四章 通信学生の私
最近はそうでもないけれど、よく兄貴は自分のせいで姉さんが死んだと言っている。
けれど姉さんは自殺したのだ。当時使っていた私の勉強机の引き出しに遺書が入っていたのだからそれは確実だ。
けれど何故兄貴が負い目に思うようなタイミングで車に飛び込んだのかは私にもよくわからない。
姉さんは綺麗で頭が良くて、料理が上手くて幼いながら私の目標だった。あんな人が自殺してしまうのだからこの世の中はあまり上手く作られていない音楽のようなものだ。
新しく増えた朝の日課として兄貴の映画と読書の感想ブログをチェックする。
昨晩も更新したらしく、小説のレビューが書かれていた。兄貴は中学校も卒業するまで行っていない癖して、一日一冊も小説を読めるらしかった。
ごく最近では兄貴は一人でも頑張れば図書館やレンタルビデオショップにDVDを借りに行けるようになっていた。インターネット上で視聴するビデオオンデマンドは沢山あるサービスによって観られる映画が違うのと新作映画があまり観られないのが嫌だと言っていた。
私も兄貴ほど更新は出来ないけれど、日記ブログを開設して兄貴のブログとも繋げてもらった。弥生ちゃんや達也はついでだろうけれど私のブログにもコメントしてくれてそれが嬉しかった。
それと兄貴は右手の薬指にシンプルなシルバーのリングをはめるようになった。彼にそんな物をプレゼントするのは弥生ちゃんくらいしかいないのだけれど、照れくさいのか私には何も教えてくれない。
彼と朝の散歩。
兄貴は最近頭を坊主にした。なよなよしている兄貴でも男らしく見えるので私も結構気に入っている。だけれど髭は伸ばさないでほしい。兄貴に立派な髭が生えているところなんて見たことがないけれど。
小さな住宅街を歩く。同じく散歩をしている顔見知りに会えば、私も兄貴もちゃんと挨拶をする。相変わらず私達は手を繋いでいた。
兄貴の最近の調子を見れば、もう少しで終わる習慣だとわかる。兄貴の病気が治るのは良いことだが、私はアルバイトをクビになるような、自分の役割を奪われるような感触がしていた。
兄貴が元気になったら私はどうなるのだろう?
彼は小説や映画のことばかりを饒舌に語った。
あの小説のあの部分は、現実世界の戦争のメタファーだ、とか、あの映画は、低予算で作られたのに、ここ最近で観た映画の中で一番好きだ、とかそういうことを兄貴は語って私は相づちだけを打っていた。
映画や小説は嫌いではないけれど、やはり現実の方が大切だった。
私達は現実に生きている。
毎朝L玉の卵二つで目玉焼きを作って、私は黄身一つ分しか食べない。卵の白身にはトリプトファンが沢山含まれているのだ。蜂蜜を垂らしたミルクも一緒に出す。料理は違えど、昼も夜も卵は出すし、トリプトファン摂取を意識した料理を出す。
兄貴は文句を言うときもあるけれど、ちゃんと食べてくれるから作り甲斐があって、私は嬉しい。
レポートはすべて提出し終わって、何事もなければもう通信制高校を卒業することは決まっているから、洗濯物を干して、いつもよりほんの少し丁寧に家の中に掃除機をかける。リビングと居間、階段、自分の部屋に掃除機をかけると私はノックして兄貴の部屋に入っていった。彼はベッドの上で本を読んでいた。いつものことだから掃除機の音がうるさくても彼は何も言わない。物静かな彼への愛情が込み上げてくる。弥生ちゃんのように兄貴と血が繋がっていなかったらどんなに良かっただろうか。
「小説面白い?」
「面白いよ」
「飽きない?」
「飽きないよ」
兄貴は小説に夢中のようだった。妹の献身は彼にとって当たり前になっているようだ。そこはかなり不服だ。
それから私は風呂掃除もした。
兄貴に遅れること一年と少しで私の年齢は十八歳になっていた。今月に通信制高校の卒業式もある。四月からは通信制大学だ。レポートはまだまだ私を解放してくれない。
達也の仕事が雨で休みの日、もう卒業式を残すだけでそんなものあるはずがないのに私は通信制高校のスクーリングに行くと嘘を吐いて、彼と落ち合った。家ですることもあるが出来ればそこではしたくない。だが達也は止まらないことがある。兄貴と私の部屋は離れているし、ばれていないとは思う。というかばれていたら兄貴は必ず顔に出す。付き合ってはいないけれど、中学の頃から達也との関係が続いていた。
達也は大きなベッドの私の横で寝ていた。
「俺、若菜のこと好きだよ」
「そう、ありがとう」
「若菜は俺のことどう思っているんだ?」
「友達としては好きだよ」
「そうか」
達也の匂いがした。
何故私は達也とするのだろう。気持ちがいいことは気持ちがいいが、別に彼じゃなくても良かった。不健全すぎるが、本当なら兄貴としてしまいたい。だけれどそんなことできるはずがないので兄貴と私、共通の親友に抱かれるのだ。
達也とは肉体関係以上恋人未満だった。
シャワーを浴びて髪を乾かすと、達也の車で家まで帰ってくる。彼と二人で家の中に入った。
そこまで安定はしないものの近頃病気がよくなってきた兄貴と三人で達也の車でドライブに行く。
兄貴が「何か臭くない?」と言うので、達也としてもう何日か経っていたが私は吃驚した。
「あ、悪い、屁こいたんだ」
「女の子の前でおならしないでくれる?」
そう言って私は達也を睨みつけた。
夜の高速道路で達也は車をとばす。兄貴もそうだと思うけれどもう慣れていた。自分も免許証を取ろうかと思うけれど、達也との関係が切れない限りそこまで必要ではないような気がした。
助手席で前の車の赤いテールランプを眺めていた。
隣で運転する達也にも後部座席に座る兄貴にも、今までずっと一緒にいたはずなのに遠さを感じた。
人は人のことを百パーセントはわからない。そういった意味では血が繋がっている兄貴すらも自分ではないという意味で他人だった。
そのうちに達也のセダンはパーキングエリアで駐まり、私達はあまり美味しくない割高のおそばやうどんを食べて、無料の温かい緑茶を飲んだ。
少し休むと達也はまた車を運転した。家の側で高速道路から下りても彼は車をとばした。
家まで帰ってくると、その日達也は泊るらしかった。
通信制高校の卒業式。それが終わると殆ど面識がないクラスメイト達が、カラオケに行こう飲みに行こうと盛り上がっていたが、無視して帰る。
私には殆ど友達がいない。通信制高校の生徒はさすがにギャルやヤンキーなどのキンキンした頭の生徒が多い。
折角高校を出たのに将来はホストやキャバクラ嬢などのお水につくのだろうか。なら高校に行く意味なんてないのに。
通信高校のため月に一度くらいしか通わなかった高校の校門を、スーツ姿でくぐる。
背中に声をかけられた。十個以上歳上の薬師寺良子さんだ。スレンダーでベリイショートの髪をしていて薄化粧。私は彼女に宝塚の男役のような印象を抱いている。
「二人きりの打ち上げということで喫茶店で少しお話でもしていかない?」
薬師寺さんの声は少し煙草焼けしている。
「いいですよ」
彼女は高校で唯一と言ってもいいほど少ない私の友達だった。
私達はお喋りをしながら徒歩で駅の中の喫茶店まで移動していった。
ボックス席に二人で座ると薬師寺さんはさっそく煙草を吸った。パチパチと変わった音が鳴った。好きな臭いではないけれど嫌いな臭いでもない。
「ついに高校卒業したね」
「はい」
「若菜はストレートで通信校に進学したからまだいいけど、あたしなんてその前に普通の高校を留年と退学してるからね。それから少し店で働いて、自分の人生にあまり必要なものだと思えないけど気まぐれで通信校に入ったんだ」
その店というのはレズビアンバーだ。薬師寺さんが私のことも性的な目で見ていることがあるのは知っている。私はレズではないので同性の性的な魅力には気がつけない。薬師寺さんはかっこいいし弥生ちゃんも可愛いとは思うけれど、それでどうこうしたいとは思わない。簡単に言って性的には興奮しない。男には女と違う独自の臭いがある。
「二十代になっても高校生になれる柔軟さは羨ましいですよ」
私はぜんぜん柔軟ではない。頑固できれやすい、今時の人とは逆行するような人格だ。
「あたしの事好き?」
突然そんなこと言われても「友達、先輩としては」としか答えられない。
「ちょっとはリップサービスしないとダメだよ。あたしじゃなくても男だって女を選べるんだから」
兄貴のことは知らないけれど、なら達也は私を選んだということなのだろうか。達也の身体は好きだが男としては好きとはいえない。頭がぶっ壊れてる私はもうずっと前から兄貴のことが好きなのだから。
男の同性愛を玉砕するために神様はエイズを作ったと言う人がいるが、逆に近親婚や近親相姦は神話に溢れている。つまり兄妹で愛し合うのは自然なことなのだ。肉体的な意味で愛し合ったことはないけれど。
「私、好きな人いますから」
「へえ、あたしじゃないよね?」
「当たり前でしょ」
「どういう男?」
「私がいないと生きていけない男です」
「ふうん、そういうのっていいね。相手は若菜のことどう思ってるの?」
「知りませんよ。私に感謝しているのかどうかもわかりません」
「へえ……若菜は処女じゃないのかあ」
まあ、兄貴とはしたことないけれど。
「処女じゃないですよ。あーあ、そう思われてたって考えると結構屈辱だなあ」
「女として生涯に一度だけ使える最大の武器を……勿体ない」
「今時高齢処女なんて流行りませんよ」
「ネット上には処女厨って呼ばれる人が沢山いるみたいだけどね」
「まあ、私が好きな人もそういうこと言うジャンルの人間ですけど」
兄貴はどちらかと言えばオタクの方でしょ、ネットゲームもやっているみたいだし。本当なら私も一緒にやりたいけど、そんな時間は捻出できない。
「オタッキー? そんな男のどこがいいの」
「母性本能が刺激されるんですよ」
「胸小さいのにね」
「……」
そう言う薬師寺さんの胸はペッタンコに見えるけれど、ナベシャツと呼ばれる物を身に付けているのだと思う。
それからコーヒーを何杯か飲んでから二人で喫茶店を出ると、ゲームセンターに行って薬師寺さんが格闘ゲームをしているのを眺めて、それに飽きた彼女が苦労して取ってくれた何かのキャラクターのぬいぐるみをゲームセンターに置いてあるレジ袋に詰めて、私は電車で家に帰った。
家に帰ってくると兄貴と、年齢は違えど幼馴染みの二人が私に向かってクラッカーを鳴らせた。顔に糸のような物がかかる。
「若菜ちゃん卒業おめでとう!」
「おめでとう、これで高学歴だな」
「なにそれ」
「高卒で高学歴大卒で大学歴って言うだろ。俺は中学歴」
「普通言わないと思う……」
「若菜、おめでとう」
そう言って兄貴は私の頭を撫でようとしてハっとしたように手を引っ込めた。そんなんじゃ一生童貞だぞ、と私は思う。
弥生ちゃんの手作りケーキに、達也が買ってきたケンタッキーチキン、サイダーやコーラやオランジーナなどを飲んだ。
「これつまらない物ですけど」
「開けていい?」
「どうぞ、どうぞ」
弥生ちゃんがみんなを代表してプレゼントをくれた。どうせなら兄貴に貰いたかったと思いながらラッピングを解くと、女物のネックレスとピアスが入っていた。弥生ちゃんに話した記憶がないけれど、私がピアスをコレクションしているのを知っていたらしい。
「ありがとう……」
「若菜が無事高校を卒業できてこんなにめでたい日はない!」
達也は大真面目に引き締まった表情でそんなこと言った。
「若菜さん、家事と勉強の両立感服いたします」
弥生ちゃんはいつもよりさらに丁寧な言葉を使っていた。
兄貴はフライドチキンの余りを囓りはじめた。
「でも若菜。お前将来何になりたいんだ? 金持ちだから働かないでも暮らせることは知ってるけど」
「誰かのお嫁さんかな」
できることなら兄貴の奥さんになりたい。
「知ってるぜ、そんなこと言って本当は俺の女房になりたいんだろ」
「はいはい、勝手に言っててくださいねー」
弥生ちゃんも帰って、兄貴も自室へ行った後、達也が私の部屋へ来た。
「今日は生理だよ」そう言うと「ごめん」と言って彼も帰って行った。
四月から通信制大学で勉強することは決まっている。だから引き続き勉強だ。お父さんの部下の斉藤さんも呼んで諸々の手続きも済ませてある。
達也は仕事なので勘弁してあげるけれど、兄貴を呼んできて庭の雑草を鎌で刈っていった。兄貴はブーたれるが、ドリップコーヒーやコーラで釣って手伝わせた。なんで鬱病になるとカフェインが大好きになってしまうのだろうか。
「楽しいね!」
「……ぜんぜん楽しくないよ」
妹との二人きりの時間が楽しくないなんて兄貴は可笑しいのではないだろうかと冗談で思った。
その日は鬱病の人に良い食事としてはこりにこったものを夕食に出した。鮭とキノコの蒸し物に目玉焼き乗せハンバーグ、南瓜のサラダを出した。兄貴は黙って完食した。
すごく嬉しい。
通信制大学の勉強が始まる前に、地元の精神科病院の一室で行われる、精神障害者の家族会に出席した。
子供だって舐められないようにいつもより濃いめに化粧をしてチャコールグレーで短くはないタイトスカートのスーツを着ていく。学歴コンプレックスをこじらせて常日頃からホワイトカラーのようにスーツを着ている達也のことをこれでは言えないと思った。
家族会では、精神病の家族の現状を話して、司会の人や何か発言したい人が何か言ったりして進んだ。二十人近く参加者がいるのに、時間は二時間しか用意されていなかったので、あっという間に終わってしまた。
毎月ある会合だが気が向いたときだけ電話予約して行くようにしている。参加費は無料だ。
息子が統合失調症の知り合いのおばさんと家族会が終わった後、ファミレスでお茶をした。家族会で知り合ったおばさんだ。私のことは娘のように思っているなどと言う少し大げさでうさんくさいおばさんだ。
そのおばさんはくるくるパーマにブルーのセーター姿だった。
ファミレスでドリンクバーのカルピスを飲んでいるとおばさんは言った。おばさんはティーパックの紅茶を飲んでいた。
「鬱病は中々年金貰えないけれど、治るからいいわよねえ」
「治っても再発がありますから、治らないようなものですよ」
「若菜ちゃん、高校卒業したと思うけど、これからどうするの?」
私は兄貴が通院している病院で、まだ子供なのに病気の兄と二人暮らししている女として有名だった。
「通信制大学に進みました。それ以外のことはまだ考えていませんね」
カルピスの甘酸っぱさは青春時代が殆どない私にも平等に青春味だった。
「いい人はいないの?」
「いませんねえ」
「友達は?」
「それなりにいますよ」本当は少ししかいないけれど、私は友達とは深い付き合いをしている方だと思う。
「ねえ、若菜ちゃんはうちの子とも歳が近いし、一度会ってみない?」
「やめておきます。私がおばさんと知り合いだと知ったら、ショック受けると思いますよ」
正直、統合失調症と鬱病を一緒にされたくない。鬱病は誰だってかかる病気で、統合失調症のようにある種それにかかるための素質がないとかからない病気とは違う。兄貴の方がずっと軽いのだ。
「そうよねえ……私と知り合いだってわかったら、また部屋の壁を殴るかも」
ふう! ほうらね! 統合失調症の患者は壁とはいえ暴力を振うほど狂っているんだ! 家の兄貴は、暴力なんて振ったことがない。無害な青年なのだ。
「息子さん、薬は毎日飲めてますか?」
前におばさんがごちゃごちゃ言っていたけれど、そんな汚らわしい息子の名前など覚えたくもない。
「あまり飲めてないのよ……一週間に良くて二度くらいしか飲んでくれないから、砕いて食事の中に混ぜてるわ」
家の兄貴は反抗したこともあるが、ちゃんと薬を飲んでいる。おばさんの息子とはステージが違うのだ。
「たいへんですねえ」
おばさんは誰かに悩み事を話せて感極まったのか、顔を歪めた。見栄っ張りなのだろうから、そんなこと家族会では言いもしなかった。
「……薬を飲んでもらえる秘訣とかはない?」
「難しいでしょうけど、本人に病識を持ってもらうことですね。病気じゃないと思っている人は薬飲まないでしょう」
「そうよねえ……そうなんだけどねえ……」
それから少ししておばさんが会計を済ませて私達は解散した。
家に帰ってきて趣味で育てている部屋のサボテンに水をやった。
過酷な場所でも花を咲かせる植物はとても美しい。
雨がざあざあと降ってきた。車の駐まる音がする。玄関のチャイムを鳴らしてきた。鍵を開けて出迎える。こんな雨でもスーツ姿に着替えた達也がそこにはいた。
「やらせろ」
私よりはるかに身体が大きい彼は覆い被さるように顔と顔を近づけてキスしてきた。
もう生理は終わっているが家でするのは無理だ。
「今兄貴いるから無理」
「いいから」そう言って達也はもう一度私の口にキスをした。
そして二人は二階の私の部屋へ行った。
「本当にするの? 兄貴にばれるかもよ」
「ばれたって別にいいよ」
私はベッドの上に倒された。
そしてしばらくして達也は兄貴に顔を見せると、車で自分が住んでいる家へと帰っていった。
夕飯の時間、達也とのことが兄貴にばれているんじゃないかと、顔をうまく見られない。だけれど、今夜も卵料理を作った。
雨の日だからか兄貴はいつもよりいっそう憂鬱そうな顔をしている。
兄貴は今日もブログを更新するのか、夕飯を食べるとさっさと部屋へと戻っていった。
お風呂に入って考えていた。
兄貴へ罪悪感を覚える。達也とするといつもそうだ。
私は兄貴が好きだけれど、どうせ兄妹だから今以上の関係にはなれないと知っていて、だから達也に抱かれる。私は達也を利用しているのだ。身体の中にあるもどかしい気持ちの解消法として。
夜。兄貴がゲームをしたり、私が義務づけた活動記録表を書いたりしているような時間帯。
いつもの時間に起きて、歯を磨き洗面と軽い化粧を済ませ、兄貴の部屋まで起こしにいく。睡眠薬が効いているのか彼はまだ眠っていた。
「起きてよ」そう言いながら部屋のカーテンを開ける。
彼は呻くような声と一緒にベッドから上体を起こした。
「……今着替えるから下で待ってて」
「わかった」
兄貴は三十分以上もかけて、ジャージを着て歯を磨いて私の前に来た。
そして私達兄妹は散歩に出かけた。
外の並木道にはまだ何かを期待させるような色の桜が咲いていた。毎年のことだが少し感動を覚える。ピンク色の桜は何かを象徴しているような気がした。それが何なのかはわからない。
「桜綺麗だね」
「うん」
「もうすぐ年度初めだけど、何か目標とかある?」
「ブログのユニークアクセスが累計で千を超えることかな」
「なにそれ?」
「同じ人が一日に何回アクセスしても一件としか数えないアクセス数のこと」
よく知らないけれど、軽く達成できそうな目標に思えた。
「ふうん、慎ましい目標だね」
「そう言う若菜は?」
兄貴と結婚などと言って困らせようとは思わない。
「無事、来年の今頃大学二年生になってることかな」
「そっちの方が慎ましくないか」
「ぜんぜん慎ましくないよ」
散歩が終わり、朝食をとって家事と勉強の合間に兄さんのブログを観た。
私や達也はたまにしかコメントしないけれど、弥生ちゃんは毎日コメントしているようだった。
弥生ちゃんの気持ちは知っている。
兄貴と血が繋がらないで生まれた彼女がひたすら羨ましかった。
入学式を終え教材が家にどっさり届いてしばらく経ったある日、弥生ちゃんに合コンに誘われた。彼女も幹事にどうしても来てほしいと頼まれて、人数合わせに私にも声をかけたようだった。
通信制とはいえ折角大学生になったのだし、一度くらい経験してみようということで参加することにした。
そこそこお洒落をして、弥生ちゃんのことは黙って兄貴に嫉妬させようと「合コン行ってくる。食事はカップ麺を自分で作って」と言うと、興味なさげに彼は「そう」と頷くだけだった。
一人で電車に乗って弥生ちゃん達が待っている合コン会場まで移動した。先ほどの兄貴の態度が気にくわない。「そう」はないだろ、「そう」は。私が今まで兄貴のためを思って何を犠牲にしてきたのかまったくわかっていないらしい。本当に自殺されたら困るけれど、責任を取って自殺してもおかしくないくらい兄貴は私に迷惑をかけている。ただ私はその迷惑を迷惑だと思わないだけだ。兄貴限定の青い世話焼きロボットのようなものだ、私なんて。
地元から一番近い繁華街の居酒屋で合コンは行われた。
お話くらいは付き合ったが、ポッキーゲームや一気飲み、王様ゲームは断った。弥生ちゃんも断っていた。
お酒を飲んだ人は皆、ぐったりしてきたころ、一人の男に「休みに行かないか?」と誘われたが「嫌です、弥生ちゃん、帰ろう」と言って私達はタクシーで帰っていった。何年も会っていないけれど親が金持ちだとこのくらいのことはできる。
家に帰ってきて、兄貴の部屋の前を通ると、パソコンのキーを叩く音が聞こえてきた。心配して眠れないで待っていてくれたのかと思うと、かなり嬉しい。
私は兄貴の部屋に入った。本棚が満杯なので床に文庫本や単行本が詰んであった。
私は兄貴のベッドに座った。
「兄貴い、合コン行ってきたよ」
「……どうだった? いい男いた?」
兄貴はまったく嫉妬なんてしていないようだった。それどころか私の未来を案じて彼氏が出来た方が良いと思っているらしかった。
「兄貴以上に良い男なんていなかったよ」
「よくそういう嘘を吐けるね……」
パソコン画面を見たままの姿勢で兄貴はそう言った。
「本当にそう思ったんだよ」
「ぼくだったら達也の方がはるかに良い男でしょ」
「やだよ、あんなスーツフェチ」
「……気持ちはわかるよ。ぼくもたまに着てみたくなるもの」
「そう言えば、私も殆ど着たことないね」
「……それはぼくのせいだね」
「大丈夫だよ、気にしないで」
何が大丈夫なのかわからないけれど、私は兄貴にそう言った。
兄貴は殆どパジャマしか着ないで、寒いときは肌着を着込んだり、上からカーディガンを羽織ったりするだけで、お洒落に無頓着だけれど、洗濯してやるときにはちゃんと柔軟剤を入れて洗濯機を回してる。
恋人じゃない、命の恩人でもない、憧れの先輩でもない、ただの兄貴だ。その兄貴の世話をしているときが生き甲斐に感じられた。
自炊、洗濯、家の掃除は毎日やる。
私は自称兼業主婦だ。
洗濯物を干した後、兄貴と二人でバスに乗って精神科病院まで薬を貰いに行った。
最近とても調子が良いことを主治医に言うと、これからは薬を二週間分出すから、二週間に一度通院するだけでいいと言われた。
兄貴は喜んでハイテンションになっていた。五年ほど通院してやっと通院する間隔が延びたのだからそれも無理はない。
薬局で薬を受け取ると、私は兄貴を誘った。
「通院間隔が延びたお祝いに焼き肉でも食べる?」
「いいの?」
「いいよ」
バスで少しは栄えている場所まで移動して、そこから徒歩で焼き肉屋に行った。
兄貴も私もあまり食べないので、ランチを頼んだだけだった。
兄貴は鬱病だとは思えないほど、嬉しそうに笑って、べらべらと小説や映画の話をした。
焼き肉を食べた後、兄貴と近場のショッピングモールで色々な店をまわった。兄貴に新しい眼鏡を作ってやろうと思ったのだけれど、彼は嫌がった。
安っぽい店でアクセサリーを眺めて、可愛いピアスを一つだけ買った。
私ばかり楽しんだら悪いので兄貴に付き合って本屋にも行った。彼は小説を三冊も買っていた。
家に帰ってくるとくたくたで、大学の勉強をする余裕なんてなかった。
引き出しの中のクッキーの空き缶の中に買ってきたピアスを入れた。ピアスのコレクションが詰まっている空き缶だ。この空き缶は二つ目の空き缶で、ピアスは全部で百個はないけれど、五十個は確実に超えていた。
包装の中のピアスのコレクションをしばらく眺めていた。
自分で耳に穴を空けるのは怖いが、どれも個性豊かな装飾品だった。だけれど人間はもっと個性豊かだ。人類の多様性の中では、兄貴が鬱病なのも別に珍しいことではない。ただ誰かが支えてやればいいだけだ。その〝誰か〟が一生私だったらそれはとても光栄で嬉しくて素晴らしいことだ。
少し休むと家事の続きを済ませた。
夕飯。昼に焼き肉を食べたせいか私はお腹が空いていなくて兄貴もそのようだった。
「ご飯、三分の一くらいでいい。おかずももっと少しでいい」
達也を電話で呼ぶことにした。余った分の夕飯を食べてもらうのだ。
彼は家の駐車場に車を駐めると「ただいまー。飯はあ?」などと言って食卓へやってきた。うまいうまい言って食べてくれるので兄貴ではなくても結構嬉しい。
ご飯を食べ終わると、彼は私の部屋へやってきた。
私が大学の勉強をしている間、達也はごろごろしていた。
勉強に疲れてくると、二人ですることになってしまった。
達也が他の部屋に眠りに行って、兄貴から送られてくる活動記録表をチェックすると私も早めに寝た。寝ようと思えばいくらでも寝られるが普段は六時間三十分の睡眠で生活している。贅沢な睡眠時間だ。
彼女とは携帯の番号を交換している。
薬師寺さんに誘われて、兄貴を一人家において、迎えにきてくれた彼女の車に乗って出かけた。彼女がレズビアンなのは知っているので、怖くて家には入れたことがない。彼女の車は赤くて可愛らしい普通の軽自動車だった。薬師寺さんは煙草を吸いながらマニュアルの車を運転する。
「若菜がいないと生きていけない男とは最近どう?」
薬師寺さんは前に私が言ったことをまだ覚えているようだった。
「とくに変わりなく」
「それじゃあ話が続かないじゃないか。何か面白いことを言ってくれよ」
「面白いことですか。絶対に秘密にしてくれるなら教えてあげますよ」
「約束するよ」
「その男は鬱病なんです」
「へえ」
「そして私の血が繋がった兄貴なんです」
そこまで言うと薬師寺さんは煙草を吸っているのもあって、少しむせた。
一瞬だけ私の目を強く見ると、彼女は「お前、兄貴とセックスしてるの?」
「したいけどしてません」
「じゃあ他に相手でもいるのか?」
「さあ……」
「若菜ってビッチな若菜ちゃんだったんだな。おまけに近親相姦に憧れる変態」
「なんとでも言ってください」
そのとき私は吸ったこともないのに煙草を吸いたくなった。吸わないけれど。
それから私達は少し黙った。
助手席で一時間以上身体を揺らされて、東京の繁華街まで来た。薬師寺さんはバカ高い料金の有料駐車場に車を駐めた。
映画館で3D映画を観て、お洒落なカフェでコーヒーと一緒に食事もとった。
その後で、夜までの時間潰しということで、ネットカフェにも行った。ペアシートを選ぶと、むらむらするのか薬師寺さんは私の首、脇腹、胸、尻、脚、などに手を這わせた。女同士だからか、いやらしさを感じなかった。
店が開く午後六時になると私と薬師寺さんは新宿二丁目にあるレズビアンバーまで行った。
「お前、今日シフト入ってないだろ」
カウンターの中の男にも見える綺麗な女の人が薬師寺さんに言った。
「プライベートで来たんだよ。彼女連れてな」
私は薬師寺さんの彼女ではないけれど黙っていた。
男性入場禁止で、カウンター席だけのレズ達があつまるお店らしかった。気に入った女がいたら自分で話しかけて友達や恋人になるらしい。
「名前は?」
「七瀬若菜です」
「薬師寺のどこがいいの?」
「がさつだけど優しくて面白いところです」
「ふうん、二丁目のレズによくいるタイプだけどね。馴れ初めは?」
「同じ通信高に通ってました」
「歳はいくつ?」
「二十一歳です」
ごめんなさい神様、私は嘘を吐きました。
「薬師寺とはセックスするの?」
「……秘密です」
女同士の性行為でもセックスと言うのだろうか。
薬師寺さんは黙ってテキーラを飲んでいた。
ふいに口を開く。
「あたしの女をあんまりいじめるなよ」
「夜は自分がいじめてる癖に。若菜ちゃん、こいつプラチナフィンガーって言われてこの辺じゃ有名なんだよ」
「……へえ」
私はちょっと引いた。
「おい、お前、いい加減にしろよ、若菜にそんなこと教える必要ないだろうが」
「あんた何人、女泣かせてきたと思ってるの。まだ手遅れじゃないのなら、被害者を減らそうとしただけだよ」
薬師寺さんとバーテンダーの人の会話が上の空に聞こえる。
気がつくと私はホテルのベッドの上で服を着たまま寝ていた。大きなダブルベッドがある部屋なのできっとラブホテルだと思う。
薄明かりの中、薬師寺さんはソファに座ってパチパチ火がはじける煙草を吸っていた。
「寝ちゃったから連れてきただけで何もしてないよ」
「良かった……」
「良かった……の前にありがとうだろ」
「ありがとうございます」
薬師寺さんはベッドの上にジーンズを穿いた膝を乗せて、私に寄ると口にキスをしてきた。達也とはまた違う味がした。
「迷惑料はこれで勘弁してやるよ」
「……はい」
ホテルを出ると眩い朝はもう来ていた。
薬師寺さんに車で送られて朝帰りすると、兄貴が泣いて玄関から飛び出してきた。
「ぼくと生活するのが嫌で出て行って、もう戻って来ないと思った」
「兄貴はバカだなあ。私にだって友達付き合いくらいはあるっての」
「大学の友達?」
「違う。高校の同級生」
「やっぱり男?」
「違う。女の人だよ」
薬師寺さんがレズだということは黙っていた。
急いで朝食を作って食べさせてやった。いつもと同じメニューにたまたま買ってあったウィンナーをつけただけなのに兄貴は喜んでいた。
今泣いた烏がもう笑っていた。
六月になって雨の日。雨が多いのに兄貴の病状に変化は殆どなかった。良いことだ。
現場の近くの公園にダンボールの中に入れられて子猫が捨てられてたと言って、達也が家までダンボールごとその子を連れてきた。
「冷えているから身体を暖めてあげてくれ」
そう言って達也は近くのスーパーまでキャットフードを買いに行った。
猫を毛布でくるんで身体を暖める。兄貴が部屋から出てきて「飼うの?」と言うが私はその小さな三毛猫に一目惚れしてしまっていた。「飼います」
ダンボールに一緒に入っていた封筒を乾かしてから開けると、「どなたか優しい方、この子のことをお願いします」と書かれていた。
成猫用の餌を買ってこないかひやひやしていたが、達也はちゃんと子猫用の粉ミルクタイプの餌を買ってきてくれた。ぬるま湯に溶かして皿に移すと子猫に与えた。
床に布団を置いておくと、子猫は勝手に包まって眠ろうとしていた。
翌日、達也は職場に事情を話して特別に休みをもらったらしく、車でホームセンターまで猫砂や猫用のトイレ、首輪、玩具、餌入れ、水入れ、など二人で買い物に出かけた。
「俺達が結婚して赤ちゃんのために必要な物を買おうとしたらもっと沢山買うだろうな」
「結婚しないから」
「そうかあ?」
「絶対にそうだよ」
家に帰ってきてネットで調べると動物病院で避妊手術ができるのは生後四ヶ月以降らしく、家の三毛猫はまだ生まれて一週間も経っていないのではないかと思わせるほど小さかった。
猫用のトイレや餌入れをセッティングする。
「この猫、名前はミーナにしようぜ。若菜のナを取って」
「うん、じゃあそうしようか」
それからしばらくして夕食をとると達也は家へと帰っていった。
兄貴もミーナが気に入ったらしく、隙さえあれば抱っこしていた。
猫を家で飼うのは思ったより楽だった。時々生理現象として飲み込んでしまった毛玉と一緒に嘔吐する。それ以外はトイレはちゃんと決められた場所でするし、散歩につれて行く必要もないしで、餌だけあげすぎないように気をつければいいだけだった。
お風呂に入るのは嫌がるけれど、ミーナは夜になると私の部屋の前のドアを鳴きながらよく引っ掻いた。朝までよく一緒に眠った。猫はとても柔らかく良い匂いだった。
通信制大学にもスクーリングはある。やはり高校の時と同じで大半が現役の生徒だが、中年や新卒の年の人も混ざっていた。
チャラ男っぽい生徒に声をかけられたが、「私好きになった人とすぐ心中未遂しちゃうんですよー、だから止めた方がいいですよ」と言って逃げてきた。別にこれ以上友達が欲しいとも思わない。
梅雨も明けてもう夏だった。休みがもらえたからと、達也と二人きりで海へ行った。最初は兄貴も行こうとしていたようだが、達也が何か言ったのか、それとも自主的に気を利かせてか、行かないことにしたらしい。私にとっては楽しさも幸福度も半減だ。
太陽は今年の夏も飽きずに砂浜を熱くさせていた。
二人きりで来ているせいか、達也は海水の中で私と身体を密着させた。そのまま波に揺られる。お腹に何か当たった。
「こんなところでふくらませないでよ」
私のお腹を押しているのは確実に男のモノだった。
「悪い悪い」
達也はスカっと笑ってそう謝った。
それからも二人で波を楽しむと、遅くなる前に車に乗り込んだ。
「なんで、付き合ってくれないんだ」
「みんなの若菜ちゃんだからだよ」と言って誤魔化す。達也からはもう何度も告白されていた。
「やっぱり浩一の方がいいのか? でもお前ら兄妹だぞ」
「バカなこと言わないでよ。兄貴なんて身内だから面倒見てるだけだよ」
「本当にそうならいいけどな」
ごめんなさい、嘘です。
ある日、私は兄貴とミーナを家において、聖域だった場所まで歩いて行った。子供の頃よく通った道を懐かしく思いながら歩く。大人の足だとあの頃よりだいぶ早く聖域まで到着することができた。
廃バスは昔より更に錆や汚れで汚くなっていたが、撤去されないでまだあった。
バスの汚い座席にハンカチを敷いて座って考え事をした。私はどうすればいいのだろう。このまま兄貴に執着していて良いことはあるのだろうか。だがいつまでも一緒にいたいと思う男は兄貴だけだった。それは達也ではなかった。
兄貴が散々虐められてた小学校を久しぶりに見に行った。中には入らないで放課後開放された校庭で子供達が遊んでいるのをただ眺めた。事務員の人に「どうかしましたか?」と声をかけられたが「卒業生です」と言うと、それ以上は何も言われなかった。
校庭の隅っこの方で沢山の生徒に囲まれて小突かれている男子がいた。私は手を上げて「コラア!」と叫んだ。聞こえていないようで私の声を無視して男子達はさらにターゲットの男子をリンチした。
まあこんなものだろう。
私は家に帰った。
兄貴は放っておくと、自分の体臭が薄いのを良いことに一ヶ月だって風呂に入らない。私はワンピースの水着に着替えて兄貴の部屋に押し入ると、無理矢理パンツ一枚になるまで服を脱がせた。
「はい、海水パンツ。これ穿いてお風呂まできてね」
「わ、わかったよ」
風呂の洗い場で兄貴の背中を流してやる。左手首のリストカット痕は見ないようにした。私が至らないせいでできた傷痕のように思えた。
定期的に洗面所でバリカンで刈っているのかいつまで経っても昔みたいに長くはならない彼の髪と頭皮をシャンプーで洗う。
そして二人で並んで浴槽に入った。お湯が沢山浴槽から溢れ出る。
「水着とはいえ妹と風呂入るなんて結構変態なんじゃ……」
「一ヶ月風呂に入らないだけで変態だよ」
「若菜は嫌じゃないの?」
「嫌だよ、でもしかたないじゃん」
兄貴を先に風呂場から外へ出して、私は水着を脱ぐと普通にお風呂に入ってそれから着替えて部屋に戻った。夕食の時間まだ恥ずかしいのか兄貴はもじもじとしていた。
夜中に弥生ちゃんからLINEで通話がきた。
彼女にはよく相談される。どうしたら兄貴が振り向いてくれるのかと。実の妹の私が兄貴とくっつくのに比べたら、弥生ちゃんの恋はベリイイージーモードのようなものだ。弥生ちゃんは恋敵のような存在だけれど憎めないどころか、幼馴染みとして好きだった。私が薬師寺さんのような性癖だったら、弥生ちゃんのことを食っているだろう。
「あまり言いたくないけど一緒にお酒でも飲めば? 押し倒してくれるかもよ」
「なんであまり言いたくなかったんですか?」
「鬱とお酒は相性悪いから。長期的に見れば飲酒を続ければ鬱は酷くなるよ」
「病気が酷くなるようなことわたしにもできませんね……」
「弥生ちゃん兄貴のどこが好きなの?」
「子供の頃わたしのことを救い出してくれた人ですから。浩一さんがいなかったら、わたしはもっと酷い人生を過ごしていましたよ」
「一途だね。ストーカー体質だね」
はっきり言って人のことを言えないのは自分でもわかっていた。女は皆、ある程度ストーカー体質なのではないかと錯覚した。
「高校で好きな人はできなかったの」
「できなかったですね。あの頃は浩一さんの鬱も酷かったですけど、週に何度も顔を見せてたじゃないですか」
「そういえばそうだね」
この辺で通話を終わらせた。
兄貴のブログを観る。まだ大した量のログは残っていなかったが、兄貴は映画や小説や漫画、ようするに物語のことを饒舌に語っていた。その代わりなのか、自分の生活や病気のこと、思っていること、不満などは一切ブログに書き込んでいなかった。自分の兄がとても理性的に感じられた。
翌日。散歩が終わると兄貴に言われた。
「今度弥生と二人でプールに行ってくるから、服を買いに行くのについてきてほしい」
「二人きり? デートってこと?」
「たぶん、そういうこと」
「弥生ちゃんのこと好きなの?」
「さあね、それは秘密だよ」
まんざらでもないようで私は嫉妬したが、兄貴と二人でバスで近くの服屋まで行って、白のロング丈のTシャツと黒のスキニージーンズ、靴屋にまで行って、黒の革靴まで見繕ってやった。
帰りに夕食代わりにハンバーガーを食べた。
ハンバーガーよりカロリーがあるのかもしれないけれど、私はダイエットということでフライドポテトしか頼まなかった。兄貴は普通にセットメニューを頼んでいた。
「弥生ちゃんのどこが好きなの?」
「だから、それは秘密だって」
「じゃあ、どんなところが魅力的に思うの?」
「優しいところだね。とても母性的だ。ぼくたちはお母さんがいないようなものだから、何が母性的なのかわかっていないのかもしれないけどね」
母性的なら私も負けてないと思うけれど、血が繋がった妹には母性を感じないようにできているのだろうか。
「好きなんだったら早く告白した方がいいよ。逃げられるよ」
「だから好きかどうかは秘密だって」
そして少ししたある日、弥生ちゃんが家まで迎えに来て、二人はデートへ行った。弥生ちゃんはノースリーブブラウスに長めのスカートという格好だった。頭にはキャスケット帽をかぶっていた。
私は嫉妬で気が狂いそうになっていた。
昼頃まで家でふて寝していると、薬師寺さんから連絡があって新宿の二十四時間営業の飲み屋で飲むことになった。今回はレズビアンと関係のないお店らしい。
薬師寺さんも焼酎をロックでガンガンいっていた。
私達はおつまみも殆ど頼まずに水を飲み続けた。
酔っ払った薬師寺さんが私の向かいから隣に席を移ってきて胸に触ってきた。
「小さくて可愛い」
「うるさいですね」
「あたしね、最初に入った高校で強引に男にされて以来、男のことが信用できなくなったの」
「そうですか」
「焼酎ダブルのロックおかわり」
薬師寺さんはそれからも酒を飲み続けた。
夜になってくると、薬師寺さんはべろべろに酔ってしまったので運転代行を頼むことになって、私は電車で地元へと帰っていった。
家へ帰ると、猫用のハウスの中でミーナがにゃあにゃあと泣いていた。急いで粉ミルクを作って飲ませてやった。その後で私はミーナを抱き上げる。生命の重さがそこにはあった。
兄貴は私より遅くに帰ってきた。
「弥生の家でラーメン食べたから夕食はいらないよ」
この調子なら、兄貴はまだ弥生ちゃんとセックスしていないようだった。
秋になっても薬師寺さんとの関係は途切れなかった。彼女は夜のバイトでお金を結構稼いでいるらしく、ふらふらできる身分のようだ。
その日は別の場所に遊びに行く前に、薬師寺さんとパチンコ屋へと行く。私は初めて入る場所だった。
彼女がパチンコを打つのを後ろから眺めていた。五千円がすぐになくなって、紙幣の投入口に一万円追加で入れようとしたところで私は薬師寺さんを止めた。
「パチンコはもういいですから、他のところで遊びましょうよ」
「……わかった」
薬師寺さんと服屋を見てまわったのだけれど、彼女が恋人に求める服装の趣味は女の子らしい格好のようだった。趣味嗜好が男に近いのだ。
その日も結局昼間から酒を飲んで、薬師寺さんは泥酔してしまった。この状態なら家に行っても何もされないと思い、彼女が住んでいるアパートまで一緒に行った。
「今日は泊っていってよ」
兄貴も最近は安定しているし、電話だけ入れて泊ることにした。
テレビを観るくらいで何もしないで夜眠り、朝になって朝食の用意をしている薬師寺さんだけれど、微妙にふらふらしている。熱測ってと言って測ってもらうと三十八度五分もあった。
「今日はアルバイトあるんですか?」
「ある」
「休みの電話を入れてください」
「やだ」
「なんで」
「クビにされるのが怖いしみんなに迷惑がかかるから」
「……そのバイト先の電話番号出して」
私が言うと薬師寺さんはしぶしぶスマートフォンにバイト先の電話番号を表示させた。
私が病欠の電話をかけた。
「朝早く失礼します。薬師寺良子の親なんですけど、熱が三十八度以上あるので今日は休ませて頂けますか? ええ、ええ、すみません、はい、本人にもそのように言っておきます。ありがとうございます。失礼します」
私は薬師寺さんの顔を見て笑った。
「今日休めるようにしておきましたから。次のシフトの時、まだ熱があったら今度は自分で電話してくださいね」
「……わかった」
家に帰る前に、冷やごはんに水を加えて鍋でぐつぐつと煮立たせた。一食分は薬師寺さんの朝食として出して、残り二食分のおかゆは冷めたらラップして冷蔵庫にしまってくださいと、彼女に言っておいた。
「市販の風邪薬で治らなかったら内科に行ってください」
私は電車で家まで帰っていった。
その日はずっと家に居たので家事をしたり大学の勉強をしたり、兄貴に毎日書かせている、活動記録表を読む。たまに「若菜に怒られた。落ち込んだ」などと書かれているので、夕食が終わってすぐの時間に兄貴の部屋へと行った。兄貴は映画を観ようとしていた。
自分の性格があまりよくないという自覚はあるけれど、嘘泣きをした。
「兄貴のためを思って私は厳しくしてるんじゃん、本当はもっと優しくしたいよ」
目の周りをこすりながらそう言うと、兄貴は混乱した。
「え、なんのこと」
「活動記録表に、私に怒られて落ち込んだって書いてたじゃん」
「ごめん! 正直に書きすぎた」
「私に怒られても落ち込まないようにしなさい。兄貴のためを思ってやってるってわかれば落ち込まないよね」
「……わかった」
兄貴は不服そうに答えた。
また日曜日がきたので夕方から達也とドライブに行った。兄貴はお留守番だ。パーキングエリアくらいでしか下りないで、達也は混んでいない限りずっと車を飛ばしていた。私は助手席の窓を開けた。
「浩一を家において俺と二人きりでドライブなんて良かったのか?」なんて達也は言う。
「兄貴はただの兄貴で私もただの妹だよ。別々に過ごす日くらいいくらだってあるよ」
「そりゃそうなんだろうけどな」
「達也、本気で私のことブラコンだって思ってるの?」
「思ってるに決まってるだろ」
「どんなところが?」
「兄貴と毎朝散歩に行ったり治療用の食事を作ったり、普通の妹は兄貴が鬱病になったって、もう知らん、としかならないよ」
「そういう妹には愛が足りないのです」
「ほら、やっぱりブラコンじゃん」
「だからブラコンじゃないって! 本当にブラコンだったら達也となんかいろいろしてないよ」などと言いながらも私にはブラコンの自覚があった。なんて嘘吐きなんでしょう私。
そして外が真っ暗になった頃、達也がパーキングエリアの目立たない場所に車を停めたので、助手席から私は達也を慰めてやった。それだけでバカみたいに愛車を汚す達也がひとつ歳上なのにかわいく見えた。
風邪が治ったらしい薬師寺さんが頻繁に連絡してきた。車で少なくとも三十分はかかる場所に住んでいるのに、よく彼女は家まで迎えにきてくれた。レズだし綺麗な人なので兄貴が惚れたら困るので家の中にはいれない。
毎日のように喫茶店や、カラオケボックスで曲は入れないで何時間も喋っていた。今日は私の地元の小さなカラオケ屋でお話をしていた。都会の方がカラオケ屋であっても綺麗なお店が多いが、ここなら私にとっては移動時間がかからないので、薬師寺さんが気を利かせてくれているのだろう。
薬師寺さんがふざけて後ろから私の胸を揉んだ。
「……小さいから出来るだけ触られたくないんですよ」
兄貴なら別だけれど。
「あたしはいいおっぱいだと思うよ」
薬師寺さんが珍しくカラオケに一曲入れた。それは物悲しい歌詞のジャパニーズ・ロックだった。とても上手な彼女の歌声を聴いていると何故だか、いつかは兄貴が兄貴じゃなくなるように思えて、悲しくなってしまった。
薬師寺さんは何かと私と兄貴のことを聞きたがった。
小さい頃は私も兄貴も親戚の家族と一緒に住んでいて、ご飯もろくに食べられない、小遣いも貰えない上に、兄貴は学校で虐められていたのですぐに図書館通いになってしまった、そういうことを私は話した。
「その頃からお兄さんのこと好きだったのか?」
「どうでしょうね。もしかしたら生まれた時から好きだったのかもしれません」
「レズのあたしが言うことじゃないけど非生産的だよ」
「子供なんていらない。ずっと一緒に居られればそれでいいんです」
私も言ってしまった。
「世界で一番兄貴が好きですよ」
「携帯貸して」
「はあ?」
「その兄貴の携帯番号出して貸して。この間のお返し」
「……」
怖い物みたさに私は兄貴の番号を画面に表示して薬師寺さんに携帯を貸した。
「あ、もしもし。私ゴーゴーカラオケの店長の山田と申します。あなたの妹さんの若菜さんが料金を払えないらしいのでお金を持ってきてもらえませんか?」
横で聞いていた私は、それって俺俺詐欺みたいなものじゃん……と思った。
「来るってよ」
「……へえ」
正直意外だった。てっきりお父さんの部下の斉藤さんに連絡でするのかと思っていた。
そしてカラオケ屋の場所がわからなかったのか、四時間も経って兄貴はカラオケ屋の前から私の携帯に電話してきた。
「202号室にいるから来て」
「え、だって……」
「いいから」
少しして兄貴が部屋に入ってくると、薬師寺さんはげらげら笑った。
「じゃあ、あたしは帰るから。兄貴とカラオケ楽しみな」
「はい」
「どういうことだよ」
兄貴はとても不機嫌そうだった。
「たまには兄貴と二人でカラオケしたかったの」
「はあ! ふざけんなよ」
「ごめんごめん……でもいつも兄貴の代わりに家事やってるの私だよね。それくらい、いいじゃん」
「……」
私達はカラオケを楽しんだ。兄貴は歌声を聞かれるのが嫌なのか一曲も曲を入れなかった。
何故か気まずくて私は喋らないで歌ばかり歌っていた。
夜十一時頃になって兄貴は疲れたのか眠ってしまった。口にキスして舌も入れてやったのに起きなかった。ざまあみろ。そんなことをしても兄貴は起きないので、深夜二時頃になって無理矢理兄貴を起こすとカラオケ屋を出た。
ここから家までは徒歩で二十分はかからないくらいだ。
兄貴と真夜中の地元の高架鉄道の路線沿いに下を歩いた。
私は「兄貴ー! 好きー!」と叫んでしまった。
「ぼくも恋人同士の好きじゃないけど好きだあ! いつもありがとう」
いつものテンションじゃ絶対に言わなそうな言葉を二人で叫んだ。
そのときはそれで十分に思えて涙が出てきそうになった。
翌朝、私が起きるより前に兄貴が部屋に入ってきて、「若菜、ぼくに昨日キスした?」などと聞いてきた。覚えていないか。「はあ? してないよ」私は嘘を吐いた。結構嘘吐きな方なのかもしれない。
「ならいいんだけど……」
妹にキスされるのがそんなに嫌かと思ったが、私は珍しく惰眠を貪った。
家事もレポートもちゃんとこなせているので良いのだけれど、また薬師寺さんが夕方迎えにきて夜の二丁目に遊びに行った。
今夜は前に行った所より大きなお店で一見さんお断りで、レズビアン達の宴が開かれるようだった。怖かったが何故か好奇心が湧いてしまい私も参加することにした。
会場は普段はレズバーをやっている広めのバーのようなお店で、皆既に服をソファの上に脱ぎ散らかしていた。
私は逃げるか逃げまいか悩んでいると、薬師寺さんに「怖い?」と聞かれて「かなり怖いです」と答えた。
「なら出よう。若菜とは話してるだけで楽しいし」
朝まで開いている居酒屋で薬師寺さんとサシ飲みした。ノンアルコールドリンクしか飲まないけど。
薬師寺さんはまた焼酎のロックを飲んで、焼き鳥の盛り合わせも頼んだ。
「あたしが帰った後、カラオケ屋でどうなった?」
「どうなったって……私ばかり歌っていましたよ」
「何か色っぽい展開はなかったのかい?」
「歩きで帰ったんですけど、兄貴が恋人同士とは違う意味だけど私のこと好きだと言ってくれました」
「すげえじゃん! やったなあ!」
「まあ、嬉しかったですね」
私はもうあまり暑くないのに、冷たいウーロン茶ばかりを注文した。
「薬師寺さんは過去に大恋愛とかしてないんですか?」
「してないよ。あたしには大した恋愛経験なんてない」
「でもプラチナフィンガーって呼ばれてるんでしょ?」
「ちょっと女同士のセックスが上手いだけだよ。試してみる?」
「……試しません」
それから朝がくると薬師寺さんが呼んだ運転代行で家まで送ってもらった。
最近一人暮しを始めたらしい達也の家に遊びに行く。
畳敷きで風呂とトイレ付きの六畳間だった。料理を作ってやって掃除をしてやった。
「パソコンは置いてないんだね」
「スマホで十分だし」
「今時の若者だね」
「別にデスクワークしてるわけじゃないからな。パソコンが使えなくても問題ない」
夜になって飽きもせず達也は私を高速道路までドライブに連れて行った。
翌朝、達也の部屋で目を覚ますと、アパートの駐車場で車を洗っている彼が窓から見えた。よくわからないけれど私も手伝ってあげた。
彼は仕事へ行ってしまった。お弁当くらい作ってあげれば良かったのだろうか。
兄貴には何かあったら斉藤さんか弥生ちゃんに連絡するように言ってあるので、安心して達也の部屋で過ごした。殆ど今の家から出たことがない私にとっては彼の部屋にいるだけで非日常だった。家から持ってきた通信制大学の教材で勉強をして過ごした。
夜、達也が帰ってくると他にも二人ほど男達が狭い玄関で靴を脱いだ。
「こいつ俺の女」などと達也はたぶん職場の同僚に私のことを紹介した。違うと言って達也の立場が悪くなるのも本意ではないので、否定しないで頭を下げておいた。
夕食の準備を忘れていたので、私は急いでモヤシと玉葱と豚肉だけが具の焼きそばを四人前作った。達也とその友達二人は美味い美味いと言って食べてくれた。兄貴の反応とはぜんぜん違うのでそれはそれで嬉しい。
それから達也の友達の二人はお酒を大量に飲んでから帰っていった。
日曜日は達也の定休日だった。
達也の腕は男らしい筋力があって逞しい。その腕に抱かれていると一瞬だが兄貴のことを忘れそうになった。
もう何度目になるかわからないけれど、「本当に俺の女にならないか?」と達也に誘惑された。兄貴のことを簡単に捨てられて達也の女になれたらどんなに幸せだろう、そうも思うがやはり兄貴のことが好きだった。兄貴と一緒にいられるのなら、不幸になってもかまわない。地獄の業火に焼かれても兄貴と一緒だったら幸せなように思えた。
「ならないよ」
その日の晩、達也が料理を作ってくれた。クリームシチューを上からかけたパスタだった。人が作ってくれた料理は自分が作った物より美味しく感じて、私はおかわりまでしてしまった。
格安の元から汚い部屋だったらしく、仕事から帰ってきた達也と二人で大掃除をするときもあった。
達也の家で一週間ほど同棲していた。途中、兄貴や弥生ちゃんから連絡があったけれど無視した。
「俺、このままお前と同棲したい」
「無理なこと言わないでよ」
急に家に帰りたくなったので達也の車で送ってもらった。
家に帰ってくると、兄貴と弥生ちゃんが出迎えてくれた。人のことは言えないけれど、私が達也の家にいる間、ずっと弥生ちゃんが兄貴の世話をしてたと知ると少なからず私は動揺した。
「若菜さんの部屋は入っていませんし、わたしはだいたいリビングか浩一さんの部屋にしか行ってませんから。料理作って掃除して洗濯しただけですよ」
「……そう。ありがとう」
家にきて四ヶ月以上経つ頃にバスで動物病院に行ってミーナの避妊手術してもらうことにした。一時間もしないうちに手術は終わった。家に来た頃より大きくなったミーナのお腹は傷を紐で縫われていた。抜糸のためにまた動物病院に行く必要がある。
ミーナのお腹の傷を見て兄貴は可哀想でちゅねー、などと言って頭を撫でた。
ミーナが家に来たことによって兄貴が笑顔になることが多くなった。私より猫の方が兄貴のことを癒やせるようで少し悔しい。
車の運転ができる達也と業務用スーパーに行ったりもした。家には大きな冷蔵庫の他に業務用の冷凍庫があり、食材を沢山保存している。そうしておけば私に何かあったときでも温めるだけの冷凍食品やカップラーメンくらいなら兄貴でも食べられるからだ。
十月三十一日になった。
世間ではハロウィン本番の日だった。兄貴は来るはずがないので誘わなかったし、達也と行くと、帰りにすることになるだろうし、薬師寺さんと二人で渋谷に行ってハロウィンを楽しんだ。駐車場に車を駐めることはできないと思ったので、大きなバッグに衣装を入れて、電車で渋谷まで来た。臨時更衣室の前に並んで何十分もかけて私と薬師寺さんは持ってきていた白とピンクのナース服姿に着替える。私がピンクで薬師寺さんが白のナース服だ。こうやって彼女を見ると普通に綺麗なお姉さんで同性愛者には見えなかった。
渋谷の街中は人でごった返すという表現が陳腐に思えるほど人で一杯だった。そんな短い表現で言い表せないほどの人達で道路は埋め尽くされていた。何度も足を踏まれた。こうなることを見越してナースなのに足には普通のスニーカーを履いてきた。薬師寺さんの助言でだ。
どのくらい混んでいるかと言うと、前の方で何かがあって人の動きが止まったら、人達に囲まれて一歩も動けないというくらい混んでいた。前の人が動いているときでもそれは牛歩だ。仕方がないので、私は無断で色々な人の写真をスマホで撮りながら、人混みの中を進んだ。
いつの間にか薬師寺さんはスキットルを片手に持っていて何やらお酒を飲んでいるようだった。
そしてついに渋谷センター街に入る。有名な場所だけれどようするに商店街で、左右にはシャッターが閉まったレコード屋やファストフード店、ゲームセンターなどが見える。
センター街に入ると人混みは最高潮だった。中々前に進めない。沢山の人達の話し声で頭が痛くなってくる。
別に毎年ハロウィンを楽しみにしているわけではないし、ナンパされたいわけでもない。一度くらいは行ってみたかったからたまたま今年来てみただけだ。
更衣室まで苦労して戻って着替えて、コインロッカーに預けていた荷物を取ると、普通の格好で少しでも人がいない場所に立って、薬師寺さんがスキットルの中のウィスキーを飲んだ。
気づくと断れずに私はラブホテルに連れて来られていた。
「毎回毎回、何もされないと思ってるの?」と薬師寺さんに言われ、あっという間に服と下着を脱がされた。
嫌だ……!
服を着て荷物を掴むと、私は逃げるようにラブホテルを出た。
薬師寺さんが……というよりは自分の性癖がノーマルじゃなくなるような気がして怖くて、彼女から連絡がきても出なかった。
その日偶然、通信制大学のスクーリングに行くと、大学の正門前で薬師寺さんが待っていた。
「あれだけで恥ずかしくて会えないなんて可愛いところあるじゃん」
「ちょっと気分じゃなかったので連絡に出なかっただけです」
「あたしとあんたの縁はそう簡単に切れないんだからね」と私の頬にキスをして薬師寺さんは去って行った。
最近は兄貴が泣いているところを見ていない。鬱が良くなってきたということだろう。ここまで長かった……私だけの手柄ではないけれどそれはとても健康的で良いことだった。
それを良いことに何をどうするというわけではないけれど私は遅れてきた青春を謳歌した。家事もレポートもちゃんと頼めば弥生ちゃんが手伝ってくれることもあった。
だけれど兄貴への不健全な気持ちは変わっていなかった。相変わらずの風呂嫌いなので、水着を着てよく一緒にお風呂に入った。これは弥生ちゃんにも秘密だ。
吐く息が白い。もう冬だった。
日課の散歩なのだが、手袋をしている兄貴の手を繋いで自分のコートのポケットの中に入れていた。
「恥ずかしいから止めてくれよ……」
「でも暖かいでしょ。凍傷になってもいいの?」
「そこまでは寒くないだろ……」
冬の街路樹は葉がついていなくて物悲しいけれど、兄貴さえいればなんでも出来るような気がした。
大学が冬休みに入ったら、弥生ちゃんの読書会サークルでスキーをしにいって、次の日から旅館で読書三昧の日々を過ごすという旅行の企画が立っているらしかった。私と兄貴もそれに誘われたので行くことにした。今の兄貴なら冬でもあまり心配はいらなそうだった。
気が早いようだけれど、スキーウェアやスノーボード、読書会で読む小説数冊などを買いに出かけた。車は達也の車だ。いつもの四人が勢揃いだった。
達也の車の後部座席とトランクは人と荷物でぎゅうぎゅう詰めになった。
「なんで、俺が誘われてないイベントの買い物に付き合わないといけないんだろうなあ」
「親友だからだよ」
「そうですそうです」
「けっ、そういうことにしておいてやるよ」
そしてその日は四人でカラオケ屋に入った。
兄貴は殆ど歌わないで、私達三人はばんばん曲を入れた。達也はパンクロックというのか、誰も知らないような歌を熱唱していた。カラオケはポップ・ミュージックのためにあるというのが私の持論だ。
私も弥生ちゃんも誰もが知っているような曲ばかりを歌った。達也はカラオケで誰も知らない歌を歌ってはいけないというルールを知らないのだろうか。
数日後、兄貴は読書会用に買った小説をすべて読んでしまったらしく、すべてブログで感想が書かれていた。読書会の人達にもブログを教えたらしく、コメントがたくさんついていて華やかなブログになっていた。
冬は熱い物が美味しいということで私と兄貴は週に二回は弥生ちゃんちのラーメン屋に食べに行った。弥生ちゃんのお父さんもお母さんも元気そうだった。これならあと何十年だってラーメン屋を続けられるように思えた。
近頃はもう病気が寛解する秒読み段階なのか、兄貴はラーメンを二杯も食べた。
兄貴と過ごす十九回目のクリスマス・イヴが来た。前々から何を作ろうか悩んでいた。今年もきっとホームパーティだろう。そう思っていたのに兄貴に言われてしまった。
「今年は別々に過ごさないか」
「どういうこと?」
「ぼくは弥生と出かけるから若菜も達也と出かけて」
「兄貴はそれでいいの……?」
「いいよ、今までが兄妹でべたべたしすぎだったんだよ」
「そう……わかった」
口ではそう答えたけれど納得していなかった。
ついに弥生ちゃんに兄貴を取られる日がきたのかと思った。
クリスマス・イヴ、飽きもせずに達也とドライブデートした。一応プレゼントも用意してきた。
夜景を見ながら高速道路を走って、渋滞を抜けると海ほたるパーキングエリアからイルミネーションや夜景を眺めた。クリスマスツリーを模した緑や青や黄色や赤の光が綺麗だった。めちゃくちゃ混んでいるレストランに入るのは諦めて、コンビニでケーキを買おうとして売り切れていたので諦めてアイスを買い、展望台から夜景を眺めながら身体が冷えるけれどそれを食べた。
車に戻ってプレゼント交換をした。
私はネックレスで達也からのプレゼントはエプロンと本物かどうかわからないけれど、小さなダイヤモンドがついたピアスだった。
「俺、若菜のこと好きだよ」
「私も好きだよ」
「なら付き合うか?」
「それは無理だよ」
「そうだよな。たまにやらせてくれるくらいで満足しなきゃな」
そして私達は車でした。
達也のことはわからないけれど、それは私にとって気持ちがない行為だった。
クリスマスの次の日の朝、兄貴に聞いた。
「弥生ちゃんとセックスした?」
「するはずないだろ」
「じゃあ私とする?」冗談という衣を着せていたが私は本気だった。
「しないよ、気持ち悪いこと言うな」
ほんの少しでもわかってくれていると思っていたのけれど、兄貴はぜんぜん私の気持ちをわかっていないようだった。今までの人生すべてを否定されたような気がした。
その日は家事をしても勉強をしてもテレビを観てもネットで遊んでも読書をしても、ぜんぜん楽しくなかった。
夕食も作る気がなくてカップ麺にお湯を注いだだけのものを出したら「弥生のところで食べてくるよ」と言って兄貴は家を出て行ってしまった。
作ってしまったカップ麺はどうすればいいのだろう?
私は二つとも流しに捨てた。
深夜兄貴の部屋から物音が聞こえてくる。憂鬱だった。
「睡眠薬飲んでさっさと寝てよ」と注意する。兄貴はパソコンで遊んでいた。
それでもしばらく遠く離れているはずの兄貴の部屋から音が聞こえてくる。私と達也の行為もばれていたのではないかとさらに憂鬱になった。
次の日の朝、起き上がろうとして起き上がれない。
そして死にたい、服を着替えられない、涙がぼろぼろと出てくる。
死にたくてしかたないせいか自殺した里菜姉さんのことを思い出した。あんなに綺麗だった姉さんがなんで自殺なんかしたのだろう。しかも兄貴が悪いとも取られるようなタイミングで。言っても信用しないだろうし、言わないでここまで来てしまったのだから、真実は墓場まで持っていこうと思う。それが亡くなってしまった姉さんのためでもある。
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