知らない海で歌った歌

時任しぐれ

第1話

「杓子定規な人生なんてつまらないでしょう」

 それは母の言葉だった。とにかく母は基準というものを定めたがらなかった。何かに測られることを拒否するように自由に生き続けていた。その基準というものには私も含まれていたのかもしれない。最低限の愛情はあったにせよ、私と母が共に過ごした時間はそう長くはない。いつもそこかしこを動き回っているから当然だった。

「自分の中の物差しに従って生きるんだ」

 父の言葉だった。とにかく父は基準というものに対して絶対性を見出していた。怒り、優しさ、喜び、そういった感情表現のおおよそ全てにおいてある程度の法則性を見出すことが出来た。それは相当な徹底ぶりだったのだろう。子供ながらに機械じみていると思うほどには、父は自らの基準に対して厳格だった。

 父と母はまるで正反対なのに、正反対だからこそ噛み合ったのか、夫婦仲は良好だ。いや、正反対ではなく、同じだった。父も母も自らの自由を求めているという意味では同じだった。その自由の求め方が違うだけで。

 私はどうだろうか。十九年という時間を重ねて、そういった言葉を、自分の生き方を表す言葉を手にしているだろうか。そんなことを考えてみる。


 ぐらりと体が揺れる。一際大きなブレーキ音が響いた。キャリーケースが転がっていきそうになるのを慌てて押さえる。車輪がギッと嫌な音を立てる。同時にかけている眼鏡も揺れに合わせてズレた。中指でそっと位置を調整すると視界の明瞭さが戻る。ガタゴトと揺れる電車は私の都合なんて気にしない。行くべき場所へとただ進み続ける。電車というそのものの在り方、必ず時間通りに次の駅へと到着するという正確性は好きだ。もっともそれは日本だけの特徴かもしれない。それに電車が好きというよりは時間の正確性が好き、と言った方が正しいだろう。電車の少し錆びた車体だとか、デザインだとかに魅力を感じないわけではないけれど、特別に好きかと言われるとそうではないと思う。好きという言葉に私は重さを感じている。その重さはきっと仕事にも表れていて、真面目だとよく評される。それはきっと違っていて、手の抜き方を知らないのだと思う。好きなものなのだから手を抜いていいはずがない。人が関わっているのだから手を抜いていいはずがない。そうした多くのしがらみが私を仕事に押しとどめていた原動力なのかもしれなかった。

 思考がぐるぐると回り続ける。思わず頭を抱えていると、上からにゅっと顔が視界に映り込んだ。目と目が合う。

「秋奈ちゃん。逃げ出しちゃったね」

 にっこりと笑う彼女の顔を見る。そして言葉を反芻する。そうすると思わずため息が漏れ出た。頭が痛いわけではない。いや、間違いなく頭は痛いのだけど、それは物理的に痛んでいるわけではなくて、頭の奥が痛む感じと言えばいいのだろうか。経験したことはないけれど失恋の痛み、と表現すれば伝わるだろうか。とにかく心理的な痛みだ。

 その痛みが言葉にも表れたようで、思わず苦みの走ったような言い方をしてしまう。

「……逃げちゃったわね」

 鈴木秋奈、十九歳。シンガーソングライターとして活動中。

 今日の日付は二月十二日。

 収録の始まる時刻は八時半。

 現在時刻は九時三十五分。

 そんな時間に電車に揺られている。問答無用、完全無欠の遅刻だった。

「まだ気にしてるの? もう過ぎちゃった時間は戻らないんだから、全力で楽しまないと」

 足をぶらぶらさせながら言う彼女は、名前を日野風香という。引きこもりでほとんど高校に行かなかった私の、高校時代唯一の友人だった。今は二十歳で大学二年生。順当に順当な道を歩んでいて、少し羨ましさを感じる。

「そうは言っても、慣れないものだから。遅刻したことなんてなかったし、無断で欠席なんて持っての他。ましてや連絡も絶つなんて。捜索されていてもおかしくないかもしれないし」

「じゃあ見つかるまでは楽しまないとだ」

 カラカラと笑う風香はどこまでも楽観的だった。私と彼女の隣で窓の風景が切り替わる。県を跨ぐと景色がガラッと変わると言うが、それは本当だ。どこがどう違うと具体的に言語化できるものではない。その土地に息づいた歴史がそう感じさせるのだろう。彼女は「さっきと全然違うね」なんて言って窓の外を眺める。その先には深々と降り積もる雪がある。

「次の乗り換えっていつだっけ? 十時?」

「九時四十三分よ」

「そうだったっけ?」

「結構いい加減ね……」

 いつものことなのでため息も出なかった。

「まあそんなことは置いといてさ。乗り換えたら後は終点まで行くだけでしょ? その間ずっと暇じゃん」

「そうかも。位置情報あるからスマホは使えないし」

「そうだよ。だから話をしようよ。今まで話してなかったこと、たくさんあるじゃん」

 お互いにさ、と続ける風香の言を経て考えてみる。確かに私と彼女は友人だけれど、深く入り込んだ仲というわけではなかった。むしろ関係性としては浅い方だと思う。

 しかし私にとって友人というのは相対的な関係性の値を表した言葉であり、風香は他の人よりも関係性が高いので友人という定義に当てはまる。こういう考え方をしている人が少ないというのは重々承知だが、十九年の間生きてきて固まった考え方は容易に変えられるものじゃなかった。

「そうね。話をしましょうか」

 こんな簡単なことで顔を輝かせてくれるのだから、私には勿体ない人だと常々思っている。私なんかより付き合いも性格もいい人はたくさんいるだろうに、風香は何故か私を友達だと言ってくれる。

「風香はどうして私を友達だと言ってくれるの?」

 その疑問はそのまま口から吐き出された。話をするのだから、話題がないと困るだろう。

「いきなり重たい話題だね。秋奈ちゃんらしいけどさ」

「ごめんなさい。もう少し軽い話題の方がいいというのはわかっていたけれど」

「いやいや、秋奈ちゃんがそういう子なのはわかってるから。ん~とね、なんでだっけ……」

 顎に手を当て、よく探偵なんかがやっているポーズで考え込む。しばらくその状態が続くと、彼女の口が開く前に車内にアナウンスが流れ出した。

『まもなく──』

 次の駅名と乗り換えの情報が告げられる。腕時計を見ると時刻は九時四十分を示していた。

「続きは乗り換えてからにしましょう」

 荷物をまとめて、と言ってもキャリーケースとギターくらいのものだが、風香にも準備を促す。慌てて出しているタブレットやら充電器やらを直し始める。忙しなく動く彼女の手にはいくつかの指輪が着けられている。シルバーアクセサリーとでも言うのだろうか。自分が着けたところを想像してみる。服の裾やら棚の角やらに引っかけてしまいそうで少し怖い。

「よし行こう秋奈ちゃん!」

「うん、まあ行くけど」

 ただの乗り換えにやる気満々で臨まれても、私としては少々反応に困る。

 電車の中と外ではかなりの温度差があった。人の熱と暖房で作られた温かさを享受していた体に外気の冷たさが這い寄ってくる。チラつく雪は屋根の隙間を潜り抜け私の頬にピトとくっつき、すぐに融けた。

「寒いねぇ」

「寒いわね」

 そんな中身のない会話をしながら乗り換え先の電車を見る。ローカル線で、車体には見覚えがないこともないキャラクターのラッピングがされていた。おそらくご当地キャラなのだろう。中に入って適当な椅子に腰かける。扉の近くだった。電車が発進するまで開きっぱなしになるようだ。寒風がこれでもかと言わんばかりに吹き込んでくる。思わずブーツのかかとをカタカタと鳴らした。

「もっとドアから離れた席にすればよかったわ」

「動く? まだ席空いてるっぽいよ」

「わざわざ動くのもほら、あれだし。やめておくわ」

 浮かした腰を風香は下ろした。そのまま窓の縁に肘を置いて頬杖を突く。茶色に染めた髪の毛、くりっとしたアーモンド状の瞳、すっと真っすぐに通っている鼻梁が目に入る。唇はリップが塗られているのか、つやつやとしており、それを少し尖らせていた。

「……そんなに難しかった?」

「何? 何の話?」

「さっきの質問」

 逡巡し、彼女は「ああ」と手を打つ。

「そういえば話してる途中だったね」

「答えは出たのかしら」

「うん。友達でいるのに理由が必要なら、その時点で友達じゃないよねって思った」

「……言われてみればそうね」

 理由があって一緒にいるのなら、それは事務的な関係と言えるだろう。物語ではその理由がかけがえのないものだったり、幼い頃からの約束だったりするが、現実でそんなものがそうそうあるわけもなく。

 私は風香といるのに理由が必要だろうか。考えてみる。答えはぐるぐると思考のメリーゴーラウンドに乗ってしまう。つまり、答えのない問題だった。

「私はほら、友達結構いるけどさ。秋奈ちゃんは私くらいしかいないじゃん」

「そうね」

 引きこもりが友人を増やそうとしてもどうにもならないだろう。高校時代に比べれば外に出て働くようになった分交友関係は増えてはいるものの、友人と呼べるような人はまだいない。

「その秋奈ちゃんの一人の友達がさ、私でよかったって思う」

「……風香、あなたってバカよね」

「なんでいきなりそんなこと言うの!?」

 そんな照れくさいこと、常人は素面で言えやしない。酒に酔って、雰囲気に酔って、自分に酔って、初めて口に出すことができる。何かに頼らなければ言えないことを容易く言えてしまうのは彼女の美徳だ。思ったことを直截に言ってしまうと言いかえれば欠点かもしれない。物事というのは多角的な側面を持ち合わせている。なんだってそうだ。

 もちろん、お酒なんて飲んだことがないのだけれど。

 彼女は頬杖に使っていた手を前に回す。腕を組んで頬を膨らませる。風香は表情のバリエーションが非常に豊かで、ずっと見ていても飽きが来ない。もちろん元の造形が整っているということも飽きない理由の一つ。誰だって綺麗なものは眺めていたくなるものだ。

「秋奈ちゃんだってさ、歌のとき同じようなこと言ってない? 言い回しはなんか暗いけど」

「歌は歌。歌詞は歌詞。あのときの私は私じゃないもの」

 引きこもりから紆余曲折あり、歌を歌う仕事にありつけたのだから人生何がどう転ぶかわかったものじゃないなと思う。そして現在進行形でその仕事をぶっちぎっているという事実が私の肩に重く圧し掛かる。

「ダメだわ。逃げているのにどんどん仕事のことが気になってくる……」

「現実逃避のコツはね、絶対に振り返らないことだよ」

 人差し指をピンと立て、したり顔で語る。

「レポートを書いてないとき、試験前日なのに勉強いっさいしてないとき、バイトをバックレたとき……とにかくそんなときは絶対に振り返っちゃダメ。振り返ったらすぐそこにある谷底が見えちゃうからね。谷底なんてない、暗闇なんて見えやしないってフリを最後まで貫くんだよ」

 経験者はかく語る。が、それは大丈夫なのだろうか。進級できているということはちゃんとタスクをこなしてはいるのだろうけど、聞いていると心配になってくる。特に最後。さすがに人としてダメじゃないだろうか。そういった言葉をオブラートに包んで指摘する。

「そんなことないよ。これくらいたぶんバイト先も想定してるでしょ。所詮学生なんだからそのリスクは織り込み済みなんじゃないの?」

「勝手ね」

「少し勝手くらいがちょうどいいよ。秋奈ちゃんは真面目すぎるんじゃないかな」

 真面目。その言葉を反芻する。私の本質とはあまり縁のない言葉だと感じる。周りからの評価がそのまま自分自身と重なるとは限らない。重なることの方が稀だと思う。私から見た風香の姿と、風香から見た風香の姿はきっと違っている。当たり前に当たり前のことで、わざわざ言う必要もないことだ。

「胸の片隅に刻んでおくわ」

「じゃあ勝手をやってみようよ。何かある? 勝手にしたいこと」

 名案と言わんばかりに手を叩いて目をキラキラさせながら変なことを言う。風香が変わっているということは重々承知しているけれど、ここまでだっただろうか。今日の彼女はやけにテンションが高い気がした。逃避行じみている現実離れしたこの状況に興奮しているのかもしれない。思えば、彼女は体育祭や修学旅行の前日は眠れなくて電話をかけてくるような人だった。私はひきこもりで参加することがなかったので、うまく話を合わせられなかったことを覚えている。

「うーん、なんかいまいちな反応だね?」

「勝手にしていいと言われても困るわね。強いて言えば、今こうしていることが勝手なこと、かしら」

「……そうだけどさぁ」

 納得できないらしい。

 納得できることなんてあるのだろうか。

 私が決めたことで風香が納得するなんてことが、あるのだろうか。少なくともその逆は少ないと思う。風香が決めたことで私が納得するということはほとんどない。なし崩し的に、そうせざるを得なかったから動いているだけ。そこに私自身の納得は大して必要ではなかった。こういう言い方だと私の性格が悪く頑固者であるように聞こえるかもしれないけれど、それは全くの誤解で、むしろ問題は風香の方にあると言える。

「勝手なこと、勝手なこと……あ、そうだ、食い逃げとか?」

「確かに勝手なことだけど、それは犯罪ね」

 風香の提案は突拍子がなく、実現不可なものが多かった。風香にしてみればおそらくとりあえず言ってみているだけなのだが、そんな彼女の決めたことに対して納得の有無が些細な問題であることは十分に理解できると思う。十全でなくても多少マシな選択であるのなら、選んだ方がいい。それを上回る面妖な選択肢が提示される前に。

 まあ、そういう変な提案をして振り回してくれるところを含めて、私は日野風香に好意を抱いているし、できれば離れたくないと思っている。風香しか友人がいないということを含めないでも。

 それにこの妙な逃避行だって、元を辿れば私が風香の提案に乗ったことから始まっているのだ。

「左は山で右は海だよ。自然って感じだね」

「綺麗な海ね。少し窓が汚れているけど」

 田舎のローカル線に乗り換えて数十分。普段は車窓越しの景色なんて代わり映えのないコンクリートジャングルだけれど、今は違う。一面が青い海。生憎の曇り空なのが残念だけれど、それでも都会の海よりはずっと綺麗だ。

「秋奈ちゃんってこういう景色から歌を思いついたりするの?」

 風香がわくわくとしながら聞いてくる。現実はそうでないということを教えなければならないみたいだ。

「しないこともないわ。ただ、パソコンの前で唸っている時間の方が多いかも」

「作曲ってそんな感じなんだ。なんかつまんなさそう」

「楽器も使うし、絵や物語、風景からインスピレーションを得ないこともないけれど」

 つまんない、という彼女の意見は最もだろう。傍から見ていて楽しい作業だとは到底思えないし、自分でやっていても楽しいと思える瞬間は少ない。自分の表現したいことがそこにあって、私の場合はたまたまそれを形にする手段が音楽だったというだけだ。人によってそれはオシャレであったり、ブログであったり、SNSであったり、様々だと思う。

 そういったことをかいつまんで話すと「秋奈ちゃんは物知りだなぁ」なんて言われるから思わず苦笑いとため息が同時に出て、なんだかよくわからない表情になっているのが自分でもわかった。

「褒めるにしても、その褒め方は少し違わない?」

「だね。我ながらてきとうすぎたよ」

 笑い合っていると、時間が過ぎるということを忘れてしまいそうになる。しかし、気にしないでいいと言われてもずっと頭の中に逃げたという事実が付き纏う。この感覚には慣れそうにもない。

「泊まるって言ってた旅館は予約できたのかしら」

「さっき確認した感じだと大丈夫っぽかったけど、ちょっと心配。当日いきなりだし」

「慣れているわね」

「旅行には結構行く方だしね」

 ふふんと胸を張る風香を見て、そういえば、と思う。

 私は旅行をしたことがない、かもしれない。

「旅行っていうのも初めてかもしれないわ」

「え? そうなの?」

 そこまで目を丸くするほどのことだろうか。その表情は少し間抜けであどけなさを感じさせる。

「修学旅行も行ったことがないし、家族でも旅行は行かないし……強いて言うなら小学校のときの林間学校くらいかしら。あれを旅行と言うのも違う気がするけれど」

「高校のときにもっと誘えばよかったかな?」

「どうかしら。あなたに誘われていても、当時の私なら断っていると思うわ」

「それは、どういう?」

 尋ね返されて、自分の言い方が間違っていたことに気付き、慌てて言い直す。

「あなただからという意味ではなくて、あなただとしてもというか……」

「あーなるほど。そういう意味か。びっくりしたよ。嫌われてるのかと思っちゃった」

「嫌っていたらこうして一緒に過ごしていないでしょう」

 ほっと胸を撫でおろす彼女を見て、自分の口下手さを自覚させられる。言葉を扱う職業に就いているというのに、いつも言葉の選択を間違えてばかりだ。

 一人で過ごしてきた時間が長いせいだろう。他人と話すときも自分の思考を前提にして話をしてしまう。結果、言葉が足りなかったり、誤解を生みそうになったりすることがしばしばだ。きちんとその意図を聞き返してくれる彼女のような人は少数派だし、私に友人が少ないのもむべなるかなと言ったところだろう。

「高校時代の秋奈ちゃんは今よりトガってたなぁ」

「自分では大して変化しているように思えないわ。昔はどうだったの?」

「昔はこう、誰とも話したくありません関わりたくありませんってオーラが全開だったというか。透明の、触ったら怪我するようなバリアで囲まれてるみたいな感じだったよ」

「そう聞くと痛々しいわね」

 そのような他愛のない話を続けている内に、古いスピーカーから目的地の名前が告げられた。

「降りる準備はできてる?」

「うん、ばっちり。さっきはバタバタしちゃったからね」

 車掌さんに切符を渡して外に出る。いわゆる無人駅で、駅の構内というもの自体がなく、切符売り場と屋根付きベンチくらいしかない。単線の線路に片面のホーム、さらに時刻表を見るに二時間に一本しか電車は来ないし、終電も早い。

「普段はピッで終わるからこういう駅はびっくりするよ」

「そうね。私も来るのは初めてだわ」

 海沿いだからか風が強く、潮の香りが鼻孔をくすぐる。匂いだけなら夏の気分になれそうだった。もっとも今は冬も本番であり、風が強いということはすなわち寒さが加速していくことを示している。

「ひぃ~寒い寒い! ここからどう行くんだっけ!?」

「駅を出てから右、道沿いに歩いていけば着くと思うわ」

 マップを見て確認する限りはそう書いてある。マップの見方が間違っている可能性はある。

「タクシー呼びたいけど、ここって来るのかな?」

「来るとは思うけど、お金は限られているし、歩ける距離なら歩かない?」

「寒いよ~……」

 泣き言を言う風香を後ろに歩き始める。

 雪こそ降っていないもののその寒さはひたすらに本物で、寒いということに思考のリソースが奪われていく。余計なことを考えずに済みそうで、今の私にはありがたかった。


 ○


「時折、逃げたいと思うときがあるの」

 最低限の家具と仕事道具だけが置かれた殺風景な部屋にその言葉はポンと投げられる。受け取る相手は一人しかおらず、その一人は床に寝っ転がってスマートフォンの画面を眺めていた。少しだけ間を置いて、彼女はこう答える。

「じゃあ逃げちゃおうよ」

「逃げるって……どこへ? というか、意味をわかって言っているの?」

 彼女は「よっ」という掛け声と共に起き上がり部屋の窓を開ける。風が部屋に吹き込んで空気がぐるぐると回っていく。机の上に置いていた楽譜が棚の隙間へと吸い込まれていった。

「意味なんてわからないし、場所だってどこでもいいじゃん。どこだっていいの。逃げたいって思ったなら、そうすべきなんだよ」

「でも、逃げたら誰が責任を取ってくれるの?」

 私はそう言った。だってそうだろう。逃げて逃げて、その先が行き止まりだったとして、その責任は誰が取るのか。それは無論自分自身に他ならない。逃げるという行為は一時的に楽になるかもしれないが、最終的に帳尻が合うようになっている。どこかで必ずツケは払わなければならない。

「その考え方だと最後には帳尻が合うじゃん。だったら今逃げても、後で逃げるのも同じことだよ」

「詭弁ね」

「そうかも。だけど詭弁でも駅弁でも、何でもいいじゃん。もし逃げたくなったら言ってよ。そのときは付き合ってあげるからさ」

 微笑みとも笑顔とも呼べない、口の端を上げただけのような表情はやけに印象に残っていて、だからその約束とも呼べない約束もまた、頭の片隅に残されていた。


 ○


「結構歩いたわね」

「ほんとだよ! 寒くて凍えるところだったよ!」

「途中から後悔していたわ」

「そう言う割には寒そうに見えないけど」

「我慢しているのよ。我慢をやめたら、ほら」

「肩ブルブルじゃん」

 あははと声に出して笑われたのでそれを咎める意味で軽く小突くと、ニタリと笑って肘で小突き返された。

「秋奈ちゃんが言葉じゃなくて暴力に訴えるなんて珍しいね」

「余裕がないってことかしら。人間って余裕がなくなると口数が減るものね」

「その言い方だと他人事みたいだよ」

 そうねと返しながら、また言い方を間違えていると反省する。反省しても行動に活かせないのなら意味がない。意味のない反省はただの自己満足だ。それすらできないよりは幾分かマシだと考えることで自分を保っているけれど、とても言い訳がましくて我ながら情けなくなってくる。

 改めて今日泊まる予定の旅館、というよりは民宿という表現が合っている建物を眺める。古びてはいるものの、生えている木々や建物の壁などの手入れが行き届いていて、小綺麗な印象を受ける。

「とりあえず入って、荷物とか置きましょうか」

「そうだね」

 中に入ると受付のスタッフさんがいて、名前を尋ねられる。風香が「予約していた日野です」と後ろから名乗り出る。そのスタッフさんは予約表らしき紙束をペラペラとしていたが、あるところで手を止めると首を捻って遠慮がちに尋ねてきた。

「お客様、予約では一名となっているのですが……」

「え、朝に二人で~って電話したんですけど……もう一回確認してもらえないですか?」

 チラリと風香を見る。特に動揺している様子もなく、通常運転だった。旅行には行く方だと言っていたし、こういう状況にも慣れているのだろう。

「はい、少々お待ちください……ああ、記載がありました。お手数をおかけして申し訳ございません。二階の奥、菫という客室ですね。鍵をお渡ししますので、少々お待ちください」

 再び風香を見るとてへっと舌を出された。いきなり言い出したのは私だし、当日予約だし、民宿の方に全く以って落ち度はない。もちろん風香にも。こんなところでも後ろめたさが加速するとは、つくづく私に現実逃避は向いていないらしい。

 鍵を貰って客室に入ると、まあ普通の部屋だった。畳が敷かれていて、机とあとは敷布団。床の間には部屋の名前でもある白い菫の絵が飾られている。二人なら普通に過ごせそうな広さだった。荷物を置いてコートを脱ぎハンガーにかける。少し曇った眼鏡を外して眼鏡拭きで拭き上げる。

「秋奈ちゃん、これ見て」

 先に整理が終わったのかと思い風香の方へと振り向くと、そこにはいくつかの小型のボードゲームが置いてあった。その内の一つを手に取りこちらへと掲げるようにして見せてくる。

「……やるの?」

「もちろんっ。これとか見たことないし、やってみたい」

「風香が持ってきたものじゃないのね」

「二人用のボードゲームなんてチェスとかオセロとかとかしか知らないし。あ、でもトランプは持ってきたよ。ソリティアでもやる?」

「それは一人用じゃない。そこに将棋もあるけれど」

 和室らしく将棋と囲碁もセットで置いてあるのを見つけたが、それはわざとらしく彼女の背中へと隠された。

「将棋は秋奈ちゃんが強いからダメ」

「強いというほどでもないと思うわ」

「私よりは強いでしょ。知らないゲームなら対等だよ対等」

 やる気満々だが、この手の頭脳ゲーム全般は少なくとも風香より得意だと思う。やりたくないわけではないし、他にやることもない。外に出ると言ったって周辺に店はない。コンビニも歩いて三十分ほどかかるらしいし、しばらくは部屋の中で時間を潰すことになるのだろう。

「どれをやるのかしら」

 そうやって私が提案に乗る素振りを見せるだけで器から零れるようなほどの笑顔を見せてくるのは、ズルいと思う。


 〇


「さすがに飽きたね」

「私はまだやれるわよ」

「勝てないからおもしろくないの!」

 子供のような拗ね方をした風香を横目に、ふと窓の方を見やる。カーテンの隙間から入ってくる色は赤く染まっていて、おおよその時間を察せられた。

「そろそろお風呂にしない?」

「うぇっ、お風呂?」

 今まで聞いたことのないような変な声を上げる彼女に首を傾げる。

「何か不都合があった? 忘れ物? ある程度なら貸せると思うわ」

「ちゃんと持ってきてるよ。それは大丈夫」

 だとしたら何の声だったのだろう。風呂嫌い、というわけでもないだろうに。

「あ、私が先にいただいていい?」

「浴場は一緒だから先も何もないと思うわ」

「そうだったね……」

「一緒に入るのが嫌なら、私は待ってるわよ」

「イヤってわけじゃなくて、なんだろう。うん、いいや。一緒に行こっ」

 目まぐるしく表情を二転三転させた挙げ句、結論はそういうことになったらしい。そうも恥ずかしがられると、何か私まで恥ずかしくなってきたような気がして頬が熱くなる。そこまで考えて、あることに思い至る。

「……もしかして、お風呂は友達どうしでは入るものではない、とか?」

「そうだね。や、あくまで私の周りはだけどね。積極的に入りたがるってことはないと思うよ」

「私が積極的に風香をお風呂に誘ったみたいじゃない。語弊があるわ」

「いやいやこっちの話だから。だいじょぶだいじょぶ」


 ○


「ねぇ、外に出ない?」

 風香がそう言い出したのは夕食も入浴も終え、後は就寝するだけという状態になってからだった。

「外に出て何をするの?」

「何ってわけじゃなくて、夜風を浴びたい気分だから。秋奈ちゃんが行かないなら行かないけど」

「行かないとは言ってないわ」

「そうなの?」

「行くとも言ってないけれど」

「どっち!?」

 何だかお風呂の件からずっと会話の調子がおかしくなっている。原因はおそらく風香にあると思われる。私は普通にしているつもりだが……変な発言はなかったかと今日の会話が早送りのように頭をよぎる。いや、過去のことを振り返っているのだから巻き戻しという表現が適切だろうか。どちらにせよ同世代にすらあまり通じなさそうな言い回しだ。

 そんなことを考えながら寝間着の上にコートを羽織り、民宿を出る。街灯はまばらで人も車も通らない道だ。うっすらとした恐怖が肌にまとわり付くような、そんな錯覚を覚える。

「秋奈ちゃん、ちょっと怖くない?」

「スマホのライトを付け……ダメだったわね。懐中電灯なんて持ってきてないわよ」

「月もほっそいしなぁ」

「三日月未満ね」

「話しながら歩けばいいか!」

「そうね、そうしましょう」

 ひゅうと音を立てて吹く風は体温を簡単に奪っていく。戻りたいとも思ったが、風香は進む気満々なので止めるのも忍びない。

「秋奈ちゃん、聞いてもいい?」

「よっぽど変なこと以外なら答えるわよ」

「じゃあダメか」

「何を聞こうとしたのよ……」

 呆れていると、乾いた声音で風香は言う。

「なんで高校のときに引きこもってたのかなぁって。よく考えたらそれも聞いたことなかったし。今なら聞いても怒られないと思ったからさ」

 風香を見る。目が合わなかった。どこを見ているのだろうか、と視線の先を追いかけると、そこには海が広がっている。

「それは別に変なことじゃないでしょう」

「人によってはデリケートな部分だったりするかもだし、あいたっ」

「普段デリケートなんて気にしないあなたに言われても説得力がないわ」

「また暴力……」

「余裕がないのよ」

「自分から言っちゃたらもうそれは言い訳だよ」

 相槌を返しつつ、言われてみればそうだと考える。私は彼女に引きこもりになった原因を話したことはない。今まで尋ねられることはなかったし、あえて話そうとも思わなかった。

「引きこもっていた理由は、わからないわ」

「わからないんだ……え? わからないんだ?」

 話そうと思わなかったのは、おそらく理由がこうなのだからだろう。困惑しか生まないから意図的に黙っていたのだと思う。当時の私の思考回路ならそういう行動を取る。

 おあつらえ向きに風が止む。真面目な話をするのに風の音はノイズでしかない。

「いつだったかは忘れたけれど、唐突に『学校に行きたくないな』と思ったの。もちろんそれまでも行きたいと積極的に思っていたわけじゃないわ。でも学校は行くべきものだと思っていたし、行かなければいけないと思っているのに、上手く起きられなくなって、足も止まって。ちょうど今と少し似ているかしら」

 真面目だと言われる性質が逆に悪さをしていた。行かなければならないものに行っていない自分が許せなくて、立ち上がって制服に袖を通そうとすると手が止まって、どうしてこんなこともできないのだと自分自身に怒りを覚えるが、それを理不尽に両親や物にぶつけるほど子供にはなれなくて、ただひたすらに自分の中に鬱屈とした感情がうず高く積もっていく。

「じゃあ私、悪魔みたいなことを秋奈ちゃんに提案しちゃったってこと?」

 顔色が夜の中でもわかるくらいに変わっていくのを見て、再び言い方を間違えたと悟る。

「それは違うでしょう。逃げると言い出したのは私よ」

「提案したのは私だよ」

「そうだとしても、あのときの私と今の私は違うわ。多少の折り合いくらいは付けられるわよ」

 あのときは両親が割と放任主義ということもあって、引きこもり行為自体に何かを言ってくることはなく、そのおかげで思考を少しずつ整理することができた。そのときの考えを呼び起こして、そのまま伝える。

「あのときの私は逃げることを悪だと思っていたわ。だけど今は……今も多少そうは思うけれど、ときには必要なものだと理解している。そのつもりよ」

 できるだけ言葉を選んでそう伝えると、風香は大きなため息を吐いた。

「秋奈ちゃんと結構付き合ってるけど、いつもそういう発言に心臓を跳ねさせられるよ」

「改善したいとは思っているのよ。中々難しいわ」

「いや、私も慣れなきゃなと思って」

 ケラケラと笑う風香の表情がいつも通りになるのを見て、ようやくほっと胸を撫でおろす。私の未熟な部分を笑って受け止めてくれる彼女には感謝してもしきれない。

「なんか何でも話せそうな気分だよ」

 海の方に行かない? という風香の提案に乗り、私たちは砂浜へと向かった。

 夜、しかも冬の砂浜に人がいるはずもなく、私たちは二人きりで適当な場所に座る。見上げると、夕方あたりまでいた雲たちはどこかへ流れてしまったのか、今はすっかり無数の星が暗い空を彩っている。都会よりも空気が澄んでいるというのもあってか星の数が増えたようにさえ思う。実際には元からそこにあって、普段は見えていないだけだが。

「上に何かあった?」

「星よ」

「綺麗だね」

「そうね。本当に、綺麗」

 それきり会話はなく、ただ視線だけが上向いて、お互いに夜空の瞬きを享受する。しばらくしてからふと横を見やると、風香は何だか、何と言えばいいのだろう。どういう表現も当てはまる気がしない、形容しがたい表情だった。笑っているようでも泣いているようにも怒っているようにも見える。喜怒哀楽の混ざったその顔がこちらに向けられると、視線がぶつかって、視線同士がパチリと音を立てた気がした。

「秋奈ちゃんは私に聞きたいこと、ない?」

「それは、聞いて欲しいことがあるということかしら」

 質問に質問で返すと、ほとんど光は差してないけれど、風香が小首を傾げているのがわかった。口の端を上げただけのような薄い微笑みが夜に透けて見える。しばし思案した後、聞きたいことをいくつか思いつく。しかし。

「聞いてもいいのか、悩むようなことばかり思いつくわね」

「さっきの私みたいに聞いちゃえばいいじゃん」

「なら、聞くけど」

 一拍置いて、すっと息を吐いて、それから吸う。

「風香、あなたここに何をしにくる予定だったの?」

 パチパチと瞬きを繰り返す瞳を見つめる。風香はイタズラが露見した子供のように笑って「バレちゃってたか~」なんて嘯いて見せた。

 バレるというか、疑問に思ったことをぶつけただけだった。確信があったわけではない。私が急に『逃げたい』と言い出したのにやけに用意がよかったこと。一人での予約じゃないかと尋ねられていたこと。そのたった二つのことからイヤな想像をしてしまった。だから鎌をかけるように尋ねただけだ。

「死ぬつもり、だったとか」

 懸念は言葉になって冷たい空気に混ざって風香の耳へと届いたらしい。きょとんとした後、ブンブンと音を立てるくらいの勢いで首を振った。

「え? いやいやいや! そういうのじゃないよ! びっくりした。何それ。どこからそんな話になってるの!?」

「やけに海を気にしていたし、そう思うと怖くて、今聞かないとって。聞いて欲しいことも本当は死にたくないとかなって、そう思って……」

「ぜんっぜん違うよ。いや、ちょっと惜しいのかな……?」

 早とちりどころか盛大な勘違いを晒してしまった。外気は冷たいのに頬だけが熱い。温度差で感覚がおかしくなってくる。体まで暑くてコートを脱ぎそうになるが、どう考えても寒いのは明白だ。

「でも、惜しいのね」

 気になった部分に突っ込む。

「惜しいっていうのも少し違う気がするけど……うーん、そうだね。悩んでたから旅行に来るつもりだったっていうのは本当」

「惜しいかしら」

「悩みがあるってところは同じでしょ」

 随分とざっくりした判定だ。

「いや、一緒にするべきじゃないね。ごめん。死ぬかどうか悩んでいる人に比べたら、私の悩みなんて些細なものだよ」

「そう言われても何と返せばいいのかわからないわ」

「秋奈ちゃんのせいでしょ」

「そうかしら……」

 しばらくの間、沈黙がお互いを包んだ。じとっとした目線を感じるが、合わせる顔がないというか、まだ頬が熱いままで上手くものを考えられないというか。風が海へと向かってごうと吹く。髪がバサバサと散らばるように広がった。

「帰ったらお風呂に入り直そうかしら」

「そうしよう。潮風はよくないし」

 風香の綺麗な髪が傷む様は想像するだけでイヤだった。

「それで、悩みって何? 教えてくれなかったけれど」

「何でもないよ」

「何でもないはないでしょう。人生経験の少ない私に何か言えるとは到底思えないけれど、何も知らないままあなたが悩んでいるという事実だけを伝えられても困るわ」

「困ってくれるんだ」

「当たり前じゃない」

 彼女にとってそうでなくとも、私にとってはただ一人の友人だ。その友人が悩んでいるということだけはわかって、その中身はわからない。そんな状況で困らないわけがない。聞いたところで私にどうにかできる問題かはわからないし、そもそも私に問題解決能力があるとは思っていない。私自身が彼女の悩みを知っておきたいという、言ってみれば傲慢で、独善的な我が儘のようなものだ。

「秋奈ちゃんの引きこもりのこととか、いろいろ聞いた後で話すのもちょっと恥ずかしいんだけどさ」

「安心して頂戴。何を聞いても笑わないわ。約束する」

 観念したように風香は息を吐く。白くなったそれは夜の海の空気に溶けて消えていく。

「じゃあ言うけど……私ね、好きな人がいるんだ」

「そう。それで、悩みって何なのかしら?」

「それが悩み、なんだけど」

 話が見えてこない。視線で続きを促すと、彼女は困ったように眉を下げる。

「普通って何なのかな。自分で言うのもなんか変だけど、私って結構普通に生きてきたと思うの。小学校から高校までのこともそうだし、家族のこともそう。友達のことだって。そりゃあたまに喧嘩したりすることもあるけど、それも普通のことでしょ?」

 風香は立ち上がって海の方に向かって歩き始める。私も自然とそれに付いていく形になる。背中越しだから風香が今どんな表情を浮かべているかはわからない。

「でもね。たぶん全部が普通の人っていないんだよ。私もそう」

 波がやって来るギリギリまで歩いて、風香は振り返る。

「私ね、女の子が好きなんだ」

 言葉に詰まる。安易に言葉を口に出していいものか躊躇う。しかしこの躊躇こそが、彼女がそれを語ってこなかった理由なのだろう。空いた間は本当に数秒で、けれどその数秒で十分だった。私が何かを言う前に風香が口を開く。

「しかもその女の子ってね。秋奈ちゃんなの。引くでしょ。友達って顔しながら、本当はずっと下心で秋奈ちゃんに付き合ってきたんだよ」

「それは……その、すごいわね」

「え? すごい?」

 きょとんとした顔で首を傾げられる。角度が付きすぎて直角に近いほど傾けられた顔は、夜の暗さも相まって少し怖い。

「すごいわよ。だって私、気付かなかったわ。それだけ頑張って隠していたんでしょう?」

「うーん、そうなんだけど……何とも思わないの?」

「戸惑いすぎて何も考えられないのが正直なところよ」

 いろいろと思うことはあるはずなのに、そのすべてが浮かんだ瞬間に消えていくのだ。何を言っていいのかもわからないけれど、勝手に口は動いてくれる。

「秋奈ちゃんは真面目だからね。忘れてくれるのが一番ありがたいよ?」

「忘れたくても忘れられないわよ、こんな告白」

「それはそうだね!」

 海が泣く。音を立てて足を攫いに来る。すんでのところで二人してそれを避けて顔を合わせる。じっと見ているとどちらからでもなく笑い始めてしまって、何だかおかしくて、そのまま体が沸騰してしまいそうな感覚に陥る。寒いのに体の芯は熱くなっていて、今更ながら先ほどの風香の発言を咀嚼して飲み込めたみたいだった。

「返事をした方がいいのかしら。その、あなたの好きという言葉に対して」

「え~? いやいいよ。ただ一方的に宣言しただけだし」

「言われっぱなしというのもおかしな話だと思うわ」

「いいじゃん。友達として好きだよ、秋奈ちゃんのこと」

「そんな取って付けたように言われても信用できるわけがないでしょう」

 お互いに答えをわかっていて、それを知りたくなかったし、伝えたくなかったのだと思う。

 人間関係にはきっと妥協が必要なのだ。例えば父と母は正反対の性質を持っているが、お互いを擦り合わせて一緒にいることができるのだろう。何でも知っていればいいというわけではない。知らない方がいいことだってある。

 だから彼女が何と言ったとしても、最初から返事をする気はなかった。

「秋奈ちゃん。なんか歌、歌ってよ」

「えぇ?」

「私の今の気持ちに合った歌でもいいし、秋奈ちゃんの気持ちに合った歌でもいいよ。何なら両方でもいいし」

「そんな歌、あるかしら……」

 頭の中で知っている歌をざっと並べてみて、これと思ったものを歌う。夜だからそんなに大きな声は出せない。しかしどんなに大きな声を出しても、今なら眼前に広がる海が全てを受け入れてくれる気がした。

 叫ぶように、心の底をひっくり返すようにして歌う。誰に届けるわけでもない歌を、ただ歌う。全部を曝け出せるはずがないのに、まるでそうすることが当たり前のような顔をして歌う。嘘ばかりを歌う。風香はそれを静かに聴いていた。知っている歌があれば口ずさみ、知らない歌には閉口する。

 言葉でも伝えられる気がしないのに、歌なら伝えられるなんて、そんな気がしているだけだ。でもその気休めに救われる人がいるのなら、やはり私は歌っていくのだろう。

 好きだという気持ちを伝える歌だって、それを否定する歌だって、何だって歌う。自分の気持ちもわからないし、風香の気持ちもわからない。わからないまま喉が枯れるまで歌い続けた。

「秋奈ちゃんの歌はやっぱり上手だね」

「そういう仕事をしているもの……現在進行中でそこから逃げているわけだけど」

「そのことは今日寝るまでは忘れよう。明日の朝から考えよう」

 私が逃げ出した理由も、風香の悩みも、何も解決していない。

 それでもこの日があったということを思い出すだけで、なんとなく毎日を生きていけそうな気がしていた。

「帰ってからのお風呂はどうする?」

「もちろん別で入るわよ」

「そこはそうなんだ……ちぇ」

「線引きは必要でしょう」


 〇


 結果としては大ポカをやらかした、ということで済んだ。

 収録の日程を忘れて友人と旅行に行ってしまった。そういうことになった。社会人としてあり得ないミスだが、なんだかんだ十代ということもあってお目こぼしをしてもらえた。もちろん実際にはそんなことはなく、これからの仕事に支障をきたすのだろう。一度そういうミスをやらかしたという事実は消えない。

「よかったね。それくらいで済んで」

「よくないわ。……ただ、思ったよりも大事にはならなかったわね。自分の影響力を過大評価していたみたいで恥ずかしいわ」

 あれからも風香とはこうしてたまに食事をするくらいの仲に留まっている。よき友人であり、今もって唯一の友人である。

「そっちはどうなの? 大学生は三年生から就活をするものだと聞いているわ」

「まだ二年生だよ。大丈夫大丈夫、最悪秋奈ちゃんにお世話になるから」

「誰かを養えるほど稼いでないわよ」

 表面上のやり取りに問題はない。決定的に変わったのは、ただお互いの家を訪れなくなったことだけだ。私も彼女もそういう宣言をしたわけではないが、そういう不文律がいつの間にか敷かれている。

「そういえば秋奈ちゃん、あのとき生き方について歌ってたよね」

「そうね」

「生き方がわからないっていう歌。あの歌私好き。それで、どうなの?」

「どうって……生き方の話よね?」

「そうだよ」

 ニコニコと人好きのする笑顔を浮かべながら聞いてくる風香の意図はわからない。少しだけ考えて、私は答える。

「わからないわよ、生き方なんて」

「やっぱり」

「やっぱりって何よ」

 机の上に並んだ二つのカップから出ている湯気がゆらゆらと揺れる。ミルク入りのそれを手に取ると、彼女は笑顔のままでこう言った。

「やっぱり、秋奈ちゃんは嘘吐きだなって」

「……失礼ね」

 残ったカップを手に取って無糖のそれをすすると、舌の上でじんわりとした温かさと、同時に苦みが広がった。


 あのとき知らない海で歌った歌は、きっと嘘と本当が半分ずつだった。

 どっちが本当でどっちが嘘かなんて、それこそどっちでもいい話だ。

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知らない海で歌った歌 時任しぐれ @shigurenyawa

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