第3話 僕の名前は

「おや! おきたかい!」


 幼女が、目を覚めると満面の笑みを浮かべて僕が眠るベッドの横に立っていた。それはもう鼻息がかかるほどに顔を間近に近づけて。

 老婆……命の恩人シシリオが言った言葉を無邪気に繰り返す幼女に、シシリオの面影のようなものを感じる。

 赤い頭巾を深々と被る幼女の顔はよく見えない。だが翳る奥の目と合うとさらに笑顔を咲かせて、跳び跳ねて喜びを全身で表現した。


「ばぁば! おきた! にぃにおきたよ!」

「おお。そうかい。そりゃよかったねェ……って怪我人の前ではしゃぐんじゃないよ」

「あいてッ」


 老眼鏡を外しながら暖炉横の扉から出てきたシシリオは、狂喜乱舞する幼女を見るや否や、その赤い頭巾を被った頭の上から拳をコツンと軽くぶつけた。

 幼女は頭巾の上から両手で頭をさするが、その表情は隠さない喜びにイタズラっぽい笑みをこぼす。

 シシリオと幼女が横並びになると、背丈差が顕著だ。扉の高さとほぼ同じシシリオの腰の辺りに幼女の頭がある。


「二日振りだね、少年。元気かい?」

「二日……? また寝ちゃってたんですか」

「ああ。でもちゃんと元気になったみたいだね」


 そういったシシリオの言葉で、僕は自力で上体を軽くもたけでいることに気づいた。

 唖然としたまま僕はベッドから起き上がり、毛皮のシーツから繭のように新品の包帯に巻かれた体を出す。

 あの痛みで動かなかった体が、少しの違和感は残るものの痛みなく動く。

 自分の手を握り、開くことで沸いた実感。まるで体と心がちゃんと一緒になっていることを確かめるように。

 意識通りに動く体に、重たい感動がゆっくりと胸の奥で固まる。


「わーい! げんきになったなのですね! よかったなのです!」

「ハハッ。よかったねぇ。ネーシャのおかげさ。いつも看病してくれてたからね」


 両手を上げて喜ぶ幼女の頭に、今度は優しく手のひらが乗り、ふんわりと撫でる。

 その言葉でシシリオの言う“ちっこい連れ”が幼女であることを理解する。


「ほら、ネーシャ。自己紹介しな」


 シシリオが幼女の頭巾の尖った先端を摘まみ、頭の後ろに下げてやると、金で編んだように煌めく栗毛のおさげがこぼれ出た。そしてその大きくまん丸な瞳も黄金のような見惚れてしまう琥珀色をしている。

 シシリオのオオカミに似た鋭い様相とは正反対な、リスや赤子のフクロウを思わせた。


「はい! ネーシャは『ネーシャ』! ばぁばとおんなじ『ロッソのネーシャ』なのよ!」


 ネーシャはありあまる元気を爆発させるように自己紹介した。

 

「少年、このちっこい連れがもう一人の命の恩人だぜ。感謝しな」

「あ、ありがとう。ネーシャ……さん?」

「うむ! 苦しゅうない!」


 幼い子供にさん付けするのは恭しいとも思うが、命の恩人を呼び捨てにはできない気持ちも相まって、自分に発言に自分でも首を傾げた。

 けれどネーシャは気に入った様子で小さい体を大きく見せようと胸を張り、舌足らずに王様のような態度を取った。

 それがシシリオには滑稽だったようで口を開いて大笑いした。


「ハッハッハッ! 一体どこでそんな言葉を覚えたんだネーシャ」

「ピップおじちゃん! いいことしたらそういえって!」

「クックック。全くあいつ変なこと教えやがって……まあいい」


 シシリオは笑いをかみ殺すとそう呟いた。


「それじゃ少年。いつまでも少年って呼ぶのも他人行儀だからな、お前さんの名前を教えておくれ」

「僕は……っ……」

「――無理なら話さなくて構わないよ。ずかずか土足で行っちまうのがアタシだからね。時々無礼になっちまうのさ」

「いや、その……」


 言葉が詰まった僕に、シシリオを瞬時に態度を一変させる。それは反射的で、過去にそういう経験を何度も経験してきたことを想像させる転身の速さだった。

 しかし、違う。

 僕が言葉を詰まらせ、言葉を濁したのは言いたくないからではなく、むしろ言えないからだ。記憶――僕自身の名前さえこの脳からすっぽりと消えてしまっているのだから。

 そして僕もそれが異常だと理解しているからこそ言い淀んでしまった。得体の知れないべったりとした奇妙な恐ろしさがあり、シシリオの目から見ればそれが名乗ることを怯えているように写ったのかもしれない。


「無いんです……記憶が……」

「なんだって?」

「記憶が、名前も……僕が何者であるかも、全部……覚えていないんです…………」


 口に出した言葉が固着する。

 途端に胸の奥が潰れるような孤独感が押し寄せる。

 世界からぽっかりと僕だけの座る椅子が無くなってしまったかのような。


「………………」

「どおしたの?」


 何も分かっていないネーシャの声を押し退けて、震えてしまいほど縮こまった背に不意に、大きくて暖かいものが触れた。

 シシリオの手だった。


「じゃあお前さんは今日から『レッド』だ。『レッド・ロッソ』と名乗りな」

「……え?」


 予想外の言葉に僕は彼女の顔を見る。


「瞳の色を見れば分かると思うが、アタシとネーシャは血は繋がっていない。孤児院に捨てられていたネーシャをアタシが引き取ったんだ。でもそこに家族になれないって道理はない。そうだろ、ネーシャ?」

「? うん!!」

「少年――いや、。お前さんがどこの誰だとか、記憶喪失だとか、そんな些細な話はどうだっていいのさ。もし名前を忘れているというなら、"前の自分“を思い出すまで、"今の自分“を生きればいい」


 僕の抱える不安を一蹴するシシリオに嫌味はなく、人を惑わす甘言でもなく、軽々しくもなかった。

 すらすらと淀みなく出てくる言葉の数々はシシリオがその手の常套句に長けているからではなく、むしろもっと純粋なものである。

 それは本心から彼女が信じていることだからだ。用意された言葉ではなく、彼女の人生における"当たり前“から紡がれるがために、一切の淀みがないのだ。

 そのことは会って間もない僕にも伝わる。

 

 ただ優しく、生きてきた道のりをゆっくりと語るように、彼女は膝を折って僕と目線を合わせる。


「アタシゃね、いいかいレッド。不器用なんだ。だから回りくどいことは言わないよ。お前さんが記憶がなくて怖いってなら、ここが今からお前さんの『家』だ。レッド・ロッソとして、今ここから始まるのさ」

「ここが、僕の家……?」


 窓から朝の陽が差し込んだ。

 照らされていく、部屋が、僕たちが。


「僕は、レッド・ロッソ……」

「にぃにのなまえはレッド! かっこいいなまえですのよ! でも、んんん? ネーシャとおんなじロッソなのよ?」

「ああ。そうさ。同じだ」


 シシリオの言葉にネーシャは段々とその意味を幼い頭ながらも理解していき、琥珀色に輝く瞳をより一層輝かせた。


「じゃあじゃあ! レッドも『かぞく』! なのですよ!」


 わーいわーいと両手を上げて喜ぶネーシャ。どしゃんと勢いよく、怪我人の僕の足元に飛び込んでくる。そして綻んだ顔を隠すように毛皮のシーツに頭を埋める。

 

 そうか。

 ネーシャにとって、僕はもう一週間以上看病を通じて顔を見せてきた人間だ。

 それも毎日包帯を綺麗なものに換えてくれるほど献身的に。

 他人や顔見知りという言葉で済む関係性ではないのだ。

 僕は眠っていたから絶対に知り得ないけれど、確かに優しく小さな手のひらが僕を生かそうとしてくれていたのだ。


 幼いネーシャの心にはすでに親愛のような感情が芽生えていた。 


「えへへ」


 シシリオはネーシャが飛び込んだ瞬間、咄嗟に両手を伸ばしたが、僕が首を振って制止した。彼女は肩をすくめ、困りながらも微笑みを浮かべた。

 僕も困ったように笑った。ゆっくりと手を持ち上げた。その行き先は両手とも、埋めたネーシャの頭。

 そして抱くように、彼女の幼い頭を軽く撫でた。 


 なぜだろう。

 なんでかなぁ。

 孤独感はなくなっていた。

 寂しくなくなった。 


 シシリオは僕の心にあった不安をいとも簡単に吹き飛ばして見せた。

 ネーシャが僕にあった躊躇いの境界を容易に越えて見せた。

 代わりに小さな暖かい火が僕の中に灯った。温かく、大事にしなければと思った。


 僕はレッド・ロッソ。

 僕はレッド・ロッソ。

 僕は、レッド・ロッソ。


 心で何度も呟く、シミがつくほどに。

 呟くほどに嬉しくて――嬉しかった。


 恐怖や不安や緊張や……孤独感が晴れていくと、僕の腹の虫が鳴いた。一週間以上の空腹でもう遂に耐えられないと言わんばかりに、大きな声で。

 静かな森小屋にそれだけが響いた。僕は気恥ずかしさに顔を赤くした。


「よし!」


 シシリオが立ち上がる。

 老婆とは思えない、若々しく、清々しい笑顔で。


「じゃあ朝御飯の準備をしようか!」


 僕は、レッド・ロッソとなった。 

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2024年11月9日 12:00
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2024年11月10日 06:00

かくして魂は君になる 洸慈郎 @ko-ziro-

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