第5話 クリスマスにはまだはやい
私のフラッシュバックは唐突にやってきて、黒板一杯の誹謗中傷が瞼の裏にちらつく。そうして音もなく私を責め立てる。私が生まれ持った「それ」について。教職を辞すことになった大本の理由について。
『ホモ野郎』
――すまない。耐えられない。それだけは。
――やめてくれ。
『真田先生って同性愛者だったんだってほんと?』
――もうやめてくれ。
クッキーはそうした私の機微を察する事に長けていて、散歩中にたち眩むように足を止めたりよろけたりすると、ピタリと脚を揃えて座る。おかげで私は倒れかける体をどうにか立て直すことができるのだ。
「ごめん、クッキー。ありがとう」
赤毛の
思いがけず立ち止まった花屋の隣には手芸用品店があり、このあたりはマシュマロもクッキーも好きな場所だ。良い匂いがするのか、それとも犬にしか感じ得ない何かいいことがあるのか、ここに来ると二匹ともしっぽをくるんと丸めて振る。
「お前たちはここが好きだなぁ」
つぶやくと、ちょうど差してきた陽光が積もった雪に反射して光った。三時はまだ明るく昼の気配を残している。これが二時間も経つともう夕暮れを通り越して夜になるのだから、秋田の冬は日が短い。
クッキーは尻尾を振りながら、毛糸や、布やキルト、ボタンや裁縫用品にあふれた店内を眺めている。
そのときだ。エコバッグに沢山の毛糸を買い込んだ老婦人が出てきて、クッキーをのぞき込んだ。
「おや。クッキーくんかな? 久しぶりだねえ、元気だった?」
「こんにちは」
こうした散歩中のやりとりも、私のリハビリの一つだった。人と会話することは、社会に復帰するための訓練になる。少なくともあの事件が私に植え付けた人間全体への不信を拭うためには、こうした地道な「運動」が不可欠だった。恋人は――彼は、長い目で見てくれている。捨てずにおいてくれるどころか、私との将来について本気で考えているらしい。
日給三千円の穀潰しなんて、私だったらまっぴらごめんだ。だが彼は、私の抱えている深刻な劣等感すら抱え上げてくれる。私は幸福ものだと思う。
「お兄さん、初めて見る顔だけど。前は「ひいらぎ」のご主人がお散歩していたから、クッキーくんと気づかなかったわ」
「ええ、数ヶ月前から、雇われて散歩をすることになりました」
老婦人は奇抜な柄のセーターを着ていた。うすい紫色の毛糸と濃い緑色の毛糸を組み合わせて編んだようなもので、外国のクリスマスセーターを彷彿とさせる。
「よかったわねえクッキーくん。遠くへも行けるし、お兄さん優しそうだから」
「いえ……」
私は口ごもり、小さく首を振った。
「どうでしょう。私は、自分が優しい人間だとは思いません」
「優しいわよ」
そう言って老婦人は目を細め、私の腕をそっと小突いた。びっくりした。
「クッキーくんはちゃんと見てるからね。ね?」
私はにわかに恥ずかしくなって、大人しくなでさすられているクッキーの後頭部を見詰めた。
「下の孫に新しいセーターと手袋とを編んであげようと思って。クリスマスに合わせてプレゼントするのよ……でもねえ、私のセンスって独特らしいの。上の孫にはあり得ないって言われてしまったのよねえ」
彼女が着ているセーターを一瞥し、たしかに、と言いかけたのを飲み込み、私は彼女のエコバッグの中身を見せてもらった。原色が多い。彼女の色彩センスは確かに上のお孫さんが言うとおり、少し変わっているのかもしれない。
「アクリルはあり得ないと上の孫に言われたから、ウールが混ざっているものを買ったのだけど」
「これでセーターと手袋分ですか」
「そう。下の孫が手袋の片方をなくしてしまったものだから、落ち込んで落ち込んで泣いてね、それでね、おばあちゃんがもう一回編んで上げますから泣かないでって、ようやくなだめたところなのよ」
クッキーの頭を撫でる老婦人の言葉を聞いていて、はっと私はポケットの中に手を突っ込んだ。そこには丸まって汚れた手袋がまだ入っていた。交番に届けることも、学区の小学校に問い合わせることもせずに一週間ほど持ち続けていたことになる。
私は手の中で小さな極彩色の手袋を握りしめた。
「それは、……どんな手袋だったんですか?」
「虹色よ。五色の毛糸を使って編んだの」
間違いない。極彩色の手袋は確かに虹と言える色合いをしていた。
しかし、この手袋はひとしきりマシュマロが噛んでよだれで汚してしまったものだ。それをお返ししたところで、持ち主は喜んでくれるだろうか? 泥の中から掘り出したものだから泥まみれだし、犬が噛んだから編み目も崩れてしまっている。洗って干したとして、その手袋が帰ってきて、彼女の下のお孫さんは喜ぶだろうか?
私だったらイヤだな、と思う。
私の逡巡の間にひとしきりクッキーを撫で終えた老婦人は「そろそろ行くわね」と手をひらりと振って駐車場の車に乗り込んだ。中には旦那さんとおぼしき老人がいて、こちらをじっとにらんでいた。私は彼にあらゆる罪を見透かされたような気がして、そそくさと散歩道を急ぐ。
駅前にさしかかると、高校生たちが駅に向かってぽつぽつ歩いているところだった。テストか何かだったのだろうか? 終わるにはまだ早いような気がする。ここで時間割の細かい時刻を思い出せないあたりが、私が教職から遠ざかってしまったことをにわかに知らしめてくる。私はもう、教師ではないのだ。古典を研究するものですらない。私を支えるものはもはや、棒のように動き回る手と足と、一緒に散歩してくれる二頭の犬と、恋人くらいのもので――。
「真田センセー!」
風のように向こう側から女子高校生が駆けてくる。あの顔は。
「……須賀さん?」
確か須賀眞美。陸上部長距離のエースだが成績はぜんたいにあまり振るわない生徒だった。去年まで担任していた生徒の一人で――、
「真田先生! 先生だ! 何その犬! えぐい! かわいい! 写真撮っても良い?」
「写真はいいけど……」
――あの事件に立ち会った一人でもある。
「須賀さん、元気でしたか」
驚いたことに、時間を忘れても、教諭としての振る舞いは体から抜けていなかった。敬語で話すこと、相手を尊重すること、完璧で隙の無い「先生」としての顔。この完全無敵の鎧を突き崩したあの私への呪いは、まだ彼らの中で生きているんだろうか?
「あたしはげんきです。あ、数学の髙橋先生が会いたがってましたよ」
「髙橋先生と仲良くなったんですか?」
「はい!」
須賀眞美はにこやかに言って、クッキーの写真をぱしゃぱしゃと撮った。
「数学めきめき点数上げてるとこです! 第一志望の模試判定がやっとCになりました!」
判定がいきなり跳ね上がるようなことが無いのは知っている。可能性の極めて低い難関に挑もうとする彼女は、寒空の下、無謀でありながらも輝いていた。
「すごいじゃないですか」
「へへ。まだまだこれからですよ」
クッキーを撮り終えた彼女はサブバッグをまた肩にかけなおした。
「先生はお元気ですか?」
「まあ、そこそこです。……そこそこ、の中でもちょっと悪い方かな」
先ほどフラッシュバックを起こしかけたのもある。全快だとは思わない。須賀眞美は気遣わしげな様子を見せることなく、依然として明るい調子で話しかけてくる。まるでなかったことのように。それが彼女の気遣いなのか、それとも本当になかったことにしているのか、私には判別がつかなかった。
「今日、先生に会えて良かったです」
「私もですよ、須賀さん。あ」
私は眉を下げて、人差し指を一本立てて見せた。
「今日のことは、学校ではどうか内密に。今は静かに過ごしたくて」
「分かってます……真田先生。あの、あたし、ずっと言いたいことがあって」
私の心臓が嫌に脈打った。続きの言葉がこわかった。
私の生来のセクシュアリティについて言及されるのがこわかった。一歩、足を引きかけた私を、クッキーが毅然とした様子で引き留めた。
『ホモ野郎』
白墨で殴り書きされた文字。目の前を覆う闇の帳――。
「あたし、真田先生のような古典の先生になりたいです」
「あ」
声が漏れた。予想を裏切られると、人は声を漏らすことがある。
「勉強嫌いだったあたしに魔法をかけちゃった真田先生みたいに、なりたいです。だから、あと一年、数学も化学も頑張ります」
「そう、そうか」
私はポケットから手を引き抜いて目元を覆った。涙が出ていた。あの日踏みにじられた私の尊厳は、あの日損なわれてしまった教師としての自分は、まだ彼女の中で息をしている。それどころか、生きている。今の自分以上に活き活きと。
「ごめん、泣くつもりはなかった。ほんとうなんだ」
「……すみません、泣かせるつもりはなかったんです――あの、これ」
ポケットからこぼれ出た小さな手袋を、須賀眞美が拾う。
「これ、あたしの妹の落とし物っぽいんですけど、先生、どうしてこれを?」
「妹さんの?」
私は先ほどの余韻で泣きながら、事の経緯を話した。初雪の朝にマシュマロが掘り出して、おもちゃにしてしまったこと。見ての通りの状態だということ。これはマシュマロを
「大丈夫です、先生のせいじゃありません。気にしないでください」
きっぱりとした彼女の言葉に、なぜだか救われる気がして、新たに涙があふれた。
――先生のせいじゃありません。
須賀の声に、重なる声がある。
――おまえのせいじゃないよ。
――それはおまえのせいじゃないよ。もしそうなら、俺だって同罪だ。
「これ、見つかったよって妹に見せます。祖母にも教えます。大丈夫です。これくらいなら繕っちゃえる人だから。それに――」
須賀は笑った。
「私も嬉しいです。手袋、見つかってくれて。妹、毎日めそめそしちゃって」
「もっと早く交番に届けてればよかったな」
「いえ、先生みたいな人に拾ってもらえてよかったですよ」
丸まっていた手袋を広げて、須賀はそこへ視線を落した。
「先生の素も見られたし、ね」
「えっ」
生徒は意味深に笑った。
「敬語の外れた真田先生、新鮮~」
「その、内密に……」
「わかってますよう」
須賀はそれからとりとめの無い話をした。彼女の話が私の急所に触れることはなかった。私はそれを傾聴しながら、ふと足下を見、クッキーがひなたぼっこの体勢を取っていることに驚いた。
「く、クッキー!」
クッキーは小さく身じろぎをした。「この話、ながくなるんでしょ?」とばかりに片目を開けて。
家に帰ると恋人が書き込みだらけのノートと小学校の教科書を前に唸っている。現役教師は大変だ。特に小学校となるとあらゆる科目を網羅しなければならず、そのうえ生徒の情緒教育にも気を配らなければならないから、私は恋人を尊敬してすらいる。
「帰ったら着替えくらいしろよ、
私の言葉をききとがめた恋人はペンを片手に顔を上げ、そして私の顔をまじまじと見た。
「何か良いことあった?」
「いや、普通の一日だった」
「本当に? 変にニコニコしてるけど」
「本当に」
それから私は、買ってきたケーキの一切れを皿に載せて聡に差し出す。
「何これ」
「感謝の気持ち」
「クリスマスにはまだ早いだろう」
「私はとんだ幸福ものだと思わされたんだよ、黙って食べろ」
そう言いあいながら、私達は二人で並んでケーキを食べた。外は雪が降っている。彼の言うとおり、クリスマスにはまだ早いけれど。
ある街のものがたり 紫陽_凛 @syw_rin
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