メランコリー・バス
三冬咲太
一章 子供のぼく
もう桜も散ってしまった小学校からの帰り道。この辺の子供は皆そこに通っているので歩道を埋め尽くさないばかりに小学生達が歩いていた。
向う側の歩道から大人である姉さんがぼくに手を振っていた。ぼくは嬉しくなって手を振り返す。だがそのとき姉さんはぼくの方まで走ってこようとして肉が潰される音を立てて車に轢かれた。あまりの光景に頭が追いついていかない。それでも姉さんが死んだのは理解できた。
道路は血だらけになっていた。
親族だけのお葬式。家は元々お父さんは家に帰ってこないし、お母さんとは離婚したと聞いている。だからぼくと妹の若菜は里菜姉さんに育てられたのだ。
葬式で久しぶりにお父さんと会った。お父さんはとてもお金を持っていていつでも仕事をしているらしい。ぼくはそれくらいのことしか知らない。姉さんが亡くなって悲しいがお父さんと話すことは見当たらなかった。これからぼくと若菜の残された兄妹は、家に泊って近頃具合が悪かった姉さんの手伝いをしていた叔母さんの世話になるしかないのだ。
ぼくのせいで亡くなった姉さんのことを思い、ずっと泣いていた。
だが妹の若菜は姉さんの遺体が火葬場に運ばれるお別れの時がきても俯いているだけで泣きはしなかった。火葬場は肉と骨が焼ける独特な臭いに包まれていた。
葬式が終わり少しもしないうちに、叔母さんは自分の家族を連れてきて、大量の荷物を引っ越し屋さんに頼んで運んでもらい、普通の家より広いぼくたちの家にそれらを入れた。
入りきらない物は姉さんの形見の家具だとしても叔母さん達はゴミに出した。初めは「私達が責任を持って育てるからね」と叔母さんは言っていたのだが、その割に自分の子供には二階の一部屋ずつ三室宛がったが、ぼくと若菜は二人で共同の部屋を使うように言われた。
それからぼくらはやることを分担して、若菜は毎日の風呂掃除、ぼくは叔母さん達は可愛がって餌をやるだけの座敷犬の散歩に毎日行かされるようになった。お小遣いは貰えなかったが、食事とぼくたち兄妹が最後に入る風呂くらいは用意されていた。
ぼくは小学二年生、若菜は小学一年生。かわらず学校にはちゃんと通った。
叔母さんの子供のうち二人は双子で郁人と晴春と言う。名字はぼくたちと同じ七瀬だ。学年もぼくと一緒だった。
郁人達が来てからというもの、ぼくは学校の帰りはいつもランドセルを持たされたし、休み時間にはやたら苦い土の中のミミズを食べさせられたりもした。給食のデザートは毎回取られていた。郁人と晴春は身体も大きく、とばっちりを受けたくないのかぼくに近づいてくる同級生は誰もいなかった。それまでにいた友達と呼べるのかわからない友達もぼくのことをかまわなくなった。
家に帰って叔母さんに相談した。
「郁人と晴春がぼくのことを虐めるんですけど」
彼女はすぐに怒りだした。
「家の子がそんなことするはずないでしょう。へんなことを言う人は夕ご飯抜きだよ」
それからぼくは勉強机くらいしかない若菜と共同の自室で勉強した。
夕食の時間、広いリビングに行くと、本当にぼくの分の夕食は用意されていなかった。
夜中、きゅるきゅる鳴るお腹が空いて眠れないでいると、若菜が夕食の余りを持ってきてくれた。ぼくは貪るようにそれを食べた。
翌日学校が終わって部屋で過ごしていると若菜の姿がなかった。夕食前になって彼女が部屋にきた。ぼくに食べ物をあげた罰として畳の部屋で二時間正座をさせられたらしかった。
姉さんが亡くなる前、家にはぼくや若菜が自由に使っていいパソコンがリビングに置いてあった。ある日、ぼくがそれを使っていると叔母さんに「子供には早いわ」と言われ、パソコンを使うことを禁止された。しかたないのでぼくと若菜は二人でよく図書館へ行って時間を潰した。
お小遣いを貰えなかったので、学校が終わるとぼくたちは自販機の釣り銭が落ちてくる所や、汚い下の隙間をよく漁っていた。運がいいと百円まで落ちていることもあった。そのお金で若菜と二人で駄菓子屋に行くということが何度かあった。
そのうちに学校で、「七瀬の所の浩一と若菜は貧乏なんだぜえ、小銭拾いに命を燃やしているんだ」などと休み時間にクラスメイト達にからかわれるようになった。
郁人と晴春が叔母さんに告げ口して、ぼくたちは怒られた。頬がパンパンになるまでビンタされ、夕食も抜きにされた。空腹を誤魔化すために二人で水ばかりを飲んだ。
ある日、ランドセルを背負って家を出たのだが、一緒に登校していた若菜に先に行ってほしいと言って、ぼくは別の場所に行った。
そこは電車が通る踏切前だった。音と共に遮断機が下りてきて電車が通過する。何時間もその光景を眺めていた。あそこに飛び込めばまた姉さんに会えるのだろうか。そういうろくでもないことを考えていると突然背中に声をかけられた。
「そんな所ずっと眺めていると吸い込まれるぜ」それは子供のものなのだろうが力強く重い声だった。
「それでも結構だよ、ぼくはあまり生きたくないんだ」
「そんなこと言うなよ。学校行きたくないなら取りあえず俺の家こいよ。ジュースくらい出すぜ、それともビールの方がいいか?」
ぼくが振り返ると彼はズボンのポケットからガムを取り出して噛んだ。ぼくにもくれようとするが遠慮した。
「君の名前と歳は?」
「村井達也。お前と同じクラスの小学生だよ」
達也は長髪というほどではないが髪が伸びていて、がっちりした体格をしていて身長も高かった。
「ぼくは七瀬浩一」
そうして言葉数も少なく、やや田舎ともいえる街を二人で歩いてお世辞にも綺麗とは言えないアパートまできた。
「俺のお母さんが寝てるから、あまり騒ぐなよ。騒いでも起きないと思うけど」
「わかった」
二人でテレビを観てゲームをやった。ゲームをやったのは叔母さん達が家にくる前にやったのが最後だったのでとても楽しめた。
「お前ってどんな奴なの?」
達也がそう聞いてきた。
「普通より少し暗い奴だよ」多分、本当のことだ。
「俺がお前を明るくできたらいいんだけどな」と言って彼はまたガムを噛んだ。
二年生全員が行く秋の遠足の日がやってきた。
叔母さんは郁人と晴春の弁当は人気キャラクターの顔に見えるようにデコレーションした弁当を作って、ぼくの分は何の嫌がらせなのか、ご飯の上に梅干しが一つ載っただけの日の丸弁当を作った。ぼくは自分で日の丸弁当を弁当包みで包んだ。弁当包みさえも叔母さんと血の繋がった子供達は、今流行っているアニメのキャラクターグッズで、ぼくはところどころ黄ばんだ白の弁当包みだった。
友達になったばかりの達也はどういうわけか遠足に来ていなかった。それをぼくは心細く感じた。
バスで移動する大型公園までの遠足だった。ぼくは車内で殆ど話したことがない生徒の隣に座った。ぼくの隣に座ることになったその生徒が気の毒に思えたのと同時に彼もクラスで良いポジションを取れていないのだなと感想が湧いてきた。
そうして公園に着いて、クラスごとに記念撮影をすると、自由時間になって広場で遊ぶのも弁当を食べるのも自由だった。ぼくは誰にも見られないようにさっさと日の丸弁当を食べ始めた。郁人と晴春がやってきて、弁当を取り上げるとクラスメイト達にそれを見せてまわった。少し泣けてきた。
弁当を早々と食べた生徒達の中に紛れると珍しく遊びに入れてくれて鬼ごっこをすることになった。鬼を決めるジャンケンで皆は揃い合わせたようにチョキを出す。パーを出したぼくは一回のジャンケンで鬼に決まってしまった。追いかけても追いかけても誰も捕まえることができない。その内に便意を感じて歩いてトイレに行くと、用を済ませた後、ドアは開かなくなっていた。どんなに声をあげても誰も助けてくれない。なんでこんな目に遭わなければならないんだ。ぼくはベソをかいた。
一時間近くもトイレに閉じ込められていただろうか。先生が見つけてくれて、ぼくはそれまでより盛大に泣いてしまう。トイレの個室から出ると、つっかえ棒のような物が床に落ちていた。
翌日の学校で、学級会が開かれて誰がぼくをトイレに閉じ込めたのか調べるために、全員が机に突っ伏し、トイレに閉じ込めた人間だけ挙手するように担任の先生は言った。だが誰も手を挙げないようだった。
一つ下の学年の若菜にそのことはすぐにばれた。
彼女はぼくの敵討ちということで、郁人と晴春のランドセルを持っているぼくの目の前で、彼らの頭を石を握った拳で殴りつけた。郁人と晴春は頭から血を流して盛大に泣いた。さらに殴ろうとする若菜を通りすがりの知らない大人が止めて、警察に電話した。そしてぼくたちは近くの交番まで連れて行かれた。そこで郁人と晴春は金輪際ぼくを虐めないと約束して、おまわりさんが連絡したらしく叔母さんが交番まで迎えに来た。
その場では泣きながら子供達全員を抱きしめていた叔母さんだったが、家に帰ってくると、問答無用で若菜を庭にある物置に閉じ込めた。
「ごめんなさいと言うまで出さないから」
「あたしは悪いことをしていない」と若菜はつっぱった。
皆が寝静まった頃、ぼくは勝手に若菜を助け出し、行く所もないのでいちかばちかで達也の家に行った。もう深夜零時を回っていたのに、彼はフレンドリーにぼくらを出迎えてくれた。この間隣の部屋で眠っていた達也のお母さんはいないようだ。
事情を話すと彼はぼくと若菜に冷凍パスタを食べさせてくれた。ショートカットの髪を揺らせてがつがつ食べる身体が小さな若菜の姿が印象的だった。
朝帰りしても一日くらい口を利いてくれないだけで叔母さんはかわりなかった。
その日の放課後、郁人と晴春の他にも同級生達に囲まれる。
「俺達欲しい漫画があるんだ」と彼らは言った。
そのまま皆で本屋へ言って万引きをさせられる。緊張の中漫画を持って店を出て少しの所で腕を掴まれぼくは店員に捕まってしまう。
本屋のスタッフルームでごくごく優しく「物を盗んだらダメなんだよ」と店員に言われ、叔母さんが迎えにくると、バカ、バカ、とビンタされた。家でするよりぜんぜん弱い力加減だった。彼女が土下座しないばかりの勢いで謝ったので、学校には連絡しないでもらえた。
家までの帰り道でぼくは言った。
「クラスメイト達に命令されたんだ。郁人と晴春もその中にいたけど」
「嘘おっしゃい。人に罪を被せようとする気?」
翌日学校へ行くと、達也以外のクラスメイト全員に無視された。郁人か晴春を経由してぼくが、誰に万引きを命令されたか叔母さんに喋ったことがばれたのだろう。
別に無視されたってかまわないと思っていたが、意外に堪えた。
無視が結構長い間続いた。
元はぼくと若菜と里菜姉さんの三人で暮していた家は、今や叔父さん、叔母さん、郁人、晴春、叔母さんの長男の洋輔さんにぼくと若菜も入れて七人も住んでいた。
叔母さんの一番上の息子の洋輔さんは大人だが、学校には行っていないようでいつでも自室に引っ込んでいた。食事の時も階下に降りてこないし、トイレで出てきたときたまに廊下で顔を見るくらいだった。彼はいつでもすごく煙草臭かった。洋輔さんは髪を切るのも面倒なのか、ぼさぼさの長い髪を輪ゴムで縛っていた。
放課後、ぼくと若菜の部屋をノックされた。郁人や晴春はそんなことはしない。
ドアを開けてみると、洋輔さんが立っていた。風呂に入っていないのか汗の臭いが漂ってきた。
「ゲームで遊ばないか」
「あたしはいいです」と若菜は断ったが、ぼくは彼の部屋に行くことにした。
初めて見る洋輔さんの部屋は、灰皿があちこちに置かれていて、見ただけで古い物だとわかる昔のアイドルのポスターが壁に貼ってあって、本棚には毒々しい背表紙の本が沢山詰まっていた。棚には白い液体のようなものが詰まった透明なペットボトルが沢山並んでいた。あれはなんなのだろう。
足の踏み場もないような部屋で二人でアクションもののゲームで遊んだ。今のぼくと若菜の部屋にはテレビがないし家でゲームで遊ぶのはひさしぶりだった。
違う日の深夜、「なんで俺の人生はこうなんだあ」と洋輔さんの部屋から叫び声が聞こえてきた。洋輔さんの部屋からぼくたちの部屋まで、郁人と晴春の部屋を挟むので、よっぽど大きな声で叫んだのだろ。
壁を殴る音と、洋輔さんの部屋に行った叔母さんの話し声が、聞き取れないがごにょごにょと聞こえてきた。
もう冬になっていた。今年は夏も秋もどこへも連れて行ってもらっていない。それどころかぼくと若菜はコートも薄手の物しか持っていなかった。姉さんが亡くなる前に沢山あったコートはすべて叔母さんが捨てたり自分達の息子へ与えてしまった。
犬の散歩や風呂掃除を済ませると、ぼくと若菜は達也と表で遊んだ。叔母さんの気まぐれで外に締め出されることはあるが、三人とも門限がないので、遠くの公園まで遊びに行った。ぼくたち兄妹は鍵を持たされていないので家に帰ってくると、閉まっているドアを何度も叩くのが日課だった。
そこはブランコや滑り台の他に老朽化した廃バスが置いてあって、中に入れるようになっていた。他に人がいる所は殆ど見たことがない。
安全のためもう遊べないように固定されてしまった箱形ブランコに三人で乗って、達也はまたガムを噛んだ。
「二人ともいらない?」
「ガムはそんなに好きじゃないんだ」
「あたしも」
「そうか」
達也がガムを紙に出さないで飲み込むと、ぼくたちは廃バスの中に入った。
バスになんて殆ど乗ったことがなかったので、そこが普通のバスと同じなのかよくわからなかったが、居心地の良い家のように感じられた。座席はカーペットのような素材で出来ていて、雨漏りで濡れているということもなかったし、床にスニーカーの足跡があるのと、ところどころ錆が出ているくらいだった。
達也は携帯ゲーム機を持ってきていて、三人で交代交代で遊んだ。
暗くなると歩いて家に帰る。
叔母さん達はもう食事を終わらせてリビングで団らんしていた。少し前までそこはぼくと若菜と里菜姉さんの場所だったと思うと一瞬だけ殺意が湧いた。
「冷蔵庫の中に夕飯入れてあるから後で食べなさい」
叔母さん達が自室に行った後、ぼくと若菜は電子レンジで温めて食事をとった。
この寒い中、遠くの公園まで行くことも多かったが、若菜が同じ学年の友達と遊んでいるときは、達也の家にぼく一人で行った。家からすぐのところに達也のアパートはあった。
達也の住んでいるアパートの一室は居間と寝室の二部屋しかなかった。達也の遊び部屋のようになっている居間のカーペットを敷いた床には、漫画がいっぱいあった。
姉さんが死んでしまったのだから、ぼくと若菜のところに今年はサンタクロースが来ないとわかっていた。
若菜が郁人と晴春を石で殴って以来、ランドセルを持たされることはなくなったし、達也と三人で学校から帰ることが多くなっていた。お互い家に向かう分かれ道までくると、達也はランドセルからラッピングされた箱を二つ取りだした。それをぼくと若菜に渡した。
「俺からのクリスマスプレゼント。大切にしろよ」
「……ありがとう。お返しもできないけど、本当にいいの?」
「いいんだよ」
「ありがとう」若菜も達也にお礼を言った。
クリスマスなのに、ケーキなんて食べられなかった。だからぼくと若菜は部屋で達也からのプレゼントを開封した。それは携帯ゲーム機とソフトだった。
ぼくたちは喜気として交代交代でゲームで遊んだ。夕食の後もそれで遊んだ。
こんな日に限って郁人と晴春が部屋に勝手に入ってくる。
そして郁人がぼくの手からゲーム機を取り上げた。
返せ返せと取り返そうとしていると、郁人が窓を開けて携帯ゲーム機を投げ捨てた。少し遠くの方でゲーム機が壊れる音がした。
あまりの出来事に珍しく若菜が涙を零す。
ぼくは郁人達を殴ろうとした。だが逆に一発顔を殴られ、彼らはげらげら楽しそうに笑いながら部屋から出て行った。
念のため家から出て、落下していったゲーム機を見に行くと、画面は割れ電源スイッチも入らなかった。
翌朝、いつも待ってくれているわけではないが、通学途中の道で達也が待ってくれていた。
「ゲーム、気に入ってくれたか?」
ぼくはすぐには答えられなかった。若菜もそれは同じのようだった。
「何かあったのか……?」
自分より力の強い友達に告げ口するなんてかっこ悪いような気がしたが、ぼくは事情を説明した。
「郁人と晴春に二階から投げ捨てられて壊された」
「そうか……」
その日の休み時間、達也は郁人と晴春を鼻血が出ても殴り続けた。彼が満足して教室に戻っても、その場で二人は泣いていた。
家で昔姉さんに買ってもらった漫画などを読み返して静かに過ごしていると、夜になって、達也が綺麗な女の人に連れられてやってきた。何事かと思って階段の途中から息を潜めて覗いていると、女の人が玄関で土下座をした。
「うちの子が暴力を振ってしまって申し訳ございません。お前も土下座するんだよ」
そう女の人は言って、達也の頭を掴むと下げさせようとした。だが達也は抵抗した。
「俺は間違ったことはしていない。友達を攻撃する奴にやり返しただけだ」
叫ぶようにそう言うと、達也は隙を突いて、玄関から外へ走って行ってしまった。
「本当に申し訳ございません」
再び土下座して菓子折まで差し出す達也のお母さんを見下ろしながら叔母さんは言った。
「金輪際うちの子には近づかせないでください。浩一くんと若菜ちゃんになら別にかまいませんけど」
達也のお母さんは一瞬怖い顔をしてお辞儀をすると去って行った。
「あけましておめでとうございます」
そう言いながらも全然めでたいとは思わなかった。
お正月になった。郁人や晴春は色鮮やかなおせち料理を食べられてお年玉も貰っていたが、ぼくと若菜はお餅が一つだけ入ったお雑煮しか出されなかった。少しは期待していたのにお年玉も貰えなかった。
家に来た年賀状はぼくには達也からきた物だけだったが、少し心が温かくなった。
新年最初の食事を済ますと、叔母さん達家族は初詣に出かけたが、ぼくたち兄妹は留守番だった。
達也にお返しの年賀状を送りたくて家の中を漁って新品の年賀葉書を見つけて、年賀状を書くと、少しの間留守番は若菜に任せてポストに出しに行った。
しばらくしたある日、ぼくが年賀葉書を一枚使ったことが叔母さんにばれて、「この泥棒」と暴言を吐かれた。
ぼくが泥棒ならあなた達はなんなんだ? ハイエナか?
冬休みが終わり学校が始まった。
その日は雪が降っていた。この世界のすべての人達を祝福して柔らかい宝石のような雪が降ってくるのだとぼくは思った。
学校に行くと、一時間目と二時間目を免除にされて、校庭で雪で遊んでいいことになった。だがぼくは教室で過ごした。暖かいコートがないからだ。薄手のジャンパーで雪遊びをするのはきつい。
しかたがないので図書室へ行くと若菜も同じようだった。そのうちに達也もやってきて、図書室なんかより教室でお喋りしようぜと言うので、若菜も連れて二年生の教室で取り留めもないことを話した。
いつものように学校へ行くと、ロッカーと机の中に入れっぱなしだった教科書のページが全部黒のマジックで塗りつぶされていた。
教科書の前で固まっているぼくをクラスメイト達がクスクスと笑っている。
ぼくはふらっと教室から出て、ランドセルを背負って近くにある図書館へと行く。
子供ながら大人になるためには勉強が必要だと思ったので図書館にある教材で勉強をした。児童コーナーの受付で紙とえんぴつを貸して下さいと言ったら、図書館の人は快く貸してくれた。
家に帰るとぼくが学校から抜け出したことは先生からの連絡でばれていて、叔母さんにこっぴどく叱られた。
「教科書が全部黒のマジックで塗りつぶされてたんだ。あれじゃ勉強できないよ。あんた達の息子がやったのかもしれないけど、新しい教科書を買ってくれるの?」
「勝手にしなさい。本来あんた達なんて私の子供じゃないんだから」
「それくらい知っています」
部屋に戻ると自然と泣けてきた。
里菜姉さん……なんで死んじゃったの?
決まってる、ぼくのせいだ。ぼくに気を取られたから姉さんは車に轢かれたのだ。
若菜はぼくより強いので学校に通い続けたが、ぼくは学校が終わるまで本を読んだり勉強をしたりして図書館で過ごした。昼食は毎日抜きだった。図書館にある給水器で水をたらふく飲んで飢えを凌いだ。
学校が終わるまで図書館で過ごして、終わると若菜と達也が迎えにきて、廃バスがある公園まで行って、話したり達也の携帯ゲーム機で遊んだり、鬼ごっこやかくれんぼをして遊んだ。いつしかぼくたちはその廃バスを聖域と呼ぶようになっていた。
そんな生活を続けているうちにぼくの年齢は八歳になって小学三年生になった。公園に行けば桜が観られる季節だ。
子供のぼくには意味がわからない部分も多かったが、最近は坂崎理や松山慎司という作家の小説がお気に入りだった。坂崎理はすべて読んでいたし、著作が多い松山慎司も有名作は殆ど読んでいた。勉強をするとき以外は児童コーナーには行かなくなっていた。
土日でも図書館に行くことはあった。好きな作品をまた読もうかと、いつも通り坂崎理の本が詰まっているスチールの本棚の前に立っていると話しかけられた。
「坂崎理好きなんですか?」
知らない同じ歳くらいの髪が長い女の子に話しかけられた。
「そうだけど」
「坂崎さんいいですよね。友達になりましょう」
「別にいいよ」
彼女の名前は冬木弥生と言って、ぼくがつい最近まで通学していた小学校のクラスは違うが同じ学年の生徒らしかった。ぼくも自分の名前を彼女に教えた。
「お腹空いてませんか?」
まだ子供なのに丁寧語を話すので、実際より弥生のことを少し大人に感じた。
「それはぼくは昼メシはいつも抜きだけど」
「大変。骨粗鬆症になっちゃいますよ。家はラーメン屋なので特別に無料で食べさせてあげます」
そして図書館から歩いて、弥生の家でやっているラーメン屋に行った。店の名前はラーメン大幸だった。
まだ店が混んでいる時間なので建物のお店の部分ではない生活するスペースにある狭い居間で、テレビを眺めて時間を潰した。弥生はまだ小さいのにお店の手伝いをしているようだった。
そして午後三時からお店の準備時間中に、畳に座って弥生達家族三人と一緒に昼食をとった。弥生のお父さんが作ってくれたラーメンはとても美味しかった。
おじさんが饒舌なので、ぼくはつい身の上を語ってしまった。
「大変な目にあってるんだな……よっしゃ、毎日午後三時にはうちで昼メシを食べさせてやる。ラーメン屋だから大した原価じゃねえんだよ」
「お父さん、余計な恥さらさないで」
「ありがとうございます」
思えば姉さん以外の大人に初めて優しくされた気がした。
弥生の父さんは中年だったが、奥さんがやけに若いのが少しだけ気になった。
それから毎日、ラーメンやチャーハンや餃子を弥生のお父さんに食べさせてもらった。食べ終わると必ずお礼を言って、ぼくは聖域へと歩いて行った。弥生はぼくがどこへ行くのか不思議に思っているようだった。
廃バスの聖域でそれを達也に話した。
聖域はいつの間にか私物でいっぱいになっていて、お湯を沸かすためのカセットコンロに鍋や、カップ麺、インスタントコーヒーに紅茶のティーパック、拾ってきて古い少年漫画雑誌などぼく達色に染まっていた。
「仲間を一人増やしてもいいか?」
「お前がいいと思った奴だったらいいんじゃないか? 男? 女?」
「女の子だよ」
「ふーん、あまり細かくない奴だといいな」
「そんな感じはしないね」
翌日も時間まで図書館で過ごして、午後三時に弥生の家でラーメンを食べているうちに、彼女が学校から帰ってきた。
「ぼくたちの秘密基地へ招待するよ」
「それは光栄です」
弥生の歩幅に合わせて、聖域まで歩いて行った。道路を車が飛ばして走っていた。
廃バスまで着くと弥生は若菜と達也に自己紹介もしないで、「うわあ汚い! 明日掃除しましょう」と言った。
若菜も達也も弥生を祝福するように笑っていた。
その日はすぐに皆で家に帰った。
翌日午後から聖域まで四人で歩いて行く。達也と若菜は学校で使う箒やモップ、バケツに雑巾などを持っていた。
「借りるだけだから。明日朝イチに返しておくよ」と達也は言う。
そして廃バスで床を箒で掃いたり、濡れた雑巾で壁や座席を拭いたりして掃除した。
暗くなってきたので、電子ランタンの光を頼りにさらに廃バスを掃除する。もともと小汚いバスだったので心なしか綺麗になった。
それから弥生は毎日ぼくたちと一緒に聖域へと行った。膝の上に置く用のテーブルなんかを持ってきて、弥生は勉強をしていることもあった。
達也がカップ麺を食べるためにお湯を沸かそうとしていると彼女が言った。
「火を使うのはこちらのエリアだけにしてくださいね。火事になったら新聞に載っちゃいますから」
「わかったよ」
弥生は一度家に帰ってよく魔法瓶にお茶を入れてきてくれた。いつも皆でそれを飲んだ。
「帰るのが遅くてお父さんに怒られたりしない?」
「大丈夫ですよ。うちのラーメン屋、午後十一時まで開いてますから、わたしが外に出てても気づきません」
「そうなんだ」
しかし翌日、大幸でラーメンをご馳走になっていると「最近弥生の帰りが遅いみたいなんだけど浩一何か知ってるか?」とおじさんに聞かれてしまった。
言おうか迷ったがぼくは言う。
「ぼく達と過ごしています」
「悪いことは何もしてねえんだろうなあ?」
「何もしてませんよ。好きな場所に仲良しで一緒にいるだけです」
「そうか、わかった。それなら心配いらないな。引っ込み思案のあいつがそんなに長い時間一緒にいるってことは仲間のことが好きなんだろ」
「弥生って引っ込み思案なんですか?」
「引っ込み思案っていうか……本ばかり読んでいる少し暗い子だよ」
「へえ……」
「その代わり」
「何ですか?」
「家のラーメン屋が閉まる前には帰ってくること。そして必ずお前ら男達で送ってくれよ。約束だ」
「わかりました」
ぼくは殆ど家にいないのだが、ある日の朝、ぼくと若菜の分のトーストだけで他に何もない朝食をとっていると、叔母さんに言われた。「昨日浩一の担任が家にきてどうして学校に来ないのか聞いてきたけれど、内向的な子だからです、と答えておいたよ、もし学校で教師にうちの子に虐められるから学校に行けないとか言ったら殺すから」
「別にそんなこと言わないよ」
もう学校に未練はない。
ぼくは今日も図書館へと行った。
夏休みになったらしい。午前中からぼくと若菜は弥生と一緒になって図書館で本を借りると、一日中聖域で本を読んだ。達也は少しかまってほしそうにしていたが、黙ってガムを噛んで、黙々とゲームを進めているらしかった。
ラーメン大幸の定休日におじさんがぼく達四人を夏限定で開いている屋外プールへと連れて行ってくれた。弥生のお母さんもきて、こう言ってはなんだがボロボロのワゴン車には六人も人が乗っていた。
達也や弥生とおじさんは車の中で色々と話していたが、弥生のお母さんは殆ど喋らなかった。ぼくと若菜も黙っていた。
「親父さん、美味いラーメンを作るコツを教えてくださいよ」達也が後部座席から運転席のおじさんにそんなことを聞いた。
「それはインスタントラーメンの話かい?」
「そーっすね。その方が俺なんかの場合役立つかもしれませんね」
「なら簡単だ。熱湯から三分茹でろって袋に書かれてると思うけど二分茹でれば十分なことが多いよ」
「へー、そうなんですか! 今度お袋にそう言っておきます。いつものびたラーメン食べさせられるもんで」
「それと他には何も入れなくてもいいから、ネギだけは刻んで入れた方が美味いぞ」
「ネギですか。俺、まだガキだけどラーメンとか蕎麦の薬味好きですよ」
「ははは、達也はグルメだなあ」
住んでいる所から離れた市にある屋外プールへ着く。おじさんは列に並んで人数分の入場券を買った。
入り口のゲートをくぐり、男女に分かれて更衣室へと行くと学校指定のスクール水着に着替えた。屋外プールの入り口辺りで女性陣が出てくるのを待っていると、達也も含めて小学生四人は全員スクール水着だった。まだ子供なのでこんなものだろう。おじさんとおばさんは派手なところがない地味な水着を着ていた。
達也や弥生は最初に普通のプールでクロールをして泳いでいたが、ぼくと若菜はおじさんに連れられて波が出るプールで波に揺られていた。おじさんは決して足がつかなくなるほど深いプールにはぼくたちを連れて行かなかった。
冷たいプールはとても気持ちが良かった。若菜が波に身体を持って行かれそうになるとぼくのあまり肉がついていない脇腹を掴むので少し痛かった。
そのうちにおばさんと達也と弥生も波の出るプールにやってきて、皆で騒いだ。
それから少し波に揺られて昼食をとることになった。おじさんは皆に何も聞かずラーメンを人数分買って弥生と二人で運んできた。昼食をとるための野外のテーブルの上におぼんを載せたのだが、食べ始めると、不味い不味いとおじさんは連呼した。ぼくには十分美味しいように感じられたが、本職の人からすると許せないような不味さなのだろう。
午後になると達也が列に並んでウォータースライダーに乗りたいと言い出したのだが、身長制限にひっかかる若菜がいたからか、おじさんは「怪我されたら嫌だからだめだ」と言って、達也をウォータースライダーの列に並ばせなかった。
そして夕焼けがくる前に、ぼくたちは車で地元へと帰って行った。
楽しかった夏ももう終わりというある日の夜。もう受け入れられているはずなのに、姉さんのことを思い出して泣けてきた。大人の姉さんがなんであの時、ぼくの方へ駆けだしてきたのかはわからないが、あそこでぼくが手を振らなかったら、今も姉さんは生きていたのではないだろうか。ぼくが手を振ったことは若菜にも話していない。
姉さんが死んだのはぼくのせいだ。
聖域から達也を連れ出して箱形ブランコに乗りながら、ぼくのせいで姉さんが死んだことを話した。
「お前のせいじゃねえよそれは。冷たいことを言うようだけど、お前の姉さんの不注意だよ」
「そうかなあ……」
「じゃあ俺もカミングアウトするけど、俺の親父こそ自殺してるんだ。電車に飛び込んで。それは間違いない。俺を食わせるためにお袋はエッチな店で働いている」
「ふうん、ぼくのお母さんは小さな頃に病気で亡くなったらしい。お父さんは何年に一回とかたまには見るけど、殆ど会えない」
あっと言う間に冬がやってきた。
弥生の家でクリスマス会を開くらしく、ぼくと若菜と達也は夕方からお呼ばれした。
だがいざ行ってみると、おじさんとおばさんはいつも通り仕事をしていて、少し店が空いてくると居間までラーメンが四人分運ばれてきた。ゆで卵が二つ分入っていて、チャーシューもメンマも沢山入っていた。
弥生が、「クリスマスラーメン……?」などと言っていたが、皆がラーメンを食べ終わる頃にケーキもちゃんと出てきた。
シャンメリーと一緒にケーキを食べ終わる頃にぼくは言った。
「プレゼントは用意できなかった……ごめん」
「ごめんなさい」若菜も謝った。
「俺も用意してないわ」と達也も言う。
弥生は笑った。
「いやですねえ、わたしだって用意してないですよ。小学生なんだからこんなものです」
それからトランプやUNOで遊んで、親父さん達の仕事が終わる頃に、ぼくたちは帰りたくもない家へと帰って行った。
今年も雪が降ってきた。昨晩から降っていた雪は地面にある程度積もっていた。
朝達也が「聖域のまわりで雪遊びしようぜ」と誘いにきた。若菜と弥生も誘って、学校をサボり、聖域へと歩いて行った。ぼくと若菜は厚手のコートがないが、できる限り肌着などを重ね着して少し動きづらいが暖かい格好をした。
聖域がある公園で、四人で雪合戦をしたりした。雪玉をぶつけられるのも当てるのも楽しかった。
「てめえブチキレ野菜!」
達也はたまに若菜のことブチキレ野菜と呼ぶ。若菜が郁人と晴春の頭を石で殴ったことを知っているからだと思う。若菜の〝菜〟を野菜とかけているのだ。達也が本当に怒ってるわけでもないとぼくも若菜もわかっていた。
身体が冷えてくると、聖域の中に入ってお湯を沸かして備蓄食料のカップ麺を食べた。一杯じゃ足らないらしく達也は二杯もカップ麺を食べた。
それから遊び疲れたのか四人は廃バスの窓から未だに降っている雪をずっと眺めていた。
感傷的な物を浄化するような空だった。
雪が止んだ翌日、ぼくは風邪を引いていた。
叔母さんは病院に連れて行ってくれなくて、市販の風邪薬の瓶を渡されるだけだった。
一応特別なのか、昼食まではなんとか食事を出してくれたものの、夜になると家族で外食へと行ってしまった。
部屋で安静にしていると若菜がホットケーキを焼いて持ってきてくれた。
「風邪のときホットケーキ……?」
「文句あるの?」
「いや、ないよ」
風邪でも美味しく食べることができた。
翌朝、運良く一日で熱は平熱に戻り、台所と繋がっているリビングに行くと、叔母さんが若菜に泥棒だと吐き捨てていた。
「泥棒って何が?」
「勝手にホットケーキの粉を使ったでしょ」
「それはその通りだよ」
「粉散らかって汚いから台所を掃除しなさい」若菜は一瞬だけ強い視線で叔母さんを睨むと黙ってさっさと台所の調理台とガスコンロ、床を掃除した。
今年の正月もぼくたち兄妹だけ餅が一つのお雑煮のみの朝食だった。郁人達は、これから叔父さん叔母さんと買い物に出かけるらしかった。別に羨ましくないと強がったが、死んだ姉さんに会いたかった。
ぼくは相変わらず弥生の家と図書館と聖域にばかり行っていた。そこには他に何も無いとしても仲間達がいる。
二月になると聖域で弥生と若菜がぼくと達也にチョコレートをくれた。若菜はチロルチョコを一個だったが、弥生は手作りチョコを二人分作ってきてくれたようだった。四人でバスの中で食べる。甘い物に飢えていたせいで、貰った分のチョコを殆ど一人で食べてしまった。
一日も登校していない小学三年生が終わって四年生になった。
ある日郁人が小冊子のような物を持ってきてぼくに投げて寄越した。ぼくにはよくわからないが表紙は手書きのアニメ絵だった。
「なんで学校に来ないの? 来ようよ」といった内容のことをクラス全員で書いた手紙のような文集だった。ぼくは二、三人分の手紙を読むと、ハサミでジョキジョキと切ってゴミ箱に文集を捨てた。
教材も十分なくらいあるし、図書館での勉強に身が入った。将来的に中学も高校も通おうとは思わなかったが、高卒認定を受けて、そこそこ良い大学には行こうと考えていた。ぼくはやや人間嫌いだが、勉強はたぶん好きな方だった。
土日は店が混雑するという理由で弥生は昼頃から家の手伝いをしていた。そこまで甘えてしまっていいのかわからないが、親父さん達の昼休みには、ぼくと若菜の兄妹揃ってラーメンやチャーハン、ときには餃子とライスをご馳走になっていた。
弥生はお客さんから注文を取ったり、皿洗いを手伝っているようだった。
ぼくたちが食べ終わった食器を弥生のお母さんが下げようとすると、冷たい表情をした弥生が「わたしがやりますから」と言って家庭用の方の台所の流しへ汚くなった皿を持っていく。
後日聖域でぼくは弥生に聞いてしまった。
「お母さんと仲が悪いの?」
「別に悪くないですよ、ただあの人はわたしのお母さんじゃありません」
「……どういうこと?」
「本当のお母さんはお父さんと離婚して、今はどこにいるのか教えてくれません。今家にいる若い女の人はお父さんの後妻です。あの人はわたしのことを居ない方がいいと思ってますから」
「……」
ぼくたちは全員、家庭に問題がある仲間のようだった。
聖域から三人で弥生を送ってから家に帰ってくる。ぼくと若菜が暮している家は門は普通だが二階建てで大きく、駐車場には横に並べて車が二台は駐められるようになっている。
いつものように若菜と二人で玄関のドアを何度も叩くのだが、誰も開けてくれなかった。そして叔母さんが出てくる。
「学校にも行かないでこんな時間に帰ってきて……お前らがちゃんとしなかったら私の躾が悪いってご近所さんに噂されるんだよ」
ぼくと若菜は二人一度に物置に閉じ込められる。明け方、叔母さんが「反省したか?」と物置の引き戸を開けた。
そして部屋で少しだけ眠って朝がくると、いつも通り図書館へ行って、その後で聖域にも行った。若菜もいつも通りにくる。
午後八時を回って、いつもなら聖域から家へと帰る時間だが、ぼくはもう叔母さん達と暮すのは嫌だった。ぼくが聖域でそう言うと、達也は付き合ってくれると言い、弥生は、「わたしもお母さんがいない家へ帰るのは嫌です」と賛同した。
次の日からぼくたちは聖域に籠城することにした。
夜になるとお湯を沸かしてカップ麺を食べた。
弥生がチャーシューとメンマとゆで卵、ナルトなどをタッパに入れて持ってくる。達也がバカにする。「そんなものより金だろ金。俺は二千円も持ってきたぜ!」などと。
弥生が持ってきた物はその日の内に全員で食べた。
暦の上では春だがまだ寒い。達也と弥生が毛布を持ってきてくれたが、二枚しかないし大人達に見つからないように二人ずつ別れて、片方のチームがバスの出入り口から外を見張って、もう片方のチームは毛布にくるまって眠った。
最初に起きて見張りをするのはぼくと弥生だった。春でも夜になればまだ寒いので、カセットコンロの火に当たりたかったが、ガスが切れると厄介なので身体を振わせながら、二時間経つのを静かに待った。
「わたしはですね。自分の本当のお母さんが大好きだったんですよ。多少の問題はありましたがそれでも好きでした」
「多少の問題って?」
「家の大幸を殆ど手伝わないで専業主婦をやっていたところとか、女同士で頻繁に夜集まって飲み会をしていたことですね。それで頭にきたお父さんが離婚を切り出すと、お母さんは頷いちゃったんです。しかもわたしをおいて」
「お母さんのどういうところが好きだったの?」
「毎日一緒に布団で眠ってくれたことや、わたしが怖い本を読んで眠れないでいると、ずっと抱きしめてくれてた所とかですね。お風呂にもよくお母さんと入りました」
約束の二時間が経って若菜と達也が起きてきた。ぼくはシートを敷いた床に、弥生は一番後ろの座席で毛布にくるまって眠ろうとしていた。
翌朝、達也のお金でコンビニおにぎりを四つ買って、一つずつ食べると、それと聖域に備蓄していた物だけで朝食を済ませた。
図書館に行って時間を潰したかったが、もう警察沙汰になっているのかもしれなかったので、四人はバスの中で大人しくしていた。弥生は今日も膝の上にテーブルを置いて勉強していた。ぼくと達也は眠り足りないのでまた眠ろうとした。若菜は図書館で借りてきただろう本を読んでいた。
昼はカップ麺、夕食は達也が肉マンをおごってくれた。そしてまた夜がきた。ホームレスもいない穴場の公園だったので殆ど人は来なかったし、誰にもバスの中は覗かれなかった。
心細いのか弥生がお父さん……お母さんと静かに泣き出した。ぼくは貰い泣きしそうになった。亡くなった姉さんのことばかりを考えていたからだ。
静かに泣く弥生が立てる音だけがバスの中で響いていた。
そのうちにバスの中を懐中電灯で照らされた。
ぼくたちは身構えた。
バスの前に立っていたのは青っぽい制服を着た警察官だった。
ぼくたちは家出した子供として警察署に連れて行かれた。大した説明もなしに会議室で保護者が迎えに来るのを待った。
弥生のお母さんとお父さんが初めに迎えに来た。
弥生のお母さんは彼女を抱きしめて、「わたしのことを嫌いでもいいから! 危ないことしないで」そう言って、ぼろぼろと泣いていた。感極まった弥生はおばさんに抱きついた。おばさんは優しく弥生の頭を撫でた。
そしておじさんが「この子たち三人も面識あるんですけど、俺が家まで送り届けてもいいですか?」と警察官に聞いた。
「それはできません」
「わかりました。弥生帰るぞ」
そして次に迎えに来たのは達也のお母さんだった。職業柄か派手な格好をしていた。達也は自分のお母さんに何も言い訳をしなかった。達也のお母さんはとくに怒りもしないで、彼を連れて帰った。
そして叔母さんと叔父さんは中々ぼくと若菜を迎えに来なかった。警察の人が気を使ってくれて仮眠室を使わせてくれた。
叔母さんは朝の八時過ぎに迎えにきて、ぼくと若菜の頭に軽く拳骨を浴びせた。
また図書館通いの日々が始まった。聖域は大人達にばれてしまったので何かあれば迎えに来られると思うと、もうあそこで過ごそうとは思えなかった。ぼくたちは二日くらいかけてバスに持ってきていた私物をそれぞれの家に持って帰った。
だいたい一日一回は達也の家に行くのだが、その前に弥生の家でラーメンをご馳走になっていた。
ぼくはおじさんに謝った。
「娘さんを危険な目に遭わせてすみません」
おじさんはにかっと笑った。
「ナイフを持った変質者が襲ってきたら、浩一か達也が盾になってくれるんだろ? なら安心だ」
おじさんが本気でそう言っているわけではないとわかったが、取りあえず許してはくれるらしかった。
弥生がぼくを迎えにきて、彼女は達也の家に行くまでの間に言った。「今のお母さんがわたしのことを愛そうとしてくれてるとわかりました。家出もしてみるもんですね」
達也の家では彼のお母さんが夜まで眠っている横の部屋で、主にゲームをして遊んだ。 相変わらず、弥生の家のラーメン屋大幸には定休日以外は土日も含めて毎日行った。
「弥生のことを家出までさせちゃったのに、ぼくに怒らないんですね」
「自分も若い頃親に反抗してからな。なんとなく許せちゃうんだよ」
「今は子供だから何もできないんですけど、大人になったら何かお礼をします」
「いいよ、いいよ。ずっと弥生と仲良くしてくれればそっちの方が嬉しいよ」
ラーメンを食べ終わると、弥生と若菜が迎えにきてくれた。そして達也の家まで遊びに行った。
若菜だけ達也の家へ行かせて、ぼくと弥生は図書館の学習室に並んで座って、黙って読書をしている時もあった。
学校が夏休みになると、弥生の親父さんがまた去年と同じ屋外プールへと連れて行ってくれた。その日はどういうわけかおばさんはいなかった。
「今、お母さんのお腹の中には新しい命がいるんだ」
「おめでとうございます」
「親父さんやることやってるんですね」
「若菜ちゃん、達也の頭殴っておいて、子供がそういうこと言ったらいけねえよ」
「はい」
ゴンと達也の頭を叩く若菜。達也は「いてえぞブチキレ野菜!」と言って本気ではないだろうが怒っていた。
プールに着いて、おじさんに聞かれた。ぼくと若菜がまたスクール水着しか持っていないと知ると、売店でもっと垢抜けた水着を買ってくれた。ぼくは青と黒のバミューダの水着で、若菜も淡い色でワンピース型の水着だがパレオがついた物を買ってもらっていた。ぼくたちは深々とおじさんに頭を下げてお礼を言った。
「嫌がるかもしれねえけど、お前らと達也は自分の子供のように思ってるからな。このくらいは裸になったってしてやるよ」
買ってもらったばかりの水着を着たまま、屋外プールへ出ると、また去年と同じように波の出るプールで波に揺られた。弥生の水着もスクール水着ではなかった。今年は若菜も身長制限に引っかからないということで、色々な形があるウォータースライダーに何度も並んで乗り込んだ。身体がトンネルの中を滑っていく感触は気持ちが良かった。大きな浮き輪のようなボートを借りて二人で滑るスライダーにも弥生と二人で乗った。ボートが揺れる度に弥生の素肌がぼくの肩に当たって、少し心臓が高鳴った。
達也の姿がないときょろきょろしていると、彼はまだ小学生なのに、水着の女性達に声をかけていた。
しかも同い年どころか下手したら十歳以上歳が上の人にまで声をかけていたので、無視されることの方が多かった。
そして、ホットドッグの昼食をとり、午後もプールを楽しんで、暗くなる前に帰ることになったのだが、達也がナンパ成功がするまで帰らないと言うので、おじさんが拳骨を浴びせて手を引っ張って帰る用意をさせた。
図書館と弥生や達也の家に行くだけの日常は進むのが早かった。あっと言う間にもう冬で、ぼくと若菜は今年も肌着を何枚も重ね着して寒さを凌いだ。本で読んだだけなので本当なのかどうか知らないが、刑務所の囚人も冬はそうしているらしい。
達也の家も弥生の家もこたつが出ていてとても暖かかった。こたつで蜜柑を食べながら観るテレビは最高だった。
大晦日になると、ぼくと達也と若菜はおじさんの所まで行って、皆で紅白を眺めた。おじさんは夜遅いからと、うるさいことは言わなかった。
そうして紅白をすべて観た後は、こたつで眠ってしまって朝になるとおせちとお雑煮を食べてお年玉まで貰ってしまった。
そしておじさんはいつもの四人を初詣に連れて行ってくれた。おばさんはもうかなりお腹が膨らんでいたので、人で混雑する場所には来ないようだった。
神社で甘酒を飲んで、賽銭箱に賽銭を入れないでガラガラを振って、まともな大人になれますように、と拝んでおいた。
バレンタインがきた。若菜が用意したのはまたチロルチョコで、弥生は手作りだって念を押してからぼくと達也にチョコをくれた。その場で開けて食べようとする達也に弥生は「手紙も入っているので一人になったとき食べてください」と言った。
「わかった」
夜、若菜が風呂に入っているうちにチョコを食べて手紙を読んだ。
「いつもご迷惑かけます。
突然ですが、わたしには浩一さんと出会う前友達が殆どいませんでした。あの時図書館でよく見かけるあなたに声をかけていなかったら今でも一人だったでしょうし、新しいお母さんのことも好きになってなかったでしょう。
まだ子供なのでこの感情を何と呼ぶのかわかりませんが、好き嫌いで言ったらわたしは間違いなく浩一さんのことが好きです。チョコレート不味かったらごめんなさい。
これからもよろしくお願いします。浩一さんへ、冬木弥生より」
その手紙を読んで、ぼくは自分の胸が温かくなっていくことを感じた。
姉さんが亡くなったときから、ぼくと若菜は自分の分の服は自分で洗濯している。だからいつでも部屋には物干しハンガーがかかっている。
歳も一歳しか違わないし、若菜の下着が干してあるときなんかは目を背けた。
しばらく何もしてこなかった叔母さんの長男の洋輔さんに、部屋に連れて行かれた。
何を話すわけでもなく、彼はぼくにゲームをやらせてくれた。
達也の家でもゲームはできるが一人で黙々と進めるようなゲームはできないので、黙って見ているだけで、ゲームを何時間でもやらせてくれる洋輔さんが酷く優しく感じられた。朝までずっとやっていたので、いつもの時間に起きられないで、普段より遅くに弥生の家へラーメンを食べに行った。そしてちゃんと学校に通ってる三人が迎えに来て、達也の家で遊んだ。
あんな手紙を貰ったばかりだから恥ずかしくて弥生の顔を見られなかったが、彼女は平気なようだった。むしろいつもよりスキンシップを取ってきた。
ある日の夜、また洋輔さんの部屋に行こうとすると、叔母さんが出てきて、頬が真っ赤に腫れていた。
学校には相変わらず行っていないが、小学五年生になってすぐの頃、叔母さんに「洋輔の相手をしてくれたら月に五百円のお小遣いをあげるよ」と言われた。
小学五年生にもなって少ない額のように思えたが、コーラやアイスが買えるし、若菜にもご馳走してあげられると思ってぼくは頷いた。
洋輔さんの部屋でやるゲームも楽しくて魅力的だった。
いつものように達也の部屋に四人で溜まっていると、彼が言った。
「五月の終わりに修学旅行があるけど、浩一もこいよ。大阪京都奈良に行くから一緒にお好み焼き食べて大仏観ようぜ」
うちの小学校は六年生の時の他に五年生の時も修学旅行があると知ってはいた。
「考えておくよ」
考えておくと言いながらもぼくは修学旅行に行きたくて仕方がなかった。旅行なんて生まれてこの方したことがなかった。機会があるのなら行ってみたい。
叔母さんに修学旅行に行きたいと言うのだが、「あんた達の旅行の積立金払っていないから行きたくても行けないよ」と答えられた。
「今から全額払って下さい」
「お前には特別に五百円やることになってるだろ。調子に乗るな」頬を引っ叩かれた。叔母さんと同じくぼくの頬も赤くなった。
深夜に洋輔さんの部屋でRPGのゲームをしながらそれを言うと、彼は部屋から飛び出して行って、階下の叔母さん夫妻の部屋から激しい物音が聞こえてきた。
「俺の浩一に暴力振ってんじゃねえよ! ぶっ殺すぞ!」
ごめんなさい、ごめんなさい、と叔母さんが謝る声が二階の洋輔さんの部屋まで聞こえてきた。
そして彼が帰ってくる。
「俺が寂しいから修学旅行には行かせられないけど、浩一がもう暴力を振われることはないから安心していい」
「……ありがとうございます」
そう答えながらも内心は複雑だった。洋輔さんのことを怖いと思うようになっていた。
そうしてぼくが在籍している小学校の五年生達は修学旅行に行った。めずらしくぼくは図書館にも行かないで洋輔さんの部屋でインターネットをしていた。気晴らしに動画サイトを観たりウィキペディアで好きな作家のことを調べていた。
昼になって洋輔さんがご飯を食べに下に行こうと言うのだが、叔母さんが普段ぼくの昼食は作ってくれないと言うと、彼は階段を駆け下りまた叔母さんに暴力を振っているようだった。
そうして食卓にぼくと洋輔さんの分の昼食が並んだ。
「誰かと一緒に食べる食事は美味いなあ!」
「……そうですね」
学校が終わる時間になると、達也も弥生も修学旅行に行っているので、行く所もなく若菜が家に帰ってきた。部屋にぼくがいないとわかると洋輔さんの部屋のドアをノックした。
「誰だ」
「若菜です」
「入っていいよ」
その日から三日間、達也たちの修学旅行が終わるまでぼくたち兄妹はずっと洋輔さんの部屋でゲームをしていた。
修学旅行が終わる前に、お店の休憩時間に大幸に行って親父さんに言った。「叔母さんが昼食を作ってくれるようになったので、もうぼくの分は必要ありません。今までありがとうございました」
「栄養バランスも偏るしその方がいいかもな。叔母さんと仲良くしなよ」
おじさんは少し寂しそうに笑った。
修学旅行が終わっても図書館と達也の家には行かなくなっていた。ぼくも洋輔さんも昼夜逆転していて、小学校が終わる頃には洋輔さんも起きているから出かけることはできない。これで達也や弥生との友情が終わると思っていないが、ぼくはいつしか友達もいないで部屋から殆ど出ない洋輔さんに同情するようになっていた。
家まで達也が迎えに来たので久しぶりに外に出た。彼の髪の色が金に変わっていた。「もうすぐ中学生だし舐められないようにな」
「へえ、まだ一年以上先じゃん……どうやって染めたの? 美容室?」
「家で自分でやった。お袋も少しは手伝ってくれた」
自分でやったにしては達也の頭は綺麗な金髪になっていた。
叔母さんに初めて貰えた小遣いの五百円を握り締めてゲームセンターに行ったのだがすぐに使い果たして、残りは達也がおごってくれた。
夕方家に帰ってきて、洋輔さんに呼ばれなかったので自分の部屋で過ごしていると、階下から若菜の悲鳴が聞こえてきた。そして階段を駆け上がる音が聞こえてきた。二階のどこかの部屋のドアが閉められる音がした。
服を着た若菜が部屋にやってきて、「洋輔に脱衣所で着替えているところ覗かれた。叔母さんにちくるから一緒にきて」この頃若菜は叔母さんの言うことを聞かないで好きな時間に風呂に入っていた。
そうして叔母さんに二人で洋輔さんの覗きのことを言うと「うちの子がそんなことする筈ないだろっ!」と悲鳴を上げるように言った。
諦めて階段を上ると、ドアの隙間から手を出して洋輔さんがぼくたちにおいでおいでと誘いかけてきた。若菜は怖がって自分の部屋へ戻ったが、ぼくは洋輔さんの部屋へと行った。
しばらくはいつも通りゲームをやらせてもらっていたのだが、切り出した。
「若菜の風呂を覗くのはやめて下さい」
「あ? そんなことしてねえよ」
洋輔さんは椅子から立ち上がると、ぼくの頬に拳を振った。溜まらず倒れたぼくの顔をその後も何度も何度も殴った。もう許して! と泣き叫ぶと彼はぼくの身体の上から退いた。
ぼくは急いで自分の部屋へと逃げた。彼は追ってこなかった。
ぼこぼこの顔のぼくを観て、若菜に抱きしめられた。
あたしが我慢するから……それでいいでしょ、か細い声で彼女はそう言った。
五百円なんていらない。怖くなったので次の日からまた図書館通いが始まった。三時になると前言撤回しておじさんのところにラーメンも食べに行ったが、嫌な顔をせずに出してくれる。そうして学校から帰ってきた弥生と二人で達也の家へ行く。どういうわけか若菜は来なかった。
達也の家でゲームして暗くなる前に家に帰ると、洋輔さんの部屋から若菜の痛い、痛い、と泣き叫ぶ声が聞こえてきた。慌てて中に入ると散らかった部屋で洋輔さんは若菜にまたがっていた。
「止めてくださいよ! 嫌がっているでしょ!」
「もう少しだけ待ってな」
そう言う洋輔さんを無視して、ぼくは彼の顔面を殴った。若菜は急いで部屋から出て行った。
ぼくたちの部屋へ戻ると、若菜はずっと泣いていた。
その日の深夜、部屋から人が出て行く音が聞こえた。若菜は包丁を掴み洋輔さんを殺そうとした。ぼくは慌てて止めたのだが、洋輔さんの部屋から出て行き、今度は階下の叔母さんの部屋へと若菜は行ったようだった。
「出て行け! ここは元々あたし達の家だ!」
「はいっ、わかりました」叔母さんの涙声が聞こえてきた。
若菜は再び二階に戻ってくると、郁人と晴春も家から追い出した。そして最後には背中を蹴っ飛ばして洋輔も外に出した。しばらくして車が発車する音が聞こえてきた。叔母さん夫婦がどこか一夜を明かす場所へと移動していったのだろう。
若菜は部屋で、「兄貴……兄貴……」とぼくの胸で泣いた。
ぼくが兄貴としてふがいないから彼女が暴力を振るわれたのだ。……取り返しのつかない傷を負わせてしまったのだ。
若菜に申し訳ない気持ちばかりが湧いてきて眠れなかった。朝になってもどうせ眠れないのに布団から起き上がることができなかった。食事を作って若菜が部屋まで持ってくるのだが、少ししか食べられなかった。若菜が乱暴されたのが悔しくて悲しくて、自分の弱さも悔しくて悲しくて、涙がぼろぼろとこぼれ落ちていく。
今までぼくは何か若菜に兄貴らしいことをしてやれてただろうか。殆どと言って良い程していないと思う。ぼくは里菜姉さんと違って要らない人間なんだ……達也も弥生もぼくがあまりにも情けないから面倒を見てくれてるだけだ。対等な立場じゃない。ぼくはなんて情けない人間なのだろう! このまま死んでしまいたい……いや、それよりぼくが生まれたことを初めからなかったことにしてほしい。もしそうなれば里菜姉さんも死なないで済んだに違いない。
数日間若菜は学校にも行かないでぼくのことを見守った。それが憂鬱で余計に布団から起き上がれなかった。
姉さんが生きていてくれたらどんなに良かっただろう……姉さんのことはぼくが殺し、若菜に深い傷を負わせてしまったのもぼくだった。
ぼくが布団から出られないで、叔母さん達が出て行ってから三日ほど経ったある日、玄関のチャイムが鳴らされた。若菜が応対するとその人を家の中に入れたようだった。リビングで何やら二人は話している。これから何が起きるのかぼくにはわからないで怖かった。
お客さんが帰って、若菜が部屋へやってくる。
「叔母さん達がお父さんに電話して、お父さんの代わりのお父さんの部下が来たんだけど、ここ数年のことを全部話しました。そうしたらその部下の人と一緒に住むか、何かあったときの保証人にだけなってもらって、あたしと兄貴の二人で住むか選ばせてもらえました。結論的には二人で住むことになりました」
「学校があるだろ……誰が家事やるんだよ」
「学校に行きながら家事はわたしがやります」
ぼくは無言で布団から起き上がった。
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