1話 昇進

 季節は秋。肌寒くなってきた空気にすれ違う人々が一様に帰路を急ぐなか、大石 知依(おおいし ちより)は、夕方の駅前特有の人混みを押し退けて駆け出しそうになるのを堪えながら、職場からの帰り道を歩いていた。

 昇進、昇進だ。ついに。

 スキップを堪えて人の波をかき分け、足早に駅を目指す。広い駅前にはクリスマスの飾り付けが早くもされており、知依の浮かれた気持ちにはぴったりだ。

 知依はレストランの厨房で働く調理師だ。ずっと夢だった一流ホテルに就職が決まって早三年、退勤時、急に上司に呼び出された知依は、あるチームのメンバーをまとめるリーダー役にならないかと声をかけられた。つまり、早い話が昇進だ。ただただ指示を受け作業をするだけの立場から(もちろんそれも重要な仕事であると理解はしているが)多少ではあるが人に指示を出す側に指名されたのだ。

 知依が同期の中で一番早くに昇進が決まったのは、努力を怠らなかったからに他ならない。就職をしてからここしばらくは、休日や人付き合いもそれなりに犠牲にしてきた。

 知依の夢は、今働いているホテルのレストランにおいて総料理長の立場になることだ。

 千里の道も一歩から。昇進といっても、非常に多くの調理師を抱えるレストランにおいて、一番の下っ端からようやく何人かの新人をまとめる立場になっただけではあるが、今回の昇進は、知依にとって、夢に近づいた大切な一歩目だ。だからこそ、疲れ切った体など忘れてしまうほどに、浮かれているのだった。

(明日は休みだし、お祝いってことで、せっかくだから今日は帰りにケーキでも買っちゃおうかな……まだ空いてるケーキ屋さんあるかな)

 駅前のクリスマスツリーを見上げる。クリスマスのレストランは繁忙期で仕事を休むことなどできない。もとより夢を叶えるために休む気などないが、少し早めのクリスマスということでもいいかもしれない、と、知依はケーキを買うための理由を次々に思い浮かべながら、賑やかに盛り上がる駅の商業施設へ足を向けた。

 時間帯のせいもあってか、駅に向かう大きな通りはたくさんの車が通っている。通りを交差する横断歩道で信号が青に変わるのを待ちながら、知依はスマホの壁紙を眺めた。スマホには、早速昇進を報告していた家族や友人から、知依を祝うメッセージの通知がいくつか届いており、それらの一つ一つに軽く目を通しながら周囲の会話になんとなく耳を傾ける。

「ねえ、今日さ、ケーキ買って帰ろうよ」

「ケーキ? 今日? クリスマスはまだだけど」

「だってクリスマス平日だろ、せっかく今日二人とも授業休みだしさ」

 人混みから聞こえてくる会話も、心なしか楽しげな会話ばかりだ。普段は大嫌いな駅前の混雑や喧騒も、今日はなんだか楽しげに聞こえるようだ。

(学生かなあ、なんか懐かしいな)

 知依が通っていた専門学校では、クリスマスが近づくころに仲のよい良い友人たちとよく料理の試作と称してパーティ向きの料理を作って持ち寄り、大騒ぎをしたりしていた。知依はその頃すでにもう夢を叶えるための道を歩き出しており、本格的なメニューに挑戦をしたりしたものだった。オリジナルのレシピなどといって、どこかで聞いたことのあるような内容の料理を作ったりしたのも、少し気恥ずかしいような気もするが、その頃から夢に向かってひたむきに努力していた大切な思い出だ。

(みんな元気かな、久しぶりに声でもかけてまたパーティしたいな……)

 あの時の、二番煎じのようなオリジナルレシピだって、今ならなんだか、もっと良い内容のものを作れる気がする。時期だってぴったりだ。知依の普段仕事で作るものは決してメインのものではなく、添え物だったり、そもそも下拵えのいち工程を担っているだけだったりもするが、妄想の中ではもう、知依の新しく考案したメニューを、美味しそうに、幸せそうに頬張る友人たちの顔が次々に浮かんで行っていた。

 信号を待ちながらお祝いのメッセージに一つ一つお礼の連絡を返しながら、友人たちにも誘いのメッセージを送る。友人たちもみんな、この繁忙期を忙しく過ごしているはずだ。クリスマスの時期を少し外して、なんなら、年始でもいいかもしれない。

「いてっ!おいっ、なんだよ……あっ、お姉さん!」

「危ない!」

 メッセージアプリを開き、次に連絡するつもりの友人の連絡先を探していた知依の背中に突然、どん、と衝撃が走った。

「えっ」

 急に傾く視界に、赤いままの信号がチラリと映った。崩れていく体勢を戻せないままに無理矢理背後を振り返ると、こちらに腕を伸ばす二人の学生くらいの男の子と、その足元に、ボロボロの服を纏った人が跪くようにうずくまっているのが目に入り、ああ、今、この人にぶつかられたのか、と頭の中の妙に冷静な部分が納得する。

 友人に向けたメッセージを打ち込んでいる途中のスマホが手から遠く飛び出して行く。膝と手のひらに鈍い痛みが走り、顔を上げると知依は、広い道路の端に飛び出す形で転がり出ていた。

 道路、痛い、スマホが、危ない、どうしよう、クリスマスは、車が来る。

 突然のことに、一体何が起こっているのか、わかって居るはずなのに抜け切らない混乱に重なるように恐怖が襲い、体が硬直する。すぐ近くに大きなトラックのライトと、悲鳴のようなクラクションが鳴り響いた。

 さっきまですぐ近くで聞こえてきていた楽しげなざわめきがどこか遠く聞こえる。

「あ……」

 悲鳴をあげる間も無く知依の視界はブラックアウトし、トラックの無理矢理なブレーキの音だけが知依の耳の奥に響いた。

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料理と百合と異世界転生 たちゃん @gkbr_3

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