後悔の人

はいの あすか

第1話

 病室のベッドで一人の病人が酸素マスクを付けて横たわっている。その死に際の病人以外、誰もいないはずの病室に、全身黒ずくめの奇妙な男が立っていた。

 室内を真っ白に照らし尽くす、大量の蛍光灯のなかで、その奇妙な男は異質だった。男が病人に問いかける。

 

「時間を巻き戻してやり直すなら、いつがいい?」

 

 ふっと病人の意識が浮かび上がり、瞼を開ける。

 

「時を戻してくれるのかい。もしも戻れるのなら、そうだな、息子が万引きする日の前日がいい」

「万引き?」

「二十年も前のことだ。息子がまだ中学生の時、早朝から漫画雑誌のイベントに行ったんだ。なんとかフェスタとか言ったな。前の日の夜、楽しみでそわそわして寝られないと言って、私の寝室に潜り込んできたのを覚えてる」

 

 奇妙な男は黙って聞いている。表情は分からない。

 

「ところが、帰ってきたら一言も話さず、笑顔も消えていた。夜になって息子が風呂にいる間に部屋のゴミ箱を見たら、狼と虎のキャラのストラップがひとつ捨ててあった。明らかにそのイベントで手に入れたものだ」

 

 病人は喋り続けて苦しくなったのか、咳をこらえきれず、酸素マスクの中でこもった音を幾つか立てた。

 

「私が尋ねると息子は泣き出した。そして万引きしたことを告白した。

 不良生徒たちに誘われてそのイベントを訪れたのだそうだ。きつね顔のボスに引き連れられて、キセル乗車もしたと言っていた。

 彼らは悪意のない反社会性で、漫画好きな息子を唆して遊んでいたのだろう」

「なるほど。それで、なぜお前はその前日に戻りたいのだ。何を後悔しているのだ」

「ああ。それを聞いた小心者の私は息子に、

 

 なあ、これは二人だけの秘密だ、死ぬまで他の誰にも言うな、

 

 と口封じしてしまった。本来ならば、キセル乗車も万引きもしかるべき所に謝罪に行き、しかるべき罰金刑で償わなければいけない、と今なら分かる。だが当時の私にできたことは、慌てふためいて隠蔽し、何も無かったことにすることだった。

 しかし、息子は自らが犯した罪に苛まれ続けている。正当な労力をかけず、ルールを逸脱して手に入れた空虚な戦利品を見て、自分を責めて、未だに立ち直れていないのだ。

 正直、私は、内向的な息子が急にそのイベントに行くと言い出した時、嫌な予感がしていた。なぜその時もっと詳しく聞き出そうとしなかったのか、それが悔やんでも悔やみきれないでいる」

 

 病人は記憶と感情が溢れて、少し涙ぐんでいた。ぼやけた視界の端で、奇妙な男がニヤリとした気がした。

 

「ふむ、それで前日に戻って、息子にイベントに行くのは止めるように言いたいのだな?

 良いだろう。よく分かった」

「だが、一体どうやって……」

 

 涙目を拭ってはっきり見えるようになった病室には誰もおらず、影ひとつ作らない真っ白な部屋に、病人がひとり寝ているのみだった。

 病人は、目覚める直前に見た夢だったのだろうか、と不思議がった。そして再び意識昏睡状態に入った。

 

 

 

 とある繁華街のうす汚れた道を、一人の男が歩いていた。雲ひとつない青空に似合わない、生気のない暗い顔。男は目立たないビルの二階にある漫画喫茶に入る。慣れた様子でブースにチェックインする。

 無造作に漫画雑誌と単行本を取り、両手に持てるだけ持つと、狭いブースに座り込む。漫画を読む時だけは時間を忘れられた、むしろ、時間を忘れるために漫画を読み続けた。

 

「父親から伝言を預かっている。そのまま動かずに聞け」

 

 唐突にブースを仕切るドアの向こうから話しかけられ、ビクッとする。漫画本から目線は逸らさず、耳に意識を集中させた。親父から伝言……?

 

「お前の父親は、お前が二十年前に、正確には十九年と十一ヶ月前にした万引きを止められなかったことを、ひどく後悔している」

 

 二十年前の記憶が一度にフラッシュバックした。血の気が引き、呼吸は乱れ、ページは手の汗で滲んだ。声の主はこちらの反応を確認するかのように間を置いた。

 

「時間を巻き戻すことなど誰にもできないが、お前が充分に反省し、新たな人生を始めることを父親は望んでいる」

 

 何を持ちかけようと言うのか、男は気が気でなかった。ばさっ、と背中のところで音がして振り返ると、見たことのない、求人雑誌のような四、五ページの冊子が落とされていた。

 

「ここにお前がすぐにでも始められる仕事がある。好きなものを選ぶが良い。

 窃盗するでもなく、親の保険金で漫画を読み漁るでもなく、今度こそちゃんと自分の金で欲しいものを手に入れる満足感を味わうんだな」

 

 声の主はニタニタと笑いを含みながら告げた。顔が見えなくても分かった。冊子をめくると、募集内容が書かれていた。

 

 植物運搬 二時〜三時 一万円

 家宅訪問 十二時集合 ロープ持参 五万円

 タンパク質溶解場 一日 十万円

 

 最悪な想像が頭をよぎり、思わず目を背けた。

 

「逃げることは考えても無駄だ。万引きの時効は二十年、あと一ヶ月残っている。おれから逃げられたとしても、次は警察から逃げなくてはならなくなる」

 

 何度も何度も調べたから、時効のことはこの約二十年間忘れたことはなかった。臆病で小心者の男は、それだけで観念してしまった。


「どうして、こんなことをするんですか。何故ぼくなんですか」

「お前が最適なんだ。おれには分かる。

 ひとは失敗から学んで賢くなり、後悔から学んで優しくなる。お前にふさわしい仕事があるはずだ」

 

 声の主はそれきり喋らなくなった。立ち去ったのかどうかは分からなかったが、男はさっきまでの異様な気配に押し潰されそうになりながら、冊子をパラ、パラ、とめくった。

 相対的に重たくなさそうな仕事にあたりをつけ、電話をかける。出た相手の指示に従って、すぐに集合場所へ向かった。

 

 

 

 男が乱雑に置いていった勢いで、冊子は最後のページが開かれていた。そこには、ひとつだけ求人が載っていた。

 

 【後悔師】

 他人の後悔を集めるお仕事です。後悔の深さ、取り返しのつかなさに応じ、報酬をお支払いいたします。

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