ポップコーン

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ポップコーン


 薄手の黒いハイネックとデニムパンツ、マウンテンパーカーを細身の体に纏わせて、スートは帰路を足早に進んでいた。

 バイト先から駅まで歩いて地下鉄に乗り、一度降りてバスに乗り換える。他人の乗降を眺めながらそれなりの時間を車内で過ごし、到着したバス停で降りる。そこから暗い道を暫く歩けばやっと見えて来るアパートメントの群れ。どれもが上に高くて横に狭い。

 その中の一つがスート達の住まいだった。

 入口と道路を繋ぐ石造りの急な階段を上がる。その先には頑丈な扉が二つ取り付けられている。金属の部分には錆が浮いていて、動かす度にギイギイと鳴った。

 スートは一枚目の扉を開いて中へと入る。

 管理人室からの視線に居心地の悪さを覚えつつ、ポストスペースを覗けば幸いに人がいない。そのまま自身宛の郵便を確認して、二枚目の扉に鍵を使った。

 細い廊下を通って階段へ向かう。エレベーターもあるにはあるが、スートは少し恐いと感じている。他の住人もそうなのだろう。日中以外で動いている様子はない。

 耳を欹てながら折り返しの階段を登る。向かうフロアはそれなりに上階なので少しばかり息が切れる。

 目的の階に到達してから今度は部屋まで廊下を進む。途中に並ぶ扉の内側からは音楽や声が聞こえてくる。外側に出て来る様子はないし、人の姿も見えない。他の足音が重なる事もなかった。


 階段の真反対側、道路が見える窓の前。そこにある扉の前で足を止めて周囲を確認してから鍵を開けると、中へ滑り込む。

「おかえり」

「ただいま」

 ルカの寝惚けた様な声に返事をしてスートはホゥっと息を吐いた。



 カールした茶髪とそばかすの浮いた顔。オーバーサイズのカーディガンにダボっとしたパンツ姿。どちらも目に優しい色合いで、飾り気がないようだけれど拘りを強く感じるスタイル。

 性格は穏やかだけれど変わっている。少しだけオタクっぽくもある。


 ルカはルームシェア相手で友達だった。


 スートが将来を見据えて専門校に通うと決めた頃、通学圏内の家賃に辟易としながら『合理的解決』を求めて出会ったのがルカだった。

 共通点は少なかったものの、不思議と二人の気は合った。休日には一緒に買い物や食事をする程に。

 他の友人達がシェアを解消したり酷い目に遭ったと愚痴を零している事を考えれば、恵まれた出会いであったと言えるだろう。

 今日もバイトで普段より遅くなるスートにルカは夕食を取っておいてくれた。

「いつものデリで良かったんだよね?」

「そう、ありがと」

「これ位、別にいいよ」

「今日休憩取れなくてさ。そっちはもう食べた?」

「食べたよ、流石にこの時間だもん」

 ルカはわざわざ時計の方を指して肩を竦めた。

 部屋の窓から外を窺う事は出来ない。ここの窓は非常階段と隣のアパートが見えるばかりなので、開閉を邪魔しないデザインフィルムとカーテンで隠してしまっていた。

 深い森をイメージしたイラストと生地はどちらもルカが選んだ物だ。

 そのやや下に視線を向ければスートが選んだモノトーンのキャビネットがあり、ルカの観葉植物とスートの猫の置物が並んで飾られている。


 二人が引っ越してきた頃、この小さな部屋はもっと殺風景だった。それを少しずつ理想のインテリアへ変えていった。

 シンプルな所謂モダン、モノクロを好むスートとナチュラルやボタニカルといった傾向を好むルカでは時に意見が合わず、喧嘩をした事もあった。けれども最終的には左にスート、右にルカ、中央はお互いの好みが混ざり合う今の形に落ち着いた。



 スートがキッチンスペースで食事を温めながら、食卓とソファ選びで散々揉めた事を思い出していると、自分のスペースで本を読んでいた筈のルカが寄って来た。

「どうしたの?」

「これを見て」

 ルカが差し出してきたのはトウモロコシの粒が入った袋だ。

「映画見ようと思って買ってきたんだ」

「ポップコーン?」

「そうそう」

 レンジの動きが止まり、スートはフライパンに手を伸ばすルカを避けつつ器を中から取り出す。

「えっと、どうやるんだっけ?」

「膨らむから鍋の方が良いんじゃない?あとは油と……調味料?」

 ルカが言う通りに鍋と油を取り出したのを見て、スートは食卓の方へ移動する。

 所謂美容健康食をメインにした店のデリ。味が良い分金額も少し高めだけれども、スートは気に入っている。勿論学業と職業を掛け持つ身ではそう頻繁に使える訳がない。今日のように夜遅くなったり疲れた時のご褒美感覚でしか頼めない。

 けれどそう多くない機会をルカは覚えていてくれている。スートはそういう所でもルカを良い友人だと感じていた。


 スートが食事を進める間も、キッチンからはガサガサゴソゴソと物音がしていた。しかし肝心のポップコーンが跳ねる音は聞こえてこない。

「ねぇ、中々膨らまない」

「……何で?」

「さぁ?」

 スートがスプーンを置いてそちら側を振り返ると、ルカは火に乗せた鍋を細かく揺らしていた。

 料理はルカの方が得意な筈なのに時々こういう事をする。

「揺らしてるから熱が逃げてるんだよ」

「そういうもの?」

「そういうもの」

 スートがルカに手を止めるよう言うと、数十秒後には種の弾ける音がし始めた。

 蓋に当たり跳ね返っているのだろう、スートはそれを聞きながら食事を再開させる。と言ってももう残りは少ない。二、三口放り込んでしまえばお終いだ。

「凄い音」

「え?」

「音が凄いって」

「そうだね。これ蓋開けたら凄い事になりそう」

「なるよ、確実に。ルカ、そこにお湯ある?」

「コーヒー?」

「ううん、ハーブティ。飲む?」

「欲しいかも」

 スートは立ち上がって鞄の方へ行き、中からパッケージを取り出した。

「流石に忙しかったからって、店長がくれた」

「いい人だね」

「そう?予約なしでいきなり来た団体にオッケー出すんだよ?」

「うわ、それは大変」

「もう辛い辛い」

 そんな会話をする間もポップコーンは弾け続けている。けれどもその頻度は少しずつ落ち始めていた。

 スートは食べ終わって出たゴミとハーブティのパッケージを持ち、キッチンスペースへと戻る。

 ゴミを処分してから手を洗い、棚からマグカップを二つ取り出す。電気ポットには半分位のお湯が入っていた。

 マグカップを軽く温め、ティーバッグをそれぞれに入れる。それからお湯を注いで蓋をする。

 ポットは丁度空になった。

 スートの近くではルカが鍋を見つめている。

「音止まったみたい」

「開けるの?」

「うん、火も消したし」

 蓋をゆっくり開くと鍋から僅かな湯気が出る。それから香ばしい匂いが広がった。

 白い塊が鍋を一杯にしている。

「思ったより出来たかも」

「作り過ぎ?」

「まぁ、食べるよ。余ったらチョコバーにする」

「それ良い」

 スートはルカがポップコーンを器へ移すのを横目に見ながらティーバッグを引き上げ、マグカップを二つ手に持った。

「出来たから先に向こう行ってる」

「有難う」

 マグカップからは淡く甘い匂いが漂っている。ポップコーンの傍では気付かなかった。リラックス効果がありそうだ、とスートは思いながら片方のマグカップを机に置き、ソファに座ってから自分用のそれへと口を付けた。

「お待たせ、暗くするよ?」

 ルカが部屋の大きな灯りのスイッチを消した。テーブルランプを頼りにタブレットを手に取る。

「何を見るの?」

「ホラー」

「こんな時間から?」

「こんな時間だからこそだよ」

 スートからタブレットを受け取ったルカがそれを操作して定位置に置くと、映像が流れ始めた。

 何気ない日常から始まり、それが少しずつ変化していく。

 スートはスプラッタ系だったらどうしよう、と密かに心配していたが今の所激しい描写は見られない。

 どことなく古さを感じる服装と演出。主人公の顔に見覚えがある気がするのだけれど誰だか分からない。

「ねぇ、この人ってさ」

 スートが声をかけてもルカの返事はない。映画の世界へ没入してしまっているのだろう。

 ポップコーンがルカの口の中に次から次へと消えていく。時々聞こえるパリッという音。

「……」

 スートはルカの前へ手を伸ばし、ポップコーンを一つ取った。健康や美容に気を遣っていてもやはりこの魅力には逆らえない。

 いよいよ物語は盛り上がり始める。怪異に翻弄され逃げ惑う登場人物達。スートもまた映画の中へ引き込まれていく。

「わっ」

 突然大きな音が鳴り、ルカが小さく悲鳴を上げた。

 片手に握っていたらしいポップコーンが零れ落ちる。

「ああ……」

 室内に散らばるポップコーン。ルカがキョロキョロしながら体を曲げてそれを拾い始める。タブレットの光でルカの動く陰が壁に大きく映された。

 怪獣の様になってしまったルカの姿にスートはすっかり気を散らされてしまったけれど、暗い中でせっせとポップコーンを拾い集めるルカを責めたいとは思えなかった。


「後で良いよ」

 膝の上に着地していた一粒を指で弾いて頭上に放り投げる。

 パクリ。

 口の中に飛び込んだそれは、普通に摘まんだそれよりも少しだけ塩味が強かった。

「やっちゃったなぁ。スート、歩く時は足元に気を付けて」

「そうだね」

 タブレットから衝撃音と悲鳴が聞こえる。

 二人の離れてしまった意識が再びそちらに引き寄せられた。いよいよクライマックスが近いのだろう。グロテスクなシーンにスートは思わず顔を顰める。ルカを横目で見れば顔を手で覆っていた。

 残る登場人物達は数少なく、皆極限状態だ。

 我を忘れ、獣の様な荒々しさで直面する恐怖に打ち勝とうとしている。

 しかし怪異の存在はあまりに強大で、ちっぽけな人間である彼等だけでは何を成し遂げる事も出来ない。

 絶望による諦念が広がっていく。バッドエンドが見える。スートは少しばかり残念な気分でマグカップに口を付けた。僅かに残ったハーブティはすっかり冷めてしまっている。


 しかし一人の僅かな行動が切欠となって運命が劇的に変わった。

 彼等に奇跡が降り注ぐ。顔から手を外したルカが思わずと言った歓声を上げ、スートもマグカップを置いて画面に見入る。

 BGMから不快な音が外れて、明るいものになっていく。

 救われた。逃れた。

 それぞれが信じる何かに向けて感謝の言葉を呟き安堵の表情を浮かべる。エンドロールと後日譚。

 戻りつつある日常の兆しを見ながらルカは両手を上に伸ばして欠伸を零す。スートがタブレットを操作しようとソファから腰を浮かした所で、急に画面が暗くなり不吉なBGMと共に始まりの場所が写された。

 スートが再び腰を下ろせば、終幕。画面が勝手に切り替わる。

「……えっ?」

「終わったぁ」

「あ、合ってるよね?」

「そうそう。今ので終わり。スートはどうだった?これ」

「うん。怖さは大丈夫だったけど血がちょっと」

「確かに。思ってたよりきつかったかも」

「それにしてもこのエンディングって後味悪いし中途半端じゃない?」

「続編があるからかな」

「続編にするには正体がバレ過ぎてる気もするけど。どんな内容?」

「配信されてると思う……見る?」

 ルカが更に欠伸をしながら、スートの代わりにタブレットを手に取った。


 時計の針は進みに進んで、随分な時間となっていた。

 それでも二人は映画の話を続ける。明日は休日、予定は全て繰り下げてしまって構わない。


 何よりポップコーンはまだまだあるのだ。

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