【改訂版】夏とあたしと天花粉。

豆ははこ

夏と、蝉と、天花粉。そして、ハンサム。さらに、焼き肉。

 焼ける、頭が焼ける。

 なんだろうな、この暑さ。

 昨日、梅雨明け宣言が出たからなのかな。

 最寄り駅から会社まで、多分、きっと、十分くらい。

 この距離さえ、長い。暑い。

 

 蝉の声が聞こえる。昼間よりは静かな声。 

 蝉たち、朝の調音中なのかもね。

 長い、暑い歩道。

 赤、青、緑。

 見えたのは、アイスクリームの自販機の、きらきら光るボタン。そこにも、蝉がしがみついてる。

 アチーい、とでも言いたいような、チー……という鳴き声。

 あたしも一緒になきたいよ。できたら、アイスクリームに埋まらせてほしい。

 そういえば、『猛暑日には蝉も鳴きません』とか、朝のニュースで言ってたな。

 うん。そっか。猛暑日じゃないなら、蝉とあたしと。お互いに、頑張ろっか。

 あたしは、肩にかけた通勤用ショルダーから折りたたみ傘を取り出した。

 真夏日も、暑いことは暑い。

 そう、暑い。夏だから。

 だから、留め具を外して、急げ、開け。

 銀色に光る表面と、あたしが見ている黒い面。

 よし。暑いけど、かなり涼しくなった。

 折りたたみ傘にしては高いけど、大切に使うからかえってお得な、下からのぞくとプラネタリウムみたいに丸く見える日傘。

 この中にいると思い出すのは、賃貸の寝室に置いてある電池式の電動蚊取り本体と、取りかえ用の中身のこと。

 去年は、夏の終わりに中身が売り切れ。ネット通販でも買えなくて。

 取り替え用五百円、見つけた、と思ったら、小さく書かれた送料六百円。

 なんじゃそりゃ。それだけ出したら本体とのセットが買えるし。

 結局、買ったのはセットのほうで。

 だから、あたしの寝室の畳の上には、中身のない本体が二つ転がってる。  

 少しけばだった畳の上。丸くて白い、本体二つ。意外と似合う。

 似合うけど、さすがに本体三つにはしないぞ、と梅雨の時期。中身を三つ、購入したのだ。

 かかってこい、夏の虫よ。

 そう思っていたのに。

 現実は、中身は入れたけど動いてない一つと、目もないのに、じっと見られているような気がする度にそろそろ捨てるべきかな、と思わされるもう一つ。

 二つ揃って、畳の上にお座りしてる。

 捨てるべき。分かってる。

 けど、なんでかな。一年を一緒に過ごしたからか、愛着もある。

 一年って言っても、秋からはあたしだけが和室で、本体ズは玄関の靴箱で寝てたんだけどね。

 ああ、そうだった。本体よりも先に、初夏に捨てたものも、ある。

 こっちには、愛着なんかない。

 そう。

 蝉が鳴く前に、あたしは男を捨てた。

 男は言った。今年の春に。

 胸が好きなんじゃないよ、中身だよ。

 嬉しかった言葉。だから、好きになった。

 だけど、ね。

 胸を好きなんだな、はね。

 巨乳の持ち主には。すぐに、分かるんだよ。

 嘘つきは、嫌い。

 だから、夏になった気がしたから、すぐ捨てた。

 確か、今年最初の真夏日だった。

 なんで別れるの、と聞かれたから。

 夏になったから。

 そう答えた。

 まだ六月じゃん、とかなんとか聞こえたけど。

 こよみだったら、夏なんだよ! そう叫んで、おしまい。

 夏、暦。それは知ってた。ばあちゃんが、教えてくれた。


 男をきっちり捨てたあと、一人で公園に寄った。

 日傘がなくても、帽子だけでいられた頃だった。  

 あたしはまだ、心のどこかは春の気持ちでいたのかな。

 帽子のつばをつかんで少しだけ、泣いた。

 いつの間にか、まだうるさくはない、蝉が鳴いていた。

 アチー……くないよ、みたいな、なきかたで。

 代わりにないてくれたのかな、とか思えて、おかげでなんだかすっきりした。

 そこから数えて、何回目の真夏日だろう。

 梅雨明け宣言が出た日。そう、昨日。

 あたしは、ドラッグストアで大事な買い物をした。

 買ったものは、天花粉てんかふん

 これは、うん。読めるし、書ける。

 いわゆる、ベビーパウダーってやつ。

 あれね、大きなパフでばふばふする、で思い出す人も多いだろう。

 そっちは、あたしは年中無休の自宅用にしている。

 分かりやすい使用例なら、ぷりっぷりの赤ちゃんのおしりに、とかかな。ぷりつや。

 パウダーファンデみたいな丸い蓋付きの、固くて、薄いパフでパフっとできるやつもあるんだよ。

 これ、便利。

 四つ購入、使いかけと予備、合わせて二つ。

 通勤用のショルダーにも、入れて持ってる。

 お気に入りの日焼け止めとおんなじで、あたしの夏の必需品だ。

 スマホ、水筒、日傘、ノーパソとバッテリーに、社員証。通勤用のショルダーには、大切がたくさん詰まってる。

 そして、じりじりとした日差しに首の後ろ側が焼け始める頃、巨乳は汗疹あせもとたたかい始めるのだ。 

 汗疹、は読めるけど、書けない。でも、なんとなく、汗疹。の字は好き。

 そう。汗疹と、そして、大きな丸い二つを持つ女との。夏の秘かなたたかい、開幕。

 もしかしたら、巨漢の男の人も、なのかも知れない。それならきっと、同士だね。

 そもそも、巨乳って言ったって、あたしは70のF。そんなに大きくはない……はず。そう、巨乳の中では、きっと、小さいほう。月に一度の数日は胸が張るから、75のDの緩めワイヤーで楽してるくらいだからね。

 ほんものの、大きな巨乳はGとかからじゃないかな、と思うんだけど。G以上の人とはまだ会ったことがないから、想像するだけ。

 まあ、グラビアアイドルみたいに肉を集めて背中でガムテープ止め、とかはしなくてもいいから、やっぱり一応、巨乳なんだけど。

 一応。そう、わざわざ乳を作らなくていいその代わりに、重い、熱い。

 暑い、じゃないんだよ。

 じりじりじり。

 白い丸い二つの谷間には、汗疹。

 胸を両手で持ち上げて、天花粉、ばふばふ。

 汗疹だけじゃない。

 胸の谷間も、下乳も。

 よく洗わないと、垢も溜まるし。

 歯磨きしてたら、ぽたり。歯磨き粉が落ちる。気付かない。

 体重計に乗る。胸が邪魔で数が見えない。

 老眼か、ってセルフツッコミ入れるのも、面倒くさい。

 巨乳あるある。まだあるよ。

 回転寿司おいしかった! って帰宅して。

 楽しくお風呂に入ったあと、バスタオルも含めてさあ洗濯だ、と思ったら。

 醤油の染みが落ちてたのに気付いてなくて、洗濯機に入れる前に地味な染み抜き。

 洗濯用洗剤をキャップでちゃんと計って。そうだ、お気に入りのTシャツだけはネットに入れよう。気付いたあたし、えらい! と思ったら、胸にしっかり、醤油の染み。

 洗濯とか皿洗いとか、自分のタイミングでしたい家事ってあるじゃん。

 そのタイミングがずれるの、空しいんだよ。

 

 やばい。暑いなあ、熱いよう。

 脳内で叫んでたから、ますます暑くなった。

 日傘のおかげでだいぶましになったはずなのに。おかしいな。

 それでも聞こえる、蝉の声。

 暑い中、通勤通学蝉の声。

 お互い頑張ってるよね、って思わせてくれる。

 暑いのは、あたしだけじゃないんだって。 

 そうだ、楽しいことを考えよう。

 ああ、これだ。

 最近いろいろ買える、押さえつけるブラジャー。今日も、着けてる。

 すごく、助かる。Fを、Dに見せてくれるから。

 普通のブラジャー、Fのときだと。

「……あの人、胸、大きくない?」

 知らない女にちらっと見られて、言われるの。知ってる女は、ガン見してくるのもいる。どっちも、かなりキツい。 

 すれ違っただけの、ぜんぜん知らないカップルに凝視されたりとかも、ある。

「あんまり見ないの!」

 それで、彼氏が、彼女に叱られたり。

 あたしとしては、彼女あんたも見てたじゃん。って思うんだけど。

 でね。

「控えめでも、私の方がいいでしょ?」

 みたいな、かわいいアピールに使われて。アピられた彼氏も、まんざらでもなさそう。ムカッ!

 他人あたしの胸をダシにしていちゃつくな! だよね。

 胸が大きくていいよね、って言われることもあるけど。

 あれも、さあ。

 スタイルいいよね? でも、その服、小さくない? 

 サイズが合わないんだよ! 

 スーツとか、上下のサイズ変えて探すのも、けっこうたいへんなの!

 胸に合わせたら、肩とかぶかぶかになるし。イヤミ? ってなるから、言わないけどね。

 あたしだって、小さめのTシャツとか、かっこよく着たいよ! 

 本音はさ、頭悪そう、とか、脂肪じゃん? 自慢? とか。そんな感じじゃないのかなあ。

 テーブルにのせたらあざといとか? も思われてそう。

 違うって。重いんだよ。つい、だよ。あざとくないんだ。

 あざとくやるなら、もっとうまくやるよ。で、そういうやつは、だいたい乳工事、努力の偽乳。

 大きくなる方法? 知らないよ。

 こんなに大きいの付けてても、好きな人に好かれなきゃ、意味ないし。


 そう言えば、あたし。

 胸が好き。

 まだ、正直に言われたこと、ないや。

 言われたら、あたし、どうするのかな。

 分からないそんなことより、せっかくだから。

 痴漢とか、ろくでもないのに寄られるために付けてるんじゃないんだよ! 付いてんの! 天然もの! 見せたくて、じゃなくて、あるから見えるの!

 やばいやばい。叫びすぎ。声に出てたらヤバいやつだよ。少しクールダウンしなきゃ。

 ええと、お高いマカロン、ぽろりと落ちて。もったいないと思ったら、胸にのってた。ラッキー。おいしかったな。あとは。

 そうだ、やっぱり、ばんざい、抑えるブラジャー。

 着けてても、胸好きは釣れるときは、釣れるかも、だけど。それはそう、ブラジャーのせいじゃないから、ね。

 社会人になって、これのおかげで、けっこうあるよね。って言われるだけになったから。恩人じゃなくて、恩ブラジャー。

 ありがたい。値段はもちろん高いけど。背に腹はかえられない、邪魔な巨乳は抑えずにはいられない。

 けっこう胸、あるよね。

 すごくあるけど、知られたくないからいいんです、なの。

 ああ、でも今ちょっと、肩紐ずれてるかな。でかいのを支えるから、太いほうがいい。けど、太いとそれだけ暑い。だから、夏用の肩紐はちょい細かったりするんだよね。

 肩紐。位置直しできるところ、あるかな。

 そんなことを考えていたら、会社に着いていた。偉大なり、押さえつけるブラジャー。


 傘をたたんでショルダーに入れながら、スマホで予定を確認する。

 今日はあそこの会議室、午後まで空いてるんだ。うちの課が使うだけ。だから、軽く掃除してました、って言っとけば、多分、直属の女性上司は大目に見てくれるはず。大好き。

 そんな上司に連絡したら、課の共用パソコンであたしの出社も入れといてくれるって。

 ありがたや、と、少しだけ歩く。

 化粧室の手前、勝手知ったる会議室の扉を社会人の適正回数、軽めにノック。

 返事は、なし。

 よっしゃ。

 勢いよくスライド式の扉を開けたら。

 先客がいた。背が高い。姿勢がいいな。

 イケメンじゃなくて、ハンサムだ。

 そう、天花粉みたいな。

 昭和のハンサム。ばあちゃんが素敵って言ってた感じの顔。眉毛がちょい太い。

 そんなハンサム、ズボンに片方の手を突っ込んで。

 ごめんなさいすいませんごめんなさい、って表情してた。

 とりあえず、扉は閉めるね。

「……変態、じゃあありません、いえ、変態っぽいのですが、叫ばないでください、とにかく、ごめんなさい!」

「あ、分かってます、場所直しですよね、失礼しました」

 大丈夫。叫んだりなんて、しないよ。

 多分、大きい仲間だ。あたしは上半身、この人は下半身。

 だから、勝手に親近感。頑張れ。

 声援は送りたい、けど。

 それやっちゃうと、こっちが変態になりかねないから、即退散しなくちゃだね。

 そうなると、あたしはどこで直そうか。やっぱり、更衣室かな。なら一度、部署に戻るか。うん、仕方ないよね、大きい仲間の下半身を守るためなら。


「あ、あのう……」

 すると、ハンサム。

 遠慮がちに声をかけてきた。

 さっと、ハンサム。

 携帯の消毒用アルコールで手を消毒している。

 消毒したあとの手には、名刺入れ。

 きちんと両手で差し出して。

「お話をさせて頂けますでしょうか。それから、御社の社外の人間ですのに、たいへんな失礼をいたしました」

 あたしもきちんと、両手受け取り。

 ハンサムは、いわゆる一つの、重要な取引先のお客様だった。

 今日は約束はなかったけれど、ほんとうにたまたま、うちの社のそばで危険なくらいにずれそうになったらしい。たいへんだ。

「申し訳ありません。今日はその、うっかりしまして、下着を、ですね、ガード付きのものを着用するのを忘れてしまいまして、それで、ずれやすくて。コンビニで下着は買えないし、あいにく、トイレも清掃中でしたもので」

 確かに、コンビニの下着とかって、大きい胸には優しくないんだよね。下半身にもそうなのか。

 あたしも、ブラ忘れて電車乗っちゃったとき。車内と歩きの間、ショルダー前持ちで抑えてたなあ。で、コンビニでメンズのLサイズのTシャツとバンソーコー買って、トイレで二箇所の大事なところは隠して、Tシャツかぶってスーツ着て出社。それで、昼休憩までやり過ごした。

 だから、分かる。

 大きいから、隠すのも忘れないんじゃ、って思われるかもだけど、抑えるものがなくなった爽快感で付けるの忘れて、って……あるんだよね。

 巨乳にはサイズが合わないブラトップも、楽だから、つい買っちゃうもん。家でしか着られないけど。楽だけど、ずれまくるから。

「……で、御社が近くにあることを思い出しまして、藁にも縋る思いでした。何度か伺っておりますので、受付に化粧室を拝借したいという旨と記名と名刺の提出の上、敷地内に入れて頂きました。化粧室、と思っておりましたら、途中で今日の日付と午後のみ使用予約ありとホワイトボードに書かれて扉も空いている会議室が目に入りまして……すみませんでした!」

 説明ハンサム。おつかれさまです。

 うんうん。分かるよ、分かります! 

 始業前の化粧室は混雑してることがあるからね。

 ずれたところを直してるのを見られるの、嫌だよね! 

 ブラの肩紐も下半身のポジションのずれも、一緒だよ、きっと。間違いない。

 そう。空いている会議室を拝借、ってまさにあたしがしようとしていたこと。

 やっぱり、この人は仲間だ。

 あたしは、会議室の内線を取った。

「すみません、はい、ええ、そうです。代わりますか?」

 内線相手は、女性の上司。重要な案件のお客さま、ハンサムのことだけど。その方についての、話し合い。

「たまたま化粧室を借りにいらしておられまして、ご案内したところ、うちの部署が扱う新商品説明を希望されましたが、いかがいたしましょうか」

 これが、あたしの伝えた内容。お互いの大きいものについて、もっとお話したいな、そう思っちゃったんだよ。

「上司命令。逃がすな! 業務とは別の部分については、後日、ランチタイムに報告せよ。その代わり、直帰可能。どちらかと言えば別のほうの健闘を祈るよ!」

 上司からは、なんだか熱い指示が返ってきた。  

 ふだんはめちゃくちゃ丁寧なデキる上司、なのに、熱いね。珍しい。暑いからかな。

 まあ、でも。

 スマホのメモ帳に『上司から業務扱い、直帰O.K.でました。もう少し、お話しませんか』そう入れて、ハンサムに画面を見せる。

 うなずくハンサム。なんだか、かわいい。

「上司の方に代わってください」

 そのあとは、とんとん拍子。

 あたしはすごく良心的に弊社の新しい取り扱い商品をご説明するようだ。

 取り扱いの商品は、新しいものではなくて、それぞれが長く付き合っているものなんじゃないかな。

 そう思ったけど、もちろん、悪い気はしない。

 あれ。別のほうって、なんだろうな。まあ、いっか。あとで上司に聞けばいいよね。

「あの、反対むいて、目も耳もふさぎますから。そちらの位置も直せたら、教えてください」

 そうだった。肩紐、直すんだった。

 ありがと、ハンサム。

 背中を向けて。目と耳、ほんとうに、ふさいでくれてる。

 あ、蝉の声。

 アチー……も、今のハンサムには、聞こえてないかも。でも、でっかい背中、丸めてて。頑張ってないてる、蝉みたいだ。

 そんな律儀なハンサムに、直りました、って肩紐直したあたしが声掛けて。

 あ、そうだ。

「すみません、ちょっと待って」

 窓辺のサンシェード。一箇所だけ、開けておこう。

「眩しいですね」

 ハンサム、おひさまとか苦手な人?

 慌てて閉めようとしたら、止められた。もう退室するからかな?

 

「早めにランチタイムになる穴場の店にご案内したいのですが、焼肉は、お好きでしょうか」

「焼肉、好きです」

 社外に出て、タクシーに。

 ハンサムが連れてきてくれたのは、お高め焼肉店の個室だった。

 焼肉店。久しぶりだな。何でだっけ、焼肉好きなのに、あんまり来なかった理由。もちろん、ここみたいな高級店じゃないけど。

 まあいいや、今日はめちゃくちゃ肉、食べたい気分だから。

「ランチタイムだから、高くないんですよ。どうかお気遣いなく、じゃんじゃんどうぞ。クリーニング代ももちろん払いますので、においはお気になさらずに。必要でしたらこのあと、お着替えを購入しに百貨店にも行きましょう。もちろんお代はお支払いいたします。ご迷惑でなければですが。あ、ご迷惑でも、この焼肉代だけは払わせてください」

 お着替え、百貨店。

 ハンサムっぽい言い方が、お似合いだ。

 さっと確認した、ランチメニュー。

 確かにいいお値段。だけど、飲み会二回分よりは安い。

 ん。ここだけはおごってもらおう。で、クリーニング代はいらない。今日の服は、全部洗濯機で洗えるやつだから、大丈夫。


「セクハラとか、そういう意図はございませんが、そう感じられても仕方ない話題を出してもよろしいでしょうか」

 瓶ビール、手酌派でしょうか、と訊かれてからのこの言葉。

 手酌派です。

 そして、話題はむしろ、待ってましたですよ、と答える。

 それぞれの瓶ビールを、それぞれ注ぐ。

 琥珀色の上の、白い泡。

 シュワシュワした、大人の炭酸。

 きちんと冷えたグラスだから、水滴が微妙に色っぽくて。

 乾杯は、グラスを合わせたら泡が崩れるから、グラスをお互い持ち上げる。

 まずは、肩ロース。

 トングは二つ。

 焼けるにおい。肉汁。

 ステンレスボウルに入った、シャキシャキのサンチュ。淡い緑色、きれい。

 交換用の網も、たくさんある。どんどん替えていいんだ。すごい。

 ライスは、普段は小盛りだけど、今日は大盛りだ。盛りが多い、はなんとなく敬遠してたけど。

 今日はいいんだ。盛り盛りだ。

「大きいと、やたらとうらやましがられますよね」

「人にもよりますが、はい」

「……で、無理にだと、相手が苦しいんですよ」

「分かります。胸だけ使われて、勝手に終わられて。何しに来たんだぼけ! って蹴り出したこと、ありますもん」

「あと、口のとき。無理しないで、ほんとうに無理しないで、って言ったのに、顎が疲れるから嫌、って。嫌、って、すごく辛いんですよね」

「分かります。けど、してみたくなったのかも知れませんよ。あ、あたしはごく稀にしたいと思っても、胸を使われましたよ。あれは嫌だったなあ」

「それは、嫌でいい嫌、ですね!」

 ハンサムとのお話、楽しいな。それに、お肉のお皿、肩ロースの反対側はカルビだ、上カルビ。

 天にものぼるおいしさ……天。そうだ。

「使うと言えば……天花粉、知ってます? 使ったりしますか?」

「はい、分かります。ベビーパウダーですよね。天花粉、昔ながらのやつだ。僕はですね、長い方じゃなくて、丸い方に使います。自分のとは言え、毎回なので、パフは使いたくなくて。風呂上がりに、手ですくって、ぱたぱたしてます」

「丸い二つに、ですか」 

「はい、丸い二つにです」

 参ったなあ、こんなところまで気が合うのか。

「あたしもです。家にはそれで、持ち歩き用にはこれ。固いタイプなんです」

 未開封の天花粉。予備のほうをハンサムに見せる。

「素敵ですね、持ち歩けるんですか!」

 そう、素敵なんです、天花粉。

 暑い夏が、少しだけ嫌じゃなくなるんです。

 なんだろう、この安心感。

 自慢? とか、言われない。楽。楽しい。話しやすい。

 あたし、今まで本音で話して楽しかったのは。 

 痩せすぎだけど太りたい、でもあんまり食べられない……そんな子だけだった。なかよし彼氏の海外赴任で婚約者です、って付いていっちゃったから、たまに連絡はできるけど、直では会えない。

 その子の彼氏、よく食べるけど太らない、普通体型な人で。だから、太らないことはぜんぜん恨まない、本気のいいなあ、それだけ。

 そんな彼女のこと、大切にする人だった。


 大切に。いいなあ。

 そう思ったら、蝉の鳴き声が聞こえた。

 アチー……か、そうか、そうか。

 高級焼肉店の、二重ガラス。蝉のあの鳴き声は、これも突き破るんだな。

 どんどんないて、どんどんさけべ。

 あたしは、どんどん肉を焼くから。

 だいたい半分、それぞれの陣地。

 一人焼肉みたいなのに、たくさん種類を食べられる。

 網だって、替え放題。素晴らしい。

 サンチュもライスも、たくさん。

 じりじりじり。肉汁が落ちる。

 肉の脂が、少しだけ網の端を黒くする。

 そろそろ網、替えましょうか。そう言おうと思ったら、ハンサムと目が合った。


「あの、大きい男性と恋愛をするお気持ちはございますか?」

 上司の言ってた別のほうって、これか。上司、すごい。

 意外だけど、不快じゃない。むしろ、嬉しい。

「そちらこそ、大きい女性と恋愛をするお気持ちはございますか?」

 肉を焼く手は、止まらない。止めるつもりもない。

 アチー……。

 蝉の鳴き声も、止まらない。

「ございます。胸が好きです。でも、あなたはもっと好きです」

 でも。うん、でも、なんだ。嬉しい。そんなこと、じゃなくなった。

 あ、でも。

「すみません、実際は、もっと大きいんです」

 そうだ、これ、言わなきゃだ。

「あ、小さくされているの、分かります。……色々入れたりして、増やしてる方とかともお付き合いしたこと、ございまして」

 ああ、そうか。知ってるんだね、ハンサム。胸の、工事現場。

「小さくても、大きくても、好きな人のなら、好きなんですけど。僕のが大きいから、だけじゃないんでしょうけど、伝わらないときもありました」

 しょぼしょぼハンサム。

 元気出せ、ってなでてあげたい。けど、絶賛肉食中だからなあ。

 それにしても。

 どきんどきんどきん。

 ……おかしい。あたし、心臓二つになったみたい。

 部屋の蚊取り線香の本体みたいに。二つ、並んでるみたいに、心臓の音が大きくて。なんだ、これ。

 ええと、なんか言わなきゃ。ありがとう、だよね。

「ありがとうございます。大きすぎて入らなかったら、すみません」

 肉の脂が落ちて。一瞬、炎が上がってぼうっとなった。

 ハンサムも、ぼうっとしてる。

 ありがとう、は言えたけど。あたしも、そうとういきなりだよね。

「大丈夫です。時間をかけたら、きっと。無理なら、それはそれで」

 でも。こんなふうに。答えてくれた。

 ハンサムの歯、ライスみたいに真っ白な歯で。

「無理なら、胸がありますよ。二つも」

「ありがとうございます」


 わけが分からない。なんだろう、この会話。

 おかしい、おいしい。肉がいい。

 そうだ、あたし。

 肉を食べたら、栄養がさらに胸にいきそうで、苦手だったんだ。

 肉は、大好きだった。

 忘れてた、思い出した。

 分からないのが、いい。

 分かるのも、いい。

 きっと、そう。

「あ、でも」

「はい」

 何だろう。ハンサム、もじもじ。なんだか、かわいいな。

「あの、大きいからって、いつもいつもそういう雰囲気ばっかりじゃなくて。ええと」

 もしかして。

「……部屋のカーテン開けて、おひさまの光入れて。ゲームとか、ドラマ観るとかしたいときもある、とかですか?」

「はい!」

 え。

 そっかあ。そうなんだ。

 何人か前の彼氏。あたしの家に来て。

 あたし、たまには色々話したいよね、な気分のときで。

 レースのカーテンだけ閉めて、遮光カーテンは開けてたら。全部、閉めようとされて。

 光入れたいのに、なんで閉めないとなの、って言ったら、なんか不機嫌な顔されて。あったなあ。

 結局、そいつとはすぐにさよならだった。

 そうだよ。大きいからって、いつもいつも、したいしたい、やりたいやりたい、じゃないんだよ。

「たまには、したくないときもありますよね。大きくたって。でも、一緒にはいたいの。話したい」

「はい! お話、楽しいです!」

 そっかあ。

 嬉しいなあ。

 ハンサムも、あたしと話すの、楽しいんだ。

 あたしも、だよ。あれ、でも。

「さっき、眩しいって言ってましたよね」

 ね、確か。


 アチー……。

 まだ、蝉は鳴いている。

「さっき、御社での、ですね」

 そうです、と言おうとしたら。

 お客様向けの静かなノックのあと。

 扉が、開いた。

 特上カルビが、二皿やってきた。さらに高級。盛り盛りだ。

「さっき、眩しかったのは。あなたの笑った顔なんです」

 特上カルビをつい見ていたら。すごいこと、言われた。

 なにそれ。ハンサムの笑顔のほうが、眩しいじゃん、ずっと、ずっと。 

 でも、だけど。


 窓の向こう。

 大きな大きな、の蝉の声。

 ないて、ないて、ないてくれてる。

 恋を求める蝉たちよ、頑張れ、頑張れ。

 ないてくれて、ありがとう。

 ちゃんと聞いたよ。

 今度は、あたしが頑張れを言うからね。

 頑張れ、頑張れ、蝉たちよ。

 夏を、超えろ。

 ここに、いるぞ、ここに、いるよ、と。

 叫べ、鳴け。

 暑さを一緒に乗り越える相手を、捕まえろ。

 どうやら、なんだけど、ね。

 ありがと、蝉たち。


 あたしはお先に、捕まえたみたいだよ。

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【改訂版】夏とあたしと天花粉。 豆ははこ @mahako

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