二章 義務教育の私

 兄貴はまだ帰ってこない。

 放課後、郁人達から取り返した部屋で、市販の参考書を使い予習していた。一足早く中学生の範囲の勉強をしている。兄貴達は中学一年生。私は小学六年生になっていた。孤立気味だったが修学旅行にももう行った。

 勉強に飽きると広い家の中を掃除して、それが終わると兄貴が毎朝掃除してくれている風呂場で丁度いい温度のお湯で長風呂した。洗い場に出て、我ながら貧相な身体をスポンジで丁寧に洗った。男のためだったり何か要求を通すために身体を使う予定は今のところまだない。骨がボロボロになっていないのなら、それだけでも感謝しなくてはならない。

 夜になると、すっかり私達用に模様替えしたリビングでテレビを観ながら、一人で鍋を食べる。市販の鍋料理の素を使った簡単な豚バラ鍋だ。兄貴も帰ってきたら温めて食べればいいだけなので楽だろう。もうすぐ冬の今はまだいいとして夏場にも鍋はよく作る。理由は簡単だからだ。

 リビングでテレビを眺めてぼけえっとしていた。

 鍵も持っているので私が起きている必要はないのだが、一応起きて待っている。

 もう歯も磨いてパジャマも着てテレビを観ていると、家の外がうるさくなった。達也と兄貴が話す声だ。

「ただいま」

 そう言って兄貴が帰ってきた。毎度のことだが少しくらい怒りの感情が頭の中に湧いてくる。自転車に乗った達也の背中が遠ざかっていった。

 兄貴が制服姿のままリビングに入ってきた。ところどころ、前に戻ってきてしまっているオールバックの髪をしていた。兄貴は斜に構えた不良として中学デビューしたらしかった。

「遅い!」

「いつもこれくらいの時間だろ」

 そうは言うが、時刻は午後十一時をまわっていた。達也の部活が終わってから、店主がうるさくない個人でやっているゲームセンターに二人で遊びに行っているのだ。今まで辛かっただろうから、私としてはそれくらいは大目に見てやっている。うるさく言うし、補導されないか心配だが、兄貴が人生を楽しむのはいいことだ。

「また鍋かよー」

「じゃあ自分で作る?」

「……鍋美味しいよね」

「そうでしょ」

 私もそういう傾向にあるが長年三食きっちりなんて食べられなかったので、食が細い。二人とも子供用みたいな小さな茶碗を使っていた。

 兄貴が台所のコンロで鍋を温めて、学ランを脱いで、食べた。

 下には誰もいない。兄貴も私も寝室に引っ込んでいた。

 眠れなくなって、勉強をしたりネットをして過ごした。明日眠かったら、小学校の進むのが遅すぎる授業中に眠ればいい。

 SNSの類は見るだけだった。自分から書き込まない。どうしても知りたいことだけネット上の質問サイトに書き込む。あとは動画サイトや青空文庫やその他アマチュアが書いた一次創作の無料小説を読んだ。二次創作はよくわからない。

 死ぬほどリラックスした。大嫌いで私達兄妹にとってはゴミ以下の親戚どもを追い出せたのだから生活は一変した。私が掴み取った生活だ。

 私達が三年以上も地獄のような生活をしたのは、根本を言ってしまえば姉さんのせいだ。死んだ人の悪口は言いたくないが、紛れもない事実に思える。第一無責任だ。別に恨みはしないけれど。

 あぁ……早く兄貴と同じ中学校に上がりたい。弥生ちゃんや達也もいない小学校に通うのは苦痛だ。あと数ヶ月だとしても。

 携帯のアラームが鳴る。気づくと眠ってしまっていたらしい。

 達也はバスケ部の朝練があるため、登校は兄貴と別々だ。トーストと目玉焼きと牛乳だけの朝食を二人きりで食べる。食後にはコーヒーも飲んだ。兄貴が担当している分の風呂掃除とトイレ掃除はいつも朝早くに終わっている。

 そして兄貴は自転車で。私は徒歩でそれぞれの学校へと登校して行った。

 予定通り小学校では授業中に居眠りした。居眠りどころかガン寝だった。少し前まで居た従兄弟達のこともあり、殆ど何もしてないのに私は問題児扱いされていたので、机に突っ伏していても起こされることはない。

 放課後。小学校に一緒に遊ぶような友達はいない。

 なんで私だけ一つ年下なのだろう。もう少しの辛抱だが、弥生ちゃんとも達也とも兄貴とも同じ時間を過ごすことが減っていた。兄貴と血の繋がりがある必要性もない。邪魔っ気なだけだ。

 徒歩で家まで帰る。一人でだ。

 石ころを蹴飛ばしながら歩いた。私もこの石ころと変わらない。きっと大した価値なんてない。兄貴にしたってきっといると便利くらいにしか思っていない。

 その日は兄貴が帰ってくるのが少し早かったので、たまたままだ夕食の準備をしていなかったし、弥生ちゃんの家のお店にラーメンを食べに行った。

 私達の顔を見るとお父さんは弥生ちゃんを呼んできて、彼女はカウンター席の兄貴の隣に座った。飲食店の娘だから衛生のためか、せっかく長く伸ばしているのに髪をバレッタでコンパクトにまとめていた。

「結構家に食べに来たの久しぶりじゃないですか?」

「そうかな」

「いえいえ、浩一さんじゃなくて若菜ちゃんが」

 兄貴が足繁く大幸まで行くことあると知って私は少し嫉妬した。どうせ達也と一緒になのだろうが。

「そう言えば、そうだね」

 冷静を装って私は答える。

 親父さんが言った。

「若菜ちゃんはいつも浩一の分も飯作ってやってんだろ? 家の弥生に爪の垢でも煎じて飲ませてやってよ」

「お父さん! 飲食店でそういうこと言わないでください!」

「おお! そう言えばそうだな。悪い、悪い」

 親父さんと弥生ちゃんのやりとりが漫才のようで少し癒やされた。

 ラーメンが二つすぐにテーブルに置かれた。私もそろそろ女と言ってもいい歳なので、音を立てないようにラーメンを啜った。

「若菜。餃子も食べたい」

 スープを飛び散らせながら兄貴が聞いてきた。

「いいよ。一枚でいい?」

「ああ」

「餃子一枚お願いします」

「あいよ!」

 親父さんは威圧感のない大きな声で注文を受けた。

 すぐに餃子は出てきたのだが、一枚の皿に餃子が二枚分載っていた。

「あの……頼んだの一枚なんですけど」

 カウンターまで首を伸ばして親父さんは言った。

「大きな声じゃ言えないけど特別サービスだよ」

「ありがとうございます……」

 弥生ちゃんはにこにこと笑顔で、私と兄貴が食べるのを見守るように見ていた。

 兄貴はさっさと食べ終わり、天井付近に置かれたテレビを眺めて、私が食べ終わるのを待ってくれていた。

「なあ、若菜」

「……なに?」

「家事大変じゃないか?」

「大丈夫だよ。兄貴も手伝ってくれるし」

「そうか」

 そうして注文した物をすべて食べ終わりお勘定を払い私達はお店を出た。

 弥生ちゃんがお店の外まで見送ってくれた。

 自転車に二人乗りして私達は家まで帰って行く。

 兄の背中はか細く狭かった。誰一人背負えないような身体だ。肩を掴むだけで骨の感触がする。私達兄妹の骨はあの三年間でいかれてしまったのだろうか。

 まだコートを着なくても大丈夫なくらいだが、夜は寒かった。

「兄貴こそ大変じゃないの? ヤンキーぶっちゃって」

「オールバックのこと? ヤンキーぶってないよ。ただのイメチェン」

「ふうん、趣味悪いの」

「うるせ。ほっとけ」

 兄貴は家に帰ってくるとさっさと部屋に引っ込んでしまった。

 日付が変わる頃弥生ちゃんから私の携帯に電話があった。

『もしもし? もう寝るところでした? だったら切ります』

「大丈夫だよ」

『失礼かもしれませんけど、若菜ちゃんが学校で虐められたりしていませんか?』

「してないしてない。どちらかと言えば怖がられてる」

『へー……そうなんですか』

 弥生ちゃんは中学では文芸部に所属している。

「兄貴のオールバックどう思う? 似合ってないよね」

『そうですね。でもあまり人の見た目は気にしないです』

 へんなことを言う弥生ちゃんだ。

「またまたあ。見た目がすべてじゃないけど、見た目が悪すぎる人なんて嫌でしょ?」

『内面に良い物があれば、本当に外見はどうでもいいですよ』

「本気?」

『本気です』

「弥生ちゃんは天使だなあ。エンジェルちゃんって呼んでいい?」

『だめです……若菜ちゃんも中学来たら、文芸部に入ってくださいね』

「私、あまり本読んでないんだけど」

『だったら丁度いいです。面白い本なんていくらでもありますから。わたしもその部分だけ記憶を消してまた読みたい本なんて沢山あります』

「ふうん」

 私は弥生ちゃんの文学熱に少し辟易とした。

『あ、それじゃあこれ以上は悪いので切りますね。おやすみなさい』

「うん、おやすみ」


 土曜日。久しぶりに前に廃バスまで家出した四人で集まった。弥生ちゃんは兄貴に好き好き光線を出しているようだった。けれど兄貴は鈍感なのできっと気づいていない。

 近場のショッピングモールまでバスで行った。まずは映画館に行くのだが、女性陣が観たい映画を選ばせてもらえた。

 映画が始まって、三十分も経つと達也は鼾をかいて眠ってしまった。おまけに少しして起きると寝ぼけているみたいに「小便、小便」と言ってシアターから出て行ってしまった。なんてやつだ。

 恋愛映画がクライマックスを迎える。私も弥生ちゃんも平気だったのに、兄貴は鼻をぐずぐず鳴らして泣いていた。そういう人は館内に少ないようで目立ってしまう。弥生ちゃんが兄貴にハンカチを差し出した。映画館から出てベンチに座っても兄貴は泣き止まなかった。

 達也がトイレから歩いてきた。

「次はゲーセンだ」

「えー……」

 私は不満だった。だいたい達也と兄貴は毎日のように行っているではないか。

 しぶしぶゲームセンターに行くと、私や弥生ちゃんが遊べるはずがない格闘ゲームというらしきもので男二人は遊び出した。

 仕方がないので、結構お金がかかるが私達はメダルゲームで遊んだ。主にメダル崩し? メダルの山にメダルを飛ばしてそれを崩してゲットするゲームだった。

 弥生ちゃんは可愛い女の子だった。台の中のスロットが回れば両手を合わせて拝んだりしている。

 メダルを二人でゆっくりと使いながら、お話した。

 好きな人の話は避けた。弥生ちゃんが好きなのはどうせ兄貴に決まっているのだから。

 予習ということで中学の話を聞いた。

「不良なんて、達也さんくらいしかいませんよ」

「本当?」

「髪が派手な人はいますよ」

「不良いるんじゃん」

「まあそれぐらいは……でもカツアゲとか虐めとかしている人はまわりの女子にいませんねえ。男子はいるみたいですけど」

 そうだったのか!

「兄貴は大丈夫なの?」

「大丈夫です。達也さんがいますから」

 一度買い足したメダルが無くなると、兄貴達を迎えに行った。

 ショッピングモール内の人が多い落ち着かないファミレスで、食事を食べた後、ドリンクバーだけで粘る。

「若菜。小学校はどうだ?」

「何も起きないよ」

「なら良かった」

「何がいいって言うんだよ」

「平和が一番ってことだよ」

 今年の終戦記念日はとっくに過ぎ去っている。

「ぼくもそう思うな」なんて兄貴も言う。

 弥生ちゃんは紅茶ばかりを飲んでいる。達也はコーラ、兄貴はウーロン茶、私はコーヒーを飲んでいる。

「それは私だってそう思うけど……」

「若菜ちゃんと浩一さんは、今まで苦労したんですから、これからはいいことばかりですよ」

 そう言ってくれるのは嬉しいが、無責任な言葉に感じた。

 結果的に私は沈黙した。

 それから兄貴と達也がトイレに立っている間に弥生ちゃんが言った。

「近々浩一さんに付き合ってほしいと告白しようと思うんですがいいですか?」

 なぜ私に断る。

 でも言ってやった。

「まだ二人暮しが始まって日が経っていないし、兄貴はこれから大変だろうから、まだ告白しないで」

 弥生ちゃんは一秒にも満たない時間固まった。

「あはは! そうですよね、やっと普通に近い生活を手にいれたのですから、動揺させたらまずいですよね……我慢します」

 兄貴達が戻ってきて三十分くらい話すと私達は家へと帰った。

 その晩、弥生ちゃんから電話があった。四人の中では私と達也だけが携帯を持っている。

『今日は自分勝手なこと言っちゃってごめんなさい……でも本当に浩一さんのことが好きなんです』

 私は弥生ちゃんの好意を聞いて、なんだか白けてしまった。彼女は私や達也はどうでもよくて兄貴と一緒にいたいから仕方なく私達とも付き合っているのだろうか。

「ありがとうね、あんな兄貴を好きでいてくれて」

『いえいえ、そんな……それじゃあおやすみなさい』

 恥ずかしいのか弥生ちゃんはすぐに電話を切った。

 その晩、私は眠れなかった。隣の部屋ではネットゲームの音が聞こえてくる。弥生ちゃんはいい人だけど……私の気持ちも知らないで……

 小学校で休み時間。顔も覚えていないような女子に言われた。

「あなた達也くんの何?」

 いきなりなんなんだろうか。

「何って……ただの幼馴染みだけど」

「達也くんのこと好きなの?」

「そんなわけないじゃん、あんなやつ」

「あたしは好き。誰にも言っちゃだめだよ」

「……」

 本当になんなんだこいつは。

 私達を虐めていた親戚の一家がこの街から消えて、私が皆殺しにしたと噂になっていた。小学校では友達がいなかった私に、達也が好きだという金井さんは積極的に話しかけてきた。なんで今更……とも思うが、中学に入れば達也とも一緒になるので外堀を埋めているのだろう。

 テレビがどうとかジャニーズの誰がどうとか、興味がない話ばかりを振ってきたが、私は相槌だけは打ってやっていた。

 ある日の放課後金井さんに誘われて、彼女の家まで遊びに言った。古びたマンションの中の一室が彼女の家だった。

 彼女の学習机がある部屋で待たされていると、黒いプリンのような物を持ってきてくれた。

「ごまプリン。食べていいよ」

「ありがとう」

 甘くてごまの香りがして美味しかった。

「どうやって作ったの?」

「ごまプリンの素買ってきて、書いてあるとおり作ればいいだけだよ。すごく簡単に作れるからおすすめ」

 いい話を聞いた。機会があったら作ってみよう。普通のプリンに負けず劣らずの美味しさだった。

 それからまた金井さんの年相応に幼い話を聞いてから、家事があるからと言って帰路に就いた

 別の日、小学校が終わり金井さんと校門から出てくると、達也がいた。顧問とキャプテンが同時に休みでろくな練習ができないからバックれてきたと言っていた。

「近々隣の中学校で練習試合をするから応援にきてくれないか?」

 達也はそんなことを言った。私より先に金井さんが反応した。

「はいはいはーい! あたしも応援に行きたいでーす」

「お、くるか? 別に入場料を取られるわけでもないし、来てくれるなら来てくれよ」

「はい! 絶対に行きます!」


 その日はすぐに来た。兄貴や弥生ちゃんも一緒に自転車で隣の中学校まで向かった。家には従兄弟達が使っていたママチャリが何台かあった。

 弥生ちゃんとは頻繁に電話している。自転車を漕ぎながら話しかけた。

「またラブレター貰ったんだってえ?」

「はい、ちゃんと返事も書きましたよ。お付き合いできませんって」

「うわー、残酷う」

「でも猫被ってますからね。本来のわたしを知ったらラブレターを出してきたかどうか……」

「弥生ちゃんは自分が思ってるほど裏表ないよ。達也と違って乱暴な言葉も使わないし」

「ははは、達也さんと比べられても困りますね」

 金井さんは珍しく人見知りしているのか、自転車を漕いでいる最中とくには喋らなかった。

 隣の中学校に着くと、観客席などはないがコートの外で立って試合を観ることを許された。

 試合はまだ始まっていないが、準備体操の一部なのかコートの半分を使って、お互いの中学校のバスケ部が練習をしていく。なんて言うのか知らないが、オレンジ色のボールをゴールの板にジャンプしてぶつけて、横に行く。その後に違う部員が板でバウンドしたボールをまた板にぶつける。それを達也たちのチームは延々と繰り返した。観ていて結構面白いが、かなり難しいことなのではないかと私は思った。

 そしてシュート練習やパス練習が続く。黒いポロシャツを着た審判が笛を吹いた。

 それぞれのコートから五人ずつ真ん中に集まっていく。正直想像していたが、達也はまだ一年生なのにスタメンらしく、五人の中に入っていた。ユニフォームはオレンジ色を基調としていた。

 そして試合が始まるジャンプボールをして、相手チームが先制点を入れた。あまり強いという話を聞いたことがないので、私達が進学する予定の中学は弱いのかと思っていたが、最初点数を入れられただけで達也たちのチームが押しているようだった。

 達也はシュートを決めるとスコアボードを観て、丁度ダブルスコアになっていたからなのか、コートの中で前宙を決めた。私達は沸いたが、彼はすぐに顧問に拳骨で頭を叩かれていた。このご時世でも達也にだったら体罰も問題ないと思ったのだろう。実際に問題ないのだけれど。

 トリプルスコアで達也たちのチームの圧勝に終わった。

 試合が終わってもバスケ部員達は自分の中学校に戻って練習をするらしく、達也は私達と一緒に帰れなかった。

 その日の晩、金井さんから電話があって、達也のことが好きだ、かっこいいと熱っぽく語っていた。

 その日の放課後。うちの小学校では普段から十六時半まで校庭を開放していた。

 達也と兄貴達以外とでそんなことをしたのはほぼ初めてで、男子達が使っているバスケットゴールとは離れた場所にあるバスケットゴールであまり面識がない女子達とバスケットのミニゲームをして時間を潰した。楽しかった。姉さんが亡くなったりしなければ、小学校に通う間ずっとこんなふうに楽しかったのかもしれないと思うと、もう少しで卒業なのもあり、妙に感傷的になってしまった。

 正月や卒業式より前に冬休みがやってきてクリスマス・イヴがくる。弥生ちゃんの家のラーメン屋が定休日の日に、奥さんから料理を習う。わざわざ家まで来てくれた。弥生ちゃんは家でまだ小さい妹の面倒を見るらしく来なかった。文芸部でもみんなが帰る時間まではいられないことも多いらしい。

 手作りのクリスマスケーキやホワイトシチュー、フライドチキンは無理でも唐揚げの作り方を習った。普段鍋や、市販の炒めて混ぜればいいだけの調味料などを使ってサボっていた私には難しかった。

「若菜ちゃん手際がいいわね」

「そんなことないですよ。普段サボってばかりですし」

「なら、これからは作った方がいいよ。浩一くんも喜ぶと思うし」

「……わかりました」

 そうしてクリスマス・イヴになった。金井さんも呼んでクリスマス会をすることになった。私は主催側のようなものなので、楽しみというより緊張した。だが料理もケーキも無事作れた。

 料理を食べながら、テレビを眺めた。達也は聞いてるのか聞いていないのかよくわからない兄貴をかまってる。

 私達はガールズトークをした。

「弥生先輩は経験豊富そうですね」

「はあ」

 金井さんに言われて弥生ちゃんは困っているようだった。

「誰かと最後までしたことはあるんですか?」

「ちょ、ちょっと、金井さん」

 何故か私が慌ててしまった。だが兄貴も達也もこちらが喋っていることなど聞こえていないようだった。

「ご想像にお任せします」

 弥生ちゃんがそんなことを言うので私まで気になってしまった。

「弥生ちゃん、いくらなんでもないよね?」

「若菜さんまで何言ってるんですか!」

「それでどうなの?」

「ないですよ。あったら早すぎるでしょ」

「あれ、そうなんですか。うちのクラスの女子に経験済みの子、二人いますよ」

「最近の子は進んでいるんですね……」

「弥生ちゃんと一歳しか変わらないから」

 そして金井さんを送って行かなくてはならない時間になって最後にプレゼント交換した。ストップを言うのは私の役だ。

 一、二分、プレゼントを渡して受け取って……を繰り返し「ストップ!」と私は叫んだ。幸い自分が用意しているものが来ているということはなかった。

 金井さんを送るのは達也に任せて、パーティの後片付けをしてからプレゼントを開封した。包みの中はブリーチ剤だった。兄貴は私が用意した布団のシーツを引いていた。

「もう寝る……」

 兄貴は部屋に引っ込んで行った。

 冬休み中だからか、兄貴は昼頃まで寝て昼食をとると、またゲームセンターまで遊びに出かけた。途中でバスケ部の練習を終わらせた達也と合流するらしい。

 私は夜まで家の掃除や洗濯物、アイロン掛けをして夕食を作って待った。今夜は寒いし文句なしに鍋だ。

 そして話し声が近づいてくる。私はある物を持って家の前まで出迎えに行った。自転車が二台やってきて、片手を上げて達也は行ってしまおうとする。私は呼び止めた。

「昨日のプレゼント交換でゲットしたんだけど、これ達也向きだと思うから」

「何が入ってるんだ?」

「開けるまで、楽しみにしていて」

「わかった。じゃあな、おやすみ」

「おやすみなさい」

 達也は私が渡した小箱を開けて、しまう。自転車を走らせて彼は行ってしまう。

 兄貴はとっくに家の中に入っていた。

 近頃兄貴とのスキンシップが足りていないような気がする。

 鍋を温めて食べ終わった兄貴の肩を私は揉んでやった。

「気持ち悪いな」と言われながらも、私は肩もみを止めなかった。

 大晦日。弥生ちゃんの家で年越蕎麦を食べて、金井さんと合流して、保護者の弥生ちゃんのお母さんとみんなで初詣に行った。

 広いとはいえ、たかだか田舎の神社なのに、駐車場がもう少しで満杯という所で車は止められた。

 皆で出店を見てまわっていると、人で混雑していてもう少しではぐれそうになってしまった。

 達也が私の手を握る。

 面倒なので拒否しなかった。

「この間のブリーチ剤ありがとうな。あれ高いやつだぜ」

「あれ、たぶん金井さんが用意した物だよ。お礼は彼女に言って」

「わかった、今度言っておく」

 達也の手は大人の手みたいにごつごつとしていた。

 すぐ後ろに彼女はいるが、達也にしか聞こえないように言ってやった。

「金井さん達也のこと好きだから大事にしてやって」

 少しの間達也は無言になった。

「できたら……な」

 何か思うところでもあるのだろうか。いつもの達也より歯切れが悪かった。

 そして賽銭箱の前に行列が出来ていて、私達はそこに並んだ。兄貴は弥生ちゃんと何か話している。私は達也と。金井さんが会話に入れないようなので、私の方から話題を振ると、素っ気なく答えてくれるだけだった。

 百八回目の除夜の鐘が鳴らされて新年が到来した。

 後が詰まっているので、用意してきた五円玉を賽銭箱に投げ入れると鈴をガラガラと鳴らして、お願い事を頭の中で呟いた――兄貴とずっと一緒にいられますように。

 全員が拝み終わると私達は、おみくじを引くこともしないで弥生ちゃんのお母さんに送られて、家へと帰っていった。

 眠ってからまた弥生ちゃんの家に行き、おせち料理をご馳走になった。金井さんは自分の家族がいるので来ない。年末年始はラーメン大幸も休みだ。

 甘い物をあまり食べられない時期が続いた私達兄妹は、伊達巻きや栗金団を遠慮しながらも美味しく頂いた。

 おせち料理を食べ終わり、私達は正月特番のお笑い番組を眺めていた。親父さんが、達也の分もあるポチ袋を三つ懐から取り出した。

「お年玉やるよ」

「やりい!」

「達也! 本当に結構ですから……! 初詣にも連れて行ってもらったし、おせちもご馳走になりました。お年玉までは頂けません」

「若菜がそう言うなら、俺も貰わなくていいけどよ。浩一はどう思う?」

「やっぱり受け取れないよ……」

「だ、そうです」

 達也がそう言うと、親父さんがお年玉を懐にしまい直した。

「お前ら、大人になったな……おじさんは嬉しいよ」

「親父さんやお袋さんのおかげです」

「そう言われると照れるなあ」

 テレビを観ていた弥生ちゃんが言った。

「貰っておけばいいですのに。どうせ五百円玉一枚とかですよ」

「違えよ。一人三千円だよ」

「十分少ないですね」

「弥生! 三千円稼ぐのにラーメン何杯売らないとならないのかお前にはわからないのか!」

「はいはい、そうですねー」

 私は弥生ちゃんと親父さんの掛け合いを見て、思わず笑いそうになってしまった。


「三万円くれないか」

 三が日が終わったがまだ冬休み中の頃、兄貴にそう言われた。

「何に使うの?」

「服を買うんだ」

「わかった、いいよ」

 中学生にもなれば、それは色気づくだろう。私しかわからない場所に隠している現金から三万円兄貴に渡した。

「ありがとう」

「達也と買いに行くの?」

「そうだよ」

 三万円も持たせたのだから、遠出して食事もとってくるだろうと思っていると、昼過ぎには帰ってきた。

「ただいま……」

 兄貴は手ぶらだった。

「買った服は? 買わなかったの」

「……買わなかった」

「じゃあ三万円返して」

「ない」

「はあ?」

「本当はパチンコ屋行ってた……それで全部負けた。ごめん」

「中学生が何をしてるの!」

 私は大声で怒鳴った。

「悪かったって」

「……」

 私は急いで達也に電話した。

「もしもし達也? 今度家の兄貴をそういうところに連れて行ったら、家の敷居またがせなくするから。じゃあねっ!」

 兄貴の顔は引き攣っていた。私が怒鳴る原因を作ったのはあなたじゃないか。

「今までは欲しいってときにあげてたけど、これからは小遣い制にするから。二月から月一万三千円。一月分は一日で三万円も使ったんだから抜きだよ」

「……わかった」

 兄貴はとぼとぼと階段を上っていった。

 小学校最後の三ヶ月が始まった。どういうわけかその日、私は金井さんに無視されて過ごした。

 達也が小学校の校門のところに来ていた。

「久しぶりに四人で集まろうと思ってな」

「結構いつも集まってんじゃん」

 そこへ金井さんが家へ帰ろうとしているのか、校門をくぐろうとしていた。

「お! 金井ちゃん、この間はありがとう! 若菜の家行くんだけど、金井ちゃんも来るか?」

「結構です」

 それだけ言ってスタスタと金井さんは、学校の敷地内から出ていってしまった。

「どうしたんだろうな。生理かね」

「セクハラすんな、ボケ」

 思わずへんな言葉遣いをしてしまった。

 その日の晩、金井さんから携帯に電話があった。

「達也くんが好きなのはきっと若菜ちゃんだよ。もう学校でも話しかけないで」

「そう……わかった」

 誤解だと思ったが、私は金井さんと疎遠になってしまったようだ。

 四人で揃ってリビングの食卓にホットプレートを出し、達也が大量に購入してきた肉を焼いて食べた。兄貴は黙っていると遠慮して取らないので、焼き肉のタレが入った皿にどんどん肉を積み上げてやる。達也はがつがつと弥生ちゃんはゆっくりと肉を食べていった。そのうちにリビングが煙りで充満する。

 弥生ちゃんが焼き野菜を兄貴の皿に置いていく。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 肉を載せてやってる私にもお礼くらい言いやがれ、くそ兄貴。

 肉はかなりの量があったが、半分近く達也が一人で消費した。白米はまだ炊いていないと言うと、彼はレトルトのごはんを温めて食べた。やはり他の三人は白米を食べなかった。炭水化物は肉よりダイエットの敵だ。

 兄貴は食が細く、すぐにストップ、と言うのでそれ以上皿に肉を載せなかった。

 私はセクハラした。

「いいなあ、弥生ちゃんは胸に栄養が行って」

「……何を言ってんですか」

「私は全然育たないよ」

「すぐにもっと成長する時期がきますよ」

 白米をかっこんでいた達也が箸の動きを止めた。

「俺が揉んで大きくしてやろうか、ん?」

「セクハラですか……キモい」

 弥生ちゃんは引いているようだった。

 兄貴は話を聞いていたのか、微妙に緊張した表情をしている。

「でも肉代だって俺持ちだぜ?」

「それは嬉しいけどさ……セクハラは関係ないでしょ」

 達也はその日、家の空いている部屋に泊まっていった。

 弥生ちゃんは兄貴に送られて家まで帰って行った。

 もうすぐ小学校を卒業するというのに、私は屋上で授業をサボっていた。

 嬉しい気持ちでいっぱいだ。

 また兄貴達と同じ学校で過ごせる。

 まだ冷たい部類の風が吹いて、私の髪を揺らした。髪は揺れるが私の気持ちは驚くほど揺れていなかった。

 色々あったが、私達が虐待されていたなんて過去の話だ。これからはきっと良いことしかない。

 そうして小学校の卒業式がきた。卒業証書を校長から受け取り、パイプ椅子に座る。ふと姉さんのことを思い出して涙ぐんでしまう。兄貴もきっと今でも姉さんのことを気に病んでいる。校歌と国歌を歌い、気づくと卒業式は終わっていた。在校生に見送られて校庭を歩き、校門から出ていく、兄貴と達也と弥生ちゃんが待ってくれていた。

 私はぶわっと涙を破裂させてしまった。

「おい、若菜、お前らしくねえじゃん」

「うっさい……ひっく」

「よし、俺が肩車してやる」

「ちょ、ちょっと……」

 達也は屈んで私の脚と脚の間に頭を入れると無理矢理肩車した。

「おーおー、軽いこと軽いこと」

「下ろしてよ……」

 チビの私からすればいい景色だが、それどころじゃなかった。

「やなこった」

 不思議と達也に肩車してもらっていると感傷的な思いは飛んでいった。兄貴と弥生ちゃんは後ろからついてくる。

 達也は私が六年間歩いた通学路を歩いて行く。

「達也」

「ん?」

「ありがとうね」

「なんか、照れるぜ」

 家に帰ってくると、私は部屋に引っ込んで、また涙が込み上げてきた。嫌なことの方が多かったかもしれないが、六年間通った小学校は特別な場所だった。

 部屋をノックされた。私はいつのまにか眠ってしまっていたらしい。

 リビングに行くと、弥生ちゃんにクラッカーを鳴らされた。

「ご卒業おめでとうございます!」

「ありがとう」

 この間焼き肉を食べたばかりだが、今度はハンバーガーを沢山買ってきたらしくハンバーガーパーティだった。レンジで二十秒チンして食べると、熱々でとても美味しかった。

 兄貴が弥生ちゃんを送って行った後、私と達也は二人きりで出かけた。自転車を結構な時間こいだ。

 春の海は風が吹いていて、涼しく静かだった。潮の香りがする。

「達也はいきなり消えたりしないよね」

「何言ってるんだ、お前」

「で、どうなの?」

「俺達は生涯の親友だろ。誰も裏切らなかったら、ずっと一緒だ」

 飛ばされてきた砂が少し腕や首に当たった。

「裏切るってどういう?」

「さあ、考えたことねえからわからねえや。それくらいあり得ないことだよ」

「ありがとう……」

 また涙が出てきそうになった。


 少し長い春休み中、書類上の手続きはお父さんの部下の斉藤さんがすべてやってくれた。部屋の中のサボテンに水をあげたり、家中を入念に掃除したり庭の手入れをして過ごした。それとインターネットとやはり勉強だ。

 すぐに中学に入学する日はやってきた。卒業祝いはしたので入学祝いにパーティのようなことはしなかったが、弥生ちゃんはハンカチを何枚も、兄貴と達也は二人で腕時計を買ってくれた。

 制服のセーラー服を着て、兄貴と二人で中学へと登校していく。幸せな朝の風景の一部だ。

 入学式が終わり、クラスメイト達が順番に自己紹介する。殆どが同じ小学校から上がってきた生徒ばかりだ。「七瀬若菜です。よろしくお願いします」とだけ言って私は再び椅子に座った。兄貴達が居れば他に友達はいらない。

 その日から、兄貴が私を家まで送ってくれるようになった。

「なんでそんなことするの?」

「懺悔の気持ちだよ」

「ふうん」

 これから毎日兄貴と登下校できると思うと、舞い上がってしまい、ちゃんとした料理が作れないでまた鍋を作ってしまった。夜中に達也と一緒に遊んで帰ってくると、兄貴は文句も言わずにコンロで鍋を温めて完食した。

 翌日は体育館で部活動の紹介がされた。兄貴は帰宅部なので関係ないが、達也はバスケ部、弥生ちゃんは文芸部の紹介のときに壇上に上がって部をアピールしていた。

 その日は早帰りだったので兄貴が待ってくれているのかもわからず三十分待ったら帰ろうと思っていると、校門で弥生ちゃんに見つかった。

 文芸部部室まで連れて行かれる。三年生まで入れて十人もいない。

「私小説なんて書けませんけど……」

「わたしも書けません!」

 弥生ちゃんは胸を張るようにそう言った。

「部長の望月です。評論……というか感想を書くだけでいいわ。文化祭のとき会誌を無料で配るのと、気が向いたときに文学フリマに本出すだけだから」

「コミケみたいなイベントですか?」

「そうそう」

 暇なときネットばかりやっていると嫌でもコミケくらいは知っているようになる。

 入部するかは考えておくと言い、弥生ちゃんも置いて校門に戻ると兄貴が待ってくれていた。

「先に帰って良かったのに」

「若菜が心配だったからさ」

 嬉しいが私は兄貴に言った。

「私文芸部入るから。もう待ってなくてもいいよ」

「帰りが遅くなるから余計に心配じゃないか。待ってるよ」

「ゲーセン行けなくなるよ」

「それは大丈夫。達也のバスケ部が終わったら家まで迎えに来てもらうことになった」

「ふうん」

 二人で歩いて家へと帰って行った。

 兄貴は私に歩幅を合わせてくれる。

「弥生も文芸部だよね? なら今度から彼女のことも送って行くか」

「そうだねそれがいいかもね」

 兄貴のことが独占できないでほんの少しだけイラついた。

 ちゃんと家でも勉強しているので中一の勉強程度遅れることはなかった。

 またみんなで達也たちバスケ部の練習試合の応援に行った。

 達也と同じ色のゼッケンをつけた男子が私達の方へ寄ってきた。達也と同じくらい背が高く、達也より痩せているという印象を受けた。髪は刈り上げていないベリイショートだ。

「達也の幼馴染みなんだってね」

 私達に言っているらしい。

「はあ」

 その人の後ろからやってきた達也がじゃれるように肩を組んだ。

「こいつは青田。俺のライバル……というか仲間だな。二人とももう既にレギュラーも同然」

「達也、大げさなこと言うなよな」

「だって実際にそうだろ。少なくとも一年のときから今まで同期でエースなのは俺とお前だろ」

「自信過剰は良くないよ。コートに戻るぞ」

「おう」

 二人は戻っていった。また練習試合では達也たちの中学が圧勝だった。達也たちというか今は私が通っている中学でもあるのだが。

 一応曲がりなりにも文芸部なので暇な時間は読書熱が入った。兄貴や弥生ちゃんとは趣味が違うようで、誰にでも何を言っているのかわかるような簡潔な文章で書く作家が好きだった。これこそが飾らない知性だ。

 たまにネットで調べただけではわからないところを弥生ちゃんのお母さんに聞いて、料理の勉強も続けた。面倒なときはいつも鍋だけど。折角立派なガスオーブンがあるのだから、ケーキもたまには焼いた。シュークリームは成功したことがない。シュー生地が上手に膨らまないのだ。

 私が兄貴に告白するのを止めた後も、弥生ちゃんはたまに家まで家事の手伝いにくる。風呂掃除まで手伝おうとするものだから、「それは兄貴の仕事だよ」と釘をさす。自分の分だけ手伝ってもらって職権濫用な気もしたが、二人しか住んでいないのに広い家の掃除は本当に大変なのだ。私のせいで資産価値を下げることはしたくなかった。出来ることなら終の棲家にしたい。

 その日放課後弥生ちゃんと二人で兄貴を文芸部部室に引っ張り込んだ。彼は固まってしまった。髪をオールバックなんて不良臭い、そしておじさん臭い髪型にしているのに、根っ子のところは何も変わらないで弱気な男子のようだ。

「若菜ちゃんのお兄ちゃん?」部長が聞いた。

「そうです……」

「本棚にあるの殆ど部員の私物だけど読みたかったら読んでいいわ。くつろいで行ってね」

「は、はい……」

 久しぶりに弱気な兄貴が見られて、性格が悪いのかもしれないが安心した。やはり兄貴には私がいないとだめなのだ。

 本棚とそれ以外にも棚、長テーブルがある部室で兄貴はあまり動かないで読書していた。しかも自分が持ってきた文庫本だ。まさかゲーセンでも読書してるわけじゃないよね? 兄貴。

 そして最終下校の時刻が来て、弥生ちゃんと三人で私達は家へと帰ろうとした。

 弥生ちゃんと別れてから兄貴に聞いた。

「文芸部どう? 入る?」

「入らないよ、ほぼ女子しかいないじゃないか」

「まあ、そうなんだけどね。ハーレムとか興味ない? そういう小説も結構あるらしいし」

「興味ないよ」


 ゴールデンウィークが来た。日帰りだがみんなと東京見物に行くことになった。いつもと違うのは達也の盟友青田さんが一緒に来ることだけだ。

 電車の座席に皆で並んで座った。弥生ちゃんは兄貴と達也以外の男性が苦手なのかあまり喋らなかった。

「達也は幼馴染みの女子が沢山いていいな」

 そう言えば青田さんを小学校で見た記憶がなかった。中学に進学すると同時に越してきたのだろうか。

「まあな。俺の宝物なんだ。あ、浩一もだぜ」

「そうか」

 東京の駅で降りると人の多さに目がまわりそうだった。そして目的地の浅草までさらに移動した。駅と次の駅の間が短い。

 浅草寺の雷門の前で皆で記念撮影した。弥生ちゃんは白の丸襟、黒に近い紺色のワンピースを着ていた。私はジーンズに薄手のパーカーだなんてオシャレには殆ど遠い格好だ。でも、こんな服でもちょっと前まで着られなかったのだ。

 くらくらしそうな程人が多い仲見世通りを歩く。お土産は帰りに買うことに皆で話し合って決めてある。

 宝蔵門の前で雷門とは違ったことが書いてある提灯の前でまた記念撮影し、常香炉で煙を浴びる。身体の悪いところに当たるといいらしい。お水舎で手を洗い、本堂、二天門、中には入れない五重塔を見物する。

 そして宝蔵門に戻ってきて、お待ちかねの仲見世通りでのお土産物色タイムとなった。串団子や人形焼きも皆で食べた。達也と青田さんはバスケ部の皆さん用にお土産を買っていた。弥生ちゃんも家族用にきびだんごとかりんとう、記念になのかキーホルダーを買っていた。兄貴はあまり観光名所に興味ないらしく居心地悪そうにしていた。

 青田さんに言われて達也の姿がないのに気づいた。私は携帯で電話した。

『今、コンビニ』

「仲見世通りの入口にいるから早く戻ってきて」

『あいよ』

 電話を切ると、青田さんが言った。

「七瀬さん、達也の扱いに慣れてるね。お姉さんみたいだ」

「そうですか」

 達也がお世話になっているのは有り難いが青田さんにそこまで興味が湧かなかった。そういうことを考えているのを知ってか知らずか彼はさらに話しかけてきた。

「俺、七瀬さんのこと全然知らないんだけど、何やら苦労してるらしいね」

「……達也から何も聞いてないんですか?」

「うん、あいつ普段バカなのに、プライバシーがどうとか言って教えてくれないんだ」

 逆に言えば達也に私達兄妹のことを根掘り葉掘り聞いていたということか。人はいつの時代もゴシップ好きだ。

「ちょっと両親が家にいなくて、必要なときだけ大人が来て手続きしてるだけですよ」

「すごい苦労してるじゃん! 洗濯は? 炊事は? 家事は? 全部自分達でやってるの?」

「そうです」

「すごいなあ。尊敬するよ」

「ありがとうございます」

 弥生ちゃんが口を挟んだ。

「実はわたしもずっと若菜ちゃん達のことを尊敬してました」

「ありがとね」

 それからちょっと値段が張るところでわざわざ並んで食事をとって、浅草演芸ホールでわかりもしない落語を眺めてから帰りの電車に乗った。家に着く頃はもう真っ暗かもしれない。

 いつでも座れる下りの電車の中で起きているのは私と青田さんだけのようだった。

「七瀬さんって世の中が不公平だと思わない? 幸せが均等に配置されてないと思わないか」

 何故、急にそんなことを言ってきたのかわからないが私は答えた。

「人はその人の人生でしか生きられないものだと思います。そういう意味では公平です」

「読書家は言うことが違うね」

「今のは信念のようなものです」

 そう思わなければ、兄貴の妹として生まれてしまったことを納得させることができない。

 それから青田さんは喋らなかった。

 地元の駅前で別れる。

 残りのゴールデンウィーク中、達也たちは部活の練習。弥生ちゃんと兄貴は部屋に籠もっていた。何をしているのだろう? まさかセックス……? 奥手な兄貴がそんなことできるはずがないと思っていたが、誘われれば応じるとも思った。嫉妬の炎が心臓で燃えているような気がした。

 休みが終わり、しばらく経つと梅雨の季節になった。雨は眺めるの以外好きではないが、家を出るときたまにカタツムリが見られるのは嬉しい。

 私達は学校まで自転車の二人乗りをして登校するようになっていた。後ろで私が傘を差してやる。空いた片手は兄貴の腹にまわしている。帰りは弥生ちゃんと別れるまで自転車に乗らないが、最終的には二人乗りで帰る。

 兄貴……本当は誰が好きなの? 私のことは好きじゃないの?

 メンヘラのようにそんなことを考えて私の胸がしめつけられた。

 少ししてまだ梅雨の中、後で部活のため学校に戻るが達也が送って行ってくれることになった。普通のママチャリで。おかげで帰り、私の居場所は達也の後ろになってしまった。弥生ちゃんは兄貴の後ろに座る。

 そんな本意の中に不本意が混じる日々を過ごしていると、トイレで上の学年のギャルメイクの女子達に囲まれた。

「お姫様気取りかよ」

 彼女達はそんなことを言っていた。おそらくだが、兄貴のことではなく達也を独占しているようで目をつけられたのだ。

「達也と一緒に帰らない方がいいですか?」

「早い話がそんなところ」

「わかりました。あなた達のことは伏せて、達也のことを拒否っときます」

「あんたが話が分かる子で良かったよ」

 ギャル達は去って行った。

 その日のうちに部活前に体育館へ達也に会いに行った。

「もう送るの止めて。兄貴と一緒に帰りたいの」

「それはなんでだ?」

 達也は普段の勝ち気な表情を崩さない。

 私は突っ込まれた時の理由を考えてきていなかった。まさか兄貴が好きだからと言うわけにもいかない。

「疲れているところ、達也に悪いと思うからだよ。兄貴は文化系だし、いい運動になるし」

「わかったよ。気が変わったらいつでも言ってくれよ」

「うん」

 体育館から出て行くと文芸部で活動して、兄貴のチャリで家に帰ってきた。兄貴は弥生ちゃんに何か用があるらしく、家の前で別れた。

 あーあ。なんか上手くいかないなあ。

 学校の部活が終わってしばらく経った頃、達也が一人でやってきた。

 私は靴を脱いだ無言の彼に玄関で押し倒された。

「何するの……?」

「わかるだろ」

 兄貴の方が好きだが、いつも世話になっているお礼にやらせてやってもいいと思った。

 そして私は達也にされるままになった。

 終わった後、私は服を着て、「兄貴には言わないで」と達也に頼んだ。

「わかったよ」


 その日、放課後なのに兄貴が家にいた。

「今日はゲーセン行かないの?」

「達也がバスケに本気出すからしばらくゲーセンには行かないってさ」

 自意識過剰でなければそれは達也が私に本気になったということだった。

 兄貴は私が達也としたことに気づいていなかった。きっと達也とくっついたふりしても兄貴は祝福するだけで嫉妬もしないだろう。

 その日は私一人でバスケ部の土日の練習を見に行った。

 達也の髪が短めの黒髪になっていた。

 青田さんが一人になったところに私は飛び出していった。

「私と付き合ってくれませんか!」

 彼は数秒考えて「いいよ」と答えた。

 それから青田さんも携帯を持っていたので、メールくらいはした。いや、してやった。彼のことなんて別に好きじゃない。達也じゃ絶対に嫉妬してくれないから、嫉妬させるために代わりに青田さんと付き合っただけだ。本当に好きなのは私なのだと気づくくらい、兄貴に嫉妬させたかった。

 中学では給食が出るのに、わざわざ青田先輩にお弁当を作っていった。朝食で余った唐揚げを食べたのに、それに対して兄貴は変だとも思っていないようだった。

 授業中、青田さんからメールが来た。

『これからは俺が家まで送るから』

 私は慌てて断った。

『兄や友達も大切にしたいので……』

『わかったよ。もう食べちゃったんだけど弁当美味しかったよ。給食は食べられるかなー』

 やってることがちぐはぐだった。踏ん切りがつかないで兄貴に彼氏が出来たと知られたくないと思うようになっていた。

 夜、部屋で過ごしていると達也からもメールがきた。

『青田のこと本当に好きなのか?』

『好きだよ、そう一目惚れってやつ』

『じゃあ浩一に話してもいいか?』

『それはだめ。恥ずかしいもん』

『わかった』

 文面の素っ気なさから達也が呆れている感じが伝わってきた。単に携帯のキーを打つのが面倒なだけなのかもしれないが。

 原稿用紙に鉛筆やボールペンで字を書く音や、ノートパソコンで小説を執筆する音、本をめくる音以外、静かな文芸部で、弥生ちゃんに外へと連れだされた。

「若菜さん、本当に青田さんのこと好きなんですか?」

「あ、うん……好きだよ」

 私は好きだから早起きして唐揚げ弁当を作ったというエピソードを披露した。

「なら良かったです、疑いが晴れて」

「疑い?」

「若菜ちゃんが浩一さんのこと好きだから、わたしに告白しないように釘を刺したのかなって少し疑っちゃっていました、ごめんなさい」

 疑ってるも何もその通りだ。

「やだなあ! 血の繋がった兄貴を好きになるなんて私、そんな変態じゃないよ!」

 弥生ちゃんの笑っていた顔が急に真面目な顔に変わる。

「話はかわるんですけど……ならそろそろ告白してもいいですか?」

「私が過保護なだけなんだけど、最低三年は待ってほしいかな。私達兄妹はずっと酷い暮ししてたんだから」

「そ……うですよね」

 弥生ちゃんは悲しそうに笑った。

 翌朝、兄貴はネットゲームで徹夜でもしたらしく一人で起きてこられなかったので無理矢理起こした。時間ギリギリだったので自転車なのにトーストをくわえて二人で登校する。

 その日、部活には出ないで早めに家に帰ってきた。いつもの場所で待っている兄貴のことは達也に任せた。ただ用事があって先に帰ったって言ってもらうだけだ。

 兄貴の着た後のシャツの匂いを大きく胸に吸い込む……数分して我に返った。変態か、私は。


 夏休みになった。去年も連れて行ってもらったが、また弥生ちゃんの両親にプールまで連れて行ってもらった。私は地味なワンピースの水着。弥生ちゃんはなんと露出度はそこまで高くないがふりふりがついたビキニを着ていた。

 親父さんが公衆の面前でキレた。

「弥生、てめえ、中学生がそんな格好していいと思っているのか!?」

「おほほほほ。わたし、お父さんのお人形さんじゃないので」

 親父さんが兄貴に聞いた。

「浩一、お前はどう思う? 中学生にこういう水着は早いよなあ?」

「よく知りませんけど、都会なら当たり前なんじゃないですか?」

「うんうん、そうだよな。だがここは田舎だ。水着代やるから、新しいの買って着替えてこい」

「嫌です」

 普段落ち着いている弥生ちゃんが親父さんに向かってアッカンベーをして見せた。私は女だが、弥生ちゃんってこんなに可愛かったっけ? と少し嫉妬した。

「若菜。早く泳ぎに行こうぜ」

「あ……うん」

 達也に手を繋がれプールの方へと歩いて行った。みんなから十分離れると、彼は水の中で私の胸に触れ、口に舌を入れるキスをしてきた。

「ふう……いけないんだー、友達の彼女にキスなんかして」

「ちゃんと告白しなかった俺も悪いんだけど、お前本当に青田のこと好きなのか?」

「うん……好きだよ」

 しばらくして兄貴達の元へ戻っていく。弥生ちゃんと兄貴が二人で小さな妹さんと遊んでやっていた。子供用プールで。何故だか私の胸が苦しくなった。

 もう帰る時間となって親父さんが使い捨てカメラで記念撮影をした。当然のように兄貴の隣には弥生ちゃんがいた。

 家に帰ってきた夜中私は泣いた。

 これじゃただの性格が悪い女じゃないか。


 週に二回夏休み中でもバスケ部の練習がない日、青田さんと電車とバスで海へ行った。

「うおおおお! 夏だあ!」

 やけにはしゃぐ青田先輩。私はこの男が好きでもなんでもない。

 海の家の貸しロッカーに小銭以外の貴重品は入れ、浜辺にレジャーシートを敷き、海の家で借りてきたパラソルを立てた。

 海の中に入っても彼は達也と違って淡泊だった。手を繋ぐだけで抱き寄せようともしない。なんのための筋肉だ。私はそれくらいされてもぎゃあぎゃあ言う女ではない。女というか女子だけれど。

 会話も殆どなく、時間は過ぎ去った。

 青田さんがもう帰ろうと言うのに、私はもっといたいと言い、ついにはレジャーシートの上で夕焼けを眺めた。太陽が美しすぎて涙が出てきた。

「一緒にいられて嬉しい」などと私はまた嘘を吐いた。

「俺もだよ」はい、そうですか。

 そして地元へと帰ってくる。青田さんは家まで私を送ってくれた。

「お茶でも飲んでいきますか?」家に誰もいないのを確認してからそう誘った。

 ごくりと唾を飲む音が聞こえてきた。

「ああ、頂くよ」

 私の部屋に上げて、下から麦茶のグラスを二つ運んでくる。

 二階の廊下で兄貴に行き当たった。

「がんばれよ」

 兄貴がそんなことを言うものだから私はさみしくなって、自分の部屋に戻ると、上半身裸になり、兄貴の部屋に入る。誘惑する意味もこめて半裸のまま抱きついた。

「あの人ね、あの人……私にそういうことしようとするの。全然好きでもなんでもないの」

 兄貴は私の部屋から何がなんだかわからない青田さんを引きずり出すと、家の外までひきずって行った。青田さんはわけがわからないなりに抵抗するが、兄貴の目から涙がこぼれているのを見ると、大人しくなってしまうようだった。

「また守れなくてごめんな……」

 別に何かされたわけではないのに、兄貴は私がもう青田さんに何かされた後だと思っているようだ。

 それから服だけ着て一晩中兄貴と一緒にいた。

「警察に言うか?」

 兄貴がそう言った。

「ううん、あの人にも未来はあるから」

 私は許したふりをした。

 翌日の夜達也から電話がかかってきた。

 練習中に青田さんを半殺しにしたらしい。その場でバスケ部も強制退部にされたと笑って言っていた。このまま行けば県外の強豪校へ推薦されることも夢ではないと一年生まで伝わってくるくらいだったのに。

 その次の日、兄貴は起きてこなかった。まだ夏休み中だからと大目に見ていると、夜中になっても起きてこなかった。

 彼の部屋に入ると異臭がした。小便の臭いだ。

「また若菜を守れなかったよお……」

 兄貴は泣き腫らした目をしていた。今もまだ泣いている。トイレにも行けないほどショックだったのか、信じられないが、そこまで思われていたこと自体は嬉しかった。雑巾で拭き取れるところだけ小便を拭き取って、布団も嫌がる兄貴を無視して交換した。

 翌日、達也と弥生ちゃんが来てくれた。

「バスケ部クビになって暇になっちまってよ」

 早くも達也の頭は金髪になっていた。

 弥生ちゃんは自分が来ても目を開けない兄貴に驚いているようで無言になっていた。

 心配なので四人でずっと兄貴の部屋にいた。たまに鼾が聞こえてくるが、眠っている時間は長くないようだった。

 次の日には精神科病院にタクシーで連れて行った。

「保護者の方も連れてきてもらえませんか?」と受付で門前払いにされてしまった。

 その日の内に保護者の斉藤さんを呼んで、兄貴と三人で精神科病院に連れて行った。

 診察室で精神科医は言った。

「若くて、病気の勢いが強いので落ち着くまで入院しますか?」

「大丈夫です。若菜さん達が見てくれます」斉藤さんは動揺していないような声でそう言った。たしかに私としても兄貴を入院させたくはなかった。薬だけ最初の一週間分処方されて家に帰ってくる。斉藤さんも車ですぐに行ってしまった。

 家で待ってくれていた弥生ちゃんに兄貴のことは見ていてもらうことにして、廊下に達也を呼び出した。

「結局、なんだって」

「鬱……」

「やっぱりそうか」

「がんばれって言わなきゃ大丈夫なんだよな?」

「ううん、そんな単純な話じゃ……」

 達也は兄貴の部屋のドアを開けた。

「浩一い、ゲームやろうぜえ、気が晴れるぞお」

 兄貴は布団から起き上がろうともしないで「ほっといてくれよ!」と叫んだ。

 夏休み中ずっと弥生ちゃんと達也は来てくれた。寄り添うのだが、兄貴は決定的には良くならなかった。長期戦を私は想像した。

 薬で喉がかわくだろうに、言わないと水も飲まないし、促さないとトイレにも行かなかった。

 弥生ちゃんが、なんとか兄貴が起きている時間に小説を朗読した。達也が先に眠ってしまった。

「妹の一人も守れないでぼくはなんのために生まれてきたんだろうね、死にたいよ」などと言って兄貴はポロポロと泣いた。

 弥生ちゃんは朗読を止めて言った。少し感極まっているようだ。

「それはきっと……わたしと出会うためですよ。宗教のことはよくわかりませんけど、神様だって一人じゃ寂しいから人を作ったんです」

「そうなのかな……」

 グズグズと鼻を鳴らせながら兄貴は言った。

「そうですよ。そうに決まっています」

達也はわざわざ私の部屋にきた。

「浩一はよくなるのかね」

「なるよ、なるに決まってるよ」


 夏休みが終わっても兄貴の病気はよくならなかった。長期戦だと思っていたので薄情かもしれないが、家に兄貴一人おいて学校へ行く。

 文芸部はもう辞めた。急いで家に帰ってくると、兄貴はリストカットをしたようで、ベッドの枕元が血だらけになっていた。

 私は無言で手当てをしてやった。

「ごめんな……また迷惑かけて」

 私は泣きそうになった。

「迷惑じゃないよ! 迷惑掛けてくれても嬉しいから迷惑じゃない!」

 次の日から私も一日中家で過ごすことにした。学校より兄貴の方が大切だからだ。それではよく眠れないかもしれないが、兄貴の横でなるべく音を立てないように本を読む。弥生ちゃんに頼んで学校が始まる前、大量に本を持ってきてもらった。そのうち何かお返しをしたい。

 兄貴が眠ったのを確認して、食事を作ったり他の家事をしたりするのだが、食事を運んできても兄貴は目を覚まさなかった。自分の口で咀嚼して、兄貴の口に流し込もうとすると、咳き込んで「何をするんだ!」と兄貴は怒鳴った。

「だって食べないと死んじゃうよ……」

「それで死ねるならその方がいい」

「それじゃ私が困るんだよっ!」

「……」

 兄貴は根負けしたようで、作ってきたおじやを食べて、カボチャの煮付けや冷や奴も食べた。

 家事が必要なとき以外、一日中兄貴の部屋で過ごす。弥生ちゃんや達也がくるまでは、まるで本当に同棲生活のようだった。

 もしかしたらそういった物なら嫌がらないで食べてくれるかと思い、達也に甘い物を沢山買ってきてもらった。兄貴は嬉しそうな表情こそしないがそれらを沢山食べた。

 弥生ちゃんはまた本を朗読した。兄貴は止めろと怒鳴った。弥生ちゃんは一瞬固まったが表情をかえなかった。すぐに愛想笑いをする。彼女のそういうところに私は少しだけ怖さを感じる。少なくとも単純な達也より怖い。

 これまでもそうだったが、寝る前はお湯に浸したタオルで顔を拭き、膝の上に頭を乗せて歯磨きもしてやった。暴れる兄貴。嫌がるとは何事だ。知らないおじさんに同じことを頼まれたら四千円は取れる。想像だけど。水でぶくぶくさせて、洗面器に吐き出させる。兄貴は辛そうな顔をした。子供用のフルーツ味の歯磨き粉でも買ってくればいいのだろうか。あれは小さい頃私の憧れのアイテムだった。

 勉強はしているがもう学校にはずっと行っていない。兄貴の薬も増えたが眠っているときは少ないようで近くにいるときは息の違いで眠っているかどうかわかる。眠っていないときは小さな音量でラジオをつけてやった。

 一見退屈に思えるラジオ番組でも消そうとすると兄貴は一々ビクリと驚いていた。

 兄貴の急変に私は毎日泣きそうになることばかりだったが、弥生ちゃんは違った。本当に一緒の部屋にいるだけで幸せそうにいつでも頬笑んでいた。


 兄貴が本来なら中三になったある日、ゲームがしたいと言い出した。実際に人とやるゲームの方が面白いかもしれないと思い、トランプを持ってきてババ抜きや七並べで遊んだ。自分でやりたいと言い出したのに、彼は弱かった。

「これババだよ」

「じゃあ……そっち」

 疑い深い彼は教えてあげたのに自らババを引く。妹の親切が信じられないとは病気とはいえなんてやつだ。

 兄貴のために栄養価の高い食事を作る。甘い物ばかり食べさせていてもよくないので、一日にコンビニスイーツは二つまでと決めていた。だが兄貴は他の食事を殆ど食べないので太らなかった。

 何もやらないよりマシだと思い、兄貴に最低限の柔軟体操だけはやるように義務づけた。一緒にやると嫌がらなかったので次の週にはラジオ体操も義務づけたのだが、いつのまにか両方やらなくなっていた。私がわざわざ兄貴の部屋に行って一人でやってバカみたいだ。

 また二人きりでトランプをしていると兄貴は散歩に行きたい、外を見たいと言い出す。急いで用意して二人で散歩に出かけた。

 無言で歩く。私は手を繋いでやった。

 残暑の中、緑色の葉をぶら下げた街路樹が私と兄貴を癒やしてくれるような気がした。今の兄貴はうるさいのが嫌いだと思い、そのときは黙っていた。

 しばらくは穏やかの表情で散歩を楽しんでいたのだが、同じ中学の制服を着た男子を見つけて、兄貴は悲鳴を上げた。

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