第3話 RUN or RUN!

 外は寒く、吐く息は白い。夜のとばりはきんと冷たく、雲間に見える月の光はさえている。あたしはストレッチのために腿を高く上げて脚の筋肉を伸ばす。もう片方も、丹念に。

 なんてったって妹が無くしたという祖母の手作り手袋の片方を探すためだ。夜は十九時を回ったところ。うちの門限は二十一時。何の問題も無い。すっかり暗くなった町にあたしの息が白く見える。そりゃあそうだ、予報じゃこれから雪が降るんだもの。


 妹のため、だとか、手作り手袋のため、とか、全部テイの良い言い訳だ、とあたしは分かっている。ただがむしゃらに走りたいだけだ。勉強のこととか学校のこととかいったん全部忘れて、どこかにあるゴールラインをめがけてまっすぐ走って行きたいだけだ。部活動を「一身上の都合」で辞めてからずっと、うずうずしていた。走りたい、走りたい! 長距離五千メートルの選手だった頃のあたしはまだ生きていて、今にもあたしの体を飛び出して夜の道へと走り出そうとしていた。

 まてまて、ステイステイ。喜び勇んで走り出そうとする体を押しとどめて、あたしはスマホを握りしめて時間をみた。十九時十五分、ぴたり。

「行くぞ!」

 あたしは運動靴の紐を確認し、懐中電灯をひっつかむと、玄関を出て最初のいっぽを踏み出す。利き足にここちよい体重がかかる。もういっぽ。はねる体と髪が喜んでいる。あたしは自由だ。の上にいるときだけは、自由でいられる。


 走ることはあたしにとって生きてることそのものだった。呼吸のリズム、振る両腕、苦しい肺、脈打つ心臓、そこから流れる酸素を運ぶ赤血球――苦しさがあたしの人生に生きてることの実感をもたらした。小さなクラスに箱詰めのまま、中学から高校までスライドしていく人生の中で、それだけがあたしの真実だった。ゴールするまでは生きている。スピードを速めて目の前のライバルを抜く。抜き去るべき敵がいなくなったら――あとはゴールラインを越えるまで、だけだ。


 あたしはだっさい緑とオレンジのしましまセーターを着て夜の町を駆ける。驚いたことにサイズはぴったりで、素材と色にさえ気を遣ってくれればちゃんと私も普段使いできたのに、などと恨めしく思う。祖母のへんに不器用なところを、それでも私は憎めなかった。だから、こういうことをやってしまう。

 途中、大型の秋田犬を連れた男の人とすれ違う。秋田犬、ふわふわでまっしろでかわいい。男の人の顔は見えなかった。目深に帽子を被っていたから。

 と思ってたら空からはらはらと雪が舞い始める。ヤバい。えげつないピンチ。どれくらい積もるかわかんないけど、雪に積もられたら手袋が見えなくなってしまう。最悪春までおあずけだ。それはあんまりにも、かわいそうだとおもう。

 妹の通学路はあたしが小学生だった頃と変わっていないはずだ。懐中電灯のライトをくまなく路面に這わし、それらしいものを探す。だけどそうそう落ちていやしないのだ。真っ暗だし。

「もっと現物見ておくべきだったな」

 愛すべきあたしの「うっかり」は舌打ちでごまかして、とりあえず通学路と、近隣の交番にめどをつける。この複数回の往復で、見つけられることを祈るしかない。


 そのとき、つねにサイレントにしているスマホが震えた。このバイブスパターンはあいつしかいない。彼とすぐ分かるように、特別に設定してあるからだ。

「……なに、何の用?」

 スマホを耳に当てて、歩みを緩める。通話の向こうのマコトは、何かごにょごにょとつぶやいたあと、改まったようにこう言った。

「マミ、今、なにしてる?」

「メッチャ捜し物。どうでもいい話なら明日にして」

 足下をくるくる回る懐中電灯のあかり。見つからない妹の手袋。スマホを持つ指先がつめたく冷えていく。

「え、外?」

「だからメッチャ捜し物してるっていってんじゃん」 

「何探してんの?」

「あんたには関係ないでしょ、切るよ」

 「ちょ」、と聞こえてきた言葉を無視して、あたしは通話を切る。だけどすぐにまた掛かってくる。

 うざいな。

「マミに言いたいことがあって電話したんだ。明日じゃダメだ、今じゃないと」

 ってマコトは言うんだけど、あたしは手袋の事しか考えないことにした。だらだらしたマコトのいつもの長ったらしい言葉が、ほんのり熱いスマホからだらだら流れてくる。

「結婚しようって言ったのは早すぎた、婚約しようって言ったのも早すぎた、じゃあ俺はマミになんて言えば良いんだ、なんて言ったらお前のお気に召すんだよ、俺になんて言ってほしいんだよ、俺はなんて言えば正解なんだよ、教えてくれよ!」

「あのさ、あたしたちまだ高校生なわけ、わかる? 結婚も婚約も五年は早い!」

 通話をたたき切ってやろうかななんて考える。あたしはいま手袋探しで忙しい。こいつには考えが足りない。人の時間を奪ってるという自覚が足りない。

「あたしだって大学に行ったり一人暮らしを経験したりしたい、わかる? 何度も言ったよね? あんたのそれは『早いとこパパとママを安心させるために約束がほしい』以外の何にも聞こえないわけ、それってあんたの都合じゃん。あたしの人生の事も考えてよ。まだ十七なんだけどあたし」

「だから別れるって言うのか?」

 マコトは声をうわずらせる。あたしは冷たく言い放った。

「そうだよ。あんたがあたしと結婚だの婚約だのアホなこと言ってるうちはこれは曲げない。どんだけ夢見てんの。現実見なよ。……あと、今日はもう電話してこないで」

「マミ!」

「じゃあね!」

 

 あたしにだって人生がある。望んだゴールがある。

 この前辞めちゃった真田さなだ先生が言ってた。大学は誰にでも開かれた場所で、その門さえくぐれば、専門的な研究ができる。あたしが心奪われた在原業平ありわらのなりひらのことだって小野小町おののこまちのことだって勉強できる。真田先生に、馬鹿なあたしにもできますか? って訊いたら「できるよ」って言ってた。

 だからあたしは大学に行きたい。けど、アミのこれからの学費もある。他でもない、まだ小学三年生のアミの、これからの選択肢を狭めたくないから、あたしは奨学金を借りるために勉強することを選んだ。部活をやめて、イヤだった補習授業に積極的に通い、テストの点数に一喜一憂することを選んだ。大学に行くことを反対するお父さんと、応援してくれているお母さんの間では、争いが絶えない。だけど。

 それが今あたしが目指したい場所。目指すべき場所ゴール

 あたしは真田先生みたいになりたい。だから、マコトの言葉は呑めないのだ。


 あたしは走る。夜の先へ。雪降る道を。






 

 

 


 

 

 

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