オムライスの魔法

翡翠

episode.1

 東京の煌びやかな夜は、いつもと変わらず喧噪けんそうに満ちていた。


 ネオンに照らされた人混みをうように歩きながら、早香さやかは携帯電話を耳に押し当てる。


 商談に戻らねばならないことは頭の片隅で分かっているのに、それどころではなかった。


 いま、彼女の心をめているのは――



「……お母さんが、倒れた?」



 電話の向こうから聞こえてくる父の声は囁くように静かだった。その抑えられた声の奥には、娘の前では口に出来ないであろう不安も混ざっている。


 命に別状はないと、時折鼻をすすりながら説明する父に、かえって不安が募った。


 健康が取り柄の母が倒れるなんて、これまで想像すらしたこともない。



「明日には帰るよ。店のこともあるでしょ?少し戻る時間を取るから」



 そう短く答えると、会話終了ボタンを押す。細かく切れるようなため息をつき、力無い手を下ろしてただ夜空を見上げる。


 光にかき消された星のように、胸の奥に小さな懸念が揺らめく。




 翌日、新幹線の車窓越しに見える風景は、次第にビルの森から山並みの緑へと変わっていった。


 幼い頃、何度も親しみ、見慣れた田舎の風景が広がるとき、早香は懐かしさと、複雑で説明しがたい騒めきもある。


 東京で過ごした年月がいつの間にか、故郷の風景を過去に変えてしまったのだと気づかされた時、心が針を刺すように痛んだ。


 駅に降り立つと、変わらぬ町並みが広がる。小さなお店がいくつも並ぶ商店街、杖をつきながらゆっくりと歩く老人、そして時間が止まったかのように静寂な空気。


 少しぬる潮風しおかぜが、懐かしい匂いを運んで、心地良い。



「ああ、戻ってきたんだな……」



 早香は自分の居場所を確認するように何度も地を踏んで、ゆっくりと深呼吸する。



「早香!久しぶりだなあ」



 実家の「キッチンひまわり」の引き戸を開けると、エプロン姿の父がほどけた柔らかい笑顔で迎えてくれた。


 疲れがにじむ顔に微かに安堵あんどの色が見て取れる。ちゃんと笑ってはいるが、目元にはうっすらとしたうれいが漂う。



「お母さんは……どう?」



 父に横目で聞きながら、足早に角度のついた階段を駆け登り母の部屋へ向かう。


 部屋の奥には小さなシングルベッドがあり、枕元には早香が小学校の頃に作った、木枠の写真立てが置かれている。


 そこには、若い頃の母と二歳か三歳位の幼い自分が写っていた。写真の中の母の笑顔は向日葵のように明るくて、どこか誇らしげ。


 今にも「早香頑張ってる?」と話しかけてきそうな気がして、やるせない胸の嘆きに痛くなる。




 翌朝、父から頼まれ、早香は母が回復するまで店を手伝うことになった。


 戸惑いと緊張が絡まる中、案内してくれた厨房に足を踏み入れると、長年染み付いた、バターが決め手のオムライスの香りが体を包み込む。


 毎日手をかけ続けてきた「家族の味」が、壁や細かな調理器具にさえ深く刻み込まれているようだ。


 厨房前のカウンター隅に目をやると、湯気や湿気でしおれたレシピノートが置かれていた。


 母が若い頃から使っていたものだ。ページはところどころにケチャップの小さなシミが付いている。


 黄色みを帯びた紙に細かく記された文字は、母の手跡で、そこには料理への真摯な思いが溢れていた。


 特に目を引いたのは、「キッチンひまわり」の看板メニューである、オムライスのレシピ。


 シンプルな材料と、手順一つ一つに対する丁寧な説明。早香はそのページを穴が開くほどジッと見つめ、無意識に指で文字をなぞる。



「オムライスのレシピ」


 ⭐︎材料⭐︎

 玉ねぎ:1/2個(みじん切り!)

 鶏肉:100g(小さめの一口大!お子さんも食べれるように!)

 ご飯:1杯分

 ケチャップ:大さじ3

 塩・こしょう:少々

 バター:10g

 卵:2個

 サラダ油:適量


 ⭐︎作り方⭐︎

 1. フライパンにバターを熱し、玉ねぎが透明になるまで炒める。


 2. 鶏肉を加え、火が通るまで炒める。


 3. ケチャップ、塩、こしょうで味を整え、火を弱火で入れた後、ご飯を入れて炒める。


 4. 別のフライパンにサラダ油を熱し、卵を溶いて流し入れる。


 5. 薄く広げた卵の中央にケチャップライスをのせ、包むように形を整える。


 6. 皿に移し、お好みでケチャップをかけて完成(美味しくなるように魔法をかけて!)



 母のオムライスは、ただの料理ではない。子供の頃、熱が出て食欲が無かった日、学校で失敗して落ち込んだ日、いつも母はこのオムライスを作る。


 それは、愛そのものだった。今、その味を再現できるかと思うと、自分の手が僅かに震えるのが見て分かる。


 早香はレシピノートを閉じ、そっと厨房を見回した。長い間、母がここで過ごした日々が、じんわりと浸透しんとうしているように思う。


 この場所でずっと続けてきた「家族の味」、その重みがいま、早香の心に深くのしかかる。



「私に、この味が守れるだろうか…?」



 内から溢れた不安が返って現実の脆さを浮かび上がらせた。そして懐かしさと微かな決意が交じる感情も湧き上がる。


 母が帰ってくるまで、この場所で守り続けなければならない温もりがあるのだと、早香は初めてそこで気づいた。

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オムライスの魔法 翡翠 @hisui_may5

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