かくして魂は君になる
洸慈郎
第一章:青と剣と赤
第1話 プロローグ
「ハァ、ハァ、ハァ……」
粗い、悲鳴のような息遣いが耳に響く。
僕のものだ。
気がつくと、深い森の奥を走っていた。
太陽を遮るほど厚い木々の葉が空を覆い尽くし、濃霧が立ち込めるほどジメジメと湿った空気がさらに視界を悪くする。
霧から突如と現れる木を避けるように方向転換を繰り返す。
薄暗く、苔が蒸す森はまるで古くから生きて命を宿したかのように、呼吸のような風が弱く吹く。
その一息は骨まで凍てさせてしまうほどに冷たい。
どうして走っているのか、僕自身も分からなかった。なんで?だとか、いつから?だとかの疑問を持てるほど余裕はなかった。
逃げなきゃ。
逃げなきゃ。
ただずっと頭の中でも「逃げろ」と言葉が繰り返される。他の思考を差し置いて、逃走だけが埋め尽くしていく。
全身を突き動かす。
濃霧が肌に付いて水滴を作り、葉っぱや枝で切れた細かな傷に沿おうとも止まらない。
乾ききった喉の奥、肺から血の味が漂ってこようとも構わない。
地面や、木々の根や、霜柱や小石を踏んで赤黒く染まった足は一向に動き続ける。
ある一つの感情が、僕の体も頭も支配していた。
恐怖。
体の芯から込み上げてくる恐怖だけが。
何一つ覚えていない僕が覚えている、全ての感情。
正体不明の恐怖の主から僕はいつからか必死に逃げていた。
魔物に追われているのか、襲撃者から離れようとしているのか、考えうる可能性を列挙する余裕はない。
しかし理性的とは縁遠く、本能的と呼ぶのに相応しい行動原理は、僕から痛みと思考を奪うほどに強烈に焼き付いている。
延々と続く森の世界に僕は、進んでいるのか、同じ場所をぐるぐると回っているのか、それさえ解らない。
逃げる、というのに進んでいるのか解らないだなんて、少し変だ。進まなければ逃げられるはずがないのに。
それでも走り続ける。
「うっ……!」
僕は地面から飛び出した木の根に足を捕られた。傷ついた足と疲弊している体では、捕られていないない方の足を前に出す余力は残っていない。
ならば反射的にと、受け身をとろうと倒れる方向へ咄嗟に手をつこうとするが、体は言うことを利かない。
転んだことのない赤子が地面に激突する痛みを知らず、受け身をする方法も意味も知らないように。
僕は結果、顔から地面へと叩きつけられた。
ガシャンッ!!
「ンヴッッ~~ッ」
声にならない鈍痛がじっくりと染み渡る。身をよじらせて悶絶し、息を吸うことを忘れてしまう。
変わりに全身を強打する痛みでようやく僕は霧が晴れたかのように、恐怖で支配されていた頭に別の感情を生み出す余力を得た。
痛い。寒い。
転んだはずみに地面の表面が剥がれて体へと張りつき、そして口へと入った泥土に痛みとは別に顔をしかめる。
しかしもはや体は限界を迎えようとしていた。
チカチカと視界が暗転し、思考が途絶え途絶えになる。酸欠なのに痛みと圧迫感で呼吸がままならない。腕や足から始まった震えはすでに全身へと広がっている。
眠気とは異なる、気絶に近いそれが足音を立てながらこちらへと歩いてくるのが分かった。
鈍足になった思考を巡らせる。
早い鼓動が内側から耳をつんざく。
指先も動かせない。唯一、目だけが動いた。
「う、うぅぅ……」
少しでも体を動かせば呻き声が自然と喉の奥から込み上げた。今にも意識を手放しそうだ。
僕は。
僕は……。
複雑な思考ができない。
最後に僕は手をつけなかった原因へと目を向けた。
あれ、は。
僕より少し先に飛んでいる、銀色の何か。
剣……?
その形状は鞘であり、鞘に納まっている剣だった。
どうやら僕は転ぶまで、それを落とさぬように胸に抱え持っていたらしい。逃げなきゃいけないのに、持っていては逃げにくい剣を大事に抱えながら走っていたらしい。
何とも馬鹿馬鹿しいが、それこそが僕が受け身をとれずに転んだ理由であるのは働かない頭でさえ直感できた。
なんで、僕は。
なんで僕は剣を持っていたんだ?
その剣に見覚えがなかったことはおろか、持っていた事実さえ僕は覚えがなかった。
そして完全に世界が暗黒へと落ちる寸前、もう一つ、蝋燭を吹き消して立ち上る白煙のように、あやふやな疑問が浮かんだ。
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