第2話 森に住む老婆
まず耳が機能を取り戻し、音が聞こえ始める。
衣擦れや僕の心音から呼吸。
パチパチと燃える焚き火。
唸るような風と木々のそよめき。
聞き取れる範囲が広がっていき、小さな物音も聞こえ始める。
ギィ……ギィ……と軋む音。
カツン、カツンと木と木がぶつかるような軽い音。
シャッ、シャッと削るようなか細い音。
無音とは程遠い、様々な音が忙しく僕の冴え渡った聴覚へ飛び込んで、おとなしい演奏会が開かれる。
それは僕ではない誰かの存在を感じさせた。
次に戻ってきたのは感触、温度、痛み。皮膚から伝達される感覚の類いだ。
流れている血液が血管を巡り、僕の体の輪郭をはっきりと写し出していく。と同時に痛み――それよりも麻痺に近い、主に両足にある感覚の消失部が明瞭になる。
体が作られ、今度は体に触れる物について知覚する。
全身を縛り付けるような圧迫感と、それとは真逆の柔らかい毛がのし掛かっているを感じる。
そこまではっきりとした体の輪郭をまた曖昧にするように、暖かさと冷たさが決して混ざり合わず僕の体に纏わりつく。
そして最後に、僕の意識がゆっくりと浮かんでくる。
まるで湖畔の水底から生まれた泡沫が、水面へと昇っていくかのように、深く重い暗闇の無意識から僕の魂が浮上する。
夜湖に差し込む月明かりが水中で光のカーテンを作り出す中、僕は身を任せて水面へと向かう。
やがて背骨に熱いものを感じると、別々だった意識と体が重なって、僕は瞳を開けた。
「………………」
最初は何も分からなかった。何も見えなかった。
ぼんやりとした視界が段々と鮮明になり、煙のような思考が一本の芯を持っていく。
目が暗闇に慣れていき、現実世界を認識し始める。
見覚えのない天井がすぐ目線の先に写った。
ここは。
どこ?
僕はベッドに寝かされていた。
斜めから差し込む橙色の火の明かりが、薄暗いながらも梁の煤汚れを露にする。
そこからゆっくりと視線を落とすと年季の入った丸石を積んだ壁があり、いくつかの古ぼけた家具や道具が見えた。
光だけを通すような擦った硝子窓から差し込むのは月光。夜更けのようだ。
そして明かりに誘われる蛾のように、視界の端でゆらゆらと揺れる暖炉の焚き火へと視線が動く。
ぼうと優しく室内を照らす焚き火はパチパチと燃え、その上に架けられた鉄鍋でくつくつと何かが煮えいる。
その前で大きな毛玉が揺り椅子に座っていた。揺りかごのように前後の脚を繋ぐ弓形の板が床を打ち、キィ……キィ……と軋ませる。
よく見れば、毛玉の座面辺りから手が生え、焚き火に照らされて分かった。毛玉はシャッ、シャッと何かを削っているような音を出しながら、黙々と手を動かしている。
そして手元の何かを払うような動きを見せると、焚き火は一瞬だけ強く燃えた。
何をしているんだろう。
純粋な、確かめたいという気持ちで僕は身を乗り出そうとベッドから起き上がろうとした。
しかし。
「アッ…………っ」
不意に首を絞められたカエルのような声が出た。
ビキンッ。
全身の骨に一本の大きな亀裂があるような、一瞬呼吸すらもできなくなる痛みが僕をベッドへ押し付ける。
「ん?」
それでも僕が作り出した雑音に紛れてしまいそうな物音に、焚き火の前に座る毛玉は目ざとく反応した。
毛玉は手を止め、こちらに振り返った。
振り返った、とは言っても神経を、骨を裂くような鋭痛を前にただでさえ暗く、焚き火を逆光にする毛玉の顔を確かめる余裕はなかった。
物音と影で丸まった毛玉が背筋を伸ばすように、ゆっくりと体を起こしているのは分かった。立ち上がると、その背丈は椅子に座った毛玉の時よりも二倍はある。
焚き火の逆光から浮かび上がったのは、人の像。
手に持っていたノミと彫りかけの木のスプーンを椅子の横にあったサイドテーブルに置き、暖炉の上にある燭台を手に取る。
焚き火を燭台の蝋燭に継ぐと、ぽぅと広がるように毛玉の正体――僕を覗き込むようにこちらを見る老婆の顔が照らされた。
「おや、起きたかい」
しゃがれてくぐもった声で老婆は嬉しそうに唇をつり上げた。
その老婆は、いや老婆と形容していいのかいささか疑問に思ってしまうほど、若々しい人相が浮かび上がる。
麻糸をほどいたかのような白髪。しかし顔や手の皺は走りながらも瞼や頬は潰れずにピンとハリがある。
真っ直ぐと伸びた背筋は老体らしからぬ胸と臀部の膨らみを際立たせ、また全身の肉付きも戦士ように引き締まっている。
その深い青色の瞳に若かりし日の凛々しさや雄々しさを色濃く残している。そしてそれを物語るように左頬から眉上まで伸びる古い切り傷が、生々しく老婆の人生を垣間見せる。
きっと若ければ美人であったのだろう。人を導く女傑のような覇気を感じさせる。
老婆は暖炉から僕の寝るベッドまで数歩で近づくと、ぐいと顔を近づけた。
「私が助けなかったら今頃オオカミの餌だったね、少年。調子はどうだい?」
眉毛を片方だけ上げ、長い犬歯を覗かせて不敵に笑う。
まるで、老婆の皮を被った若いオオカミようだった。
「ぅ――ッ」
誰ですか、助けてくれたお礼を言わないと、いろんなことを一度に喋ろうと乾いた唇を開き、息を吸う。
「――ッ、ゴホッっっ!? ううッ……」
だが空気が乾ききった喉をなぞり、こそばゆさに反射的に咳き込んだ。
そして異物感を取り払おうとする咳の衝撃は、胸に大きな杭を打ち込んだかのような想像を絶する痛みとなって弾ける。
息がつまる痛みに無意識に体が硬直し、顔の筋肉が勝手に強ばる。
「ああ悪い悪い。どうだいなんて訊くんじゃなかった。その体で無理して喋ろうとすんじゃない」
先程の態度からうって変わり、心配そうに眉を寄せ、優しい声音で僕を落ち着かせようとする。
何度も絞り上げた跡がある拭い布で脂汗を軽く拭ってくれる。ひんやりしていて、火照った体に気持ち良い。
燭台を置いて枕元の小棚から水差しを取り出すと、その細長く尖った注ぎ口を僕の唇へとあてがった。
「ゆっくりでいい。寝たまま飲むのは苦労するが、そのままゆっくり飲みなさい。これも一緒に。調合した鎮痛薬だ」
「ぁ……ん」
老婆の献身に従って、僅かに傾けられた水差しから僕は少量の水と丸薬を口に含み、飲み込んだ。渇いた土壌に雨がすぐ馴染むようにそれだけで口や喉は潤った。
目線で「もっと欲しい」と訴えると、老婆は再び水差しを僕の唇へと近づけた。一口、もう一口とゆっくり飲んでいくと、ついに水差しの中身を全部飲み干していた。
「ぷはっ」
「おや驚いた。全部飲むなんてねぇ。意外と元気じゃないか、少年」
老婆は少し離れた所の椅子を片手で持ち上げると、僕のそばに座る。組んだ脚に肘をつき、顎を支えて体を折って間近に顔を近づける。
疲労感と二度の激痛に足先から頭まで、指先一本に至るまで動かない僕は瞳だけを、老婆の青い瞳に見合わせた。
喉が潤ったおかげで何とか声を出すことができそうだ。何とか口を開ける。
「あ、ありがとう、ございます」
自分でも驚くほどか弱い声が出た。
少しだけ血の味も込み上げた。
「いいさね。人助けはして当たり前ってもんだ。まあ感謝されるのは気分が良いから、じゃんじゃん命の恩人に感謝していいからね」
老婆は屈託もなく言いきる。
そのがめつさに僕は少しだけ緊張の糸がほぐれた。
「ここは……?」
「アタシが隠居してる森小屋さ。罠を確認しに行ったら運良く凍え死ぬ寸前のお前さんを見つけてね。急いでウチに運んだ」
壁を見ると干物や木の実で一杯の袋の横には、解体に使うような鉈や小動物程度が入りそうな罠檻、トラバサミがかけられている。
そのどれもがシミやキズを持ち、長く使われているのが分かる。
あの時は逃げるのに夢中で周りを良く見ていなかった(良く見ていても景色が変わる訳でもない)が、あんな鬱蒼とした森で僕を見つけてくれたのは奇跡に近い。
「怪我もひどいもんだから薬草やらなんやらで看病してたんだが、お前さん一週間も目を覚まさなくてね」
「一週間……も、僕は寝ていたんですか……」
「ああ。森を出て町の医者に見せればもっと早く目覚めてたかもしれないが、お前さんの容態はかなり深刻だった。だからこうして目を覚ましてくれて安心したよ」
「それは……一週間ずっと付きっきりで……?」
「半々かな。もう寝ちまってるが、ちっこい連れがアタシが見れない時に見てくれてたよ。目を離した隙に死なれちゃ気持ち良く寝れなくなるからね」
ちっこい連れ……老婆の背丈であれば大の男でもなければほとんど『ちっこい』と形容しても適当そうだ。
老婆は茶化すように言ったが、こんな小さな森小屋で意識のない僕を二人がかりで介抱してくれたということは、僕が危篤な状態に陥っていたのは本当のことだろう。
疑うわけではないが、死に瀕した実感のなさに、一週間も目を覚まさなかった事実に信憑性を与えてくるのは、この得も言われぬ仄かな飢餓感だけだった。
老婆は傷痕をなぞり上げるように顎を支える手から人差し指を伸ばし、ぽんぽんと叩いて何かを思い出そうとしていると、不意に指が止まった。
「そういえば挨拶するのを忘れていた。アタシゃシシリオ、『シシリオ・ロッソ』。命の恩人の名前だからちゃんと覚えておくんだよ」
名前。シシリオ・ロッソの名前が蝋燭の火で明るくなる。
逆にそれが鋭く僕に焼き付く。
揺らぐ火の当たらない明暗が僕の中ではっきりと、欠けて
僕の、名前はなんだ?
走り続けた足を止めて後ろを振り返ると走ってきた道がある。
そのはずであるのに延々と続く人生の軌跡をわずかに振り返っても僕が思い出せたのは、あの薄暗い、霧深い森を走り、逃げ続けた時の記憶だけ。
円の縁をなぞって初めと終わりが分からなくなるほどに、記憶の奥へ奥へといこうとしても森を走り続ける僕しかいない。
常識的ではない事態。
おぞましい感覚に支配される心を沈め、シシリオに気づかれないないように平常心を取り繕う。
「シシリオ、さん。覚えました……」
「おーよしよし。
シシリオは満足そうに歯を見せて頬笑い、老婆とは思えない大きく分厚い手のひらで僕の頭を優しく撫でた。
撫でられるなんて少し気恥ずかしかったがその手つきは馴れていた。安心感があり、自然と撫でられるのに身を任せていた。
たっぷり一週間も寝ていたというのに、次第に眠気が迫って来、瞼が重くなってくる。
「眠いなら寝なさい。それが今のお前さんには一番の薬さ」
「でも、僕、何も…………」
まだ何も話せていない。
記憶がなければ話せることもないけれど、まだ感謝もしきれて ないし、聞きたいことも……たくさんあるのに……。
視界が蕩けはじめ、明かりを忘れ始める。
欠伸を噛み殺す。
「またお前さんが目を覚ました時でいいさ。大事なのは、触れられること。知るなんて明後日いい。だから――おやすみ、少年」
その言葉を聞いて僕は意識の崖から手を離し、眠りへと落ちていく。
――歌が。子守唄が聞こえてくる。
優しくて、柔らかくて、懐かしい。
「
懐かしい……?
聴くのは初めてのはずなのに……。
……でも、不思議と落ち着く。
多分、子守唄なんて聴く歳でもないだうに……。
濁った沼底のような深い眠りの底。
ぼんやりとした感覚で耳を傾ける。
そしてゆっくりと掬い上げられるように、意識が夢の海から浮上していく。覚醒していく。
目を開ける。
そこににんまりと天真爛漫な笑顔を見せる――。
「おや! おきたかい!」
幼女がいた。
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