湯けむりと宝石
@IMAKITATIKAMI
湯けむりと宝石
1▼
「——先生。決して手の届くことのない、この世にたった一つの宝石ってなんだか知っています?」
ぼくがその少女と出会ったのは、言わずと知れた温泉地・湯河原にひょんな事情から滞在していた時のことだった。
〝ひょんな事情〟というのは、本当に他愛もない、荒唐無稽にすら思える一つの依頼から始まる。
「これは稀代の天才推理作家と名高き
泣きつく(本当に泣きじゃくっていた。大の大人が、ぼくの足下で)担当編集者から頼まれたのは、彼の親戚が商う、廃業寸前の温泉旅館を立て直すべく、小説家であるぼくに、その旅館を題材にした作品を一本書いてほしいというものだった。ようは、客足を呼び戻すための話題作りの一環というわけだ。
ふむ。
「ちなみに、温泉旅館って、場所は?」
「湯河原です」
「無茶言うな」
お茶吹いちゃったよ。
湯河原って、あの湯河原?
……文豪達の聖地でお馴染みの?
そんな場所で旅館復興の起爆剤となる小説を書けって?
ぼくが?
「あのね……君もよくわかっているはずだと思うんだけれど、ぼくはそこまで名の知れた作家じゃあないよ? ぼくなんかが作中に取り上げたところで期待されているほどの反響は見込めないんじゃないかな……」
それも、舞台が湯河原って……。否が応でも、大先達と比較されてしまう。
「仰るとおり、先生程度の知名度では、不十分でしょう……。しかし、それほどまでに、藁にも縋る思いで、こうしてお頼み申し上げているのです」
ぼくは手にした湯飲み茶碗の中身を担当目掛けてぶち撒けようとしたが、生憎と中身は空だった(中身はつい数十秒前に、吹き出してしまったばかりだった)。
……担当編集からふつうにディスられたぞ。
さっき、稀代の天才推理作家とか言っていなかったか? こいつ。
そこは、少しでもおだててその気にさせろよ。泣き落とししろよ。
「悪いけどね、」と、いちおう(心にもないけれど)そう断ってからぼくは返答した。「その話は受けられないよ。猫の手も借りたい思いなのはわかるけれど、ぼくの手には余る」
名前のない猫に到底及ばない知名度なのだから、やむを得まい。
もっと著名で、人気のある作家にでも依頼することだ。(どうせ、ギャランティの問題とかで、ぼくのような無名作家に話が回ってきたのだろうけれど。)
これでもうこの話はおしまい。その合図とばかりに、空の湯飲み茶碗をテーブルに置こうとしたぼくに向けて——、
「……でも、先生。——その温泉旅館、出るんですよ」
なんとも熱々で魅力的なネタが注がれた。
注がれてしまった。
それでぼくの悪い癖にスイッチが入る。
——畜生、この担当、付き合いが長いだけあって、ぼくの扱い方をわかっていやがる。
「……出るって、何が?」
訊かなきゃよかったのに。
「座敷童です」
——毒を飲み干すならば湯飲みまで。
▲2▼
これまで生きてきた中で、旅先の温泉旅館で通された客室にて、畳の香りが広がる寝室の真ん中に、今晩自分が寝るために敷かれたであろう布団の上で、すでにすやすやと気持ちよさげに眠っている見知らぬ少女と遭遇したという経験をお持ちの方は何人くらいいらっしゃるだろうか?
少なくともぼくにとって、それは初めての経験だったので、有り体に言えば、ぼくは軽いパニック状態に陥った。
パニックになったぼくが、どんな行動に走ったかと言うと、今まさに布団に横たわっている、眠れる座敷の美女のご尊顔に向けて、踵落としを食らわせるという人類史上一位二位を争う暴挙だった。
否、踵落としというのは、いささか表現が苛烈すぎた。
正確には、すやすやと眠る少女の顔面に、そっと踵を乗せただけなので、問題はさほどない。
「いや、性格に問題ありでしょ! 人様の顔に足を乗っけないでください!」
ばね仕掛けのように、眠っていた少女が上体を起こしたので、片足を少女の顔面に乗せていたぼくは大きくバランスを崩し、そのまま尻餅を突いてしまった。
「いててて……急に起き上がらないでくれよ、危ないじゃないか」
「危ないのはこっちの身ですよ……この変態!」
「変態とは失敬な。ぼくは今日からこの旅館に、君が居座っているこの部屋に滞在するお客様だよ?」
「私の顔を踏み付けにする大罪を犯しておいて何がお客様ですか! そんなお客様に敬称を付ける必要はないですね! このお客が!」
「……〝お〟は付けてくれるんだ」
「じゃあ……、この刺客が!」
「手ひどいな……胸に刺さったよ」
この娘の中でのぼくの評価が、変態改め、暗殺者になっちゃった。
そこまで酷いことはしていない、と思いたいけれど。
とにかく元気な娘だった。反応が面白いからついつい遊びたくなってしまう。
でも、こうして意思疎通ができるのなら。
「——どうやら、座敷童とか、妖怪変化の類ではないみたいだね」
思わず、心の声が漏れてしまったらしい。
「はい? いま私に向かって言いました? この今をときめく花の女子高生である私を指して座敷童だとかおっしゃいましたか刺客様?」
〝刺客様〟という斬新な日本語を創造するあたり、なるほど、ナウい女子高生という感じもしなくはない(ナウいって言葉はもう古いのかな?)けれど、ぼくを睨み付けてくるその顔がすごく怖いって……。
そんなすごまないでよ。
刺客は君のほうじゃないか。
まあ確かに、今の台詞は、年頃のお嬢さんに対して無神経だったかもしれない。
「ごめんよ。実はこの旅館に座敷童が出るっていう噂を小耳に挟んだものでね。ここへはその取材に来たんだ。この部屋に入って初めに君の姿を見たときに、あまりの現実感の無さから一瞬、そうじゃないかって思ってしまって……」
取材に来たというのは嘘ではない。
結局、担当編集からの依頼は有耶無耶となった。この旅館の座敷童について取材を観光、もとい、敢行して、面白いものが書けそうだったら筆を執るという、実に適当な口約束をして来たのだ。
「思ってしまって、それで、最初にとった行動が私の顔を踏むことだったんですか?」
だいぶ根に持たれていた。
そりゃそうか。
「うん。その時、触診して直に確かめたから問題ない。君には実体があった。君は間違いなく人間だよ」
「あなたは大問題を抱えた、間違いだらけの大変態です!」
ぼくの評価が、暗殺者から変態へと返り咲いたようだった。しかも、大変態って……それは大変なことじゃないか。
「そもそも、この旅館には、そんな妖怪なんて出ませんから! ここを悪く言わないでください!」
と、そこで本気で怒ったように(今までが本気でなかったというわけでもないのだろうが)、彼女は少し声を荒げた。
その変化に、ぼくは若干委縮してしまった。
そんなぼくの反応を見て取って、己の言動を顧みたのか、少女は取り繕うように話題を振ってきた。
「だいたい、座敷童の取材って……そんなの本当にいると思っているんですか? いたとして、ふつうの人に見えると思っているんですか?」
「見えるよ」
「………」
「ぼくには、見える」
——ふつうの人ではないからね、とまではさすがに言わなかった。
「冗談でしょ」
「冗談じゃないさ。こう見えてぼくは、しがない小説家をしていてね。取材の過程やこれまでの人生で、妖怪変化を始め、未知との遭遇を果たすことは日常茶飯事と言っても過言じゃない」
具体的には、この国の大妖怪から呪いを受けたり、地球外生命体に拉致監禁されたり、異世界転移した先で大冒険を繰り広げたり、異世界から持ち帰った異物をめぐり未来人と交渉したり、直近では、異能力者集団から命を狙われたりもした。
一般人の少女に、その全てを話しはしなかったけれど、しばらく沈黙したのちに、彼女は、
「へー、っていう題材の小説を書いているんですね。すごーい」
という感想を、実に平坦な口調で告げた。
まあ、この手の反応は慣れている。
そういう理解でいてくれたほうが、こちらとしても面倒がなくて助かる。
「ちなみに、なんてお名前で活動しているんですか?」
ぼくは逡巡してから答えた。
「……舘小太刀」
「あははは、ぜんぜん知らないや。変わった名前ですねー 本名ですかー?」
うら若きお嬢さんの顔面を踏んでしまったことに対してようやく芽生えかけていた罪悪感が一気に霧散してしまった。
ど突いたろうか?
しかし、ぼくがど突くことはなかった。その必要がなかった。果たして、ぼくの思念が通じたのだろうか。明け透けに人の名前を笑うこの少女は、背後から鉄拳制裁を食らうことになった。
「こらっ、ふー子! お客様に向かってなんて口の利き方をしているんだい!」
昭和アニメのワンシーンを見ているのかと錯覚した。
突如として現れたパワフルな旅館の女将さんが、少女の後頭部を鷲掴みにすると、そのまま急転直下で布団へと叩き付けたのだ。
額を地につける姿勢、すなわち、土下座を強制敢行させられた少女は完全に沈黙してしまった。ついさっきまで笑っていた少女はもうどこにもいない。
唖然としていると、今まさに刑執行したばかりの女将さんと目が合った。
「申し訳ございません、お客様。私の馬鹿娘がとんだ粗相をいたしまして。すぐにお布団は敷き直させていただきます」
そう言って、娘の後頭部を鷲掴みにしたまま、その隣に並んで娘と同じように頭を下げる女将さん。
ぼくは、こういう場面において『頭を上げてください』という類の言葉がとっさに出てこない、というか使おうかどうか躊躇うタイプの人間なので(どんな人間だ)、その代わりに、相手と同じ姿勢をとるという対応を示す。
結果的に、畳の上で土下座をする三人という構図が生まれた。
とは言え、これは三竦みというわけではない。
均衡を破ったのは、少女だった。
「もー、うざいな! 頭離してよ! 今日は顔踏まれたり、頭掴まれたり散々だよ!」
そう、文句を言いながら、女将さんのロックから逃れ、勢いよく立ち上がる。
……まずいな。娘さんの顔を踏み付けにしたことが女将さんにばれてしまう。
そう焦ったが、元凶の少女は立ち上がった勢いで、そのまま部屋から飛び出してしまった。脱兎のごとくだ。
「こら! 待ちなさい!」
と、剣幕を見せてすぐさまその後を追おうとした女将さんだったが、未だ土下座を続けているぼくに気付くと(どんな客だ)、「はやく頭を上げてください」と必死になって声をかけてきた。
「はい」と素直に応じるぼく。
「あの娘のこと、娘と呼ばれていたようでしたが……ご関係は」
「ええ、実子です。ゆくゆくは当館の女将を継いでもらう立場になるのですが……あの体たらくでして。本当に、お見苦しいものをお見せしてしまいました」
そう言って、女将さんはもう一度深々と頭を下げた。
どうしたものだろう。
これに対するぼくの反応は。
ぼくももう一度頭を下げたほうがいいだろうか。などと悩んでいたが、女将さんがすぐに会話の続きを始めてくれた。
「あの娘ときたら、高校生にもなってろくに勉強もしないで、遊んでばかりで……毎日、絵描きばかりしているんですよ」
「へえ、娘さん、絵を描くんですか?」
「学校でも美術部だかに入っているようですけれど、やっていることは落書きの範疇ですよ。スケッチブックを片手に旅館の中をうろつかれるものですから、邪魔ったらありゃしない」
深くため息をつく女将さん。
実の娘に、相当辟易としている様子だった。
「あら、申し訳ございません。お客様にこんな話を。どうぞごゆっくりなさってくださいね」
廃れた温泉旅館とは言え、一つの宿を切り盛りするのに、山ほど仕事があるのだろう。
そう言い残して、女将さんは部屋を出て行った。
途端、ひとりになるぼく。
さて、どうしたものか。
言われたとおり、ゆっくりと温泉旅館を満喫するのもいいし。当初の目的どおり、座敷童を探してみるのもいい。
しかし、娘さん——そう言えば、名前を訊きそびれたな——も言っていたけれど、どうやらこの旅館には本当に妖怪の類がいないのかもしれない。
さっきからぼくのアンテナにまったく反応がないんだよな。
ちなみに、アンテナと表現したが、それはあくまで比喩であり、妖怪の存在を察知しても、縞模様のちゃんちゃんこを着た幽霊族の少年よろしく、髪の毛の一部が逆立つような仕様にはなっていない。
ぼくのは持って生まれた能力ではなく、妖怪の王に呪いをかけられた際の副産物だ。
畜生、これは担当編集にがせネタを掴まされたか。
ええい、もう一本も書いてやらんぞ。
そう決意を固めつつ、一方で、手持ち無沙汰に、部屋の内装を眺めていると、ふと、あるものが目に留まった。
それは、さっきまで少女が眠っていた布団の傍らに置いてあった。
「——スケッチブック?」
▲3▼
音を出さずにそっと、わずかに部屋の襖が開けられた。ぼくの不在を確認するようにしてから、その人物は侵入してきた。
そして、部屋の中を見渡し、お目当てのものを見つける。
それを取ろうと手を伸ばしたところで、ぼくはその人物に声をかけた。
「——そろそろ来る頃じゃないかと思っていたよ」
「っひゃうっっ⁈」
そんな素っ頓狂な声を上げながら、すってんころりんと、奇しくも、ぼくが突いたのと同じ位置に、彼女もまた尻餅を突いた。
「いやぁ、一度言ってみたかったんだよね。探偵が犯行現場に再び現れた犯人に向かって言う台詞」
「——って、変態の先生⁉ いたの? びっくりしたじゃないですか!」
襖の陰から出てきたぼくに驚く少女。
いや、変態の先生は聞き捨てならないな。
「小説家の先生ね」
「小説家の変態は」
「それだと全小説家に対する悪口を言っているように聞こえるから……」
「じゃあ、先生……」
そう呼ぶことに決めたらしい。
個人的には、初対面の少女から『先生』呼びされるのは、どうにもこそばゆいのだけれど。
少女は、すっと、手を伸ばしかけていたものを指さして言った。
「先生、ひょっとして、あの中身、見た?」
「……うん。ごめんね。勝手に見てしまったんだけれど、あれは君の?」
とても気まずそうな表情を浮かべる彼女の様子に、初めて、自分がいかに無遠慮で失礼な行為に及んでしまったのか、思い至った。
スケッチブックに描かれた数々の作品、人の作品を勝手に見てしまうなんて。
ぼくも、自分の小説を勝手に見られたりしたら、どんなに恥ずかしいことか。
度し難い。
しかし、少女はそのことを責めたりはせずに、こくりと頷いて、それらが自身の作品であることを肯定した。
「そっか。絵を描くの好きなんだね——よく描けているじゃないか。すごいよ」
これはお世辞ではなく、本当にそう思った。
高校生でこれだけのものが描けるのであれば、プロの絵描きになるのも夢じゃあないだろう。それくらい、感動した。
心の底から。
その気持ちを伝えたかった。
けれど、対する少女の反応は。
「私、将来は絵を描く仕事に就きたいんです——でも」
少女は晴れない表情を浮かべる。
「——そんな夢、決して叶うことはないんです」
どうして——と、訊こうとしたけれど、その理由を、ぼくはすでに、女将さんとの会話から知っているはずだった。
それに思い至る前に、彼女自身が口を開く。
「私、この旅館を継がなきゃいけないんですよ——私の場合、夢を見る前から現実は決まっているんです」
そう語る彼女に、覇気はなく、先ほどまでの元気溌剌とした彼女とはまるで別人のようだった。
そんな彼女の様子は僕にとって、見るに堪えないものだった。
だから。
——高校生とは、もっと自分の夢について希望をもって語るものじゃあないのだろうか。
自分の将来を悲観する少女を、これ以上見ていたくない。どうにかして彼女を救ってあげたい。少女らしく夢を見せてあげたい。
そう思った。
——けれど、そんな彼女を救う方法も、かけるべき言葉さえも、ぼくにはないのだ。
どうしようもないほどに。
だって。
だって、ぼくは——
「先生はいいよね。自分の好きなことができて——自分の夢が叶えられて」
ぼくは少女にとっては、夢を実現してしまった側の大人なのだから。
何が言えるだろう。
何ができるだろう。
努力を続ければいつか夢は叶うよ、とか、そんな大人が子供に言うようなありきたりな言葉を並べればいいのだろうか。
ちがう。
——そんなものじゃあ、彼女は笑ってはくれない。
結局は、少女に夢を持ち続けてもらいと思うこの気持ちも、ぼくの、大人の勝手なエゴでしかない。
世界には、大人の都合で夢を見られない子供がごまんといるというのに。
おこがましい。
——本当に、かけるべき言葉もない。
そうしてすっかり黙りこくってしまったぼくを見て、またもや彼女のほうから気を回してくれた。
「あはは、先生って実はけっこういい人ですよね? ごめんなさい、さっきは変態とか言っちゃって」
止してほしい。
十代の少女の顔面を踏んだ挙句、相談相手にもなれない大人の、どこをどう切り取っていい人だなんて言うのだろう。
「そうそう、小説の題材にはならないかもですけど、先生——」
そう言って、急に耳打ちしてくる少女。
「決して手の届くことのない、この世にたった一つの宝石ってなんだか知っています?」
それは、非常に答えの気になる問いだった。
が、問いと言えばもう一つ、ぼくは彼女に訊きそびれていることがあった。
当の彼女はと言えば、何だか意味深な問いだけ残して、部屋を後にしようとしているところだったので、慌てて声をかける。
「そう言えばお嬢さん、君の名前は何て言うの?」
すると、少女は一瞬、きょとんとした表情を浮かべた後に、悪戯っぽく微笑んで言った。
「さっきの問いに答えられたら教えてあげますよー!」
じゃあ、大サービスしちゃいますね! ヒントは二つです、と、彼女は挑戦状を叩き付ける。
ヒント1:宝石は、今夜であれば、当館自慢の女湯露天風呂で手に入ります。
ヒント2:私の名前は~、ワン・トゥ・スリー……つづきは解答編で!
▲4▼
少女の本名は、一二三と書いて『にのまえふみ』と読む。
ふみちゃんだ。
これは、彼女——
まあ、元々、推理材料が揃っていたというのもある。
例えば、この旅館は、
それに、二三ちゃんが、女将さんから「ふー子」と呼ばれているのを聞いていたぼくは、名前に「ふ」が付くのだろうと予想もしていた。
そこに追加されたヒント、「ワン・トゥ・スリー」を併せて考えれば、これで正解だろう。
間違いないはずだけれど。
なんとも個性的な名前だ……。
名付けたのは女将さんだろうか?
ともあれ、肝心の二三ちゃん自身はこの名前をいたく気に入っているようだった。
彼女の描く絵の右下には、どれも「123」という数字が記されていたのだから。
というわけで、わざわざ宝石の正体について解き明かす必要性はなくなってしまったのだけれど、しかし、ここで棄権するのは、推理作家としてのプライドが許さなかった(つまりは大したプライドではないのだけれど)。
しかし。
だがしかしですよ。
まるで小学生がその場で考えたなぞなぞじみた(実際、そうなのかもしれない)問いの答えを考えるのは至難の業だった。
これが若き柔軟な発想力というやつだろうか。
結局、日が暮れるまで考えて、旅館のおいしい夕食を頂いたあとも、一向に答えがわからなかった。
いよいよ手詰まりを迎えたタイミングで、脳の疲れを癒すためにも温泉に入ることにした。
せっかく湯河原の温泉旅館に来たのだ。
ここでゆっくり温泉に浸からない手はあるまい。
広々とした脱衣所で裸になり、大浴場の扉を開けると、時間帯が遅いせいもあってか、ぼく以外に客は誰もいなかった。
うひょー、こりゃあいい。貸し切り状態だ。
すっかりテンションが上がってしまって、鼻歌交じりに身体を洗い、意気揚々と露天風呂に向かう大人がひとり。
人に見られたらかなり恥ずかしい言動の数々もしていたのだが、勢いよく露天風呂にダイブしたところで、湯けむりの向こう側にいた先客の存在に気が付いた。
あっちゃー。
一気にのぼせたのか、羞恥心からか、すっかり顔が赤くなってしまったぼくだったけれど、顔を見られたくないというのはどうやらお互い様だったらしい。
——月明かりに照らされた先客は、泣き腫らした顔をしていたのだ。
今も、涙を流し続けている。
向こうもぼくの存在に気が付いて、すぐに顔を背けたが、もう遅い。
ぼくはもう見てしまった。
知ってしまった。
「月がきれいだね」
ぼくは言う。
「こんな月夜にひとりぼっちじゃあ寂しいでしょう。ぼくとで良ければ、一緒に話をしようよ」
先客はまだ顔を背けている。
「ぼくは小説家でね。実は今、この旅館を舞台にした作品を構想しているんだ。そこで少し尋ねたいのだけれど——君は、この旅館が好きかな?」
その問いかけに、先客の細い肩がぴくりと震えた。
——それ以上の反応は何もない。
けれど、ぼくはもうその答えを知っている。
だって。
旅館の名物が露天風呂だと教えてくれて。
旅館の悪口になる言葉に腹を立てて。
旅館の布団で昼寝をするのが幸せで。
旅館の中を見て回って、スケッチブックの全ページに、その画力を精一杯注ぎ込んで、旅館の風景を描く君は——
「よかったら、もっとぼくにこの旅館のことを教えてくれないかな? ぼくがこれから書く小説に協力してほしいんだ」
君の熱意を、君の大好きを——ぼくは一本の小説にする。
それがぼくの仕事——ぼくの夢だ。
「ぼくは君の絵が大好きなんだ。だからぜひ、君の描くこの旅館の絵を、ぼくの小説に使わせてほしい」
どうやらあまり小説を嗜まないらしい君は知っているかな?
小説の中身は、必ずしも字ばかりじゃあないってこと。
——ぼくは、この旅館の自慢だという女湯露天風呂の透き通るような温泉を両手で掬い上げ、それを彼女の前に差し出した。
「それじゃあ、お嬢さん、約束どおり君の名前を聞かせてよ」
「いいよ。——先生、ありがとう」
涙声で応じた少女は、はにかんだ。
大人と高校生——向かい合うふたりの女の間には、透き通るような湯面に反射した満月が輝いていた。
湯けむりと宝石 @IMAKITATIKAMI
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