割れた鏡

坂月タユタ

割れた鏡

 住まいを探す時の条件は人それぞれだが、私の最優先事項は洗面台だ。

 独立した洗面台のない生活なんて、ありえない。そう痛感したのは、大学入学時に借りたアパートで暮らし始めた時だった。


 親が家賃だけで決めたそのアパートは駅から遠く、部屋も普通のワンルームより一回りは狭かった。そして、水回りは三点ユニット――バス・トイレ・洗面台が一つにまとまった、良くある設備だった。ただ、いくら良くあるとは言っても、それが優れたものであるとは限らない。私にとっては、鏡は小さいし、化粧品を置く場所もないし、何より不潔だし、とにかく良いところが全くなかった。


 大学の友達はもっと良い部屋に住んでいた。特に真由の部屋はすごかった。大学の近くにあるからよく遊びに行くのだが、贅沢な1LDKに、立派な洗面台が設置してあるのを見ると、羨ましさを通り越して憤りさえ覚えた。真由がサークルで一番の美貌の持ち主だったことも、関係あるかも知れない。とにかく、私もすぐに良い部屋に引っ越してやるんだと、サークル活動もほどほどに、アルバイトで引っ越し資金を貯めるのに勤しんだ。

 努力が実って、私は洗面台のある住まいを手に入れた。それが今の家だ。


 学校に行く前に、私は洗面台に立ち、じっくりと時間をかけて支度をする。前の家では我慢していたことができて、本当に嬉しい。特に大きな鏡がお気に入りだった。髪を巻く時も、ちゃんとサイドまで見ることができる。準備が終わると、私は見違えるほど可愛くなった自分の顔に満足しながら、鼻歌を歌いながら学校へと向かうのだった。


 一つだけ、妥協したことがある。それは、この部屋が、所謂事故物件だということだ。でも、大したことはない。部屋の中で猟奇殺人があっただとか、自殺した人がいるだとか、そういう訳ではなくて、単に前の住人が失踪したのだ。捜索届が出されているが、まだ見つかっていないらしい。残された荷物は家族に返却され、空室になったところに私が申し込みをした。正直言って、相場よりお得な家賃がありがたかったのだ。家のためにアルバイトを頑張り続けるのは辛い。幽霊なんて信じないし、そもそも出る幽霊だっていないわけなので、私は気ままに新居での生活を謳歌するのだった。


***


 色々と気になり出したのは、それから一ヶ月ほど経ってからだった。

 まず、この部屋は思ったよりも周囲の音を拾うということ。壁や玄関から時折物音が聞こえるが、仕方がない。所詮は賃貸物件なのだから、扉や壁の厚さなど知れたものだろう。


 あとは、床が白っぽいフローリングのせいだろうが、やたらと落ちた髪の毛が目立つこと。せっせと掃除しながら、こんなに抜けてたら禿げてしまうと少し心配になる。でも、いつもの美容院では何も言われないので大丈夫だろう。


 それから――。これは、何のせいなのかよくわからないが、いつも部屋の中に誰かがいるような気がするのだ。もちろん、一人暮らしの我が家に他人がいるわけない。乙女としてカーテンはバッチリ締め切っているし、何よりここは五階なので、誰かに覗かれていることもない。

 頭ではそうわかっているはずなのだが、やっぱり部屋にいると、誰かの気配を感じる。そんなわけが無いとは思いつつ、私はブラジャーを外す時も前屈みになって、周りに胸が見えないように注意する。夜眠る時も、妙に気持ちがざわついてあまり寝つけなくなっていた。


 それでも、私はこの部屋が気に入っていた。遊びに来た大学の友人たちも羨ましがってたし、真由も褒めてくれた。(お世辞かもしれないが。)

 そして何より、洗面台だ。洗面台のない生活に戻るくらいなら、私は多少の不自由は、我慢できる気がした。


***


 ある日のこと、その洗面台に異変が起きた。鏡が割れたのだ。とは言っても、大きな長方形のうち、右下の隅っこが5cmくらい欠けただけ。残る大部分で、鏡としては十分に使うことができる。


 それでも私は悲しかった。せっかく頑張って手に入れた理想の住まいが壊れてしまった気がして、何だか涙まで溢れてしまう。どうして割れたのだろう。何かをぶつけたりした覚えはない。床に落ちた破片を持ちながらそんなことを考えていると、一瞬、何かがその鏡面に映り込んだ気がした。はっきりとは見えなかったが、それは少しだけ、人の顔のように見えた。


 私はぱっと顔を上げるが、もちろん部屋には誰もいない。改めて鏡の破片を見ても何もない。きっと惨めな気持ちが見せた気の迷いだろう。私は涙を拭うと、手を切らないように破片をテッシュに包んで、引き出しの奥深くにしまっておいた。


***


 それから数日後。私の部屋に初めて男の子が遊びに来た。同じサークルの光希くん。ちょっと顔は薄いけど、背は高いしおしゃれの感度も良くて、並んで歩いても恥ずかしくはない。それに映画の趣味も合ったので、先日は二人で流行りの洋画を見てきたところだ。

 気の合う友達、と言ったら嘘になるくらい、私は光希くんが気になっていた。


 一緒にご飯を作って、テレビを見て、お酒を飲んだ後に、光希くんはもじもじしながら言った。


「ねえ、今日泊まってもいい?」


 こっくりと頷いた私の顔は、きっと真っ赤に染まっていたと思う。光希くんもソワソワし始めて、ちょっとだけ気まずい雰囲気になってしまった。


「お風呂、入ってくるね」


 私は逃げるように立ち上がると、そそくさと脱衣所へと向かった。湯船に浸かりながら、この後どうなるのかな、どんな風に振る舞えばいいのかな、と頬が緩むのを我慢しながら考える。ようやく手に入れた甘酸っぱい幸せを噛み締めながら、のんびりと天井を見上げた、その時だった。


「う、うわああああ!」


 不意に大きな声が聞こえた。光希くんだ。普段の彼からは想像できないくらい、大きくて鬼気迫る声。私は脱衣所の扉の前まで飛び出すと、向こう側に声をかける。


「どうしたの? 何かあった?」


 返事はない。寝室の方は驚くほど物音がせず、何が起きているか全く想像することができない。

 仕方がない。私は近くにあったバスタオルを体に巻きつけると、意を決して扉を開けた。


「光希くん?」


 彼は、腰を抜かしたような格好で、寝室の床に転がっていた。その目は大きく見開かれ、何もない壁の一点を見つめている。


「大丈夫?」


 顔だけ脱衣所から出すようにして訊くと、光希くんの目は私の顔と、壁の一点を行ったり来たりする。そして、弾かれたように立ち上がると、乱暴に鞄を掴んで言った。


「お、おれ、かえる!」


 真っ青な顔で玄関から飛び出して行った彼を、私は呆然と見守ることしかできなかった。背後でパキッと音がして、恐る恐る振り返ると、洗面台の鏡の端っこがまた、割れていた。


***


 光希くんはその日以来、サークルに現れなくなった。聞くと大学も休みがちらしい。真面目な彼らしくもない話だ。


 私はと言うと、光希くんに振られたという事実が飲み込まず、ずっと気持ちが沈んだままだった。私、何かしちゃったのかな。初めてのことだったので正解もわからない。友達に相談しても困惑されるだけ。誰も適切なアドバイスはくれない。


 でも、いつまでも落ち込んだままでいるわけにはいかないので、私は気分転換に髪を染めることにした。美容室で綺麗な茶髪に仕上げてもらい、パーマまで当ててもらったことで、気分は少しだけ上向きになった。


 部屋に帰って家事をして、ご飯を食べて、のんびりしていた時に、私はあることに気がついた。


 床に髪が落ちている。

 先ほど掃除をしたばかりだから、落ちてからそう時間は経っていないはず。だとすると、おかしい。その髪は、黒髪だった。


 私は鳩尾のあたりがギュッと締め付けられるのを感じた。その髪は転々と床に落ちていて、脱衣所の方まで続いている。私は近くにあったテレビのリモコンを掴むと、護身用に構える。


 誰かがいる、はずはない。でも、私のものじゃない髪の毛がある。

 真相を確かめるには、落ちた髪を追って洗面台のほうに行くしかなかった。


 足音を立てないようにしながら、脱衣所の入り口に立つ。そこにあるのは、いつもの洗面台。鏡にはリモコンを構えた私の姿が映っていた。


 ほっと息を吐いた瞬間、ピキッと音を立てて鏡にヒビが入った。続けてピキピキと音が鳴り、鏡面に稲妻のような亀裂が走る。


 私はその様子を呆気にとられて見つめていた。そして戦慄した。鏡が割れたからではない。ボロボロになった鏡に、確かに映っていたのだ。見たこともない、背の高い女の姿が。


 女はよれたシャツを着ていた。下半身はよく見えない。ボサボサの黒い髪の隙間から、灰色がかった肌が見える。

 そして、何より恐ろしいのは、映っているのが後ろ姿であるということだった。肩越しに私の顔が見える。つまり、いるのだ。私と洗面台の間に。こちらを向いて。


「いやあああああああ!」


 私は絶叫しながらリモコンを投げつけた。それは向かい合っているはずの女の体には当たらず、正面の洗面台の、鏡に激突した。


 バラバラと鏡が崩れ落ち、女の姿は見えなくなる。代わりに、もっと恐ろしいものが見えた。鏡が設置されていた壁の部分に、夥しい数の御札が貼られていた。何と書いてあるかわからないが、とにかく良くないものなのは明らかだった。鏡はずっと封じ込めていたのだ。あの女のことを。


 それから、私は半狂乱になって部屋を飛び出した。その日は真由の部屋に泊めさせてもらい、次の日に呼べるだけの友人を集めて、部屋から必要なものを運び出す。家族にお金を借りて、急いで引っ越し先も探した。しかし、時期が悪いのかほとんど出物がない。奇しくも最初に住んでいたアパートが一部屋空いていたので、その場で申し込んで住むことになった。あの部屋はすぐに解約して、残ったものは捨ててもらった。


 私は今、小さな鏡の前で化粧をしている。トイレの臭いが鼻につくが、構わない。あんな目に逢うくらいなら、これくらいの不自由なんて、何てことはないのだ。

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