第4話 音のしない数式

 とうとう、雪の予報が出ましたね。先生。 


 ハロウィンを終えた花屋がクリスマスに向けて商戦をかける中、わたしは貴方の事を考えています。ずっと考えています。世の中に存在するあらゆる数字のその上に貴方が居ます。どんな曲線の上にも数式の上にも貴方が居ます。今まで、数字の中で遊んでいたわたしを、人間の世界に立たせてくれたのは、生徒でも家族でも友人でもなく、貴方でした。

 

 貴方が居なくなったここはとても静かです。真田さなだ先生。


 職員室の貴方の机は、まっさらなままそこだけ静まりかえっています。そのありさまが、虚数iのようなので、わたしはそこにおんなじだけの虚数imagineを乗算したくなるのですが、虚数iを掛け合わせたところで貴方は戻ってこない。マイナスの今があるだけです。貴方は、居ません。

「ぼうっとして、どうしたんですか、髙橋先生」

「いえ、――何でもありません」

 隣の席の社会科教諭、橋本先生が訊ねてきます。

「そういえば数学の補習授業の生徒、どうですか。進捗のほどは」

「ああ」

 そういえば、橋本先生はクラス担任をなさっているのでした。わたしは名簿をめくって生徒の名前と顔を頭の中で照らし合わせます。橋本先生のクラスの生徒をピックアップすると、ある女子生徒がひとり、目に留まりました。

「須賀眞美マミさんの成長はめざましいですね。中間テストで赤点を取ったとは思えない成長率です。努力していると感じます」

「須賀はもう絶対に大学に行きたいって言ってたからなぁ。親御さんとの間でも上手く折り合いがついてればいいんだが」

「もし差し支えなければ、彼女の志望理由をお聞きしても?」

「『真田先生みたいになりたい』そうだ。須賀は真田先生の古典の授業の成績だけは平均並みだったからな」


 なるほど。わたしは彼女の真剣な取り組みの表情を思い出しながら、内心頷きました。あれは「なんとなく大学を出ておきたい」や「もう少し勉強して進路を考えたい」といったふうな、この学年を覆っているふわふわとした空気とは無縁のような気がしていたからです。すなわち、彼女は私と同じです。数字の奥深さに触れたくて大学を志したわたしと全く同じ。

「彼女は幸福ですね」とわたしは言いました。心の底から。



 私が真田先生に「初めて」お会いしたのは、赴任したばかりの学校で迷いつつも、いつものピアニッシモを喫するために、この学校に唯一存在する喫煙室を探している時でした。彼は私を見るなり声をかけました。

「喫煙室ですか?」

「なぜ、わかったんですか」

「ライター」

 そうして私は、父の形見であるおおぶりなジッポライターを握りしめていることにようやく自分で気づくという具合でした。酷く緊張していたことを、そのときになって思い知りました。

「まず、生徒からの押収物か、拾いものか、自分のものかの三択です。押収物であればあなたのような正義感の強い人はまっすぐ生徒指導室に向かうでしょうし、その持ち主の生徒を野放しにはしないはずです。拾いものでない理由も同じ。拾ったら職員室に直行しているはずですから、自然ご自分の持ち物になるのかなと」

「正義感が強いというのは……」

「なんとなく。不正とかカンニングとか、そういうの、絶対許せないタイプなんじゃないかなって思っただけです」

 私は詰めていた息を吐きました。

「よく、わかりましたね」

「それに、生徒に隠れるような仕草も見せていましたし、ひょっとしたら煙草を吸っているところを見られたくないのか、喫煙者だということを隠しておきたいのかな、と。まあ、これは最近読んだ探偵小説に寄せすぎかな」

 

 会話してすぐ、自然数みたいな声だと思いました。泰然とそこにある、何者にも冒せない強靱さを持っているくせに、ふと気づけば広大な砂山のどこかに埋まってしまいそうな危うさもまた持ち合わせていました。要するに、わたしは彼の声に魅了されてしまったのでしょう。男らしく低いのに、どこかへ行ってしまいそうな儚い声でした。私がノートに書き付けておかなければ忘れ去られてしまいそうな、自然数と同じでした。

 古びた喫煙室は茶色くすすけ、換気口も埃が被り、立て付けが悪いのか外からの風がひゅうと入り込んでくるような、お世辞にも立派なとは言えないしろものでした。換気口などは役目を果たしているのかどうかさえ怪しかったのですが、その隙間風が上手い具合に換気の役割を果たしてくれていたので、煙でむせることはありませんでした。

「ここ、冬はひどく寒いので――」

 マッチで煙草に火をつけながら、彼が言いました。

「――そういう薄着だと風邪を引きますよ」

「そう、なんですね」


 わたしはなんと言って良いか分からずに、黙って煙草に火をつけました。会話の代わりに煙が充満し、そして外へ流れていきます。


「私は古典の担当をしています、真田です。この学校は二年目です」

「わ、わたしは、髙橋です。はしごだかのほうの、髙橋」

 意味も無く漢字の説明までしてしまい、私は煙草で照れをごまかしました。

「担当教科は数学です」

「ええ。……好きな数字は28。得意なことは暗算。最近はまっているのは海釣り」

「なんでご存じなんですか⁉」

 思わず、煙とともに驚きをはきだしてしまいました。真田先生は笑いながら、ポケットの中から小さく折りたたんだ紙を取り出して広げた。

「あ、学校通信……」

 そういえば、生徒や先生方に早くなじんでもらえるようにと、そんな質問をされていたことを思い出しました。

「そうじゃなくとも、勤務初日に挨拶してくださったじゃないですか、髙橋先生。おはようございますって。はっきりと」

「は――」

 わたしはまた息を詰めて、彼の自然数みたいな声の余韻に浸りました。

 そうです。確かに、わたしはすれちがう全ての人に挨拶をしました。おはようございます。

 でも、それだけです。

「私、挨拶が綺麗な人のこと、尊敬しているので」

 真田先生が言うから、わたしは素直に赤面しました。あいさつなど、単なる社会的「反応」にすぎないと思っていたからこそ、その、わたしの思いもしない挨拶の機微に気づいてくださったそのことが、嬉しいやら恥ずかしいやら、挨拶のことを「反応」だと思っていた自分がみっともないやらで、頭がいっぱいになってしまったのです。

「恐縮です」というと、真田先生は小さく笑いました。

「素直だなって言われませんか?」

「え? ……まあ、変わってる割に、扱いやすいとは言われます、けど……」

「じゃあ、素直です」

 そして真田先生は続けました。

「素直は美徳にも毒にもなります。たまには嘘で飾ることも必要でしょう。でも、素直なまま生きていけたらそれはそれで素晴らしいことです」

「は、はあ……?」

「すみません。今のは私の独り言です」

 吸い殻を受け皿に押しつけて、真田先生はジャケットを羽織り直した。「忘れてください」


 忘れてください。そう言われたのに、わたしはまだ覚えています。

 きっと忘れられないでしょう。

 あの事件のことも、貴方のことも。


 なぜならわたしは、貴方のことが好きだからです。




 



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