最終章 ぼくたち
昨日もずっと小説を読んで映画を観ていたし、いつもは若菜に起こされるのだが、起こされなかったので、目を覚ますと午後三時をまわっていた。家の中を歩き回るのだが若菜の姿はない。玄関前に脱いだスリッパもないし、彼女の部屋をノックするのだが返事もない。
もしかしたら突然死したのかと心配に思いながら部屋に入る。若菜はベッドで眠っていた。
「今起きるから待ってて」
若菜は起きているようだった。起きよう起きようとだらだらと目を瞑ったまま過ごしてしまう、そういうこともあるだろう。そう思い自分の部屋へ戻って小説を読んでいたのだが、若菜はそれから一時間しても起きてこない。
また彼女の部屋へ行くと、「私なんて生きてる価値ないんだ」などと若菜は言っていた。
昨日、若菜に気持ち悪いこと言うな、と言ったことを根に持っているのだろうか。
「昨日のことを気にしてるのか? あれは当たり前のことを言っただけだよ」
「どうせ私が死んだって泣きもしない癖して!」
若菜はヒステリックにそう叫んだ。
兄貴としてあるまじき行為のような気もするが、ぼくは困り果てて弥生を電話で呼んだ。すぐ来てくれるとのことだった。
弥生が家に来て、若菜の部屋へ入ろうとすると我先にと猫のミーナが中へ入っていった。弥生が入っていったのでぼくも若菜の部屋へ入った。
「死にたい……死にたいんだよお」
普段の若菜が絶対に言わないようなことを言った。鬱が酷い時の自分と似ているように感じた。
バスに乗せて精神科に行くのも困難に思えたので、仕事中だが達也に電話すると「早引けする」と言って、彼は電話を切った。
達也はすぐに家までやってきた。
浩一の車で若菜を病院まで連れて行く。ぼくは助手席に乗って、弥生は若菜の隣に座っていた。若菜はいつも使っている毛布を離さなかった。
病院で新しい診察券を作ると、待合室で一時間以上も待たされた。
若菜はぶるぶる震えて何も言わない。
そうして診察室に通されると、若菜は当たり前のように鬱病だと診断された。
「どなたが七瀬さんと暮しているんですか?」
「兄のぼくです」
「結構な時間一緒にいてもらうことは可能ですが? そうではないのでしたら、入院してもらった方が自害の可能性がなくなるということになりますが」
「大丈夫です、ずっとぼくが一緒にいます」
そうして診察料を払って薬局で薬を受け取ると、それはぼくが飲んでいる薬より全然弱い薬だった。ネットで調べることもあるから鬱病の薬については少しだけ知識がある。
家に帰ってきた。取りあえず弥生と達也に若菜と一緒に居てもらって、彼女に通信制大学の電話番号を聞いて、休学のための書類を送ってもらえるように頼んだ。
それから少しして弥生が作ったご飯を早めに食べると、若菜が眠るまで見守って彼女は帰っていった。
達也は帰らないでまだ家にいた。ぼくの部屋へ入ってくると、彼はぼくの頬を一発殴った。
「若菜は浩一の世話で疲れ切っちゃったんだよ……お前のせいだ」
達也は泣きそうな顔をしていた。彼のこんな表情を見るのは初めてだと思う。
それから少しして彼は帰って行った。
翌日達也が朝早くに家に来て、「仕事、しばらく休みもらってきた。俺が若菜の看病をする」と言った。
若菜をここまで追い込んだのはぼくだ。ぼくでしかあり得ない。それを思うと、ぼくまで病状が悪くなるような気がしたが、若菜の部屋からは時折泣いている声が聞こえてきた。
そんなにぼくをせめないでくれ……
姉さんを殺して若菜を鬱病になるまで追い込んだのはぼくだ……もうそれでいいから、ぼくを一人にさせてくれ……どうせ今までもし一人だったら自殺でもして今頃生きていないぼくだ……今まで友人や妹に恵まれていただけなんだ……泣かないでくれ若菜、知っているだろう? お前の兄貴はだめな奴なんだよ……ぼくが死んでも泣く必要はないよ、今までラッキーでこの歳まで生きてこられただけなんだから……
部屋のドアを開かれた。
怖い顔の達也が立っている。
「お前の顔が見たいんだと」達也の目は充血していた。
こんなぼくにも出来ることがあると思って若菜の部屋へ行った。
「兄貴……」若菜は力なく頬笑んだ。
こんなになってもぼくに心配をかけさせまいと笑うのだ。
「今は休んでね」
ぼくの顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていると思う。若菜の頭を撫でた。
「良くなるように努力するから私が眠るまで側にいて」
「わかったよ」
若菜が中々眠らないので、そのまま三時間くらい若菜の部屋にいた。
達也は勝手に家に泊っていった。たまに食べ物や何かを買いに出かけていた。
親友がぼくと口を利いてくれなくなることはこれが初めてだった。
しまいには鬱病でそんな物が食べられるかもわからないのに、達也は牛丼のテイクアウトを若菜の部屋に持っていった。翌日台所の生ゴミ入れを見ると使い捨ての器ごと牛丼が捨てられていた。
ぼくは料理をすることにした。もう少し病状が安定していればカレーライスでもいいのだが、今は食欲もないようなので、薄味の卵おじやを作っていった。こんなシンプルな物でもトリプトファンが多いと言われる卵を二つも使った。
若菜の部屋へ持っていくと、「食べさせて」なんて甘えられてしまった。水着で背中まで流してくれた妹だ。そのくらいのことは喜んでやる。
スプーンに卵おじやをすくって口でフーフー冷ますと、こぼさないように若菜の口まで運んでいった。
少し噛んで飲み込むと若菜は「美味しい」と力なく少しだけ笑った。
何度か繰り返して茶碗一杯分のおじやを若菜は完食した。
それからぼくは若菜の部屋から出て、ネット通販でスポーツドリンクの二リットルの物を箱買いした。
それは段々と効かなくなるものなのだが若菜が睡眠薬で眠った後、ぼくの部屋に達也が入ってきた。
「俺のこと殴っていいぞ」
「なんで?」
「昨日殴ったじゃん」
「いいよ……本当のことだったし」
「仲直りだ。親友の顔を殴っちまってごめんな」
「別にいいんだよ。ずっとぼく達と一緒にいてくれてありがとう」
「ああ、こちらこそ。これからも一緒にいような」
ぼくはきっとまだ鬱病だが、友達や妹、友達の両親、周りの人にはどこまでも恵まれている奴だった。
翌日の昼頃雪が降ってきていた。弥生も含めて、四人で若菜の部屋の窓から雪を眺めた。若菜はこんなになってまで家事をやらなきゃいけないのにやる気が出ないと泣いた。
達也が提案した。「雪遊びしよう」
「うん! やりたいやりたい」
張り詰めていた物が切れたのか、童女のように若菜はそう言った。
皆でコートを着て近くの児童公園まで行った。寒い中、少しだけ積もった雪で雪合戦したり、雪ダルマを作った。弱っている若菜にはあまり雪玉をぶつけないようにした。
そのうちに若菜が「疲れた」と言うのでぼくたちは家に帰った。
滅多に使わない電気ストーブで弥生は服を乾かしていた。
家に帰ってくると弥生は若菜の部屋で、達也はぼくの部屋で過ごした。
「そりゃ若菜は心配だけど何日も休みもらっちゃって悪いし、暇だな」
二人で大昔の格闘ゲームで遊ぶ。ぼくもそうだが達也は中学の頃ゲーセンにもよく行っていたのでさすがに強かった。
療養中だとはいえ、暇すぎると若菜が家事ができない……と泣くので、雪が止んだ次の日は達也の車で四人でスーパー銭湯に行った。男と女で別れて入るため、弥生にだけ若菜を任せて大丈夫なのか心配だったが、弥生は力強く大丈夫です、と答えた。
はっきり言ってぼくは風呂にあまり興味がない。それは寒い冬であってもだ。とはいえ折角来たので打たせ湯を浴びて露天風呂にもサウナにも入った。
そして男女別々の風呂から出ると、専用に用意されている薄手の服に着替えて、暖かいのと熱いの中間くらいに感じる岩盤浴を四人で堪能した。初めに水を飲んで、うつ伏せで半分の時間、仰向けで半分の時間、岩盤の上で汗を掻くと、また水を飲み簡単にシャワーを浴びて、ぼくたちは家へと帰っていった。
大晦日、弥生が年越蕎麦を作ってくれる。海老のてんぷら二本とイカの天ぷらも乗っている。達也がとても喜んで「毎年若菜ファミリーのおかげで年末年始は良い物が食べられるぜ」と言った。
若菜は何故か泣いた。
「子供の頃から弥生ちゃんとお父さんお母さんには迷惑ばかりかけて申し訳ないよ」
その気持ちは長年鬱を患っているぼくにはわかる気持ちだった。怠けているとすべてに大して申し訳なくなる瞬間があるのだ。
弥生は若菜の方まで行くと頭を抱いてよしよしと慰めた。
「浩一さんと若菜さんがいなかったら、今のわたしはいません、こちらこそいつもありがとうございます」
もうすぐ泣き止むのか、若菜はティッシュで鼻をかんだ。
達也が面白いことを言う。
「おいおい、弥生、一人忘れていないかい? 俺がいなかったらやっぱり違う人生だっただろう?」
「……そうですね」
若菜はすぐに寝てしまったのだが、三人でリビングで紅白を観る。
遅くなって、ぼくは弥生を自分の部屋に連れ込んだ。
「らしくないですね」
「いいんだよ、ぼくは好きな人にしかしないから」
朝になってクスっと笑って弥生はぼくの頭を撫でた。
つまり元旦がくると前の日から用意していたらしくおせち料理とお雑煮を弥生はふるまってくれた。
新年一日目から若菜は鬱が酷くて起きられないようで、部屋までおせちとお雑煮を持って行った。
三人で明けましておめでとうございます、と挨拶をして新年初めての食事を頂いた。酷い幼少期を過ごしていたので、子供の頃に食べ飽きている人も多いだろう伊達巻きがぼくは未だに大好物だった。
達也はお餅を追加で焼いてもらって、パックの切り餅を合計で五個も食べたようだった。
今でもぼくは毎日違うお守りを首から下げてTシャツの中にしまっている。
人が多い所に行きたくないという若菜を心配だが家において初詣に三人で行った。達也の車で神社を十件以上まわる。前に自分がしてもらったことを若菜にもしてやるのだ。
少し遅くなったが、どっさりお守りを買って家に帰ると、若菜はありがとう、ありがとう、と言ってまた泣いた。
折角持っていく物は用意していたのにスキーと読書会には行けなかった。代わりと言ってはなんだが、その時に若菜が買った本を弥生と交代で彼女が寝ている枕元で朗読した。一日中そうしていても一冊も朗読し終わらなかった。
達也は夜になると休みが終わると言って、自分の住んでいるアパートへと帰っていった。
所々家事は弥生が手伝ってくれるが、家の掃除もする。勿論風呂掃除もだ。洗濯物も若菜は嫌がったが彼女の分までやった。
若菜は長年、何も手伝えないぼくの分まで家事をやってくれたのだなあと感慨深かった。なんて悪い兄貴だったのだろう。彼女が苦労して作る食事に文句をつけるときさえあった。過去に戻ってその時の自分を銃殺してしまいたい。
夕食を作る。冷蔵庫の中が空に近かったので若菜が使っていた自転車に乗って、近所のスーパーまで買い物に出かけた。
まだ少しだけ赤の他人が怖かったがなんとかなった。
料理は家事の中で一番頭を使うので、得意ではないが嫌いでもなかった。大した物は作れないのだが、ここでも若菜がしてくれたようにトリプトファンをなるべく含めるように献立を考えてネットでレシピを見て夕食を作った。卵も毎日三つ食べてもらった。今晩のメニューは味噌汁に高野豆腐に焼き魚と卵焼きにした。時間はかかったがなんとか作れた。卵焼きは焼くときに巻くのが下手で出来上がった物を包丁で切ると、スカスカの穴が空いていた。
若菜は美味しいね! なんて笑顔になって食べてくれた。明日も作ろうという気になる。
食事の後薬を飲む。若菜は自主的に薬を飲んでくれるので楽だ。ぼくも相変わらず薬を飲んでいる。
一週間経ったので若菜と二人で精神科病院を受診した。若菜の付き添いをして診てもらい、その後で、ぼくのことも主治医に診てもらった。
「いつもより顔色がいいですね。薬を減らしましょう」
「今は減らさないで下さい。妹も鬱だし、ぼくまで具合が悪くなったら生活できません」
「わかりました……」
病院の待合室にある自販機で若菜と二人で温かい缶コーヒーを飲んだ。
ある日、手持ちのお金が尽きたので、若菜に生活費が入っている銀行のカードと暗証番号を教えてくれと言うのだが、教えてくれない。
「金渡すと兄貴が出て行っちゃうから」
「そんなことするか! ぼくは若菜の兄貴だぞ!」と言うとしぶしぶ教えてくれた。
銀行へ行って下ろしてくる。銀行口座の残高は信じられないような額が入っていた。親父はいったい何をしている人なのだろうか。ヤクザと言われても別に驚かない。
一月が終わった。
まだ若菜が鬱になって日が浅いが筋肉が衰えるのはあっと言う間なので、ゴミの日にはゴミ出しをしてから、毎朝一緒に散歩に行くことにした。
若菜は自分が怠けているとばれる気がして視線が怖いらしく、毎朝サングラスをして散歩した。
そして寒いのにコンビニでアイスを食べた。
手袋はしているが、前にぼくがそうしてもらっていたように若菜とはいつでも手を繋いで散歩した。鬱じゃない人にはわからないかもしれないが、これでかなり安心できるのだ。若菜もきっと恥ずかしかったに違いない。ぼくも同じように若菜の手を離さなかった。
大学が休みの日に弥生が遊びにきた。
「お母さんがよく淹れてくれるんですよ」と温かいウーロン茶を淹れてくれた。若菜の部屋で三人で飲んだ。若菜は一口ウーロン茶を飲むと茶碗を床に叩きつけた。それが割れる音がした。
「お前がいるから兄貴は私を好きになってくれないんだ!」
「若菜!」
「大丈夫です……わたしは若菜さんが好きですから」
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
若菜は啜り泣いた。
「兄妹水入らずのところすみませんでした」
そう言って弥生は帰ろうとする。
若菜は「またきてね」としゃくり上げながら言った。
その日の深夜、若菜が泣き喚いている声が夜中に聞こえてきた。
「どうしてこんなに上手くいかないの! どうして兄貴は私の物にならないの!」なんて聞こえてくる。
これにはぼくも参った。病気だから世話してあげてるぼくのことを一時的に好きになってしまったのだろうか。その気持ちにぼくは応えられそうにない。
達也に言われることがあった。
「俺はお前ら兄妹に酷い裏切り行為をしていた。若菜が好きなのは浩一だってわかってたのにな」
「それはないと思うよ。いつも怒られていたし、むしろ達也みたいな男らしい奴の方が若菜は好きでしょ」
最近、夜中に若菜がぼくのことを好きだと喚いていることがあるがこれはきっと一時的なものだ。
「お前、本気でそう思うの?」
「そう思うよ」
「俺何度も若菜に告白してるんだぜ。でもお前がいるから毎回断るんだと思うんだ。結構本気で兄貴のお前のことが好きなんじゃないか? それしか考えられねえもん」
もしそうだとしてもぼくは若菜を妹としか見られなかった。動物としてのたがが外れていないぼくは妹とそんな関係になれない。
自分が今より相当酷い鬱の頃、助けられたと言って、若菜にネットゲームを薦めた。
同じ家に住んでいるのだが、別の部屋でプレイしてネトゲの中で一緒に遊ぶ。若菜は黙っていると何時間でもネットゲームをしていた。ぼくもやり初めの頃は猿のようにやったので人のことは言えない。
「そろそろご飯の準備しなきゃ」とぼくがゲームの中で発言する。
「いてらー」などとスラングで若菜はぼくに言った。
自分も鬱だから若菜のことがよくわかる。夜中だろうと携帯にワンコール入ると一緒にネットゲームで遊んだ。
眠れる人は眠れるらしいが、眠れない人はとことん眠れない。ぼくもそうだったが近頃若菜もそうらしかった。きっと不安感が強いのだと思う。
そして遊んでいるネットゲームがメンテの日。他にどうしたらいいのかわからないので、若菜の部屋に行った。トランプとかもあるのに若菜に言われて、学生などがやる指と目と脳以外何も使わないゲームで一時間も時間を潰してしまった。
突然、恥ずかしそうに「キスして」と若菜に囁かれた。
「なんで?」
「病気がよくなる気がするの」
「いいよ」
ぼくは人差し指と中指の腹を舐めると若菜の唇に触れた。これでも若菜にとっては間接キスだが、病んでいる妹の妄言に付き合ってやる程兄貴はおろかではない。
その時キスしなかったせいだとは思いたくないが、中々若菜の鬱はよくならなかった。近頃ではネットゲームもしていない。たまに部屋に見に行くのだが布団にもぐって泣いているときが結構あった。
ある日、知らない人が赤い軽自動車に乗って家にきた。髪がベリイショートの女の人だ。
名字は薬師寺で若菜の高校時代の同級生で、妹が今大変なことになっているのは知っているから家に上げろと言われた。
ぼくは迷ったが悪い人には見えなかったので、彼女を家に上げた。若菜の部屋まで通す。
若菜は薬師寺さんを見てすぐに泣きながら彼女に抱きついた。
同じ高校に通っていないとわからないこともあるだろう。ぼくはお茶を淹れて持っていくと、自分の部屋へと引っ込んだ。
一人で自分の部屋にいると悪い妄想が頭の中で渦巻いた。
いくらなんでも薬師寺さんがヒットマンだとは思えないが、実は学校で若菜と仲が悪かったので鬱になった彼女を嘲笑いにわざわざ家まで来たのだったらどうしよう……そしてスマホでベッドから起き上がれない若菜の写真を撮ってネット上にアップして仲間達とげらげら笑うつもりだったらどうしよう……
まあでもこんなのは被害妄想だ。
若菜のことが嫌いだったらわざわざ車で家まで来ないと思うのが常識的な考えというものだろう。
久しぶりにネットゲームのメンヘラギルドに顔を出そうかとも考えたが、引きずられるような気がしたので止めた。まだ読んでない小説を読んで時間を潰した。
一時間ほど読書していただろうか。ぼくの部屋のドアをノックされた。内側から開けると、長身の薬師寺さんが立っていた。
彼女はぼくの胸ぐらを掴んだ。
「あんたの看病に疲れて若菜はこうなったんだ……また来るから」そう吐き捨てるように激情をぶつけて薬師寺さんは帰って行った。
それから結構頻繁に薬師寺さんは家まで来た。綺麗な人だからぼくはいつも以上に緊張した。
ぼくの分もケーキを買ってきてくれることもあったので、ティパックだが紅茶も入れて、若菜の部屋で三人で食べた。
「なんでそんなに妹のことを思ってくれるんですか?」
「あたし同性愛者だから」
薬師寺さんは煙草を吸って携帯灰皿に灰を落とした。
「別に差別しませんけどね……」
「後学のために聞くけど、浩一は同性から迫られたら怖い?」
「……怖いですよ」
「そうなんだ。やっぱりLGBTは辛いね」
ケーキを食べると、ぼくはまた若菜と薬師寺さんを二人きりにした。
この日は薬師寺さんがくる時間が遅かった。彼女は若菜に顔を見せると、ぼくを連れ出して近場の適当な飲み屋でサシ飲みすることになった。
まだ一月の外はとても寒かった。昔若菜に買ってもらったコートを着て外へ出た。
掘りごたつ式の席に座って、薬師寺さんはウィスキーを飲んだ。
「若菜はあたしにとって天使なんだよ。その天使を病気にしちまいやがって……」
「すみません……」
「若菜が鬱病になった理由はわかる?」
「多少は……それ以外でも今までずっと家のことをすべてやってもらっていたし、張り詰めていたものが切れてしまったんですよ」
「ふうん」
薬師寺さんはウィスキーのストレートをおかわりした。店員が持ってくるとその場で一気飲みして、「また同じ物を」と頼むことすらあった。
ぼくは薬師寺さんがおつまみに注文した厚焼き卵やフライドポテト、唐揚げなどを遠慮しながら食べた。
「もっと食べなよ。あたし食は細いし」
「はあ」
言われた通り、遠慮しないで食べることにした。ぼくもぼくで食は細い方なのだが。
「若菜のことは大切かい?」
「勿論大切な妹ですよ。ぼくは今まで妹に守られてきたのだから、今度はぼくが若菜を守る番です」
「あたしはそういう言葉を浩一から聞きたかったんだよ」
「そうですか」
それから薬師寺さんは無言で酒を飲んだ。
飲み会が終わりの方になると彼女はどんどん無言になって、そうは見えないが結構酔っ払っているようで車の運転代行を頼んで帰って行った。
翌日ぼくの携帯に薬師寺さんから連絡が入った。
「たまにはそっちから遊びにきてよ。女の子も連れてさ」
「どこへ行けばいいんですか?」
「あたしが働いているレズビアンバー」
「……」ぼくは思わず無言になった。
「本当は男の客は断っているんだけど、静かにしてればかまわないって店長が言うから今夜、最低女の子を一人連れて遊びに来てよ」
「……わかりました」
夜になって弥生と二人で新宿二丁目にある薬師寺さんが働いているお店まで遊びに行った。薬師寺さんはわかりやすいところで待ってくれていたので迷わないでレズビアンバーまで行けた。
薬師寺さんは弥生を見るなり「でかした浩一! 可憐な女の子じゃないか」と言った。弥生は「ど、どうも……」と緊張していた。レズビアンバーに行くということは事前に弥生にも話している。
カウンター席に座ったのだが、ぼくは本来来たらいけない人なので緊張して水とナッツ類を胃の中に収めた。
弥生はレズ達から質問攻めにあっていた。
「処女だ、処女の匂いがするぞお。弥生ちゃん、男も女も経験ないでしょう」
「あります、ありますから!」そう言って弥生は長い髪を後ろでゴム輪で縛った。そして小声でぼくに言う。「こういう場所では舐められたら終わりですから」
「弥生ちゃんどういう人が好みなの?」
「私の横に座っている人です」
「え、あたし? 照れちゃうなあ!」
弥生の左隣にはぼくが座っていたのだが、右隣のレズビアンだろう人が、彼女の頬にキスをした。べっとりと口紅の痕がついた。
「はあ、面倒ですねえ」
弥生はトイレまで化粧を直しに行った。すぐに戻ってくる。
それからレズの人達はさらに卑猥な言葉を交わして、弥生は顔を赤くして黙ってしまった。横で聞いていてぼくはまだ童貞なのでよくわからなかった。
弥生はハイボールばかりを飲んで、横からぼくの肩に頭を乗せた。彼女の甘い匂いがした。
ぼくと弥生はそろそろ帰りますと言ってレズビアンバーを出た。薬師寺さんは既に他の女性に夢中でぼくたちにはかまってくれなかった。
土地勘もなく、駅まで歩いて行こうとすると、ホテル街に入ってしまった。弥生はお店を出たときからずっとぼくの腕を抱いている。
彼女はわざとらしくホテルのネオン看板を指さして「泊っていきませんか?」なんて言った。
ぼくの心臓が波打つ。喉がからからになる。やっとのことで、「こっちにしない?」とネットカフェの看板をぼくは指さした。
「いくじなし……」などと言いながらも弥生はぼくと一緒にネットカフェに入ってくれた。始発までペアシートで過ごした。
弥生は静かに少女漫画をずっと読んでいた。
ぼくは眠たくなったので毛布を借りてきて眠った。
始発で家まで帰ってきて、もう少し眠ろうとしていると、チャイムが鳴らされて家の前に薬師寺さんが立っていった。出迎えると、薬師寺さんはさっさと若菜の部屋へ行ってしまった。二人きりにしてあげることにする。
ぼくは自分の部屋で小説を読んでいると、暴れるような大きな物音が聞こえてきた。何かあったのかと若菜の部屋へ駆け込むと薬師寺さんが若菜の上に馬乗りになっていた。ぼくは無我夢中でタックルして彼女を妹の上から退けた。若菜は怖がって泣いていた。
「何してるんですか?」
「あたしレズだし言わなくてもわかるだろう?」
「若菜もレズなの? バイでもいいけど」
そう聞くと彼女は嫌々するように首を振った。
「そっちの気がない人に手を出すなんて、薬師寺さんは鬼畜ですか」
「じゃあいつまで我慢すればいいんだ?」
薬師寺さんは煙草に火をつけた。
「少なくとも若菜の病気が治るまでは我慢してください」
「わかった。今日は帰るよ。若菜、ごめんな」
携帯灰皿で煙草を潰すと薬師寺さんは帰っていった。
若菜は「兄貴ー、怖かったよお」と言ってぼくに抱きついてきた。
気分転換ということで家のことは後回しにして、弥生の家のラーメン屋、大幸まで昼食を食べに行った。残すときもあったのだがこの日は若菜も完食した。
たまたま店の前で遊んでいるところを見かけた。弥生の腹違いの妹さんは前見たときよりまた大きくなっていた。
その日の深夜、物音がして目を覚ます。どこでそんな物買ってきたのか、若菜がドアノブにロープをかけようとしていた。それを止めると急いで精神科病院まで電話して救急車が来てくれるように手配した。来るまでの間、若菜をなだめた。
「なんで死ぬ必要があるんだ」
ドアを閉められて若菜の部屋には入れない。
「もう私きっとずっとこのままだよ。頑張れないなら死んだ方がいいんだよ」
ドアに背を預け妹と話をした。
「絶対にまた頑張れる日がくるよ。あれだけ治るのに時間かかった……いや、今でもまだ寛解していないけれど、ぼくだって最近は安定してきた方だ。時間が解決してくれるよ」
「今、頑張れないのが嫌なの」
ドア越しの若菜の涙声が聞こえてくる。
「頑張ってばかりだと息切れするよ」
「私は息切れするのが好きなの」
「息切れするのがそんなにいいかなあ、ぼくはのんびりしている時間の方が好きだ」
そして救急車に乗った人達が家にくると、若菜は自分で部屋から出てきて、救急車に乗った。ぼくもついていく。
深夜だったが手続きをして若菜を任意入院させることになった。
タクシーで家に帰ってきて少し寝て翌朝。薬師寺さんが若菜が電話に出ないとぼくの携帯に電話してきた。
若菜が入院したことを告げ、前の日にお見舞いに来ていたので、へんなことを言っていないか聞くと、どうやら彼女は若菜に「頑張って良くなれよ」と言ってしまったらしい。鬱病の人に頑張れって言ったらいけないということを知らなかったのだ。
そしてその日のうちに、薬師寺さんと一緒に着替えや日用品を持って精神科病院まで行った。荷物を看護師に預けると、若菜の面会ということで狭い面会室に通された。
「昨日は若菜のことも考えないで適当なこと言っちゃったけど、ゆっくりマイペースに良くなればそれでいいから」薬師寺さんがそう言うと若菜は泣いた。
「本当にそれでいいの? 薬師寺さんも兄貴も私のこと捨てない?」
「捨てるわけあるか」
「少なくとも若菜の心を頂くまでは捨てないよ」薬師寺さんはそう言って爽やかに笑った。
若菜は一日に三回家に電話をかけてきた。それ以上は看護師に止められて電話できないらしい。食事のあれが美味しかったとか、テレビのチャンネル争いに勝てないとか言う。観ているのに無言でチャンネル回すババアがいるとも言っていた。電話で泣くことも結構あった。二日に一度は弥生や達也を連れて面会にも行った。
若菜はよく甘い物をねだった。
そしてぼくにはよくなったのかわからないが、二週間ほどで若菜は退院することになった。
若菜は二週間の入院で毎日のように自販機で缶コーヒーでも買っていたのだろうか。コーヒーが大好きになっていたので、電動コーヒーミルと挽いてない豆、加熱の仕方で自分で苦さなどを調節できるサイフォン式コーヒーメーカーをネットで買った。若菜はキリマンジェロやブルーマウンテンより薄めに入れたモカが好きなようだった。
家に来ていた達也に言われる。
「お前最近調子いいみたいじゃん」
「薬は飲んでるよ」
「若菜があれじゃ祝福はできないけど、ようやく子供の頃みたいな調子に戻って来れたな」
「そうだね……」
思えば学年は同じだが、達也にはぼくたちのお兄さんを長い間やってもらっていたような気がする。
ぼくはそのとき、心を込めて彼に「ありがとう」と言った。
達也は「お、お、なんだあ?」などと不思議そうな顔をしていた。
ある日の夜、「本読んで」と若菜が甘えてきた。読書会のために買った若菜は読んでいない小説がまだ沢山あった。自分で読んでも頭に入らないらしい。
椅子に座って、ベッドで目を瞑っている若菜に小説を読んで聞かせてやった。
そのうちに妹は寝息を立てた。
弥生は大学が休みだったり午前のコマを取っていなかったりするときは、毎日家に来てくれた。そして若菜と一緒にいてくれた。達也は殆ど毎日、仕事が終わると家にきてくれた。
弥生は来るといつも家の中を一通り掃除してくれた。
「悪いからもし嫌なら掃除しなくていいよ」
「嫌じゃないですし、浩一さん、サニタリーボックスとか掃除できるんですか?」
「サニタリー……何それ?」
「使用済み生理用品を入れるゴミ箱、通称三角コーナーです」
「それは無理……無理というか若菜に悪い気がする」
「そうですよね。だからわたしを頼ってください」
新年度が始まる前に若菜の誕生日がきて弥生と二人で料理を作った。
ずっと自分が祝ってもらうばかりで若菜の誕生日は大したことをやらなかったが、誕生日がいつなのかは覚えていた。
手作りのレアチーズケーキに手が込んでいなくて申し訳ないがカレーライスを作った。
「若菜さん実は女の子なのにフルーツ嫌いなんですよ、知ってました?」
「いや、初耳」
若菜は猫のミーナを抱いてリビングまでやってきた。
若菜は泣きながらカレーライスを食べた。これにはプレゼントを持ってやってきた達也も驚いた。
「なんで泣くの?」
ぼくがそう聞くと、「だって美味しいんだもん」と言って若菜はさらに泣いた。
皆から一つずつプレゼントをあげて、誕生会は早めに終わらせた。
こんな日くらいは若菜が安らかに眠れることを祈る。
昨日の誕生会は成功した部類なのに、若菜がリストカットをした。
それを見つけたぼくが、自分のことは棚に上げて今度リストカットしたらまた入院してもらうから、と言うと、今度は若菜は自分で太股を切りつけてぼくに見せてきた。
入院させるべきか自分で判断がつかなかったので、弥生に相談すると、さすがに彼女は肝っ玉が据わっていた。
「リストカットもレグカも大したことないですよ、うちの大学にもそんな人沢山いますよ」
弥生はそれから毎日夕方から夜にかけて家に来て、若菜の手首や太股の傷を消毒してくれた。
若菜が出来なくなったので庭が荒れた。
達也も仕事が休みの日曜日に、弥生と三人で庭を整える。
達也がやる気をだして目隠しのための常緑庭木をチョキチョキと鋏で整えだす。
ぼくと弥生は主に雑草を抜いた。
また若菜と精神科病院に行った。
若菜の診察が終わり待合室で待たせて、ぼくが自分の分の診察に行くと、医者に説得されて薬を減らされた。通院ももう四週間に一度だけ行けばいいらしい。
だが今は自分の病気のことより若菜が心配だった。
桜が散らないうちに四人で近所の大型公園にお花見に行った。
達也に飲酒運転させたら捕まると思ったのか、帰りは弥生がお酒を飲まないで運転することになった。
もうピークの時期は超えていたので、場所取りをしないでも見やすいところにレジャーシートを敷けた。
満開に咲いて、ときどき風に飛ばされていく桜は狂い咲いているように見えた。病気の自分と病気の妹を抱えるぼくがそんなことを思っては不謹慎だが、植物や花や生き物は、狂っているくらいの方が美しいのかもしれない。男には興味がないらしいが薬師寺さんも半分狂っているからあれだけ綺麗なのかもしれない。
達也は大酒を飲み、若菜は桜を観て、綺麗だと言って泣いた。
服の長袖がめくり上がる度にリストカットの痕が見えた。ぼくにもあるが、妹の傷痕を見るとそれが自分の罪のように思えた。
次の日曜日。若菜のことは達也と弥生に任せて、一人で電車に乗って繁華街に出かけた。もう以前のように、赤の他人が怖くなかった。ただ単に自分のことを知らない、これからも興味を抱くこともない人間達だと思った。
家に帰ってきて、皆と過ごしていると達也と外に飲みに行くことになった。
「こういう面白い場所が世の中にはあるんだぜ」などと言う達也と女の子がいるお店でお酒を飲んだ。他人が怖くなくなったぼくだが、若い初対面の女の子と話すのは単純に苦手だった。
キャバクラで三時間ほど飲んだ後、達也が風俗に行こうと前みたいに誘ってきたのだが、ぼくは断った。もうぼくもいい歳だし風俗嬢も立派な仕事だと思うが何故だか汚れたくないと思った。達也の車の中で待つ。何故だか無性に煙草が吸いたくなった。もう二十歳だし近くのコンビニで煙草は買えた。吸い方がよくわからないので達也が帰ってくるのを待ってから吸い方を習った。
「メンソールにしろよ。男のメンソール吸い人口を増やすんだ」
「こっちの方が少し安かったから。もっと安いのはなんか怖くてやめておいた」
運転代行を頼んで達也と二人で家に帰ってきた。
若菜の部屋へ行くと、「兄貴がどんどん汚れていく……」などと彼女は泣いた。
「煙草の臭いどうしても嫌?」
「別にいいよ、でも私の部屋では吸わないでね」
「じゃあなんて泣いてるんだ」
「知らない、何故か悲しくなるの」
次の日は仕事があるようだったが、夜に家に来た達也に留守番をしてもらって、弥生と二人で出かけた。
弥生の車で移動する。弥生の車と言っても彼女のお父さんの車だ。
昔よく四人で溜まった聖域にも行く。廃バスはまだそこにあった。懐かしい気持ちで中にまで入って視界に収めた。
その後でカラオケにも行った。ぼくは殆ど聞いているだけだった。車の運転をしているから弥生は酒は飲まない。ぼくも飲まなかった。
弥生がポッキーを注文すると、ポッキーゲームをして最終的にはチョコレート味のキスを何度もした。
身体を密着させて弥生はぼくに甘えてくる。
「あのときのお返事はまだですか?」
「まだだよ……もう少し待って」
別の日の昼間、家に電話があった。ぼくが電話を取ると、その男の声を聞いた瞬間身体に稲妻が走る。
それはぼくと若菜のお父さんの声だった。十年以上ぶりに彼の声を聞いた。
「久しぶりだな。最近はどうしてる? 若菜から報告の電話が途切れたから心配になってな」
若菜がそんなことをしているというのも初耳だった。
「ぼくの鬱が良くなった代わりに若菜が鬱になったよ」
「お母さんの遺伝子がそうさせているのかもな」
「ぼくたちのお母さんも鬱病だったの?」
「まあそんなところだ」
「お父さん……なにかぼくに言うことないの?」
「身体には気をつけてあまりストレスを溜めないようにしろよ。それじゃあな、もう切るぞ」
ぼくが何か言う前に電話は切られた。
その後で、ぼくは少しの時間泣いた。
深夜に眠れない若菜とネットゲームをすることもかわらずあった。
モンスターがドロップするアイテムを中々譲らないと、「私のことどうでもいいんだ」などと言って軽くぼくを脅した。一緒に武器を作って、1%以下の確立のレアウェポンが手に入ると、問答無用で若菜に取られた。女の子なんだからヒーラーやれよと、ぼくはちょっと思った。
それと若菜より先に風呂に入ろうとするといつも怒られる。自分が今より酷い時は風呂になど一生入らないでもいいと思っていたが、若菜は違った。毎日入る。それも四十分以上入っていることもざらだ。鬱故に臭いと思われるのだけは嫌だと強烈に思うのだろうか。
達也がぼくの部屋で酒を飲んでいると若菜がやってきて、「私もお酒飲みたい!」などと言い出した。まだ二十歳未満だからダメだと言うと、若菜はぽんぽんぽんと服を脱いで下着姿になってしまった。
ぼくは慌てて若菜を彼女の部屋へと送っていった。
その日、若菜は部屋でしくしくと泣いていた。自分も何度もやったことがあるコラム法をやるように言った。
ぼくのパソコンにファイルが送られてくる。若菜がコラム法で書いたことがデータとして送られてきたのだ。
① 状況→何が起りましたか?
兄さんが好きすぎて鬱になりました。
② 気分(%)→どういう気持ちになりましたか?
フラられたので死にたいです60%
③ 自動思考→どういう考えが浮かびましたか?
兄貴に嫌われたのでは?
④ 根拠→考えと結びつく事実は何ですか?
兄貴は近頃、弥生ちゃんが気になるようです。
⑤ 反証→④が否定される事実はありますか?
私に決定的なことを言いません。
⑥ 適応的思考→柔軟に考えると?
兄貴は私のことが嫌いとまではいっていない?
⑦ 今後→次に同じようなことが起きたときあなたはどう行動しますか?
今後もずっと兄貴のことが好きだと思う。
⑧ いまの気分(%)→どうですか?
変わらない。兄貴が好き、100%
ぼくはそのファイルを見て頭を抱えた。
若菜にメールを送る。
「若菜の気持ちはどちらかと言えば嬉しいよ。でもぼくたち兄妹じゃないか」
「それでも好き……」とメールはすぐに返ってきた。
翌朝、珍しく調子がいいのか、若菜は朝からぼくの部屋へ来て「デートするの!」と言う。今まで散々迷惑をかけたしそれくらいはいいだろうということで、朝食をとって十時頃になったら、電車で出かけた。
一番近い繁華街でCDを見て服を見てアクセサリーを見て、ぼくが持つ物はすぐに大量になった。
「どこかで食事をとらないか……?」
そう言うと、若菜はぼくの手を掴んで引っ張った。「レストランよりここがいいよ」そこは見るからにラブホテルだった。
「妹とは入れないよ」
「疲れたでしょ? 本当に休むだけだよ」
休むだけで五千円以上取られる場所に何故入らなければいけないのかわからなかったが、泣かれると面倒なのでホテルに入った。
「汗掻いちゃったからシャワー浴びてくる」
ぼくをベッドがある部屋に置いて、若菜は風呂場へ行ってしまった。
落ち着かないで最近吸い始めたばかりの煙草を数本吸って待った。
若菜は上下下着姿でぼくの元へ戻ってきた。
若菜は自分の顔や身体を指さしながら言った。
「この唇から兄貴のために囁き、目は兄貴を見るためにあって、耳は兄貴の声を聞くため、胸は兄貴を慰めるためにあって、性器は……」
「もういい! やめてくれ!」
怒鳴るとぽろぽろと若菜は涙の雫を零した。
一人で帰らせるわけにもいかないので、服を着てくれるのを待っていると、意外にもすぐに着てくれた。
無言で電車に乗って家まで帰った。
仕事が終わってすぐに来た達也にぼくは言った。
「若菜に惚れられてくれ」
「それができたら苦労しねえよ……」
「ぼくと弥生で最高のデートプランを立てるから!」
「……まあ失敗しても何もないしな」
その日の晩、パソコンを通して弥生と通話して、デートプランを立てた。
朝から遊園地に行って、そして夜まで乗り物に乗ったりショーを見たりして遊んで、ナイトパレードを眺めている最中に告白する……そういうデートプランだった。
シンプルすぎる気もするが良いデートプランに思えた。
仕事が休みの日、二人は達也の車で遊園地まで移動して行った。ぼくは車が発進するのを玄関から見守った。
だが、昼過ぎには若菜が一人で家に帰ってきたし、どうなったのだろうと心配していると夜には達也も家に来た。
「俺はもう若菜を自分の女にしようということを諦める。でも俺達の友情は変わらないから」
「いったい何があったんだよ……」
ぼくは一杯しか飲まなかったが、部屋で達也は酒をがぶがぶと飲んだ。
「あんなブラコン女もう知るか」
「それで何があったの?」
「遊園地に着くと兄貴は? 兄貴は? って泣き喚いて今日は来ないよって言ったら、自分で帰っちまった」
「うちの妹がごめん」
「いや、いいよいいよ。お前らと友達でいられるだけで俺は幸せだ」
翌日の朝、達也が帰った後、若菜が「私の部屋へ来て」とぼくを呼びにきた。
そして若菜の部屋でベッドの上に乗るように言われた。
「後ろからぎゅっとして」なんて恥ずかしがらずに若菜はぼくに言った。少しの間後ろから腕を回して若菜のお腹の上で手を組んでいた。
若菜は中々満足しなかったが、ぼくはそのうちに自分の部屋へと帰った。
また別の日、家に来た達也の顔を見ると若菜は嫌そうに言った。
「達也嫌い。身体目当て」
「はいはい、勝手に言ってろブチキレ野菜」
ある日また若菜は部屋で泣いていた。
皆苦労しながら学校や職場に通ったり家事をしてるのに、私だけぐうたらで申し訳ない、ということらしい。ぼくも同じような理由で散々泣いているのでその気持ちはわかった。
少しはうろたえるが、鬱病というのは波がある病気なのでしかたがない。そういう日は薬と食事だけとらせてそっとしておいた。
夏になって達也の車でやはり海へ行く。水着に着替えると弥生がふざけて若菜の胸を揉む。
「結構立派にあるじゃないですか、感度もいいみたいですし」
「弥生ちゃん止めて!」
「はい、止めます」
熱い日差しが降り注ぐ中、海の冷たさと足の裏に感じる砂が気持ちいい、しばらく皆で海に入って遊んでいた。
潮の匂いと寄せては返す波の音は太陽の日差しと仲良しのようだった。
波に身体を揺らされていると、突然若菜に「冷たいの怖い、抱きしめて」と言われてしまった。軽く後ろから彼女を抱いて、また前みたいに腹の前で自分の手を組んだ。今はっきりわかった。若菜は見た目より痩せている。華奢だ。妹とはいえこんな女の子にずっと家のことをすべて任せていたのだからぼくは軽く罪人だ。
海で若菜が疲れてしまったので、早めに切り上げて他の場所に行くことになった。取りあえず家から近くない場所にある滅多に行かないショッピングモールに四人で行った。そこも海と同様混雑していた。
「若菜さん、服を見に行きましょう」
「弥生ちゃん大好き。兄貴の次に好き」
「ふふふ、そうですか」
大学が休みになると若菜と弥生だけで出かけることが格段に増えた。病後半年は経っているが、少し幼児返りしているものの、このままいくとぼくのように病気が長引くことはなさそうだ。それに季節の変わり目は精神が不安定になりやすいが、夏は比較的鬱が少しよくなる感じはしていた。
若菜が家に帰ってきた。
「弥生ちゃんが兄貴のこと好きだって言ってたよ」
前に告白されたから知っている。
「弥生ちゃんだったらいいよ、妹は私だけだし弥生ちゃんに譲るよ。それに……」
悲しそうな沈黙が数秒続いた。
「兄妹は結婚できないから」
彼女は泣き笑いの顔をした。
また二人で精神科病院に行った。ぼくの薬は朝と寝る前だけになって、若菜の薬も少しは減った。
夏が終わりそうな頃、四人で家の庭で花火をした。
皆が手伝ってくれたのでガーデニングなどはしていないが庭は綺麗に整えられていた。
達也は棒状の花火を口に何本もくわえて火を点けた。こんな時でも黒のスーツを着ているが、ゴジラに似ているような気がした。
ご近所さんに悪いのでロケット花火などは買ってこなかった。
秋になると比較的近い紅葉が綺麗な場所まで四人で旅行に出かけた。
赤いもみじや黄色いイチョウの葉が目に明るくとても美しかった。匂いまでもが秋だった。
美しい物を見ても若菜はもう泣かなかった。昔から彼女にあった強さを取り戻してきたのかもしれない。
旅館では温泉に入って、卓球台が置いてあるスペースで待ち合わせるとぼくたちは卓球した。ぼくが一番弱かった。弥生と達也は同じくらい強かった。風呂上がりなのにまた汗をかきそうなくらい二人は勝負に熱中していた。
食事は同じ部屋でとったが、さすがに部屋は男女別々に取っていた。達也に死ぬほど酒を飲まされる。
「俺は若菜と付きあえないだろうけど、浩一は弥生と付き合えよな。あいつ浩一のこと待ってるぞ」
「そうかなあ……散々待たせているからもう別に好きな人できたかもよ」
「もしそうなら、あいつの性格上この旅行には来ないよ」
「そうかなあ」
翌日も紅葉を見て、近くの美術館も眺めたら、ぼくたちは自分達の街へと達也の車で帰っていった。
ある日、弥生が栗ご飯と焼き秋刀魚と焼きなすなどの秋の味覚を作ってくれた。とても美味しかった。
冬が本格的に来る前に弥生と二人で出かけることになった。関東の山を二人でハイキングするのだ。もう木は冬枯れしていた。
ぼくは運動が苦手なので山頂につくまでの間、何度も持ってきていたレジャーシートを敷いて休んだ。弥生は水筒に温かいほうじ茶を入れてきてくれた。キャップに注いで渡してくれる。汗は掻いているが温かい飲み物を飲んで吐き出される息はほんのり白かった。
「疲れてない?」
「大丈夫ですよ」
お遍路参りとは違うが、このハイキングがぼくの身体にある毒を浄化してくれるような気がした。
山頂の食事処で割高の料金を払って、たぬき蕎麦を頼んだ。弥生は実家がラーメン屋なので気になるのかラーメンを頼んだ。
帰りはロープウェイで下山した。窓から見える山脈に畏怖を感じた。
だがロープウェイが転落すると恐怖することはなかった。もっと抽象的なものごとが少しだけ怖かっただけだ。
地元まで帰ってきて、弥生を家まで送ると、彼女のお父さんに小言を言われた。
「うちの従業員を勝手に連れ出さないでくれよ」
「わたし、従業員じゃありません」
その掛け合いを見て、ついぼくは笑ってしまった。
それからしばらくして若菜の鬱は薬さえ飲んでいれば病気じゃない人と見分けがつかないようになっていた。
ぼくは五年近く回復しなかったのに、彼女は一年もしないうちに治ったのだから、元から精神力や生命力が違うのかもしれない。
クリスマス・イヴ。達也ではないがスーツを着て弥生と二人でデートした。
東京の某所でイルミネーションを見て、バーでお酒を飲むと、クリスマスだから混むと予想して結構前から予約していたホテルに入ってシャワーを浴びる前に弥生に言った。
「ぼくもずっとあなたのことが好きでした。付き合ってください。これが沢山待たせた弥生への返事です」
二人とも初めてで何もかも上手くいかなかったが、嬉しいと言って弥生は泣いた。
「弥生は今日からぼくの彼女だから」
「……これでやっとリングをはめられます」
ぼくは彼女にプレゼントされた日からずっと右手の薬指にシンプルなリングをはめていた。これからは弥生も指にはめるので、カップル同士のペアリングだった。
また年が明けてぼくと若菜の誕生日が近づいてくる。
お店が休みの三が日のうちに弥生のお父さんに、彼女と付き合うことになったと挨拶しに行った。弥生のお父さんは落ち着かないのかずっと煙草を吸っていた。
「これから浩一はどうするんだ?」
「……きっと学校に入り直すことになると思います」
「今から学校行くより家で働いてくれないか?」
仕事がきついかもしれないがぼくは即答した。
「是非働かせてください。がんばります」
ラーメン屋大幸の厨房に入る前に出前をするために、原付の免許を取れと親父さんに言われてしまった。参考書を買って少し勉強すると原付の免許は簡単に取れた。練習用にと相場よりかなり安い中古のスーパーカブを買って、近所のスーパーなどにはそれで出かけて運転の練習をした。いくら父親が金持ちだと言ってもそれはぼくが生み出した金じゃないから遠慮して中古の物を買ったのだ。
初めて厨房に入る日、前にサイズを測られたから予想はしていたが厨房用白衣と親父さんだけ高い帽子を被っているわけではないが、高さがあまりない白い厨房用帽子が支給された。ぼくは喜んでそれに着替えた。弥生のお父さんは親父と呼び捨てにされたがっていたが、「親父さん」と呼ぶことに決めた。
「うちは醤油とあとはチャーハンと餃子とビールだけ。みそや豚骨を一緒にメニューに入れている店の気が知れねえや」
洗い物とゴミ捨て、仕込みの手伝い、出前、など主に雑用をやらされた。
午後三時になって昼休み兼午後の仕込みをする時間帯に入ると、まかないを作れと言われてご飯の上にオムレツを乗せて包丁で割って広げただけのオムライスを作った。前に練習したのでそれくらいは作れた。
「バカ野郎、中華を作れ中華を!」
「でもそうするとチャーハンになっちゃうんですけど……」
「それでいいんだよ、明日はチャーハン作れよ」
そして翌日の昼休み、卵、ネギ、ナルト、角切りのチャーシューなどが入ったチャーハンを作ったのだが、「弥生の方がまだ上手いな」なんて言われてしまった。夜十一時に店が閉まった後厨房の掃除をして、弥生に美味いチャーハンの作り方を習った。最初に中華鍋に油をかなり多めに敷いて強火で煽るように炒めると良いらしい。ぼくもやってみたが、ごはんは簡単に焦げてしまった。
日付が変わる少し前に店のシャッターを下ろして後片付けをすると親父さんに呼ばれて酒を飲むのに付き合わされた。酒は焼酎だった。親父さんはストレートで飲んでいたが、ぼくは水で割ってもらった。親父さんはつぶれるまで飲んだ。奥さんが「婿が来たみたいで照れくさいんですよ」と言っていた。
それは光栄なことだ。
ある日仕事が終わって家に帰ると、若菜の髪が金髪になっていて、両耳にピアスまでしていた。
「どうしたの?」
「イメチェン。似合う?」
「似合ってるよ」
大幸が定休日で家で過ごしていた。
「俺と若菜、ペアルック」などと達也は言っている。彼は昔から金髪だ。
「髪の色もっと奇抜なものにしようかな」
「俺と一緒じゃ嫌なのか?」
「うーんどうだろうなあ、わからないなあ」
なんて言って若菜は達也をからかった。
最低時給だが親父さんは給料もきちんとくれた。
初任給で弥生にアクセサリーを買ってあげた。今までみんなにはしてもらうばかりだったので、若菜と達也にもそれぞれプレゼントをした。
ぼくはこれから人生を取り返すのだ。
だが鬱病にかかったからこそ大切な仲間達とかけがえのない思い出を作れたという側面はあった。みんなどんなに面倒でもぼくから逃げていかなかった。
それから数年も経った。お客さんが少ない時間帯は厨房をぼく一人が任せられるようになった。若菜は今日、通信制大学の卒業式だ。
卒業式が終わったのかスーツ姿の若菜が一人で大幸にやってきた。
「ラーメンください」
客が他に二、三客しかいなかったので、すぐにラーメンは出せた。
「おまちどおさま」
若菜はラーメンを一口すすって、美味しい……と息を漏らした。
了
メランコリー・バス 三冬咲太 @mifuyusakuta
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