第23話 エピローグ

 クナウが身籠ったらしいとカイが慌てて知らせに来たのである。

「まぁ嬉しい、良かったわねカイ、ポイソンピリカ(赤ちゃんいいね)」

 アベナンカは妹の懐妊を我がことのように喜んで、そう祝いの言葉を述べたものだった。

「あなたはオキクルミの傍で色々佐てあげてね。赤ちゃんは心配しないで大丈夫だから」


 カイはコタンの中でも酋長のムカルに次ぐ戦士であったが、和人武田九郎信行(オキクルミタケダ)の補佐としても仕え、蝦夷地の実態調査に役立ったのである。

 その他のコタンでは松前家との不公平な交易によって次第に不利な立場に追い込まれて行ったが、ムカルコタンは武田九郎のお陰で理不尽な取引を強いられることは無かった。

だがそれは公儀の役人武田九郎としてコタンに住し存在していた限りのことであった。


 松前家の蝦夷地えぞち経営は軈て商場制から場所請負制へと移行して、更には商人主体に代わると、アイヌ民族の多くは交易ではなく、労働者として使われるようになったのである。

 そんな中、國後島などの漁場を請け負っていた飛騨屋久兵衛がアイヌに低賃金で長時間労働を強いて、酋長夫妻の不自然死などもあった為クナシリ・目梨メナシのアイヌが蜂起し、和人七十人程が殺害されたのだが、直ちに松前より二百三十人程が派遣され、中立のアイヌの説得を以て投降させ鎮圧したのだった。

 このような紛争が諸外國、特にロシアの介入を許すことになるので、公儀は蝦夷地監視の武田九郎信行亡き後は、奉行所準備分所も拱手傍観で何もできなかった為、東部に隠密を送り込むなどして警戒したが、ニムオロ(根室)にロシアのラスクマンが来航して、通商を求めて来たのである。

公儀が危惧していたことであった。

 クナシリ・メナシの乱から十年後、東蝦夷地が公儀御料(直轄領)となって公儀の役人立ち合いによる交易となって不正を防止した。

 この後蝦夷地全域が直轄地となった。

武田九郎信行が江戸に赴いた際『蝦夷地を直轄領とすべし』の提言が百三十四年後に漸く実現したのであった。

                 

 この頃にも当然のことながら樹林に囲まれたムカルコタンは存在していたに違いないが、当然のことながら住民も二、三世代と代わって、オキクルミやアベナンカを知るものは居なくなっていたに違いない。

 和人オキクルミタケダの子供であるレンカイネの子孫やカイ・クナウの子孫が現代に存在して居たとしても、ポロフーレペツ(豊似川)の流れの途中の森林の中に在ったコタンや、その先の樹林の中のランコの木の下に咲かせたロマンスを、知る者はもう何処にも居なかったのである。

                           完






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ランコの下で咲いた花 夢乃みつる @noboru0805

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