言の葉の輪郭

藍玉カトルセ

第1話(完結)

 頭の中に浮かんだ言の葉は、やがて煙みたいに宙に溶けていく。音声という衣を着ることのないまま、口を開いたと同時に逃げていく。文字というお化粧を施されることのないまま、手先はずっと止まったまま。

 書きかけの日記、〇〇さんに宛てた手紙、文章投稿サイトの呟き、エトセトラ。電話越しの声色に合わせた応答、メッセージアプリの返信、独りで眺めるテレビの中のコメンテーターの評価へのツッコミ、エトセトラ、エトセトラ。


 昔から。ずっと前から、そうだった。

 私は言葉を具現化することを恐れている。


 たった5秒分の言葉の応答が相手にどう影響するか分からない。

 知らぬ間に傷つけてしまったら?意図したことがその通りに伝わらず、誤解を生む可能性だってあるでしょう?それなら、口をつぐんでいた方がまだマシなのではないか。自分も相手も傷つかない。ただ頷き、微笑を浮かべてさえいれば口論は起きない。…その代わり、ナメクジみたいなスピードでじんわりと私の心が無色透明になるけれど。


■■■


 「うーん、おかしいね。この数値は。言葉メーターと心メーターは普通、均衡の値を保つものなんだけれど…」

私のもってきた白い立方型の箱を天秤にかけた長髭のおじさんは、何度もモニターが示す2つのデータを見比べている。

「君、名前は?」

おじさんは、ガタガタとモニターやスイッチを動かしながら訊いた。

「…モニカ」

消え入るような声で答えた。でもそれは、おじさんには届かなかったようで、「え?なんだって?すまんが、もう一度言ってくれ」と促されてしまった。

「モニカ!」

語気を強めて発音したら、なんだかぎこちないイントネーションになってしまった。やっぱり、大きい声で何かを言うことってかなり大変なんだな。私にとって。

「あぁ、モニカ、ね。分かった。悪いけど、君の名前はこのリストに書き留めさせてもらうよ」

長い巻物みたいなリストに、サラサラと流れるように私の名は記されていった。

「…はい」

消え入るような応答は、たぶん、おじさんには聞こえていないはず。


■■■


「オノマトペの境界地」ってなんて無機質な場所なんだろう。天秤とモニターとその二つが鎮座する階段しかない。あ、あと長髭のおじさんもいるけど。

 今、私は生まれ育った町を出て、ちょっぴりヘンテコな所に来ている。事の発端は「言の葉の祭事」の開催。故郷では毎年、この祭事が行われ、住民たちの心の健康状態をお互いに監視している。

 町民たちは生まれたときから皆、色々な言語でコミュニケーションを取っている。あるときはコトコト語、別のときにはむにゃむにゃ語、翌日にはパリパリ語という風に。何故だかは分からないけれど、私を含め全員が統一されていない種々の言語を発話、聞き取ることができる。不思議に思うかもしれないけれど、これが私たちの「普通」なんだ。

 でも、一つ問題がある。発する言葉によって性格や態度がガラリと変わる人が出てきたり、特定の言語を全く話さない人がいたりする。そうなると、心の健康状態にも影響が出てきてしまう。例えば、カサカサ語ばかりを話すときはおっとりしているから状態は良好だけど、キラキラ語が口から出てきた途端、性格が豹変して度々相手と口論になる、とか。あとは、言語にかかわらず、極限まで発話頻度が減少することによって、心に不調がもたらされることもある。まるで、今の私のように。


■■■


「ねぇ、あの箱を見てよ」

「うわぁ…真っ白だ。あんな色、初めて見たよ」

「ちょっと、写真撮ろうかな。めっちゃレアじゃん!」

「や、やめなよ…不謹慎だよ…」

 箱をもつ手が震える。周囲からの好奇の視線は他でもない、私の心の状態を表すこの箱1つに注がれている。噂話がお風呂場のカビのように耳にこびりついて離れない。

 たった1つしかない、私だけの箱。壊れないと分かっていても、地面に叩きつけて破壊したくなる。そんな衝動をどうにか抑え、歩を進めた。

 もう、嫌だ。何も、聞きたくない。何も、見たくない。


 言の葉の祭事では、町民全員に与えられる「言の葉の箱」を虹色の絵の具で満たされている水槽に入れる。ちなみに水槽は町の中央広場にある。そうすると、最初は虹色だった絵の具がピンクとか紫、水色などの単色、あるいは赤とオレンジのグラデーションといった具合に色づいていく。染色が終わった言の葉の箱は水槽から浮き、持ち主の元に返される。そして、単色やグラデーションに染まった言の葉の箱は持ち主にとってのアイデンティティーになる。『今年1年、αさんはフワフワ語とカクカク語、ツルツル語をそれぞれ1対1対2の割合で発話しました』という具合に。

 言の葉の箱は普段、見えないどこかに隠されている。言の葉の祭事当日になると、寝室の窓辺に灰色の状態で置かれている。最初は皆、一緒。統一された灰色。だから、比較しようがない。

 だけど、虹色絵の具の水槽に入れると途端に周囲の見る目が変わってしまう。ある人は、トキトキ語を沢山話し過ぎたから紺色。もっと他の言語もバランスよく話そうね。そうじゃないと、ストレスフルな毎日を過ごす羽目になるよ。それに対して、この人は黄色と緑と黄緑がバランスよく色づいているね!発話言語の割合も、チクチク語とスヤスヤ語、パタパタ語がそれぞれ33パーセントずつ。心の健康状態も絶好調!!


 それに比べて、私はどうだろう。虹色絵の具の水槽から出てきた箱の色は、真っ白だった。何色にも染まっていない、純白。言の葉の祭事を取り仕きる係人は困惑していた。周囲の人たちもザワついて、ヒソヒソと耳打ちをしている。

「これは珍しいな…。色が示されていないから、君の発話言語割合やパーソナリティー、心の健康状態を計測できないよ」

白い言の葉の箱をまじまじと眺め、上下を何度も逆さにしながら係人は呟いた。

 だんだんと頬が紅潮していくのが分かった。鏡はもちろん、覗き込めないけれど。絶対にゆでだこのように顔が真っ赤になっていくのが感覚的に理解できた。

私は無意識のうちに乱雑に係人から言の葉の箱をひったくった。そして、脇目も振らずに「あの場所」に向かった。


■■■


 「え?真っ白だったのかい?」

「うん…。ちゃんと他の人はヴァイオレットやマゼンタ、シアンとかに染まっていたのに。私だけ、ま…真っ白だった」

洞窟に入るなり、私は涙をポタポタ零しながらおばあちゃんに事のあらましを聞かせた。おばあちゃんと私には血の繋がりはないけど、大親友みたいに仲良しだ。

「不思議だねぇ…。何か、心当たりはあるかい?言の葉の箱が真っ白になる理由について」

首を傾げながら、おばあちゃんは尋ねた。全く心当たりなんて、ない。…ううん、本当はありすぎるくらい、ある。言の葉の箱に色が染まらない理由が。でも、誰にも言うことはできない。もし打ち明けたら、きっと馬鹿にされるに決まってるから。

私は、悟られないように、すぐに首を横に振った。でも、おばあちゃんは一瞬の「間」を見逃さなかった。

「いや、何かあるね。モニカ、あんたは本当は分かっているんだろう?言語発話率も心の健康状態もパーソナリティーさえも計測できない「何か」が自分の中にあることを」

「……。」

図星を突かれてしまったけど、素直に頷くことはできなかった。そんな私を見て、微笑を浮かべたおばあちゃん。

「やれやれ。じゃあね、とっておきの秘密の場所を教えてあげるとしよう」

「秘密の場所?」

おばあちゃんはよっこらせ、と腰を上げて箪笥の方に近づいて行った。引き出しの中から古ぼけた切符を取り出して、私の右手にしっかり握らせてくれた。

「これはね。オノマトペの境界地行きの切符だよ。そこには、言の葉の全てを司る番人がいる。そこでは、モニカのような言の葉の箱に色が付かない持ち主に助言を与えてくれるんだ。もしかしたら、何かヒントをもらえるかもしれないよ」

「オノマトペの…境界地」

そこに行けば、もしかしたら私が抱えている「問題」も解決されるかもしれない。行ってみよう。

「そこには、どうやって行くの?」

「天の川の夜汽車に乗っていくんだよ」


■■■


 その日は天の川が良く見える美しい夜空だった。暗闇に砂糖をこぼしたような、点々と散らばる天の川。町を一望できる裏山まで来た私は、頂上まで登った。そこに、木でできた手作りのちっちゃな看板が立っていた。かすれた文字で「天の川の夜汽車 乗り場」と書かれている。目を細めないと見えない程、明瞭な字ではなかった。


 おばあちゃんからもらったオノマトペの境界地行きの切符を握りしめた私は何だか心許ない気持ちでいっぱいだった。本当に来て良かったのだろうか。やっぱり、帰った方が…。そうやって逡巡しているうちに、ボッボー!という汽笛の音が近づいてきた。


 天の川の夜汽車はちょうど私の目の前で止まった。停車時にゴトッと少し揺れながら。乗降扉が開き、中から車掌と思わしき人が出てきた。でも、身体が透けて幽霊みたいにだから、「人」と形容して良いのか分からない。背は私より15cm程高く見える。

「オノマトペの境界地行きぃ~。オノマトペの境界地行きぃ~。お客さん、一人ですか」

「は、はい」

「言の葉の箱はお持ちですか?」

私は両手で持った風呂敷を見せた。見事な程の美しい立方体がすっぽり収まった風呂敷を。

「あぁ、それね。中に入ってるのね。じゃ、ご乗車ください」

おずおずと中に入ると、車内は人っ子一人いなかった。乗客は私だけ。


 一両目の一番端の広々とした席にちょこんと腰かけた。

「それでは、出発ぅ~!!」

金色のホイッスルをけたたましく鳴らしたと同時に乗降扉が勢いよく閉まり、天の川の夜汽車はオノマトペの境界地を目指して出発した。


■■■


 こうして私は今、オノマトペの境界地に辿り着き、長髭のおじさん(本当は言の葉を司る番人らしいけど)に言の葉の箱を見てもらっている。オノマトペの境界地は、すごく簡素な場所だった。天の川の夜汽車の乗降口の場所から真っ白な階段がずっと続いている。終点の場所には、大きな天秤が鎮座している。天秤には、三つのお皿が付いている。真ん中の一番大きいお皿は灰色、その左右に位置するお皿はそれぞれ白色と黒色だった。あとは、何やら複雑そうな機械やモニターも置いてある。私の言の葉の箱は真ん中の灰色のお皿に鎮座している。

「モニカ、っていったかな。君は、家では普段どれ位話すの?」

ふいに長髭のおじさんが聞いてきた。

「…全然、話さない。お父さんとお母さんも心配している。あまりにも私の発話量が少なすぎるから」

「うん。そうだろうね。言語パーソナリティーや発話頻度、発話言語割合の値が著しく低い」

「……」

「そうなってしまったきっかけとか、トラウマ、ネガティブな記憶があるのかい?」

口を開いて、話そうとしたけどやっぱり何かが喉につっかえたように上手く発話できない。何か、言わないと。でも…こんなこと言ったって…きっと、馬鹿にされ…

「ここにはね、誰もいない。モニカと私しかいない。君が何を言おうと絶対に否定しないし、責めたりもしないよ。だから、安心して」

そう言ってニッコリ笑いながら、私の両手を握ってくれた。長髭のおじさんの目尻にできた皺や口元のえくぼを見るとなんだかホッとする。

「自分の中に泉みたいに湧き上がってきた感情を言語化するのが、怖いの。感情だけじゃなく、意見とか感想も伝えるのが、ただ、ただ、恐ろしい」

「それはどうしてかな?」

「発した言葉がどう相手に解釈されるか分からない。誤解を生んで、不和が生まれるかもしれない。それに、一度口から出た言葉は絶対に取り消すことができない。その一言が相手を元気づけようが落ち込ませようが、『あ、今言った言葉はナシね。聞かなかったことにして』って訂正することは不可能なの。……だから、誰かを否定したり、傷つけたりするような言葉を知らず知らずのうちに放出しているのだとしたら、押し黙っていた方がマシだと思うの」

頷きながら耳を傾けてくれた長髭のおじさんは、考え込むような表情を浮かべた後、こう言った。

「でも、それだと君の心が無色透明、無味乾燥になってしまうよ。じんわりじんわり、ストレスが溜まることになる。事実、君の言葉メーターと心メーターは均衡を保っていない。言葉をあまりにも放出しないせいで、心メーターがパンク状態だよ。このままだと、健康状態がさらに悪化してしまう」

「……どうすれば良いの?」

すると長髭のおじさんは、掴んでいた杖をくるくると回し始めた。

「両手を並べて」

言われたとおりにすると、私の手はモクモクとした煙に包まれていった。そしてその煙が完全に見えなくなったと同時に、ずっしりとした重さを感じた。

「あ……」

それは、分厚い日記帳と透明な万年筆だった。革製の表紙には「秘密の日記」とサラサラ語で書かれていた。私は不思議な気持ちだった。何故、言語パーソナリティーが計測できなかったのに特定の言語で表題が付けられているんだろう。

「どうして、サラサラ語でタイトルが書かれているの?」

思い切って聞いてみた。

「もう、君は分かっているんじゃないかね。さっき、君が淀みなく多量の言語を話したとき、それらはサラサラ語だった。きっと、その言語は君の言語パーソナリティーになる。日記にはどんなことを書いても良いんだ。その万年筆は特殊なインクが詰まっていて、君以外の人は文字を読むことができないからね。安心して良いんだよ」

「………ありがとう」

凄く小さな声になってしまったけど、サラサラ語でお礼を伝えた。両手でしっかりと胸に抱えた日記帳はずっしりと重たかったけど、なんだか心地よい重さだった。長髭のおじさんは、相も変わらず、人懐っこい笑みを浮かべていた。


■■■


 それから間もなくして、天の川の夜汽車が階段付近の乗降口までやって来た。ホイッスルの音がけたたましく鳴ると同時に汽車の乗降扉が開いて、私は勢いよく飛び乗った。

 窓際に走り寄り、長髭のおじさんに手を振った。フカフカのソファ席にはオノマトペの境界地行きの切符と言の葉の箱、そして、分厚い日記帳と透明な万年筆。

 「それでは、出発ぅ~!」

再び鳴らされたホイッスルは、さっきよりもなんだか明るい音色に聞こえたような気がする。


■■■


 ガタゴト揺れる夜汽車の中で、私は透明な万年筆を手に取り、秘密の日記を開いた。そして、こう綴った。


頭の中に浮かんだ言の葉は、やがて煙みたいに宙に溶けていく。

音声という衣を着ることのないまま、口を開いたと同時に逃げていく。

文字というお化粧を施されることのないまま、手先はずっと止まったまま。


昔から。ずっと前から、そうだった。

私は言葉を具現化することを恐れている。


それでも私は、言の葉を紡ぎ続けなきゃいけない。

いつか 放った一つの言の葉は誰かにとって光の種になるかもしれない。

希望を生むかもしれない。

夢を後押しするかもしれない。


言の葉の輪郭は曖昧で ぼやけていて 儚いけれど。

それらを愛でたい、 と願っている。


 久しぶりに長い文章を書いたから、手先がジンと痺れた。でも、心地良い感覚だった。今はまだ、上手くその感覚を言語化できないけれど。


 窓の外に目を向けると、町の明かりが見えてきた。なんだか、長いようで短い旅だった。


 乗降口付近に止まった天の川の夜汽車から降りた私は、裏山を下ってゆっくりと家路についた。足取りが行きの道より軽く感じるのは気のせいではないはず。


 この日記帳を見た両親は不思議がるだろう。文字が一文字も書かれていないページ。私だけの言の葉を紡ぐことができる唯一の安全地帯。この日記のページがどれ程の時間をかけて、どんな言葉で埋め尽くされるかは分からない。だけど、一つ一つの言葉たちが私の心に明かりを灯してくれるだろう。そうしたら今度は、私が誰かにとっての希望となる言葉を吐き出していこう。


 言の葉の輪郭は曖昧で、ぼやけていて、儚い。だからこそ、それらの不確かさに美しさを見出したくなるのだろう。この世界に住む、私たちは。


ー6492字ー

ー終ー


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