明日を願うの記

色街アゲハ

明日を願うの記

 目が覚めると夜中だった。

 

 明るい時に感じられた、良くも悪くも‶何か居る″と云う感覚は其処に無く、部屋の中は元より、窓を突き抜けて街灯の光の寂しく照らす舗道、街並み、更には街を抜けてその先の先に至るまで、全てが寝静まった、と云うより、生きている者の気配すら感じられない吹き抜けの世界は、星と星との間に広がる、冷たく何も無い空間にまで直に繋がっている様に思えて来て、思わず、ブルッと一つ身震いすると、毛布の中に潜り込んだ。夜は残酷な時間だ。自分達の存在する世界が虚無以外の何物でも無い事を、何一つ虚飾を交える事無く剥き出しにしてみせるのだから。


 そんな無慈悲な世界の中で、隣で小さな寝息を立てて眠っている存在。彼女の存在こそが、自分以外の温もりを感じさせる唯一の物だった。今となっては、何故彼女とこうして眠りを共にするまでになったかが今一つ思い出せない。彼女に何か自分を惹き付ける何か特別な物があったか、と云うと、それは無い様に思う。同様に自分の中に、彼女がどうあっても自分に着いて行く、と云う特別な何かがあったかと云うと、それも無い。

 ただただ、日々の時間の流れる中で、付かず離れず、始めはちょっとした言葉の掛け合い、そして徐々に慣れて互いに深い所まで踏み込んで行って、それから少し身を引いて、互いの反応を恐る恐る伺う。まるで小さな生き物が互いに身を寄せ合って眠る様になるまでの過程を見ている様で、気が付けば互いが互いの胸にすっぽりと収まる様な自然な形で、今こうして此処にいる。


 そうして収まってしまうと、まるでそうなる事が始めから決まっていた、とでも云うかの様に、違和感のない事に驚いていた。尤も其れは自分だけの話で、彼女にとっては何ら疑問の無い当たり前の事だったのかも知れないけども。


 ゴロリと一つ寝返りを打ち、彼女に向き直る。薄く瞼を閉じ、毛布からはみ出た手が、赤子の様に軽く握られているのが見えた。何の気なしにその手をそっと握り込んだ。少し冷たくて柔らかい、それでも手を通して伝わって来る確かな感触。こうして手を繋いで並んで歩いた幾つもの情景が、ごく自然に脳裏に浮かび上がって来る。


 その途端、全身を、この身体を構成している細胞の一つ一つに至るまで、抑えようの無い恐怖が走り抜けるのを感じていた。それは一度のみならず何度も何度も湧き起って来て、ガタガタと震える身体をどうにかして抑えようと、思わず握る手に力を込めていた。しかし、それでも震えは止まる事は無く、寧ろ酷さを増す一方だった。


 こうして、当たり前に握っているこの手、何時しかそれが無くなって、望んでも二度とそれが叶わない時が必ず来る、その事に思い当たって仕舞い、それがどうあっても避けられない事である事に考えが及んでしまうと、もう駄目だった。自分がもうそれなりの歳である大人と云う事、そんな事を気にする余裕も無くなって、ただただ‶怖い、怖い″と、何度も呟くばかりで、一向にそれは収まる気配を見せようとしなかった。


 ああ、この感覚は覚えがある。それは、まだ自分がもっと若い頃、まだ十代の前半だった頃の事だ。あの時も何故だか夜の夜中に目を覚まし、辺りに物音一つなく、まるで世界から取り残されてしまったかの様な、部屋の壁が急速に遠ざかって行き、限り無く薄まって行く世界の中で、ただ一人取り残されて行く自分。そんな感覚に襲われて、そんな中、何時しか自分の命の潰える事、それが避け得ない事実である、と云う事が急に脳裏に浮かび、必死に‶助けて、助けて″と怯える事しか出来なかったあの夜の出来事。


 どれだけそうしていたか分からない。気付くと微かではあるが手を握り返して来る感覚に気付き、思わず目を上げた。其処には薄目を開けて、ぼんやりと此方を見る彼女の顔があった。


 ‶どうしたの?″


 と、未だ夢うつつと云った心ここにあらずと云った声で問い掛けて来る彼女に、ただ自分は涙するしかなかった。思えば随分意味の無い事を口走った気がする。ずっと一緒にいてくれ、だの、何処にも行かないでくれ、だのと。んん、と気だるげに寝返りを打つ彼女は、


‶なあに? こんな時にぷろぽおず?″

 

 言って、くすくすと笑いだすのだった。


‶そっかあ、ぷろぽおずされちゃったかあ、ぷろぽおず、ぷろぽおず。フフフ……″


  にっこり笑ったまま、頻りに同じ言葉を繰り返す彼女。起きているのかそうでないのか、薄く目を閉じたまま彼女の手は自分の頬に添えられる。


‶大丈夫、私、何処にも行ったりしないから。ずっと一緒、何時でも一緒、何処でも一緒だから、なあんにもしんぱい、いらない、から……″


 そして、不意に目をぱちりと開けて此方をじっと見据えると、


‶それでも心配だったら、大丈夫、お腹の中のこの児が居るから。私が居なくなっても、貴方が先に居なくなっても、この児と一緒なら、きっと、きっと、怖くなんてないから、寂しい事なんて何もないから……″


 そう言って、再び目を閉じて静かな寝息を立て始める彼女に手を回し、きつくその身体を抱きしめるのだった。


 未だ暗いまま、果たしてこのまま明ける時が来るのだろうか、などと云う根拠のない不安に何時までも捉われたまま、どうしようもなく身勝手な願いを、未だこの世界に生れてもいない命に負わせるには、余りに重い願いを負わせる事になる事を知りつつも、願わずにいられなかった。


‶お願いだ、どうか、俺たち二人を明日に連れて行ってくれ″と。


 そう言って、堪え切れなくなって、


 また、泣いた。





                            終

 

 

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明日を願うの記 色街アゲハ @iromatiageha

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