第22話 思い出の場所に

 オキクルミは久しぶりに休みを取ってのんびりと過ごして居た。

「ねえねえあそこに行ってみない」

 アベナンカが謎かけ的に誘った。

「あそこって何処?」

 態と恍けて見せると、

「鈍いんだから、ほらあそこよ」

 じれったいというように躰を振って見せるのだが、オキクルミは分らない振りをするのだった。

「そうやって何時も意地悪するんだから…だからウエナンペ(悪い人)なの」

 オキクルミは笑うだけだったが、アベナンカの手を取るとその腕を脇の下に引いてまるで若い恋人同士のように裏の樹林に入って行った。

 その辺りの樹木の幹回りは総じて太かったが、特にそのランコは四尺を超えるほど太かったのである。

 枯葉がまるで敷物のように、辺り一面を覆っていた。

「いい匂いだわ」

 枯葉を手にすると更に甘い香りがして鼻腔びこうくすぐった。

「覚えている?」

 と言ってアベナンカは懐から小さく折った布を取り出した。

拡げて見るとまだ若葉の様な色を残してランコの葉が出てきた。

あれから十年近く経って居たのだが、大地の上に敷かれたランコの香る葉っぱの上に座って語り合った。

「ねえ知っているかな、このランコの葉のような形をした大きな沼がエンルム(襟裳えりも)にあることを…」

「何て言うんだね」

「父から聞いた話だとカムイトウ(神の沼)と言うらしいの。和人は豊似湖(ポロフーレアトゥイ)というらしいけど良く判らないわ。近くには豊似岳という山もあるのよ」

「う~ん、同じ名前の山か」

 メナシクルアイヌの領域内だから、エンルム(襟裳)辺りから肥沃な土地を求めて移動した部族もあったに違いない。


 サモロモシリ(本州)に於いても、白浜や勝浦とか三条に加茂などのように、一部の民の移動でも故郷の地名を入植地に付けるということはあるので、近くへの移動であっても、故郷を偲ぶように移住先にも付けたのかも知れなかった。

 豊似の場合は違うかも知れないが、そんな解釈が出来なくもなかったのである。

「ねえノブユキ、行ってみない」

「カムイトウ(神の沼)にか」

「そうよ見てみたいわ」

 アベナンカが珍しくお強請ねだりしたのだ。

「ならばカイ達も誘ってみよう」


 アベナンカは何時か来た時に吹いて見せたヘラのような紐の付いた竹を取り出すと口にあてがって、右手人差し指と中指で挟んだ長い紐を前にはじくように繰り出した。

『ブンブンビュンビュン』

 と音が鳴って旋律らしい音に代わったのである。

「此れはあなたへの思いを鳴らしているのよ」

 暫く黙って聴いて居たオキクルミは、その演奏が終わった所で教えを乞うた。

前回は行き成り真似したもので、音が出なかった。

 先ずはムックル(口琴・一般的にはムックリという)の持ち方から教わり、右手の紐の扱い方に空気の送り出しなど中々音が出せなかった。

 アベナンカはそれを楽しむように見ていた。すると微かだがブ~ンと鳴ったのである。

「鳴った鳴った」とオキクルミは子供のように喜んだのである。

 まるで子供であった。

「ブンブンビンビンビュンビュン」てな具合に音は出るのだが、アベナンカへのお返しになるような音律にはならなかった。

「結構難しいな。折角だから此れで囁こうとしたが出来なかったよ。だから…」

 オキクルミはランコに凭れているアベナンカに被さるように口付けすると、二人はランコの葉っぱの敷物の上に転がって気兼ねなく久しぶりに愉しんだのである。

子供が欲しいと思うのは当然だが、アベナンカが出来にくい体質と言われたようでスッカリ諦めて、エルを一層可愛がった。



 秋も深まる前にと、オキクルミはカイ夫婦を誘って、二家族五人と分所の部下でエンルム(襟裳)出身の出永ムライに道案内を頼んで、神秘な沼を見に出かけたのである。

 コタン所有のイタオマチプ(縫合船)で先ずはポロフーレペツに出て海へと下ったのである。

空は晴れて海も穏やかであった。

海岸線をポロロ(広尾)からエンルム(襟裳)に向かい、サルル(猿留)の川に入った。

 木の生い茂る岸にエンルムを接岸して隠すと、川に沿うように獣道を辿る。

まだ道らしき道の無い時代である。

地元の民が使う道を歩いて行った。

オキクルミはラヨチの墓参りの時ですら感心したものだったが、此処は全くの未開地であった。

 可なり上っている筈だが、レンカイネもクナウもアベナンカも平気で歩いて居た。

既に二里半ぐらいの道程は踏破しているに違いなかった。

オキクルミは竹筒に入れた湧き水を栓を抜いて飲んだ。

「美味い、ケラアン」

 隣りでレンカイネも真似して飲み、

「ケラアン」

 と言って栓をしたのだ。

「ミチの真似?」

 アベナンカが揶揄うように言うと、

「うぅ~ん、違うよハポ。シノケラアン(本当においしいよ)」

「そう」

 アベナンカはレンカイネが実の子のように自分に似てきたように思えてならなかった。

「大将もう直着きますよ」

 案内の出永ムライが前方の光る物を差して知らせたのだ。

 それはカムイトウ(神の沼)であった。

「着いたぞ」

 クナウと光の反射する所まで走って行ったカイが振り向いてそう叫んだ。

倒木を乗り越えて水辺に立った。

綺麗な水だった。

 何かが泳いでいたが良くは分からない。

見た感じではイコイチヤンコロチエプポ(ヤマメ)のようであった。

「さあ休みましょう」

 アベナンカとクナウが行器に入れた食べ物を出して敷物の上に広げたのである。

細かく刻んだユク(エゾ鹿)の肉や乾燥保存したサッカムヤ鮭とばのサッチェプを解して食べ、チポロラタシケプ(茹でた馬鈴薯に半煮えのイクラを潰して混ぜたもの)を取分けて食べた。

「大将あの辺りに登って見ましょうか。略全体が見える筈です」

「そうか、もう少し休んでから行こう」

 出永ムライの提案に賛同しながらも今少し休んで居たかったのだ。

 オキクルミは平地を歩くことには慣れていたが、山谷を歩くのはアイヌモシリに来て担当地区の巡回で体験しては居たが、今回は自分一人の調子ではなく、他の者達を気遣っての歩行であったので意外と疲れたのである。

「行こうか」

 オキクルミは自分に言い聞かせるように活を入れると立ち上がった。

「あそこに上がるとこの沼が見えるんだって」

 アベナンカはレンカイネの手を引いて、樹木に掴まりながら傾斜面を攀じ登って行く。

 カイはクナウを庇うように登っていた。

「ほらどうです、良く見えるでしょう」

 樹林が取り除かれたような空間があった。

そこからカムイトウ(神の沼)が略見渡せたのである。

「ほらノブユキ見て!」

 菜乃香が指さす先にその形はあった。

確かにランコの葉の形に似ていたのである。

「あれが心の形か」

「なぁにそれ」

 クナウが側で聞いて居たものだから“心の形”に反応したのだった。

「クナウはランコの木を知っているよね」

「知ってるわ。葉が枯れると甘い匂いがする木のことだよね」

「木と言うよりかは葉っぱのことなんだけど」

 アベナンカがそう言うと、

「ハポほら此れ」

 とレンカイネが離れた所からランコの葉を一枚拾って来て見せた。

「ハポ、あれと同じ」

 レンカイネは沼の形と同じであることを指摘したのである。

ハポやミチの話を聞いて居た訳ではない。

 ランコの落ち葉を見て木々の間から見える沼の形を見比べてのことだった。

「凄いなレンカイネ、良く判ったな」

 ミチが初めて誉めて呉れたのでレンカイネは喜んだ。

「お出でレンカイネ。いいあの沼の形もこの葉っぱの形も同じだよね。それは此処こころの形と同じなの」

「こころの形、フ~ン」

 未だ無理である。もう二、三年もすれば理解できる筈であった。

「ムライ、あの沼の大きさはどの位かな」

 見ている場所は然程高くはなかったが沼の全体が見えるので、十町も無いでしょ」

実際周囲は一キロメートル程しかなかった。


 こんな山奥にこのような神秘な沼が存在することすら極一部の人にしか知られていなかったのだ。

こうして二人だけの思い出とすべきものが、家族や一部の人にも刻まれたのであった。

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