第一話「灰青色」⑵

写真部の文字に惹かれながらも一歩踏み出すことができずにいた。この世界に足を踏み入れてしまうと、二度と戻れないような。そんな気がした。

廊下の少し空いた窓からは、水泳部の掛け声と共にプール独特のツンとした匂いが鼻腔を刺した。忙しなく聞こえてくる水と体がぶつかり合う音が鳴り響く。私を急かしているように感じた。

この心をかき乱す感情をどうにかしようと、不意にカメラが入っている手さげに触れた。布越しに感じるカメラの形。いつものように、頭の中でその姿を描く。グリップ、レンズマウント、モードダイヤル。頭の中に思い描くカメラがシルエットから細かなディテールが足されてゆく。思い描くたびに、少しずつ心が落ち着いていく。そして、カメラが私に言った気がした。行こう、と。

扉を3回、控えめにノックした。けれど、返事はない。


どうすればいいのかと悩んでいると、扉の中央に貼られた紙が視野に入った。よく見たら「出入自由」の文字。決心を決め、恐る恐る少し扉を開けると顔の隣を空気が通った。教室の中の空気が少し外に漏れ出たのだ。この感覚に少し懐かしさを覚える。

ゆっくりと扉を開き、「しつれいします」とかぼそく呟く。辺りを見渡しながら慎重に足を運ぶ。

カーテンの隙間から射る光、中央に4つだけ残して壁際に追いやられている机、影がかかっている壁。

中央の机の上で何かが光っていた。一枚の写真が置かれていた。その写真は、私が今まさにいるこの教室の中央に立っている女性が映されていた。今私が見ている風景と変わらないのに、なぜか引き寄せられるような。そんな写真があった。特別写真の中の情勢が美しかったとか、色彩補正がしてあったとかではない。ただ純粋に美しかった。


写真に見惚れていると、背後から聞き覚えのある声が聞こえた。声の主の方へ振り向いたはいいが直接顔を見れず、ただ、足元を見ていた。

「本当に来てくれたんだ。うれしいな。改めて佐々木遥です。写真部の部長をしています。」朝にお会いして、この場所を教えてくれた佐々木さんだった。佐々木さんはえーと君は・・と投げかけた。

緊張で喉がうまく動かない。私は動かない喉から必死に出した声「た、高原さつきです。」となんとか一言絞り出した。緊張からか端的な返事になってしまいその場に沈黙が流れる。気まずいような心地良いようなそんな沈黙だった。

「あ、あの。机の上の写真」口が、喉が先走った。自分自身、言うつもりもなかったのに何故か体が先走った。なんとか弁明しようと言葉にならない言葉を一生懸命搾り出そうとした。頭が真っ白になっているのに頭上からは微かに笑い声が聞こえた気がした。恥ずかしくてどうにかしたくて頭が余計こんがらがる。「高原さん、そんなにあわてなくても大丈夫だよ。」と何度も繰り返されていた。少し笑いながら、かといって優しくて決して馬鹿にしていないような。そんな声だった。

「机の上の写真でしょ。あれは何年も前写真部が出来たばっかりの頃に写真部の部員が撮った写真だよ。中央の女性も写真部の部員。」その言葉を聞いて納得した。素人が撮ったにしては、妙に全てが綺麗で洗礼されている写真だと思っていたからだ。そんな心を読むように佐々木さんは「この写真うまいこと撮れてるよね。左右に机をなめて、机の間から覗き込むような画になってるよね。だから少し神秘的な雰囲気を感じれる。しかもローアングルなのと女性が左を向いている事から希望に溢れた印象になるのに、女性の背後の方にあえてスペースをとっている事で、少し過去に引っ張られていたりマイナスな要素があるように見える。やっぱりとってもうまいこととれてるよね。」

佐々木さんは、私に伝えるのではなく、佐々木さん自分自身に納得させるような、呟き方だった。私は、佐々木さんの分析にそう言うことか納得した。私が感じた美しさも何か意図があってそれに惹かれたのだろう。佐々木さんは「あ、ごめん。話しすぎちゃったね」と言って話を切り上げた。

私は、佐々木さんの分析をもっと聞きたいと思ったのかもしれない。私は良いと思った写真は何故そう思うのかうまく説明できない。佐々木さんの知識があれば今よりも写真を撮ることが楽しめるかもしれない。佐々木さんの分析があれば写真一つについて沢山語り合えるかもしれない。少し心が高鳴ってきた。写真仲間なんて今の今までいたこともない。

「つ、机の上の写真。何故か惹かれて、でも理由は分からなくて、ただ美しい写真だなと思っていました。」私はゆっくり言葉を紡いでいく。佐々木さんに伝わるように言葉を選びながら。「けれど、さ、佐々木さんの、先ほどの写真の分析で美しいと感じる理由がわかりました。もっと聞きたいです。違う作品だとしても同じ作品だとしても。だから、」緊張から、心臓の律動が徐々に激しく大きくなって飛び出しそうだった。けれど、いつものような不安の混じった緊張とは違った。

一つ呼吸を挟む。「写真部に入部させてください。」

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