三章 青年になったぼく
十八歳になってもぼくの鬱は寛解していなかった。それどころか病状自体にも大差はないで、鬱病患者としての処世術が身についただけだった。
よく眠れないことも多い。ネットゲームばかりしてるので眼鏡をかけるようになっていた。
毎朝三十分、妹なのに面倒見が良い若菜と街を散歩した。若菜の髪は相変わらず活発なショートカットだ。かといって短すぎて男っぽいということもない。前髪が斜めに流れていて、襟足は肩にかからないくらいの長さだ。郊外なのでそんなに人が歩いていないのに他人の目が怖い。家がある周辺は小さな住宅街になっていて、緑も多い。他人は嫌いだが自然は好きだった。
すぐに怖がるぼくはいつも若菜と手を繋いで散歩していた。それはそれで昔の知り合いに見られるのではないかと思うと冷や冷やするが妹の手の温もりは優しかった。
並木道には満開ではないが桜が咲いていた。若菜は綺麗……と漏らした。
「そうだね」
「他に何かないの?」
「いつもありがとう」
「何? いきなり。照れるなあ」
「客観的に考えて若菜がいなかったらぼくの人生はもっと酷いからね」
「ふうん……たしかにそうかもね」
家に帰ってくると若菜はぱぱぱっと朝食を作った。
バナナ、納豆、白身が多い目玉焼きとご飯がぼくの分の朝食だった。若菜は逆に黄身ばかりの目玉焼きを食べる。卵の白身はトリプトファンが含まれていてそれは鬱病に効くと言われているセロトニンを増やすためのアミノ酸だ。
朝は毎日代わり映えのない食事だ。だいたいどこの家でもそうだろう。
朝食をとり終わると、朝の薬を飲む。朝、昼、夕、寝る前の薬に加え頓服まで医者からは処方されていた。
ぼくは高校に進学していない。高卒ですらない。若菜もぼくのせいで中学は殆ど行かなかったが、通信制の高校に進学して来年の春には卒業だ。
部屋に引っ込んでベッドの上に横になる。
昼間から睡眠薬を飲むわけにもいかないので、ベッドの上で目だけ瞑って休んでいた。若菜が家の中を掃除する掃除機の音が聞こえてくる。
若菜がひどい目にあって以来、ぼくは鬱病にかかっていた。ストレスの蓄積でかかる印象が強いだろうが、一度強いストレスに晒されるとかかってしまうことも多い。薬をどれだけ飲んでも何回種類を変えても決定的には回復しないでいた。
もう鬱になってから四年経つ。
眠れないストレスに耐えられないで助けを求めるようにネットゲームをやる。大好きだった読書はもう何年もできていない。集中力が続かないのだ。
弥生とプレイするときは別のアカウントを使って近寄りもしないが、所属しているメンヘラギルドで顔も知らない人達とチャットをしながらモンスターを狩っていった。メンヘラとは精神病患者を示すネットのスラングだ。
「死にたい」
フレンドがそんなことをチャットで飛ばしてきた。ぼくだって死んでしまいたいが、「イ㌔」と返信した。
そんなことを言った癖して、ぼくはその日、カッターナイフで左手首を切った。しばらく流れる血を見て、自分がまだ生きていることを確認した。
そして消毒してテープ型の絆創膏と包帯を巻いた。
まだズキズキとしているがどこか心地良かった。
昼になって階下から食事だと呼ばれる。メニューはオムライスにサラダだった。
一口食べて、「美味しい……」なんだか泣けてきた。「若菜にばかり色々押しつけてこんな兄貴でごめんな」そう言うとぼくの目から涙がぼろぼろと落ちてきた。
若菜はもうぼくがちょっと泣くくらいでは動揺しなくなっていた。左手首の包帯も見られたが何も言われない。
「あまり焦らないでね」
そう言って若菜は台所で調理器具の洗い物をした。
満腹感で眠りやすくなっているはずなのに眠れないので、午後もネットゲームをした。それに飽きるとベッドの上で目を瞑って過ごした。段々とイライラしてくる。
箪笥の裏に隠してある大きなスケッチブックにぼくは人を描いた。そして黒く塗りつぶす。その瞬間は充実した。黒く塗りつぶされていく人を自分の敵だと思い込む。こいつがいるから自分の人生は上手くいかないのだ。
ああ、楽しいなあ。
反撃してこない無力な敵はかわいらしいスケープゴートだった。
ページ全体が真っ黒になってもぼくはまだ鉛筆を動かしていた。
午後七時を回って達也が白いセダンに乗って家に来た。家の駐車場はからっぽなので、もっぱら彼が車を駐めるのに使っている。
達也は中学を卒業して以来塗装業で仕事をしていて、最近は仕事が終わると車の中でスーツに着替えてくる。子供の頃からがっちりして身長も高かったが、大人になった今、太ってはいないのに一層大男になっていた。
「卵って鬱にいいんだろ」彼はプリンを買ってきてくれた。
そしてぼくの部屋でとくに話しもせずテレビを眺めた。
そのうちに達也は「寝るわ」と言うと、いつも使っている空き部屋へと移動していった。
達也と入れ替わりで若菜が部屋に入ってきた。
「兄貴もう何日も風呂入ってないでしょ。私が洗ってあげるから入ろう」
「洗ってあげるって……裸で?」
「このクソバカ。水着くらい着るわ、ボケ」
「ぼくの分も水着ある?」
「あるよ」
水着を着て二人で風呂に入った。妹には欲情しないが背中を流されたり頭を洗われたりして、それはどうかと思った。
風呂から上がって新しいパジャマに着替えると、寝る前の薬を飲む。
それからまたネットゲームで時間を潰した。睡眠薬も飲んだのに最近はぼくの場合とにかく眠れないのだ。午後十一時を過ぎるといつも遊んでいるネットゲームに弥生もログインしていて、チャットをしながらゆっくりとレベル上げをこなしていった。
弥生は大学でのことをぼくに話した。悪気はないのだろうが、中卒でここ五年近く殆ど何も積み上げていないぼくには辛かった。
「眠剤効いてきたから落ちるね」
「はい」
寝る前に嫌々十分ほどで活動記録表をパソコンで作成して若菜のパソコンのメールアドレスに送信しておいた。毎日やるように若菜に言われていた。
活動記録表というのは色々なフォーマットがあるのだろうが、ぼくが毎日記入している物は、一日が一時間ごとに区切ってあって、何をしていたのかと、そのときしていたことの達成感と快感をパーセントで記入するというものだ。
部屋のドアをノックされた。「いいよ」と言うと若菜が入ってきた。歯磨き粉がついた歯ブラシを持っている。
「ちゃんと歯磨いた?」
「磨いたよ」
「嘘、歯ブラシ濡れてなかったよ」
椅子に座っているぼくの歯を後ろから若菜は磨いた。薄い胸が頭に当たった。
「兄貴って本当にシスコン」
「頼んでないよ」
「虫歯になったら歯医者まで連れて行くの私なんだから結局私に甘えているということだよ」なんて楽しそうに若菜は笑った。
若菜と二人で近場の精神科病院までバスで行った。
ぼくの場合、何年経ってもあまりよくならないので一週間に一度は通院することになっている。バスの中には老人や隠すことなく手に障害者手帳を持った知的障害者、学校をサボって浮かれた学生などが乗っていた。公共の場では静かにしてなくてはいけないので、ぼくも若菜も喋らなかった。
そしてバスを降りて、人が多くはない郊外にしては広い精神科病院の玄関でスリッパに履き替えると、若菜が診察券を受付に出した。
多少気分が優れているときは病院の自販機で缶コーヒーやパックの飲み物を買うのがささやかな楽しみだった。この日ぼくは温かい缶コーヒーを飲んだ。若菜は何も飲まなかった。
読書ができないぼくはしかたなく面白くもない音が小さくてあまり聞こえないテレビを観て、時間を潰した。
一時間程度待ってぼくの名前がスピーカーから呼ばれた。
もう長いこと付き合いのある精神科医の診察を受けた。
ぼくと若菜は椅子に座る。
「気分はどうですか?」
「良くはないです」
「食欲はありますか?」
「ないです」
「睡眠は取れてますか?」
「あまり取れてないです」
「何か困っていることはありますか?」
「困っていることだらけです」
「例えば?」
「毎日時間を潰すのに難儀しますし、亡くなった姉さんのことを思い出してよく泣きたくなります。そこにいる妹にだって迷惑をかけっぱなしです」
「……」医者は無言でカルテにペンを走らせていた。そして言う。「前回と同じようにお薬出しておきますから、お大事になさってください」
「どうもありがとうございました」
「ありがとうございました」若菜は深くお辞儀をした。
一時間も待ったのに、診察は三分足らずだった。
そしてまた合計で一時間ほど待ち、診察代を払って薬局で薬をもらってきた。
一時間に二本しか出ていないバスにまた乗り込むのだが、若菜に言われてショッピングモールで降りることになった。
モール内の服屋で若菜が春から夏へかけての服を沢山買ってくれた。ぼくは殆ど家にいるのだし、パジャマと散歩に行く時用のジャージと一種類か二種類だけ今日のように外に出かけるときの服があれば十分だと思っていた。
家のすぐ近くまでバスで移動すると、ラーメン屋の大幸で昼食をとった。二人ともこの日はチャーハンを頼んだ。ご飯がパラパラに炒まっていて家庭では再現が難しそうだ。とても美味しい。お勘定は中学生の年齢になった頃からきちんと払っている。ランチタイムよりは時間が遅いせいか客の姿は少なく、弥生の小さな妹がお店の中を走り回っていた。
ぼくは気まぐれで頭を撫でてやった。
別の日同窓会のお知らせの手紙が来て憂鬱になる。みんなもう今年から大学生か……そう思うと、身体の中から強烈な焦燥感が湧いて出てきた。ぼくの人生は何年も停滞したままだ。第一鬱病のぼくが同窓会なんかに顔を出すわけがないじゃないか。
返信葉書の欠席の欄に丸をして、ポストに入れてくることにした。
徒歩で五分ほどの場所にあるコンビニの前にあるポストにそれを投函すると、久しぶりに一人で家を出た緊張は抜けていかなかった。ポストの前でぼくは座り込んで、動けなくなってしまった。知らない人に「大丈夫?」と心配されたが、大丈夫ですと言って、そのまま、ずっとじっとしていた。体感時間だが一時間はそうしていただろうか。
何も言わないで家を出たのに若菜が迎えに来てくれた。
「無理して一人で出かけないで」不機嫌そうにそう言われ、ぼくたちは手を繋いで帰った。少し気持ち悪いが若菜の手の温もりはぼくを安心させてくれた。
晩になって、若菜が作ってくれた夕食も殆ど残すと、薬だけ飲んでベッドの上で泣いた。十八歳にもなって一人で出かけて帰ってくることもぼくはできないのか……その現実を思うと、涙は止まらなかった。
またリストカットをして血を眺めていると若菜が部屋に入ってきた。
「今日は辛かったね。でもぜったいそのうち良くなるから。今は好きなだけ私に甘えて、好きなだけゆっくりしていいんだよ」
「そんなの申し訳ないじゃないか……」
「世の中親の遺産をギャンブルで溶かす人もいるし犯罪者だっているし、それに比べたら兄貴はぜんぜん真面目で普通だよ」
「そうなのかな……」
「そうだよ、おやすみ。リストカットはできるだけしないでね。将来長袖の服しか着れなくなるよ」
若菜が部屋から出て行くと、眠れないがベッドの上で目を瞑っていた。
外から聞き慣れた達也の車が家の前に駐まる音がした。若菜が玄関のドアの鍵を開けてやったのか、ふらついた達也が部屋に入ってきた。
「……寝させてくれ」
若菜も部屋にやってきた。
「達也いい加減にしてよ、なんで家に寝にくるの」
「夜職のお袋と二人暮らしだぜ。それは帰りたくない日くらいあるさ」
達也はいつもの空き部屋に引っ込んでいった。
これ以上眠れないのに目を瞑っているのも苦痛だったので、弥生と遊ぶ用のアカウントでネットゲームを起動すると彼女もログインしているようだった。気を遣っているのか、彼女はゲーム内でぼく以外にフレンドがいない。ぼくの今使っているアカウントもフレンドは弥生だけだった。
弥生は自分が所属している読書サークルの話をよくチャット欄に打ち込んだ。女ばかりで男は少しなので安全だ、とか、自分以外の部員はかなりマニアックな人達だ、とかそういうことを話した。
若菜が洋輔や青田にひどいことされていなければ、ぼくも今頃大学に通っていて今度こそ文芸部にでも入っているのだろうか、そんなことを思った。
病気のせいで活字が読めないのに、図書館で本棚に並べられた本の背表紙を眺める。若菜に図書館まで連れて来られたのだ。子供の頃から殆どかわっていない図書館だった。
子供の頃は坂崎理も松山慎司もよく借りられていて予約しないと読めない本も多かったのだが、今はもう他に人気作家がいるのか、本棚には二人の純文学作家の作品がずらあっと並んでいた。読んでいない新作もあるが借りる気にはなれなかった。
ぼくたちは家に帰る。若菜は本を何冊か借りたようだった。
その日の夕食の後、若菜は借りてきた本をぼくに見せた。
それは絵本だった。大人でもそういう本が好きな人はいるので、別にばかにはしない。
若菜はベッドの上で目を瞑るぼくを見守るように椅子に座って、絵本を朗読してくれた。二十分もしないうちに絵本の朗読は終わった。
「ちゃんと聞いてた?」
「聞いてたよ」
「また読んであげるから」
「ありがとう」
若菜が部屋から出て行った後、少しぼーっとするが睡眠薬が効いてこないのでまた弥生とネットゲームで遊んだ。
今日は調子が少しはいいのか、喋りたいことがいっぱいあった。シスコンじみているが、若菜と図書館に行ったと話した。そして絵本を朗読されたこともポロっと話してしまった。
「坂崎理さんの本はもう読まないんですか?」
「……読破する自信がない」
「そうですか」
土曜日になった。午前十時少し前頃に若菜が部屋に入ってきた。毎週のことだ。
「七瀬若菜認知行動療法教室を始めます。はい、拍手! ぱちぱちぱち……!」
いつものことだがぼくは椅子に座って拍手した。
まずは十分以内に面接で話し合う問題に感じていることを課題として決めて、その後三十分くらい話し合う。この課題のことをアジェンダと言う。
「姉さんが亡くなったのはぼくのせいだと思う」
「そう。もうひとつアジェンダを決めよう」
「知らない他人が怖い。怠けている自分が見透かされているような気がする」
それらは何度もアジェンダに設定している事柄だった。何年も前から二人でやっている面接なので、そうそう毎週違う課題なんて見つからない。
「まず姉さんが亡くなったのが自分のせいだと思ったとき、どうしたらその気持ちが飛んでいくか考えようよ」
「どうしたって飛んでいかないよ。客観的に考えて少なくとも五割はぼくのせいなんだから」
「……ここで私が感情的になっても水掛け論になるので、仮定としてそういうことにしておきます」
「うん」
「どうしたら気が紛れると思う?」
「……」
「何か食べたり飲んだりすれば、一時的に悲しさは消えると思うの。甘い物を食べるとかどう?」
「それはいいね。でも常日頃から甘い物を持ち歩くの?」
「自販機で甘い飲み物でも買えばいいじゃん。家に居るときはホットミルクに蜂蜜を入れるとかさ」
「そうだね」
若菜は「休憩!」と言って甘いホットミルクを二人分作って部屋に持ってきた。口をつけると優しさが込められている味に感じた。
ベッドに座ってホットミルクを飲む若菜は、年相応に幼く見えた。もともと若菜は身長が低く、歳上に見られることはないし、中学生と間違えられることもあるらしかった。
「次の議題。知らない他人が怖くて、怠けている自分が見透かされる、だっけ?」
「うん」
「まず大前提として、人は人の頭の中まではわかりません。堂々としていれば兄貴は学生か百歩譲ってフリーターにしか見えないよ」
「そうかな……」
「そうだよ」
「怖いのはどうすればいいの?」
「これも常識的に考えればいいんだよ。怖いって言ったって、他人はわざわざ兄貴になんて興味持たないし、普通の人は面倒ごとを避けます。大人をカツアゲする人もあまりいません。やっぱり堂々として他人の目なんて気にしなければいいんだよ」
それができたら苦労しないとぼくは思った。
「そうだ。兄貴もいつもポケットの中にミンティア入れるようにしておけばいいんだよ。口臭予防にもなるし、口の中で舐めても噛んでもスーっとして頭がクリアになるよ」
そう言って若菜は部屋を出て行くと、種類が違うミンティアを五個ぼくの机に置いていった。
「これで面接を終わります。ちゃんとホームワークもやってね」そう言って彼女はぼくの部屋を出て行った。ホームワークとはつまりは宿題で、話し合ったことを確認したり生活の中で使ってみることだ。
日曜日、弥生と達也が殆ど同じ時間に遊びに来た。
達也は昼間からぼんやりして、弥生は坂崎理の新刊を前みたいに朗読してくれた。
「若菜さんが絵本を朗読してあげたら喜んでたと言っていたもので。何日かかるかわからないですが、わたしも読み聞かせてあげます」
それは病気にかかってすぐの頃にも弥生がしてくれていたことだった。
黙っていた達也だが「若菜の部屋行ってくる」と言って出て行ってしまった。弥生のことを意識したことがないと言ったら嘘になるが、そんなところで気を利かせることないのに、とぼくは思った。
昼になると若菜と弥生が作った昼食をとって、午後から弥生はまた小説を朗読してくれた。途中咳をしたので、昨日若菜に貰ったミンティアをプラスティックのケースから何粒か弥生の手の平に出してあげた。
月曜日になると、ぼくの目からまた涙が出てきた。
弥生は大学生だし、達也は十五歳から働いているのに、ぼくは食って寝てゲームすることしかできない。無力な自分を思って泣いた。
朝の散歩も断って、朝食の時間なのにリビングに行けないでいると、トレイに食事を載せて若菜が部屋まで持ってきてくれた。薬と水も置いてあったのでそれは服用したが、朝食をとらないでいると、昼になって手つかずの朝食は下げられて、代わりに昼食がドアの前に置かれた。
ハンガーストライキのようなことをやって、病院に入院させられたら嫌なので、ぼくはゆっくりと昼食をとっていった。食べている最中も涙がぼろぼろと出てきた。
いつまで経っても悲しい気持ちが抜けていかないので、これも認知行動療法のひとつだが、コラム法を自主的に行った。自分の悩みを解決するためのチェックシートのようなものだ。
① 状況→何が起りましたか?
朝起きるととても悲しい気持ちになった。
② 気分(%)→どういう気持ちになりましたか?
悲しい、100%
③ 自動思考→どういう考えが浮かびましたか?
自分は無力だ。
④ 根拠→考えと結びつく事実は何ですか?
鬱病で殆ど家から出ないし社会的活動をしていない。
⑤ 反証→④が否定される事実はありますか?
妹や友達とはそこそこ喋れる。
⑥ 適応的思考→柔軟に考えると?
ぼくより酷い人も結構いると思われる。
⑦ 今後→次に同じようなことが起きたときあなたはどう行動しますか?
ただ耐える。
⑧ いまの気分(%)→どうですか?
悲しい、85%
気分があまり変わらなかったので、同じ場所を切るのは少し痛いがまたリストカットして血を眺めた。生命の息吹のように流れる血を見ると自分が生きていることが理解できた。鉄のような血の臭いもした。生きることはサバイバルなのだと思った。コラム法よりよっぽど気分が晴れたので、ネットゲームのメンヘラギルドに顔を出した。
オフパコと呼ばれる、ネット上の異性と実際に会ってセックスをするという意味のスラングがあるが、オフパコ目的でメンヘラのふりをするプレイヤーも中にはいた。別にネカマをしているわけではないが、女のプレイヤーから会わないかと言われたこともあった。罠だったらと思うと怖くてぼくはオフ会に行けなかった。
ぼくのやっているネットゲームはクリックゲーと言われるマウスをクリックしていれば殆どのことができるゲームだ。とくに楽しいとも思わないが、憂鬱なのを少しは忘れさせてくれた。
ネットゲームにも飽きて夕食前の時間。また隠しているスケッチブックを取りだして、架空の敵を黒く塗りつぶした。口から乾いた笑い声が漏れ出してくる。この世界がスケッチブックに書かれた絵で、ぼくがそれを上から見下ろす立場だったらどんなに良かっただろう。それは現実のどのゲームよりも楽しいゲームのような気がした。でもスケッチブックの世界の管理者になれたらぼくの病気は治るのだろうか? それはわからなかった。
リビングで夕飯を食べているとぼくはまた泣いてしまった。「妹に生活のすべてを押しつけて申し訳ないよ……」
若菜は笑って「おっぱいでも触る? 安心するらしいよ」などと言った。
「そんなことするはずないだろ」とぼくは泣きながら答えて、自分の部屋に逃げた。少しして若菜が夕食後の薬と頓服薬を持ってきてくれた。
「どうせ治らないから飲まない」
「ダメだよ」
若菜は一回分ずつ包装されている薬の袋を破って錠剤を手の平に載せると、ぼくの目の前に持ってきた。横を向いてやると、若菜はぼくの顎を掴んで、口の中に錠剤を無理矢理入れようとした。その口の中に先端が入った妹の指をぼくは噛んでやった。若菜は痛いと言わなかった。ハッとして口を開けると若菜は無言でグラスに入った水をぼくに手渡した。ぼくは抗鬱剤を飲んだ。
「本当にごめん……痛くなかった?」
「痛かったよ、はあ、痛かった、痛かった、それじゃあおやすみ」
若菜はひょうひょうとした態度で部屋から出て行った。
次の日、散歩と朝食が終わると若菜の部屋へ行った。若菜の指にはどこにも絆創膏が貼られてなかったので、大したことなかったのだと少し安心した。
「何か用?」
「いや……暇だから」
「私は暇じゃないけど静かにしてるならいてもいいよ」
彼女は通信校のレポートに追われていた。
若菜の部屋は殆ど飾りっけのない部屋だった。遊ぶ物と言ったらパソコンくらいしかなく、あとはテレビがあって大きなサボテンが部屋の隅に飾られている。本物なのだろうか。
見覚えのあるぬいぐるみがベッドの枕元にひとつだけ置かれていた。それは昔、ぼくと若菜と三人でゲームセンターに行ったとき、姉さんが何千円もかけて取ってくれたクマのぬいぐるみだった。姉さんのことを思い出して泣けてきて同時に恨んだ。
姉さん……どうして死んじゃったの……
決まっている、ぼくが殺したからだ。あれはぼくがいなければ起きない事故だった。
昼間から眠れないのでベッドの上で目を瞑っていると、今時ザードの負けないでが隣の家から聞こえてきた。鬱病には最悪の曲だった。焦燥感を覚えて動悸がする。人生に負け続けているぼくがそんな曲を聴いても勇気が湧くはずもなく、余計に悲しくなった。パソコンを起動して、よく知らない流行の曲をヘッドホンで聞いた。
ついでに弥生のツイッターを見ると、彼女は完全にいわゆるリア充のようだった。
外では雨が降っている。若菜が通信制高校のスクーリングに行ってぼく一人しかいないときに達也が遊びにきた。彼はアダルトビデオやエロ本を白いビニール袋に入れて持ってきた。女の裸などネット上に溢れているのにわざわざそれを購入する達也の気持ちがよくわからない。
「性欲がないわけじゃないんだろ? 一緒に観ようぜ」
自室ではなくリビングのカーテンを閉めてソファに座ってAVを見るのだが、普段は大丈夫なのに隣に達也がいるせいか硬くもならない。達也の股間を見ると、開始十分で膨らんでいた。
ちょっとトイレ……と言って席を立つ達也。十分ほどで帰ってくる。
「もしかして抜いた?」
「抜いてねえよ。俺は一人では性欲処理しねえの」
「へえ、そうなんだ」オナニーだけのぼくはそういうところでも達也に負けているようだった。
ぶっつづけでAVを観ているといつの間にか若菜が家に帰ってきていた。
若菜は達也の背中を二度殴ると、「さっさと持って帰れ!」と怒声を浴びせた。達也はバツが悪そうにAVやエロ本を袋にしまうと、帰っていった。
「昼ごはんもう食べた?」
「まだ」
「じゃあ散歩してその帰りに大幸で食べようよ」
都会でもなくかといって田舎でもない街を若菜と散歩した。わざわざ鬱にはきつい雨の日に散歩しようと言うのだから、若菜的にはリハビリのつもりなのだろうか。
若菜は赤い傘を差して、AVなんて観てるとまともなセックスができなくなる、友達と一緒に観るなんて最高に気持ち悪いと言ってぷりぷり怒っていた。常識で考えれば悪いことではないのだが、若菜に申し訳ない気持ちが湧いて憂鬱だった。
夕方から店を開けるための準備時間ぎりぎりに行ったせいか大幸は空いていた。
若菜と二人で並んでラーメンを啜った。
弥生のお父さんはぼくが鬱なのも知っているせいか、それとは関係ないのか、ぼくと若菜にチャーシューを一枚ずつおまけしてくれた。
雨はもう止んでいた。
夕食の前に若案に家の台所まで連れて来られた。
「若菜の料理教室!」そう言って彼女はまた自分で手をパチパチと叩いた。
「カレーライスは鬱に効きます」などと若菜は言う。
ぼくもこれまでの生活で食材を切ったり、ジャガイモや人参の皮を剥くくらいのことはできたので、料理教室というよりは、夕食作りを手伝っているだけだった。
そしてカレーライスとゆで卵とサラダが食卓に並ぶ。
いただきますと言って食べてみるとごくごく普通の味で、やはり姉さんの方が料理は上手かった。
その晩もネットゲームをやったのだが、若菜が課金することは許してくれないので、少しは課金している弥生がいいアイテムをくれたりしていた。小っ恥ずかしいが、ゲーム内結婚もしていた。
弥生のことは人として好きだし親友だが、リアルが充実しているようで羨ましかった。達也も仕事で忙しそうだが、鬱病のぼくからすると羨ましかった。
ネットゲームを長くやりすぎたせいで活動記録表を書くのを忘れていた。午前二時を回ってゆっくりそれを書いていくと、若菜のメールアドレスに送っておく。
朝、起きるととくに憂鬱だった。散歩は休むと若菜に言う。
そして一人で散歩に行った若菜が帰ってくるのだが、いつもの朝食をとる気がしなかった。
「今日は朝食はいいよ」
「作ったんだから食べてよ」
「嫌だよ」
「いいから食べなさい!」
「嫌だ……」
「私がどんな思いをして兄貴のことを守っているか知っているの? いい加減にして」
若菜がぼくを傷つけるためにそう言ったとは思わないが、それは真実だった。自然と泣けてきてぼくは急いで自分の部屋へと逃げた。
もうすべてが嫌だった。台所に何故かある百円ライターを手に取って、サラダ油を盗むと家を燃やそうとした。
家の外に出て外壁の前で呆然とした。油をまくだけのことが怖くてできなかった。頭の中はぐるぐるとしていた。
そもそも何のために住んでいる家を燃やすんだ? 昔は姉さんも一緒に住んでいた大切な家じゃないか。なんで家を燃やすんだ? 若菜の発言に言い訳できなかったからだ。なんで家を燃やすんだ? 自殺するよりは簡単そうだからだ。なんで家を燃やすんだ? そうすると何故だかすべて解決する気がするんだ。本当にそうなのか? いや、わからない。なんで家を燃やすんだ? すっきりしたいんだよ。なんで家を燃やすんだ? わからないよ。なんで家を燃やすんだ? ……家を燃やすんだ? ……なんで家を……なんで家を……燃やす燃やす燃やす……
自問自答の後、三十分はぼうっとしていたのだろうか。不思議と家を燃やしたいという気持ちは霧散していた。
街の中を一人でうろつく。何度も転びそうになりながら歩いた。
死に場所を探しているのだ。だがそんな場所中々決められないで次第に雨まで降ってきた。傘もささずに近くに昔通っていた小学校もある街の中をさまよった。
駅の周辺を歩いていたせいか大学から帰ってきたと思われる弥生にばったりと会った。
彼女は酷く心配そうな顔でぼくへと寄ってきた。
「傘は買ってあげますから、急いで家に帰ってシャワー浴びて下さい」
「家には帰りたくない」
「わかりました。ならうちに来て下さい」
財布を持ってこなかったぼくの代わりに弥生はビニール傘を買ってくれて、二人で彼女の家まで行った。大幸の入り口とは別に裏に居住スペースへの入り口があってそこから中に入った。
風呂を沸かす時間も惜しいのか弥生はぼくを浴室と繋がっている脱衣所に押し込んだ。
熱いシャワーを浴びていると自然と激情は冷めていった。一瞬でも本気で家を燃やそうとした自分が恐ろしい。
シャワーから上がると、パンツ以外ぼくの物ではない服が畳んで脱衣籠の中に置かれていた。そのポロシャツにチノパンに着替えて、居間に行くと、弥生がぼくの服をドライヤーで乾かしていた。
彼女の横に座って「ありがとう」と言うと、突然、触れ合うだけのキスをされた。一旦顔を離してぼくの顔を彼女は眺め見るとまたキスをしてきた。今度は舌まで入れられる。唾液と唾液がみだらに混ざった。最初のキスがぼくにとってファーストキスだった。
「……すみません、折角シャワー浴びたのに汚してしまいました」
「別に汚いなんて思わない」
「もっとすごいことします?」
「いいよ、ぼくなんかとあまり仲良くしない方がいい。きっと鬱も治らないし時間の無駄だよ」
言うと、弥生は顔をくしゃくしゃにさせて涙の雫を数滴、畳に零した。
「浩一さんはわたしのことどう思ってるんですか」
「……大切な友達だよ」
「それでも嬉しいです」
弥生はすでにいつもの母性的な微笑みを顔に浮かべていた。
元着ていた服が乾くと、傘を借りてぼくは家へと帰っていった。
ネットゲームにもログインしないで眠れないのに目を瞑って考えていた。
弥生にはああ言ったが、ぼくは確実に彼女のことを異性として意識している。
本当なら恋人同士になりたい。ただ眩しい彼女を暗いぼくが鎖に繋ぐことはできないような気がした。弥生がぼくと付き合ったら色々なことを我慢させることになる。それは本意ではなかった。
やっとのことで少しの時間だけ眠って、いつも通りの朝がきた。
今日は少し調子がよく嫌なことは何一つ考えないでメンヘラギルドで狩りをしていた。 そのうちなんだか物足りなくなって、メンヘラギルドで仲がいい女性と二人きりでオフ会を開く約束までしてしまった。
すぐに自分がしてしまったことを後悔してきた。酷い鬱が襲ってくる。
歯磨きして若菜の部屋へ行って携帯が持ちたいと言った。
「兄貴もまだ未成年だから斉藤さんに保証人になってもらわないと契約できないよ」
斉藤さんは親父の部下で名目上のぼくたちの保護者だ。
「それでいい」
若菜が斉藤さんに連絡するとすぐに来てくれることとなった。
「持っていない方が変なんだけど、なんで今更携帯が欲しくなったの?」
「何かあったとき連絡できないと良くないと思って」
「ふうん、たしかにそうだね」
その日の内の若菜と斉藤さんと一緒に携帯を契約して、またネトゲに繋ぎ、オフ会の約束をした女とゲーム内で携帯電話の番号を交換した。その女性の名字は藤崎と言うらしかった。
オフ会の日がきた。二人とも関東住まいだったので、東京で会うことになった。若菜には秘密で、ちょっと遠出してくると言うと、それだけで妹は心配した。
殆ど乗ったこともなかったので電車の乗り方をネットで調べてぼくは出かけた。
一人で乗る電車は、乗客全員が自分のことを話しているように感じた。統合失調症じみているが冷静に考えれば錯覚で、ぼくが自意識過剰なだけだった。
契約したばかりの携帯電話も使って東京のとある駅の改札口で落ち合うと、藤崎さんは女ではなく男だった。さすがにメンヘラギルドに所属しているだけあって、陰りがある男だった。会う前は少し下心もあったが同性ではしかたがない。普段ネットでしか繋がりがない人に会うのは怖いが少しだけわくわくとした。
昼間から飲める居酒屋でぼくはお酒以外を飲んで、同じメンヘラギルドの人達の陰口や身の上話で盛り上がった。
「あいつは出会い厨すぎるよな。何人食ってるんだよ」
「そうなんですか?」
「そうだよ、絶対本当のメンヘラじゃないぜ」
ウーロン茶を飲んで焼き鳥や枝豆を食べる。
藤崎さんは愉快そうに笑っていて、とても酒に強いようだった。
しばらくして急に静かになると彼は言った。
「今度会ったときは自殺オフ会を開かないか?」
「ぼくは行きません」
即答した。考えれば考えるほど、頷いてしまいそうだったからだ。
「そうか強制はしないよ」
電車に乗って家に帰った。
帰ってきたのが夜十一時をまわっていたため、若菜は怒っていた。どこへ行ったのか聞かれたが、面倒なので秋葉原でオタクグッズを見てたと答えた。
次の日の朝、また若菜との三十分の散歩をした。もう季節は夏になっていた。汗だくになって散歩コースの途中にある自販機でゼロコーラを買おうとすると若菜に止められた。
「兄貴太ってないんだし、人工甘味料入りの飲み物なんて止めておきなよ」
「人工甘味料っていけないの?」
「さあ。詳しいことはまだ解っていないんじゃない」
いつも世話になっているので若菜の言うことを聞いて、普通のコカ・コーラの赤を買った。
卵の白身が多い朝食をとって少しすると、若菜があまり大きくない箱を二箱と工具箱を持ってきた。そんな物未だかつてこの家で見たことはなかった。
「これからは暇なときは作業療法をしましょう」
若菜が持っていた箱はプラモデルの箱だった。いわゆるガンプラと呼ばれる物だ。
リビングのテーブルで二人でガンプラを作った。生まれて初めて作るので、新鮮で結構楽しかった。
だがニッパーはともかくとして普段からリストカットもしているのに、カッターナイフを使うのは冷や冷やとした。手首を切るときはあまり痛くないが、指を切ったら痛く感じそうだ。
「レポート大丈夫なのか?」
「大丈夫だよ、本当にピンチなら弥生ちゃんも手伝ってくれるし」
「そうなの」
弥生とキスしてしまったことを思い出した。あれはもう数ヶ月前の出来事だった。
近くに図書館もあるので、ブックオフで中古で買うのも勿体ないということで、若菜と図書館に行った。今でも好きな坂崎理と松山慎司の小説をたんまり借りた。
そして家に帰ってくるとそれを読んで、読み疲れるとネトゲにログインした。
その日は藤崎さんのアカウントはログインしているようだった。メッセージを飛ばすと、
「僕は藤崎の弟です。兄が生前お世話になった人達に挨拶して回ってます」
「やっぱり誰かと心中したの?」
「いえ、一人でビルから飛び降りて死にました」
「そうですか……」
悲しい出来事だったが、誰も道連れにしていないだけ潔いような気がした。
達也が来た。
そしてすぐに、空いている部屋で眠っていった。きっと仕事で疲れているのだ。自分は働いていないので世の中に申し訳ない気持ちが湧いてくる。
次の日のお昼。若菜と二人で弥生の家のラーメン屋に行く。弥生はこの日、授業がないらしく家に居た。白衣に三角巾をして狭い厨房に立っている。
「浩一さん、また読書家になったんですってね。わたしが入っているサークルの読書会に一緒に参加しましょうよ。決まった本の感想を言うだけの簡単な会です。大学内のサークルではないので参加資格は不問ですよ」
「……どうしようかな」
「兄貴行ってきなよ」
「わかった」
「じゃあ、その課題図書を持ってきます」
そして、小説を借りるとひとまずそれを汚れない場所に置いてラーメンを食べた。誰も見てなかったらきっと食べながら読んでいたと思う。
家に帰ってきてさっそく借りた小説を読む。普通に読んで後で感想を書くのでも良かったが、パソコンを開いて気づいたことをメモ帳に箇条書きにしながら読んでいった。
その日の晩、小説を一冊読み終わり、感想も書き終わり、気持ちがいい疲れの中、眠ろうとしていると若菜がノックもしないで部屋に入ってきた。
「弥生ちゃんに話つけて私も参加することにしたから。えーとなんだっけ? 悪夢の列車? 弥生ちゃんに借りたあの本私にも読ませて」
「わかったよ……」ちなみに悪夢の列車ではなく夢の列車が正しいタイトルだ。それを若菜に渡した。
しばらく調子が良かったので自分が病気だと忘れそうになっていたが、翌日ぼくは憂鬱なのが酷くてベッドから起き上がれなかった。薬と水と若菜が作ってくれたおかゆだけ食べて、嫌々トイレのときだけ起き上がって、ベッドの上でずっと固まっていた。
今度、弥生のサークルに顔を出せば、感想が稚拙すぎてきっとぼくは笑われるだろう。
翌朝も朝の散歩の時間に起きられなかった。だがしばらくベッドの上でじっとしていると不思議なほど気分は晴れてきた。
そしてしばらくして若菜と一緒に弥生が所属している読書サークルに行くことになった。弥生の話だと幅広い年齢の人達の感想を聞きたいから、部長がわざわざ大学の外にサークルを作ったらしい。会議室を借りるお金もあるので、参加費に二千円ほど取られると聞いていた。
都内にある格安の会議室を借りて読書会は開かれた。少人数のサークルでぼくと弥生と若菜を含めても十二人しか会議室には人がいなかった。殆どが学生だったが中年の男女も一人ずついた。今時読書は人気がないのだろうか。
「知り合いに小学生の頃から純文学読んでる読書エリートがいるから参加させてくれって頼まれたんだけど、見た目は普通だね」
初対面の女性にそんなことを言われた。
「どうも……」
「人の兄貴に失礼な人ですね」
「何この小さいこ」
「浩一さんの妹の若菜さんです。わたしの幼馴染みの一人です」
さすがに初めての参加だしぼくがすごい感想を言えたわけではないが、初対面の何人かに気に入られたようで、次回もできたら参加してくれと頼まれた。
二次会ということで飲み屋に行ったのだが、こんな時でも若菜はぼくにお酒を飲ませてくれなかった。若菜もぼくも飲み物はアイスウーロン茶だ。弥生もぼくたちに付き合ってお酒を飲まなかった。というか本来大学生でも二十歳未満が飲酒をしてはいけない。
何人かのサークル仲間がぼくと弥生の仲を囃し立てた。
「大学に進んでも小学生からの幼馴染みと付き合いが続いているなんてロマンチックだね」
「はあ、それほどでも」弥生は照れたようで頬に手を当てた。
「弥生ちゃん、浩一くんのこと好きなんでしょ?」
「好きでもなんでも、こんな場所では言えないですねえ」
ぼくは聞いていないふりをして、酒のおつまみばかり食べて、ウーロン茶をおかわりした。
何故だか掘りごたつ式のテーブルの下で若菜に手の甲を抓られた。
「ね! 浩一くん、弥生ちゃんのこと好きなんでしょ!」
大学生の子がぼくにそう聞くと弥生が怒った。
「どさくさに紛れて変なこと聞かないでください! それでなくても浩一さんは、お喋りや人付き合いが苦手なんだから。そうですよね、浩一さん」
「ま、まあね」
終電の前に、ぼくと若菜と弥生は二次会から抜けた。
電車を待っているとき弥生が言った。
「あんなこと聞かれて迷惑だったでしょう。本当にごめんなさい」
「ちょっと困っただけで、別に迷惑じゃなかったよ」
「そうですか」
若菜は家に帰るまでずっと無言だった。
八月に入って弥生の大学が夏休みになった。達也も盆休みの他にまだ若いからということで三日ほど休みをもらえた。
そしてぼくたちは達也のヤンキーじみた白いセダンで海へと出かけた。車の中では今時の若者が好きそうな音楽がかかっていた。ぼくは音楽番組を観ないので知らない曲だった。
海に着くと車の中で順番に着替えて浜辺に行った。思えば去年もその前もその前の前も夏はこの四人で海に行ったが、今年は車があるのですべてが違っていた。パラソルもピクニックテーブルセットも無理なく車で運ぶことができた。
砂浜は灼熱の太陽に睨まれ熱くなっていた。
若菜と弥生は二人とも地味なワンピースの水着を着ていて、しかも日焼け止めを塗っていた。弥生がビキニを着ていたのは中学の頃一度見ただけだ。
「兄貴、海入ろ」
「わたしも行きます」
「俺も行くぜえ」
誰も荷物なんて見ないで海へと入った。達也はいつの間にか膨らませたワニの形をした浮き袋を持っている。
皆で波に揺られて、水や砂をかけあって遊ぶ。弥生の長い黒髪が海水で濡れてお化けのようになっていた。彼女は慌ててダッカールで髪を後ろにまとめていた。
冷たい波もざらざらした海水の中の砂も気持ちが良かった。もう鬱病なんて治ってしまったのではないかとぼくは錯覚した。
疲れてくると、テーブルセットが置いてある場所へ戻り飲み物を飲んだりお話をしたりした。若菜はチーズケーキなんかを食べていた。弥生もやはりコンビニケーキを食べていた。
もう何年も鬱なのに今更ながら何かしていれば憂鬱になりづらいということをまた感じた。
そうして午後三時を過ぎて海から撤収した。運転して、弥生とぼくたちの順番で家まで達也は送ってくれた。彼はこれからパチンコへ行くようだった。
ある日の夕方達也がぼくを迎えにきた。
「ちょっと兄貴借りるぞ」
「なんのため?」
「ゲーセン行くだけだよ」
「そう」
だが実際に連れ行かれたのは、パチンコで連勝したからソープをおごってやるとのことだった。断りたい気もしたが折角だから行くことにした。
地元の歓楽街にある派手すぎていやらしい看板のお店に入った。恐る恐る待合室で別々の女を指名して浴槽とシャワーなどがある部屋に入った。
服を脱がされ、身体を洗われるまではなんとか我慢できたが、話に聞いたことがあるマットプレイというものをされそうになったとき拒否反応が出た。
「緊張して無理です。時間までお喋りしませんか?」
「そりゃこっちは楽でいいけど」
三万円で誰でも抱ける女にしては、とても彼女が美形に見えた。
「お姉さん、彼氏はいますか?」
「いるよ。ホストであたしは客でしかないけど」
「稼いだ金、殆どつぎ込んでいるんですか?」
「まあ、そうだね」
「普通の男じゃダメなんですか?」
ソープ嬢は力なく笑った。
「ダメだね。あたし達は毎日知らない男とセックスする。八十歳の爺が来ても断れない。その緊張や恐怖を癒やせるのは、あたし達と同じプロであるホストだけだね」
「でもホストはきっと金目当てですよ」
「金目当てならまだいいんだよ、金なんてまた稼げばいいんだから」
そんなことを話していると時間が来て、身体だけ洗ってもらって服を着た。
店の前で達也と再会すると、「童貞から素人童貞になったよ」と嘘を吐いた。
翌日、働いていないのに風俗なんて行ったせいか、世の中への申し訳ない気持ちで涙が出てきた。
そんな日に限って土曜日で若菜の「七瀬若菜認知行動療法教室」があった。
「世の中に申し訳ない気持ちが湧いてきて憂鬱になるときにはどうすればいいのか」
「将来の不安を感じたときはどうすればいいのか」
この二つをアジェンダに設定した。
若菜はいつもと同じ調子で語った。
「世の中に申し訳ないと言いますけど、誰だって、とくに日本人は鶏、豚、牛を毎日のように食べています。間接的に殺生して生きているんですよ。でも誰もそんなことを気にも留めません。兄貴は優しすぎるのです。話を人間界だけに限っても、人を騙して金儲けしている詐欺師が世の中にはたくさんいます。働いている人が一で無職が零だとしても詐欺師はマイナス一どころかマイナス百くらいの価値の人間です。そういう悪い人に限って開き直ってます。悪いことをしろとは言いませんが、兄貴ももっと開き直りなさい」
ぼくはそれを聞いて極論だと思ったが少しは納得してしまっていた。詐欺師が罪悪感を覚えないでぼくが小さなことで罪悪感を覚えるのは、不公平な気さえした。
「もう一つのアジェンダですけれど、私は兄貴とずーっと一緒だから将来的にも兄貴が一人になることはないよ。私は女だから兄貴より長生きだろうし」
そんなところでその日の認知行動療法教室は終わる。
不思議と憂鬱な気持ちもなくなっていた。
活動記録表も毎日若菜に出している。
鬱は甘えだとか言う人もいるが、読書はできるようになったりネトゲはできたり、簡単な日記のような物は書けたりするから、ニートや無職の言い訳のように思う人もいるのだと思う。きつい仕事をしている達也がぼくから離れていかないのは彼が優しい奴だからだ。普通はきつい生活をしている人は弱者に優しくする余裕なんてない。
「兄貴も最近になって少しは良くなってきたみたいだから、これからは運動をする機会を増やします。今日は私と二人きりでピクニックです。お弁当も作りました」
「準備してくるよ」
「こっちは済ませてあるから、ハンカチ、ティッシュ、万が一のためのサイフ、携帯電話だけ持ってきて」
手取り足取り指示されてぼくはお前の子供かと少し思った。
電車で地元では有名なハイキングコースがある公園まで出かけた。薬も飲んでいるし体力が落ちているのか、ちょっと座れそうな場所があるとぼくはすぐに座って何度も休んだ。
「兄貴は体力ないなあ」
そう言って若菜は自分の膝をぽんぽんと叩いた。
ぼくはむずむずする気持ちを感じながら彼女の膝の上に頭を乗せた。やはりいけないことのような気がしてすぐに頭を上げた。
妹にこんなことを感じたらいけないのだろうが若菜は母性的な笑みを浮かべて、キャップをぼくに持たせて水筒から冷たい麦茶を注いでくれる。まだまだ蒸し暑い夏だ。
深緑の森や蓮の葉が浮いている池の周りを歩いて、ゴールは何でもできそうなほど広くて整えられた草地だった。
そこで弁当を食べる。ぼくが好きな鶏の唐揚げやウィンナーが入っていた。姉さんもよくこういうおかずや弁当を作ってくれた。歳は離れていたけど姉妹だったのだと昔を少し懐かしんだ。
そしてレジャーシートの上で二人で昼寝した。ぼくは眠れなかったけど若菜は普段の疲れが出たのか寝息を立てて眠った。空からの日差しはただただ眩しかった。
そうして帰りも歩いて公園を出て、電車で無事最寄りの駅まで着くと、あとは歩きで家まで帰ってこられた。
相変わらず憂鬱になったりニュートラルなテンションになったり、実は双極性障害なんじゃないかと疑いたくなったが、すごくテンションが上がるということもないし、ぼくはやはり鬱病なのだろう。
お盆なので若菜と二人で電車に乗って墓参りに出かけた。
さすがに今更涙は出てこなかったが、姉さんが亡くなったのはぼくのせいだという思いはいつまで経っても消えていかなかった。
汗だくになりながら墓の周りに生えた雑草を抜いて、墓石を束子で磨いた。その後で花と和菓子を供えて、香炉の中に火を点けた線香の束を寝かせた。
長い時間目を瞑って姉さんとのことを思い出していた。そうして烏に荒らされないように和菓子を持ってきていたバッグにしまうと、ぼくと若菜は家へと帰っていった。
そもそも墓参りなどしない達也と、ぼくたちと同じ日に墓参りを済ませた弥生と四人で、ドライブに出かけた。
高速道路も使って東京のお台場まで行った。
車を駐車場に駐めるとまずは海が見えるレストランに四人で入った。店の前に列が出ていたが、イタリアンの店の前に並んだ。
そして一時間近く並んでお店の中に入れた。青と白を基調とした、殆どがテラス席のその店のメニューを見ると、ぼくには何を頼んでいいのかわからなかった。しかたなくよくわからないパスタの日替わりランチを頼んだ。達也も同じ物を頼んだ。
「酒飲んでいい?」
「ダメだよ」
「チッ、しかたねえなあ」
「飲んだことあるの?」
「さあな」
そうしてよくわからない見た目の割に美味しいイタリアンを食べると、店を出た。支払いはすべて達也が払った。
それからぼくたちはフジテレビを見学した。テレビは殆ど観ないのでわからないが、番組のセットが見られて楽しかった。屋上庭園で都会の街の絶景も眺めた。
それからパレットタウンまで移動して、車のテーマパークに行くと、達也は一人ではしゃぎ、十八世紀のヨーロッパの町並みを模したショッピングモールに行けば、若菜と弥生は目を丸くさせていた。
そしてまだ暗くなっていないが、皆疲れてしまったので、二手に別れて観覧車に乗って、それで帰ることにした。達也と若菜、ぼくと弥生に別れることになった。
ゆっくりと大観覧車が頂点までくると、まだ暗くないのでイルミネーションは見えないが東京タワーとスカイツリー、東京ゲートブリッジとレインボーブリッジを見下ろすことができた。今のぼくにはそれらが距離の問題ではなく、とても遠くに感じられた。
どういうわけか弥生は景色も見ないでずっと下を向いていた。
突然、彼女はあの! と大声を上げた。
「なに」
「出会ってすぐの頃からあなたが好きでした。もう友達同士じゃ嫌です」
それは冗談でなければ弥生の告白だった。
だが返事は決まっていた。
「今のまま弥生を受け入れると色々と迷惑をかけちゃうと思うし、もう少し待ってくれないか」
「わたしのこと嫌いなんですか」弥生の目には涙が溜まっていた。
「嫌いじゃないよむしろ好きだから待ってほしいんだよ、逃げ口上じゃないよ」
「……わかりました。もう少しだけ待ちます」
二人とも沈黙したまま観覧車が地上に戻る。
楽しかった夏はすぐ終わり、紅葉も皆で観に行ったがすぐに一年の中でもっとも辛い冬がきた。冬季鬱という言葉があるくらいだし、ぼくはベッドから起きられない日が続いた。
それでもクリスマスがくると若菜が主導権を握って家でクリスマス会が開かれた。重い身体を引きずってプレゼント交換のプレゼントを買いに出かけた。二千円くらいのぬいぐるみだ。
手作りのケーキとフライドチキンを若菜は作った。
弥生は家でピザを作って持ってきてくれた。ラーメン屋の方の厨房だけではなく居住スペースにも台所はあるので問題なく作れたらしい。
弥生はゲーム機も持ってきたので、パーティゲームを皆で遊んだ。
そして部屋は空いているので、弥生も達也も泊っていった。
ラッピングされたプレゼントをテーブルに並べて、ジャンケンに勝った人から好きな物を持っていくという少し乱暴な気もするが、そういうプレゼント交換もした。
ぼくが引いた物は入浴剤の詰め合わせだった。
悪くはないけれど、こんな若者向けじゃない物を用意したのは誰なのだろうか……?
夜に若菜の部屋に言ってご馳走のお礼として、「いつもありがとうね」と言って肩を揉んでやる。下着の肩紐の部分が手に触れて少しだけ恥ずかしくなった。
よく眠れた。だが突然誰かに身体をまさぐられた。これは夢だ、夢なんだ、と思うと朝がきて、この日は四人で近所を散歩した。
大晦日も四人で集まった。てんぷら蕎麦を食べて、格闘技が観たいという達也の意見は却下されて和室のコタツにくるまって四人で紅白を観た。皆疲れているのか、ぼく以外最後まで観ないで眠ってしまった。
そして正月。弥生も手伝ったおせち料理とお雑煮を四人で食べた。
「みんな新年の抱負はなんだ?」
「ぼくは言わないでもわかるだろうけど病気の寛解」
少し違う意味なのだが寛解というのは完治に似た意味だ。
「俺は女を作ること」
「私は四月から通信制大学だから、留年しないこと」
最後に弥生が言う番になって彼女はか細い声で言った。
「秘密です……」
これには達也が「はあ?」と異を唱えた。
「絶対に秘密です!」
そう言われては仕方がないので、ぼくたちは弥生をそっとしておいた。
何故だか出かける前に急に憂鬱になって、皆が初詣に行く中、ぼくは家で休むことにした。
最近は病気がよくなってきたと実感していたので、少しショックだった。
眠れもしないのに寝正月になってしまった。
午後も三時をまわった頃になって若菜が達也の車で送られて帰ってくる。
「これみんなから」
お守りが十個近く紙袋には入っていた。
「学習祈願とか関係ないお守りもあるけど、みんな兄貴の病気が早く治ってほしいってことだからね。感謝して」
「……ありがとう」
ぼくはわけがわからなくなって泣いてしまった。
その夜、全部で八個あったお守りを一つずつたこ糸にぶら下げてネックレスのように首から下げられる丁度いい長さに切った。月曜日から日曜日まで毎日違うお守りをシャツの中に入れて見えないようにだが首から下げることにした。残ったもう一つは勝負時にだけつけることに今決めた。
いつの間にか髪がかなり伸びていた。若菜にお金を貰ってお守りを首から下げて美容院に行った。統合失調症じみた被害妄想だが耳が切られないか心配だった。
若菜は今年、通信制高校を卒業だし、早生まれのぼくはもうすぐ誕生日だ。弥生や達也の誕生会もやったことはあるが、ぼくももう大人だし自分の誕生会は辞退した。若菜ももうすぐ誕生日だが、誕生会なんてやっている暇がないと言っていた。きっと照れくさいのだと思う。若菜は連日弥生を家に連れてきてレポートに追われていた。
その日は夜までレポートを手伝っていたらしく弥生が家にいた。
彼女が一人でぼくの部屋に入ってきた何故だか弥生に言わなくちゃいけないと思った。
「姉さんはぼくのせいで死んだ。ぼくはいらない人間なんだ」
「わたしが好きなのだから不必要な人間ではないです」
「ありがとう……」
「わたしはあなたが好きです」
弥生と小鳥のようなキスをした。
バレンタイン。弥生と若菜から貰えた。
バレンタインのお返しはどうしようか悩んでいると、「私はいらないから弥生ちゃんに渡す分だけ買ってくるね」若菜は言った。ラッピングされたキャンディの詰め合わせを買ってきてくれた。
ぼくの誕生日に金がないと言いながらプレゼントを持ってきてくれた。
弥生が今開けてと言うので小さな箱を開けると、中にはペアリングが入っていた。
「あなたが先に指にはめててください。わたしはあなたが付き合ってくれるようになったら指にはめます」そう言って、弥生は自分の分のリングを持っていった。
誕生日だからか若菜はまた好物の唐揚げを作ってくれた。
その日は昼になって、若菜が「気晴らしに図書館に行こう」と言ってきた。まだ一人で出かけるのは怖いのでその申し出は渡りに船だった。一度に借りることができる上限まで小説を借りた。
家で小説を読んでいると、少し最近調子がいいだけで気が早いのかもしれないが、これからぼくはどうやって生きていくべきなのか悩んだ。ぼくは根性もないし身体も大きくないし、達也のように学歴不問で雇ってくれて給料も高い肉体労働者にはなれない。日雇い派遣のような仕事も、初対面の連続なので向いていない。今なら中卒でもまだ若いからアルバイトにはつけるが、そのまま歳を取るとかなり不味いことになる。ぼくはどうすればいいのだろうか。
レポートや家事で忙しいところを悪いが若菜に相談した。
「家、金持ちだから。無理に働く必要ないよ」
「でも今まで怠けてた分もあるし、医療費で税金も沢山使っているし社会に還元しないと」
「焦らないで。まだ一ヶ月単位でもずっと安定しているわけではないんだから、考えるだけにとどめておいて」
「……わかった」
一人で弥生の親父さんのところにラーメンを食べに行った。未成年だしビールは頼めないがチャーハンと餃子を頼んだ。
「最近、ガキの頃みたいに元気になってきたみたいじゃないか。まだ大して経ってないはずなのに弥生を連れて家出された頃が懐かしいよ」
「……そうですか」
瞬く間にホワイトデーがやってきた。
若菜が買ってきてくれたお返しだが、近くの喫茶店に弥生を呼び出した。
彼女が来てお返しの箱を渡すと、言われた。
「ホワイトデーのお返しなんかより、早く返事が聞きたいです……」
「ごめん。意地悪しているわけではないんだけど、もう少し時間がかかるよ」
「そうですか。わたしもちゃんと告白するまでに時間がかかりましたし、しかたないですね」
それから子供の頃のように喫茶店で弥生と小説のことを話した。
翌日は保険証を持って、近所のレンタルビデオショップで会員証を作りDVDを借りた。まだ自分に何ができるのかはわからない。
連日借りてきた映画を観たり、読書したりして過ごした。達也もたまに家にくるし、鬱で動けない日もあったが、映画鑑賞と読書は続けた。
そして今までも何度もやろうと思って諦めていたことを始めようとした。心機一転、この間美容院にいったばかりで勿体ないが、ネットで電動バリカンを注文して次の日届くと風呂場で頭を坊主にした。その頭を見た若菜はだいぶびっくりしていたが、すぐに風呂場を髪の毛だらけにして! と怒り出した。
こんなことで何か出来た内に入るのかはわからないが、ぼくは映画と読書の感想ブログをネット上に作った。
今時誰だってやっていることをわざわざ頭を坊主にしないと作れない、優柔不断な自分が少し嫌になったが、一日一回必ずブログを更新した。
そしてまた大幸に行き、弥生に頭を坊主にしたのがバレた。「可愛くて似合ってますよ」などと彼女は花のように笑った。次の日には達也に「案外似合うじゃん。次はスキンヘッドに挑戦だな」などと坊主頭をいじられた。
感想ブログには滅多にコメントはつかなかった。しかもコメントを付けてくれるのは若菜や弥生、それとたまに達也だった。
それでも自分の文章を読んでくれる人がいるというのは素晴らしく快感だった。
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