。』

竹千代はトーストを焼くと皿に乗せてテーブルに置いた。

『あたしは今から店に出る。食べるならどうぞ。』

キッチンから竹千代が出て行き、ヨシノは席につく。テーブルの上のコーヒーをマグカップに注いで、トーストにジャムを塗るとかじりついた。

『昨日はありがとう。よく眠れた。』

ハガネは囁くように話す。トーストを飲み込んでコーヒーを口にする。

『あ・・・そっか、良かった。』

あんな夢を見たせいだろうか?ハガネの顔がまっすぐに見られなくてなんだか恥ずかしい気がしている。夢なのに。

まだ湯気の上がる熱いコーヒーを口に流し込む。うっと熱さに唸るとハガネが眉をひそめた。


『大丈夫?』

『・・・うん、ちょっと火傷したかも。』

『口の中は、時々なるね。』

フフと笑い、テーブルの真ん中の皿に手を伸ばして焼き菓子を一つ摘むとハガネは口の中に放り込んだ。

『僕は朝はあまり食べなくて・・・でも竹千代さん、朝から色々作ってくれたんだ。』

『そっか・・・。婆さんはハガネが好きだからね。』

ぺろりと指先を舐めるとハガネはヨシノを見て笑った。

『そうだといいな。』

『そうだよ。』

ハガネはさっき取ったお菓子を一つまた指先で摘んでヨシノの前に差し出す。

『美味しいよ?』

ヨシノが固まるとハガネはククっと笑って自分の口に放り込んだ。

『ごめん、意地悪した。今朝はすごく気分が良い。君のおかげ。』

おかげって・・・でもなんだか打ち解けた微笑に夢も重なって幸せな気分になる。


二人で会話をしながら軽い朝食を済ませると片づけをした。テーブルを拭き終えて布巾を綺麗に洗い、キッチンの端に干すとハガネは振り返った。

『じゃあ、僕は帰るね。』

『もう・・・?』

『うん。』

身支度を整えて玄関へ向かうハガネを追いかけて、靴を履いている彼の背中をヨシノは見つめた。

帰ってしまう・・・か。さよならじゃなく違う言葉で送り出したいなんて考えているとハガネはドアを開けて振り返る。

『じゃあまた。僕のためにベットを貸してくれてありがとう。昨日、君とキスが出来てよかった。またね。』

カチャンとドアが閉まって靴音が響いて消えて行った。

ヨシノは足元から力が抜けてしまい座り込むと大きく息を吐く。震える指先で口を抑えると顔が燃えるように熱かった。

あれは・・・夢じゃなかった。じゃあ被っていた布団はハガネが。でも、それ以上にハガネはさっき何て言った?君とキスが出来てよかった、そう聴こえた。

・・・どうしよう。俺ばっかり嬉しい。

心臓がドキドキ踊りだす。そうか、これが・・・恋なんだ。




恋の嵐。二人同じように胸の奥に騒がしい風を抱えて、でも時間は二人に出会う時を与えなかった。

ヨシノは津場砂でハガネを待ち続け、ハガネは自宅で姉のメアリと向き合っていた。

『やめてください。』

リクノビューティ試作品の口紅を手にメアリがハガネににじり寄る。テーブルの上には沢山の商品がずらりと並んでいる。

『いいじゃない。試作品なのよ?』

『モニターなら募集すればすぐに見つかります。僕はリクノの仕事はしません。』


テーブルを挟んでハガネはメアリと距離を取った。ここ何日かずっとこうだ。何かにつけてハガネを仕事に巻き込もうとする。大学の研究の仕事もいつの間にか断りの連絡が入れられており、昨日ハガネはそれを知った。

もう怒る元気もなく姉にそれを言う気持ちも果ててしまった。

今日、ダーリンが戻るので相談ができたらと考えているところでこの有様だ。

『すいません、もう部屋に戻ります。』

ハガネは足早に階段へ向かう。メアリもまたハガネに駆け寄り服を掴むと抱きついた。

『アイリス、どうしてそんなに冷たいの?どうして?』

『離してください・・・触らないで。』

ハガネが身をよじるとメアリは首を振った。強く服を捕まれて爪が背中に刺さっている。

『意地悪はやめて。二人きりの家族なのよ。』

『お姉さんにはダーリンがいるじゃないですか、やめてください。』

彼女に触れないようしながらどうにか引き剥がそうとするも、胸に顔を寄せられてぞわりと背中が寒くなった。


『昔みたいにしましょう?ねえ、アイリス。ダーリンはあなたに結婚しろと言ったわ。そんなことさせられない。ねえ、ずっと家族でいましょう、あなたは私のものなのよ。』

腹の底から気持ちの悪いものが胸を上がって喉元までやってきた。うっとうめいて彼女を突き飛ばすと部屋の隅に膝をついて吐き出した。ゲホゲホと咳き込み背中にメアリがのしかかる。

ハガネの体の感覚が麻痺していく。手が冷たい。気持ちが悪い。目の前が真っ白に変化していく中で耳に大きな声が聞こえた。背中からメアリの存在が消えて少し離れた場所で言い争う声がしている。


ハガネは朦朧としたままそちらに視線を向けた。ぼんやりとした景色に大柄の男が立っている。汚れた胸元を捕まれて腹を蹴られるとハガネはまた吐き出した。痛みを抱えてそのまま引きずられて部屋に放り込まれる。

息が苦しくて胸を上下させる。目の前に足が見えて、また蹴られるのかと身構えると男の顔が近づいた。

『忠告しただろう?妻に触れるな。あれは私のものだ。早いうちにお前のためにパーティをしてやる。いいか?そこで必ず婚約者を選べ。いいな。』

声すら出せずに咳き込んでいると髪をつかまれて顔を無理矢理上げられた。

『いいな。お前が選べないなら私が選んでやる。』

ゴミのように放り出されて床にハガネは転がった。咳が止まらずに体を丸める。メアリとダーリン、彼らの執着という欲が歪な形でハガネの体に重くのしかかっていく。

ドアが閉まり静寂が部屋に訪れると、ハガネは体を起こそうとしたが力が入らずにその場に倒れこんだ。ゆっくりと消えていく意識の中、見えたのはヨシノの照れた顔だった。




煙草屋の前のベンチで竹千代は煙草をふかしている。先ほど郵便ロボットから受け取った招待状はリクノビューティのパーティだ。ハガネの婚約者お披露目と書かれており、ベンチで待ちぼうけを食らっていたヨシノはそれを手渡された。

『こんな時代に古風な家だねえ・・・あんたも行くかい?』

竹千代が笑うとヨシノの手が震えていた。

『・・・なんだよこれ。なんだよ。』

ハガネが結婚?婚約者?・・・だっておかしいだろ。そんなこと一言だって言ってなかったのに。

ヨシノの考えを見透かすように竹千代はヨシノの頭を叩いた。

『しっかりせい。冷静に考えりゃわかるもんだろ。それで行くのか?連れていってはやるぞ?』

『行く。』


パーティは明日の午後。パーティ用のドレスを準備をする。ドレス店から沢山の箱を抱えたロボットが幾らかやってきて一気に部屋が華やかになる。

竹千代は老婆には見えない装いでハイヒールを合わせている。ヨシノも正装して鏡の前に立つ。

『おや、あんたの親父にそっくりだね。』

『似てる?父さんのこんな姿一回も見たことなかったけど。』

『ああ、似てる。なあヨシノ。』

竹千代は指先で口紅を調えながら鏡越しにヨシノを見る。

『あんたは知らんだろうがハガネの置かれた環境は最悪だ。あの子はどうせ何も話せなかったんだろう・・・でもあんなに穏やかにしているのは初めてだったんだよ。ヨシノ、あんたはあの子を愛せるか?』

ネクタイを触っていたヨシノは視線を落とした。


『・・・俺はハガネが好きだ。愛・・・とかはまだわからないけど。』

『そうか、でもいずれわかるさ。何も代えられないものが愛だ。』

『婆さん・・・俺は男だよ。ハガネだって・・・それでもいいんかな?』

竹千代はガハハと笑うとハイヒールを脱ぐ。

『ばかばかしい。そんなものお互いで決めりゃいい。惹かれあうものは仕方がないんだ。くだらないそんな妄想に付き合うのならやめておけ。ハガネが可哀相だ。でもあんたが傍にいたいと願うなら必死でやりゃあいいさ。』

言葉にならずヨシノは頷いた。

『じゃあ今日はもう寝る。あんたもさっさと寝ちまいな。綺麗な顔が台無しになっちまう。おやすみ。』

『おやすみ。』

ドレス店のロボットが選んだもの以外のドレスを片付けて帰っていく。綺麗に整えられたドレスが部屋にかけられていた。

ヨシノはパチンと両手で頬を叩く。

しっかりしないと・・・鏡に向かって自分をにらみつけた。



翌日、早くから二人はパーティの準備をし自動運転タクシーを呼ぶとリクノビューティのパーティ会場へ向かう。会場は高級住宅街のセレスマンションという場所で中はすでに賑わっている。玄関を抜けると広いリビングには着飾った人が大勢いた。

竹千代を前にヨシノもついていく。リクノビューティの社長、岡田メアリが竹千代を見つけるとすぐに駆け寄った。まるで女神のようなメアリは微笑み竹千代の手を握る。


『お久しぶりです。良かった、来てくださって。』

『そうだね、元気そうで良かったよ。悪かったね、あんたが大変な時に何もしてやれなくて。』

『いいえ、そんなことはありません。こうして来てくださって嬉しいわ。』

『そうかい。アイリスはどうしているんだ?』

メアリは眉を少し動かすとまた元の女神の微笑みに戻り頷く。

『ええ、元気ですよ。今日はあの子の婚約者のお披露目ですから。』

『そうかい。あ、ほら、呼んでいるよ?いっておいで。』

部屋の奥の大柄の男がこちらを見ているのに気付いて、竹千代が視線を向けた。メアリもそちらを向いて微笑む。

『本当だわ、じゃあ、ゆっくりなさってね。』

メアリはヨシノに微笑みかけて部屋の奥へと消えて行った。

『あれはアイリスの姉だ。』

竹千代は小さな声でヨシノに話す。

『綺麗な人だね。』

『・・・ああ、でもアイリスとは違うよ。』


意図を計りかねてヨシノが顔を上げると、階段からゆっくりと誰かが降りてきた。ハガネだ。綺麗にスーツを着こなし髪を上げている。美しい顔がこれ以上にないほど綺麗に見えた。

会場にいた女たちが彼を見上げている。羨望に似た眼差しにどこかいやらしさが見えた。

ヨシノの傍の女たちがひそひそと話し出す。

『今日は結婚相手を選ばれるそうよ。』『やっぱりそうなんだ。期待できるかな。』そんな言葉が耳に入ってくる。どうやらお披露目と言うのは本当らしい。

それにしてもハガネの顔色が悪い。ちゃんと眠っているんだろうか?

ハガネの傍には近寄れず少し離れた場所で竹千代と彼を見守っていると、大柄の男がハガネの隣に立ち耳打ちする。するとハガネの顔色はますます青くなった。さっきあの大きな男はメアリの夫だと祖母が教えてくれた。


いやな感じがして、眉をひそめるヨシノの背中を竹千代はぽんと叩く。

『行ってこい。』

背中を押されてヨシノは歩き出した。人ごみを掻き分けて壁際にいるハガネの隣に滑り込んだ。

『・・・ヨシノ?久しぶり。』

囁くような声に元気はない。

『久しぶり・・・元気に・・・ではなさそうだ。』

『うん、あんまり眠れてない。』

ハガネは持っていたグラスを傾ける。

『今日は来てくれてありがとう。僕は頑張れそうだ。』

『何を?』

『結婚相手を選ぶんだよ。』

ふらりと足を踏み出してハガネは遠くを見る。冷たい目で来客を見回した。


『・・・ハガネ、何でそんな顔・・・。』

『僕が逃げる唯一の方法なんだ。』

ハガネは何度か視線を動かすと何か決めたように一歩踏み出した。ヨシノはその手をぐっと握り引き寄せる。それに驚いてハガネは目を見開いた。

『ヨシノ?』

『おかしいだろ、そんなの。』

ハガネの手を握る力が強くなる。ヨシノはじっと彼の目を見た。その目が揺れている。

『僕はこのままじゃ一生人形のままなんだ。君にはわからないよ。』

『わからないよ。何も話してないんだから。俺はちゃんとあんたに言ったはずだよ、覚えてる?』


ヨシノはハガネの手を引き寄せ近づいた。

『覚えてる。嬉しかった・・・とても嬉しかったよ。』 

周りがヨシノたちに注目を始め視線が注がれる。ザワザワする中でヨシノはハガネだけに聴こえるように言った。

『俺はあんたが好きだよ。初めて会った時よりもずっと好きになってる。』

『ヨシノ・・・僕は君を巻き込みたくない。僕は君が思うような人間じゃない。』

ハガネの目に涙が浮かんで頬を伝った。

『なんだよ、それ。くだらない。俺はハガネが好きなんだよ。それは全部で他はないんだ。なあ、あんたはどう思ってる?』

涙を指でぬぐって頬に、髪に触れた。

『・・・言いたくない。僕は・・・。』

ハガネが目を逸らしたのでヨシノは彼を抱きしめる。周りのどよめきの中に竹千代を見つけて彼女の微笑みを見た。

『・・・でもいずれわかるさ。何も代えられないものが愛だ。』竹千代の声が聞こえた気がしてヨシノは微笑む。


『ハガネ。聞いて。俺はアンタが好きだ。・・・違うな、この思いはきっと愛してるだ。俺、初めてだよ?人に愛してるなんて言うの。』

腕の中でハガネが泣き出してヨシノは彼の耳に顔を近づけた。

『何回でも言う。愛してる。愛してる。嘘なんかじゃない。』

こんなに人が見てる前でハガネにしか聴こえないような囁き声であっても、もう二度とすることなんてない。ヨシノはハガネの顔を上げさせるとそっと口付けた。

『愛してる。』

『ヨシノ・・・。』

ヨシノの手がハガネの髪を崩して前髪がはらりと落ちた。

『僕は・・・君を選んでいいのかな?』

泣き顔のハガネにヨシノは微笑むと頷いた。

『いいよ、選べよ。』

『嫌なことばかりかも知れないよ?』

『愛する人を手に入れて何が嫌なことだよ。くだらない。俺が全部飲み込んでやる。』

ぎゅっと抱き寄せる。胸にすがりつくようにハガネは頷いていた。


その時、すぐ傍に岡田メアリ、ハガネの姉が立っていた。その顔は女神とは違い恐ろしいまでに怒り狂っている。

『アイリス、離れなさい。こんなの認められない。』

彼女は声を抑えていたが次第に声を荒げて捲くし立てる。そこへ大柄の男がやってきた。

『いいじゃないか。丁度いい。メアリ。これで放り出せる。二度と岡田の家にも入れない。丁度いいじゃないか。』

『ダーリン、そんな!』

メアリの腕を掴んで男はヨシノににっこりと笑った。

『ふつつかな義弟をよろしく頼むよ。さあ、一緒に出ていってくれ。これ以上醜態を曝さないでくれ。』

会場がしんと静まり返るとメアリの泣き声が響いた。ヨシノは真っ青な顔のハガネの手を引いて会場を後にした。




自動運転タクシーの中、ヨシノにもたれたままハガネは気を失った。リクノビューティのパーティはその後恙無く続けられたと、その場に残った竹千代が帰ってから教えてくれた。ハガネのことがどのように触れられたのかは言わなかったが、大体想像はつく。


津場砂の家の縁側で、暖かい陽射しを浴びながらハガネはぼんやりと座っていた。パーティからは随分と長く時間が経っていた。

ヨシノも竹千代も何も言うことはない。ただ体を休めろとは口を酸っぱくするほど言われていた。


ここに来てからハガネは熱を出し、随分と長く床に臥せっていた。やっと熱が引いたのは二日前で、今朝やっと体を動かすことが出来るようになった。

『ハガネ?』

奥の部屋からヨシノがお茶を持ってやってきた。ハガネの傍に座ると盆を置いてハガネの額に手を当てる。ヨシノはずっとこんな感じだ。


『大丈夫だよ。ありがとう。』

『そう?良かった。』

あれからのことをヨシノは話してくれていた。パーティは内輪だったためにハガネへの中傷はなかったが、メアリからのヨシノへの攻撃はあったようだ。それもダーリンが海外赴任を決めて、リクノビューティの拠点を変えることで決着がついたようだった。もう二度とハガネに関わることはない。それはハガネが帰る場所を失くした事実でもある。


ヨシノはそれだけ伝えるとハガネの登録情報を変更した。晴れて藤木ハガネと名前が改められ、ヨシノがハガネの帰る場所になった。

『冷めちゃうよ?』

カップを差し出されてハガネは両手を暖める。

『これでよかったのかな?僕は君に迷惑を・・・。』

ヨシノはフフと笑うと肩膝を立てて顎を乗せた。じっと見つめる瞳が優しくて続く言葉を飲み込んだ。

きっとあの日と同じ、彼は嬉しいことしか言わない。

カップを置いて、両手を後ろにつき空を仰ぐ。

『ヨシノ。』

『うん?』

『僕は・・・君にとても感謝してる。・・・出会えてよかった。』

『そっか。俺も良かった。ハガネに恋をして。』

ヨシノはくったくなく笑う。ごろんと寝転がると寝そべったままハガネを見た。

『まだ・・・俺は聞いてない。』

『何?』

なんのことかと顔を覗きこむとヨシノは悪戯な顔をする。

『好きだって、愛してるって聞いてない。』

きっと意地悪のつもりなんだろうとハガネはヨシノの顔に近づいた。

『好きだよ。愛してる。』

目の前の顔が赤く染まり、心底嬉しいのかヨシノは両手で顔を隠す。あの日はあんなに格好良かったのに、どうしてこんなに可愛くなるんだろう。

ハガネはそれを見て声をあげて笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

帰る場所 蒼開襟 @aoisyatuD

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ