騎士が愛したのは、忠誠を誓った王が愛する聖女【騎士の前日譚】

鈴木佐藤

本編

序章 前書き


 これは俺の日記だ。いや、雑記かもしれない。

 いずれにしても私記であるため、これを読んだものは火急的速やかに燃やしてほしい。誤字ではない。

 頭が悪そうで悪かった。

 こちとら人に育てられたのが随分遅かったのだ。だからこれは文字と言葉の……書記の練習記なのだ。

 分かったら読むのをやめてほしい。

 ああそうだよな、俺が誰か分からないよな。名を記しておくから分かったら読むのをやめてほしい。


 グラムといえばこれを読んだ者──この城内にいる者には伝わるだろうか。


 結局家を表す名字を手に入れることはなかったな。いや、もしかしたら読み返している頃には手にしているかもしれない。

 まあそんなことは些末な問題だ。粗末な問題だ。


 ただ仕えた王は偉大だ。

 今後もきっとここまで民に敬虔される王は現れないだろう。

 鉱山を巡る戦争で勇敢に戦った王。俺は偉大な王に仕えた騎士だ。

 現代では珍しい忠誠の儀式をしたから覚えている者は多いと思いたい。

 日記だから正直に書くが、あれは大変だった。二度はごめんだ。この上などないけれど。

 それでもあれは、階級が上がる俺に対する、下からの不満を払拭しておくために必要なことだったのだと……優しさなのだったとよく分かる。


 他にも、あの儀式にまつわることは色々あった。

 決して人には見せられない。俺が死ぬ時これを共に焼くつもりだが、焼く準備が整う前に俺が焼かれ死ぬかもしれない。

 もしもそうならこれは実記でも戦記でもないので、どうか詳らかにしないでほしい。

 すべてを灰に。


 ──俺は日記帳のページを開いて思い出す。

 俺の王との出会いを。


*回想 ?歳


 片手になった頃か、片手もなかったか。

 年齢を数える術を知らなかった頃。

 俺が布団で眠ることを知る前。


 四本足の野犬が温めてくれた。

 野鳥が餌を見つけてくれた。

 野良生活で一番野蛮なのは二本足の生き物──人間だった。


 路地裏に設置された教会の裏の大きなゴミ箱から美味しそうな匂いがする。

 ──まだ温かい餌がある!

 俺はゴミ箱を開いて、隣にいる数匹の犬と中身を漁った。

 ゴミ箱の中には捨てられたばかりと思われる温度を持った、パンと肉。

 埃や紙屑はくっついているが払えば取れる。これ以上ないご馳走だった。 

 肉は子犬たちに渡した。久しぶりの肉はすぐに食べ終わったようだった。手に持っていたパンを千切り犬たちに与える。

 一番大きなものは一番大きな犬に。

 残ったパンをさらに半分に分け、細かく違って地面にばら撒いた。

 そうすると餌場を教えてくれた鳥たちが舞い降りてきて、パンを啄み始めた。それを見ながら自分の分のパンを食べる。

 手のひらに収まるだけのパンの一切れを見て、ふう、と息を吐く。

 ──ああ、こんなに自分の分が残ったのは久しぶりだ。

 水や木の実、蛇などを食べていたが、人間が作るものは格別に美味い。

 鳥たちがパンを啄み、空腹を満たした犬たちが俺に寄り添って欠伸をしたその時。

「テメェか! こんなところに畜生どもを呼び込んで!」

 路地の光の射す方から恰幅の良い男が現れた。肩を怒らせて。その男の怒気を含んだ声に犬たちは飛び起き身を低くする。殺気に唸りをあげる。

 ……まずい。

 パンを啄んでいた鳥たちが一斉に飛び上がった。

「やめろやめろ! 糞がつく汚れる!」

 手で顔の周りを祓う仕草をすると、こちらに歩み寄ってきた。俺の倍は背丈がある。横にもでかい体だ。

「ガキてめぇが連れてきたのか!」

 胸元を掴まれ腹を蹴られた。勢いのまま後ろに倒れる。蹴られた衝撃で痰が出た。……パンは吐くな俺。また餌場探しは大変だ。

「こんな大通りに面したところで! 糞や毛で汚れるだろお!」

 地に手をついた俺の体にまた蹴りが入った。

 かはっ、と何かが出る音が自分から漏れた。……唾だけで済んだ。よかった。

 俺が攻撃されのを見て犬たちが唸りをあげる。

怒ってくれている。俺が咄嗟のことで燃やし損ねた感情に喉を震わせてくれている。

 やめてくれ、と意思を込めて一番大きな犬に視線をやったが、聞くまいとばかりに首を横に振られた。

 ──やめてくれ。

 立ち向かわないでくれ。

 犬たちの目が爛々と光っている。

 ──頼むから。

 頼むからやめてくれよ。

「駆除するぞ!」

 男が大声をあげて──それを合図にして犬たちが飛び上がった。

 容易く二本足の生き物に蹴飛ばされ、倒れたところを踏まれ──文字通り蹂躙される。俺の目の前で。

 やめてくれよと叫びたい。

 俺の家族である四本足たちにも。それを蹴り上げる二本足にも。

 それなのに、蹴られた腹の痛みで動けず、喉まで声が届かない。

 昼間なのに陽が当たらない薄暗い路地裏に、表通りの陽光が一筋だけ射している。

 その光は近いのに遠い。

 通りすがる二本足は多い。だけれど誰もこちらを見ない。誰も来ないのは幸いか。

 ──どうせ二本足にろくなやつらはいない。

 四本足の母が血を吐いて立ち上がる。

 前足が一本、普段とは違う方向に向いている。

 小さな兄弟たちを蹴るその二本足の大男に血のついた口元から牙を見せ唸り、狙いを付けた。

 ──俺の体が動いたら。

 俺の体が動くのならばすぐに止めるのに。痛みにまだ動けない。

「この──」

 二本足が太く大きな足を蹴り上げた。

立ち上がりたい。そいつと同じ、二本の足しか持たない自分が嫌になる。

 立ち上がれ。

 五本の指で地を引っ掻き立ちあがろうとしたその時に、光が入ってきた。


「一体」


 光だと思ったそれは、二本足。聞いたことない高さの澄んだ声。

 光源そのもののような白。肩よりも長い真っ白い髪。

「何の音な──」

 俺を見た。影の中にいる俺と目があった。

 白いまつ毛に縁取られる瞳は新緑だった。

「の」

 白髪の二本足は俺と同じくらいの大きさで、纏っている衣は見たことのないほど柔らかそうな上等な生地。

 そんな生きる世界が違う生き物と目が合った。俺の視線のせいか、目があったまま固まった。

 時が止まったような錯覚。

 二本足の白い髪が風に揺れた。

 宝物みたいな輝く緑の目。

 一瞬だったが確かに時が止まった。再び動き出したのは四本足の甲高いキャウンという悲鳴が聞こえたからだ。

「キャア!」

 その様子を見た白髪の二本足が叫んだ。

 ──俺の知る中で一番柔らかい存在の四本足の母。その柔らかな毛が、蹴られて宙を舞った。今度こそと立ちあがろうとしたその時。


「やめないか」

 鋭い隙間風をいっそう連れてきた声だった。

 権高に投げられた言葉のわりに、声はまだ幼さがある。俺と同じオスの声。

 体の大きな男の耳が動いて体が止まる。

 路地裏の日陰者たちは全員、光と共に現れたその声の主を見やった。

 その声は──声の主は豪然たる声で続ける。

「聖女の視界を血と死で汚すつもりか。今すぐやめろ」

「あ……ああ!」

 大男は声を振るわせて──

「我が王!」

 額を擦り付ける勢いで地面にひれ伏した。

 俺たちへの怒りで繰り出された蹴りよりも速い動きだった。

「ま、まさかこんなところに……!」

 伏せた男よりも遥かに小さな体。

 自分より遥かに大きい男が伏せるその前で、幼い影は笑った。

「ははは! まあそれより──聞かせてもらおうか、小麦屋の主人」

 白髪の少女の前に立ちはだかるように現れたのは、太陽の光の色とも満月ともとれる目の冴える金髪。

 刺繍の細かい仰々しい衣を纏い、胸元には光を反射する金属がいくつも重たそうに着いている。

それでもまったく重たくないとばかりに腰に手を当て肩を上げ、跪く大男にそのまま尊大に話しかけた。


 先程まで俺たちを蹴飛ばしていた大男は、びくりと肩を震わせてから言葉を上げた。

「……わ、わたくしのことを……!? 我が王」

 王と呼ばれた金髪の少年の顔は変わらない。

 瞳は灰がかった空の色。

 影の中の俺を映さない。大男を見ていた。

「わたくしめことを覚えていてくださったこと一生の栄誉と致します。……まさか我が王が行幸なさっていると思わず、お見苦しいところを失礼いたしました」

 大男は顔を上げなそのまま、言葉を上げ放った。

「害獣にゴミ箱を荒らされておりました。散ったゴミに鳥が集まると、パンを作りケーキを焼く小麦屋のわたくしめは苦しく……追い払おうとしていたところにございました」

 金髪の少年は──王と呼ばれる二本足はそこまで聞くと、ふうむと相槌を打って、それか、口を開いた。

「まあ確かに、獣は害だ。街の外にいるべきものだ。しかし──」

 大男の肩が跳ねた。

 そこで、灰色の空の色の瞳と目が合った。

 王と呼ばれた二本足の瞳と。

 濁った空の色に、一瞬見られただけなのに捉えられたと思った。地面に伏せたまま動く気が起きない。

「そこにいるのは人間だろう。……この国にいる人間は一人残らず等しく我の民」

 大男の背中が震える。俺たちに、四本足に噛まれ引っ掻かれても震えなかったその大きな体が小刻みに震える。

「我は民どうしの争いは好かん」

「申し訳ございません!」

 地面にめり込みそうな勢いでいっそう縮こまった大男に対して、その幼い二本足は言葉を続けた。

「しかしそれだけ怒りに血を燃やしたのはお前が小麦屋として案じ、日頃真摯に勤めているからなのだろう。──よい、許そう」

 その言葉に、大男が顔を上げた。

「あああ!」

 眩しくて開けられたかったから、やっと目が慣れて見つめられる。そんな顔の上げ方だった。

 顔を上げた大男に、幼い二本足は笑って見せる。白い歯が見えた。

「小麦屋。日陰を出よ。日の当たる場所で引き続き血の糧を作れよ」

「拝謝いたします。我が王」

 大男は、倒れる俺と四本足には目もくれず立ち上がり、深々と頭を垂れながら光に溶けるように路地を出た。


 日陰の路地裏には、倒れる俺と、四本足の家族たち。

 光を背負う、金髪の二本足の少年は灰がかった青色。その後ろに白髪に葉の色の目を持った少女。

 俺を見つめる四つの瞳。その瞳の持ち主たちの髪の金と白の色は、今まで見たことがない色だった。

「さてお前」

 目が合っていたから、俺のことだとすぐにわかった。

「お前は人間だろう」

 毛並みは荒れ、二本の足で立たずに他に伏せる獣さながらの俺に言ったのだ。

「珍しい髪の色をしている。──深い夜の色か」

 堂々と語る声に威風が乗っている。

 俺を見下ろす、夜を知らぬような明るい髪。

「そのくせ目は夜に光る満月か──なるほど珍しい」

 水に映る自分の顔で知っていた。俺の瞳は金の色。蛇と同じと意思を投げられたこともあった瞳の色。

 頷いた。彼の金髪が揺れて光が反射する。

 眩しい。お前らに目が眩む。

「名前はなんだ? 我が知らぬ民などいないはずだ」

 ──初めて問われた。

 存在を。名前を。

 ここまで生き抜いてきて、初めて。


 俺を育ててくれていた存在を見た。

 豊かな毛を持つ柔らかな四本足は、俺を見てゆっくりと目を細めた。眠る前。一日の終わりに与えてくれる母の優しい慈愛の目。

 その細い鼻先が、一度頷いた。

 それを見て、俺は二本足の少年に答えようと──ガル、と獣らしく喉を鳴らして──言い切る前に、この路地裏にいた四本足の同胞たちは立ち上がり、俺の前に立つ二人の人物の横をすり抜け走り去った。

「きゃあ!」

「お、お……」

 獣たちの移動に一瞬巻き起こった突風に、二本足たちの体が跳ねた。

 立ち去る前、最後に四本足の母が、兄弟が、俺を一瞥した。

「……ああ」

 その視線で全て理解した。

 俺の家族だった四本足たちの視線で。

 獣たちの姿が消え、俺は二本足で立ち上がる。

「今のは?」

 乱れた白髪を撫でながら、少女が言った。

 俺は答える。人間の言葉で。

「……別れを、言われた」

 最後の一瞥は、餞別だった。

 もう俺は獣ではいられないらしかった。親離れの時が来たらしい。

「……生き延びろよ、と言われた」

 それはもう祝福だった。

 誕生を祝うようなそんな別れだった。

 俺の言葉に、長い白髪の頭を傾げる少女の前で──突然高らかな笑い声。

「ははは! 面白い、面白いことを言うなあ、お前!」

 金髪の少年が腹を抱えて笑った。

「なんだお前、獣の言葉が分かるのか?」

「分かるさ。当たり前だろう」

 俺からすれば分からない方が分からない。

 視線は何より雄弁だ。

 言葉を発さない彼らの言葉は、見れば分かるのに。

「は、ははは! いいな、お前! 面白い!」

 そう笑い続ける彼の目を見ても、言葉を聞いても、やっぱり獣と違って意味が分からなかった。

 肩を震わせる金髪の少年の後ろにいる白髪の少女も同様のようで、彼を見て訝しげに眉間に皺を寄せている。

 ひとしきり笑うと、その男は深呼吸をして俺を見た。

 灰色の空色に映る、夜空の色と同じ髪の己の姿。

「これで親も家もないのだろう。獣の言葉が分かるというのは心強い。お前──オレのものになれ」

 そういう金髪の男の口に見える歯は、とても綺麗な歯並びだった。


「我はこの国、ニブルヘイムの王。ニブルヘムの名を冠し、根源たるリーヴ」


 ここは王国、ニブルヘイム。

 この時代の王の名は、ニブルヘム・リーヴ。

 少年で即位した王だった。


「名乗らなかったなあ、獣に育てられた名無しか? ……我がお前に名前をやろう」

 喜べ、と光を背中にその小さな国王が言った。

「命の重さを──グラム」

 俺の名乗りを聞かず、彼は俺を名付けた。

「お前はグラムだ。オレの重たい剣になれ」


 ──そして彼の言葉の通り、俺は剣を持ち彼に仕える騎士となった。

 ──彼は太陽の色に似た輝くような金髪で、後ろにいる彼女の白髪は、まるで真昼の冴えた月の色だと思った。


 これは俺の前日譚。

 すべては竜殺しのための前日譚。

 俺の願いが叶うまでの十七歳までの話。



第一章 十六歳



「王。──隣国ヴァルトから鉱山の件で使者が来ております」

 今しがた地方の領主への激励が終わったばかりだというのに、広間にその知らせは飛び込んできた。

 俺が隣に立つ玉座に座ったままで陛下は、ああ、と表情を変えずに頷き、分かった、と言った。

 隣国とも面する場所にある山は、何の資源もない場所だったのだが、数ヶ月前に資源となる鉱物が発見され、隣国との外交上の障害となっている。

 陛下は玉座の前で膝をついて渡された紙に、一瞬で目を通して家臣に返した。

「貴族らとの狩りの予定を遅らせよう」

 かしこまりました、と。

 知らせを告げた家臣が頭を下げて立ち去る。

 伝令に向かうその家臣が立ち去ってから、陛下が息を吐いた。

 その溜息があまりにも雄弁だったから、俺は小さく口を開く。

「わたくしもです」

 彼の溜息だけで感情は伝わっていた。俺が言ったのはその返事だったと彼も気付いたようだ。

 陛下は俺を見上げて、白い歯を覗かせた。

 あの溜息ひとつに書かれていたのは、狩りの予定を楽しみにしていた、という言葉だ。

「狩りは城の外でのびのびできるからな」

「そんな理由ですか」

「狩りと迷路はオレの楽しみだ」

 玉座の傍で直立の姿勢を崩さずに斜め下にある陛下の顔を見ると、喉を鳴らして笑った。

「いやあ、昔みたいになかなか自由に抜け出せなくなったなあ」

 その言葉に、十六歳の俺は思い出す。

「そうですね」

 陛下と、俺と──白髪の聖女の三人で城の外へ抜け出したたった数年前のあの日々を。冒険譚を。


*回想 十二歳


 城内から抜け出すのは難しくない。

 俺と陛下と──彼女の三人。

 城の中にある俺たち三人の会議室は書庫だった。他のものに聞かせられない秘密の会議はそこで行われる。

 お目付けたちの臣下たちが、まあ本を読むのなら、と部屋の扉の前で待っていてくれるからだ。

 黒髪の俺と金髪の陛下。

 そして白髪に緑の目を持った彼女。

 俺たち三人を、書庫にある大きな窓が日差しで照らしだしていた。

「次は石工師のところに行こうか! すごい像を作ってるらしいからな!」

 陛下が俺と彼女に向かって言った。


 この頃、俺たちはまだ幼くて──俺はやっと丁寧な言葉遣いに慣れ始めた頃だった。

 陛下と俺はほぼ同じ背丈で、白髪の彼女の髪の毛は胸ほどの長さで、背丈は俺たちより少しだけ小さい。


 三人で城から抜け出すのは初めてではない。

 以前の三人でのお忍びはステンドガラス工房に行った。そこで近くの石工房が面白いものを作ってるからお勧めだと言われ……今している会議はその冒険の続きだった。

「この後オレは馬術の予定があるから、それが終わって移動する時に合流するぞ」

 俺や彼女の予定は聞かない。

 分かったな? と陛下は歯を見せた。

 俺は頷いて、彼女もはいはいと肩をすくめた。

「しょうがないわね」

 細められた目の色は新緑。

 白くて長いまつ毛で影を落として、そう言った。


 この頃の彼女は、出会った頃よりも少し大人びた。四肢は伸び、体つきは女性らしく丸みを帯び──輝く白髪はそのなだらかな丘の下まで伸びた。

 本来家臣としては、冒険家の王様と、大人しい顔をしてなんだかんだお転婆な聖女様を止めるべきなのだが、この二人は止まらない。

 過度な守護を嫌い、過密な保護を嫌う。

 そんな陛下は、俺を拾う前からたびたび一人でも──または彼女と二人で──城を抜け出していたらしい。

 それを聞いた時に驚いて二人を世話していた城の者に話せば、もう止められないからいっそ護衛として付き添ってくれと言われた。

「国王陛下が抜け出した際は、お前が身辺警護を怠るな。お前が守れ」と。

 歳の近い遊び相手として。

 そして、身近な兵として。

 騎士団に正式入団は十三歳だが、その前から苛烈な鍛錬に参加していた。

 俺の剣は彼のために鍛えられた。

 俺が剣を持てるのは与えられたからだ。……彼の王に。

 従い、守る。

 それが俺の務めだった。


 戦争をしているわけではないが、この国は両隣には等しく大きな国に面している。国内も平和ではあるが、なんせこの国で最も尊い身分である。危険性はある。

 それなのに王は国民を、その生活を間近に見に行くことをやめない。自らの足で歩み寄る。

「よし、じゃあまた後で」

 かしこまりました、と俺と彼女が頭を垂れる。

彼女の耳にかけた白髪が胸元に落ちて、まるで光が動いたようだった。

 扉が開かれて、陛下はお目付役に案内されて消えてゆく。ひらひらと手を振って消えて、俺と彼女だけが書庫の前に残った。

「……私は教会に戻るわ。貴方は?」

「剣の稽古に入ります」

 俺がそう言うと、白髪の彼女は、ああそうと頷ちた。

「では」

 一礼して彼女に背を向け歩き出そうとすると、背中に声が投げられた。

「女性が一人になるのにお送りしましょうとか言わないの?」

「……失礼しました」

 振り向いて彼女を見る。

 緑色の目を細めて、悪戯っぽく笑っていた。

 ……最近の彼女はこの手の言葉がブームらしい。

 つい数年前まで一人で駆け出してどこへでも行ってたくせに、最近は女性扱いを求めてくるのだ。

「まだまだ粗野なもので」

「そうね。私はこんなに淑女になったのに、貴方ったらまだまだ紳士とは言えないわね」

 淑女はそんなこと言うもんか。

 と思わんこともないがここは黙る。

「迎えを寄越しましょうか? ……祈国局」

 彼女はこの国の信仰を形にした存在。宗教の生きる象徴的存在。それが彼女──教会の最高地位、祈国局。

 祈りを国に捧げ、大地に身を尽くすべきとされる聖女。

「貴方までそう呼ばないの」

 そう言うと俺に向かって背を向けた。長い白髪が揺れて、窓から入る昼の光に煌めく。

「ま、じゃあ後でね、騎士様」

 ……紳士でなくとも騎士とは認めてくれているんだな。

 俺も踵を返して剣術の稽古場に向かうため、書庫の前から離れた。



 深く外套のフードを被った陛下が町にいる花売りの少女を指差した。

「ははは! やっぱり外は刺激に溢れてて楽しいなあ! ──花売りが季節の花を売っているな、ほしいか? ヨル」

 同じように決して髪の毛を見せないよう外套を纏い、隣を歩く彼女が答える。

「うーん、どうせ花を贈ってくれるのならラーレがいいわね」

 フードの影になっていても、彼女の新緑の瞳はよく光る。

「面白いな! 神話の架空の花だが──」

 彼女の言葉に、王が瞳を細めた。

「もちろん見つけたら渡そう」

 俺の目の前で二人が笑い合う。

 外套を纏っていても分かるその眩しさに、俺はフードを深く被り直した。

「……さあて、もうそろそろだったな」

 陛下の言葉に、念のため持ってきていた地図に一度視線を落とし頷く。

「そうですね」

 ──予定通り抜け出した王と彼女と俺の三人は、城下町の大通りを歩いている。

 正体がバレないようにできるだけ道の端を、目立たないように歩いてはいるが、いかんせん家が王は声がでかい。

 歩く二人の一歩後ろを周囲を警戒しながら歩いている。

 二人には内密だが、事前に城の者に出掛けることは伝えている。

 助かるよ、と肩を叩かれるのはいつものことだった。俺が城に来る前は相当困っていたらしい。


 すぐに職人たちがアトリエを構える通りに入って、今日の目的地の石工師の工房に入った。

「どなた──ああっ、王様!」

 人の気配に奥から出てきた店主は、フードを下げた俺たち──王の姿に驚いた。

慌てて両手を突こうとする姿に、陛下は構わんと顔の前で手を振る。

「良い良い。いきなり来てしまったのは我々だ。すまないな」

 俺も後ろでフードを下げ、目を丸くする石工師に軽く頭を下げた。

 陛下の隣に立つ彼女もフードを取った。

「先日別の職人から勧められてきたの」

 下げられたフードから、白髪が顕になる。

「聖女様まで!」

 聖女と呼ばれた彼女は、それらしく穏やかに微笑んだ。

 神を投影する存在に相応しい、優美な笑みだった。


 店主はあからさまに狼狽える。

 予告なしにこの国の最高地位人物の二人が現れたのだ、そうなるだろう。このリアクション、ほぼ毎回見てる。

「楽にせよ。特に構うな。同じ国の我々は家族である」

 陛下が言って、聖女である彼女が頷いて──それから目が合った俺も頷いて、そこでやっと石工師はふう、と深く息を吐いた。

「拝謝致します。……ですが本当に、王様はよく城下にお降りなさるんですねぇ」

「ああ。城の中だけでは分からないことが多いからな」

 陛下のお忍びは城下では有名になりつつあるようだ。

 警護を考えないといけないな、と俺は思う。なにかあった時のために。

 それでも国王陛下は民を知ろうとする。

 きっとそれは止められないし止めるべきものではない。

 王が民を知ろうとし、民が王を知る。

 それが彼の王の名声を高めることに繋がるからだ。

「……何やらすごい像を作っていると聞いた。ぜひ見せてもらえないだろうか?」

 陛下の言葉に、石工師は頭を下げた。

「もちろんです。……御心のままに」

 石工師は俺たち三人を工房の奥へ案内してくれた。


 工房の弟子たちが地に額を付けようとするのを、よいよいと止めて、それを眺める。

「滝の近くに住む貴族様からのご依頼で作っておりました。グランビです」

「……おお、見事だな」

 陛下は口角を上げて示されたそれを見て頷く。

 それは鳥の姿を彫った大きな像だった。

 グランビ。

 その名の鳥を俺は見たことがないから、この目の前の像がどれだけ相似しているのかはわからない。

 小さな頭に立派な冠羽、長い尾羽が特徴的だった。鳥の羽の一つ一つが細かく彫られ、精巧なのはよく分かる。

「広げた羽の一つひとつが美しいわね……」

 どれだけ似てるかはよく分からないが、彼女の言うように羽の一つ一つまで緻密に彫られている像は、実在の鳥を俺にイメージさせた。

 像を眺める陛下が、ふむ、と顎に手を当てる。

「素晴らしい技術だ」

 陛下は色々な角度からそれを眺めて、真摯に仕事をしておるのだな、と言った。石工師は短く返事をして頭を下げた。その肩が震えていた。─興奮を抑えているのだとわかった。

 陛下が石工師の肩にかけた声は、幾分か落ち着いたトーンだった。

「今後も励み、血の糧とせよ。何かあれば我から頼むこともあろう」

「この身に余る栄誉です。誠に感謝致します」

 店主が跪いて、その様子を見た弟子たちも跪き首を垂れた。

「ああ、今後も励めよ」

「素晴らしい作品だったわ」

 陛下と彼女がそう言って、それが立ち去る合図だった。二人と目を合わせて、俺は頷いた。

 そして二人はその髪が人目につかないよう目深にフードを被る。俺もそれに倣う。


 この国で黄金と白銀の髪の色は、唯一の存在だからだ。──悪い意味で、俺も。

 夜の暗い髪の色をフードで隠せば、人並みになれたような気になった。

 髪の色は血筋を、神聖力の量を表す。

 明るければ明るいほど祈りを叶える聖なる力が強いとされ、血筋が正しいとされるほど明るい髪の色になる。

 通りすがる人々は、みな血の糧となるパンの色に近い髪の色だ。

 焼き方の甘いパンの色ほど明るい者はしばしばいるが──黄金は唯一の存在だ。

 そして白銀に輝く白は、史上類を見ない色だと、唯一無二の存在だと国中に知られている。

 光源そのもののような白い色。


 光を纏うその髪の持ち主はヴァナルガンド・ヨルズ。

 教会の頂点。この国の奇跡のために祈る存在、祈国局。

 民からは親しみを込めて役職ではなく聖女様と呼ばれることを好んでいる。

 彼女もまた、国王陛下と同様にかつてないほど国民に愛されている存在であった。


 道の端を歩きながら、陛下が口を開く。

「ヨルはグランビ、見たことあったか?」

 隣を歩く彼女が首を振った。

「ないわ。それこそ城下より外には出たことがあまりないわね。……知っているでしょう?」

 そうだったか?

 そう首を傾げる陛下だけが彼女を愛称で呼ぶ。


 その名の最後の打ち消す文字を取って、ヨル、と呼ぶ。

 彼女の髪の色と正反対の、夜の名で彼女を呼ぶ。


 それが許されるのは、この国の最高権力者であり、彼女と幼い頃より共に育ち──何より彼女を見つけた彼しかそう呼ぶことができなかった。

「……そうだったな」

 それから陛下は今度は俺に話しかけた。

「グラム」

「はい」

「あの像の鳥はグランビといって……国境の鉱山の近くに住んでいるんだ。太陽まで飛べると言われるほど大きい鳥だ」

 俺と陛下の会話を、彼女は黙って聞いている。

「そうなんですか」

「オレは父と一度見たことがあるんだが、賢くてこ憎たらしくてな……まあ、美しかったのは否めないが」

 フードの奥の瞳がどんな形になったのかを俺はしらない。そうなんですか、と相槌を打った。

 基本人間以外の獣を嫌う王が一つでも誉めることは珍しい。

 それほど美しいのだろう。

「なんでも落ちた羽一つで半年のパンには困らないとかなんとか。まあそもそも羽を落とすことすら稀有で、国境に住んでいるからより珍しいからな」

 なるほど、と頷けば俺を見た王もまた頷いた。

「──それにしても美しい造りだったな、我が国の職人はやはり腕が良い」

「そうね」

 陛下と目を合わせた彼女の、フードの影の中で桃色の唇が弧を描いた。

「……お前が護衛をしてくれるから安心して散策できる、ありがとうな、グラム」

「それはよかったです」

 俺はそう言って頭を垂れた。

「陛下」

 陛下に。

 それはまだ俺たちがのんびり城下を散策できるほど、平和だった数年前の話だ。


*十六歳


 交渉を終えた執務室。

 国王のために誂えられた重厚な机には、華美な装飾があしらわれている。

 その机の上に交差させた足を乗せて、陛下は頭を掻きむしった。

「……ああくそっ」

 随分尊大な姿勢と粗大な口調だったが、それを咎める者はいない。

 この部屋の中にいるのは陛下と近衛である俺だけだ。

「……証人の交換、とはな」


 ──隣国ヴァルト。

 山を挟んで隣り合う、多少貿易でのやり取りがある程度の国だった。

 しかし、国境間に面していた鉱山から武器の資源となる鉱石が採れることが数ヶ月前に分かり、鉱石の権利について揉めている。

 どちらの国からも金目当ての無法者が忍び込み、争い血を流すこともしばしば起こるまでに至っていた。国同士の頭痛の種になっていた。

 いっそ不可侵条約を結ぼうかと考えていたが、出し抜かれる可能性もある。

 採れるのは強固な武器になりうる鉱石だ。

 出し抜かれることは国の危機に等しい。

 不可侵としたくも決して侵したくないわけではない。手に入るのならば欲しい。

 

 ──そんな状態で、鉱山の不可侵を守る為提案されたのは人質の交換だった。

「証人と言っていたが、人質の間違いだろう」

 不可侵条約を結ぶに当たって、国から証人を選出し互いの国で暮らしてもらわないか、という提案だった。

 条約が結ばれている間は、互いの国で留学さながら過ごしていただこう、と隣国の使者は言っていた──結ばれている間は。

 約束が違えるようなことがあれば、容赦なくその者の首を刎ねる。

 暗にそういう意味だと俺でも分かった。

 それ故に──証人と言っていたが要は──人質の選定は熟考せねばならない。

 なのに向こうから既に、重い役のカードを切ってきたのだ。

 陛下は重いため息を吐いた。

「提案されたのがまさか……ヴァルトの姫君とは」


 隣国ヴァルトの末の姫君。

 使者がが語りる理由は、姫の中で一番陛下に年の功が一番近いから──ということだった。

 まだ婚約者もいない我が王のあわよくばを狙っているのか──それともそれは穿ちすぎか。

 しかし国政において穿ち過ぎることは悪いことではないと、傍で仕えて十数年。さすがに分かっていた。

「……姫君を出されたら、こちらもそれなりの人物にしなくてはならない」

 約束の天秤は容易く傾いてはならない。 

 陛下は言葉を続ける。

「それに最低限愚かでないことも必要だ。……難儀だ」

 頭を抑えて、机の上の足を組み直した。

 そんな陛下の姿を見て、口を開こうとした俺を、その手が制した。

「俺がというなよグラム。──お前は兄弟のようだが臣下だ。離さなくていい理由はあるんだから」

 聡い陛下には浅はかな思考はお見通しだった。

 失礼致しました、とだけ言葉を発する。

 陛下は軽く手を振ってから、宙を眺めて呟く。

「まあ目処はついているんだが……こっちに姫君を迎えるのか……」

 うーん、と頷いてから深く息を吐いた。どうやら思考の小休止らしい。

「ああ、とりあえずやめだ、貴族との狩りに向かおう」

「そうですね」

 そうしましょうか、と俺が相槌を打てば陛下は立ち上がった。

「今やこの国に俺に勝る射手はいないからなあ、見ておれよグラム」

「はいはい、かしこまりました。──御心のままに」

 軽く流したがその通りで、今やこの国で彼の王に勝る弓の射手はいない。──兵士の中でもだ。


 よく城下に抜け出していたあの頃から数年。陛下の弓の腕前は如実に上がっていった。

 招聘された弓の名手も、飲み込みの良さとその上達速度に息を呑んでいた。

 元々兵士は──俺含めた騎士は──剣術が主な戦法としているが弓を使う者もいる。

 国王を守るものとしてその腕が劣ってはならないのだが、それは叶わなかった。

 陛下には敵わなかった。

 元々の才だ、これほどの技術は生まれ持ったギフトだ──と。当初弓を教えていた俺の剣術指南役が言っていた。

 髪の色に太陽を宿し、天より放つ矢は蟻をも射ると吟遊詩人は国王を咏った。

 陛下の目の色も相まって、伝説はさらに色付けられ民に愛された。

 ヘヴンリーブルー。

 天上の青色。王の灰がかった青い目の色はそう呼ばれた。

 俺の異質な明るい瞳と暗い髪の色は、彼をいっそう引き立て輝かせる帳になっているだろうか、と歩きながら窓ガラスに映った自分を見て考えた。



 ──狩りの成果は上々だった。

「いやあ、オレが捕らえた獣は良い角を持っていたなあ」

「そうですね、立派な角でした」

 恐らく群れのリーダーであったのだろうその四本足の獣は、一際大きな角を持っていた。

 賢い四本足だった。

 俺と目が合うと、悟ったように立ち止まった。

 逃げる群れの中で、そのリーダーであろう獣だけが立ち止まっていた。

 すまない、と。

 陛下の矢が手を離れた瞬間に伝えたつもりだけれど、その獣に伝わったかは分からない。

 畑の作物を食い荒らす害獣とされる獣だから、狩りの開催に領地の民も喜んだし貴族たちの娯楽にもなる狩猟だ。

 俺だけが少し居心地が悪く、なかなか狩りの場では武器を振るうのを躊躇ってしまう。もちろん水を差すようなことは言わないが。


 家臣たちと共に陛下と部屋に戻る長い廊下を歩いていると、白髪の彼女に気が付いた。

 腰まで伸びた長い白髪は、光っているようで目立つ。

 陛下もその姿気付いて、彼女の視界の外から声をかける。


「ヨル」

「リーったら、汚れているわね」

 そう言ってくすくす笑った。

「貴方もね、グラム。相当はしゃいだのね」

 前半は陛下に。後半は俺に。

 彼女は緑色の目を細めて笑いかけた。

 最後に笑いを向けられた陛下が柔らかく微笑んだ。

「ああ、はしゃいでしまった」

 彼女に返した言葉はそれ一言。

 ──表情はそれ以上に雄弁だ。

 俺はもう分かってる。

 陛下の感情を知っている。

「今夜は獣の肉になるだろう、ヨル。共に……ああ」

 陛下は言いかけて言葉を止めた。

ああそうか、もうそんな時期かと俺も思い至って、彼女は俺たちに頷いた。

「そうね、新月の夜だから、断食してお祈りなの」

 彼女が肩をすくめると、そうだったなと陛下も同じような仕草をした。

「務めに感謝する……ヨル」

「ええ、国王様…………うーん」

 陛下に頷いたと思ったら、いきなり一歩近づいてきて瞳に俺を捉えた。

「……なんでしょうか」

 新緑の瞳。真正面に見つめられて少したじろぐ。

長く白いまつ毛が二回、瞬きをした。

 濡れた森の色の瞳。果実色の唇が動いた。

「……満月ってことにしちゃだめかしら?」

 ──俺の目の色の事か。

 突拍子もない彼女言葉に、陛下が大口を開けて笑った。

「ははは! 面白いことを言うなあ」

 呵呵と笑う王に、彼女が一歩引く。

 そしてその目の中から俺が消える。──金色の瞳の俺が。

「ふふ、冗談よ。じゃあ、またの機会に」

 ああ分かった。

 としか陛下は答えなかったが、口元を手で覆ったのでその感情は分かりやすかった。

「ヨル」

 呼ばれた彼女は陛下を見上げる。

「教会まで送りをつけようか」

 歩き出そうとした彼女に、陛下は声を投げかけた。

「リーは紳士ね。……けど大丈夫よ、ありがとう」

 そう言った彼女は、服の裾を摘んで頭を垂れた。長い白髪が彼女の耳から落ちる前、ほんの一瞬目が合った。


 紳士じゃなくて悪かったな。


 食事を摂るためだけの広い部屋。

 大きな机に宝石と見紛うほどの料理。

 偉大なる国王陛下のための食事の場所。

 やたら長い机に陛下は一人で座り、俺は壁際で立っている。

 爪の先までテーブルマナーの通った陛下の食事は、食器と食器がぶつかる音は僅かしかしない。

 沈黙の中、陛下が口を開いた。

「こちらの国から出す人質も決まった」

 そうですか、と俺は返事をする。

 陛下の目の前の皿には、誇り高い獣の血肉。

「今日会った貴族に俺の乳兄弟がいてな。留学と偵察という建前で頼むことにした」

 今日の狩りにいた俺たちと同じ歳の功の人間を思い出す。──なるほど彼か。

 弓を持つ彼の顔を思い出す俺に、陛下が言葉を続けた。

「聡すぎず愚鈍ではないし、何より乳母だった母がまだ城で勤めているからな、丁度良いだろう」

 この国王陛下にはこういうところがある。

 いや、こういうところが彼を王たらしめているのか。

 人質にする彼の人質が、城にいると。

 だから裏切られることもないだろう──裏切ればそれなりに、という盤上の駒を摘むように。

「その乳兄弟はお前とすれ違いに城を出て自分の領地に戻り勉学に励んでいたからなあ、お前は知らないだろう」

「そうですか」

「話を進める。向こうの姫が落ち着いて過ごせるように、敷地内に離れを建てる」

 落ち着いて過ごせるように、か。

 俺は何も言わない。

 ──耳障りの良い幽閉。

 俺のリアクションを伺う事なく陛下は言う。

「敷地内の教会から、中庭を挟んで一番遠い場所だ。また把握しておけ」

「かしこまりました」

 教会から一番遠い理由は聞かなかった。

 聞かなくても明白だったし、わざわざ明かりの下に出す話題でもなかった。



 夜が更け、陛下が眠り、その部屋の前の護衛を別の者に任せた。

 俺の休む場所も同じ城内にあるが、もちろん王の部屋とは階も違う。自室のある階下へ向かうため長い廊下を歩きながら軽く肩を回す。

 狩りは神経を使う。

 その前に隣国の訪問もあり緊迫した一日だったから尚更だ。

 俺は自室に戻る途中で城の中庭に出た。

 陛下が夕食時に話していた、中庭に建てられる離れの位置を推測するためだった。


 熱源のない夜の空気は冷たい。

 月のない夜空の温度感は落ち着く。

 普段は目立たない星がはりきって輝き、夜の暗さはそれを引き立たせる。


 夜空の俺の髪の色。忌み嫌われる暗い色。

 だからきっと捨てられたのだろう、と思う。

 魔法はないが奇跡は信じられているこの国で、髪の色はその身の神聖力を現すとされている。


 陛下の金髪は太陽の色。

 歴代王の中でもあれほど輝く黄金の持ち主はいなかったらしい。

 聖女の髪の色は真昼の月の色。

 白銀に近い髪は史実にはなくもはや神話のものだった。唯一の髪の色の彼女は、神のように信仰の対象。

 光に近く、明るければ明るいほど尊いものとされているこの国で──夜空に等しい髪の色は異質だった。


 何年も城にいると、こうして仕えていると忘れがちだが、存在が害をなすと石を投げられるものなのだ。……俺たちが狩りをした獣のように。

 その空気を吸う。

 肺に新鮮な空気が届き、夜の中で雑念が溶けて思考がクリアになっていく。

 少し散歩しよう、と中庭の手入れされた芝生を踏んでいく。

 中庭には生垣出て来た見事な迷路がある。

 遊び好きな陛下の娯楽のために、庭師が適当な期間に作り替えている、大きな迷路だ。

 今ではあまり遊ばなくなったが、変わらずにいつも大きな噴水を中心に作られている。


 生垣(ヘッジ)迷路。

 壁となる生垣に季節の花が咲いていたりするのは、城内の教会に住む彼女を楽しませるためだ。

 この世界は太陽と月を中心に回っている。

 彼と彼女。

 国王陛下と聖女様。

 俺が守るべき二人。


 向こう側の見えない大きなヘッジ迷路の外側を歩く。芝生を踏みながら、外から迷路の形を確認する。今月は単純な丸か。

 星や四角など、毎回形が違うから、庭師の──人間の──自然をここまで人工的に整える能力には感嘆とする。

 幼い頃よく遊んだ。

 曲線的な生垣の外側に沿って芝生の上を歩く。気持ちのいい草を踏む音。


 まだ幼く、彼女のことを名前で呼べていた頃。

 陛下と、俺と、彼女と。

 三人誰が一番早く噴水に辿り着くか、迷路を抜けるか──よく遊んだ。

 晴れた日の草の匂いを思い出して息を吸い込む。


 まだ背丈が三人同じだった頃──

「あっ」

 ──不意に回想の声と、耳に届いた声が被った。

「……グラム」

 思わず息を呑んで固まった。


 迷路の向こう側から同じように歩いて来たのは、白髪の聖女様だった。

 暗い夜に一層目を引く、灯りのような白。

 腰まで伸びた長い髪。

 同じ色のまつ毛で縁取られた目の緑が、夜の中でもはっきりと光る。

 彼女もその目を丸くして、俺を見上げた。

 俺も何も言えなくて、ただ彼女を見下ろした。

 回想の中のあの頃は同じ目線だったのに、すっかり変わってしまった。

「…………奇遇ね」

「……いくら城内と言えども夜にお一人で……またあなたは」

 はあ、とため息を吐いて目を細めると、彼女は片眉をむっと釣り上げた。

「なんか年々トゲトゲしてない? グラム」

「そりゃあ立場ある聖女様がフラフラしてたら棘でも刺したくなるでしょう」

 しかも本来、断食して教会で一晩祈りを捧げないといけない日なのに抜け出しているときた。

 淑女のように扱われたがっていたくせに、お転婆っぷりは少女そのものだ。

 本来どこに行くにも臣下を伴うべきなのに、平和を笠に着て彼女は一人で行動することを好む。

 ……それを許してしまう周りも周りだ。

 国中みんな彼女に甘い。

「……小さな棘じゃ立ち止まらないわよ、私。釘でも打たれないと」

「それはまた……おカタイ身持ちで」

 そう俺が彼女に負けず片眉を釣り上げて言うと──

「あはは! もう、おかしい!」

「ははっ」

 ──二人で吹き出して笑った。

「本当、あなたってば変わったわね、グラム」

 そう言って彼女は生垣を見やった。

 今の生垣(ヘッジ)迷路の内側は誰も分からない。

「……あの頃は私たちみんな、名前で呼び合って芝生の上を走り回っていたわ」

 彼女は美しいヒールで。

 俺は騎士の制服であるブーツで。

 それぞれが芝生を踏んでいる。

「一番変わったわ、グラム」

「あなたは」

 俺は言葉を続けようとして──彼女の瞳に俺が映ったのを見て、やめた。

 あなたも変わった、とも。

 あなたが変わった、とも。

 変わっていません、とも言えなかった。

「…………教会までお送りしましょうか」

 だから目を伏せて、提案を一つ。

「聖女様」

「……結構よ、騎士様」

 俺の言葉は、彼女の穏やかだった空気を尖らせた。

「一人で戻れるわ」

 本来付いていくべきなのだろうと思った。

「……かしこまりました」

 けれど俺が付いていって、見た人間に妙な疑惑を持たれても困る。

 だから俺は分かりやすく頭を垂れた。

 外から分かりやすく。

 ──俺たちの関係性がわかるように。

「おやすみなさいませ、聖女様」

「おやすみなさい! 騎士様!」

 彼女は一度も振り返ることなく、庭の先の教会の方へ足早に向かってしまった。淑女らしくないスカートの翻し方で。

 彼女の揺れる背中に合わせて、長い白髪が揺れる。

 最後の一房が壁の向こうに消えたのを見て──俺は視線を空に投げた。

 ──変わって、当然だろう。

 彼女は国のための聖女様で、俺は卑しい身分出の騎士だ。

 それに、陛下が彼女に向ける想いに俺は気付いているのだから。


 月は見えない。

 見られなくてよかった。

 月明かりで俺の姿が照らされなくてよかったと、新月の夜に心底感謝した。


*回想 十二歳


 今回の生垣(ヘッジ)迷路はなかなか難しい。

 この攻略が一番得意なのは我が国王陛下だ。

 よく笑い駆け回る能天気な人物に見られがちだが、切れ者の兵法家で──目的と勝利のためなら手段を選ばないリアリストな面もある。

 そうでなきゃ少年ながらに王ではない。

 大人たちと肩を並べて戦えない。

 両親を失い早すぎる即位をした。被せられた王冠は大きすぎたが、その王冠は虚飾ではなかった。 

 彼の思いを詰め込んだ、重い王冠。

 王冠を被ったその時から、いや、きっとずっと前から──彼は王だった。

 その髪の色は世界に選ばれた証拠。

 そんな彼の姿が、遥かに背の高い生垣でまったく見えない。

 そろそろ出会ってもおかしくない。

 そう思えるくらいには、この迷路の中を進んでいるはずだった。

 時間差でスタートして、一番最初に彼女が迷路の中に進み出した。

「噴水で待ってるわ」

 なんて余裕そうに笑って、胸元ほどの白髪をくるんと揺らして緑の生垣の中に消えていった。

「……次はわたくしでしょうか」

 持ち始めたばかりの剣は、俺の体にはまだ大きい。

 国王陛下の傍にいるのなら、どんな時でも持っていろと与えられた。俺にはまだ、重い。

 緑が豊かな城の庭に立つ俺と陛下。風が吹いて葉が音を立てる。

「オレに行かせてくれるか、グラム」

 陛下は俺にそう言った。

「最後にスタートしても大体一番最初に噴水に着くじゃないですか」

 まだ剣の重みの意味を分かっていない俺は、軽く唇を尖らせて言った。

「ははは! まあ、それはそうなんだが」

 灰がかった空色の瞳を、細める。

言葉の続きを待ったが、どうやらそこで終わりだったらしい。だから俺は、分かりました、と息を吐いた。

「今回こそ負けないように頑張ります」

「それでこそ近衛だ。……とはいえオレは今回、本気だぞ。お前も本気で来い」

「今まで本気じゃなかったんですか?」

「オレはいつだって本気だ」

 そう言うと、ははは、と笑った。

 さあっと吹いた風が俺たちと芝生を撫でて、迷路の入り口を揺らした。花の匂いがした。

「……そろそろだな」

 金髪を真昼の太陽に透かせて、王は言った。

「では行ってくる、グラム。ゴールで会おう」

「……はい。お待ちしております」

 俺の言葉に、ははは! といつものように笑いながら、陛下は迷路の中に消えていった。

 二人が消えていった生垣(ヘッジ)迷路。

 俺たちの背より遥かに高い生垣。

 外側は円形になっており、で、中のコースは想像がつかない。

 とはいえ今回も、ゴールとなる噴水を中心に造られているはずだ。


 俺はしばらく雲の流れを数えて、影を見て、それから二人が消えていった迷路の中に入っていった。


*回想 十三歳


「これはこれは、我が王。こんなところにご降臨くださるとは!」

 書庫での会議の結果、次に城下に行く際に観に行く場所は調香師の工房に決まった。

 街に降りて工房に行くと、調香師は大袈裟に手を広げた後、深く深く頭を垂れた。

「よいよい。お前の作る薫香にはいつも世話になっている」

 楽にせよ、といつものように言いながら陛下は微笑んだ。その隣で彼女も微笑む。

「教会にもいつも素晴らしい薫香をありがとう」

 深く頭を垂れた調香師に、工房の中を見回して彼女が言った。

「それにしても、少し暖かいのね」

 季節は寒い冬。寒かったがこの工房の中は暖かかった。

 調香師は、ああ、と頷く。

「奥の炉の方はもっと熱いですよ。ご覧なりますか?」

 ぜひ、と俺たちが頷くと、工房の奥に招き入れてくれた。

 中に入ると頬を撫でる空気の温度が上がった。

 感じていた甘い匂いがより重くなる。

 工房内には大きな炉があって、その周辺にいくつもの樽が置かれていた。

 樽の中にはたくさんの木や、色とりどりの何種類もの花が入っており、どうやらこれが香りの原料らしい。

「アイリス、ギュル、ポピー……」

 彼女が樽の中の花を見ながら名を呼んでいく。

「すごい、たくさんあるわね」

「ええ。……さすがにラーレはありませんけれど」

 調香師が肩を竦めて言った言葉に、彼女が小さく声を漏らして笑った。

 ラーレ。

 聞いたことがある気がする。

 俺が思い出そうとしているうちにも、彼女は笑みを浮かべながら調香師に言う。

「あったらいいわね、その時は教えてちょうだい」

「ありますとも」

 調香師は頷いた。

 冗談の口調だった彼女の言葉に、定め断つような語気だった。

 彼女は目を丸くしたし、俺も真意を探ろうと調香師をじっと見た。

「あります」

 沈黙の前で再び発せられた言葉は、さっきと同じ。断定。

 調香師は怯まず頷いた。

 彼女が少し後ろに立つ俺の気配を伺ったのが分かった。

 口を開くべきか、悩んで──

「ははは! そうか!」

 陛下が笑った。大きな口を開けて、美しく白く並んだ歯を見せて笑った。

「だそうだ、ヨル。いつかプレゼントしてやろう」

「……それは楽しみですわ」

 彼がおどけているのか、本気だったのか俺には分からなかった。


 ──思い出した。

 その名前の花を、陛下と彼女がどのように言っていたのかを思い出した。

 存在しない花だと、空想上の花だと言っていた。

 それがどんな色の、どんな香りの花の逸話なのかは分からない。

 どんな風に語られているかも分からないから、俺は黙って三人の会話を聞いていた。

 話題を変えたのは顔を上げた彼女だった。

 桶の中に入った紫色の花を指差した。

「あら、こんな季節にクレマチス?」

「聖女様はお花の知識も明るいのですね。はい、農家がこの季節にも咲くように努力して育てた花でございます」

 調香師は彼女の緑の目の視線にある樽から、花を取り出した。

 紫色の小さな花は星の形をしていた。

 取り出したそれを彼女の前に差し出す。

 彼女は差し出された花の前で目を閉じて、小さな鼻をくんと動かした。

「……いい香りね」

 長く白いまつ毛。目を閉じると、人形みたいだと思った。そんな無防備に、目を閉じるなよとも。

「でしょう。冬咲きは本来との季節のものとはまた匂いが違う気がします」

 ゆっくりと重そうなまつ毛を持ち上げて、そうね、と調香師の顔を見て微笑んだ。

「よろしければ、賜りください」

 調香師の言葉に、彼女は首を左右に振る。

「そんな。大事な原料でしょう、結構よ」

「いえいえ、まだありますし、今暫く使う予定はないので」

「ありがとう、気持ちだけでいいのよ──」

「──せっかくだ、記念にもらったらどうだ」

 問答に割って入ったのは陛下だった。

 いいじゃないかと陛下は言って、調香師の手から花を受け取ると、彼女の手に持たせた。

「良い花だ。似合う」

「…………ありがとう」

 彼女が俯いてしまったので、その言葉が調香師に対してなのか、陛下に対してなのかは分からなかった。

 ただ俺でないことは確かだった。

 傷のない白い手に、その花はよく似合った。やはり彼女に、紫はよく似合った。


*回想 十四歳


 中庭に作られたこの生垣(ヘッジ)迷路は、それなりに大きいのでかなり大声を出さないと離れた場所へは声が届かない。

「グラム」

 曲がり角を曲がったら、目の前にパッと白髪が現れた。──聖女様だった。

「聖女様」

 彼女も俺同様に目を丸くして、パッと一歩後ろに退いた。彼女は目を伏せて、それから俺に喋り出した。

「ま、まだ噴水、見つからないわね。この辺かと思ったんだけど」

 そうですね、と返事をはする。

 不意の邂逅に、まだ目を合わせる準備が整わず目を伏せてしまう。

「……そうですね、陛下に難なくクリアされてしまうので庭師も工夫をしているのでしょう」

「……すっかり、陛下呼びも敬語も板についたわね」

 温度感が変わったその声に、顔を上げるタイミングを失ってしまった。

「あの頃から貴方、なかなか一緒にこうして遊ばなくなったわね」

 俺は目を合わせないまま答える。

「……剣術の稽古が忙しかったもので」

 嘘ではない。

 まだ幼いからと個別につけられていた剣術指南から、騎士団所属になったことで稽古の時間が集団になり、その時間が増えた。


 十三歳で入団を認められる他の者と違って、拾われた頃から城での剣の指南を受けていた俺は、教える側としても重用してもらっている。

 だから嘘ではない。

 そうした理由を語らないだけで、騙っているわけではないのだから。

 俺は仕えるべき身分の彼に、彼女に、何も嘘はついていない。つかない。

 俺がそれきり黙ってしまえば、彼女の返事も、そう、とそれ一言だけだった。

 声の重みがなくなり、沈黙に顔を上げる。

 出会った頃よりすらりと伸びた四肢。

 丸みを帯びた丘の上まで伸びた白い髪。

 太陽の下で、白銀に光り──俺は気付いた。

「失礼」

 俺の声に、彼女が伏せた目を上げた。

 目が合う前に、彼女の髪に手を伸ばした。

「え?」

「御髪に、虫が」

 その髪についた小さな虫を取ろうと手を伸ばしたところで──

「グラム~? ヨル~? どこだ~?」

 ──聞こえた声に弾かれて、髪に届く前に手を引っ込めた。

 勢いよく引っ込めた手で起きた風で、彼女の髪についた虫が飛んでいく。

 聞こえた声は恐らく生垣の壁、二つ三つ先だろう。

 陛下の声だった。

「噴水まで行ったのにお前らが遅いから今度は探しに行くぞー! ははは!」

 大きな声が、愉快そうなリズムに乗っている。

「…………」

 彼女と目が合う。

 生垣と同じ、緑色の瞳。太陽の下で濡れたように光る葉の色。

 そこに俺が映っていて、長いまつ毛に縁取られた目が一度瞬いた。

 視線が重なったそれだけで、俺が彼女に向けられる言葉はなくなる。

 俺は彼女に背を向けて、声の方向へ走り出した。

「……陛下!」

 立ち去る時、彼女がポツリと一言漏らしたような気がしたけれど──早足で歩き出してしまったせいで聞こえなかった。

 振り返らない。

 彼女を一人残して、その場を後にした。

「ははは! グラム!」

 生垣を進む、声の先へ。壁の向こうへ。

 壁を曲がる。──いない。

 また声が、壁の向こうから飛んでくる。

「こっちだ! ははは! 捕まえにこい!」

「……趣旨変わってますよ!」

 言って、弾かれたように走り出した。

 また壁の向こうへ。もう一つ先に進んでる。

進むと今度は分かれ道だった。耳を澄ませる──左へ。

 笑い声は二つ先。生垣の壁に手をついて、落ちた葉を踏んで進む。こっちか。

 ただ声を頼りに、進む──緑の視界を進む。

 走り抜けた生垣の壁から葉が落ち、踏む間もなく進む。

「ははは! 楽しいなあ!」

 追いかけると声が飛んでくる。

 そりゃあよかった!

「左様で!」

 そして次の角を曲がると、視界が開けた。

 水の音が聞こえる。

 先程まで笑いながら俺を呼んでいた陛下の声が、打って変わって静かにかけられる。

「グラム」

 迷路の中心。大きな噴水の前に──既に二人がいた。

「オレの勝ちだ」

 陛下は彼女の手を掴んでいた。

 白くて綺麗な歯並びの口。国王陛下は笑った。

「ええ」

 青々とした生垣。

 噴き上げられる水が、太陽の光を受けて輝いている。眩しい。

「陛下には敵いませんとも」

 その噴水の前に立つ二人には水飛沫がかかっていたから、眩しくて目を細めてしまった。



 陛下は民の生活を見る。

 灰がかった空色の瞳に、人々を映す。

 紙上の情報だけではなく、生身の人間たちの生活を見るため、彼は市場に降りる。

 ある時は俺の他にも護衛をつけ、馬に乗り城下からも飛び出した。

 西に飢える者がいれば、とりあえずの小麦と水を与えたのちその地域の仕事環境などを見直した。

「当たり前だろう? 人が飢えてはならぬ」

 東に諍いの種があれば、法を整備し諍いの芽を刈り取った。

「当たり前だろう? 人が揉めてはならぬ」

 ニブルヘイムの当代国王陛下は民に等しく優しく、燦然と輝いていた。

 だからこそ、民から史上最も敬愛された王だと──書いておこう。



 陛下は執務室の重厚な椅子に座り、机に向き直っている。

 遊び盛りの十四歳の陛下を見つめる、部屋の片隅のお目付役の臣下。

 俺は陛下の傍らに立って、彼の息抜きの雑談相手になっている。

 大きな窓から入る陽光は暖かい。

 平和なうららかな午後。

 ゆっくり時が流れる部屋の中に、ノックの音が飛び込んできた。返事を聞く前に扉がある開く。

「リー」

 陛下をそう呼べるのも、自由に扉を開けるのも──彼女しかいない。

「庭の花が綺麗に咲いたのよ。散歩でもしましょう」

 入ってきたのは鮮やかな白。

「ヨル」

 答える陛下もまた、愛称で応えた。

 この世のたった一人しか、呼ばない愛称。

 彼女の髪の色は、呼ばれた名とは正反対の真昼の色。

 胸下まで伸びた白髪を踊らせて、返事も待たずに入ってきた彼女に、陛下はペンを持つ手を止めた。

 陛下はお目付役に視線を投げ──その者が頷くと、椅子から立ち上がった。

 続いてお目付け役が、俺に目配せをした。──着いていけ、の合図だった。

「グラムも来るの?」

「近衛ですので」

 陛下の後に足を動かした俺に、そう、と彼女は言った。

 なんだよ不満かよ。

 とは言わない。短く答えただけの俺に陛下が肩を叩いた。

「いい息抜きになるなあ、グラム」

「そうですね」

「ははは! 思ってないな」

 俺の気の抜けた返事に、陛下は笑った。

 三人で城内を進み、広い庭に出る。

 迷路がある中庭より少し離れた、城内の教会近くの庭は、彼女の目を楽しませるために季節ごとに折々の草花が咲いている。

 どんな薫香よりも鮮やかな、生きた花の匂い。

室内の暖かい空気よりも、走る風に軽い空気──穏やかな空気を吸い込む。

「ほら、リラの花が綺麗に咲いてるわ」

 彼女が指し示した木には、鮮やかな紫色の花が豊かに咲いていた。

 満開に花びらを広げ房のように連なり、重そうなほどの花が咲いていた。

「いい匂いでしょう?」

「ああ」

 彼女の言葉に、王は頷いた。

 高く咲く花を見て、それから自分に笑いかける彼女を見た。

「──手元に置きたくなるほどに」

 鋭い眼光なのに冷たくない。むしろ熱い視線だった。なんてわかりやすいのか。

 なのに彼女は陛下のそんな目に気付かず、いつものように笑った。

「あら、だめよ。手折ったら香らなくなってしまうのよ」

 青々と茂る葉と同じ色の新緑の瞳を細めて、真昼の月の色と同じ髪の毛を揺らして、笑った。

 陛下は肩透かしを喰らったように、目を見開いてから肩をすくめて返事とした。

 ──そして俺は、その声に気がついて、ふと俺は視線を下げた。

 並ぶ二人を置いて、その木の麓の声の主に駆け寄る。

 しゃがみ込んだ俺の後ろから、陛下の声が降った。

「鳥か」

 俺が気がついた声の主は、生まれたばかりであろう、目の開かない鳥の雛だった。

 リラの花の咲く木を見上げ、目を凝らせば鳥の巣と思われるものはあった。

 登って届かない位置ではない。

 芝生を踏む音。歩み寄ってきた彼女も俺たちの視線の先を覗き込んできた。

 彼女の瞳が、俺の様子を伺って、それから我々の王を映した。

 陛下は膝を折らない。

 言葉が俺に、視線の先の雛に降る。

「翼があるとて獣。自然の中で淘汰されることもあろう」

「…………そうですね」

 俺は雛に触れずに、胸元に手を触れて、芝生に触れてから立ち上がった。

 陛下と同じ目線。

 いつのまにか、やや俺の方が、背が高い。恐れ多くも。

「巣に戻してあげないの?」

「獣は人間の匂いが嫌いだろう、巣に戻しても邪険にされるかもしれんぞ」

 彼女の言葉に答えたのは陛下だった。

「そうだろう? グラム」

「……まあ、あまり触れるべきではないでしょう」

「…………そう」

 そうなのね。

 彼女のその声は納得を含んでいない。

 陛下は気付いているのかいないのか、背を向けて伸びをした。金色が陽の光に光る。

「ああ、外の空気は良い息抜きになった、ヨル、ありがとう」

 戻ろうか、と陛下が日差しに目を細めた。

 そうね、と彼女は返事をしたが、それはやっぱり納得していない声色だった。

「教会まで送ろう」

 そう陛下に言われて、彼女はしょうがなくとばかりに歩き出した。


 陛下が彼女の横を歩き、俺は一歩後ろを進んでいく。

 城内の教会まで続く廊下を、三人で歩く。

 窓からの陽光に、俺たち三人の影は長く伸びている。

 俺が足を止めると、数歩進んでから気付いた二人が振り向いた。

「……先ほどしゃがみ込んだ際に、ペンを落としたようです」

「ほう、珍しいな」

「お二人でご歓談されながらお進みください……すぐに戻ります」

 我ながら──皮肉を言った。

 陛下は視線だけでわかったと答えてくれたので、俺は二人に背を向けて足早に進んだ。

 二人の影と反対方向に、俺の影は進んだ。


 それから戻った時には、丁度先ほどの場所で、陛下が一人教会から戻るところだった。

「遅かったな」

 陛下の同伴は長い影のみだった。

 俺はそこに溶け込んで不敬にも軽口で返す。

「丁度良かったと思いますが」

「ははは! 本当にお前は面白いな!」

 いつも傍にいるから、いつもより軽口を許す上機嫌さに気付いた。だからそう言ったが、お気に召したようだった。

「早く参りましょう。小言を言われる前に」

 俺が言うと、はははと笑って二人で足早に執務室に戻った。


 執務室。

 ──陛下が地図を広げながら地方の領主からの意見書を確認する。

「ギョルド川上流の堤防の補修の時期はそろそろだな……」

 この国が豊かな理由として、美しい水源を保持していることだった。

 この国唯一の滝から流れる大きな川はとても穏やかだ。

 雨量も少ないこの国で、川の氾濫を懸念するのはこの国の人々が信心深いからだ。

 この川はこの国の神話に出てくる。

 川だけではない。この川の根源の滝も、国境近くの山も、そもそもの大地も。

「場合によっては水路を増やすか、視察をせねばなあ」

 陛下は言ってペンを取りながら、俺にも言葉を投げた。

「滝が近いからな、そのときはお前も頼むぞ、グラム」

「御心のままに」

 滝は竜たちの住処だ。

 創世記や神話の類とは違って、四本の手足などはなく、翼のある蛇のような、巨大で強靭な生き物。

 創作では四肢があるが、実際のところ生息している竜は四肢のない生き物だ。羽根の生えた巨大な蛇を竜と呼ぶ。

 余程人間を攻撃はしないと聞く。

 彼らの滝に近づかない限り。


 それから一日の行動予定を全て終えた。

 あとは自室に戻って眠るだけだ。

 その前に、城の庭に出る。


 今日の夜の庭は暗い。

 見上げると月はほぼ欠けていた。

 空に爪を食い込ませたような月だった。

 有明月。またそろそろ、新月か。

 しばらくこの生垣迷路にも入っていないな。外観が違うから、それでも庭師は定期的に作り替えてくれているようだ。

 夜の芝生を踏みしめながら歩く──しばらく歩くと夜でも甘い匂いが鼻につく。

 リラの匂い。昼間よりいっそう香る気がする。

 城の中庭を歩き進め、教会近くの庭まできた。

 誰も見ていなくとも、誰が知らずとも花は咲き続ける。

 夜の色で花弁の色が伝わらずとも。紫の美しい花が咲いたリラの木の下に、辿り着いた。

 俺は木の下をぐるりと一周して──胸を下ろす。

 茂る木の葉に目を凝らす。──鳥の巣が昼間と変わらない場所にある。

 鳥の声は聞こえない。

 恐らく巣の中の鳥たちは眠っているのだろう。


 そこに、落ちている雛はいなかった。

 どうやら俺が昼間に巣に戻した雛は、しっかり巣の中にいるようだ。


 よかった、なんていうと他人事みたいだが、まあほっとした。大きくなれよ。飛んでいけよ。

 俺には羽根がないから羨ましい──なんて思って、木と、夜空を見上げていると

「グラム?」

 俺の後ろから、女性の──少女の声。

 振り向かなくても分かる、声の主。

 夜の名前を呼びたくなって──名前の形に動いた唇を引き結んで、一呼吸。

「……はい」

 俺がしたのは、立場相応の返事。

「……あなた……」

 白髪の聖女は、振り向いた俺を見てから──俺の後ろの木の麓を見て、それから高い位置を見て、口元をほんの少し綻ばせた。

「優しいのね、グラム」

「…………何のことでしょうか」

 俺の言葉に、ふふっとその口元が笑った。

 月明かりのない夜でも分かる、濡れた果実色の唇に目を逸らした。

 俺が雛を巣に戻したことは、彼女にお見通しのようだった。

「人間の匂いがつくのはだめと言ってなかったかしら?」

「……鳥はそこまで、嗅覚がありません」

 俺の言葉に、隣に立った彼女は驚いたような顔をする。

「貴方ったら、嘘をついたの?」

 まさか。口元が笑いを隠せなかった。

「俺は仕えるべき人間に嘘をつきませんよ。あまり触るべきではない、としか言ってません」

「…………確かに、そうね」

 横目に見た彼女の考える表情に、歪んだ口元を引き結ぶのが難しい。

 彼女がそんな俺の顔を少し覗き込んで、それから片眉を上げた。

「……どうやって戻したの?」

「普通に、手に抱いて、木に登って、巣に戻しましたよ」

 もしかしたら親や兄弟である鳥に落とされたのかもしれない、と思いながら登ったが、そんなこもはなかった。

 昼間、拾った雛を巣に戻すと、親鳥は喜んでいたしすぐに兄弟たちはその雛に身を寄せた。

 その様を見て、少し寂しくなったのは──獣と寄り添い合う温かみを知っているからだ。

 落ちていた姿に、捨てられた存在の自分を一瞬だけ重ねたからだ。

「あの、ペンを落としたって言ってた時かしら?」

「ええ。落ちてしまったのも嘘ではありません」

 俺の言葉に、また笑った。

 昼間の俺の仕草を思い返したようだった。

「そうね、屈んだらしたら落ちちゃうわよね。偶然胸ポケットに手が当たったりね」

「ええそうです」

 何が面白いのかまた笑った。

 その顔を見て、俺は口元を手で覆う。その手はなかなか外せそうにない。──この顔を見られたくない。

「ありがとう、鳥の騎士様」

「それでは、わたくしが鳥みたいになってませんか」

「それは、そうね」

 そう言って彼女が笑うから、我慢できず少し肩が揺れてしまった。

 彼女もそんな俺を見て、目を細めて笑った。

 月明かりなんてほぼないのに、彼女の白髪は揺れると光るようだった。


 ──もう俺は、これだけで充分なのだ。

 むしろ今、溢れるほど感情は与えてもらった。


 風が頬を撫でる。

 木が揺れて葉が笑うが、鳥や巣が落ちてくる気配はなかった。

「戻るわね、私」

「ええ、はい」

 送っていくと言うべきか、夜の挨拶をするべきか悩んで──目を合わせて悩んでいる間に、遠くから声が聞こえた。

「祈国局!」

 その声は教会の方から飛んできた。

 二人で声の方を見ると、教会の服を着た人間が駆け寄ってきていた。彼女の臣下だ。

「……お迎えが来られましたね」

 俺の言葉に、彼女は俺の目を見て、それからまた目を伏せて、そうね、と小さく言った。

 白いまつ毛の先が小さく震えた。

 教会の人間に連れて行かれて、彼女は俺に背を向けて教会に戻っていく。

「おやすみなさい、グラム」

「おやすみなさいませ」

 俺は頭を垂れる。

「よい夜を」

 名前じゃない。

 この言葉なら許されるだろう。最後に小さく付け足したから、この言葉が届いているかは──彼女が振り返らないので分からなかった。



 南で田畑を荒らす害獣が大量に発生すれば、大規模な狩猟会を開く。

 貴族たちと交流もしつつ、尚且つ民の作物を守れる、陛下の策案だった。


 まだまだ城まで距離のある狩りの帰り。陛下は俺たち騎士団に囲まれながら愛馬に跨っている。

 大規模な狩猟会は夕方まで続いて、暗くなった帰り道は月が浮かんでいる。

「剣の月か」

「はい?」

 陛下の斜め後ろで馬に乗っている俺には、小さな声でよく聞こえなかった。

 聞き返した俺の声に、陛下は口を開き直してくれた。

「今日は三日月だったな、と思ってな」

「……そうでしたね」

 そんなのとっくに知っていた。

 陛下の考えだって、俺はもうとっくに分かってる。──誰に狩りの成果を見せたいのか、誰と夕食を共にしたいのか。

 俺たちの後ろで、矢で射られ絶命した獣が、臣下たちに吊り下げられて運ばれていた。


 城に戻ると、彼女は中庭にいた。

 着替えを済ませた陛下の斜め後ろに俺は控えている。

「いい獲物が捕まった。夕食を共にしないか」

「ぜひ」

 そう言って祈国局は国王陛下の晩餐に招かれた。

 いつもよりも、華やかなテーブルコーディネートだった。

 二人の皿には、陛下がその手で狩った獣の肉。

 食器の音は二人分。

「……昔は三人一緒に食べたわね」

 彼女がそう言った。

 俺は共に席に着いているわけではないから、口を開かなかった。

「……グラム、喋ってよいぞ」

 陛下が俺にそう言って、肉を口に運んだ。

「ありがとうございます。……それは」

 陛下の発言許可に礼を言い、彼女の言葉に答える。

「子供で──……騎士になる前でしたので」

 ずっとあの頃のように──あのまま、食事を共にしたかったかというと、そうでもない。

「そう」

 祈国局の返事はそれだけだった。

 伏せられた目に、言葉を続けた方がいいか悩んだけれど、俺はもう口を閉じた。

「……そうね」

 それきり会話は二人のものになって、俺は壁を背に立ったまま食器の音を聞いていた。


*十六歳


 そしてこのページでやっと、十六歳に戻る。

 これまでの日々を追憶した。夜毎書いていた日記帳を閉じる。

 つい、目を閉じたくなってしまう。

 けれど目を閉じると白髪がチラつくので、俺は目を閉じない。一つ息だけを落とす。


 歳が近かった俺たち三人は、そうして背丈が伸びて大人になった。祈りと願いを知られないように一人の夜を越え続けて十六歳になった。


 朝。あの頃より玉座が似合うようになった陛下が俺に言った。

「離れの建設が間に合った」

 近く予定している川の堤防の建設などで、資材の調達に遅れが出ていたが、無事に終わったようだ。

「近々ヴァルトの姫君を迎える。向こうの状況確認に送っていた密偵もその後戻る予定だ」

「かしこまりました」

 国王陛下としての公務、職務。そして国軍の頂点でもある陛下は、俺より多くのことを把握している。空色の目を細めて、近衛の俺に伝えてくれる。

「どうやら人質に選ばれた理由は末の子というだけではないようだ。彼女の側仕えも何人か登城する。今後は城内でも油断ができなくなるぞ」

「かしこまりました」


 一体、今までどれほど平和だったのだろうか。

 どれほどに穏やかな空の下だったのだろうか。


 俺の瞳は金色で、この目と同じ色の髪を持つ国王陛下を映している。


 ──神聖力ともっとも遠い、忌み嫌われる髪の色。きっとそれ故に捨てられた。

 しかし獣に愛され生き延びて、陛下に拾われ人になった。

 獣嫌いの我が陛下。民を愛する我が国王陛下。

「御心のままに」

 だからこそ、俺の心は、封じ込めて──俺は仕えるべき主に頭を垂れた。

 国王に仕えるということは、国に支えるということ。

 そして聖女は国のための存在だから──だから俺はこうして、陛下に膝を折る。祈るのは俺の役目ではない。



 その姫の髪の色は、パンに塗る蜂蜜の色だった。

 馬車に揺られて長時間の移動は大変だっただろうに、馬車から降りてから彼女のヒールは一度もよろめかなかった。窓の中から見てもわかるほど、鮮やかな緑色のドレスを着ていた。


 玉座のある広間に、自国の供を数人連れて現れた姫が、一番明るい髪の色をしていた。

「初めて謁に賜ります、ニブルヘムの国王様」

 声と共に上げられた顔。瞳の色は、若木の茶色。強そうな目だった。

 異国の地に来てもなお、折れない強い目の光。

 しっかりと真ん中に陛下を映していた。そこに姫の矜持を感じた。

 陛下の隣にいる俺の暗い髪の色を見ても大きなリアクションをしないところに品格を感じた。この国では暗い髪の色が不吉だと知っているだろうに、姫はそれを表には出さなかった。

「こちらこそ、ヴァルトの姫君──光栄の至りでございます」

 玉座に座る陛下の言葉尻は慇懃だった。

「ニブルヘイムのこの地に身を置かせていただくこと、幸甚の至りです」

 姫が頭を下げた。

 僅かな供しかつけず、隣国──あわや敵国──の中枢で、剣も持っていないし走ることもできないその姿なのに、強そうだ、と思った。

 真っ直ぐに陛下を見つめる目は矢のようでもあるし、この国で見たことがないほど鮮烈な緑のドレスは鎧のようだった。



「今宵の食事はヴァルトの姫君と共にする。グラム、お前は俺の後ろに」

 家臣に姫を離れに案内させてから、陛下は俺にそう告げた。

「御心のままに」

 俺の言葉に陛下は頷いて、家臣たちに言った。

「ヴァルトの食文化や姫君の好みは大丈夫だな? 頼むぞ」

 頷いた家臣たちに、もう一言。視線を外して呟いた。

「まあ今日もてなせばそれで大義は果たせるだろう」

 陛下と隣国の姫の晩餐会に、本国の聖女は招かれなかった。

 むしろその日は近寄るなとさえ言われ、彼女は教会の奥で守られていた。

 ──決して姫と会わぬように。


 華やかなテーブルコーディネートに反して、晩餐会の空気は暗い。

 歳の近い男女二人が同じ食べ物を食べているというのに、フォークを持ち上げるのが大変そうなほど重い空気に見える。それでも国の権力者二人はフォークで食べ物を口に運んでいる。

 陛下も笑わないわけではない。

 姫の言葉に的確に相槌を打ち口角を上げ、向こうの国の文化を問い投げかけもしていた。それなのに、その目は瞬きの回数も少なく、どこか鋭い目だった。決して隙を見せまいとする眼光だった。

 最初は緊張していたヴァルトの姫は、陛下と言葉を交わすにつれ肩の位置を下げていたが、最後の方で陛下その目に気づくと俯きがちになった。

 聡い姫だった。

 言葉の裏も察することができる。それ故に傷つけられてしまった。

 月の見える美しい庭を案内することもなく、陛下は姫君に部屋に戻ることを勧めた。

 これからの生活を予見したかのように、最後に見た姫の顔は暗かった。

 ヴァルトの姫が離れに戻る様子を見てから、陛下は家臣に命じた。

「朝食は離れに運んでやれ。共にするとかえって気を遣うだろう」

「側仕えの食事はどうしますか」

「姫と同じものでいいだろう」

 その扱いは、もはやあからさまだった。

 一国の姫君に、家臣と同じ食事を出す。

 城の中にさえ招かない。

 招かれざる者は城内には入れない。金魚を鉢に入れ飼うような残酷さだと思った。

「酷いと思うか? グラム」

 俺を見た陛下の顔は、食事時よりも目に光が戻っている。その目の色に、黒い俺が映った。

「陛下が何より正しいです」

「そうか」

 頷いた陛下は、もう一度言葉を落とした。

「そうか」



 ニブルヘイムは、挟まれるような形で他の国に面している。彼の姫君の王国ヴァルトは、山を国境とした隣の国の一つだ。

 ただ広陵とした山は、恵みもなくただ国境を分かつには丁度いい。誰も登らないただの山。

 そこに資源があると分かったのは──俺たち城に住む人間が知ったのは──ここ最近だ。

 山の国境近くの領主からの報告だった。

 山を出入りする人間が増え、しかも隣国ヴァルトからもそれを採りに来ているらしく、揉め事が多く治安が荒れてきたという報告だった。

 城から視察に向かった者たちは驚いた。

 その山で、貨幣にも使われてる重要な金属が採れたからだ。

 といっても石を砕き水で分離させ、それからやっと素材になるような、原石の段階なのだが。

 とはいえそれは間違いなく資源。──資産。

 陛下がその話を聞いて考え出したとほぼ同時に、隣国ヴァルトの中枢にもそれは伝わったようだった。

 どちらも愚かな国王ではなかった。

 それ故にどちらの国も声高に主張はしないが、それでも譲りはしなかった。

 どうするか決まるまで──どちらの国に採掘の権利があるか決まるまで、互いの国同士で入場を禁止とし警備をつけた。

 しかし両国ともに愚かな人間はいた。どこから話を聞きつけたのか、兵士たちの目を掻い潜り一攫千金を狙う民がいた。時にその無法者たちは鉢合わせ諍いを起こしているようだったから、両国ともに警備に大量の兵を置いた。

 

 その山で、最初にその選択肢を持ち出したのは我が国王陛下だった。

 自ら戦場に行き、指揮を取る誰より勇ましい国王は──一番冷酷でもあった。

「殺せ」

 自国の兵が警備をしている場所に入ってきた、隣の国の者だった。

 その人物は見つかるとこちらに剣を向けてきた。

 どんな人物だったかは覚えていない。

 賊のようでもあったし、ただの貧民のようでもかった気はする。

 捕まえられて俺と王の眼前に出されたその人物は、爪は茶色くて指先も真っ黒に汚れてて──生きる大変さと大地で眠る冷たさを知っている人間だ、とは思った覚えはある。

 隣国ヴァルトの兵には見られていた。否、見せつけるようでもあった思う。

「これは両国の資源の防衛のためだ」

 本国の、とは言わなかった。

 両国の、と言ったのは陛下の狡猾さか。

 聞いていた隣国の兵は止めに入っては来なかった。

 それを命じられたのは俺ではなかった。

 俺は近衛兵らしく陛下の近くにいて、その言葉を実行したのは取り押さえた他の兵だった。

「その血を大地の糧とせよ」

 陛下の言葉通り、命令は実行された。

 捕えられたその人間の体に剣が突き立てられた。

 二国の思惑が乗った鉱山鉱石の前で、その命はあまりに軽く扱われた。

 その鉱石は高価である。

 輝きを放つ宝飾品とすることも可能だし、強固なその素材は武器にもなる。

 からおいそれとこの山を隣国にただ渡すことはできなかった。

 だがしかし山の全てをお互いが自国のものだと主張するには、軍事力にあまり差がないこともわかっていた。戦争になるのはお互い痛い。

 滝があり川が流れ、この国は水に困らず隣国に比べて人口も多く豊かではあるが、秀でた軍事力があるわけではない。

 この国の騎士は──指揮する陛下も含め、一応俺も含め──腕に自信がありそれなりに騎士としての実力はあるが、向こうの国がそうでないとは限らない。だから容易く全面戦争とするわけにはいかなかった。

 それでも陛下は強気だった。

 外交の場では、軍事について聞かれれば、我が国の騎士団は最強だと堂々と言っていた。

「奪われてはかなわん。奪えると思われてるなら、敵わぬと分からせねばならない」

 それに隣国は──怒らなかった。

 むしろ自国の国民の非礼を詫びた。しょうがないことだったと言った。

「もしも捕まえたのが我が国の国民でも同じようにしていた」

 陛下は隣国の宰相に対しそう言ったが──それは絶対に嘘だと俺は分かっていた。

 陛下は自分の国の民を一人残らず愛している。

民の血が自分の血を作っていると知っているからだ。

 俺を蹴っていたパン屋の主人のように、よほどのことは情けをかけて許すし、蹴られてボロ布の獣然だった俺にも温情をかけて城に連れて行き、恩恵を与えた彼だ。

 彼の陛下は味方に──身内にはとことん心が広いが、そうでない者は人間だろうと容赦がないことを──俺はこの時目の前で知った。

 そして鉱山を巡って、本国と隣国は慎重な調整を続けていた時に、あの提案があった。

「ひとまずあの鉱山を不可侵として、証人の交換をしましょう」

 流れた血に、これ以上他の人間の血が混ざらないように。

 始まったのは、誰の血も流させないための物語だった。

 だから涙程度は──姫の涙程度は、血の前ではしょうがないことなのだ。


*回想 ?歳


 光あれ。

 神がそういうとたちまち世界の輪郭が浮かび上がった。

 そうして世界が創られた頃、竜には手足があって、空だけではなく大地さえも統べていたそうだ。

「──で、オレの先祖は竜の手足を奪うことで人を大地の覇者としたそうな」

 語られたのは創世記。

 目の前の金髪の少年が語り部としての務めを終えると、装丁の豪華な本をパタンと閉じた。嬉しそうに椅子の上で足をブラブラさせる。

 書庫の椅子や机が、まだ幼い俺たちには大きい。

「だからオレは竜に嫌われてるということだ」

「あなただって嫌いじゃない、リー」

 その少年の隣に座る長い白髪の少女が皮肉っぽく言った。緑色の目を細めて、金髪の彼に言う。

「竜だけじゃなくて、犬や猫、鳥も!」

 二人のやりとりを聞いた俺は、出会いを思い返して頷く。

「よくまあ、お……わたくしを助けてくださりましたね」

 俺は出会いを思い返して頷いた。つい「俺」と呼称してしまいそうになる。まだ慣れない。

 視界の端に自分の長い前髪の毛が入って、被りを振った。黒い前髪は影のようだ。

 装飾の多い華やかな服装の二人に対して、俺が比較的質素な軽装なのは立場の違いだ。

「そりゃあまあ、オレの国民だからな!」

 そう歯を見せて笑うと棚からぴょんと降りるので俺もそれに従う。まだ、やや俺の方が背が高い。

 金髪の彼がどうぞとばかりに白髪の彼女に手を伸ばす。当たり前のようにその手を取って、彼女が椅子から降りる。

「とはいえ助けたとちゃんと言えたかしら、あんなの」

「結果オーライだろう! あれからオレだってもっと鍛錬の時間増やしてもらってるんだからな」

 そういえば確かに、外で彼を見かけることが増えた。

 そういえば剣術の指南役が言っていた。──彼にはそろそろ専門の弓を扱う者を招聘しなければと。

 つまりは剣術の者が教えられる範囲を超えてきたのだろう。

「指南役がなかなか弓矢の腕には目を見張るものがあると言っておりましたね」

 俺の言葉に、彼は誇らしげに胸を張る。

「そうだろう、そうだろう! 的に当たると爽快感がある! ははは!」

 大きな声で笑うと、白髪の彼女がうるさいと言わんばかりに顔を顰めた。

 あなたから言ってよ、と無言で金髪の彼を指差してみせる。

 なぜ俺が。

 愚問。

 問わずに軽く頭を垂れて進言する。

「……陛下、少々お声が響きすぎます」

 おっと悪かった、と。

 俺の言葉にはにかんだ金髪の少年こそが──我が国の国王陛下。

 俺が仕えるべき陛下。

 少年ながらに即位した、この国の王。

「──そうそう、だからオレは獣に忌まれてる上に言葉が通じないものは嫌いだとして」

 陛下は一度視線を俺たちに投げてから、手元の本に戻した。

「神話の勉強の続きをしようか」

「ぜひ」

 俺より先に白髪の彼女が答えた。

 答えたヨルは知っているだろう。楽しそうだ。

「ははは! 神話を取り仕切る祈国局にそう言われると恥ずかしいな」

 陛下はまったく恥ずかしくなんてなさそうだ。

 四本足の人間は嘘つきばかりだ。

 せめて自分は人に対して騙らないようにしよう、と決めた。

「では話してやろう」

 陛下は語った。

 机の上に置かれた本の、挿絵のついたページを開いて陛下は物語をなぞり出す。

 神話の続きを生きる彼は──澱みなく語る。


 ──むかしむかし。


 その羽根で空の覇者に。

 その四肢で大地の王に。

 かつて竜には四本の手足があった。


 ニブルヘイムの国王の祖先はその四肢を奪い、その大地に住むことができました。

 そう、創世記の続きを、澱みなく語っていく。

「竜を退け湖へ追い出し、得た大地でそこに国を建てました」

 俺は頭の中で、まだ建造物の少ないこの地をイメージする。

 話は続く。

 陛下の方が動く。

 ──豊かな水源をもとに始めた耕作で国は栄えり、人はどんどん増えました。

 人口が多く土地は足りない程でしたが、ラーレの花が咲いているので人と人はは諍いを起こしたりはしません。

 ラーレは、人の想いに呼応する花です。手渡した人への愛を伝える花なので、それを手折って渡せば悪意のなさと愛が伝わるので人々は狭い土地でも仲良く暮らすことができました。

 愛の色を表現した花弁に染まります。

 しかしあまりにも土地が足りないので、人々は王様にもっと土地を広げてくださいとお願いしました。

 すると王様は、ならばあの月に住もうと言い出しました。

 滝にいる竜に背に乗せてくれと頼みに行きましたが、竜はもう人と口をきいてくれません。手足を奪われたのだから当たり前です。

 それならばと太陽まで飛んでいける鳥を捕まえて、背に乗ろうとしましたが、鳥は人間を振り落とそうとします。

 だからしょうがなく、人は翼に剣を突き立て落ちないようにしました。

 すると鳥は死んでしまいました。

 空で鳥と友だった竜は怒りました。

 お前たち人間は、月を守る竜から尊厳を奪い太陽を守る鳥さえも殺すのか、と。

 欲しがりな人間が治める世界など終わって仕舞えばいい、と竜は怒ります。

 川は氾濫し全てを飲み込み、水が引いた後には何ものこりません。

 山は炎を噴いて全てを飲み込み、残っていた草木を全て燃やしました。

 かろうじて生き残った人々は、大地に種を蒔き糧を得ようとしましたが、種は芽を出しません。

 絶望に身が凍え、最後に生き残った夫婦が、子どもの亡骸を植えた上に、小さな新芽が出ているのに気が付きました。

 その新芽は希望だと喜びました。

 しかしその芽は、吸える水がなく成長しません。

 芽は今にも枯れそうです。

 せめてこの血で潤えば、と祈った母親は自分に剣を突き立てました。

 そしてその芽から、世界は再び色を取り戻しました。


「おしまいおしまい」

 陛下は静かに本を閉じた。

「これがこの国の神話。月への償い。獣たちとの因果」

 閉じた本の表紙を撫でながら目を伏せた。

「だから俺たちは竜に嫌われてるから、近づいちゃいけないんだ。……特に俺はな」

 そう言って、陛下が俺の肩を叩く。

「獣の言葉がわかるなら竜の言葉も分かるだろう、お前が仇討ちに付き合ってくれるなら助かるな、グラム」

「仇討ちするつもりなんですか」

 俺が驚いて聞くと、いつものように笑った。だから冗談なんだと思う。

 白髪の彼女は何も言わなかった。陛下は大きな声で笑ってから、黒髪の俺と白髪の彼女に言うのだ。

「勉強はここまでにして、城を抜け出して遊びに行くツアーの計画の続きをしよう!」

 ──国王陛下のくせに、少年そのものの無邪気さはそのままで、彼は俺と聖女様をよく外に連れ出した。


 そんな日常があったのだ。

 幼かった頃、俺たちはそうして三人だけのページを記していったのだ。



 外聞は留学だが、体のいい人質。

 国交関係が緊迫しているともなれば、情報を与えたくないから外出にいい顔もできない。

 招かれなければ城に入れず、離れのへ出ようとすれば我が国の兵が護衛しますと取り囲む。

 ヴァルトの姫君は自由を与えられていたけれど、それは彼女の部屋の中でのみだった。

 しかしただ嘆くばかりの娘ではないらしい──手紙を我らが国王に送った。

 部屋で手紙を書き、それを側仕えに、それなら兵に渡して届けさせた。

 執務室で手紙を受け取った陛下は、封を開けて中を読むと、お前も見てもいいぞと俺に渡した。

「いえ」

 軽く目を伏せて遠慮する。

 陛下はそうか、とすぐに手を下ろして手紙を机に置いた。

「ペンで世界は変わらないのにな」

 剣の強い国の陛下は、そう呟いて返事をするためにはペンを取らなかった。

 返事をしないまま新月を迎え、また次の新月を数えた。

 俺たちは変わらない日常を過ごす。

 変わらないまま、姫の思いを知らないまま。

何も変わらない。

 ヴァルトの姫君を迎えたが、彼女はずっと離れの中なのだから。


 ある日の朝。

 騎士団の修練が終わり、弓の修練をしていた陛下を迎えに行った。

 的に向かって弓を構えるその姿は、太陽の下でそれと同じ色の金髪が輝き、普段とは違う修練に適した服装も相まって絵画のようだった。

 ヘヴンリーブルーの目が的を見て細められ、その弓をきりきりと引いている。

「グラム」

 俺に気付いて名前を呼ぶ余裕も見せたくせに、放たれた矢は気持ちのいい音を立ててど真ん中を貫いた。──的中。

「馬車の用意はいいか?」

 弓を下げて家臣に渡しながら、陛下が俺に問いかけた。

「はい。準備は整っております。……全て」

 全て──全員。

 俺の言葉に陛下は頷いた。

「久しぶりな気がするな、こうして遊びに行くのは」

「いつもそのように仰っていますが、実際その通りですね」

「ははは! まあ毎日城を空ける訳には行かないからなあ」

 着替えてから行く。

 馬を用意した場所で待っていてくれ、と言われたので、俺は頭を下げてその場を後にした。



「北の僻地で今年も美しい花畑が見られるそうだ。川の堤防の視察がてら、そこで馬でも走らせに行こうか」

 陛下がそう言い出したのは、執務中だった。

 先日のことだ。

 ギョルド川上流の堤防の補修を請願してきた領主からの、再度の手紙だった。

 今なら近くで美しい花畑が見られるから、ぜひ視察の折にはご賢覧を──と。以前送られた要望に対する……耳障りの良い催促だった。

 それが今日の外出に繋がった。

 花に美しさなど問わないくせに。

 駛走を特別娯楽としないくせに。

 この城で──花を愛でるのは誰だったか。

 陛下は俺を見ながら、本当は誰を見ているつもりなのか。

「……オレから後で誘いに行く」

 それは誰か、言われずとも分かっていた。


 そしてその日を迎え、招かれた聖女様は、豪壮な馬車に乗って外に立つ俺に言った。

「三人で遊びに行くのは久しぶりね」

 そう笑う様は、その馬車の見目も相まって絵画のようだった。

 彼女がすでに乗っているこの馬車は、数人乗れる広くて大きい、公な外出用の馬車だ。

「……ええ、護衛として、お供致します」

 陛下の愛馬も傍らに連れてきてある。この国唯一の黄金の馬。

 シャンパンゴールドの毛並みはこの国にこの一頭しかいない。ヴァルトと反対側の隣国から贈られた馬だった。

 美しく賢い彼の王の馬は、俺の馬と話しながら主人を待っている。

 獣は嫌いだが、獣離れした美しいこの馬とのことは陛下も気に入っていたし、何より移動手段としては優秀だと厭うてはいなかった。

 馬車に乗るよりは馬の背に乗る方が性には合うようなので、今日も乗るであろう王の愛馬にはしっかり鞍を載せてある。

 国の最重要人物二人の外出ということで、それなりに警護は多く、騎士団はほぼ総出だが、今日の外出の中では俺が一番階級が高い。

 騎士団長や副団長が、お前が先導する方が陛下も休息になるだろう、と考えてのことだった。

 何より城内にはヴァルトの姫君がいるため、そちらの警護──監視に少数精鋭の配置の必要があった。

 馬車に座った彼女が俺に聞いた。

「あれ、リーは?」

「おきが……お召替えを済ませてから参られます」

「お着替え、ね」

 俺の間違えて放った言葉を拾って、彼女が悪戯っぽく笑った。

 そこに乗った白い髪の毛が彼女の細い方が揺れるたび落ちて、体に筋を作る。緑色の目は細められて、白くて長いまつ毛で新緑が見えない。白い彼女はさながら雪のようだと思った。

「…………祈国局」

「なあに? 無理しなくていいのよ、第三級騎士様」

 そう言って俺の胸の勲章を見た。

 あの頃より──随分立派になった。重くなった肩にすっかり慣れた。

 俺の言葉に皮肉っぽく言った彼女に、肩をすくめててそれだけで返事にする。


 十六歳。

 騎士団に入る前より、騎士になる前より──言葉さえ覚える前より。

 片手ほどの年齢の頃から王に仕えてた俺は、特例中の特例で、平騎士ではなく階級を経た。

 血筋がはっきりしない人間としてはその階級は──髪の色が影と同じ色の人間に──それは最大限の栄誉だった。

 ずっと陛下のそばにいる──国王陛下の傍らに階級がない者を置かないように、という建前のためでもあるかもしれないが。とはいえ確かに、俺の剣で切り取った、肩が重くなるほどの栄誉だった。

 俺は許される限りの恩寵を得て、得られる限りの栄誉を身に付けた。

 だからもう、これ以上何も──階級も──望んでいない。

「ご立派だわ」

 座っている彼女が俺に目を細めた。

「……それはそれは」

 手に入れた全てで、この場所を手に入れた。

 手が届く距離ではないが、彼女の顔がよく見える。

 胸に手を当てて、わざと恭しく頭を垂れてみせる。

「恐縮致します、祈国局」

「もう──」

 俺の慇懃な動作に彼女が不満気に言いかけて、止まった。

 足音は数人分。

 いっそう重い足音は一人分。

 石畳の上を軽く踏みしめながら現れた──太陽と同じ色の黄金の髪の毛。

「待たせた」

 陛下が従者を連れて現れた。

「待ってないわよ」

 彼女が笑った。

 陛下は俺には、待ったか? と聞いた。

「はい。心よりお待ち申しておりました」

「ははは! お前は正直だなあ!」

 そう言うと俺の傍らの馬たちに視線を投げて、陛下は彼女と同じ馬車に乗り込んだ。

「…………」

 彼女が驚いた顔をして、一瞬俺を見た。

 俺も同じ顔をしていたかもしれない。陛下が背を向けて乗り込んでいてくれて助かった。

 騎乗用の馬を用意していたのに、馬車に乗り込むとは思わなかった。

「どうした? ヨル」

 陛下が馬車の中で目を丸くする彼女に聞いた。

 ……つまりはそういうことだ。

 馬車の扉が、御者によって閉められた。

「……いいえ、王様」

 なんでもないわ、と。

 彼女のその声までは聞いた。

 扉を閉められて、中の二人の会話は聞こえなくなる。

「……すまない、グリンブルスティ」

 俺は鞍を乗せていたシャンパンゴールドの毛を持つその馬の首筋を撫でた。

 召使が彼の馬を厩(うまや)に戻そうと手綱を引くと、誇り高い王の愛馬は鼻を鳴らして首を振った。

 その馬の目で、彼が不満だとすぐにわかった。召使から手綱をもらって、その長い鼻先を撫でる。

「……お前の王じゃなくて悪いけど、友として今度走りに行こうな」

 太陽の下で、その光沢のある美しい毛並みの首筋を撫でながらそう小声で伝える。

 優しい馬だ。俺が言えば穏やかな目で俺を見て答えてくれた。

「よろしく頼む」

 そう言って改めて召使に手綱を渡すと、一度俺たちを振り返ってから、厩(うまや)に戻って行った。

 それを見てから俺は自分の愛馬に跨る。馬車の窓と同じ目線の高さになった。

 窓越しに陛下と目があった。陛下が頷く。

 目的地は北部、ギョルド川上流。

 そして俺たち国王陛下一行は進み出した。

 城の敷地内にあるあの離れは外からもよく見えた。

 青い空の下を、小さな鳥の影が一つ飛んでいた。



 日差しは穏やかで、並木道では葉が陽の光に透ける。馬車の車輪は石畳の上を重踏みしめ、蹄の音は軽快な音。

 城下を離れていくにつれ建造物は減り、自然は色濃く鮮やかになった。

 通りすがる人々は王族の馬車の姿を見て地に伏せる。

「ははは! 遊びに行ってくる!」

 陛下は馬車の窓から、陽射しのように無差別に挨拶を投げ、ヘヴンリーブルーの目を細めた。同じように窓から、彼女も手を振り笑顔を振りまいていく。

「王と聖女様がお揃いとは、神々しい」

「御二方揃う様はまるで美術品だ」

 馬車の中の二人への称賛の声は、馬車の外の隊列にある俺の耳によく聞こえた。

 馬車の中の二人の会話は、車輪と蹄の音の合唱でまったく聞こえなかった。


 川沿いをしばらく進むと、やがて領主の元に着いた。大きな屋敷の前で俺たち一行は止まる。

 御者が扉を開いて、陛下の金髪が太陽の光を浴びて輝く。先に降りた陛下が手を伸ばした。

「ヨル、手を」

 そして真昼の月の色をした彼女の髪も同じ光を浴びる。

「ありがとう」

 聖女は陛下の手を取って馬車から降りて、俺たちと同じ地面に降りた。



 歓待を受け、中に入りその領主の話を聞き何度か握手をすると、それで終わりだった。

 屋敷の外に俺たちを見送りに出た領主が陛下と聖女様に言った。

「花畑ですが、滝とは森を挟んでおりますのでご安心ください」

「そうか」

 領主の言葉に、陛下が頷く。

「御二方が花を愛でられる様は、天上の景色のような美しさかと思います」

「ははは! 案内がてら貴公も来るか?」

 陛下が腰を両手に当てて笑うと、いえいえ、と領主が薄く笑った。

「いえいえ……あとは、若く尊いお二人でお過ごしくださいませ」

 俺は陛下と聖女様の後ろに控えて、その言葉を黙って聞いていた。彼女は微笑んでいるだろう。

 馬の首を撫でると、脈打つ首筋が熱かった。

「さて、帰途につきながら噂の場所に行ってみようか」

 そう言って陛下は彼女に手を伸ばして馬車に乗り込んだ。

 帰途というものの、その噂の花畑は、この領主の家からわずかに北の方だった。帰路というには遠回りだ。

 この国は北に行けば行くほど危険地帯になる。

 北には森があり、その森の中には──その奥には滝がある。

 竜が住む滝がある。

 進むにつれ、甘くて爽やかな香りが風に乗ってきた。川は静かに流れ、穏やかな風と共に歌っている。

 静かな草原の移動だったから、馬車の中からかけられた声も、車輪の音でかき消されなかった。

「……これは、綺麗ね」

 同じ馬車の中で、陛下が彼女の言葉に答えた。

「ああ、見事だ」

 川のほとりのそこは──鮮やかな緑の種の上に、淡いピンクと紫の小さな花が群生していた。

繊細そうな花弁のくせに、光の下で鮮やかに咲く様は見事だった。


 その柔らかな花畑の前で、馬車は止まり俺たちは足を止めた。

 眼前に広がるその美しい色合いの花畑に、王と聖女様は馬車から降り立った。

「お前たちは自由に休んでいてくれ。ヨル、見回りたいだろう」

 陛下は護衛の俺たちにそう言った。

 他の騎士は、そんなわけにはいかないと、花畑を前にしても警戒を肩から下ろさない。

「……グラムを供にするから大丈夫だ」

 陛下の言葉。

「……」

 それから、彼女から視線が送られた。ああもう。

「……御心のままに」

 俺がそつ言うと、やっと他の騎士たちは肩から少し力を解いた。

 城を出てからずっと、ここまで気を休める間もなく進んだのだ。

 まあよい休憩になるだろう。

 俺は護衛の騎士たちに視線を送って頷いた。

「進もうか」

 陛下にしては、優しい口調だった。

 芳醇な空気のせいだったのかもしれない。

 ……俺に向けた声ではないのだろう。

「そうね」

 彼女の声が、穏やかな風に乗った。

 その吹き抜けた風が、一面の花畑を揺らした。甘く爽やかな香りが鼻につく。

 小さな花弁のパステルカラーの花々が、風に揺れる度に踊る。

「……リナリアの群生地だったのね」

 こんなところに、と彼女は言って。

 こんなところだからだな、と陛下は頷いた。

 少し後ろを俺が歩く。

 数歩分後ろにいるのは、剣が重いからではない。隣に歩くべき人間ではないからだ。

 川のほとりを、陛下と彼女と俺は、騎士団から離れるように進む。水面はどの瞬間も美しく煌めき、絶えず聴こえる川の音は澄んでいて心地が良かった。

 その花畑の中で──彼女の白髪は銀色に煌めき、淡いピンクと紫のコントラストと絶妙だった。

 きっと目の色は若葉と同じ色なのだろうと思った。近くで確認できるわけないが。

 陛下の金髪は太陽の下で燦然と輝いている。

 空の色は、陛下の瞳の色に似ている。

 俺だけが夜を連れた髪の色だった。

 花畑に影を落としていないだろうかと心配になって──いや、むしろ影になれているのなら僥倖だ。足元の花を見つめながら進んだ。

 そんな風に考えていたから──俺は気付かなかった。

 もとより陛下は、見つけるのが得意だった。

 なんせ路地裏で俺を見つけたのだ。

 聖女様さえ陛下が見つけたらしい。──俺と出会う前、俺が知る前に。

 迷路のゴールだって誰より早く見つける。

 そんな陛下だから、見つけた。

 陛下はそれを見つけて小さく声をこぼした。

「……なあ」


 ──これは後から陛下に聞いた話だ。

 何故それに気が付いたのか。

 俺は自分の足元ばかりを見ていたから気が付かなかった。


 そのパステルカラーの花畑の中で、細長い緑の茎が、咲き誇る花より一段高く伸びていた。

 だから目立っていたんだと言った。

 陛下がそれを指差して足早に駆け寄り、彼女も長い服の裾を摘みながら進んだ。

 二人が駆け寄ったそれは、ここに咲いている花々より少し大きく、緑色の蕾だった。

 硬そうにしっかり閉じているくせに、今にも咲きたそうに膨らんでいる。

 城の庭は豊富な種類の花が咲いているので、大抵の花は──蕾は──見たことある気がするのに、それは見たことがないものだった。

 二人がその蕾を見下ろして止まるものだから、俺も数は後ろで立ち止まった。

 少し離れたところで、けれど駆け寄れば一瞬のところで二人を見る。

「…………」

 二人して黙っていた。

 その緑の蕾は雫の形で、秘密を抱えるように静かにしっかりと閉じていた。

「……どうなさいましたか」

 意を決して、二人の間に声を投げ入れた。

するとゆっくり陛下は膝を折って、その蕾の茎に手を触れた。

「……ああ」

 その様子を、彼女は口に手を当てて見ている。

新緑の瞳は溢れそうなほど見開かれている。驚きが隠せていない。

 陛下の声は、風で隠れそうな声だった。

「──まさかこれが、ラーレなのか」

 その茎に触れていた手で、その花を手折った。

 青々とした芯のありそうな茎は、小気味のよい音を立てた思う。

 陛下はその手折った蕾を持ち立ち上がった。

「受け取ってくれ、ヨル」

 そして彼女に差し出した。

 その蕾が、目の前でゆっくりと花開いた。


 ──魔法のないこの世界で、手折って差し出した目の前で花開くその様子は魔法のようだった。


 緑色の外皮が割れて、一つずつ綻ぶ花びらは、まるで王冠の形だった。横から見える限り花弁は三枚しかなかったから。


「…………リー……」

 花を差し出された彼女の返事は小さい。


 彼女の目の前で柔らかく開花した花弁の色はピンク色。

 花弁の縁は赤く、内側に向かってピンクのグラデーションになっていた。


 彼女の目の前で優しく咲いた花を、王はラーレと呼んでいた。

 花びらがこぼれないような、優しい咲き方だった。


 その花の名前に聞き覚えがあった。

 ──伝説上の存在しない花だと覚えていた。

 俺が覚えていたのはそれだけだった。

 この時の俺は、その花が咲く意味を知らなかった。


 馬車の中でその桃色の花弁を柔らかく広げ、優しく咲く一輪の花を持つ、彼女の姿をよく覚えている。


 ラーレ。

 かつて存在したとされる花。

 素晴らしい香りと、感情に応えるかのような鮮やかな色で、香料としても染料としても優秀だと書かれていた花。


「神話があった時代の花だ。存在しない、伝説上の花だな」

 そう陛下は言っていた。


 その花が彼女の目の前で咲いた意味を、俺はこの時知らなかった。

 陛下が彼女に手渡して、優しく咲いたその花の意味を。



 その花を、彼女がどうしたのか俺は知らない。

 結局それはずっと、分からずじまいだった。


 次の日俺は、城内の厩(うまや)の近くの広い芝で馬を走らせていた。

 蹄が大地を蹴る音は力強く、その音に合わせて体が跳ねる。跳ねる度に携えた剣も音を立てて少しうるさいが、俺が乗る馬はそんなこと気にはしないようだ。

 主人と同じ毛の色をした、この国唯一の存在。

黄金の毛並みの王の愛馬。グリンブルスティ。

 先日約束したこの馬は、俺と思いっきり走ろうかと誘うと、喜んで頭絡を着けてくれた。

 馬の主人である陛下の許可も得ていた。

 仕事が終われば行く、と言っていたが、政務大臣との話なので時間がかかるだろう。

 そう思ってこの馬には主人が来るかも、とは言っていない。

 広い城内をただ四本足の友と羽目を外して風を切って踊るように走っているだけだ。

 駆けて切り裂く空気は美味しい。


 しばらく自由に駆け回って、そのシャンパンゴールドの背から降りる。

 彼の馬は一通り満足したのか、芝を口に喰み、黄金の尾を振りのんびりとしている。

 日差しに光沢のある毛が輝いて、高貴な生き物らしい優雅さだった。


 その様子を眺めていると、聞き慣れた足音がした。

 不意をつかせたいのだろう。

 誰の足音かだけでなく、その音で意図さえもわかってしまった。潜んで音を立てないように芝を踏むその音に、緩みそうになる口元ごと気づかないふりをした。

「わっ!」

 俺の数歩後ろで、白髪の彼女が大きな目を見開いて、驚かすように両手を上げた。

 遠いだろ。

 振り向いて口元を隠したままの俺を見て、なーんだ、と言葉をこぼした。

「なあんだ、やっぱりバレてたのね」

「ええ、はい……ヨ、」

 その様子に思わず口が滑りそうになった。

「聖女様」

 あまりに拙い悪戯だったから。幼い頃のように、何も知らなかった頃のように、ヨル、なんて呼びそうになってしまった。

 普段通りの俺を見て、彼女は視線を逸らせた。

「……いきなり来たんだから、うっかり口を滑らせたっていいのに」

 なんの話でしょう、と肩をすくめた。

 ああもう、そんなこといわないでくれよ。

 俺とグリンブルスティを見て、調子を戻した彼女が言う。

「あなたは馬に乗るのが上手いわよね、グラム」

「恐れ入ります……まあ騎士なので」

「羨ましいわ」

 宗教の最高の地位に立つ彼女が、一介の騎士の俺にそう言った。──羨ましい、と。

 理由はわかる。乗馬のことだ。

 彼女は乗馬の経験が少ない。

 この国唯一の聖女様なのだから当たり前だ。怪我をしてはならない。……その尊い血を流すことがあってはならない。

「しかも乗った時なんて、ゆっくり歩くしか許されなかったわ」

 幼い頃乗ったっきりよと肩をすくめた。

 それは俺も覚えていた。

 俺と陛下が馬に乗っていて、それを見た彼女が乗りたいと言って譲らなかったのだ。

 頑として乗ると聞かない彼女に、周りの者は困ってしょうがなく──御者が震える手で馬を引く、あれほどまでに緊張した様子は今でも見たことがない。

 陛下はその様子を見て声を上げて笑って、俺も御者や周りの狼狽えっぷりが面白くて笑いをこらえるのに必死だった。

 ありがとう、と馬から降りた彼女は、心底満足した様子ではなかったが、家臣の様子を見たからかあれ以降馬に乗りたいと言ったことはなかった。


 彼女の緑の目は、青空の下でも綺麗だった。その目が黄金の馬を映していた。

「……乗りたい、ですか?」

 言ってすぐに後悔した。言うんじゃなかった。

 彼女の新緑の目が、あまりに鮮やかだったから。

 彼女の白髪が青空に浮かぶ月のようだったから。

 つい、口をついてしまった。

「グリンブルスティ」

 呼べば黄金の毛を持つ友は俺の傍に来た。

 聖女に鼻を擦り付け、挨拶をする。

 彼女は擦り付けられた鼻先を嬉しそうに撫でた。

 乗ってもいいか、乗らせてもいいかと。

 馬は聞かずとも許しを与えてくれていた。

 踏み台がないので、裾の長い服を着ている彼女が体高のある馬に乗るには補助が必要だった。

 だから彼女を馬に乗せるには、手を差し出す必要があった。

「…………」

 乗りますか。

 手を差し出して、喉までその言葉を用意した。

 それを本当に言っていいのかと、緑の目に映る俺が逡巡している。その目の色に、黒い俺が期待の光を背負って映っている。


 俺が言葉を発する前に、彼女の口が、開いて──

「ははは! 待たせた、グラム!」

 ──突然飛び込んできた声は陛下の声だった。

 芝の上で、その金髪はまるで光るように揺れる。

「陛下」

 回廊から出てきて、俺たちのところに歩み寄った。

「グリン」

 黄金の馬は突然現れた主人に首を垂れた。陛下はその首筋を労うように軽く叩くと、彼女に目を向けた。

「ヨルは散歩か?」

「ええ。この子は目立つから見に来てしまったの」

 そう言って視線でグリンブルスティを示した。

 青々とした芝で黄金の馬はいっそう目立つ。

 自分のことを言われていると分かって、賢い馬は誇らしげに鼻を鳴らした。

「馬に乗って走るのって、どうして気持ち良さそうに見えるのかしら」

「そりゃあ気持ち良いからだろう」

 そうだろう、と陛下が視線で同意を求めるので、そうですね、と頷いた。

「……そうよね」

 一拍、陛下が彼女を見る。

 もう一拍、彼女の視線の先の馬を見る。

 そして数拍の間。

「乗りたいか?」

「え?」

 聞かれて彼女が答える前だった。

 陛下は一瞬で彼女の脇に手を入れ馬の背に乗せると、手綱とタテガミを握ってひょいと飛び乗った。

「ちょっと! リー!」

「ははは! 乗りたそうだったからな!」

 手綱を握る陛下は、自分の両腕の中に閉じ込めるように彼女と乗った。

 怪我をしたら、とか。

 見つかったら、とか。

 何も考えていなさそうに。──いや、きっとそれを丸ごと分かって、彼女の気持ちを分かってだ。

 陛下の腕の中で彼女が声を上げる。

「いきなり危ないでしょう! それに私、乗馬は上手くないわ」

「ならオレが教える」

 陛下は言った。

「大丈夫だ、こいつは。……そうだろう、グラム?」

 そう言って高くなった目線をただ地面に突っ立っている俺に合わせた。

「……はい、それはもう。王に相応しい最高の馬でございます」

 馬に乗った二人を見上げる形になる。青い空が眩しくて、目を細めた。

「俺のをありがとう、グラム」

 それが馬のことだったのか──そうじゃなかったのか。

 陛下が踵を馬の腹に当て、進めと合図を出した。

「ほら! ヨル! 走るぞ!」

「え!? 本当に!?」

 俺はただ、駆け出す馬上の二人を見ることしかできなかった。


*回想 七歳


 今日は水瓶に頭を突っ込まれた。

 厩(うまや)近く、井戸の傍に置いてある、満ちた水瓶の中に髪を掴まれた。入れる動作が雑で縁に当たった額がジンジンと痛む。

「クズが!」

 髪を引っ張られて水瓶から無理やり顔を上げさせられると、空気と共にそんな言葉を与えられた。そんな言葉より額の方が痛い。

「ゴミみてぇな髪の色してるくせに!」

 うん、それは俺もそう思う。息継ぎで必死で答えられないが、分かるよ、と思う。

 忌まわしいよな、分かるよ。

だから俺は犬たちとゴミ溜めを漁る日々にいたんだ。

 また顔を勢いよく水に突っ込まれる。

 ぶつけられる水面はまるでガラスのように痛かくて冷たい。

 大したことではないが、苦しいには苦しい。歪む視界。水の中で揺れる気泡。

 もがき足掻く姿を見せまいと、口を閉じて体を硬くして耐えた。苦しそうにしたら周囲が調子に乗るのは明白だ。

 空気を吸いたいと思ったところでまた髪を引っ張られて引き上げられる。

 今度はその力のまま地面に叩きつけられた。

「隣の国からの偵察なんじゃねーの!?」

「黒い髪の汚い肉袋が!」

 俺を囲む数人は、歳は俺と同じか少し上くらい。皆、若木やパンと同じ髪の色をしている。

 正確には分からないが、城にいる男子たちということは、騎士団見習いか下働きの貴族の家の子だろう。

 突然城に現れ、陛下の傍らにいることを許された俺は、侮蔑と陵辱の対象だった。

 暗い髪色のせいだ。

 この国唯一かもしれないほどに暗い、忌まれる髪の色。

 光の神聖力とは反対側の色。

 警戒も嫌悪も当然だった。今までそれを浴びて生きてきたから、まあ暴力は受け入れていた。

 また蹴られる。

 獣のように丸くなった俺を蹴飛ばしている。

 蹴られる足の衝撃と共に飛んできた砂が口の中に入って、ジャリジャリする。

 その不愉快さに吐き出そうと口を開くと、蹴られた衝撃で内側の頬肉を噛んでしまった。

 痛いな。血の味がする。

 こいつらも同じ味なのだろうか。

 されるがまま見上げていると、新しい足音と、割るような声で蹴りが止んだ。

「──お前たち、オレが選んだものに文句か」

 何本もの足の間から見えたのは、誰より明るい黄金の髪。

 その威すような厳しい声が、高笑いした。

「ははは!」

 俺を囲んでいた少年たちが瞬時に地に伏せた。

「オレのものに与えた言葉は、オレに与えるとも同義だぞ?」

 俺を見下ろしてた彼らは、今、彼の国王陛下を前に俺と同じ目線に成り下がった。

 こちらに歩み寄った国王陛下は、同じ年の功とは思えないほど尊大だった。空色の瞳が、地に伏せる俺たちを見た。

「オレの前に、同じ国の民同士で血を流し合うな──その血は全て、尊い物だ」

 少年たちは肩が揺れるほど勢いよく返事をした。俺も横たわってるわけはいかず体勢を整えて同じように額を地につけようとした。

 が、その前に声をかけられる。

「行くぞ、グラム」

 ああもう。くそ。

 立てと言うのか──立ってやる。

 こんな痛み受けて立ってやるさ。

「御心のままに、陛下」

 口の中は切れてて痛い。血の味もした。それでも俺は、澱むことなく返事をした。

 陛下が踵を返して、俺に背中を向けた。

 それは、お前はついてくるに決まってると、確信している背中に見えた。

 俺はすぐに立ち上がり、少年たちに背を向けた王の跡をついて行った。


*十六歳


 城ですれ違ったのはどこの貴族か分からない。

 陽の光の射す城内の廊下。

 その男は立派な服を着ていたので、どこかの大臣の子息だと思う。

「……闇色の呪われた髪が生意気に」

 すれ違い様に俺だけに聞こえるよう、小声で言われた言葉だった。

 言われて俺は黙って──るわけなかった。

「ああそうだ、闇の色だとも」

 そいつの腕を掴んだ。

 堂々と、同じ目線で対峙する。

 掴まれたのは意外だったらしい。肩をびくりと震わせてから俺を睨め付けてきた。

 見たことがある顔な気がするが、よく分からない。俺の行動に怯んだようだった。

 ──確かにこの髪の色は呪いかもしれないが。

「お前は鈍い(のろい)んだな」

 生意気なのは上等だ。

 生きる意気込みあっていいだろう。

 嘲るように、自嘲するように笑うと、それなりの力で振り払われた。もう用はないので、わざと力を緩めてやった。

 俺に掴まれていた手首を、慰めるかのように撫でて、チッと舌打ちをした。その立派な服を着た男に俺は言う。

「陛下に届けたい言葉があるならお聞きしましょう」

 そんな悪意には怯まない。

 俺は向き合う必要があった。

 俺をこき下ろす人間に。俺を見下す奴らに。

「国王陛下に近い近衛として」

 俺を拾い布団と言葉を与えてくれた陛下のために。

 俺が立ち上がるだけの食事を与えてくれた陛下のために。

「なんでも……ありません……!」

 わざとらしい言葉遣いで言うと、その男は踵を返して足早に行ってしまった。

 俺はその背を見送って、改めて城内を進みだす。


 陛下のために。

 矜持を強靭な物とし、抱く誇りは重く──何グラムかと量れなくなるほどに。

 だから俺は、家柄を──血を問われない出来る限りの出世をしたのだ。


 三級騎士。騎士団で上から四番目の称号。

 騎士団には序列がある。

 そもそも入団前の騎士見習いという立場もあるのだが、入隊後は功績や腕っぷしで変わっていく。


 平騎士。

 ……まあこの中にも多少の上下はあるが、大半がこの階級だ。功績を上げてここから上がっていく。

 第三階級。俺の他に数人程度。

 平民出身でもなれる、功績と実力で選ばれる正義の階級。

 第二階級。騎士団に二人いる。一人は団長だ。

 貴族出身で他騎士の承認で認められる慈愛の階級。

 第一階級。今は不在だ。

 貴族出身で他騎士の承認と、尚且つ曽曽祖父母の代から貴族であることの証明が必要となる血筋を重んじる伝統の階級。


 そして特級。

 この称号を得た騎士は古書でしか知らない。

 神へ。その身の永遠を全て捧げ献身を尽くす者。

 王へ。未来を永遠に約束し忠誠を誓う従順な者。

 献身と忠誠を体現した者が特級騎士。

 もはやその階級はまだ存在するのかレベルの称号だ。

 その階級に至るには試練があるが、その実一番、血筋に寛容だった。貴族だろうが、平民出身だろうが、他国出身だろうが、流れる血は問わない。

 そんなもの達成できるのか? と思うような試練で──だからこそ特級騎士が存在しないのだろう。

 まあとにかく、神話のような伝説のようなどこかの説話にしか出てこないようなものが特級騎士、神聖なる騎士だった。

 もう俺は充分に今の地位に満足しているし、十二分にこれ以上ない立ち位置を得た。

「お待たせいたしました、陛下。──祈国局」

 ノックの返事を受けた書庫に立ち入った俺を、二人は笑って出迎えた。

 ──もう俺は、この光の影になれるだけで満足しているのだ。



 陛下が寝室に入ったのを見届け、夜の番の者と挨拶を交わし、自分の部屋に戻る途中だった。

 月が綺麗だと、鳥が歌っていたので外に出た。


 その中庭に、ヴァルトの姫君がいた。

 鳥が姫君の手に留まると、表情を和らげて話しかけた。

「あら、ミスターイースター」

 初めて見る、姫の穏やかな顔だった。

 目を細めて手に留まった鳥に聞いた。

「こんな夜中にどうしたの?」

「……その鳥は、どちらかといえばミスターイースターかと思います」

 しまった。

「え?」

 思わず口をついてしまって、目があった。

 姫君の若木色の目に、月明かりに照らされた俺が映った。

 ──この姫君と、話をして良いと許可は出ていない。

 しかしそれより、夜に一人で姫君が歩いている方が問題なのだ。蜂蜜色の髪を持つヴァルトの姫君。

 苦い顔をしないよう無表情に保つ俺に笑いかけた。

「あら、騎士様ね。貴方、鳥に詳しいの?」

「……なぜ供もつけずお一人で外にいらっしゃるのでしょうか」

 質問に答えない俺を無礼だと罵る可能性もあったが、意外にもその姫君はうーんと気まずそうに頬をかいただけだった。

 怒られはしなかったが、言い訳に詰まったらしい。どうやら要領がいい答えは得られそうにはない。

「……お送りしましょう」

 溜息をつきそうになるのを堪えていった。

 陛下や聖女様が気さくだから、つい気が緩みそうになるが、目の端に入った自分の髪色を見て、自分の立場を忘れないように振る舞う。

 警戒を解いてはいけない。夜の外出を、陛下は、騎士団は認めていない。

 見張りの兵を叱る必要があるな、と思って目を伏せた。

 姫は俺の横顔を盗み見たのか、言った。

「……私がお願いしたのです。庭を愛でるだけの僅かな時間だから、と。叱らないでください、平民出の兵なのです」

 聡い姫だと思っていたが、その言葉には意表を突かれた。

 ……考えはあまりバレない方だと、思っていたのに。

 この姫には顔を見せない方が良いと考えて、俺は一歩先を歩くことにする。

「お送り致します、姫君」

「ありがとう、ニブルヘイムの騎士」

 彼女の指先に止まっていた鳥が、俺の肩に飛び移った。

「……あら」

 目を合わせないよう表情を見た。姫は目を丸くして、口元は少し綻んでいた。

「…………」

 まったく。

 俺は肩から指先に鳥を移動させ、その手を月に掲げる。

 ──おやすみ、ミスターイースター。

 鳥は羽を広げて飛び立ち、俺は離れの近くまで彼女を送り、彼女が離れに入ったのを物陰から確認して部屋に戻った。


 次の日、騎士団の上の者にさりげなく警備の兵について話したが、俺の配置も他の者の配置も変わらなかった。



 玉座の上で陛下が言う。

「今年はムースペイルの王族がこちらに来られる予定だ。今から準備だな」

 ヴァルトと反対側の隣国ムースペイル。

 友好の記念にと送られた、黄金の馬の出生地だ。毎年交互にパーティーを開き、お互いの国に招いている。

「あちらの姫君のデビュタント(社交界デビュー)も兼ねると言っていた。今年は向こうの有力な貴族も招く」

 陛下は頬杖をついて足を組みながら──めんどくさそうに、溜息を吐いた。玉座の上から吐かれる息が、重たそうに落ちていく。

「大規模ですね」

「まあなあ……ヴァルトとの鉱山の件もあるから、いっそう友好を深めねばならんということだけどなあ」

 有能な陛下は、大抵の政務は厭わない。

 まあしょっちゅう気晴らしだと言い訳して抜け出すが、それでも他の大臣にすべてを投げることなく自分の責だとこなす。

 そんな陛下が溜息を吐くのは、相手国や自国の思惑が重すぎてよく見えるからだろう。

 ムースペイルの姫君のデビュタントを、隣国であるこのニブルヘイムで行うということは──。

「…………オレは、なあ」

 ──この溜息をつく、うら若い国王に身染められることを狙いとしているだろう。

 陛下は堂々とそれを言葉にしないし、俺も軽々しくそんな推察は言わないが、恐らく誰もが思っている。

 形にしたら実現しそうで、それは両手を叩くべきことなのか、横に振ることなのか分からない。

「こちらで招待する我が国の子爵だが、気に入られそうな見目が良い若いのを多めに呼んでくれ」

 俺は笑いそうになったが、平静を装う。

 家臣たちは薄く笑いながら眉を下げて頷いた。

 それを見た陛下が、もっと笑っていいぞと言葉を続ける。

「支度金もある程度支援するから求愛する雄鶏のように華々しくと追記で」

 さすがにそれには家臣たちも笑った。

「でもオレが一番輝いてしまうのは必然なんだよなあ」

「まあ、それはそうでしょうね」

「お前も面白くなったな、グラム」

「恐れ入ります」

 俺たちの空気に、玉座の間全体の空気が軽くなった。

「だからオレより目を引く花を飾る必要があるな」

「そんな花ありませんよ」

 太陽の下で、陛下の髪より眩しいものなどない。

 その色に空色の瞳の色は風雅だ。

 そうだな、と陛下が笑った。

「……そうだったかな」

 言い直した陛下が、どんな花を思い出したのか俺は知らない。



第二章 十七歳


*回想 十歳


 今回の生垣(ヘッジ)迷路は、庭師が相当気合を入れたと言う。

「難しいだけじゃなく花も拘ったと言っていたぞ」

 晴れた青空の下の庭で、陛下が俺とヨルに言った。

 青々と茂った高い生垣で出来た迷路の入り口で、俺たち三人は少しだけ高さが違ってきた肩を並べている。

「あら、嬉しい」

 ヨルの胸元に届いた白髪が、太陽の下で輝いている。

 芝を撫でる風が同じように彼女の髪を撫でるから、彼女はその長い髪を耳にかけた。

「俺も今度は頑張りますよ」

 俺が陛下を見ると、その歯並びの良い白い歯を見せた。

「ハンデをやろう、お前が先でいいぞ、グラム」

 恐れ入ります、と受け入れる。

 余裕ねえ、とヨルは笑った。

「それじゃあ、私から行ってくるわね」

 真ん中の、ゴールの噴水で待ってるわ。

 風で揺れる迷路の入り口に、そう言い残して鮮やかな白色が迷うことなく消えた。

「……ヨルは花が好きだなあ」

 そう溢した陛下の目が、まだ迷路の入り口を見ていたから、俺に言ったのか分からなかった。

 そうですね、と返せば良いのか、さあ、と返せば良いのか。

 金髪が揺れる横顔を見つめていると、陛下の方から再び口を開いた。

「ずっとあんなところにいたから、空の下が好きなのは分かってはいたが」

 ──それは俺の知らない話だと思った。

 俺が出会う前の彼女の話。

 風が吹いて、視界に入ってきた髪の毛の乱れを直す。誰とも違う、暗い闇の色の髪。

「……そうなんですか」

 ──根掘り葉掘り聞くわけにもいかなかったから、やっと言えた返事はそれだけだった。

 ああ、と陛下は頷いて、それからすぐ近くの木が落とす影に視線を投げた。話題は変わったようだ。

「そろそろ行くか? グラム」

 王の目は、灰がかった空の色。

 その目に映る俺の目は、金色。

 人の目の色ではない、と罵られたこともあった。それでも陛下の髪の毛と同じ色だから、今はもう悪くなかったと思っている。

「はい」

 迷路の入り口が風で揺れる。

「行ってまいります」

「ああ! 待っているぞ!」

 後ろを振り返って陛下を見ると、歯を見せて笑っている。

 まだスタートしていないのに、待っている、か。

「お待たせしないように努めます」

 そう言って俺は迷路の入り口を潜った。


 緑色の視界。生垣で出来た、風で鳴く高い壁。

一つ目を左に曲がった。

 足元は柔らかな土で、自分の足音と通った後に茂みが揺れる音だけが聞こえる。次も左へ。

 生垣の隙間からも太陽の光が漏れて、地面に絶え間なく変化する陰影を作る。左へ。

 風が入り込んできて、葉が一枚髪についた。それを取って左へ曲がると、分かれ道だった。

 迷路のゴールは真ん中だ。随分左に来たと思うから、右に曲がる。

 ──そろそろ陛下もスタートしただろうか。

 誰の声も聞こえず、人の気配は風の音に隠れるほどの自分の呼吸だけ。

 こうして高い壁に四方を囲まれていると、まるで出口がないような気になってくる。

 歩いていると、生垣の草の葉の種類が変わった。甘い香りがする気がして、誘引されるように進んだ。

 ゴール付近なのかもしれない、と期待する。

 この香りが導く方へ行けば良いのかと右に曲がる土を踏む。

「……っ!」

 突き当たりだった。

 進んだ突き当たりは、壁だった。

 やたら驚いてしまったのは、そこに人がいたからだ。俺は一瞬で今来たばかりの角へ身を隠した。

 甘く、豊かな香りはそこ──白髪の聖女様がいる場所からだった。

「え?」

 多分一瞬だけした人の気配に首を傾げているのだろう、ガサ、と振り向く音が聞こえた。

「……い、いたわよね?」

 人がいた確信が持てないのだろう、不安げな声だった。

 そしていたとすれば──どちらなのだろう、と呼びかけに迷うようだった。

 息を潜めて、答えた方が良いのか考える。

 どのみち行き止まりだ。姿を表さずこのまま来た道を戻り新しい道に進むべきかと考える。

 ……顔を見せるべきか。それとも。

 そんな俺の迷いを──

「……グラム?」

 ──その声が消した。

 呼びかけは、俺の名前だった。

 ああ、もう。

 天を仰ぐ。今日は真昼の月は見えない。太陽は高く遠くにいる。

 だから俺は、身を隠した通路の角から姿を現す。

「……行き止まりでしたか」

 まるで今来たばかりというように。

「グラム」

 生き生きとした緑の壁に、俺でも知ってるギュルの花。交流のある隣国ムースペイルでは、この赤い花をローズと呼んでいた。

 突き当たりの生垣の壁に赤い咲く様子は、まるで絵画のようだ。

 その前に、まるで真昼の月のような白い髪をしたこの国の聖女様が立っている様子は、まるで額縁の中の景色そのものだった。

「行き止まりよ」

 細められた目が嬉しそうに見えるのは俺の気のせいか。きっとそうだろう。

「……さっき分かってたでしょう」

 行き止まりと分かってきて戻ってくるなんて──その声を聞いて戻ってきたなんて。

 なんと言おうか。

 隠れた釈明も、現れた弁明も、何も持っていない。

 まだこの時の俺は剣を持っていない。

 守るためという言葉さえ使えない。

 だから、十歳の俺の、精一杯の言い訳だ。

「……花が綺麗だと思ったので」

 やっと出てきた言葉はそれだった。

 俺の言葉に、彼女はその緑色の目を丸くして、それから俺に背を向けて、壁に咲く花を見た。

「そうね」

 甘いだけじゃない花の匂いを、なんと例えればいいのか分からなくて胸に詰まった。

「私もそう思っていたの」

 柔らかそうな薄い花びらが、何十枚にも真ん中に向かって丸く重なり合うギュルの花は、鮮烈な赤。

 青々と茂った生垣の迷路の中で、その花は鮮やかで、人の目を奪うために咲いているようだった。

 そんな鮮やかなコントラストの中にいると、いっそうヨルの白髪は目立つ。

 何色にも染まらなくて、何色の光を浴びても輝きは白銀の長い髪。

「……一輪、持っていっちゃダメかしら」

 その白い指が、その背で届く高さのギュルの花に伸ばされた。

 ──美しい花を手折りたい気持ちが、このときはわからなかった。

 だから俺は彼女が花に手を伸ばすのを見ていた。

 花の美しさを手元にと、その花托に手を掛けた、その時。

「いっ……!」

 彼女が伸ばして手を引っ込めて、蹲った。

 彼女は慌てて駆け寄った俺にすぐに顔を上げた。

「大したことないわ」

 慌てて引っ込めて葉に擦ったような、一直線で小さな赤い傷。

「棘があったみたいね」

 壁に咲いた赤い花を見た。

 確かに生垣の葉で隠れるその花軸を見れば、小さな棘があった。

「知らなかった……わ」

 その指にできた傷から、今にも落ちそうに赤い血がぷっくりと出てきて、その雫が落ちる。

 俺が傷を見ようと手を伸ばして、彼女に触れるより先に、その赤い雫は、彼女の足元の虫に食われた穴だらけの葉の上に落ちて──

「…………え?」

 ──それは艶のある一枚の綺麗な葉に変わった。


 俺と彼女は目を疑った。

 疑いの中でお互いの目を合わせた。

 確かに俺たちは見つめ合っていた。

 穴だらけで崩れかけていた葉が、今まさに芽吹いたばかりというほど艶のある一枚の葉に、蘇った。

「……まさか……?」

 私の血で?

 そう彼女は、自分の指先を見つめた。

 本当に些細な傷だったせいか分からないが、その指先からもう血は出ていない。

 彼女は白いまつ毛にから溢れそうなほど、緑色の──その葉と同じ色の瞳を丸くしていた。

 蘇った葉の一枚に、俺は思い出す。

 聖女という存在が崇められる理由。

 祈国局と役職をつけられ、教会で守られ、祈りを強いられる理由。

 この国の伝説。

 遥か昔からの軌跡の、奇跡の物語。

『ひとさじの血で傷を癒やし、杯の血で不治の病さえ治してしまう。そしてその血をすべて賭せば、枯れた大地でさえ蘇る』

 それ故に神聖な存在とされ、それはかつての神話で、その血でこの地を救った女の子孫。

 それ故の聖女。その家系。

 けれど、まさか。

 その血本当に傷が治る──傷ついた葉さえこうも美しく治してしまうとは。

 ただの伝説なんて、作り話に近いと。

 ただの神話だから、根も葉もないと。

 根拠のない、民の信仰の拠り所を作るための物語でしかないと思っていたのに。

「まさか」

 どうやら彼女の反応を見ると、彼女自身も初めて知ったようだった。初めて血の秘密に触れたようだった。

「嘘……」

 自分の中に流れる血を、信じられないと彼女はその白い肌を見ていた。

 見た?

 俺に投げられる新緑の瞳には、様々な感情が揺れ動いていた。

 なんと声を掛ければ良いかわからなかった。

 さっきから、俺は自分の持つ言葉のなさを呪ってばかりだ。

 彼女のまつ毛は、白いくせに長いから影を作って、また感情が見えにくくなる。

「……だから、お父様は、私を閉じ込めていたのね」

 そう言った彼女の過去は知らないが、ただ泣きそうだということだけは、分かった。

「ねえ、これ、このこと──」

「誰にも言いません」

 俺は不敬にも彼女の言葉を遮った。

 しっかりと彼女の目を見て、言った。

「誰にも言いません。誰にも悟らせません」

 このことを。

 話していいかと、彼女は俺に聞こうとしたのだろう。誰に? ──一人しかいない。

 だから俺は遮ったその勢いのまま、続けた。

「誓います。決して──決して口には出さないと」

 彼女の血のことを秘密にすると。

 ──けれど誓いを立てることを彼女が許してくれるのなら、どうせなら他のことも許されたくて秘密をもう一つ込めた。

 秘密を、想いを決して他の人間には漏らさない。

 彼女が息をすることさえ忘れたように俺を見ていた。

 風は静かで、それが憎らしい。

どうせなら、俺たちを攫うほど強く吹いてくれればいいのに、まるで世界が止まったように静かだった。

「……分かったわ」

 そう言った彼女の瞳は、もう揺れてはいなかった。

「誓いに祈りを、願いを」

 聖女様の祈願があれば、この誓いは成就するに決まっている。

 なんといっても、この国のために祈る存在の教会最高の役職、祈国局なのだ。

「私たちだけの秘密よ、グラム」

「御心のままに」

 御身のために、とは思わなかった。

 ──俺のために、なんて自分勝手か。

 彼女の白髪が揺れた。

 茂みに音を立てて、風が俺たちの間を走り抜けた。彼女の背後で、棘を持ったその大輪の花が揺れる。

 颯爽と風に声が乗ってきた。

「──強い香りだな」

 その声に、弾かれるように彼女が振り向いた。

「リー?」

「……ヨルか?」

 壁の向こうに、彼女が声をかけると返事はすぐだった。

「ヨル」

 壁をものともせず、声が降ってくる。陛下の声だった。

「よく香るな。ギュルの花は美しいだろう」

「そうね」

 彼女は生垣の壁の方を向いて言葉を投げた。きっと陛下も同じようにして、壁越しに二人は声を交わした。俺の目の前で。

 俺は彼女に気づかれないようこっそりと後ろに進む。最後に微かに、陛下と彼女の会話が聞こえた。

 陛下が声を投げた。

「一人か?」

 間に合った。

 俺は慌てて踵を返して角を曲がっていた。

「……ええ」

 だから、彼女に嘘をつかせなくて済んだ。

 俺の服に花の香りがついていないか、それだけ心配だった。


 先ほど来た道に、一人で戻ってきた。

 今度は分かれ道を、左に進む。

 風の音と、茂みが揺れる音しか聞こえない。

 あとは足音か、これは心臓の音か。先ほどよりも進むペースは早い。

 ──早くゴールへ。

 何度曲がったか、数えるのを忘れる。

 どこへ進むか、もう考えなんてない。

 そうして進んでいくと、水の音が聞こえた。ゴールが近い。

 最後に右に曲がると、噴水の音が耳に入ってきて、そこにいる人物の姿が見えた。

「待ったぞ、グラム」

「そうよ、待ったわよ」

 陛下と聖女様が、噴水の前に立っていた。

 噴水の煌めきが、金と銀の二人をより輝かせる。

 笑ってしまう。

 こんなに急いだのに──敵わなかった。

「お待たせいたしました」

 二人の手に花などなくて、せめてそれが良かったと思った。

 ああこの陛下には敵わない。

 彼女への想いは叶わない。

 ならば。ならば俺が握るべきは花ではなく──剣だ。


 そうして迷路を出た俺たちは、遊びの時間を終えた。陛下は執務へ、彼女は教会へ。

 俺は騎士団が稽古をしている修練場に行く。

 指南役を見つけて、頭を下げた。

「まだ騎士団には入れないと分かっています。この髪の色が忌まれるものとも分かっています──ですが、お願いします」

 元より剣を持つために俺はここにいるのだ。

 誰より強く。

 ──己のために。



*十七歳


 国王陛下は忙しい。

 もちろん今までも暇な時なんてなかったのだが、ここ最近は鉱山の件、そして治安が悪くなったその周辺と──隣国とのパーティーに向けても動いている。

 そうして気がつけば年を越えていた。俺たちは今年十七歳になる。

 パーティーももう間もなくだ。


「まあ馴染んだ行事ではあるが、今年は殊更に力を入れなければいけないからなあ」

 敵を増やしたくないからなあ、と陛下が呟いた。書庫から注ぐ太陽の明かりは柔らかい。

「気を張りますね」

「そうだな……ああ! 今度城下へ流行りの歌でも聞きに行くか!」

 とんだ思い付きだ。

 そこで吟遊詩人や音楽家を呼ぶのではなく、街に聴きに行くのがとても探検好きな性格らしい。

「いいわね、最近行ってないものね」

 前向きな返事は彼女だ。聖女様のくせに町娘の気軽さだった。

 ああ、と頷く陛下は楽しそうだ。

 書庫で本も広げず、陛下と彼女は談笑している。

 二人は椅子に掛け、俺は腰に剣を携えては立っている。

 三人で、ここでまるで秘密基地のように過ごすのは久しぶりかもしれなかった。

「お前も楽しみだろう? グラム」

「わたくしの意思は陛下と共に……とはいえ護衛としてはそうそう出掛けられると気が休まりませんが」

 俺が言うと、ははは! と陛下は笑った。

 これは絶対に近々行く気だ。

「そろそろ戻るわ、今日は新月だしね」

 彼女が椅子から立ち上がった。糸のような髪が銀色に光りながら動く。

 陛下も立ち上がった。

 ほんのいっときだったが、陛下もゆっくりしたと思う。王の顔も部屋に入ってきた時より──。

 王の顔を横目に見た。あれ?

 入った時よりも安らいでいるべき表情が、むしろ少し強張っているようだった。

 珍しい顔だ。

 俺は二人がこの部屋を出るために扉に手をかける。

「ヨル、待ってくれ」

 陛下が彼女の手首を掴んだ。

 驚いた彼女は振り返って、その顔を見た。

「え? どうしたの?」

「グラム」

 俺に与えられたのは、ほんの一瞥と一言だけだった。

「下がれ」

 ……そんな風に命令を下されるのは、随分久しぶりだった。

「リー?」

 もう陛下の目は俺を見ていない。

「行くな」

 そのヘヴンリーブルーは、真昼の月の彼女を見ている。

 俺は何も言わず、扉の取手に力を入れた。

 部屋を出る間際、彼女が俺を見た気がするけれど、俺は目を伏せていたのでわからない。


 扉を開いて、書庫を出たのは俺一人。

 二人を残して、俺はゆっくりと扉を閉めた。重い扉はしっかりと閉まる。

 部屋の扉に背を向ける。

 背筋は伸ばせ。この中にいるのは仕えるべき王、そしてそれに近い立場の聖女様。

 ──だから耳を澄ませているのは、窓から闖入者がこないかと警戒しているためだ。

 中の会話は聞こえない。

 何人か俺の前を通り過ぎて、それから扉の内側から取っ手に手をかけるカチャリという音がした。

 俺はすかさず外側の扉の取手に手を掛けて、扉を開ける。

 せいぜい時計の長い針が数回動いた程度の時間だったと思う。

 彼女は俯いていた。

 陛下とは目が合わなかった。

 二人が何も語らないから、俺は何も聞かなかった。


 自室に戻る前に、庭を歩くのが習慣になった。

 陛下と眠る前の挨拶を交わし、その日の夜の護衛の肩を叩いて、夜の庭を歩く。

 あの日以来、ヴァルトの姫とは鉢合わせていない。

 もしかしたら俺が知らないだけで抜け出しているのかもしれないし、見つかったからと出歩くのをやめたのかもしれない。

 それでも、念には念をと──どうせ眠れやしないと芝を踏む。

 ヴァルトの姫は、まだ陛下へ手紙を書くのを続けていた。

 家臣が陛下にと渡す場面をよく見ていた。

 陛下が返事を書く場面を見たことはないが、もしかしたら俺が知らないだけで書いているかもしれなかった。

 知らないことばかりだ、と思う。

 知るべきことではないのかもしれない。


 新月の夜、外は暗い。ただ星だけはよく見える。夜の闇で誰の目には留まらなくとも、花は美しく咲いている。

 城の庭には、あの日以来ギュルの花はない。

 幼かったあの日の俺が庭師に、棘で陛下が怪我をしたら困ると言った以降なのか。

 それとも俺が知らないうちに、棘で聖女が怪我でもしたらどうする、と陛下が言ったりでもしたのか。

 理由は知らない。そもそもないのかもしれない。ただ、棘を持たない数多の花がこの庭には咲いている。

 さほど風が動かない夜なのに、爽やかな香りがする。

 鳥も獣も眠っているらしい。静かだ。

 明かりを漏らす城も、主人が寝室に行ってしまったからと静かなものだ。

 息を吸う。耳を澄ませる。虫の声が聞こえるくらいだ。


 聖女様だって、新月の夜だからと毎回教会を抜け出すわけではない。

 大抵しっかり籠って、月が不在の夜に「また月が昇りますように」と祈りを捧げているし、教会の者も外でしっかり見張っている。

 だから毎晩毎月、会うわけがない。

 会わない夜の方が当たり前だ。

 会わない夜に思い返してしまうくらいは、ある。


 庭に咲く花の前で、腰を屈めている人影があった。俺は足音を潜めもせず、その人物の後ろに立つ。

「グラムね」

 俺の足音に、腰を屈めて花を見ていたその人物は振り向いた。

 夜空の月の代わりの、真昼の月の目。立ち上がる動きに合わせて、音を立てずに揺れる白い髪。

「……また、あなたは」

 俺の声に、ふふふ、と。弧を描いた唇から笑みがこぼれた。

 なぜこの城にいる女はこうも外に出たがるのか。

「だって、ねえ」

 貴方は? と彼女に聞かれた。

 花を見つめていた彼女。

 手を伸ばすことなく、ただ一人で見ていたその姿。俺は答える。

「……花が綺麗だと思ったので」

 それは心からの返事だった。

 ああそうだ。

 誰が見ていなくとも。

 誰も知らなくとも、花はただ綺麗なのだ。

 俺の返事に──彼女が息を呑んだ。

 なんであなたがそんな顔をする。

 見たくない顔だった。まるで歓喜と期待のような、今にも綻ぶ花の蕾のような。

 見てしまえば、あの日花に手を伸ばした彼女の気持ちを分かった気になってしまう。誰にも見せたくないような顔の彼女の唇が、ゆっくりと開いた。

「……私もずっと前から、そう思っていたの」

 ──触れなければ棘があると分からなかったあの花を思い出す。

「あなたも思うのね?」

 まっすぐな言葉に逃げられなかった。ええ、と頷く。

 俺より低いところにある彼女の目を見る。

 今は膝を折らなくても許されると思った。

「思います」

 俺の言葉に、彼女が息を吸い込んだ。

 緑の瞳の中に俺が映る。

 俺の忌まわしい髪色は、夜空の色に溶けているだろうか。

 傍らで咲く花を、俺は手折ってもいいだろうか。

「ねえ、グラム」

 私ね。

 そう彼女が言いかけた、その時。

 ──俺たちの頭上を、一羽の鳥が飛んだ。

 俺たちの間に落ちてきた羽根に、俺も彼女も顔を上げた。

 俺はその鳥の姿を知っていた。

「……ミスター、イースター……」

 いつだって、人間以外の生き物は雄弁だった。

 だから俺は、花に伸ばそうとした手をひっこめた。

 頭上を弧を描き飛び回るその鳥を見上げる俺に、彼女は首を傾げた。

「グラム?」

「戻りましょう、教会に」

「え?」

 鳥の姿を見て、急に変わった俺の声色に戸惑ったようだった。

「必要であればお送りしましょう」

 彼女の眉尻が下がった。

 その表情に、俺は本当に掛けたかった言葉を飲み込む。

「──祈国局」

 俺がそう言えば、彼女の目つきがみるみる険しくなった。

「結構よ、近衛」

 必要ないわとスカートの裾を翻して、彼女は教会の方に戻って行った。

 花の匂いが鼻腔を掠める。

 俺が片手を出すと、素直にその鳥は指先に止まった。

「ありがとう、ミスターイースター」

 礼を告げると、また鳥は来た方向の宵闇へ戻って行った。

 俺が呼びたかった名前は、この鳥の名前ではなかったけれど。

 ただ、飛んで教えにきてくれた鳥に、俺は名前を呼んで礼を言わずにはいられなかった。

 見られている、と。



 十七歳。

 三級騎士にもなって騎士として務め──神に見放されたこの髪の色を表立って非難する者はいなくなった。

 城で過ごした年数は、もう両手以上だ。その間に随分たくさん抱えきれないような思いをさせてもらった。

 俺に布団の暖かさを教えた人物が、迎えに来た俺に、来たかと応じるように手を上げた。

 城の屋外、騎士団が使っていたところとは違う修練場──弓の的が多く置いてある修練のための弓場に俺は来ていた。

 弓を恭しく渡していた家臣が一歩下がり、陛下は俺に向かって白い歯を見せた。

「グラム! お前もやるか!?」

 すでに矢が刺さったいくつもの的を見る。ほぼ全てが真ん中に刺さっていた。

「遠慮しておきます」

 結果は目に見えている。

「そうか」

 陛下は俺の答えを聞くと、矢を持っていた家臣に、矢を渡すように手のひらを出した。

 恭しい仕草で差し出された矢を受け取ると、すぐに構えて──放った。

 陛下の髪がその風で揺れ、そして落ち着く間に、その矢は的のど真ん中に刺さった。そして俺に白い刃を見せて笑った。

「遊び相手はお前しかいないんだ、グラム。相手をしてくれよ」

 外してくれた方がやる気も出るのに。

 だがこんな場面でも外さないからこそ、俺の王らしかった。

 しょうがない。俺は一歩前に進む。

「……御心のままに」

「ハンデをやろう。俺はいつもと違う弓を使う」

 陛下はそう言うと、家臣に持っていた弓を渡した。矢を持っていた家臣がそれを受け取ってすぐに下がる。

 なんなのか待っていると、すぐに家臣は現れた。──より一層大きい弓を持って。

 それは、と俺が問う前に陛下が答えた。

「より威力の高い弓矢を作らせた。矢尻の材質は鍛えた鋼、フレームの木も変えた」

 それは何のためか、と問いはしなかった。

「当たればそれなりに重い装甲も砕ける。大きくなったことで飛距離も伸びた」

 陛下が持つその弓は、一般的な弓兵が持つものよりも大きく、そして重そうだった。矢尻の形状も変えているようだ。

「重くて数は撃てないが、単純に破壊力は増した。今後これは役に立つだろう」

 ──今後。

 武器(それ)が役立つ、今後か。

「そうですね」

 ──綺麗事ばかり言えない。

 ──美しいものばかりを見ていられない。

 今後。その想定されることが分かって、俺は頷いた。

「まだ試し撃ちをしたぐらいで、これの勝手が分からんからな。三本勝負でどうだ」

 俺に先ほど王が使っていた弓矢が渡された。

 ──柔らかなものばかりに触れていられない。硬いフレームの弓を握る。

「かしこまりました」

「ははは! そうこなくちゃあなあ! ……さて、何を賭けようか」

「わたくしに賭けるものなんて何もありませんよ」

 まったく、賭弓(のりゆみ)か。

 俺が笑うと、陛下はいつものように大きな声で笑った。それから一呼吸ついて、言葉を発した。

「昨日」

 それはなんの脈絡もなかった。

 だから聞き返すように王の顔を見た。陛下の目は俺を見ていなかった。

「ヨルに言ったんだ。──ムースペイルとのパーティの日、俺とファーストダンスを踊らないかと」

 そのヘヴンリーブルーの瞳は、的の方を見ていた。

「……そうなんですか」

「ああ。あの書庫で、な」

 あの時か、と思い出した。

 俺に下がれと言った、書庫で見た陛下の顔を思い出した。

 ──昨夜、彼女はそんなこと一言も言っていなかったな。

「賭けの内容は、ヨルが受けるか、受けないかだ」

 どちらだと思う?

 そう言って陛下がが俺を見た。

「そうですね──」

 とりあえず俺は、弓を構える。

 弓矢を構えるのは随分久しぶりな気がしたけれど、外すわけにはいかなかった。



 着々とパーティの準備は進んでいる。

 パーティの会場となる、吹き抜けの高い天井にシャンデリアの輝く会場。

 二階部分から右、中央、左の三つの階段が伸びており、それぞれがダンスホールとなる一階に──三股の階段で繋がっている。

 左右壁側の階段には踊り場に歴代王族の肖像画が飾られている。

 真ん中が主役──踊りをする者たちが降りてくる一番幅の広いメインの階段だ。

 ムースペイルの大広間やボールルームも、ここまで絢爛豪華ではなかった。豊かな当国らしい壮麗な会場だ。

 この階段からシャンデリアの光に濡れて降りてくる女性たちは、下で待つ男性の目により鮮麗に映る。

 なんせ隣国のお姫様が来るのだから、国内貴族を招くときよりも一層内装に気を遣っているようだった。調度品や絵画、絨毯。もともと一級品ではあるが、不備はないかと使用人たちが目を凝らしていた。

 今まで陛下は、こういったダンスを踊らなければならない社交の場にパートナーを伴って現れることはなかった。

 基本は奥の仰々しい椅子に座って見ているだけで、興が乗って貴族に促されればと年配のご婦人と躍る程度だった。

 祈国局も、宗教的な存在であるので政治が蔓延る社交場に出ることはない。

 俺は陛下の近衛らしく控えて、いつも星が落ちたような会場を見ているだけだった。


「ヴァルトの姫君はどうされますか」

 離れにいる姫君からの手紙を届けに執務室に来た家臣が、陛下に聞いた。パーティーのことだ。

「ああ」

陛下はその封筒を開いて返事をする。

「招く必要も、知る必要もあるまい。これはムースペイルと我が国ニブルヘイム、二国間でのパーティだ」

 封筒の中の手紙を見ながらそう言うと、見終わったのかその手紙を家臣に渡した。

「知られる必要もあるまい、パーティ当日は庭の整備があるからなどと外に出ないようお願いをしてくれ」

 かしこまりました、と手紙を持った家臣が下がった。

 それを見てから、陛下は一息ついたと手元の書類に再び目を落とす。

 手紙の内容は傍らに立っていた俺には見えなかった。知らないし、知る必要もないと思っていた俺に、陛下は一度語った。

 最近散策を許された──とはいえ当国の兵付きだが──中庭にいた鳥のことや、花の美しさを書いてあるらしい。

「他愛のない内容だったぞ」

 陛下はそう言った。

 そんなの他意があるじゃないか。

 返事がなくとも構わない手紙のことをラブレターと呼ばなくてなんと呼ぶ。

 それがこの人質の交換──名分は留学か──にあたって、懐に潜れとかヴァルトの国王に命令されたものかは分からない。

 陛下は返事を一通たりとも書いていないようだった。

 対面することもないようだった。それでいいのか、と思わなくなはない。けれど、王の言う通りでいいのだ。

 飼い殺し。幽閉。

 鉱山の問題が片付くまでと、そこに置かれた荷物。

「あまりうちの事情を知られても困るからな」

 情を持っても困ると、城の者が姫と話すことを表立って許可をしなかった。

 彼女が──聖女様が間違っても鉢合わせをしないように陛下は手を回しているようだった。


 その生活を続けた一年。

 姫は一体、どんな感情だっただろうか。


 少なくとも、おとなしく閉じこもっていることが好きなタイプではないと、あの夜の邂逅に俺は知っている。

 けれど彼女のことは、俺は最後までよく分からなかった。

 最期まで、よく分からなかった。



「──ここんところ根を詰めているな、そろそろ気晴らしにでも行こうか、グラム」

 誘いが命令にならないのは、俺がすぐに頷くからだ。

「しょうがないですね」

「街角で吟遊詩人が歌う流行りの歌でも聞きに行こう」

 そうしてやはり、陛下は続けた。

「ヨルも誘おう。なに、すぐに戻ればいいだろう」

 そう陛下が言うので、二人で教会に行くと、彼女のお付きの者が馬車を出しますと言うのでお忍びではなく堂々と城下に行くことになった。


 城の出入り口には華美な馬車が用意された。警護も騎士団から数名。

 抜け出して散策に行くわけではないので、俺も堂々と自分の馬を用意した。

「せっかくだ、劇場に行こうか」

 陛下が聖女の手を取って馬車に乗せた。

 俺は馬上からその様子を見ていた。

 劇場に着いて、陛下と彼女が馬車から降りる。

 劇場内の護衛に、貴族出身の二級騎士が伴いたいと俺に申し出た。いくら俺が王の近衛とはいえ、俺の方が階級が下だ。頷いた。

「馬車を頼む、グラム」

 そう陛下が言うので、俺は待機の護衛たちと外で待っていた。


 二人が立ち去った跡は、城の庭に咲く花の匂いがした。

 何度か随伴したが、劇なんて崇高なもの俺には分からなかったから、丁度いいのだ。

 街角の吟遊詩人の歌を、俺は他の護衛たちと聴いていた。

 ──吟遊詩人の歌は、この国の王と祈国局たる聖女の美しさを讃える歌だった。

 曰く、太陽王と月の女神の現人神が率いるこの国は無敵だと。

 このニブルヘイムこそが、どんな戦争にも負けない神に愛された無敵の王国であると歌う歌だった。

 陛下と彼女たちが戻ってくる前に、詩人の歌は終わってしまった。人混みの前に二人が出てくる。

「──素晴らしい劇だったわね、リー」

「そうだな、ヨル」

 二人しか呼ぶことを許されない愛称。

 二人しか持ってない無二の髪の色。

 歴史のある重厚な劇場から出てくる王と聖女の姿に、周りにいる者は目を奪われていた。無理もない。

 王の金髪は太陽の色。彼女の白髪は真昼の月の色。

 遮るものがない昼の光を浴びて惜しげもなく輝いていた。

「待たせたな、グラム」

 太陽の髪を持つ王が、夜空色の髪を持つ俺に言った。

 その手にエスコートされる彼女は俺を見た。

 俺の名前を呼ばず、彼女は俺を含む護衛たちに微笑だけを与えると、その荘厳な馬車に乗った。


 城が近付くと、ヴァルトの姫のために建てられた離れも見えてくる。

 ──ムースペイルの客人に聞かれたらなんと説明しようか。

 姫君の姿が見えないといいのだが、と。

 外観ばかりを気にしていて。

 その中から俺たちがどう映っているか、おれは気にしていなかった。



 次の新月の夜を越えたら、もういよいよだ。ムースペイルの王族を招いてのパーティが迫っていた。

 万が一でも客人が迷い込まないようにと、形を変えてもずっと用意されていた生垣(ヘッジ)迷路は壊され、そこには美しい花畑を作られた。

 明らかに変わっていく様子に、ヴァルトの姫は気付いていたようだ。

 やはりそれは皆が寝所に引っ込む頃で、月がだいぶ細い夜のことだった。

 その姿よりも先に、俺の頭上を鳥が一羽飛んだから気付くことができた。

 その鳥は俺の手元に羽根を落としてから、その人物の手元に戻っていった。

 声と人影が現れる。

「おかえりなさい」

 鳥を手に止めたのは、夜に溶けそうな蜂蜜色の髪。

「ミスターイースター」

 それに似合う鮮やかな緑のドレスを着たヴァルトの姫君だった。

 俺は羽根を持ったまま、軽く頭を垂れる。

 姫は俺の姿を見て語りかけた。

「ここにはいろんな花があっていいわね、うちの国には長く咲くからなんて理由で、クリスマスローズくらいしかなかったわ」

 驚いた様子はない。先ほどから、とっくに俺に気付いてた口ぶりだった。

「貴方の髪の色は珍しいわね、あなただけが夜空の色」

「──また供もつけずに玉歩されていたのですか」

 以前な彼女の質問に答えなかったように、俺はまた本題から言葉を逸らした。俺の髪色の話など、この国の信仰の話などわざわざするべきではないと思ったからだ。

「お送りしましょう」

 開けた場所とはいえ、夜分に話し込むわけにもいかないとばかりに俺は目を伏せて案内する仕草をした。

 姫は俺の案内に乗らなかった。

「ニブルヘイムでは明るければ明るい髪の色が神の加護があると言われているはずです。なのに、どうして暗い髪の者が城にいるの?」

 きっと彼女と雑談ぐらいは交わすだろう見はりの兵が、俺のことまで話さなかったのは褒めるべきことか。

 なんと話そうか、二度も聞かれれば話すべきかと俺が逡巡している間に、姫の方がもう一度口を開いた。

「──どうして貴方のような者が城に、聖女様の傍にいるの?」

 ──ああ、よりにもよって。

 苦い顔をしないように精一杯顔の筋肉に力を入れた。聡い姫だ。聡すぎる。

 城に、と聞いて続ける言葉は、王の、だと思っていた。なのにそれなのに、よりにもよって、彼女の。

 ──俺が聖女様の傍にいるというのだ。

 黙っていてはいけなかった。

 沈黙は金というが、今そんな口の重さは要らなかった。そんな価値を与えたら肯定と一緒だ。

「……わたくしは、国王の近衛ですので」

 声は震わせていないはずだ。

 今更そんな問いかけで揺らぐようなものではない。

 俺を見る姫の目も、揺らがなかった。

「国王様と聖女様は親しい間柄なの?」

「…………」

 これには沈黙を選んだ。

 不意な質問に、不要に話すべきではない。まあ──口にすることを憚ったのは、そんな守秘義務だけではないが。

「……答えなさい」

 答えなかった俺に、姫君の声は沈黙を砕こうと声を尖らせた。

「わたくしはヴァルトの高貴な血を継ぐ王家の姫よ」

 平伏さなかった俺の目線を詰る言葉だった。

 玉座に座れない姫君自身を呪う言葉のようでもあった。

 なんで今更。なぜそんなことが気になるのか。

 ──他愛ない手紙には、他意があるに決まっている。

 陛下の女性周りなど、気になることに理由はいらない。

「……ご幼少の頃から同じお育ちの間柄です」

 許してくれ。この言葉だけで許してくれ。

 羽根を持つ手を握った。

 そう、と。姫の声から険が抜けた。

「分かったわ……ねえ、話し相手に困っているのよ、聞いてちょうだい」

 躊躇いを見せるとすぐに付け足された。

「離れに戻るまででいいから」

「かしこまりました」

 高尚の引き際も上手い。聡い姫だ。

 俺は姫の足が動いたのを確認して、同じように離れの方へと芝を踏む。

「わたくしの育ったヴァルトでは、あまり明るい髪の者はいなかったのよ」

 曰く。この国では吉とされるその髪の色も、ヴァルトでは父方が持ってなかった色らしい。

 この国ではおおよそ出自の家によって髪の色は決まっており、概ね奇抜な色はない。だんだんと明るくなることも、その反対もあるようだがそれは珍しいことだった。

 群を抜いて白いのは、聖なる血を引く聖女と。

 傑出した黄金は、現在この国では彼の王だけ。

 風が吹いて、視界に入った黒い筋で気が付く。

 明るい髪色の中では奇抜な闇の色の髪は、今は騎士ではあるが──忌まれて捨てられた俺の色。

 蜂蜜色の姫は、闇の色の俺に話を続ける。

「私の髪の色だけが明るくて、それはこの国では祝福なんでしょうけど、私が育った国では呪いだったわ」

 だから。

 そう彼女は言葉を続けた。続く言葉は言われなくても想像がついた。

「だから私が人身御供に選ばれたのよ」

 ──聡すぎる姫だ。

 きっと育った環境が彼女をそうさせた。

 自分がこの国に呼ばれ、選ばれた意味を、監禁同様に過ごさせられる意味をよく分かっていた。

「……左様で」

 返事はそれだけに留めた。

「この国にくれば、せめて歓迎してもらえると思ったのよ。……愛されなくても」

 隣を歩いているわけではないから、姫の顔は見えない。俺は半歩前を進んでいる。

「……愛されなくても、せめて厭われることはないと思っていたのよ」

「……左様で、ございますか」

 それが精一杯の返事だった。

 芝を踏む音は小気味よく、沈黙を誤魔化してくれた。

 だんだんと離れである塔に近づく。

 塔の前には兵士がいる。役職のない平騎士だ。

 さすがに諌めようと思った。

「あわよくば国王様の目に留まって結婚できないかと思ったのよ、鉱山の件もあるし」

 慎重にならざるを得なくて、一番良いのは親密になることだった。

 しかし、彼女のそれは叶わない。

「ねえ国王の近衛兵。貴方はわかっているんでしょう」

 何をですか。

 そう目で聞くため、彼女の顔を見た。

「この国の国王陛下は聖女様が大切なんでしょう。見ていたわ。──ねえ、けれど、聖女様は」

 やめろ。

「聖女様自身は、ねえ、王の近衛兵…………貴方」

 言うな。

 その先を阻む言葉を探していたから、俺は一歩遅れてしまった。

 ヴァルトの姫君は声を出した。

 ここから放つ声は、警護する兵に言葉を届かせるのには十分だ。

「私、見たのよ! 貴方と──白い髪の聖女様が夜に密会しているところを!」


 一年。

 これは誇りを虐げられた姫君が、声を溜めるのに必要な年数だったのか。


 叫びにも似た声に兵が気付く。俺と姫を見た。

彼女は大きく吸った、大声の密告は止まらない。

「この前の新月の晩よ! 聖職者と王の兵にあるまじき密会だわ!」

 駆けつけてきた兵は、声を荒げた他国の姫君を抑えるべきか──告発の対象である自国の騎士である俺を捕まえるべきかと俺たちを見て悩んでいた。


 言わなければ許されると思っていた。

 言葉に出さなければ形になっていないから、誰にも見られることがないと思っていた。視線は雄弁だった。

 ──それが間違いだった。

 伝えようとしなければ物語にはならないと思っていたのに。

 触れなければ熱など伝わらないと思っていたのに。

 ヴァルトの姫が放った言葉は火のようだった。たちまち燃え広がり、人が集まってくる。

 その夜は、最悪の形で明けることになる。



 夜の玉座は空になる。

 誰もいない王の間でも、光を崇め闇を厭うお国柄、小さくだが灯りが消えることはない。

 蝋燭の灯りは手元の書類を読めるほどには明るくないが、足元を確認するぐらいには心強いものだった。


 ヴァルトの姫君がその王の間に入るのは、二度目だった。

 一度目はこの国の初めての来訪時だ。

 それ以来彼女は、城の内部にさえに立ち入ることがなかった。

 広くはない離れと、狭い範囲の城の庭。

 それだけがその姫に許された場所で、彼女がそれ以外の場所を踏むのは実に一年ぶりとなる。


 窓の外から入り込む闇を照らすように、この部屋の明かりが付けられた。

 玉座に一つだけ置かれたその椅子には、陛下が座っている。

 夜中起こされた陛下には、いつもの笑顔はない。笑いを殺し、無駄な呼吸を許さなかった。下手な言葉は首が飛ぶ。

 ──かつて鉱山で躊躇いなく人の首を落とした国王陛下の切先の鋭さを、ここにいる者は知っていた。

 いや、ここにいる異国の姫はそれを知らない可能性もあるし──突然夜中にここに呼ばれた聖女様はそれを見ていない。


「何が起きたの」

 誰より明るい髪を持つ彼女の声が部屋に入ると、その部屋の扉が閉められた。

 部屋の中央、一番高いところに玉座がある。

 夜中にも関わらず、陛下の服装は昼と同じ正装だった。


 普段は陛下の傍らに立つ俺が、玉座の下に──緑色のドレスを着たヴァルトの姫と並び立ち、周りに囲われている姿に、彼女は異常事態に気がついたようだった。

 厳重に部屋の扉の鍵がかけられて、その前を兵で塞がれる。

 自由に出ることを許さない、いつもと違う王の間。

「祈国局」

 陛下は入ってきた彼女を、そう呼んだ。

「そこに並んでくれるか」

 命令口調でないのが、せめてもの慈愛なのだろう。俺は扉に背を向けているから、言われた彼女の顔は分からない。

 陛下の顎は俺の横を示した。

 俺の横にはヴァルトの姫がいる。二人の間に並ぶ形になるのか、と思っていると、再び高みから声が投げられる。

「グラムはこっちへ来い」

 後ろで、彼女の足音がした。

 それに合わせて俺も踏み出した。

 ──並ぶこともさせてくれないのか。

 石造りの床が冷たい足音を鳴らす。足音だけは二人分だった。

 玉座の前にある階段を登り、陛下の前に一度跪いた。陛下の目の色は冷たい。ああこれは、灰がかかった色ではない。遠い空の色だ。

 俺はいつものように陛下の傍に──玉座の斜め後ろに直立した。まさかこの場所に立つことを許されるとは思わなかった。

 俺への断罪だと思ったのに。

「祈国局。夜分にすまない」

「国王のお呼びとあらば」 

 答える彼女の口調も、いつもより堅かった。軽く頭を垂れる仕草に、薄暗い空間でも白髪が光る。

「ああ、真昼の聖女様。ヴァルトでもかねがね聞いていたわ」

 横に並んだ彼女に、ヴァルトの姫が声を掛けた。

 ──これがヴァルトの姫君と、当国の聖女の初めてにして唯一の対面だった。

 声をかけられた彼女がにっこりと笑う。

「ヴァルトの姫君ですね。光栄でございますわ」

「挨拶はよい」

 二人の会話を陛下が遮った。

「意味がない」

 尊い身分の二人の会話に、そう言い放った。

「なあヨル、こちらの姫君がな。──お前がグラムと夜に密会をしていたと言うんだよ」

 ここからは人の顔がよく見える。

 玉座に座る王の視線がよく分かる。

 陛下の言葉は淡々と続く。

「新月の夜に逢瀬を果たしているのを見た、とな」

 陛下の言葉に、畳み掛けるようにヴァルトの姫君が口を開いた。

「嘘ではありません。聖職者でありながら、夜に男と二人きりで密通をしておりました。それを不義密通と呼ばなくてなんなのでしょう。だって、王様。それは、王様。貴方があまりにも──」

 あまりにも──なんと言う気だ。

 姫の表情を見る。

 憐れむような顔だった。

「ははは! 面白い!」

 笑い声は、乾いたこの空間によく通った。

 言葉を防いだのは、その言葉をかけられた陛下自身だった。

「あまりにも、なんと言う気だ。……なんと言う気だった!」

 怒号に近かった。

 聞いていて痛かった。

「可哀想とでも言う気だったか! このオレが!」

 ヴァルトの姫の肩が、水で打たれたかのように跳ねた。

その隣にいるヨルも驚いたように瞬きをして、俺を含む兵も身を硬くした。

「オレがなんだと言うのだ! オレの何を言うのだ!」

 声を荒げるところは見たことがなかった。

俺を拾ってからずっと、静かに諭すことこそありすれ、感情を吐き出すように叫ぶところは見たことがなかった。

 言い放った陛下が何度か口で呼吸をしている間、誰も口を開かなかった。

 重そうな服を着た肩が、何度か上下して、それから陛下はいつも通りに笑った。

「ははは! すまなかったなあ、驚かせた」

 なあ、ヨル。

 陛下はいつものように声を掛けた。

「お前はそんなことしていないんだ。お前は新月の晩は教会で通例通り祈りを捧げていたはずだ」

 呼ばれた彼女が顔を上げて、答えようとその口が開いた。

 その前に。

「そういうことなんだよ」

 返事は聞かないとばかりに、陛下は言った。

「王様……」

 彼女が、陛下をそう呼んだ。気安い愛称では呼ばなかった。

 そのやり取りに、弾かれるように声を上げたのはヴァルトの姫君だった。

「聖女様が嘘をつくなんて! いいえ、私は見たもの!」

 緑のドレスの裾が、姫君の肩に合わせて揺れた。

 見たことのないほど鮮やかなドレスは彼女の国ではパリスグリーンと呼ばれるものだと、兵から聞いたことがあった。

 ヴァルトの姫が甲高い声で発した言葉を、陛下はまるで鼻で笑うように俺に振った。

「──だ、そうだ。グラム、お前は俺の言葉は嘘だと思うか?」

 きっと閉じ込められていた姫君は、珍しいその色のドレスを着させられて祝福されてこの国に送られたのだろうと思う。願われて。

 きっと無事を願われてきただろう、なのに。

 ……けれど、俺は陛下への返事を迷わない。

「いつだって、陛下のお言葉が正しいです」

 俺の言葉より。それは──どんな事実よりも。

「嘘つき!」

 矢のようにヴァルトの姫が言葉を放ったた。

 顔を険しくさせ、同じ言葉をもう一度放った。

「嘘つき!」

 その言葉を受け返したのは、本来この場にいる誰より守られるべき陛下だった。

「ははは! 嘘つきだと言うのか、このオレを!」

 笑い声は容易く矢を跳ね返した。

「このオレのものを!」

 空色の目が鋭く細められた。

 姫君が、ぐっと押し黙る。

 その先の言葉は、もう処刑に等しかった。

「言論では埒が開かない。裁判を行おう」

 神の御許(みもと)で。


 ──書物では知っていた。

 それを寝物語のように、陛下から語ってもらったことがあったから知っていた。

「金の水瓶を持って来い。盃もだ」

 どの家臣にも視線をやることもなく言ったものだった。動いたのはその場で一番年配の家臣だった。

 ああしっかり手を拭くものを用意しろよ、と陛下は動いた家臣の背中に付け足した。

「神が決を下す裁判だ。──ヴァルトの姫君」

 姫君の目は弱さを零さない。

 強い姫だ、聡い姫だ。なのにどうして。

 どうしてこんなことになった。

 言葉を向けられた姫君は、しっかり陛下を見据えた。初めてこの国で相見えた時のように。

その後ろにいる俺も視界に入っているだろう。

「この国にいるからには、この国流の裁判の方法に則ってもらおう。……なに、裁判官はオレたちではない」

 先ほど命令を受けた家臣が戻ってきた。

「安心せよ。──神だ」

 その家臣が持つ盆の上には、金で出来た水瓶があった。


 実物を見るのは初めてだ。

 王の手元にそれが運ばれてきて分かったが、それは長い尾羽の鳥と龍の意匠が凝らされていた。

その瓶(かめ)の中から、液体が揺れる音がする。

「姫君も知っているだろう、我が国には竜がいる。これは、竜の住む泉で汲まれた聖なる水だ」

 姫君の目も、彼女の目も。誰もが王の手元に運ばれたその金色の水瓶に視線を向けていた。

「罪のない者が飲めばそれはただの水だが、罪人であればこの水を一口飲むだけで死んでしまうだろう」

 その盆の上には盃が三つあった。

 飲むのは、姫君と──俺と、彼女だろうか。

 ご丁寧にお手拭きまで用意してある。

「ははは! まあ、毒でも入っているかと疑うだろう!」

 陛下はその金の水瓶を手に持った。

 音自体は、水が揺れる音と遜色なかった。

「ただの水だ! ──オレにはな」

 そう言って、陛下は水瓶を持った腕を高く上げて、その水瓶を傾けて注ぎ口から──直接飲んだ。

 俺たちの目の前で。

 確かにその中の入ったものを飲んだ。

「行儀が悪くてすまないな」

 直接といっても、その注ぎ口に唇を付けてはいない。

 触れないように、高くから。まるで自分自身が盃かのように口に直接注いだのだ。

「まあこれが礼儀だと思ってな」

 これには俺を含む誰もが目を丸くした。

 水瓶を持ってきた年配の家臣だけが目を伏せていた。

 陛下が盆に水瓶を戻した。

 ちゃぷん、と水が揺れる音がする。

 陛下は口の端から垂れた一筋の水を乱暴に拭うと、いつものように笑った。

 本当に、ただの水分補給をしただけのようだった。

「──さ、さかずき、に」

 ヴァルトの姫だ。肩と同じ震度の声だった。

「盃に、何か塗ってあるんでしょう」

 その震える指先が、水瓶と並ぶ三つの盃を示した。やはり美しい紋様の金の盃。

「ははは! 面白いことを言うなあ! 姫君は!」

 ただの水だと言っているだろうに!

 陛下が笑う。笑っているのは陛下だけだ。

「グラム。飲め」

 陛下は傍らの俺に一瞥もくれなかった。

 体の奥の芯が冷える。この水の正体はわからない。

「どれでもいい。盃に入れてその水を飲め」

 それでも俺は、この陛下の言葉に従う。

「御心のままに」

 俺はすぐに返事をして、すぐに水瓶を手に取った。──死んでもよかったから。


 むしろ後から思えば、この時死んでおけばよかったと思う。本物の聖なる水とやらで、俺を殺してくれたらよかったのに。


 広間にある人間すべての視線を集めて、俺は水瓶を手に持ち、適当な盃の一つに中のものを注いだ。

 こんな場面だと言うのに、変な仕草ではないかな、とか。マナーは大丈夫か、なんてそんなことを考えてしまう。手拭きなんて使う余裕がない。

 盃が水で満たされる。

 視界の端で、彼女の顔は歪んでいた。

 そんな顔をしないでほしい。

 そんな顔を見たくなかった。

 盃に視線を戻す。水面が揺れた。

「では、失礼して」

 ──お先に。

 なんて冗談と共に、その水を飲み込んだ。

 俺の喉が下がるのを、この場の全員が一心に見ていた。

「…………水ですね」

 痛いぐらいの視線を受けて、盃の中のものを飲み干した俺は、空になった盃を逆さにして言ってみせた。

「そうだろう」

 陛下は満足げだった。

 分かっていたと、その上がった口の端が言っていた。

 俺にはまだ、この陛下の真意がわからない。

 ああ生き延びてしまったな。

「……他の盃に細工がしてあるのでしょう!?」

 ヴァルトの姫君の言い分は尤(もっと)もだった。俺もそう思っている。

 俺はきっと運が良くて、他二つの盃の飲み方にでも毒が塗ってあるのではないかと。

 だから──彼女に飲ませないようにする方法を、悪い頭なりに必死に考えている。

「まだ疑うのか」

 玉座から溜息が溢されて、そして言葉が転がり落ちる。──彼女のもとへ。

「では祈国局。他の盃でこの水を飲みたまえ」

 陛下は年配の家臣に合図をした。

 その家臣は頷いて、水瓶などが乗った盆ごと玉座の下にいる二人の元へ届けた。

 彼女の目が、溢れんばかりに見開かれていた。

 泣きそうだ。

 金色の水瓶を見るその瞳が、揺れているように見えた。

 なあ、陛下──彼女、泣きそうじゃないか。

 本気かよ。言えない。

 助けたい。動けない。

「……飲んでくれ、ヨル」

 陛下だって、そんなこと言いたくなさそうじゃないか。

 彼女の手は動かない。

 それ見たことかと言わんばかりに、ヴァルトの姫君の口元が歪んだ。

 彼女が動かないからだろう。

 年配の家臣の手が水瓶を持ち上げた。そして盃を一つ手に取って、そこに注いだ。水で満ちた盃を差し出して、静かな声で言った。

「お飲みください」

「…………」

「名誉のためにも、お飲みください。祈国局」

 ──残酷なことを言う。

 それを飲むことでなんの名誉が守られると言うのか。

 水音さえない静かになった空間で、彼女と目があった。

 ……なあ、飲まなくていい。

 奪っていいかと、その目に聞いた。

その手にあるものを、俺が奪って飲み干していいかと、その目に聞いた。

 もしもその盃に毒がなってあったなら。

 俺は代わりに死んでもいいのに。

「飲め。祈国局」

 陛下は、彼女にそんな声を出せたのか。彼女の目線が俺から逸れた。陛下を見た。

「……いただくわ」

 その手が差し出された盃を手に取った。

 例えば、もう走り出しても間に合わなかった。

 彼女の唇が盃に触れて、その喉に溢れた水が一筋伝った。

「…………」

 俺の鼓動が、陛下に聞こえてやいないか心配になる。けれど陛下の鼓動さえ聞こえないのだから、きっと俺たち二人は落ち着いて黙っているだけに見えるだろう。心臓は飛び出しそうなのに。

「……ごちそうさまでした」

 彼女の唇から盃が離れた。

 やや乱暴に盆に戻された盃からは、水の音がしなかった。

 ──体中の力が抜けそうだった。

 許されるなら叫びたかった。

「味もしないわ。ただの水ね」

「聖なる水なんだ、もっと有り難がってくれるほうがいいんだがな」

「……それなら味をつけて持ってきてくださる?」

 国一番の聖なる存在が言った冗談を聞いて、やっとここにいる国の者が皆胸を撫で下ろした。

 ヴァルトの姫は、その様子を見て首を左右に振る。

 そんなはずないと。

「そんなはずないわ……間違ってる」

 そんなずない──そうだ、その通りだ。

 もうずっと俺は間違ってる。

「ではヴァルトの姫君、貴女も飲んでくれるか」

 陛下が合図をして、盆を持った家臣は姫の目の前に差し出した。

「嫌よ」

 姫君の目の光は、そのドレスのように鮮烈だった。

「嫌よ! 嫌。だって私は嘘は言っていないもの」

「ああ、そうだ」

陛下は頷いた。

「嘘、か……これは誰が間違ってるのかの裁判だ」

 飲みたまえ、と陛下は続けた。

「ヴァルトの命運を背負ってここに来たのだろう。──貴女は嘘をついていないのだろう」

 そうよ、と言って姫君は頷いた。

 こんな状況でも、姫君は強かった。

「そうよ。けれど、その最後の盃に毒でも塗ってあるのでしょう!」

「……そう思うのなら、先ほど彼女が飲んだ盃で飲むといい」

 陛下は彼女を見た。

 女性同士なら何の問題もないだろう、と肩をすくめた。

「毒など塗られてないことは証明済みだ」

 本当に毒なんか入っていないんだがなあ。

 そう続けた声は、少し気だるげだった。疲れているようだった。

「……そうするわ」

 そう言うと、飲み口が濡れた盃に、水瓶から水が注がれた。

 無色透明な液体。

 罪人を殺す水。俺を殺さなかった水。陛下を──彼女を殺さなかった聖なる水。

 水で満たされた盃を、姫君が手に取った。

 金色に揺れるその表面を、しばらく見つめていた。

「……やめたわ」

 盃の水を見つめていた姫君が言った。

「手で直接飲むわ」

そう言うと、盆に置かれていたお手拭きを手に取って、しっかりと両の手を拭いた。

「それが良いのであれば」

 彼女が拭った両手をくっつけて椀の形を作った。家臣は陛下の言葉に頷いて、その中に水瓶から水を注ぐ。

 姫君はそのまま、手から全てが溢れる前にと、両の手の中の水を飲んだ。

指の隙間から水がこぼれてシミができる。

 ぽたぽたと水が落ちる音がして、その落ちた液体が、色がついたものになった。

「……え?」

 一番早くそれに気付いた声は、隣にいた白髪の彼女のものだった。

 俺も目を疑った。

「うっ、うう」

 ヴァルトの姫気味の手腕から吐瀉物が溢れ、床にシミを作った。

 呼吸は荒く、肩で必死に酸素を吸い込もうとしていた。胸を掻くような呻き声と、腹の底からの荒い呼吸。

「ああああああっ!!!!」

 まるで地の底からの呻吟が、ここにいる俺たち全員の鼓膜を揺らして、その腰が折れた。

 鮮やかなグリーンのドレスの裾が、花の様に床の上に広がった。

「ぐるし……」

 苦しさを全て吐き出すこともできず、何の言葉も言い切ることはできず、その唇は空気を吸おうと必死に動いて、止まった。

 蜂蜜色の髪が床に広がった。

女性といえども、倒れる時は重い音がするらしい。肉塊が倒れる音だった。

「…………え?」

 真横にいた彼女が、倒れた姫君から一歩引いた。

「なに、え、ねえ……うそ……」

 姫が死んだ。

 たった今──この国の聖なる女の横で。

 それは聖なる水によってなのか、その倒れ様と動かない様子は、確かに死んだようだった。

 死体の横で彼女は狼狽える。

 誰も手を伸ばそうとしない、一人ぼっちで寝転がる同年代の女にを伸ばそうか悩んでいる様子で──

「ヨル!」

 それをすかさず、玉座から駆け下りた陛下が抱きしめた。

 俺が一歩踏み出すよりも、王が金髪を揺らす方が早かった。

「触れるな。もう見るな」

 陛下に抱きしめられて、彼女の体はすっぽりとその腕の中に収まる。

「信じていた。分かっている、分かっているから」

 陛下は腕の中の彼女に、しかりにそう繰り返した。

 俺は二人に歩み寄る。

「罪を犯したのは俺だ」

 近づいたから、その小さな告白が俺の耳にも聞こえた。

 陛下の小さな声を聞いていたのは、俺と、王に抱きしめらる彼女と──足元に倒れたままのヴァルトの姫君だけだった。



 夜に姫君の姿が消えました。

ヴァルトから随伴していた姫君の少ない使用人たちに臣下がそう話すと、憤慨した様だった。

 そんなはずはないと。

 お転婆だが賢い姫様が私たちを置いてどこかに消えるはずがないとその者たちは声を荒げた。


 長い夜が明けて、いつもと変わらず昇る朝の光が溢れる広間。

 家臣たちに言わせたその言葉の返事を聞いた陛下は、玉座の上で毅然と言った。

「使用人たちは国に戻らせろ」

 俺はその言葉を傍らに立って聞いていた。

 表情は変えない。口も挟まない。

「死体は処理した。……使用人だけが残っていても価値はあるまい」

 陛下は少し眠たげだった。

 殺してしまってもいい、という言葉が聞こえた気がした。

「向こうに戻って何と言うかなど分かるまい。──もう構うまい」

 眠たげだったが、目は爛々と光っていた。

 玉座に座ったまま、手首を数回曲げた。それは、おいでおいでと、呼ぶ仕草だった。

 それを向けられた聖女が──彼女が玉座の傍に立った。

「きっと戦争になるだろう。それでも安心しろ」

 陛下は玉座に座ったまま、傍に俺と彼女を並べて臣下たちに告げた。高らかと。

 黒と、金と、白が並ぶ。

 たしかに、どのみち、あのままじゃいられなかったと思う。鉱山の件も。

 俺たちは、このままじゃいられなかった。──いつまでも、あのままじゃ。

 もう汚れてしまった。選んでしまった。

 犠牲にしても選びたいものを決めてしまった。

「我が国は神に愛された国だ」

 筆まめだった姫君からの手紙が途絶え、使用人だけが帰ってくる──それが人質の交換を持ち出したヴァルトに対して、この国が与えた結果だった。



 金の水瓶。

 人と人との調停で解決し得ない諍いに決を下すための裁判に用いられる物だ。

 裁判官は神。

 判決の下し方は単純明快。

 金の水瓶に入った聖なる水を飲んで、生きていれば無罪。死んだ方が有罪。

 白黒つける、容易く天地を分(わか)つ乱暴ともとれるその方向は、信仰心の強いこの国らしい旧習だった。

 俺が知るのはその限り。

「陛下」

 人払いをされた広間で、俺は聞いた。

「教えていただけますか、この人払いの意味を」

 裁判の意味を、とは言わなかった。

 人払いをされて、この場にいる人間は四人。──生きているのは三人。


 裁判の後、夜明けまでもう少しのところ。


 やっと彼女を腕から放した陛下は、家臣たちをこの場から一度外で待たせ俺たちだけにした。

 年配の家臣は最後まで出るのを躊躇っていたが、俺と目が合って、やっとゆっくり出て行った。国王は任せたとその目が言っていた。

 ──俺たちは夜明け前に、裁判の答え合わせをしようとしている。

「正義のための裁判とも、嘘をついた者に罰を与える裁判だとは、オレは言わなかっただろう」

 ああ確かに、そうだ。

「罪人を──これは王(オレ)にとっての罪人を処刑する為の裁判だった」

 騒がれてしまえばしょうがなかった、と陛下が目を伏せた。

 金色のまつ毛は、光みたいな色をしているくせに、しっかりとその顔に影を落とした。

「お前たちが顔を合わせていたなんて、それぐらいはよかった」

 彼女は胸元で両の手を結んでいる。神に祈る仕草だった。

「それぐらいならよかったけれど──それを不義密通と罪にして叫ばれて城の者たちに知られてしまえばもうこれしかなかった」

 分かってくれ。分かってくれ。

 陛下の声がだんだんと重くなった。

「分かってくれ!」

 叩きつけるような声だった。

 重いものを、思いを。手ひどく叩きつける声だった。

「お前をそんな目で見させるわけにはいかなかった。罪も汚れもない聖女たる存在だと知らしめる必要があったから」

 受け取り方なんて気にしていない、一方的に与える重いだけの声だった。

「許してくれ、許してくれ」

 陛下の両手が、彼女の肩を掴んだ。

 細い肩が大きな手に掴まれて、びくりと跳ねた。

 陛下の動きが誰より早かったから、俺は目の前で見ていることしかできなかった。

「──抱きしめることを、許してくれ」

 ヨル。

 陛下が彼女の名前を呼んだ。

 二人にしか許されない愛称で名前を呼んで彼女の背中に手を回した。


 足元には死体。

 夜だってまだ明けてない。

 光はいつだって強引に夜を照らす。

 彼女の手は行き先に悩んで、そしてその腕の中で俺と目があった。

 俺はやはり、何の言葉も見つけられなかった。

 星が動くほどではない、短い時間だったと思う。けれどもう、空が傾くのではないかと思うほど長くも感じた。


 ──種明かしをしよう、と王が言った。


「王族だけの秘密だ。知っているのはせいぜい旧(ふる)い家臣ぐらいだ」

 そもそもこの水瓶の話自体、ずいぶん昔の話なのだ、と続けた。

「特級騎士と同じくらい、古くから伝わる裁判だ」

 そうして話されたのは、王のための裁判の種明かし。

 罪を下すために用いたのは毒らしい。

 ただ、水瓶にも盃にも毒など塗られていなかった。

 水瓶の中のものは、ただの水。

 ならば毒はどこに──どうやって。

 盆に載せられていたものを思い出す。

 金の水瓶、三つの盃……ああ一つは使わなかったな。あとは手拭きぐらいか。

「手拭きだ」

 陛下は言った。

「あれは毒で浸した手拭きだった」

 手が触れていたらと思うとゾッとした。──俺のではない、俺以外の人の手が。

「ミフラハギという木の樹液だ。城のある、白い花が咲く木だ」

 俺と彼女は相槌一つ打たない。もう槌は落とされて、この判決に何も言えない。

「かつては盃に塗ることもあったらしいが、まあ今回のは機転が効いたな。あれは猛毒だから充分だった」

 知らなかった。そんな木が生えたいたことを知らなかった。知らないことばかりだった。

「お前たちにはなんの罪はない。罪人は──」

 足元の死体は一つ。嘘を言わなかったただ一人。

「罪人は、一人でいい」

 唯一の国王陛下はそう言って、広間に家臣たちを戻した。

 死体を処理させて、太陽の光が窓から差し込む頃には、もういつも通りの朝を迎えていた。



 その日の空気は重々しかった。

 空は晴れ渡り鳥は歌い、馬も大地の若草を喜んで食むのに──俺の足取りだけが重かったのは寝不足のせいだけではない。

 内密に、と。この夜のことは戒厳令を敷いて、その場にいたもの以外は知りえない秘密となった。


 昼過ぎに騎士団の修練場に行くと、俺を見る目は冷ややかだった。


 俺より上の階級のものは何も言わず、あからさまだったのは下の者だった。

「そもそもあんな髪の色で騎士団にいることがおかしい」

 囁かれる声は風のようだった。

 すぐに耳を撫でて去って、また吹聴される。

 どこかから昨日の出来事が漏れて、それが元々異質な俺の存在へのヘイトに繋がっているのだろう。

「本来いるべきではない存在」

「三級に上がったのも実力ではなく哀れみだ」

 俺の耳に届く声には、傷つけてくるほどの攻撃力はなかった。俺は黙って受け入れていた。

 上の階級のものが見かねて注意するが、それでもまたすぐに彼らは俺を誹(そし)るために口を開く。

 ──今日の剣の手合わせは、騎士団長らしい。

「三級騎士グラム、勝負をしよう」

 騎士団を束ねる一級騎士。

 一番齢を重ねている、手練手管の剣士だ。

 いつもは指南にまわり手合わせをすることはないのだが、どうやらそういうことらしい。

 木刀ではなく真剣を構えている。

「よろしくお願い致します」

 俺もそう言って剣を構えた。この剣はやはり重い。

 周りが俺たちを見ていた。

 騎士団長には声援が。俺には密やかな罵声が。

 やっちまえ。──あわよくば殺してしまえと俺を見る目の数が燃えている。

 様子を見たのは一瞬。

 騎士団長の鋭い剣戟を咄嗟に刀身で受け止めた。金属の金属がぶつかり合う音と、衝撃を受けた体に鈍い痛みを受けて自分の歯軋りがうるさい。

 ──そうだ、やれるもんならやってくれ。

 剣を弾いて振るった。やはり防がれて、すぐに後ろに飛んだ。

 ──殺せるものなら殺してみろ!

 再び剣をぶつけると、衝撃音を引きずったそのまま今度は騎士団長が後ろに飛んだ。砂埃が舞って、口の中が砂利つく。苦い。

 もう一度俺から剣を振るった。

 容易く受け止められたその衝撃に、肩が震える。

「……っ!」

 剣を挟んで睨み合った。

 交差する剣の隙間からお互いの目にお互いが映っている。団長の目に映る俺自身が、あまりに目も当てられなくて俺から引いた。

「──竜の目だ」

 剣が届く距離でしか聞こえない声だったから、しっかりと耳を澄ませた。

 視界の端に入る自分の髪が鬱陶しい。

「やっとその目の色が分かった。かつて見たことがある」

 団長から仕掛けてきた。

 避けられない──いや、今こそ間に合え。

 髪を一筋、頬を一閃されただけだった。

 手の甲で拭いた血は赤い。──人間の血と同じ色だろ。

 避けられた騎士団長が、再び俺に狙いを定める。俺も構える姿勢をとる。

 先程まで声援に隠れるほどだった罵声が大きくなっていた。

 やれ汚い存在だの邪魔者だの、そんなもの風と同じだった。

 どれだけ詰られても構わなかった。

「国王も祈国局も騙されているに違いない」

 ──それは周りで見ているものたちから聞こえる声の一つだった。

 騎士団長が大きくなる罵声に後ろを気にした。

 ああそうだ──俺は汚い。

 俺は踏み込んで、仕掛けた。

 団長の手元目掛けて強く、強く剣戟を放つ。誰かが一音だけでも口から溢す前に。

 団長の手に握られた剣の顎に狙いを定めて、彼の手元から剣を飛ばした。

 強く握られていただろうに、するりと抜けて、剣は音を立てて地に落ちた。

「──俺に騙されるほどの方々だと言うのか」

 俺は聞こえてきた声に返事を投げた。

 二人の目を疑うな。

 確かに俺の髪の色は闇の色だけど、それはあの二人の輝きを妨げるものではないはずだ。

 あの言葉を投げつけてきたのは平騎士だった。

 俺がそこに視線を投げつけと──剣を拾った団長が間に入って遮った。

「よい腕前だったぞ」

「……恐れ入ります」

 周りで見ていた者は静かになって、俺たちのやりとりを見ている。

 騎士団長が剣をしまった。その刀身がすべて鞘に収まったのを見てから、俺も剣を仕舞った。

 騎士団長が俺の目を見た。

「ずっと気付かなかった」

 月の色だと思ってきた、なんて。

 嬉しいことを言ってくれる。そう思ったのに。

「──お前の目は竜と同じ目の色だ」

「……そうですか」

 初めてこんな対峙の仕方をしてわかった、と団長は言った。

 命のやり取りで輝く竜の目だ、と。

「先代王を殺した、竜の目の色だ」

 なんと返せばいいのかわからなかった。俺と団長の間に風が吹き抜けた。

 俺たちの沈黙の間に、周囲からまた声が上がった。

「ずるいぞ! やり直せ!」

「不意をついただけだろう!」

 団長と俺は声が上がった方を同時に見た。

 俺は何も言うまいと思っていた。

 団長は息を吸い込んで──そうだと大きな声を投げた。

「そうだ。戦場なら不意をつかれれば死んでいた!」

 団長を見る。俺の視線には答えず、同じ方向に声を投げ続けた。

「だからこれは確かにこちらの負けだ!」

 この声に、周囲は黙った。

 先ほど野次を飛ばしていた平騎士は黙り、俺たちと目を合わせないように俯いていた。

 団長は彼らに声を飲み込ませたまま、腰に手を当てている。

 その沈黙を破るべきは俺なのか。

「……今日はここで失礼致します」

 騎士団長が頷いたので、俺は背を向けた。

「なあグラム」

 背中越しに声をかけてくる。

「身の振り方を考えた方がいい」

「──そうですね」

 俺は頷いて歩き出した。そんなの今更だ。

 囲うように見ていた騎士たちとすれ違う。

 それは聞き流そうと思えば聞き流してしまえる本当に小さな小声だった。

「いなくなればいいのに……」

 もう俺は背中を向けて歩き出していて、だから誰にも聞こえないように呟いた。

「俺だって」

 そう思っていたかった。

 いなくなって何かが変わる存在になりたかった。

 ──今更俺一人がいてもいなくても、もう変わらないだろう。



 あんな裁判で嫌疑を掛けられたからには、出来るだけ一人にならない方がいいのだろう。

とはいえ俺といたがる者はいない。今の状況は殊更に。

 城内を歩いていると、挨拶をしてくる通いの召使いたちの態度は変わらない様子だったので、戒厳令はしっかりと機能しているのだろう。

 ただ、違和感に気付くものはいるかもしれない──変わったのは昨夜にいた家臣たちの態度だ。

 いくら口に戸を立てたとて、態度まで立て直させることはできない。

 向けられる目があからさまだった。

 眠れなかった翌日でも陛下は弓の修練を欠かさない。いや、こんな時だからと言うべきか。

 これからのために。これからのことを。

 俺は陛下がいる弓の修練場に向かった。


 城内でも出来るだけ人目につく通路を歩く。

 だから──だからこの邂逅はしょうがないことだった。俺は願ってなんかない。

「グラム……」

 白髪の彼女は、今日は供をしっかりと連れていた。教会の人間たちに囲まれて、廊下の真ん中を歩いていた。

 目が合った。名前を呼ばれて、どうするのが自然か悩んでしまって、つい歩みが止まってしまった。

 そんな俺を彼女を囲む人間が睨んだ。当然だ。

 止まるな、近付くな。

 聖職者らしくない嫌悪感を露わにした目だった。

 いや、聖職者だからこそ──俺を嫌って当然か。元々の見目に加えて、昨夜の出来事はもうトドメに近いのだろう。

 きっとこの先彼女と俺が二人きりで話すことはないのだろう、と思ってしまった。

 俺は頭を下げて、通常の挨拶をする。礼儀。マナー。今まで教わったことが俺を助けてくれた。

 貴族の品格などは知らないが、城にいるものとして最低限の作法。

「ねえ、グラム」

 頭を下げた俺に、彼女が声をかけた。

「なんでしょうか。祈国局」

 俺が肩書きで呼べば、彼女は表情を固くした。

 目を合わせないように伏せる。

 いつも軽やかに動くヒールを履いた足。

「……近衛のあなたへ、報告よ」

 もう名前を呼んではくれなかった。俺は目を伏せたまま、彼女の声に耳を澄ませる。

「私ね、ファーストダンスに誘われていたのよ」

「左様でございましたか」

 すぐにそう返事をすれば、沈黙が俺たちを包んだ。

 彼女のお付きの人間は、彼女の言葉を止めない。

「……わかるかしら?」

「何をでしょうか」

 ──嘘はついてない。聞き返しただけだ。

 そんなのわかってる。本当はわかってる。

 目線を上げない俺に、彼女はもう一度、わかるかしら、と言葉を落とした。

「それは妻や側室……婚約者が選ばれる役目なのよ?」

 ──今まで同伴をつけなかった彼が、私を選んだのよ。

 そう言った。

 顔を見たいと思って上げてしまった。

 お付きの者たちは得意げで、真ん中にいる彼女は思っていた顔と違う表情だった。

「…………さぞお美しいことでしょう」

 その顔を見たから、俺は膝を折り、分かりやすく頭を垂れた。

 このように伏せれば、誰の目にも明らかだろう。

 俺たちの関係が。

 この太陽の下で、跪いた者とそれを見下ろす者。

「そうよね。──だって、私は彼を裏切れない」

 もっと喜べば良いのに。

 駆け回って笑えばいいのに。

 どうしてそんな声で語るんだ。

「私のために、あんなことをした彼を──私は裏切れない」

 俺は顔を上げないまま、彼女たちが立ち去る足音を聞いた。

 俺が立ち上がって振り返るときには、後ろ姿も見えなかった。



 ──数日の間に目まぐるしく情勢が変わった。

 城内の俺の立場……は元より特異だとして、鉱山周辺でヴァルトとの紛争が頻繁に起きるようになった。

 こちらの国が遠慮をしなくなった。──不可侵だった鉱山に踏み入ることを決めたからだ。

「今、少しでも資源を得ておきたい」

 陛下はそう言った。戦いの準備だった。

 水が豊かな土地で、自然に恵まれ潤沢な食料はあるが、戦争用の資源などに関しては有利とは限らなかった。

「泉の裏はまだ未開拓ではあるが、あそこは竜の棲家でどのみち近付けないからな…………確実なところから資源を得たい」

 本国の兵士は強剛だった。まあ俺も正直、騎士としての自信はある。

 国王陛下自体が兵を率い戦うこの国で、国王は強く、そんな陛下に仕える俺たちは守るためにも壊すためにも鍛えてきたのだから。

 まあ、狩猟が好きなお国柄もあるだろう。

 着々と準備が進む。

 道が整えられる。──戦争の。


 ヴァルトとの外交に火種が起きた今、少しでも隣国ムースペイルとの友好を築いておきたい。

 そんな目論見を持ったパーティーは、もう目前だった。

 そんな日に、陛下は一通の手紙を受け取った。

手紙はヴァルトから届いたもので、上質な羊皮紙だった。

 陛下は中身を読むと、それをはらりと落とした。

「こちらの人質が殺されたようだ」

 陛下は高価なその羊皮紙を踏んだ。

「もう約束を違えてしまった。契約は水に──血に流れた」

 踏みつけた足を上げた。陛下の綺麗な靴底では、紙は汚れていなかった。

「戦争が始まる」

 いつものように笑ってそれから、剣を持つ俺たちに言った。

「ははは! まあその前に、パーティーだ!」

 栄華を尽くそう、と陛下は言った。

「この世に未練がないくらいに」

 冗談にしちゃあ悪趣味だな、と思ったけれど。

 ──この陛下は嘘をついたことがあったかと、俺は考えてしまった。



 そしてパーティーの夜が訪れる。


「何やらニブルヘイムは大変なことになっているようだね」

 今日は大丈夫なのかい?

 そう陛下に聞いてきたのは、髭を蓄えた年配のムースペイルの国王陛下だ。

 随分たくさんの護衛を連れてきていた。無理もない。例年の二倍ほどの護衛の数で、今日この日迎えた城のパーティーに参られた。


 城の入り口で、馬車から降りてきたムースペイル国王に、我らが国王は笑みを返す。

「ええ。何の問題もございません。兵の鍛錬はこの日のためだと言い切ってもいいくらいです」

 ムースペイルの国王と並ぶと、王はまるで孫のような見目だった。

「本日この場所が、世界で最も美しい場所となるでしょう」

 そして陛下は、異国の客人たちを迎え入れた。


 燦爛たるシャンデリアの明かり。

 ところどころに飾られた花はどれも今が一番美しいときだった。

 ヒールで踏まれるばかりの床さえ鏡のように磨かれ、絵画は額装の彫刻部にさえ埃ひとつなかった。

 吹き抜けになった二階から、三股の階段が伸びて一階のダンスホールとなる広間に繋がっている。

 決まっているパートナーと踊る者と、デビュタント(社交界デビュー)の女性たちが、一際幅の広い真ん中の階段からお披露目を兼ねて降りてくる形だ。

 一階にはムースペイルの要人男性たちだけでなく、本国からも招いた貴族ら若い男性たちもいる。

 二カ国合同お見合いのようなもので、本国から招いた貴族は皆見目が整っていた。星に負けない美しい髪の色だった。


 会場の音楽を奏でるオーケストラも、陛下が選んだ。

 最上級の立場の人間を満足させるに足る一級品の物が、者が、閉じ込められている宝箱のような会場だった。


 ムースペイルの国王夫妻は、高齢だからとダンスを断った。座っていることが楽なようで、主賓の椅子に座った。

 ──だからファーストダンスは、陛下と彼女のものになった。


 二階の階段の前には、金髪に重たそうな王冠を被り、正装をしたニブルヘイムの国王と──

 白髪に美しい髪飾りをつけ、俺でも分かる最上級のドレスを着た彼女が──ニブルヘイムの聖女様がいた。

 二人は背筋を伸ばして、シャンデリアの数多の虹のような煌めきを一身に浴びている。


 この後二人は称美されながらゆっくりと中央の階段を降り、護衛──俺と騎士団長──が両脇の階段から見守りながら同じように降りる予定だ。

「国王様、やはり我々も同じ階段から降りた方がいいのではないでしょうか」

 身を屈めますので。

 パーティーの始まりを合図するために降りようとする二人に、そう進言したのは騎士団長だった。

「ははは! さすがにそれは無粋だぞ」

 陛下は騎士団長の言葉を容易く笑い飛ばして、それから綺麗な歯並びを見せた。

「安心しろ。オレだって強さには自信がある。──彼女くらい守れる」

 彼女は何も言わなかった。

 化粧は華やかで、その髪飾りやドレス姿と相まってまるで人形のような綺麗さを纏っていた。

 微笑んだ様子は、まるで俺が知る姿と別人だった。

「御身が心配で……」

「今更憂うな。決まっていただろう、堂々としろ」

 さあ、配置につけ。

 陛下は俺たちに言った。護衛である騎士団長と俺にそう言った。

 陛下と彼女が目を合わせる。

 シャンデリアはまるで太陽のようでも月のようでも、星のようでもあった。勿体ぶることなく輝きを二人に分け与えた。

 その様子は美術品のようだったし、この会場にあるどんな芸術品が束になっても敵わない美しさが合った。

 ──音楽が変わる。

 二人が階段を踏み出した。

 その美しさに嘆賞され、艶やかさに称賛され、その強烈さに讃歌さえ歌われた。

 ありとあらゆる光を受けて、眩し輝く二人に目が眩みそうだった。

 眩んで見えなくなりそうで……目を閉じたかった。けれど護衛の俺にそれは許されない。

 俺も階段を踏み出す。

 中央の階段であらゆる賛美を受け入れながら進む二人と同じペースで、ゆったりと壁側の階段を降りる。

 ──光の中の彼女と目が合った。

 馬鹿じゃないのか。

 横にいる男を──陛下をを見てろよ、目を離すなよ。

 俺は護衛なんだから見てて当たり前だろ──目を奪われてるのは当然だろ。

 なんであなたが、俺を見るんだ。

 さりげなく送られた視線だった。

 それでもひどく動揺してしまった。

 言葉にしたら不敬だと首を刎ねられるくらいのことを思ってしまった。

 ──ばかか、お前は。

 照らされていないから、俺のことは誰も見ていないから。

 口パクでそう言えば、見えているかもわからないが、笑ったように見えた。

 階段をゆっくりと降りる。

 違う階段を、同じ速度で俺たちは降りる。

 オーケストラの音楽で、足音は響かない。

 世界一美しい時間がここにあったと思う。

 なんと例えればいいのか分からない。

 陛下の横で手を取り、俺にはにかんだ彼女は──眩しかった。

 すぐに彼女の目がまた前を向いた。

 俺と目があったのはほんの一瞬だったのかもしれない。けれど長く感じた。

 長く、永く。

 永遠であれば良いのにと思う。

 この階段がどこまでも──地獄まで続くぐらい長ければ。ずっと見つめていられるのに。

 もうずっとこのままでいい。

 あなたは陛下の横でいいし、俺はただ、ただ。

 護衛だから──見つめることを許されていた。


 中央の階段を、陛下と彼女が降りきった。

 俺と騎士団長も同時に階段を降り切る。

 ダンスホールに降り立った二人は、手を取って踊り始めた。


 会場には、どこよりも綺麗な花を。きっとその花の人生の中でも一番美しく咲いた花を用意してあったのに、誰もそんなもの見てはいなかった。


 周りの人間たちと歓談する二人を、少し離れたところで見ていた。

 普段から民との交流の機会を多く設ける陛下ではあるが、この日はその華々しさからかいっそう二人は話しかけられていた。

 ガチャン、と。

 音楽が流れる空間に亀裂が入ったようですぐに見れば──彼女の近くでグラスが落ちる音だった。

 その音が俺を動かしてくれた。

 歓談していた貴族が手を滑らせた様子で、青い顔をしていた。

 使用人より早くすぐに駆けつけた。

 しゃがみ込もうとすると、陛下の横にいる彼女もしゃがみ込もうとしていた。

 ああもう、触るな。

「ヨル、お前はいいから」

 その様子を見咎めて一番早く口を開いたのは陛下だった。

「だって」

 周りが止めるのを聞かずにしゃがみ込んだ彼女に、陛下もしゃがみ込んだ。

「わたくしが」

 そう言って俺が滑り込むと、彼女は伸ばした手を引っ込めた。  

「ははは」

 陛下のいつもの、けれど小さな笑い声。

後ろから慌てて使用人たちが走ってくる気配がして

「お前は戻れ」

そう薄く笑いながら陛下は破片に手を伸ばして──尖った破片がその指に刺さった。

「陛下」

 陛下は一瞬顔を顰めただけで、吐息も漏らさなかった。

「リー」

 彼女が眉尻を下げた。

 大丈夫だからと言う陛下を、彼女が立ち上がって引っ張る。

「少し離れて手当をしましょう」

 俺はついていくべきか悩んで視線を上げた。

 俺の視線を拾ったのは騎士団長だった。自分ががついていくから、とその視線が言っていた。

 だから俺は駆けつけてきた使用人たちとその破片を片付けた。

 去っていく彼女は今までで一番女性らしい姿で、そしてそれからずっと陛下の傍にいた。


 片付け終わり所在なく会場を見ていると、ドレスを着た女性が、気分が悪いと言うから外を案内した。

 見上げた空には、下弦の月が昇っていた。



「なかなか派手な宴だったな!」

 数日前にパーティーは終わったというのに、まだ城内は高揚感を引きずっていた。

 執務室で、陛下は机の上に足を置いて笑っている。その仕草を、部屋の隅にいるお付きのものが咎めないくらいの素晴らしいパーティーだった。

 ムースペイルの姫君のデビュタント(社交界デビュー)としても素晴らしいものだったらしい。

 美しい会場で階段を降りて現れる姫君の姿に、国王が感激していたとのことだった。

「素晴らしいものでした」

 ひとえに陛下の手腕によるものだった。

 指の傷はもとよりかすり傷だったようで、もう跡も残らず癒えたようだ。


 ヴァルトとの鉱山を巡る争いは、鉱山周辺で勃発していた。

 未だ激化はしていないが、今度またひとつ血が流れたら、きっとそれは激しいものになると予感していた。

 緊迫している状況だからこそ、隣国であるムースペイルとの友好関係がより強固になったことは喜ばしい。

「それでな、グラム」

 ノックの音が飛び込んできた。

 返事も待たずに、外側のドアノブに手がかけられる音がした。

「リー、呼んだ……」

「縁談の話が来ているんだ、お前に」

 陛下の俺への言葉に、入ってきた彼女の──聖女様の体が止まった。

「はい?」

 聞き間違えたか。

 俺が聞き返すと、陛下は言った。

 縁談だぞ、と。

 部屋に入ってきた聖女様に返事をするより先に、陛下が。

「喜べグラム。お前に縁談を持ちかけてきたのは──ムースペイルの姫君だ」 

 俺は思わず頭を抑えてしまった。

 陛下はそんな俺を見て笑っていたけれど──聖女様は表情を変えはしなかった。


 パーティー会場で、気分が悪いから外の空気を吸いたいと女性に話しかけられた場面があった。

 花の匂いとアルコールの匂いは、目に見えそうなほどだったからしょうがないことだろうと。

 そう思って俺が外に案内したあの女性が──ムースペイルの姫君らしかった。

「……左様でございます、か」

 その女性のそばには護衛がいたのに、不自然に目を逸らしていたのを覚えている。

 仕事しろよ。そう思っていたけれど、それはきっと姫君が頼んだんだろう。おこがましいが、俺はそう想像した。

 護衛だってきっと好きで離れたわけではない。

「騎士でありながら膝を折りわざわざグラスを片付けるお前が奇異に──親切に映ったようだな」

 ははは、といつものように笑う陛下は楽しそうだ。

 なんにも楽しくはない。

「信仰の違うムースペイルでは髪の色など問われないからな」

 この国王も本当に楽しいと思って笑っているのだろうか。

「グラム、お前は結婚する気があるか」

「結婚、なんて」

 考えたことがないわけではなかったが、熟考したことはなかった。

 そもそもこんな髪の色で、結婚してもいいなんて相手が現れるわけもない。……国内では。

 男として子を持つことに憧れがなかったわけではないが、自分を誰も欲しがらない──ならばとタカをくくっていた。

 ──ならば素直に、この心のままに。

 聖女様は喋らない。

 立場という建前があって、それを心に決めていた。だから返事に悩んでしまった。

「……なあグラム」

 陛下は顔の前で両の手を交差させた。

「お前は三級騎士だろう。──あれ以来大変なのも知っている」

 あまり言われたくなかった。

 今言われたくなかった。

 聖女様の目がチラリと横目に俺を見た。彼女は俺の視線に気付かないふりをしたようで、目は合わなかった。

「せっかく騎士団で四番目の階級に来たのだ。騎士団長を倒したとも聞いた。なあ、グラム。あとお前に足りないのは──家柄、苗字だ」

 それがないと、二級へも一級へも上がれない。

 現実的な騎士の階級として、家柄が必要な上の階級は今の俺には登れない。

「戦争が起きる今、味方はほしい。お前が姫君と結ばれれば、ムースペイルとの友好はより強固になるだろう」

 前向きに考えてくれ、と。

 それは命令ではない陛下の口調だった。

「ああ、ヨル、待たせてすまない」

 陛下は扉のところで立ち止まる聖女様と──その供たちに声をかけた。

「パーティーも終わったことだし、庭の迷路を新しく作るにあたって、庭師が飾りたい花はあるかと言っていたぞ」

 聖女様が顔を上げる。

「もう俺たちも子どもじゃないし、次が最後かもしれないな」

 陛下はそう言って、立ち上がって窓を見た。

 窓の外の、生垣(ヘッジ)迷路があった場所を見ていた。


 ──その日の夜、自室に戻る前に庭へと寄り道をしたけれど、鳥の挨拶一つさえなかった。

 月がない夜だった。期待などしていないし、星に願いもかけないが、誰にも会いはしなかった。



 俺が返事を保留している間にも、鉱山を巡る紛争の火種は広がっていった。

 毎晩つけている俺の日記も、場合によっては処分しておくことになるかもしれない。俺が死ぬ前にこれは燃やしておくべきだ。


 ヴァルトと交渉することはなかった。

 再び使者が来ることも、こちらから送ることもなかった。

 消耗するように陛下は執務を行い、剣を持つものは城に出ることも多くなった。

 俺は国王陛下の近衛兵として城にいるが、もう間もなくだと城を出ることを予感していた。

 聖女様は祈国局という役職とおり、しっかりと教会に籠り祈りを捧げる日々が増えた。


 そんなある日の午後。昼下がりの日差しは柔らかい。

「ねえ、出来たんでしょう、迷路。──気分転換にどうかしら」

 ねえいいでしょう、とお付きのものを無理やり頷かせて、聖女様が陛下のところへやってきた。

「ん、ああ」

 予告なく咲いた花のような彼女に、陛下は不意を突かれた様子で、一拍おいてそれから立ち上がった。

「いい息抜きになるぞ、グラム」

 お前も行こうか、と言われたので、俺は二人の後ろを一歩引いて歩いて行った。


 回廊から庭に出ると、華やかで重みがある香りが風に乗っていた。その芳醇な風が二人の髪を陽の光に透かせる。

 黄金は陛下。

 白銀は聖女様。

 俺の髪だけが、光に透けない夜空の色。

 青々とした生垣(ヘッジ)迷路は二人の色を引き立てた。

 俺の目に映る景色の美しさを、日記にはとうてい書けそうにない。

 ──新しい生垣(ヘッジ)迷路の入り口から、風に乗ってほのかに甘い香りがした。嗅いだことがある気がする。思い出せないが。

「ははは、オレの勝ち逃げだったな」

 髪が顔にかかることも気にしないという様子で、風を受けながら陛下が笑った。

「あら、まだ分からないわよ」

 長い髪を耳にかけながら、聖女様が笑みを返す。

「驚くほど早く、私が見つけてしまうかもしれないわ」

「噴水(ゴール)をか? そうかそうか! 鳥が竜に勝つような以外さだな!」

「リー……貴方最近調子に乗りすぎじゃない?」

「ははは! そうかあ? だとさ、グラム」

「なんでわたくしに振るんですか……」

 俺のため息をついた様子に二人が笑った。

 黄金と白銀が、肩の揺れに合わせて光る。

 ──そりゃあ、俺の知らない二人の時間はあって当然なのだ。

 そもそもの出会いは、陛下と聖女様が先で、俺がその後だった。

 国王と騎士では、物語が違って当たり前なのだ。

 見るもの、話すものが違って当たり前なのだ。

 だから、親しげな二人の様子に、やりきれないなんて思う必要はない。

 だから俺から口を開いた。口火を切った。

「……それならわたくしが最初に行きましょうか」

 いつも、聖女様が一番最初だった。

 それから大体俺で、ハンデとして最後が国王陛下。

 俺が言い出したのは、気まぐれみたいなものだった。気を紛させたかった。

 まあそれは、また聖女様と二人きりなんかになると不義密通だの不貞だの言われかねないな、と思ったからだった。

 俺の言葉を、陛下がすぐに賛同した。

「面白いじゃないか、そうしよう」

 陛下が頷いたのを見て、俺は迷路の入り口の前に立った。

 俺が立ち去れば、並ぶ二人はまるで絵画のようじゃないか。

 ──俺が消えればいい話だったんだ。

 最初から俺がいなければよかった、と思う。

 とはいえ今更消えるわけにもいかないし、時間を戻すことだって叶わない。

 この世界に、祈りはあっても魔法はない。

 だから俺は、前に進んだ。──迷路の中へと足を踏み入れた。


 迷路の中に入った途端、甘い匂いが強くなった。

 花が、今が一番美しいと告白してる匂いだった。

 高い生垣が道に影を落とす。木漏れ日を踏んでいく。

 ゴールになんて一番に着かなくていい。ゆっくりと歩いた。

 左へ曲がる。左へ曲がる。左へ曲がる。壁。

 それは見惚れるような壁だった。

 随分久しぶりに見た、ギュルの花。

 鮮やかな赤い色。丸みのある花びらと吹きこぼれそうな柔らかい咲き方をしているくせに、棘のあるその花。

 ──また、城(ここ)に咲いてるなんて思わなかった。

 しばらく見惚れた。

 惚(ほう)けるように見ながら──考えた。

 ……俺が縁談を受ければ、この国の利になる。

 きっとこの先、ヴァルトとは戦争になる。

 この国(ニブルヘイム)は強いが、相手だって強さを隠しているかもしれないし、何より鉱山の資源を得た方が、それで多くの砲弾を作ることができるから──戦力については拮抗か、分からないとか言いようがない。

 周辺国の政治には無関心、中立の立場をとるムースペイルの助力を乞うことができたら心強い。

 ──それに。

 風が吹いて花びらが一枚落ちる。

 容易くこぼれる咲き方じゃなかっただろう。棘があるくせになんて繊細な花なんだと笑ってしまいそうになる。

 ──それに、縁談を断るような言い訳なんてなかった。

 あの裁判沙汰があったなら尚更。

 俺は身を固めてこっちでもあっちででも……俺のことを認めて、射止めようとしてくれているムースペイルの姫君だけを見つめていればいい。

 なんて楽だろうか。

 陛下の姿や、聖女様の威光さえも届かない場所に行くことができる。

 子を成すかは要相談だが、ムースペイルの姫だ。子が何人いても豊かな生活を送ることができるだろう。

 ──文句のつけようがない。

 文句をつける必要なんてない。

 きっと俺はそんな悠々自適の生活を送るためにここまで生きてきたのではないかとさえ思う。それくらい豊潤な生活にきっと溺れることができる。

 なあ、そうだろう。

 ──あの縁談を、受けよう。

 そう決めると、重苦しかった空気が澄んだように感じた。

 ……そろそろ二人とも出発しただろうか。

 ──陛下にでも見つけてもらうか。

 俺は花の咲く壁を背に、鞘から剣を抜いた。

 剣は光を弾く銀の姿を見せて、俺はその剣を構えるわけでなく、高く高く頭上に掲げた。

 肩を上げて剣を掲げれば、その剣の先は迷路の壁を越える高さだった。

 あの頃とんでもなく高く感じていた壁は、こうして大人になってしまえば届くものだったなんて感傷的になってしまう。

 剣は俺の頭上で太陽の光を浴びて反射した。

 銀色の刀身が光って、広い迷路といえども視界の端にきっと目立つだろう。

 陛下は目敏いから──きっとゴールを見つけるように、俺のこともすぐに見付けるだろう。


 生垣が揺れる。

 人の気配はすぐだった。

 もう来たかと剣を下ろした。

 もしかしたら陛下が、こんなタイミングで靴紐を直しているかとか、迷路内の他の場所の花を見ているかとか──いつもいつも、見つけるのが上手い人間だったから、そんな想定はしていなかった。

「──グラム」

 その硝子細工が風で鳴るような声に、俺は丁寧に呼吸を整えてから返事をした。

 どうして、あなたなんだ。

「…………行き止まりですよ」

 なんで来たんですか。

 そう思った。口から溢れたかは分からない。

「だって」

 振り向いて見た白髪は青々とした四方の生垣の中でより鮮明に見える。その瞳は濡れた葉の色。

「だって──花が綺麗だったから」

 ああ、もう。そんなの答えになってない。

 そんな答えを、今の俺は受け付けない。

 上目遣いに俺を見るな。──決意が歪む。

 俺は目を逸らして返事をした。

「そうですか」

 返事と言うには、そっけなかった。

 あからさまな態度に、聖女様の肩が少し落ちたようだった。

 それでも彼女は、来た道を戻らなかった。

「……縁談、受けるの?」

 耐えられなくなって足元を見る。

 気がつけば先ほど落ちていた花びらを踏んでいた。

「……もとより俺の立場じゃ、断れる立場でもないでしょう」

「いやよ」

はっきりとした語気だったから、思わず顔を上げてしまった。

「いや、なんて……」

 何を言ってるんだ。

 何を言ってんだ、そんな顔で、そんな声で。

「いやったら、いや」

 幼い頃でも、そんな駄々をこねるような言い方はしなかった。

 彼女は天真爛漫でも、困らせるような理由のないわがままは言わなかった。

 そんな姿に困って、聖女様、と呼んで狼狽える。

「なんでそんな呼び方に変わったの」

「それは」

 それはもう、あなたが──あはたは。

 名前を呼べる存在ではないから。

 それが許される立場ではないから。

 だけれど、役職で呼ぶほど潔くもいられなかった。

「……それは」

「結婚しないで」

 自分はあんなふうに、華々しくファーストダンスを踊っておいて──陛下の傍らにいたどの口で。

 形の良い唇は、何も言わない俺にまだ言葉を紡ぐ。

「ずっと守っていてよ……貴方が王の騎士なら、それはもう、私の騎士よ」

──ひどい女だ。

 美しい見た目に、残酷なことを言う。

 香りで人を招くくせに、棘で手折らせることを許さないギュルの花と同様だった。

 いつまでも持っていた剣を鞘にしまった。

 ……それでも俺は、曲げるわけにはいかなかった。

「陛下にも、前向きにと言われました」

 数拍考えて、それから、命令ではなかったのでしょう、と聖女様が言った。

 俺の言葉につけ入る隙があったのはわざとではない。

「祈国局として──国王婚約者として命令するわ」

 風よ吹くな。音を立てるな。

 彼女の命を聞き逃すわけにはいかないんだ。

「結婚しないでよ」

 命令なんて言っておいて、願うような言い方だった。

 そんなふうに命令されたら。

 あなたに願われてしまったら。

「──かしこまりました」

 俺は跪くしかないじゃないか。


 彼の王に勝る身分ではないけれど、俺の目の前にいる女性は、国王陛下と唯一肩を並べられる存在だった。

 だから俺はその御前に跪いて、確かに願いを聞いた。

「……じゃあ、私、行くわね」

 跪いた俺が立ち上がる前に、背を向けられて白髪が靡いた。

「合図を出すように言われてるの」

 そう言うとドレスからハンカチを取り出した。

 ──俺の剣よろしく、それを高く振るのだろう。

ますます俺のところにただ一人で来たことが不思議だった。

「王様とゴールで待ってるわ、騎士様」

 聖女様はそう言って、来た道を戻るように生垣の角に消えていった。

 わざとそこで立ったまま上の方を見ていれば──暫くして布の切れ端が踊っているのが見えた。

 見えるか見えないか、ギリギリの高さだった。

俺はこの距離だから見えるんじゃないか? と二人が心配になった。

 剣が長くてよかったと思う。

 ──彼女は花を手折ろうとすることなく、行ってしまったけれど。

 すぐに視線を外して、俺は歩き出した。

 さあ、次は右だ。

 ゴールに辿り着く前に、聖女様の願いを叶える方法を考え付かなければならない。

 騎士とはそういうものだろう。


 しばらく進んで、やっと噴水(ゴール)にたどり着いた。

「お前が最後か、珍しいな」

 そこには既に、陛下と聖女様がいた。

「ええ」

 並ぶ二人に、俺は返事をする。

「けど、悪いことではないでしょう?」

 俺がそう言うと、まあそうだなと陛下は頷いた。


 それから迷路を出て、聖女様は教会に。陛下は玉座に。それぞれの戻るべき椅子に座りに行った。


 俺が玉座の前に傅くと、肘をついて今から何が始まるのかという顔をした。

「国王陛下」

「なんだ、改まって」

 まるで道化師を見るかのような顔だった。

「わたくしに──特級騎士になる承認を頂けませんか」

 俺の言葉に、最初陛下は意味が分からなかったようで──それからいつものように笑った。

「ははは! やっぱりお前は面白いなあ!」 道化師を見た時以上に、大声で笑った。



 特級騎士。

 それは伝説に等しい存在。


 平民でもなれる三級騎士、家柄や血筋が問われる二級、一級騎士。

 それに対して、最上級でありながら出自が問われない、特級騎士。極端に言えば、たとえ異邦人でもなれるのだ。──騎士団と王からの承認さえ得られれば。

 承認を得て、試練を成し遂げ、そして儀式で誓いを立てる。

 人生を捧げる誓いを。

 神と等しい国王に信仰を捧げ、それ以外に縋ることを許さない人生を賭けた、誓い。

 忠誠。



「なるほどそれで汚名を濯ぐか」

 考えたな、と顎に手を当てるのは、騎士団長。

「やっぱり汚れてると思われてるんですね」

「そういうわけではないが」

 言葉尻を叩いた俺の言葉に、団長はくっくっと声を殺して笑った。

「血と泥は思ってる以上に飛ぶからなあ」

 見えないところに拭き逃しがあるんだよ、と肩を揺らす騎士団長に、俺は笑えない。

 俺が何も言えずにいると、騎士団長が言葉を続けた。

「王の承認は得ているから、あとは騎士団長の承認……それから試練ということだな」

 ええ、と俺が頷くと、騎士団長は顎に手を当てた。

「ふむ。簡単では面白くない──それにお前が特級になるのなら、事前に皆をスッキリさせたほうがいいだろう」

 面白くなくていいのに。

 俺は俺の物語に、面白さなんて求めてない。

 騎士団長は立ち上がると、他の団員たちがいる方へと歩き出した。そして他の団員たちを背にして、俺に向けて両腕を広げた。

「全員倒せ。騎士団のここにいる全員を倒した認めよう」

 なるほど。

「……そんな容易くてよいのですか」

 それは賞賛を引き出すよりは容易い。言葉を発させるよりも、捩じ伏せる方が容易。

 この手は人を撫でるよりも、殴る方が簡単だ。

 騎士団長は笑った。

「俺はお前の体力が尽きそうな終盤に挑むことにするよ。ラスボスだ──せいぜい頑張れ」

 まずは平騎士から、俺にかかってくるようだった。俺は根に持つんだ、お前の顔を覚えている。

 剣を構えて、俺は意識を尖らせた。


 ──三十四人までは一人ずつかかってきていた。

 三十五、六人目は同時にきた。剣を構えた団員が二人、俺の目の前でタイミングをずらして剣を振るった。咄嗟に後ろに避ける。と、後ろから空気が切れる音がした。

 三十八人目。そこから数えられなくなった。


 出来た切り傷。落ちる血を見る間もないまま、剣を振るい剣で防ぎながら──何人いるんだと考えた。

「死ね!」

 考えていることも許されなかった。飛んできた攻撃を刀身で払う。

 なかなか過酷だ。苛烈だ。

 衝撃が腕に響く。痺れるな、震えるな。

 今更だが、真剣で挑み合うのも納得がいか──ないわけがない。特級騎士なんて馬鹿みたいだと笑われたが俺は真剣だ。まさしくふさわしい。


「城にいて警備から離れられるのはあと二十人だな!」

 剣戟の合間に、団長が張り上げた声が聞こえた。嫌な言葉も聞こえた。

「既に倒された者で代わりに警備に行ける者はいるか? ……うん、もう十人は増やせるな!」

 ああもう!

 その言葉を聞いた俺は口角を引き攣らせる間もなく、相手の隙をついて剣を振るった。

 ──結局おそらく、当初いた人数より二十人は増やされたらしかった。

 俺と同じ階級の数人は、怯みながら。それでも俺を倒すように挑んできた。

 一番感情が露わだったのは二級騎士の副団長だった。

「こんな髪と目の色のやつ、最初から反対だったんだ!」

 そう言っていた。

 堂々と、悔いはないと、もう思い残すことなどないと言うように下の階級の俺に思いっきり唾を飛ばした。

「知ってます」

 剣を跳ね返しながら、俺も剣を振りながら、返事をする。もう立っているのもやっとだった。

 高く登っていた太陽も、もう傾いている。

 思い返す。

 ぶつかる刀身に思い返した日々が映る。

 ──けど、この人は俺に陰湿な嫌がらせや罵倒などはしなかった。

「ありがとうございます」

 だから俺はここまで登ることができた。

 妬心(としん)を、害心を踏み台にして、まとわりついた蛇心(じゃしん)を蹴飛ばして──与えられたこの人心で。

 やはり副団長は強い。

 選ばれた血筋に、重ねた実力。その誇り高い剣に、俺の剣が弾かれる。

 そして、飛んだ。──俺の手元から剣が抜けた。

「お前の負けだ!」

 剣が落ちた。副団長は剣を下げた。

 ──だからなんだ。

 剣が落ちても、俺は倒れていない。

 俺は駆け出して、副団長に飛びかかった。

 俺の全体重に、その体が倒れた。

 驚きの声を漏らした襟元を捕む、喉を狙う勢いで口を開いた。

 ──倒す。

 俺がやろうとしたことが伝わったらしい、副団長が目を見開いた。

「やめろ……」

 ──斃(たお)す!

 そう決めて噛みつこうとした俺の目の前の喉元が音を出して震えた。

「獣じゃないか……」

 そんなの今更だ。

 俺をこの世界に産み落としたであろう人間には捨てられて、獣に育てられた。獣の乳を吸い温もりを分けてもらい生き延びた。

 ──人であろう、と拾われたけれど。

 ──人でなしにならないと傍にいられないのなら。

 ならば喜んで、また獣に戻ろう。

 副団長の喉元に狙いをつけて大口を開けた俺に、毅然とした声が降ってきた。

「さすがに止まれ、グラム」

 その口調が、仕えるべき国王のものとそっくりだったから──俺は一瞬止まってしまった。

 騎士団長の声だった。

「クソッ!」

 声の主を確認することに気を取られた隙に、腹を蹴られて後ろに飛ばされる。

「ぐっ!」

 背が地面に擦れて熱い。手をついてすぐに立ち上がった。

 ああ、もう!

 自分についた土を払いながら副団長が舌打ちをした。

「倒れただけだ、負けたわけじゃないからな!」

 騎士団長が歩み寄ってきて、鼻息の荒い副団長の肩を叩いた。二人が目線を合わせると、それから副団長は俺を見た。

「次は勝つ!」

「……ははっ」

 思わず笑ってしまった。

 そんなの、優しさでしかないじゃないか。

 肋骨が痛い。多分折れてる。

 そんな俺の前に、騎士団長が立った。

「さあ剣を持て。階段を上がるその足を阻んでやろう」

 騎士団長が剣を抜いた。

 進行を阻んでやろう。

 その足を止めてやる。

 その剣を振り払おう。

 肩で息をする俺に、楽しそうに歌う。

「特級騎士になるなんて冗談だろ」

 その言葉から始まったのは、一方的な猛攻だった。騎士団長の。

 騎士団長は疲弊していた俺にも容赦はなかった。俺だって容赦しなかった。

 だから剣が弾きとんでも、容易く赦されなかった。


 それは蹂躙だった。

 殴り、蹴られ、倒れれば髪を掴んで平手打ちをされ、対抗しようとした手はいなされ、叩きつけられると剣を握っていた手が踏まれた。

「負けました、と言え」

 俺の頭を踏んで、騎士団長が言った。

「負けを認めろ、諦めますと言え」

 足に力が込められる。地面にめり込んで痛い。こめかみに力を掛けられるせいで眼球の奥さえも痛くなる

 ──言うもんか。

 落ちた剣に手を伸ばそうとすると、指先が踵で思い切り踏まれた。火がつくような痛みがした。多分折れた。

「特級なんて、騎士なんて……自分には不釣り合いな身分だったと言え!」

「……言いません」

 せっかく動かしづらい顎を動かして喋ったのに、団長は俺の手を踏む足をぐりぐりと動かした。

「ぐっ!」

 今度はゆっくりとねじるように力を入れられて、その痛みに意識が集中してしまう。

 叫んだほうが痛みから意識が逸れるが──そんな鳴き声出すものか。

「言え!」

 尖った声が俺を刺した。

「……い、言いま、せん……っ」

 刺されてもそんな言葉を吐くものか。

 血を吐く方がましだ。

「……竜どころか、やっぱり虫だな」

 ああそうだな、言葉を持たない虫ならよかった。

 蹴飛ばされて転がされた。砂が目の中に入って痛い。

 口の中は生暖かい血の温度と、ジャリジャリとした土の感触。血のせいで匂いだってわからない。  

 魔力なんてない、新聖力もない。あるのは気力だけ。二本の足は折れてない。立ち上がれ。

 きっと見るに堪えない姿だろう。

 勝手に見てろ。俺は引かない。

 俺は折れない。


 体が重い。落ちていた剣に手を伸ばす。

 踏まれていたせいで剣が握りにくい。

 それでも、この剣は俺のものだ。

 俺は騎士団長に向かって駆け出した。



「ははは! 血だらけじゃないか」

 玉座に座る金髪が、笑い声に合わせて揺れた。

「リー、笑いごとじゃあないでしょう……」

 玉座の横に座る聖女様が俺と陛下それぞれに顔を顰めた。

「容赦なくやられたな!」

 玉座の横に長く置かれていなかった、対となる椅子が置かれたのはつい最近。

「いいえ……優しいもんでしたよ」

 国王が座る玉座同様の意匠があしらわれた椅子に座っている彼女を見ると──、騎士団長との戦いでさえ手温(ぬる)かったなとさえ思う。


 騎士団内部で溜まっていた俺への不平不満を、自らが悪役となって払拭させてくれたのだ。

 最後に結んだその手は温かく、優しいものだった。

 俺はいつものように玉座の後ろに立ってはいない。

 豪壮な椅子に座る二人の御前に、膝を折って先ほどまでの出来事の報告に来ている。

「大丈夫なの? グラム」

「…………治してくれますか」

 すぐに、いいわよと言われた。

 やめてくれよ。

 思わずその姿に魔が差して、意地の悪いことを言ったのに。

「……大丈夫です」

 目を伏せて、それだけ。

 余計な言葉を言うと、気付かれてしまう。

 陛下に。聖女様に。──俺自身の醜い心に。


 二人が座る椅子は対の物。

 先代の国王と、王妃が座るその席。


 もっとやられておけばよかった。

 手の痛みも、流れた血の量も、浴びた罵声もこの胸の痛みには足りなかった。

「……これで騎士団の承認は得られました」

 顔を伏せて、申し出た。

 聖女様は俺の言葉にハッとして、陛下はいつものようには笑わなかった。

 本気か、と。ただそれだけだった。

 ええ、と。それだけで充分だった。

 だから陛下は、俺に告げた。

「最後の試練を伝えよう」

 儀式を行うための、最後の試練。

 これを賜ったら、もう戻れない。

 失敗すれば名誉は損なわれ、もう騎士ではいられないだろう。

 ならば死んだほうがマシだ。

 死ねないから、俺はもう進むしかない。

「三級騎士、グラム」

 陛下が家臣に合図を出す。

 家臣が持つそこらの人間が座るより上等なクッションの上に置かているのは、意匠が凝らされた金の水瓶。

 長い尾羽の鳥と竜が彫られている。

 恭しい仕草で、それが俺の前に渡された。

「その水瓶に竜の住む泉の水を汲んでこい。──証明として、竜の体の一部を」

 それは、あの夜裁判使われたものだ。

 この水瓶は、その埃一つない美しい表面に、どれだけの人間の顔を写して来たのだろうか。

 俺は水瓶に映る自分の顔を見た。そして頭を垂れる。

「我が血を懸けて、この忠誠を示しましょう」

 御心のままに。

 なにより、俺の心のために。



「なんで……なんでここに」

 皆が寝静まった夜中だった。

 月がない夜だから、闇に潜むにはぴったりだと言われてその日を選んだ。

 ──見送りをしようか。

 試練に旅立つ前の陛下の言葉に、俺は首を振った。

 葬列みたいになりかねないと言うと、いつものように声を出して笑った。

 だから夜に、朝には戻りますのでと。

 一人で十分ですと。

 ──いつも通りの朝を迎えましょう、と言って、俺は試練に発つことにしていた。

 俺はその人物が外套のフードを脱ぐ前に、陛下と昼間に交わした会話を思い出した。


 ──かつて人間に手足を奪われたとされる、四肢のない羽根のある巨大な蛇。ワイアーム……通称は、竜。

「お前には話しておこう」

 玉座に座る陛下は俺に言った。

「人外の言葉を解するお前が、殺すことを躊躇わぬように」

 竜は人間を嫌う。殊に、王族を。

 それはまるで神話を真実だとするような事実だった。なぜ王族を区別できているかは分からない。もしかしたら周囲の態度で判断をしているのかもしれない。

 そう思った俺にすぐ、血の匂いに決まってるだろうと陛下は答えた。

「王家に流れるこの血は竜を凶暴化させる。怪我などしてなくとも、ただその場にいるだけで」

 だから。

「だから先代王は──父は喰われ殺されたのだ」

 竜に。

 そう語る陛下の表情は、感傷的でもなんでもない。ただ回想を言葉にするだけといった風だった。

 初めて聞く話だった。

「報復はするなと言われた。死に際に。俺が勝手についていって、森に入ってしまって探しにきた父が──俺の目の前で喰われながら」

 森の近くの狩猟会。

 一人だけ幼かった王は、上手くできず暇を持て余し、珍しいものがあるかと思って森に駆け出したそうだ。

 ──森の奥には竜が住んでいる。

近づいちゃいけないよ、なんて親がいない者でも知っているのに。

 その時は好奇心だけだったと陛下は言った。

「むしろ竜を見つけたら……仲良くなれればと思ったんだ。──昔話は神話になった。だからもう忘れて仲良くしよう、なんて」

 その目は遠くを見た。

 遠く、昔を見る目だった。

「御伽話よろしくめでたしめでたしで締めようと思ったのだ」

 陛下の昔話は続く。

「だが結果的に、俺が泉に行ってその姿を見た途端、気付かれ襲われ、それを庇って父が喰われ──以降俺自身も、城の者にも近付かせてはいない」

 国民にも改めて周知させた。

 豊かな水場だが、そこは立ち入ってはならぬ聖域だと父の死と共に話した。

 決して誰も近寄ってはならぬ。

 そう、実話を訓話にしたのだと。

「だがグラム、お前なら竜の言葉が分かるだろう。大丈夫だろう」

 だが、お前ならと。

 祈りによる奇跡を信じるこの国で、俺に祈りを与えてくれるのだ。

 そんなの──答えは決まっている。

「もちろんです」

 仕える人間の願いを叶えてこその騎士だ。

 俺を騎士にしたのはあなただ。

「禁じられた森に入って親を亡くした、なんて、まるで寓話のような王だろう?」

「ならわたくしは、童話の騎士になりましょう」

 そして、あなたは間違っていなかったと、証明してみせよう。



 そうして夜遅くに、深く外套を着た俺は自分の馬に頭絡をつけた。

 正門ではない、城の出入り口からこっそり抜け出そうと、手綱を引いて来たところで、

 俺のように外套を被った人物が馬に乗っていた。

「なんで……」

 その人物は、不敬にも──王の愛馬に乗っていて、その身は華奢な女性の身だった。

「……なんでここに」

 外套のフードを脱いだ頭は、白髪。

 宵闇でもよく分かる光そのものの色。

「ヨ……聖女様」

「こんな時ぐらい言い間違えしておけばいいのに」

 俺を見て、その口角を上げた。

「一人で行ったら、誰が貴方の怪我を治すのよ」

「そんなこと」

 例え俺が竜に喰われその場で死んでも。誰にもそれを知られず語られず、朽ちても。

 別にそれでいいのに。

 あなたが一滴血を流す方が、どんな怪我よりも痛いに決まっているのに。

「結構です。お戻りください」

 その堂々とした様子に、思わず潜めていた声を普通に出してしまった。

「……一緒に行くに決まってるわよ」

 まさか許可でも取ったのか、と思ってしまうほど毅然とした態度だ。

 あの陛下が許すわけないと結論付ける。

 大切なものほど手元に置くタイプで、自分のものには名前をつけたがるタイプだ。

 それに陛下だけではない、教会も──民も。きっと彼女以外の全てが。

 聖女様が馬に乗って危険な場所についていくなんてことを、許すわけがないのだ。

 もしもバレたら「国で唯一の聖女様を連れ回すなんて!」と糾弾されるし「尊い存在の祈国局を危険に晒した!」と処刑される。

 ああもう。

 はあ、と溜息をついて、馬から降りる様子のない彼女に言った。

「戻ってください」

「いやよ」

 そっぽを向かれる。子どもか。

 十七にもなってあなたは。

「お戻りください、祈国局」

「いやよ」

 彼女が首を振ることで手綱が動いて、彼女がまたがる王の愛馬も首を振った。

 この馬においては俺と彼女の問答を面白がっている様子だった。

「……送っていきますから」

 今なら間に合う。今ならもしもバレても処刑まではされるまい。

「…………いやよ」

 数秒考えてから、やっぱり彼女は首を振った。

 頑固だ。

 陛下の前だとここまでわがままを言わないのは、やはり立場のせいだろうか。

「困ります。……何かあったらどうするんですか」

「むしろ何かあったら私がいたほうがいいじゃない」

 そんなわけないだろう。

 聖女だ騎士だなんてこと以前に──女が危険な目に遭うかもしれないと分かってて連れていく男がどこにいる。

 それが彼女なら尚更だ。

 出来ればずっと、堅牢な城の中で、暖かい布団の中で美しいものだけを見ていてほしいのだ。

 昼間は花びらを数え夜は星でも摘んでいればいい。なんで分かってくれない。

「あなたに何かあったら、陛下が──皆が悲しむでしょう」

「……貴方はどうなのよ」

「は?」

「なんでもないわ」

 彼女はそう言うと、足の踵を馬の腹に当てて合図を出した。

 賢い馬は──グリンブルスティは──俺の表情を一度を見てから走り出した。

「あっ!」

 軽快な音で走り出す。揺れる黄金の尾は楽しげだった。

「行くわよ、グラム!」

 振り返って、笑いかけた。

 揺れる馬上で、外套が脱げて彼女の長い白髪が露わになって、風で揺れる。

「ああもう!」

 彼女には聞こえないぐらいの声で、俺は頭を掻いて、それから愛馬に飛び乗った。

「頼んだ、ヒルディス!」

 愛馬は俺の声だけで応えてくれ、彼女と王の馬を追って走り出した。



 彼女が乗る王の愛馬、グリンブルスティは賢い。

 先に走り出したものの、俺を待つようにさりげなく減速してくれたおかげですぐに追いついた。

「速いわね、グラム」

「ええ、ええ! 急ぎましたとも」

 俺が言うと、フードを被り直した彼女は笑った。

 馬上で金具が揺れる音と、大地を蹴る音でろくに聞こえないが、きっとガラス飾りの音のような声で笑ったのだと思う。

「夜の乗馬って初めてよ!」

「昼もあまりお乗りにならないでしょう!」

 馬を駆けさせながら話すと、金具や蹄の音で声を張る必要がある。

 市街地を離れてよかった。──人気(ひとけ)がないからこうして話してやり取りができる。

「私は好きなのに乗せてもらえないんだもの!」

「そりゃそうでしょう!」

 外に出したら。──落馬してしまったら。

 その尊い血が大地に流れたら。

 そう想定して、家臣たちが彼女に危険性があることをさせないのは当たり前だ。

「大体、乗馬は不慣れだったはずでは!?」

「ふふふ。国王様の指導の賜物と──この子のおかげね!」

 得意げに笑う顔に色んな意味で眩暈がした。

 額を抑えた俺に、彼女はいつになく饒舌だった。

「……私ね、リーに出会う前は閉じ込められていたの!」

 突然の話だった。彼女を見る。

 ──初めて聞く話だった。

 驚いて何も言わない俺の顔に、彼女はにっこりと笑いかける。

「母は出産と同時に死んでしまったから、父が! 生まれた私の髪の色を見てね、神話の存在が顕現したって思ったらしいの!」

 祈国局というその身分は世襲制で、女なら祈国局──男なら祈国卿と呼ばれ方が変わる。

 生きる御神体。宗教の象徴。

「父も金髪だったんだけど! 私の髪の色を見て、怪我をさせたり! 命を狙われたらいけないって! ずっと部屋に監禁されてたの!」

 ──本来城の外にあるはずの教会。

 王の権力とは独立した、匹敵する権力の存在。

 それが今は──俺が来たときには、当たり前に教会は城に併設されていた。

「元々! 城の外に教会があって! その頃、部屋に閉じ込められてたんだけど!」

 誰の目にも晒されず、誰とも関わることなく。

 父親がご飯を運んでくるから、それだけが接する時間だったと言う。

「父は私のことを! 崇めていたの! 毎食出されるたびに平伏されて! そして祈られたわ!」

 話し相手にはなってもらえなかった。

 なのに懺悔だけは向けてくる。

 手を繋ぐよりも、手を合わせられ祈られる。

 そんな生活だったと、彼女は言った。

「幸せも不幸も! 暇も多忙も! 定義なんてなかった! 自由とか不自由とか、そんなもの知る前だった!」

 馬を駆けさせて、川沿いの道を北部へ進む。

 確実に俺たちは禁足地とされる森へ、泉へ近づいている。

「仕事で教会に来たリーが! 探検なんて言って私のいる部屋にやってきて!」

 ──なぜここに少女がいる。

 ──お前の妻は、祈国局は……子ともども亡くなったと聞いていたはずだが。

 幼い陛下が威厳たっぷりに言う姿は容易に想像できた。彼の王冠は幼い彼にとっても飾りではない。

「それで! 私は外に連れ出されたの!」

「……祈国卿は」

 小さな声だったが、ちゃんと聞こえたらしい。

「父は! 死んだわ! 私が城に連れて行かれてから! 自殺よ!」

 よく分からないけど、と彼女は付け足した。

 そうですか、と俺が返事をすると、そうなのよ、と大きな声が飛んできた。

「彼が私を見つけたの!」

 彼女はそう言った。

 ──なあ、それは救いだったのか?

 連れ出されたということは、救い出されたことと同義になるのだろうか。

 俺は考えてしまう。夜の暗い道に、ありえた未来を想像してしまう。

 ──もしも彼女の部屋の扉が開かなかったら。

 きっと何の物語も始まらなかっただろうか。

 俺は何も記さずいられただろうか。


 馬は相槌を打たず俺たちを運んでくれる。

 夜風を切る。

 段々とその夜風に甘い匂いが強くなるのを感じた。

「……リナリアかしら、北部は花が多いわね」

 水も豊かだものね、と。

 彼女は黄金の馬の首を撫でた。


 ──そうして森の入り口に着く。


「この森の奥が泉です」

 彼女の顔には、疲労が見てとれた。

 それを悟られまいと薄く笑っているのが分かった。

「今なら、あなただけは……近くの領主のところにお送りするので休んでいただくことも可能です」

 それが一番安全です。と、俺は一番の望みを述べた。

 返事は案の定だった。

「いやよ、一緒に行くわ」

 なんで。

 分かってた。その返事は分かっていた。けれど──なんで、と思ってしまう自分がいる。

 それでも言葉を求めるわけにはいかなくて、俺は続けた。

「危険です。ここまでくれば気が済むだろうと思って許しましたが……領主のところまで行きましょう」

 そこで、待っててください。

 あなたを何かの理由にはしたくないけれど──待っててくれるならきっと無事に戻って来られる。

 そう思っていたのに、彼女はまたいやよと言った。

「いやよ。貴方の傍が一番安全だわ」

 ああもう。

「大体、この近くの領主が独身の男とかだったらどうするの。人間だって危険だわ」

 どの口が言うか。

 大体、高貴すぎる身分に恐れ多くて触れられないぞ。……多分。

 俺の思いをよそに、彼女は続ける。

「貴方が守ってくれるでしょう? 私は怪我なんて一つもしないわ」

 だから、大丈夫。

 安心して──なんて。

 そんなことを言われたら、俺は。

「……もちろんです」

 騎士ですので。

 そう返事をするしかなかった。

「騎士なので、お守りしますよ」

 騎士だから、それが叶う。

 俺が一番危ないと教えてやりたい。

 けれどそんな俺の欲望より、彼女の笑顔の方が強い。

 彼女が微笑んだ。その目の色は夜でも綺麗な緑色だった。


 ──こうして俺は彼女と深い森に入った。


 立ち入りを禁止されている森の中は静寂だった。

 初めて入る場所だった。彼女は俺の後ろに。

 馬が走るには適した道ではない。馬は森の入り口で待っててもらう。

 花の匂いはしない。湿気った土と、緑の匂い。

 獣がいるかと警戒したが、俺たちの前に顔を出すものはいなかった。

 ──この森を抜ければ泉があるのか。

 かき分けた草が跳ねて彼女に当たらないように、背後の彼女を気にしつつ進んだ。

 踏破するたびに鳴る草の音に、俺たちの呼吸は隠されて、彼女が俺を見失わないか心配になる。

 ──髪の色が明るければ、俺を身失わないでいてくれるだろうか。

 なんて考えるだけ無駄か。


 ……彼女がいるとわかっていたなら、新月の夜にしなかったのに。

 足元が暗すぎる。

 月明かりに照らされる安心感がなく、大丈夫だろうか。聞けないな。

 けれど新月の夜だから、彼女はこうして外に出てこられたのだろう。きてくれたのだろう。

 言えないな──月が出てほしいなんて。

 お互いの顔も見えやしないのに。

 俺からすれば、思ったより短かった。森を抜ける時間の間に、星はどのくらい動いたのか。

 遠くに水の音が聞こえた。

 水が落ちる音と、揺れる音。

 ──滝が、泉が近い。

 段々と視界が開けていく。

 後ろを振り返ると彼女が頷いた。疲労を隠すように強い表情を作った。

 弱音ぐらい吐けばいいのに、何も言わない。

 剣の位置を確認する。茂みをかき分ける。

 ──森を抜ける。


「……ああ」

 無理を抜けて開けた滝壺から流れる、川沿いの場所。

 星空が鮮やかだった。

 地上の宵闇が空に煌めく星を引き立たせる。

「んーっ、広い!」

 芝も柔らかい。

 彼女が俺の横をすり抜けて前に出て、川の方へ歩み寄りながらぐいと伸びをした。

 星の明かりのおかげで、その顔がよく見えた。

 奥の方の滝が落ちる泉を見やる。何もなく誰もいない。大きな影も見えないので安心する。空を見る。──何もない。

 竜は不在か、と思って剣にかけようとしていた手を楽にした。

 竜の存在は知っているが、実物は見たことがない。

 巨大で凶暴だとも聞くが、対面して生きて帰った者の話は稀だから情報はあまり多くない。

 警戒は怠れないというのに、彼女は嬉しそうに川沿いを歩いている。

 あまり離れないでほしいが、それを言うのは躊躇うし、駆け寄ればすぐの距離なので咎められない。

「綺麗で静かな場所ね」

 芝というには少し背の高い草を踏んで、笑った。

「……静かですね」

 遠くで水が落ちる音、すぐそばで川の水が流れていく清い音。少し冷たくて、透き通った匂い。

 足元の草が風で揺れる音。

 足元の草むらは、よく見たら細長い蕾のものが多かった。花はなく、一面の緑のほとんどが同じ種類の花のものと思われる、その蕾だった。

 人が入らない場所だからか、どの草も、まっすぐに伸びている。

 これだけ蕾が広がっているのだ、咲いたらさぞ見ものだろう。

 誰も見ていなくても花はきっと咲くのだろう。

「まさか、これ……」

 風が吹いて、俯いた彼女の長い髪が風に撫でられる。

 その白が星明かりで煌めいて、光る糸のようだった。

 ──知っているんですか。

 花に詳しい彼女だから、この蕾がどんな花を咲かせるのか知っているのだろう、と。

 たくさんありますね、と。

 俺は何の気なく。

 彼女に見せようと、その手元に渡そうと腰をかがめて、その蕾の茎に手を添えた。

 その蕾の形は、雫のような形だった。

 もうすぐ咲くのだろうと思わせる、少しふっくらとした形で、そのくせ秘密を抱いているように硬くしっかりの閉じていた。

 その細い割にしっかりとした茎が、俺がしゃがみ込んで手折れば、芯の折れる音がした。千切れた茎から雫が落ちる。

 渡そうと思ってその蕾に手をかけて、彼女を呼ぼうとした。

 けれど呼び方に迷っているうちに、彼女は俺の方に歩み寄って──信じられないものを見るような顔をしていた。

 どんな緑よりも一番瑞々しい緑色の目を、溢れんばかりに大きく広げて。

 俺が持つ蕾を──それが、花開く様子を目の前で見た。

 それは、存在するのかも分からないような伝説上の花だった。

 ──その花は、人の想いに呼応する。

 俺の目の前で、彼女の目の前で。

 その蕾はゆっくりと割れて広がった。

「あ? ──あ」

 まるで羽化するかのように柔らかく咲いてそれから、まるでもう散り際とも思わせるほど満開に広がり咲いた。

「……ラーレ、ね……」

 その花弁は紫の色だった。

 星明かりがあったおかげで辛うじて紫色だと分かった──暗くて深い紫の色。

 ──ラーレ。

 その蕾を手折った者が、渡した者への気持ちに応じて咲き誇る花。

 ──愛を伝える花、だと。

 俺は随分昔に、聞いたことがあった。

 今、俺が咲かさせて思い出した。

「あ、あああああ」

 我慢できず喉が震えた。

 花を持ったまま俺は後退り、目の前の彼女から身を退いた。


 俺の足は容赦なく、見えなかった足元の蕾を折って、それが──

 ──その蕾が、割れた。

 蕾が割れて咲いたその花が合図になったかのように、俺の足元から蕾が一斉に咲き広がった。

 やめてくれ。やめてくれ秘密を暴かないでくれ。

「ああ──」

 俺の目の前で、彼女の目の前で。

 優しかった緑の景色が、全て紫の花に変わった。

それはまるで優しくない咲き方だった。

 形こそ王冠のような、先の尖った花びらをしている。

 この花は──本当に同じ花か。

 陛下が渡したあの花は、ふんわりとした優しい咲き方をしていたのに。

 その六枚の花びらは風が吹いたら落ちそうなほど爛々と外側に広がり咲いていた。

 一面に。

 満開で。

 陛下が渡していたあんな優しい色じゃない、深くて濃い紫の色だった。

 ──嘘だろ。

 咲かないでくれ。

 絶望する俺の目の前で、吹いた風で花が揺れた。

 一面の花畑になったこの場所から、むせかえるほど芳醇な匂いがした。

「…………グラム」

 彼女が俺の名前を呼んだ。

 一瞬で紫に染まった花畑は、彼女の白髪の美しさをよく引き立てた。

 見ないでくれ。

 そう思うのに、隠すものがないこの場所がそれを許さない。

 逃げ出したいとそう思うのに、俺の立場がそれを許さない。


 本当の俺の名前を呼んで欲しいと思った。

 あなたの名前を呼びたいと思った。


 たった一度。

 たった一度だけでも。


 この混乱に乗じたと言い訳まで決まってる。

 幼い頃のように名前を呼んでやろうと思った。

 言ったところで、風で花が揺れる音できっと聞こえないと思った。

 彼女の耳に届かなければ許されると思った。


 けれど名前を呼ぶよりも、この花畑が俺の心を暴いていた。

 見ないでくれ、と思うのに。

 こんな一面に咲かれたら、この両手じゃ隠せない。


 知らないでくれ。

 この花のことを。


 どうか忘れてくれ。

 俺が手折った花の意味を。


 何も言えず、彼女の顔も見られなかった。

 彼女が俺を逃さないように見ているのは分かっていたが、顔を上げられなかった。


 ──知られたくなかった。

 一生言葉にすることはないと決めていたから、その感情を抱いていても許されると思っていた。


 言葉にしなければ伝わらなくて。

 触れなければ悟られないと思っていた。


 まさか──こんな形で。

 ごめん、と思う。

 すまない。知らせてしまって──すまない。

 許してくれ、許してくれ。

 いっそそれより忘れてくれ。

 一介の騎士が想っていたことなど。

 俺はあまりにも、あなたに花を贈るのは似合わないのに。


 ──やけに長く感じた。

 きっと数分だった。一瞬だった。

 何も言わない彼女にたまらなくて、もはやいっそ、なんてよぎるほどだった。


 俺の想いは邪心だ。陛下の渡した花は柔らかだったのに、こんな自分勝手な咲き方をする花。

 俺の想いは彼女を汚す。

 だったら、もう── 忘れさせることができないなら殺してしまった方が楽な気がした。


 こんな気持ちでどうやって城に戻って、今まで通りに朝を迎えられるのだろう。

 あなたは今まで通りにできるのか──するつもりなのか。

 どちらにせよ戻れなくなってしまった。

 咲いた花は蕾には戻らない。

 戻らないのならば、せめて時が止まれ。

 どうすればいい。どうすればいい。

 ──あなたは陛下と、ファーストダンスを踊ったのに。


 見つめあってしまう。

 彼女の白髪に、紫の花はよく似合った。

「…………」

 俺たちの沈黙を断ち切ったのは──いっそう強い風だった。

 もしかしたら彼女が、俺の名前を呼ぼうとしていたかもしれないけれど。

 もしそうだとしても、それはあまりに小さい声だったから、風で掻き消えてしまった。

「竜……!」

 俺の背後で、彼女が随分久しぶりに口を開いた。

 上空に黒い影が六つ。

 俺たちの前の、滝が落ちる泉にその巨大な一つが降り立った。

 地面は揺れず、その代わりに踏ん張っていても倒れそうなほどの風圧が俺を叩いた。

 岩のように硬そうな蛇の体に、鱗と同じ色の巨大な羽。まるで満月のような目。

 地に這わせた体。首をもたげて、大きな頭を振って──こちらを見た。

 ──先代王を喰い殺した存在、竜。

 目が合った。

 硬直する体を無理やり砕いて、剣を引き抜こうとした。

 攻撃の意思が見えたなら、それはもう戦うしかないと思った。

 ──例え死んでも。

 いや、死んだほうがいいかもしれない。

 けれど、今死んだら彼女を城に送り届けられないな、と思って竜の目を捉えるように見た。

 その金色に輝きを放つ目は、どれだけ残忍かと思いきや────。

 視線で言葉が送られて、俺は構えていた剣から手を離した。

「グラム?」

 俺の様子に、彼女が首を傾げた。

 俺と竜は同じ色の瞳に、お互いを映していた。

「…………俺の」

 竜は友好的だった。

 俺を見たから。俺の目を見たから。

 同じ光だったから、俺は言葉を分かち合うことができた。

「俺の目が……同じ色だから、ここにいることを許すと」

 今夜の空の代わりに、地にある満月の目。金色の目。

 まさか──まさか。

「……竜のなりそこない、末裔、端くれ」

 俺は竜から伝えられた言葉を口に出す。

 竜の目がゆっくり、瞬きをした。

「生まれ変わり」

彼女が息を呑んだ。

「少々臭いが話すことを許そう、ここにいることを許そう──と」

 あの竜は。俺に。

「……貴方にそう、言ったの?」

「ええ」

 臭い、は美醜ではなく人間臭いという意味らしかった。

「だから我々の言葉を解するのだろう、と」

 深くは意味が分からなかったが、まあ俺は──俺たちはここにいることを許されたらしい。

 危険はなさそうだ。胸を撫で下ろす。

 言葉に迷う彼女に、俺はまた竜に頷く。

「……他の竜も降りてくるようです。風に注意してください」

「え?」

 そう俺が言ってすぐに、空を飛んでいた五つの影はだんだんと近づいてきて、降り立った。

 立っているのがやっとの風圧なのに、彼女は俺の服の裾を掴むことをせず、気丈に踏ん張って立っていた。

 泉からは距離をとって離れていたのに、その巨大な存在は六つもそこに並ぶから、必然的に近くに一頭竜がいる。

 最初に降りてきた竜が、一番大きくて、どうやらリーダーのようだった。

 その竜から許しを得られたことは大きいが──攻撃されないとは限らない。

 油断はしていないが、竜たちはのんびりだ。

 ……顔を上げて花の匂いを嗅いでいるようだった。すべて蹴散らしてくれればいいのに。

 いや、今はそれが問題ではない。

 目的があってここにきた。

「……話してみます」

「気をつけてね」

 俺は彼女を背に、前に進んで歩み寄った。

 間近で見る竜は岩のようだった──匂いは、獣の匂いでどこか懐かしかった。

 そうして竜と目を合わせて、俺は言葉を交わした。

 口を開かずとも、目を合わせるだけで語り合うことができた。竜の目に映る俺はちっぽけだった。

「…………それは出来ない」

 信じられないことを一つ言われて、それを断った俺に竜は怒るかと思ったが、すんなりと受け入れてくれた。

 この香りは気分が良い、と。

 ──こんなに花が咲いたのは千年振りだろうか、と。

 だから上機嫌らしい。

 体の一部をもらえないかと、内心震えながら言った。

 すると竜は、滝の裏に視線を投げた。

 そこは未開の地になっている。人が立ち入ることのなかった滝の裏は、ここから見ると洞窟になっていた。

「……入っていいのか?」

 そう聞くと、竜たちは唸ることもなく、俺と彼女を視界にいれることもなかった。

 ただ、それは肯定という意味らしい。

 ──俺が手に入れるべきものは、滝の裏にあるそうだ。

「…………滝の裏に行きましょう」

 その場に彼女一人を取り残せない。

 声をかけると、少し震えていた。

「……分かったわ」

 だけれど、大丈夫ですかとは聞かなかった。

 連れて行くのは決めていたから。

 彼女の手を引こうか悩んだけれど、きっと震えを知られたくないだろうと思って、伸ばすのをやめた。


 その手の温もりを知らなかったことを、俺は一生後悔することになる。


 けれどこの時の俺は、もうさっきから起きる出来事に対応するのがやっとで、これが精一杯だった。

「……この奥ね」

 水が流れる滝の真横。

 絶え間なく水飛沫が飛んできて、纏う外套に染みを作った。

 俺と彼女は滝の裏に入ろうとしている。

 ──そこを、ぐうっ、と。

 水底から揺れるような声と滝さえ揺らす鼻息で、引き止められた。

 俺を呼び止める声だった。──顔を上げる。

 俺と同じ黄金の目を俺に向けて、その竜は泉の反対側から語った。

 しばらく竜と語り合った俺を、彼女の声が揺り戻した。

「……なんて?」

「あ、ああ……はい」

 彼女の目を見て、背筋を正した。

 なんと話そうか、少し言葉に悩む。

「……一つだけだと。それ以上持ち出したら許さないと」

 約束しよう。

 竜に対してそう言って、俺は持っていた松明に火をつけて先に滝の裏に進む。

 彼女は少し戸惑いを見せたけれど、それでもついてきてくれた。

「なんて話したの?」

 洞窟の中に、彼女の声が反響する。

「俺の名誉のために体の一部をくれないかとお願いしました。それには無理な条件を出されたので、断りましたが」

 真後ろでする水が落ちる音が、滝の中に響く。

「けれど、足のある同胞がそれは困るなら、中にある物ならひとつだけ持っていっていいよ、と」

 洞窟の中は冷たくて、いっそう暗かった。

 滝はまるで世界との境界線だった。

 二人きりの世界。

「何があるの?」

 風の音が止んで、少し温度の低いその場所にあるそれを見て、彼女は目を見開いた。

「……死んでしまった竜の骨です」

 洞窟の中に、巨大な骨があった。

 それは巨大な頭蓋骨で、長く大きな背骨と肋骨が生前の姿を思わせるそのままにそこにあった。

 いったいいつ死んだ竜なのか、どうして死んだのかは分からない。言われもしなかった。

 どれくらいの時をかけて、肉のない姿になったか想像すると果てしがなかった。

 そしてその骨は──

「ねえ、これ、水晶……?」

──ところどころが、透き通る宝石のように結晶化されていた。

 目の前の巨大な白い頭蓋骨は、一部分が透き通る色になっていた。触れると硬い。骨部分よりも遥かに硬度があった。

「……水晶のようでは、ありますね……」

 背骨や肋骨……尾だったであろう場所の骨に至るまで、ところどころではあるが、まるで水晶の原石のようになっている。

 しかし水晶よりは硬く冷たく、中は透き通り松明の火を浴びて七色に光る。

「……すごいわ、綺麗ね」

 こんなにあるなんて。

 彼女はその骨に触れながら言った。

「……ええ、すごいですね」

 まさか。

 まさかこんな──。

 竜の骨はこんなにも美しいのか。

 そして目の前のこの量、値打ちは相当なはずだ。

 そもそも値付けができるのか。

 ただきっと、もしもこれが貨幣となる価値があれば──ムースペイルなどから大量の武器の輸入も可能だろう。

 一つでもきっと十分な資源を買うことができるだろうに、このすべてとなれば、中立の国でさえ助力させられるほどの金銭的な価値があるだろう。

「グラム……これ、どうするの?」

「背骨の一つを、いただきましょう」

 それでも──竜からは一つだけだと言われていた。

 頭蓋骨は大きすぎるし、肋骨も長すぎる。

 俺は背骨の一つを手に取った。それでも手のひらほどの大きさだった。

 骨だから軽いと思いきや、一部分がダイヤモンドのように光るそれは、まるで割った中身も宝石であるかのようなずっしりとした重みがあった。

「あとは──彼らのものですので」

 きっと泉にいる竜の仲間や、家族や、同胞。そう言った名前の関係だった竜の死体なのだろう。

きっと守っているのだ。

「そうね、充分だわ」

 爪や鱗でなくとも、きっと充分だと彼女が言った。

 確かにこの大きさの骨と──こんな神秘的なものが他の生き物のはずはなく、充分な証明になるだろうと思った。

「……行きましょう、ここは冷えます」

「そうね」

 そうして俺は、財宝のような骨に背を向けて彼女と共に洞窟を出た。

 滝の裏から出てきた俺たちを、竜はじっと見つめた。

「ありがとう。一つだけだ、すまない」

 俺はそう言葉に出して、美しい鉱石になりかけるその背骨を見せた。

 そうだ、と黄金の瞳に言われた。

 これだけだ。もうこれ以上は欲しがるな、と言われる。

「分かった。約束だ」

 俺は答える。

「この場所はお前たちの大切な場所なんだろう」

 もう欲しがらない。

 俺が言うと、その目を逸らして、それからまるで眠るように首を地に伏せた。

 もう俺にも興味がないようだった。

 ただ、約束だぞと最後に言われた。

 ──今度こそ裏切るなよ、と。

 会ったこともないのに。俺は竜なんて初めて目の前にしたのに。なのに約束を違えるなと念入りに言われた。

 意味が分からなかったが、もう追及はしない。この世界には俺なんかには分からないことばかりだと知っている。

「……戻りましょうか」

「ええ」

 彼女と俺は、やって来た森に入ろうとした。

 ……そこを竜に呼び止められる。

 振り向いて、竜の顔を見る。

 竜の目が俺に語りかけた。

「…………グラム?」

 突然足を止めて振り向いた俺に、彼女が声を掛けた。

「……なんでもありません」

 俺はそう答えて、残酷なほど美しいこの場所を後にした。

 ずっと二人きりでいたかったけれど、それがこの花畑では恥ずかしすぎる。


 森を抜けると、黄金の馬と俺の馬はしっかりと待ってくれていた。

 遠くの空が白みはじめようとしている。

「──急いで戻りましょう」

「戻りたく、ない」

「は?」

 彼女に乗ってもらおうとグリンブルスティの手綱を持った俺に、彼女は首を振った。

「何を仰るんですか」

「戻りたくないわ」

 彼女は馬に近付かない。乗ろうとしない。

「急ぎましょう。明るくなる」

 皆が目覚める時間が来る、と。

 俺は川の流れる音に時間を感じて、語気を強めた。

「いやよ」

緑の目がまっすぐ俺を見た。

「──あんな花を見せられて、どうして戻れるというの」

 ああもう。

 竜の骨のことですっかり話題は流れたと思ったのに。

 その形の良い唇が開く。

「ねえ、グラム。私──」

「あなたは」

 俺は彼女の言葉を遮る。

 まだ空が暗くてよかった。

 俺の姿は闇に溶けられるだろうか。

 この顔は見えづらいだろうか。

「あなたは陛下のものだ。そして俺は…………陛下の騎士です」

 言いたくなかった。

 出来れば──出来れば言いたくなかったのに。

「忘れてください。どうか」

 お願いです。

 俺がそう言うと、彼女は俯いた。

 それから、何も言わないまま馬に乗ろうとした。

「手伝いますか」

「結構よ」

 乗られる馬も少し不安そうだった。しかし彼女がしっかりと跨ると安心したようだった。

「急いで戻りましょう、私たちの──私の騎士様」

「…………ええ」

 俺も馬に跨った。

 

 どうかこの夜のことは、あの花のことは、秘密にすることもなく──忘れてほしい。



 朝が来た。

 その背骨の変化した宝石の部分を朝の光に翳すと、世界はより美しく輝いた。

「おはようございます、陛下」

 俺はいつものように挨拶をする。

「……ムースペイルの姫君に断りを送らないといけないな」

 陛下は、戻ってきた俺にそう言った。



 仕える国王と所属する騎士団の承認を得て。

 そして試練を成し遂げて特級騎士となる。


 戻ってきた俺に、城の者は驚いた。

 竜殺しを成し遂げたのか、と。

 肯定はしないが、否定はしない。

 ただ持ってきたものを国王陛下に捧げるだけだった。

 持ってきたものと、この身に宿る感情を、捧げるだけだった。



 朝の光に包まれた城で、その金髪を輝かせる陛下に、俺は手に入れたそれを渡した。

 白髪の聖女様は王の横に座って、それを見て綺麗ねと目を細めた。

 金の水瓶に水を汲むことは、いわば泉に行かせるための大義名分でしかでなかった。

 竜と対峙して、倒せるか、生き残れるか──ということこそがこの試練の実だった。

 その証明として、竜の体の一部を持ち帰るという命題が与えられたのだ。


 御伽話では、それは昔々だったし、物語では、それは千年前の出来事だった。

 それは爪でもあったし鱗でもあった──俺が持ち帰ってきた骨には、とてつもない価値があった。

 それこそ、吟遊詩人が歌うような価値が。


 そして儀式は、玉座の間で行われる。

 叙任式(アコレード)。

 家臣、騎士団の者に囲まれて──国王陛下の前に俺は跪く。

 陛下の横には、聖女様がいる。

 跪けば、並んでいる二人の顔を見なくてよかった。

「三級騎士グラム、お前は自らの剣が竜に勝るものであることを証明した」

 澱みなく掛けられる陛下の言葉を聞く。

 俺は玉座の前に膝をつき、頭を垂れる。

 俺の腰に剣はない。剣は陛下が持っている。

 その剣は、一度教会に祀られ、彼女が祈りを捧げた剣。

「よって、お前をここに──特級騎士と認めよう」

 陛下は銀に光るその剣の切先を俺に向けた。

 その切先が顎に触れて、持ち上げられるように俺は顔を上げる。

 太陽の色をした黄金の髪の毛。

 ヘヴンリーブルーの瞳。

 仕えるべき俺の陛下。

「お前の剣に、竜殺しの異名を与えよう。そしてお前には」

 俺が見上げる陛下の横には、彼女が居た。

 白くて長いまつ毛が、その顔に影を落としている。

「国を護る──護国卿の称号を」

 剣の平らな面で、俺の首筋に触れる。

 その剣のヒヤリと冷たい感触が、俺自身に流れる血の熱さを思い出させる。

「はい」

 剣が首筋から離されて、陛下が剣を下ろした。

「あなたに忠誠を誓います」

 彼女は陛下の横で目を伏せている。

 笑ってくれたらいいのにと思う。

 誇らしげにしてほしい。俺はあなたの剣だ。

「この血が大地に落ち、身が骨となるその日まで」

 陛下から剣を渡される。

 ──この剣は、やはり重い。

 それでも俺はその剣をしっかりと受け取り、仕えるべき存在に宣誓した。

「我が剣はあなたのために」

 陛下自らが、立ち上がった俺の胸元に勲章を付けた。

 それは竜と剣があしらわれた、今世で誰も見たことがない勲章だった。

 俺のための──特別階級な騎士のための勲章。

「すべてをあなたに捧げます」

 今世すべて──未来を。

 こうして俺は、生涯独身であることを定められた身分、特級騎士の階級を得た。

 彼と、彼女を護るための称号を得た。



 王のために成し遂げて、神と添い遂げる。

 信仰心の全てを、祈りを。

 時間を。

 剣を。

 仕えるべき主に捧げるべきであるから、特級騎士は生涯独身と定められている。

 それは何よりの──例えば隣国の姫と結ばれることよりも、最上級の名誉だった。


 もしも俺が竜の生まれ変わりで、死んだらまた生まれ変われるのならば。

 ならば──ならば来世はと、俺は剣に祈らずにいられなかった。



 昼下がりの書庫で、陛下は俺に言った。

 陛下の身長に合うよう作られた椅子に腰掛けず、机の上に座って、傍らに立つ俺に言った。

「百人の兵でも倒せない竜を、お前は一人で殺したのか?」

 俺は陛下にいいえと首を振った。

「話したら譲ってもらえました」

「ははは! やっぱりお前は面白いな!」

 冗談ではないのだが。

 まるで冗談を聞いたとでもいうように、陛下は笑った。

「しかし竜の骨か──あれはすごいな、とてつもない資産価値があるぞ」

 陛下の座る机には、彼女が椅子に座って俺たちの話を聞いている。

 白髪の聖女様。──国王陛下の婚約者。

 腰より伸びた長い白髪が、穏やかな陽の光に透けている。

 陛下が俺に聞く。

「どれほどの量があった? いくつも手に入られそうだったのか?」

「…………一つだけ持ってくるのがやっとでした」

 なんせ、竜の住む泉ですので。

 そう答えると、陛下はそうかと頷いた。

「そうだよな……よく、生きて戻ってきた」

 その言葉は、静かだった。

 まるで噛み締めるように陛下は溢した。

 竜の恐ろしさを一番知っているのは陛下だった。だから深く聞いてこなかったのだろう。

「もちろんです」

 俺は答える。

「わたくしの役目は──あなたをお守りすることですので」

「まあ弓に関してはオレの方が強いがなあ」

「陛下がお上手すぎるのですよ」

 冗談めかして言った陛下に、俺は肩をすくめた。

 俺たちの話を聞いていた彼女が、立ち上がって大きな窓を開けた。

 ふわりと風が入ってきて、その風に花の匂いが混ざっていることに気付く。

 風が通り過ぎてそれから、陛下が口を開いた。

「ムースペイルの姫君には、断りを入れる。──それは叙勲によるものだと伝えるから、向こうの顔を潰すことにもならないだろう」

 それはよかった。

 陛下が言葉を続ける。

「永らく存在しなかった階級の騎士が生まれたことで、兵も活気付いた」

 騎士団で俺が向けられる目の種類も変わった。

 騎士団長から承認を得るために行った戦いも、感情の埃払いの役割があったようだ。

 命を賭けて竜まで殺した俺の忠誠心を疑う者は居なかった。

 ……殺してないけど。

「この後は鉱山近くの領主のところへ状況を聞きながら激励をしに行く。──行くぞ」

「御心のままに」

 頷いて、俺は扉の取っ手に手をかける。

 扉を開けると、陛下が出て、それから彼女も後をついていくように出た。

 俺の目の前に、長い髪がたなびく。

 花の匂いがしたせいか、少し目の奥が痒くなる。


 部屋の扉を閉めて、城内の廊下を進む。

 家臣たちは以前よりどこか忙しなかったが、それでも歩く俺たちを見て足を止めて頭を下げた。

「国王陛下」

 真ん中には金髪の国王陛下。

 その隣を、彼女が白銀の長い髪を揺らして歩いている。

 俺は二人の一歩後ろを同じペースで歩く。

「祈国局と──護国卿」

 誰とも知らないその呟きが耳に入った。

「この御三方がいるのだから、我が国はどんな戦争にも負けないはずだ」

 俺の髪は陽の光には透けないけれど、それでも陛下の髪の色と同じこの目の色は、せめて光を浴びることができるだろうか。



 争いの火種は燃え広がった。

 鉱山の資源を巡って、ヴァルトとはそこを中心に交戦状態になっている。

 何より向こうは、こちらに姫君殺しの嫌疑をかけているから、向こうが殺気だつのは当たり前だった。

 ──先に血を流させたのは、こちらだ。

 だけれどこの国は、地に伏せることを選ばなかった。


 この時に額を地をつけることを選んでいたら、きっとあんな未来は起こらなかったとは思う。

 この二人には光ある未来しかないのだと信じて、闇色の俺でも傍にいるために、特級騎士になったのだ。


 回廊を歩く影が、三つ伸びていて──もうそれだけで、もうずっとそれだけで俺は満足だった。



第三章 特級騎士


 戦争は悪だ。

 人の命が失われる──というのは大前提として既に建前として、まず損だからだ。儲からない。

悪というより、悪手。

 戦争は消耗する。人を、金を──資産、それを。

だから今まで、戦争なんて起こらなかった。

最悪揉めても、賠償金で済むことばかりだったから、血を流す──人を消耗させることはなかった。

 しかし、儲かるなら話は変わってくる。

 あの鉱山にはそれほどの価値があった。

 どちらかの国を従属させるほどのものが眠っていたから、どちらの国も譲るわけにはいかなかった。

 そんな情勢だったから、国王陛下と祈国局のことは、民に大々的に伝えられることはなかった。

「国民の結束を上げるために発表することも考えたが──」

 陛下はいつものように弓を引きながら俺に話した。声は俺に向けながらも、その放たれた矢は的に吸い込まれていく。

「──今は財政の使い方に慎重であるべきだからな」

 陛下はまた矢を構えた。矢尻が的に刺さる小気味のいい音。また、気持ち良いぐらいのど真ん中だ。

 弓を下げて家臣に渡した陛下に、俺は進言する。

 俺の動きに合わせて、胸元に付けられれた新しい勲章が反射して鈍く光った。

「……それなら、教会で宣誓だけでもいかがでしょうか」

 俺がそう言うと、陛下は歯を見せて笑った。

 分かってないな、と。

「分かってないな、グラム」

 言葉の割に嬉しそうだ。

 ヘヴンリーブルーの瞳を細めて、俺にちっちっと指を立てた。

「ムースペイルの姫君のために開いたパーティーよりも華々しいものじゃないと──彼女に相応しくないだろう」

 陛下の言葉に、俺はなるほどと頷いた。

「……そういうものですか」

「ああ! そういうものだ」

 せっかく騎士は騎士でも特級になったのに。

 やはり俺はまだまだ、紳士と言うには足りないらしい。

 そういえばこの国王はそういうところがあったな、と。

 あの日優しく咲いた花を渡していた姿を思い出して──

 ……自分のことを思い出して、回想をやめた。


 綺麗な咲き方をしなかった花なんて、彼女に渡せるわけがなかった。



 豊かな水源があるため、補給に困ることはなかった。

 豊かな森があるため、薪や木材の採取に困ることもなく、こちらが有利かに思えていた。

 労せず勝てると思っていたわけではないが、想像以上の手強さだった。

 ヴァルトとの戦況だ。

「兵の消耗が激しい」

 執務室の机に足を乗せて、陛下は呟いた。

 隣接する国がある中で、このニブルヘイムが侵攻もされず独自の信仰で生きられていたのは、ひとえに自然に恵まれた大地だったというだけではない。

 国の中枢を守る、騎士団の強さ故だった。

 ニブルヘイムの騎士団は、地につかず血もつかない。 

 剣士として強いから血を流すこともなく、騎士として優れているから馬から落ちず地に着くこともないから、そう言われていた。

 勇敢な国王陛下に恥じぬ、果敢な騎士たち。

 だからこそ国王は、あの日鉱山でヴァルトの血を流させるような姿勢を持っていたし、ムースペイルとは友好を結べていた。

 隣国から境界を越えたものには容赦はしなかったし、それによる賠償金など交渉も譲らなかった。

 外交上、尊大と言われることもあるようだったが──彼の王の忖度ない態度は国の強さを表すようでもあったから、国民はそれを厭わなかった。

 国民は、国王に愛されていることを分かっていた。

 その国民でもある騎士は、その愛を守るために強健だった。

 その騎士が──及び最前線の兵が意外なほどに消耗をした理由は、歩兵の数だった。

 ヴァルトの歩兵。

 通常、歩兵は騎兵に敵わない。

 ヴァルトは早々に国民を兵役した。

 国民を兵役すること自体は珍しいことでも、悪いことでもない。

 屈強な兵士ではない、昨日までは剣と縁がない庶民だったはずだ。剣を握らせ盾を持たせたとて、この国の騎兵なら十人は容易く倒せる。

 ヴァルトがそんな鍛錬が足りない彼らに持たせたものは──槍だった。

 槍は剣ほどに修練が必要ではないから、単純な攻撃力を上げるためなら楽な武器だ。

 そして何より騎兵には有効である。

 長い槍なら、高い位置にある騎兵の胴を突ける。

 槍兵は低コストで大量生産ができる。

 ──人を消耗品と割り切ることができれば。

 戦況の書かれた地図を見ながら王は言った。

 いつものように、白い歯を見せて言った。

「よほど我が国は恨まれてる」

「それはそうでしょう」

 自覚がないわけがない。

 俺が肩をすくめると愉快そうに笑った。

「ははは! やはりこんな最中(さなか)では祝い事なんて無理だなあ!」

 呪いになってしまうな、と陛下が笑うから、そんなの跳ね返しますよ、と軽口で返す。

「どんな呪いだって」

 あなたたちに降りかかるものなら。

 陛下はその灰がかった空色の目を見開いて、俺を映した。それから一拍置いて、俺の肩に手を置いた。

「心強いな! さすが護国卿だ」

 それはどうも。

 まだその呼ばれ方は慣れない。

 恐れ入ります、と軽く首を垂れた俺に、陛下は変わらない声のトーンで言った。

「なあグラム。お前は一緒に地獄に堕ちてくれるか」

「ええ」

 その時は。

 行くぞといつものように、勝手に俺を供として連れていけばいい。

「御心のままに」

 俺の言葉に、陛下は目を細めてから──

「さあ行くか、戦場へ」

「かしこまりました」

 ──俺を待たずに、自分で扉の取っ手に手を掛けた。



 主な交戦場所は国境。

 鉱山の麓の荒涼とした大地だった。

 遮るものはないが、身を隠せる場所はない。

 鉱山を棲家にする大きな鳥が一羽飛んでいて、長い尾羽をリボンのように踊らせ俺たちの頭上を飛ぶ様は──まるで俺たちを嘲笑うようにも見えた。

 実際はそんなことはないのだけれど。

 ただ日が照りつけるそこに時折落ちる大きな影は、俺たちを震わせ、そして敵軍を奮わせた。

 どうやらヴァルトではその大きな鳥は──グランビは信仰の対象でもあるようだった。

 鳥は神の使いだと。

 ……あの姫君が庭で鳥を愛でいた姿を思い出して、なるほどなと合点がいった。

 ミスターなんてつけられてイースターの名を冠したあの鳥は、彼女の孤独を癒していたのだろう。

 俺は戦場を視察する陛下の傍に立ち、少し離れた馬上から交戦する様子を見ていた。今日の俺たちは視察だけだ。

 向こうは陣形こそ歪であったが、数でそれをカバーしていた。

 前線は恐らく、兵役されたばかりの者だろう。槍は重そうで盾の持ち方もふらついていた。

「……なるほど、なあ」

 陛下はそう呟いた。

「戻ろう。石工師に会う必要がある」

「かしこまりました」

 戦場にいる戻れない者たちに背を向けて、俺たちは城に戻り、それから石工師を城に呼んだ。

 石工師は俺たちを見て少し懐かしそうに笑い、そして勅命を受けて少し悲しそうに微笑んだ。



 傷ついた兵への慰安も、教会の仕事だった。もとい、祈国局の務めだった。

「施療院に行くの」

 いつもよりも質素な服を着た彼女が陛下に言った。

 施療院は、教会管轄の病人や怪我人を受け入れる施設だ。この争いで元々あった建物だけでは収容できる人数が足りなくなり、小さな教会でさえも怪我人で溢れている。

 国境周辺に住んでいた一般市民の避難も受け入れ、段々と国の平和と健康のバランスは傾いているようだった。

「……オレも行こう。なあグラム」

 陛下がそう言うのであれば、もちろん俺は供となった。

 いつもの馬車とは違う馬車が用意された。装飾は華美でなく──お忍び用のそれだった。

「すまない、ヨル」

「なにがなの? リー」

 彼女の手を引いて馬車に乗りながら陛下が言った。

「久しぶりの馬車が……こんな形で」

 いつもより、声のトーンは低い。

 僅かに目を伏せた黄金の髪。

 ──俺でもその言葉が、どんな意味が分かった。

 それはきっと、次に馬車に乗せる時はパレードの時だったのに、と。

 もっと喜びに満ちて、周りから祝福を浴びながら走る予定だったのに、と。

「なんだっていいのよ」

 私たち、と彼女は続けた。

「私たちが一緒なら、なんだっていいのよ」

 美しく笑って。それから。

「ねえ、そうでしょう? グラム」

 ──なんで俺に聞く。

 いきなり向けたられた視線に心臓が掴まれた。

 咄嗟のことで目を伏せる。

「……ええ。お二人が一緒なら」

 俺はそれだけ答えて、その言葉を聞いたからではないだろうに、陛下はいつものように笑って、二人は馬車に乗った。

 俺は自分の馬に乗りながら、共にその道を進んだ。

 同じ馬上に乗ることはなかったな、と。

 近衛としてあるまじきことに、俺は少しだけ二人から注意を逸らしてしまった。

 車輪が石畳の上を転がる音が、やけに耳につく。

 それでも二人を乗せた馬車は、俺以外にも同伴する多くの騎士に囲まれながら無事に施療院に着いた。


 国王と祈国局が奉迎されたと、怪我人でさえも立ち上がり平伏そうとする始末だった。

「ははは! この様子ならすぐに治るな!」

「ちょっと、王様! 笑う場所じゃあないわよここ!」

 彼女はそこにいる人々に祈り、陛下は笑って檄を飛ばした。

 俺は黙ってその様子を見ていたが、ふとその中から外れた男に話しかけられる。

 恐らく先の戦闘で失われたのだろう、片腕がなかった。覆う包帯には血が滲んでいる。

「護国卿……竜を殺すほどの貴方がいればきっと大丈夫ですね……」

 それでもその目の光は失われていなかった。

 いや、彼と彼女の来訪で再び灯った光なのかもしれない。

 そんな男に、生ぬるいことは言えなかった。

「──この血に懸けて」

 俺は男にそう答えた。

 俺の血は、彼の王のために。

 この大地のために。


 帰りの馬車から降りて、陛下が言った。

「戦争は長引かせるほどに悪手だな」

 陛下の金髪が太陽の光を浴びて揺れる様は、俺の目にいつでも眩しく映る。

「なんとしてでも。早めに片を」

 そのためには。

「神を地につけてでも」

 陛下はそう言った。



 もう中庭に、俺たちが戯れていたあの迷路はない。

 それでも花の匂いだけはいつもあった。

 迷路は造らなくてもいいと言われても、庭師はどうやら、花を飾り俺たちを慰め続けてくれるようだった。

 俺は高い木を眺め、そして星空を見た。月昇っている。

 彼女は数人の側仕えをつけて城内、中庭の見える回廊を歩いていた。

「グラム!」

 外を歩く俺の姿を見て、俺を呼び止めた。

 新月の夜ではなかった。他の目もあったから、俺はその場に膝をついて頭を垂れる。

 夜に溶けてしまえばいいのに、自分の前髪が視界に入ってうるさくて目を閉じた。

「祈国局」

 硝子細工が風で揺れるような笑い声を溢しながら、彼女は俺の元に歩み寄った。

 次に目を開けて顔を上げると、笑った彼女がいた。

 祈国局、と。彼女の側仕えたちが伺った。心配そうな声色だった。

 ……無理もない。今までのことを思い出す。

 その空気を露払いしたのは彼女だった。

「大丈夫よ。だってこちらは護国卿よ」

 手のひらを広げて俺を示した。

「その血に。王に忠誠を誓った──特級騎士よ」

 そう言えばすんなり、側仕えたちは一歩下がった。

 皮肉だ。

 この身分がこんなに役に立つなんて。

 俺は何も変わらないのに、肩書きが変わった途端にこの扱いだ。

 いや、それよりは彼女と陛下との関係が名前がついて変わったからだろうか。

「少し庭を散歩しながら話すわ。──大丈夫よ」

 果実のような色の唇が弧を描いた。

「教会まで送っていただくだけだから」

 だから先に戻ってて、と。

 彼女がそう言うと、側仕えたちは下がっていった。

 ああもう。

 溜息を落とせば、俺より低いところにある彼女の耳が拾った。

「散歩?」

「ええ、まあ」

 散歩、というか。

 探しものをしていたのだが──いつも俺は見つけるのが下手なようだ。

「鳥が、いないなと思いまして」

 ミスターイースター。

 そう名付けられた鳥は、いつのまにか姿を消してしまった。

 彼女は周囲を見まわしてから、ああそうねと頷いた。

 そうね、と。

 迷路さえなくなって、見通しの良くなった中庭を見回した。

「寂しくなったわね」

 それには相槌を打たず、俺は一歩芝を踏む。

 整えられた芝に置いた足底は吸い込まれ、微かな足跡を立てた。

「……ねえ、グラム」

「なんでしょう」

 あてもなく踏み出した俺の歩みに、彼女の足音がついてきた。

「今日、施療院に、行ったじゃない?」

 柔らかな風が吹いて、髪が靡いた。

 鼻につく甘い匂い。

 夜空の下でも、俺が背を向けてても、彼女の髪は美しく靡いてるだろう。

 彼女の声が、柔らかな芝に落ちる。

 俺の背に掛けられる。

「あの人たち、私が……私がその気になれば──」

ばかを。

「言わないでください」

 振り向いて彼女を見た。

 ──なんて顔をしてたんだ。

 背を向けていたことを後悔した。

 なんて顔で──なんてことを言うんだ。

 緑色の瞳がどこか暗いのは、夜の闇のせいだけじゃないはずだ。

 だってこんなにも星は輝いている。

「……お願い、ですから」

 見つめあって、不安になった。

 俺の目は怖くないだろうか。

 竜と同じだと言われた金色の目を──彼女が怖くありませんようにと祈った。

「俺が血を流すから、あなたは血を流すな……」

 どんな怪我をしてもいい。

 体のどこを失ったっていい。

 だから。

 もう。

 もう一筋でも血を落とさないでほしい。

「……で、ください」

 感情と混じって、吐き出した声は変な言葉になってしまった。

 彼女は少し目を丸くして、その肩の動きが少し止まった。

 それから。俺にばかねと、一つこぼした。

 優しい微笑みに、なんと返せばいいのか分からなかった。

 いつも俺は、言葉に悩んでしまう。

 そして動き出すのも、遅い。

「……送っていきましょう」

「お願いするわ、護国卿」

 彼女は俺の言葉についてきてくれたから、手を取ることはなかった。

 庭に背を向けて、城内に戻ろうと歩き出した。

 ──そこへ。

「ヨル」

 まるで太陽のように、何も気にしないような、いつもと同じ声がかけられた。

「リー!」

 俺と彼女が顔を上げたそこには、まるで夜空の月よりも明るい髪の、国王陛下がそこにいた。

 彼女を見て笑い、俺を見て頷いた。

「思い出話か?」

「いいえ」

 彼女は歩み寄って近づいた陛下に首を振る。

 その緑の瞳に、陛下だけを映して答えた。

「──これからの話よ」

「ははは! そんなの、オレを招いてくれよ!」

 夜の回廊に、陛下の笑い声はよく響く。

 ひとしきり笑ってから、陛下は彼女に手を差し出した。

 送っていこう。

 その差し出された手が、そう言っていた。

 俺でもそれが分かったのだから、目の前の彼女も分かって当たり前だ。

 彼女はゆっくりと陛下の手を取った。

「グラム。お前は部屋に戻ってていいぞ」

「かしこまりました」

 お送りします、なんて言ったら無粋だと思った。

 俺は頭を下げて、二人の後ろ姿を見送った。


 ──地獄までは俺を連れて行く気なのに。

 陛下は、彼女を送る時だけは俺を供にしないんだな。

 頭を下げていれば、この顔を見られないで済む。

 足元から二人分の影が消えたのを確認してから、俺は顔を上げた。



 騎兵は平地でこそ活躍する。

 だからこそ騎兵──騎士が強い我が国は有利でこそあったが、それ故に敵の攻撃を受けやすく、また剣が主力のこちらの攻撃が届きにくかった。

 向こうは槍をこちらに向けるように構えたまま密集して盾を構えるので、矢が弾かれ厄介だった。

 相手はほぼ素人の国民だろう、とその盾の持ち方でわかった。

 片手に槍を、もう片手に盾を持ち……持ちなれない、鍛錬が足りないのであろう、構えはぶれている。

 しかし、大軍に兵法なし、を地でいくヴァルトの軍。数の力で俺たちといい勝負をしていた。


 国境付近の鉱山近く。戦場となった場所。

「オレが指揮をとる」

 いっそう目立つ鎧を纏った陛下が言った。

 太陽の下。誰より明るい金髪でいっそう華美な装飾の鎧を纏う陛下は、まるで自身を的にしろとでもいうようだった。

「弓兵は新しい弓を持ったな。……修練が足りなくて済まない」

 国王と槍兵が持つ弓は従来のものよりも大きく、そして矢尻もより重い石材になったいた。

 それは以前、陛下が弓場で試しにと使っていたものだった。

「石工師に頼んで急いで造成させてよかったな」

 陛下が言ったそれは矢の話だ。いや、矢だけに限った話ではない。

 戦時下になったムースペイルでは、今まで美術品を使っていた工房に武器を作らせている。

「どうせ重みで過剰には撃てない。その代わり」

 ──国民をすぐに徴兵したヴァルトと何ら変わりないな。しかし、それでも。それでも俺は──。

「この矢は一撃が重い。これなら盾を砕ける」

 陛下は弓兵に語る。

 それは弓というよりは、弩(いしゆみ)。

 怒りの心を弓に乗せる、殺傷する武器だった。

「これは天に向かって放て。天にだ」

 それを天に放てと、言った。 

 直線的に貫く矢ではなく、これは上に向けて放ち、敵に向かって曲線状に狙って撃つらしい。

「これは落ちる時の威力が強い。向こうは盾の構えが甘い。上からの攻撃に弱い」

 陛下は笑った。俺が上手く扱えなかったその弩を持って笑った。

「今日の花形は弓兵だ。──怒りを放て、許しを注げ」

 陛下は白い歯を見せて、高らかに言葉を放った。黄金の愛馬とともに、太陽の光を浴びて。


「剣を持つ者は切り開け、槍のものは突きつけろ──さあ行くぞ、ニブルヘイムの強者(つわもの)ども」

 そう掲げられた拳で、俺たち兵(つわもの)の士気はより上がった。


 弩部隊は活躍した。──が、普段より大きい弓に重い矢は、時間がかかり負担も大きい。

 命をかけた戦場の中で、向こうもやられっぱなしではない。

 上からの攻撃に、傘を重ねるようにだんだんと上手く盾を使って構えるようになった。


「ははは! 小賢しいなあ!」

 腕が痺れるのだろう。矢を持っていた方の手をひらひらと振りながら陛下は笑った。

 敵の指揮官──中心人物は陣形の真ん中、盾に守られていて、なかなかそこを狙えない。

 そこさえ、砕けたら。

 そこを、打てたら。射ることができたら。

 殺伐とする俺たちの上に、大きな影が落ちた。

見上げると、諍いの元凶の鉱山から飛んできたグランビが、上空で旋回している。

 長い尾羽で輪を描くように飛んでいた。

「──ああ、きたか」

 陛下がそう呟いた。

 はい?

 と、俺が聞き返す前に陛下は再び矢を構えていた。

 それは、小さくて軽い、高く飛ぶ方の矢だった。

 高いところからなら、敵(的)を討てるのにな、と陛下が言っていたことを思い出した。

 この荒涼としたところじゃあそんなところないな、なんて、会話をしたんだ。

 ──まさか。

 俺が目を見開いたのと同時だった。

「神を地に」

 陛下の声が落ちて、矢は高く飛んだ。

 周りの者たちは、目を疑った。

 何を狙ったのか分からなかったようだった。

 矢が飛んでるその一瞬。

 王が外すなんて、と誰かが言った。

 ──ばかか。

 矢が当たる。

 ──うちの陛下が外すわけないだろ。

 陛下が狙った、その鳥の翼に当たる。

 グランビの鳴き声はまるで、稲妻の如く細く鮮烈で悲鳴のようだった。

「ははは! さすがオレだなあ!」

 笑ってる場合じゃない。

 陛下の笑い声に、羽根に矢が刺さったグランビがこちらを見た。

 本当に、こちらに気が付いたのだ。

 遥か下の俺たちに。

 思わず口角が引き攣った。……よく分かったもんだな。

 その鳥は言った。──お前か、と。

 離れていても、目が合わなくとも、俺にはそれが伝わった。

 その鳥がやろうとしたことが分かった。

 危ない、と陛下の体の前に手を出して庇おうとする。

 すると陛下は、静かに笑った。

「いいんだ」

 狙い通りだ、と。

 白い歯が見えて、陛下の考えが分かって、俺は手を下げた。

「御心のままに」

 俺は深く息を吸い込んで、叫んだ。

 その鳥は──グランビは──急降下して近づいてきている。

「みな、頭を下げろ!」

 俺の声に周囲は肩を跳ねさせて、そして反射的に頭を下げた。

 その途端、一陣の風が俺たちニブルヘイムの兵の上を鋭くかすめて──

「ははは! 来たな!」

 ──陛下はその一瞬に、頭が人間の上半身分はある大きさの鳥の、その巨大な胴に矢を突きつけた。

 耳を劈くような、音で地面が割れるならそれはこんな音だと思った。地面の前に鼓膜が割れそうな音だ。

 こちらも敵も、地にいる者は耳を塞ぐことが出来たけれど、彼の王はその声を浴びても、刺した矢から目を離さなかった。

 羽ばたきは大きく、強い風が俺たちの目を眩ませた。乱れた髪を整い直し目を開けた時には、陛下は浮上していた。

 矢を鳥に突き刺して、しがみついたまま高く高く浮上していた。

「はははは!」

 降り注ぐ笑い声。

 ──もやは狂人だ。

 突然主人を失った黄金の馬の首を、オレは隣から宥めるように叩く。

 賢い愛馬でさえ、その事態に驚きを隠せなかったようだった。

 まさか鳥に矢を刺して飛び乗るなんて。

 見上げる太陽光で眩む中、その二つの影が重なる。

 しがみついていた陛下が鳥の背に乗ったようだった。……嘘だろ。

 風にも負けず、鳥の怒りの声にも隠れず、遥か下の俺たちにさえその声が届いた。

「これで上から撃てるな!」

 その声が聞こえた。

 ──思考が追いつくよりも、その矢が天から放たれる方が速かった。

 ざわめきは敵のものだったか、俺たちのものだったか。ただそれは陛下の下の、地上でのもので。

「進め!!」

 陛下の怒号にも似た声は、ヴァルトの陣形から悲鳴が上がったのと同時だった。

 陣の真ん中にいた指揮官が倒れた。

 ──上から落とされるように放たれた矢に撃たれて。

 俺たちは陛下の声にやっと状況を理解して──進み出し敵を打破していく。

 指揮官を失った陣形は崩すのが容易かった。

 すぐに俺たちに有利な戦況になった。

「今だ! いくぞ!」

 そのときに。

「はははは! グラム!!」

 鳥は不愉快そうに振り落とそうと飛んでいる。その高度がだんだんと下がっている。

 ──見上げて嫌な予感がした。

見上げたら血が頬についた。……降ってきた。

「落ちるぞ! オレを助けろ!」

 ああもう、嘘だろ無茶を言う!

 頬の血を手の甲で拭った。この血は恐らく鳥のものだろう。

 ──降りるではなく、落ちると言ったな!

「ああもう!」

 俺はいつもより乱暴に手綱を引いて向きを変えた。

 鳥は──陛下が乗った鳥は──苦しみながら落ちてきていた。

「仰せのままに!」

 交戦地帯から少し離れたところか、と落下点に目星をつける。いつもならしない乱暴な手綱捌きに、俺の馬は必死で応えてくれた。

 ──間に合え。

 見上げる。

 ──間に合わせる!

 馬は優秀だった。

 その場所まで俺を連れてきてくれた。

 いつもすぐに馬から降りることができるのに、降りる足はもつれそうだった。

 馬から飛び降りて、すぐ。

「は」

 俺が両手を前に出すと──その腕の中に飛び込んできたものの重みで立っていられず俺は胃が潰れる音を出しながら大きく後ろに倒れ込んだ。

 飛び込んできた者は、笑った。俺の上で。

「はははは!」

 その顔には血を拭った赤い線が乱暴についている。

「男が空から落ちてきてもロマンスは始まらないよなあ!」

 俺はそうですね、と笑って答えた。

 交戦地帯から離れてきた騎士たちが俺たちの元に駆け寄ってきた。グリンブルスティも、空から降りてきた主人の迎えにくる。

「いいえ、天から降りてくる人など──まるで神のようではありませんか」


 ヘヴンリーブルーの目。

 太陽の色の髪。

 この日から国王陛下は、現人神だと。

 神王だと民の間で呼称され崇められるようになる。

 ──この国で。この国だけで。


 陛下が降り立ってしばらくして、俺たちから離れたところでその鳥は堕ちた。

 その鳥の死体を回収して、ヴァルトの軍は去っていった。

 もとより指揮官が陛下の矢で倒れてからは、こちらの一方的な攻撃に近かったから、手練れを数人だけ捕虜にして、その敗走を大人しく見送った。

「グランビを殺したな、堕としたな」

 捕えられた捕虜は言った。

 何があっても知らないからな、と言うヴァルトの捕虜の姿を見て──そういえば向こうであの鳥は聖なるものと思われていたっけ、と俺は思い出した。

 それを聞いた陛下の態度は、眉間に皺を寄せる俺とは裏腹だった。

「あの美しい尾羽を持ち帰れずに残念だ!」

 ははは、と。

 いつものように笑いながら陛下は言って、俺たちは城へと帰路についた。



「おかえりなさい」

 城に戻った俺たちを、白髪を揺らして彼女が出迎えた。

「ただいま、ヨル」

 心配をかけたな、と陛下は言った。

一瞬、俺と目があった──気がしたけれど、すぐに陛下の鎧に付いた血を見て驚いたような顔をしだ。

「……大変だったわね」

 白いまつ毛を、その声と同じように震わせた。

「そうでもないさ」

 陛下は優しく笑った。

 その顔に少し安心したのか、彼女が俺を見た。

「そうなの? グラム」

「いいえ」

 俺が首を左右に振って答えると、陛下は思いっきり笑った。

「はははは! グラム、裏切ったな!」

「わたくしが陛下を裏切り、嘘をついたことなんて一度もありませんよ」

 その様子を見て、俺たちを迎えにきた周囲の家臣たちも笑った。

 ひとしきり周囲と笑ってから、息を整えて陛下は優しく彼女に言った。

「……無事を祈ってくれていたと聞く。心配をかけたな」

「いいえ」

 彼女の答える様は、まるで俺のようだった。

 意外な言葉に、陛下は目を丸くして、俺も同じ顔をした。

「心配なんてしてないわ。信じていたもの」

 美しい緑の目が、真正面に陛下を見ている。

 ──俺も視界の端に、映っているだろうか。

「私を誰だと思っているの? 聖女よ、この国の祈国局よ」

 大きな瞳だから、きっと俺も映っている。

「私が願って、叶わないことなんてなかったんだから」

 ああそうだ。

 本当に、誰もあなたには敵わない。



 あれ以来、ヴァルトの方から攻められることはないまま数日が経った。

 陛下が撃った指揮官が大きな存在だったのかもしれない。

 戦争が終わったわけではないが、戦況は落ち着いている。

 この間に兵や騎士たちは休養をとっていた。


 俺たちは城内の戦争の処理と生活で手一杯で──街に侵食したそれに気付かなかった。


 大きな交戦などもないのに、施療院に飛び込む人間が増えて、外傷ではない理由のわからないそれに、管轄する教会の人間たちが首を傾げて──国王に相談したことでそれは分かった。



 戦争中だというのに、城の中はどこも手入れされていて美しい。

 自分の馬の手入れに、俺は厩(うまや)に来ていた。


 今朝は陛下と朝の挨拶を交わしているうちに、陛下が教会から呼び出しをされてしまった。

 教会──すなわち、聖女様。

 せっかくだ。お前も少し休め、と。

穏やかな表情を隠せない陛下にそう言われてしまって俺は陛下からしばし離れていた。


 こんなご時勢でも庭師は手を抜かないのか──こんな時だから抜なわけにはいかないのか、中庭でも花は咲き誇っていたし芝もよく整えられている。

 幼い頃にこの辺でも殴られたな、と思いながら、俺は井戸の水を汲んでいる。馬に飲ませようと思ったからだ。

 この国は水源の泉から大きな川が流れていて、水が豊かだ。だから市民の多くはそこから汲んで生活しているが、城内の者は井戸水を汲んで生活をしている。

 紐を引いて、水の入った桶が上がってくる。

 滑車が軋む音と、紐が手に食い込む感触。

 引き回して──もうすくだ、と言うところでその声は飛んできた。

「グラム!」

 それは聖女様の声だった。

 驚いてすぐに手を離した。

上がってきた水で満ちた桶が井戸の中に落ちる前に、すぐに駆け出そうとして──

「グラム」

 庭に面した廊下にその姿は、並んでいた。

「陛下」

 俺を呼んだ彼女の白髪のすぐ後ろに、陛下の金髪が並んでいた。

 井戸の奥で、せっかく桶に汲んだ水が、水面を叩く音がした。

 はやる肩をわずかに抑えて、俺は早足で歩み寄る。二人の近くにいる側仕えたちは、難しい顔をしていた。

 ──何か、と聞かなくても何かあることは分かった。

 やられた、と陛下が小さく言った。

 随分苦い顔をして、吐き捨てるようにそう言った。

 何をですか、と眉を顰めて言葉にせず聞いた。

 やっぱり、やられた、と陛下はまた言った。

「やられたんだ……」

 鉱山に何かあったか。

 もしくは──森にでも火でもつけられたか?

 苦虫を噛み潰して味わうその陛下の顔を見て、眉尻を下げて躊躇いがちに、彼女が口を開いた。

ここ数日、と。

「あのね……施療院にね、腹痛とか、眩暈とかで運ばれる人が増えていたの……」

 口ぶりは重そうで、しょっちゅうつっかえる。

「戦争が起きたことで環境によるストレスとか、やっぱりちょっと粗食を強いてしまっているから、そういうことのせいだと、思ってたんだけれど」

 確かに、商人や一般家庭の民は戦争に直接関わることはないが、国内のことだ。

 隣人が兵として出た家もあるだろう──家族が帰ってこないままの家もあるだろう。

「心臓が止まっていたり、呼吸が苦しそうだったり……目や口がただれたり、ね。そういう人も多くて」

 それでも、と彼女は続けた。

「それでも、生きてるだけ幸いなんだけど……理由もわからず死んじゃった人が、増えてて」

「──やられたんだ」

 陛下が俺を見た。この人もそんな苦しそうな顔をするのか、と初めて知った。

 陛下は彼女の言葉を奪った。

「毒だ、毒! 水路に毒を流されたんだ!」

 嘘だろ。と言いたかった。

 なんてことだ。

 二人の悲痛な面持ちの理由が分かり、俺も同じ顔をした。



 玉座のある間で、俺は話の続きを聞いた。

 曰く。

 俺たちが指揮官を倒し戻ってきたあの日の翌日あたりから、施療院に運ばれてくる人数が増えたらしい。

 それが当初は下痢や腹痛といった症状だったから、心因性のものか食事のせいだと思ったと言う。

 しかし──しかしあまりにも人数が多い。

 けれど、ただでさえ戦争による怪我人も多いのだ。ベッドはいくらあっても足りない。

 治療にあたる聖職者たちは、それは軽症者たちだとあまり気にしなかったと言う。

 だが、運ばれてくる人間の様子が変わった。

 目や口の粘膜が爛れる者、呼吸が浅くなっている者──堕胎してしまった者さえいて、さすがに異常に気が付いた。

 しかし原因は分からない。

 食事か? 伝染病か?

 施療院の中で原因を探しながら治療にあたっている間にも、助けは求められ、そして内部でも発症者が増えた。

 怪我を治療されもう少しで家に帰れそうな兵が突然死をし、息をしていない状態で運び込まれる人数も増えた。

 なぜだ。なぜ。

 理由を。もしくは、加護を。

 そして城に、彼女がいる教会にその相談は持ち込まれた。

 あまりの自体に、すぐに彼女は国王陛下を呼び出した。俺が立ち去った後、すぐに賢者が集められ、現地に調査の者らが向かった。

 そしてその正体は、すぐに分かったようだった。

 陛下が言う。

「ヘレボルスの毒だ」

 すぐにと言うには、気付くには遅れてしまった。それでも、調べてすぐその正体を突き詰めたようだった。

「症状がな。……我が国は水が豊かで草花が多く、付随して毒の知識も多いから、賢者によってすぐに分かった」

 忌々しい、と言わんばかりにその口元が歪んでいた。

 嫌悪感と憂慮を隠さず、陛下は続ける。

「あれは根も茎も猛毒の花だ。潰して川に入れ大量に水路に流したのだろう」

 やられた、と。また一度陛下は言った。

「小賢しい真似を……」

 俺はその話を聞いて考える。

 被害は甚大。

 家に戻らせていた兵士たちもその被害に遭っているという。

 ──即ち。

「戦力が足りない、ですね……」

「ああそうだ。今戦いになると、こちらが不利だ」

 城下では多くの者が倒れ、物流も滞った。

 通いの召使たちも倒れた者が多いのか、城内の運営だって人手は足りない。

 ろくに戦えるのは、城の中の騎士団だけ。

 いくら猛者たちといえども、それでも何千を相手に戦い続けることはできない。

 無謀だ。

 しかし陛下は無策ではなかった。

「──ムースペイルに助力を請えないか使者を出そう」

 なあに、と家臣に手で指示を出しながら言う。

「城にある宝石などを多めに。──先代のコレクションもいいから持っていけ」

 それできっと、受けてもらえる。

 そう陛下は言った。

 家臣たちは躊躇う様子を見せたが、陛下の意思が変わらないのを見て、すぐに準備に戻って行った。

 華やかなパーティーに喜んでいた隣国が、この国からの華やかな贈り物を受け取って。

 ──傭兵を貸してくれることを、願った。



 その日のうちに帰ってきた使者は、行きに持たせた贈り物をそのまま持っていた。

 駄目でした、と使者は項垂れた。

「それなりの助けがほしければ、それでは足りないと……」

 この城にある価値のあるものは概ね入れたはずだ。

 ──なんてことだ。

 自分がとった過去の選択がよぎってしまった。

 ──もしも。

 陛下が届させようとしたものは一国一城にあった財宝だ。足りないわけがないのに。

 ──もしもあの縁談を、俺が受けていたなら。

 考えずにはいられなかった。謝りたくてたまらなかった。

 その思考を晴らすような、陛下の笑い声。

「ははは!」

「…………ちょっと、リー?」

 陛下の隣にいる彼女が、空気に見合わず笑い出したその姿に、訝しげに顔を顰める。

「ははは! 面白い!」

 腹を抱えて笑う陛下の顔が見えない。

「そうだよなあ! そうだよなあ! 民の命を賭けるんだもんなあ!」

 次に顔を上げて見えた顔は──笑っていなかった。

「命を賭けた贈り物が、正しいよなあ!」

 そして陛下は、何も言えない俺たちに続けた。

「あるじゃないか! あるじゃないか! ──竜の骨だ」

 我が国は恵まれているな、と笑い続ける陛下に、俺はなんと反対しようかと考えていた。


 

 ──結果的に。

 俺がなんと言おうと、陛下の意見は曲がらなかった。

「お前がここまで食い下がるのは珍しいな」

 そう言ったが、俺の言葉を飲み込んではくれなかった。

「陛下」

 家臣たちに指示をする陛下に、俺は懲りずに噛み付く。

「グラム」

 陛下は俺の顔をまっすぐに見た。

 ヘヴンリーブルーの瞳に、黒髪の俺が映っている。

 その黄金の髪の色が眩しい。

 それでも、俺は視線を逸らさない。

 陛下は俺にまっすぐに見つめられて、それでもやっぱり視線を逸らしもせず、意見も曲げやしなかった。

「……すまない、グラム」

 陛下は俺にそう言ったけれど──許してくれ、とは言わないんだな。

「これしかないんだ」

「しかし、あれは」

 あれは──あの竜の骨は。

 竜の言葉を思い出して、俺は言葉に詰まる。

 なんと言って止めればいいのか分からなかった。

 なんと言っても止まる気はなさそうだった。

 けれど何かを言わなければ、足止めさえもできない。

 何か一つ。

 何か一つ、一グラムでもいいから重い言葉を。

「……世界が終わってしまいますよ」

 考え抜いた末の俺の言葉に、陛下は目を見開いて、それから黙った。

 てっきりいつものように、笑うと思っていた。

「……その方が救いだな」

 寂しげに笑って、そう言うだけだった。

 だから俺はもう、何も言えなかった。

 いつだって俺の言葉は、少し足りないのかもしれない。



 城にいて動ける騎士は全員。

 城下からも戦えるものを募った。

 目的は──竜殺し。

 洞窟の奥の竜の骨を手に入れること。


 俺は騎士団の皆と、陛下が来るのを待っている。

 城下から来た兵も装備を携えて俺たちと一緒だ。

 陛下の馬も用意してある。

 他の馬たちの毛並みと違う、黄金のグリンブルスティは、また戦いかと瞳の奥を燃やしていたので、ああそうだと頷いた。

 どことなく落ち着かない空気は、行き先のせいだ。


 決して入ってはいけないよと、この国の民ならゆりかごの中で揺れている頃から言い聞かされていた、国の奥の森。

 俺たちが剣を持って向かうそこが、墓場になりかねないのだから当然だ。

 願わくば剣が墓標に、眠る場所が土の下にならないことを。

 ──ここにいる一人たりとも。

 副団長は先の戦いで顔に傷を負っているが、それでも今日も馬に乗っている。騎士団長の顔も険しい。

 そうして面々を見ていたら、騎士団長と目があった。

「どうした? 特級騎士様、不安か?」

「いいえ」

 少し揶揄うようなその声に、俺は首を振る。

 それでも団長は不安そうだなとばかりに俺の背中を叩いた。

「もっと堂々としろ。お前が騎士団の看板なんだから」

「それは……」

 特級騎士になった俺は、団長ではないものの匹敵する権限が与えられ、時には統率する役割があった。時には指揮下から離れて個人の権限で動くことも認められている。

 騎士団の人間ではありながら、一つの独立した権力。

 ──もう分不相応だとは思わない。

「そうですね」

 俺が頷くと、団長も頷いた。

「お前の剣の異名だろ、頼むぞ」

 思い出して、腰に差した自分の剣が重たく感じる。嫌な看板を鞘に入れてしまった。背負ってしまった。

 それでもこの名誉を返すわけにはいかなくて、俺はもうこのまま帰るわけにはいかない。

 馬の首筋を撫でていると、複数の足音がこちらに向かってきて、顔を上げた。

「待たせたなあ!」

 家臣を。そして彼女を引き連れ、鎧を着た国王陛下が現れた。彼女は聖女様らしい正装だった。

「行くのね、リー」

 まだ血生臭い気がしていた鎧の匂いが、瑞々しい花のような香りで気にならなくなった。

「帰ってくると、誓ってちょうだい」

 陛下は彼女の手を取った。

「もちろんだ。この血にかけて誓おう」

 目を細めて、そう答えて。

 彼女もその返事を聞いて、同じように柔らかく微笑んだ。

 俺の横で、ひゅう、と、騎士団の誰かが──おそらく幼い者──が口笛を吹いて、副団長に小突かれた。

「行ってくる、ヨル」

 陛下は彼女の手をそっと離した。

 それを見て、すごいな、と思う。

 すごいな、あんな優しく手を離してやれるなんて。

 俺にはできない。

 俺が、もしも俺があの白い指先の小さな手を取ってしまったら──。


 きっと。

 きっと二度と離してやれないのに。



 陛下は彼女に背を向けて、俺たちのところへ歩み寄った。

「──付き合わせる」

 悪いな、とも。

 許して、とも言わなかった。

「ええ」

 だから俺たちは頷くだけでよかった。

 陛下のヘヴンリーブルーの瞳が、この場にいる騎士団の者に向けられる。皆当然のように頷いた。

「グラム」

 俺にかけられた声は彼女の声だった。

 返事を、してもいいか悩んでしまう。

 こんな状況で、俺の名前だけを呼ぶなんて、と。

 ただいつも通り呼ばれただけなのに、胸は締め付けられる思いになって返事ができなかった。

「…………護国卿」

「……はい」

 そう呼ばれたらすぐに返事ができた。

 ただ、己の感情がバレないよう目を伏せた。

「無事を祈るわ」

 やっぱり、目が合わないのは惜しい。

「ええ」

 今度は目を合わせて返事をした。

 彼女は顔の前で祈るように両手を組んだ。

「……帰ってくると、誓ってちょうだい」

 瞳の色は、濡れた若草の色。

 その影を作るように映る、俺の姿。

「──誓うほどのことではありません」

 陛下に視線を投げる。

 気付いた陛下とすぐに目が合って、それから俺はまた彼女を見た。

「わたくしが、あなたの願いを叶えなかったことがありますか?」

 俺の言葉に、彼女は目を見開いた。

 ゆっくりと、花のように微笑んだ。

「そうね、待ってるわ」


 そして聖女様に見送られて、国王陛下と俺たち騎士団は禁じられた森へ向かう。

 目的地は森の奥、ギョルド川をつくる泉。

 竜のすみか。



 俺たちは竜殺しに行く。

 竜の宝を奪うため。



 太陽が沈みゆくのに比例して、北上する馬上。

 待っていてもいいんだぞ、と陛下は言った。

 段々と空は暗くなっていった。

 蹄が大地を蹴る音と、装備した金具が揺れる音の中でも、俺はその声を聞き取った。

 なにをおっしゃるのか、と視線を投げる。

「お前は──お前は優しいから」

 きっと陛下はずっと分かっていた。

 俺が狩猟会が苦手なこと。

 話した竜を殺したくないこと。

 他にも、きっと。


 見つけるのが上手いというのは、きっと目に見えるもの以外にも当てはまるのかもしれない。

 ──ああもう。

「……地獄まで供にしますと言ったでしょう」

 陛下は俺の言葉に、まるで犬が肉を置いた場所が水面だったみたいな顔をした。

 それから、いつものように笑った。

「ははは! そうだったな!」

 そうだ。

 俺は忠誠を誓ったあなたに──嘘はつけない。

「共に死んでくれるのか、グラム」

「あなただけは死なせませんとも」

 まったく、何のための騎士だと思っているんだ。

「この剣はあなたのための剣です」

 出会ったあの日からずっと。

 与えられた重さに負けないよう、ここまで来ることができた。

 そうだな、と陛下が笑った。

 そこでこの会話は終わりだった。

「今夜は満月だな」

 馬上で揺れながら、陛下は空を見上げた。

 同じように空を見ると、丸く黄金の月が浮かんでいた。闇に穴を開けるようだった。

「……そうですね」

 おかげで夜道でも明るい。

 相手が見やすく、こちらも隠れづらい。

 ──上等だった。


 川沿いを森に向かって北上している。

 いつもなら水分の補給ができるこの川も、今は恐怖の対象だ。

 毒が混ぜられていても尚、水面のゆらめきはいつもと変わらず、月の光を浴びて輝いている。

 川のせせらぎも変わらず、どこからか香ってくる匂いも──あの日から変わってない。

「もうすぐだな」

 今一度確認した作戦は、愚直なものだった。

 竜には──圧倒的な力には、小細工など通用しないと、その力を知る陛下が言ったからだった。

 矢と槍を放ち竜の羽をまず狙い、飛び立つ動きを封じ込める。

 竜には手足がないので這ってくるしかない。そこを更に矢を放ち剣で首を落とす。

 そして進める者が──滝の裏の洞窟へ。

「おそらく死者は出る」

 陛下はそう言った。

 それでも、と続けた。

「このままではもっと人が死ぬ」

 ムースペイルからの助力を得られなければ、この戦いを越せなくなってしまった。

 まさか水路に毒なんて。

 女子供にまで、無差別に殺意を流すなんて。

 ──きっとそれほどまでに、ヴァルトではあの鳥は信仰の対象になっていたのだ。

 陛下が神王と崇められるようなきっかけは、向こうからすれば神殺しの忌まわしい出来事。

 そしてまた、陛下は──俺たちは同じように。

 同じように、空の生き物を他に落とそうとしている。


「……なあグラム、本当に竜の説得はできなさそうか?」

「ええ。難しいですね」

 俺は返事に悩まなかった。

 断言だった。

 竜との会話を思い出す俺の顔を、陛下はしばらく見て、そうか、と言った。

「そうか、そうだよな」

 ここで退いてくれればよかった。

 けれどもちろん、そんなわけにはいかないことも分かっていた。

「遠慮なく殺そう」

 そして俺たちは、森に辿り着いた。

 ここまで月明かりが照らしてくれた。

 その明かりから一度身を潜めて、森に踏み入る。

「待っていられるか」

 馬から降りた陛下は、グリンブルスティに声をかけた。

「待っていてくれますとも」

 俺は愛馬の首をたたき、頼んたぞと伝える。

 頼んだぞ、待っていてくれ。

 夜明けに戻らなければ行ってくれていい。

 賢い四本足の友は、俺の言葉に耳を傾けてくれる。

 川の水は飲むな。お前も、他の馬も。

「城に戻ったら、水も、エサもたんとやろう」

 だからきっと。

 だから──と。

 俺は目を閉じて、城で過ごした日々を、城で過ごした人を一度思い出す。

 愛馬の漆黒の瞳に映る俺は、その色に溶けかけているようだった。

「よく伝えてくれたか?」

「はい」

 先陣を切るのは俺だった。

 志願した。俺が願った。

 この剣で切り開かせてくれと、俺が願った。

 陛下は俺の願いを叶えてくれた。

「参りましょうか」

 いつまでも重い剣だと、言ってはいられない。



 森の中には月明かりが届かなかった。

 あれだけ明るいと思っていたのに、鬱蒼とした色に目を細めてしまう。

 かき分けた草が後ろを進む者達に乱暴に当たるのも厭わなかった。

 剣を構えた俺の後ろには弓兵が陣形を作っている。

 その真ん中にいるのは国随一の射手、国王陛下。

 俺の後ろで、いくつもの息遣いが重なって、進む足取りにまとわりつく。

 蔦とともにそれを払い取り、進む。

 あの日、竜には──もう侵すなと、言われた。

 だから許しを得ることをせず、俺はあの約束を破ろうとしている。

 ──約束だぞ、と言って見送られたのに。

 別れ際に竜からかけられた言葉を思い出す。

 一緒にいた彼女には分からない、俺だけにしか分からなかった竜の言葉。

 もうすぐ森を抜ける。

 歩くたびに重くなる俺たちの空気は、もう耐加重限界だ。

 ──甘い匂いが、鼻について。

 花は咲いているだろうか、と。咲いていないことを願った。

 遠くに水の音が聞こえる。

 重い羽ばたきが乗ってきて、そこから生まれた風で、森が揺れた。

 俺の真後ろで、息を吸い込む音がした。

「撃て!」

 陛下の声が高らかに響いて、森が揺れた。

 矢が放たれて、それが刺さる前に剣を持つ者は飛び出した。

 竜たちは構えていたようだった。

 鎧さえ破壊する弩(いしゆみ)の威力は素晴らしかった。竜の羽根を穿ち、飛び立たせることを封じ込めた。

 竜が叫んだ。俺の金色の目は、暗い夜でも目立つようだった。目があった竜と同じ色。

 ──裏切ったな。

 開かれた竜の口は大きく、天と地につきそうなほどだった。

 森が揺れる──大地が揺れるような咆哮だった。

 走り出して剣を振るう。竜の硬い体に剣は火花が散るようにぶつかって跳ね返される。

 陛下の放つ矢は、すべて竜の羽根を貫通した。ただ一匹の竜を除いて。

「お前を!」

 陛下は矢を構えた。

 その姿を守ろうとして、騎士団長が剣を構えて這って向かってくる竜の鼻先に剣を投げた。


 陛下の大きな矢が構える先は──一際大きな竜。飛び立つこともできる竜は、俺たちを見つめて威容としてそこにいた。

 同胞と言ってくれた俺が剣を振るう様を見ていた。

 刀身についた血が柄まで滴って滑りついて温かい。握りすぎて握力がなくなりそうだ。

 竜の体の鱗は頑丈で傷がつかない。

 縦横無尽に振り回して、巨大な羽根の羽ばたきで起こされる風に尻餅をつきそうになる。

「斃す!」

 陛下の矢が放たれて──届く前に羽ばたきで落とされる。

 剣を投げてしまった騎士団長は、陛下のすぐ傍で竜に噛みつかれその身を泉に投げられた。

 ばちゃん。と、重いものが水に沈む音がした。

 陛下は、騎士団長の名前を呼んだ。

 いつもの返事はなかった。そんな間もなかった。

 周囲は動揺した、俺も視線を奪われて──それでも竜の振られた尾をなんとか躱す。

 俺の近くで剣を持っていた者が攻撃をくらい後ろに吹き飛ばされる。

「ああもう!」

 俺は陛下の傍に行く。

「はははは! 一矢報いたかったんだがなあ!」

 爛々と、その瞳を輝かせた。

 陛下が歯を見せて笑うと、竜はより奮い立ったようだった。

 ぼちゃん。

 また大きな音がして、泉から水飛沫が上がった。──誰かが落ちた。水に赤黒いものが流れたので多分生きてない。気になるが見られない。弔いたいが手は剣を離せない。

 ──殺せた竜もいるようだった。

 それでも生きている竜は、こちらに向かってくる。

 俺たちは竜の攻撃の隙間に狙い、その鱗にぶつかる衝撃に歯を軋ませながら反撃をする。


 もうどれだけ剣を振るったのか分からない。

 肩の感覚はない。

 もうどれだけ矢が飛んだのか分からない。

 聴覚は冴えすぎて風の音さえよく拾う。


 月の明るさで、地に落ちた血がよく分かる。

 照らし出されて、汚さがより浮かび上がる。

「神話の時代からの因縁を──」

 陛下がまた矢を構えた。

 回収されないことを前提で作られた重く鋭い矢尻のくせに、やけに凝った装飾がされている。

「今果たそうか!!」

 放たれて目掛ける先は、今まさに飛び立とうとしている大きな竜。

「手足と言わず! 羽根さえももぐべきだったのだ!」

 いっそう強いその羽ばたきで、皆が剣を振れなくなり、大地に立っているのがやっとになる。

 それでも乱れた髪を直すこともできない。視界の端に誰のか分からない血がついていた。

 陛下の矢は、その風に屈することなく飛んだ。

 そして、その矢は辿り着いた。

 硬い鱗に覆われた竜の、柔らかな部分に。

 ──その咆哮は、剣を捨ててまで耳を塞ぎたくなるような痛々しさだった。

 まだ生きている竜さえ動きを止めた。

 月に浮かぶその影に、一閃。一線が足された。

 その満月が一つ失われる。竜の片目に矢が刺さった。

「は」

 陛下の上擦った声が漏れた。

「はははは!」

そして陛下は──声を張り上げた。

「我々に神はあり! 撃て!」

 その声に騎士団の士気は奮い立った。

 血湧き肉躍る顔になった騎士たちは、呼吸を整えると巧妙に攻撃を躱す竜の意識の隙間をつき、体の柔らかな部分に剣を突き立てた。

 陛下の矢が全ての流れを変えた。

 水面に飛び散る血が、人外のものばかりとなった。

 片目の竜は何も言わない。

 ただ俺たちを見ていた。

 手足のない蛇のような体を、蝙蝠のような羽根で浮かばせ──俺たちを見ていた。

「今のうちに! 滝の裏に入れる者は財宝を運べるだけ運びだせ!」

 副団長が指揮をとった。

 数人のものが滝の裏に駆け出していく──と、俺はその声に顔を上げた。

 爛々と輝く黄金の竜の片目。

 見上げる満月は、二つ。

 離れていても分かる獰猛な牙を持った口だった。

 ──蹂躙する気か。

 放たれる声は静かで、それは俺にしか分からない言葉だった。

 怒り悲しみ嘆いていた。

「すまない」

 地に立つ俺が謝っても、もう声は届かない。

 剣の音の風の音で、誰にも届かず消える声。

 それでも、このまま飛び立って、どこかに消えてくれればいいと思った。

 これ以上殺されたくも、殺したくもなかった。

 そのまま飛んでいってくれ。

 そう、俺は願ったのに。

 ──約束を違えたな!

 それは決意を込めたような竜の雄叫びだった。

 まずい、と背筋に一筋の汗が垂れる。

 空気を吸い込む音は、闇を切り裂くような鋭さだった。それから──

 竜の視線は、滝。

 その裏の洞窟の中、入った人間を探るような目。

 ──吐き出された息は、灼熱の炎。

「火!?」

 突然の熱風に、滝が割れた。

 それでも中までは届かないようだった。竜が忌々しげに目を細めたからそれで分かった。

 咄嗟に両手で陛下を背にして庇った。一瞬だが、焦げるような熱波だった。

 事実、泉の周囲の地面が焼けた。小さな火が落ち、暗く焦げた場所もある。

「竜は火を吹くのか……」

 そんなこと、神話にも図鑑にも載っていなかった。

 俺たちは皆目を丸くした。──嘘だろ、と。

 一体どんな体内構造だ。

 火を吹くのはあの竜だけなのか?

 そしてこれから──空を飛び火を吹く存在相手に、ここからどうすれば。

 もう、あの大きな鳥はいない。

 空の生き物はいない──片目に満月を宿す竜だけ。

 硬直する空気の中で、動いたのは俺たちを見下ろす竜だった。

 その目がなんと言ったか、俺は分かった。

「…………やめてくれ」

「どうした? グラム」

 俺は竜を見つめて首を振る。

 返事はない。当たり前だった。

「やめろ」

 生きている者が俺を見た。

 人間と竜の死体が転がる場所で、一人だけ震え出す俺の肩を見た。

「やめてくれ……」

「おい? グラム!」

 陛下が俺の方を掴んだ。

 無理やり視線を奪われて、俺の真正面に空色の瞳が映る。

 ──今は見えない、ヘヴンリーブルー。

「なあ? なんだ? 何を聞いた?」

 今すぐ伝えないといけない。

 今すぐ動き出さなければいけない。

 なのになんで口が重い。強く肩を揺すられてやっと声が出た。

「──火を、放つと」

「は?」

 周りの視線が一様に俺に向いた。

「あの竜は、俺たちを殺した後に森から出て町に火を放つつもりです!」

「──は、は」

 陛下が空を見上げた。

 竜が息を吸い込む音がした。理解する。

「伏せろ!」

 その声は俺のものか、陛下のものか、それ以外のものだったか。

 とにかく俺は陛下を腕に閉じ込めて咄嗟に伏せた。

 途端、俺たちの上に炎が吐き出された。

 背中に感じたことのない熱さを感じて、額からは冷や汗が滲んだ。

 ぎゃ、と嫌な声も聞こえた。──間に合わなかったか。

 俺の腕の中で、髪を地に広げた陛下が笑った。

「ブロマンスだな」

「ロマンス(空想)ですよ」

 ああもう、笑う余裕があるのか。

 いや、俺たち臣下のためにこの陛下は笑ってくれるのか。

 さあどうしてくれようか。

 俺は身を起こし、陛下を立ち上がらせた。

 周りを見渡す。立っている者が少なくなった。

「陛下」

 竜は羽ばたきながらこちらを見下ろしている。

「グランビってこの辺にも住んでたりしませんか?」

「ないな。あの一匹だけだな」

 それは残念だ。

 どうやってあの空飛ぶ存在に剣を突き立てればいいのだろう。

 木に登って飛ぶ? あり得ない。

 剣は天には届かない。

 矢は届く前に落とされる。

 陛下でさえ、考え込んで黙っていた。

 それでも俺たちはこの目から光を失うわけにはいかなかった。


 耳を澄ませて勝機を探していたから──その音に気がついた。

 竜の羽ばたきは強く風を起こして、匂いを風に乗せた。森の茂みは、その風と違う揺れ方をした。

 葉がいくつもぶつかり揺れる音がして、背後にいた弓兵が後ずさりながら弓を構えた。

「獣か」

今敵が増えるのは厄介だと、陛下が眉間に皺を寄せた。

 ──けれど、俺には分かった。

 茂みを揺らす音の主の正体が。

「ああ!」こんな状況なのに、歓喜に声が震えそうになる。

 暗い森から現れるその姿は見えづらいが、俺には分かる。

 陛下が俺の顔を見た。

 俺は茂みから現れる存在を歓迎する。

「久しぶりだなあ」

 がる、と喉を鳴らして闇が動いた。

「グラム!」

 そして勢いよく兵と陛下を無視して俺に飛びついたのは、四本足の黒い影。

 俺は飛びついてきた影を撫でながら答える。

「大丈夫です、これは俺の友です」

 前足を俺の胸元に置いて、後ろ足だけで立つとほぼ俺と同じ高さだった。

 毛はところどころ泥でも跳ねたのか尖っていて硬い。──それでも懐かしい暖かさだった。

 元気だったか、と湿った鼻先を俺の頬に当てた。

 元気だったよ、と答えて三角に尖った耳の間の頭を撫でる。瞳は濡れた黒だった。

 野犬じゃなくて狼だったなんだな。

 その頭に顔を近づけると、緑の匂いの奥に焦げたパンの匂いを感じて──幼かった頃を思い出した。

 あの頃、俺と共に育った──四本足の母の温もりを分け合った俺の家族だった。

 一人か、と聞くと、前足を俺から離して大地に立ち、視線を森に誘われた。

 その視線に従うと、また茂みが揺れた。そして現れたのは、同じ黒を纏った、ニ匹の狼だった。

 元気だったか、と視線を交わす。

 大きくなったな、とお互いの姿に目を細めた。

「……おい、グラム」

 再会に浸ってしまった俺を、陛下の声が揺り戻した。

 はっとして周りを気にすると、周りの騎士や兵が俺と狼を見て困惑したような顔をしていた。

 俺といる様子に狼に対して警戒を解いてもよいかと、皆が矛先と矢印を向ける先に悩んでいるようだった。

「……この狼たちは大丈夫です」

 俺の傍に立つ狼の頭を撫でて言うと、皆は少し警戒を解いてくれたようだった。視線から険が抜ける。

「この森にいたんだな」

 あの日。

 もうずっとずっと、幼かったあの頃。

 指を折って数えられるようになる前の、小さかった頃。

 捨てられたのか救われたのか、路頭にいた俺を温めて同じ食べ物を分け合ってくれた四本足の野犬たち。

 俺が陛下に拾われて、人の名を与えられるまで、一緒に育った四本足。

 普段はもっと森の奥にいるが、風に乗った匂いで分かったようだった。……だからこの前は、試練の時は会わなかったんだな。

 あの頃母と慕って眠っていた野犬が一番大きかったのに、今は俺の傍にいる狼が一番体躯が大きい。──聞けばもう、亡くなったようだった。

「そうか」

 もうあの、泥の中のどこか甘い匂いと、焦げたパンのようなあの匂いは感じられないのかと、少し感傷的になって──

「グラム!」

 ──竜の息を吸い込む音と、陛下の声にすぐに地に伏せた。

地に伏せた俺の上に、狼は庇うように乗ってくれた。

 ああもう。まだ俺を家族だと思ってくれるのか。

 途端、ぼうっと竜が炎を吹く音がした。

 俺の上の狼がその熱に低く唸った。

 その炎は俺たちの上を掠め、森に届いた。

 炎は森に食い込み、燃やして破壊した──木々が倒れて、ぼうっと赤く光る。その火は、満月よりもその場を明るく照らした。

「森が……」

 ──俺たちを殺すためなら、どんな破壊も厭わないという竜の決意そのものだった。

 木が倒れることがする。葉が燃え移り、火の粉が風で広がってまた葉に燃え移って炎が暴れて木々が燃える。

 森から一斉に鳥が飛び立ち、獣たちは森から飛び出した。

 その高く燃え上がる炎の息吹は、もはや神々しささえ感じられた。

 森が炎に食われ、その悲鳴に俺たちは──人間たちは声を失う。

 ……この炎が町に降ったら。

 唖然とする意識を戻して、見上げる。

 月を背に悠然と、長い体躯に巨大な羽根を広げて、残った片目で俺たちを見下ろしている。

 ──約束を。

 竜が言った。その言葉が分かるのは俺だけだ。

 ──また違(たが)えたのは、お前たちだ!

 その目は、俺を同胞と言ってくれた目ではなかった。自分らより下等な生き物を見下ろす温度感のない目。

 一滴の安堵感さえも許さない目。

 言っただろう、と俺を見た。

 同じ目だ。毎朝鏡で見る目と、同じ目だった。

 なのに俺は、その目に返す言葉を知らない。


 羽ばたいて、竜が再び息を吸い込んだ。

周りの兵は伏せたが、俺だけはその言葉を理解して体が動かせなかった。陛下も同様に、伏せてと副団長に肩を掴まれていても、その視線は真っ直ぐに竜に奪われていた。

 上顎は天にも届きそうなほど大きい。

 覗く牙は、大地を砕けそうなほど鋭い。

──世界を終わらせてやろう。

 その竜の言葉はきっと、戯言(ざれごと)ではない。

 戯言(たわごと)とするにはあまりに獰猛が過ぎるから、ああこれは予言なのだとすぐに分かった。

 森が燃える音がする。

 足元が明るい。──ここに花畑があったのはまるで嘘のようだ。

 踏み躙られ、蕾の一つ首をもたげてはいない。

 葉が燃える匂いがする。嫌な匂いだ。

「…………竜はなんと言った?」

 俺は横にいる陛下に正直に言う。

「世界を終わらせようと」

「ははは!」

 こんな時でも、陛下はいつものように笑った。

 まあ、確かに笑うしかないな。

 陛下以外の人間はひきつって笑うことなど出来なさそうだがな。俺もだ。

 地にいる竜は全て殺した。

 天に浮かぶ竜には、この剣は届かない。

 せめてあの鳥(グランビ)がいたらまたと思うのに、その翼はもう陛下によって堕とされてしまった。

「なんとかなるか? グラム」

 また無茶を言う。

 それでも俺は、頷かなければならない。

 苦い顔で竜を見る俺に提言してくれたのは、俺の傍の暗い狼だった。

 俺と同じ黒い毛を持つ体が、頷いて震えた。

 なるほど。俺は狼の提案に目を細める。

 なるほど、それなら動けそうだ。

「……命令ですね?」

「ああ」

 ああもう、しょうがないな。

 陛下は俺に白い歯を見せて笑った。

「命令だ。なんとかしてくれ」

 かしこまりしましたと言って俺は狼の背に乗った。二言は言ってられない。

「御心のままに!」

 俺が乗るとすぐに黒い狼は走り出した。

 覚悟していたけれど、あまりの風圧にその毛を必死に掴んだ。

 力みすぎてしまったらしい。がる、と喉を鳴らして狼に呼ばれた。

 すまない、と軽く叩く。すまない──ありがとう。

 俺を乗せた大きな狼は、駆け出して風になった。

 いっそう大きくて重そうな体躯で、驚くような俊敏さだった。軽やかに走って、竜に近付いていく。

 届くわけがない。

 だから狼が言った言葉を、信じなかったわけじゃない。

 この背に乗れ、飛び上がらせてやろう、なんて言った漆黒の四本足を、信じなかったわけではない。

 だから、これは驚きだ。

 届くわけがないと思っていたのに。


 羽根のある竜は空に。

 羽根のない俺たちは地に。ただ足があるから駆け出せる──踏み出せる。


 竜に向かう狼の速度が段々と上がる。

 一体どこにそんな跳躍力があるのか、岩場を踏み台にして、高く跳んだ。

 一瞬、眼下に騎士たちが見えた──けれど見るべき上を見る。

 そして狼は後ろ足で高い木の上部を蹴り出して、より高く、跳んだ。跳躍というには高すぎた。飛行というには速すぎる。

 振り落とされないようにしがみつくのがやっとだった。

 今だ。

 蹴っていいぞと狼が俺に合図を出した。

 しがみついていた手を離す。剣を抜く。

 ああもう!落ちるときのことなんて知るか!


 俺は狼を蹴るように飛び上がり──竜の眼前。

 羽根がないのにこんなに飛べるんだな、なんて驚く。

 改めて巨大な存在を目の前にして振り上げた剣の軽さを知る。

 呪ってやるぞ、とその目が言った。

 呪ってみせろと俺は答えた。

 高く飛び上がった俺は竜の首に跨って──剣を振り上げて一気に打ち下ろした。

 ──その呪いの本当の宛先を、俺はずっと知らない。



「生きている者で持てる限り運び出せ」

 静寂に包まれた羽根の生えた巨躯の横で、兵と騎士が滝の裏の洞窟を出入りしている。

 その手で運び出される、竜の骨。

 森を燃やす炎は燃え広がっているから急ぐ必要があった。

 邪魔するものがいなくなって、洞窟に入った陛下は驚いたな、と言った。

 水晶のような宝石に変わりゆく竜一匹分の骨を見て、彼は笑わなかった。

 それから、これだけあれば十分だろう、と。

「足りなければ死体を解体する予定だった」

 と、いけしゃあしゃあと竜の死体を示して言ったから、とんだ国王だと肩をすくめた。

 神王だと巷では言われていたが、神殺しの間違いだ。

「…………それにしても、本当に成し遂げるとはな」

「陛下のご命令でしたので」

 血まみれになった俺の姿を見て、まじまじと陛下が言った。

 硬い竜の体に突き刺した剣は、折れこそしなかったが随分刃こぼれしてしまっている。とりあえず拭ったが、血肉の脂も拭いきれていない。

「戻ったら鍛冶屋を呼ぼう……この国一のな」

 陛下は俺にそう言った。

「名実共に、竜殺しだ」

 竜の最期の叫びは、大地を揺らした。

 俺を乗せてくれた狼は──かつての家族は、俺が地面に無事に(実際は騎士団の人間を下敷きにして)降りたのを見て、抱擁を交わし合った。

 かつて俺を育んでくれた温もりに安堵して目を閉じた。──あの日の方が脳裏に蘇った。

 獣嫌いの陛下だったが、追い払うこともせずに、彼らが森に消えるまで黙って見てくれていた。

 ふと血で汚れた俺の頬に滴が落ちた。

 足元が翳って、あれだけ煌々としていた満月が隠れて、光源が森で燃え盛る赤い炎だけになる。

「……雨か」

 空を見上げる陛下が言った。

 雨は水面に落ちて映る世界を揺らした。

 踏破された足元の草の色が斑らに濃くなっていく。

「雨ですね」

「ちょうどいい。これで火が消えるだろう」

 癒しの雨になるといいな、と陛下が言ったその雨は──俺たちを苦しめる雨となる。



第四章 竜殺しの騎士


 ──今日も降り止まないその雨で、城の空気は重い。


「……雨ね」

「雨だな」

 この国の最高権力者の二人が黙って俺を見た。

 黙っていた俺は、一度足元を見てから、溜息混じりに声を出す。

「……雨ですね」

 俺がそう言った途端、そうだな、そうね、と二人は何故か笑い合った。

 なんなんだ。

「……陛下、本日の鍛錬はよいのですか」

「こんな雨だと弓場は使えん」

 休む休む。休むぞと、陛下が顔の前で両手を振った。

 いつも陽の光を存分に取り込んで明るい書庫が、今日は──今日も薄暗い。

 あの日、竜を殺したあの日から降り注いだ雨は数日経った今も降り続けている。

 容赦なく地面を叩くように降るその雨は、森に燃え広がった炎を消した。

 そして、その大量の雨水は町の水路に溶かされていた毒を流してくれたようだった。

 だから恵の雨だった……とは思う。

 ただこの雨はもう──六日間降り止むことなく続いている。

「さすがにそろそろ太陽が恋しいな」

 陛下が肩をすくめると、太陽の髪が揺れた。

 確かに、もうずっと太陽を見ていない。……月もだ。

 どちらも昇っていないのではないかと思うほど、昼と夜の境はなく空は薄暗かった。

 目が覚めて、本当に今は朝なのかと何度も疑った。

 夜かもしれないと思いながら城の廊下を進むと、同じように窓の外を見て眉を寄せる家臣たちがいたから、朝なのだと分かった。

 雲は分厚く、まるで空と地を隔てる壁のようだった。

「そうね、これじゃあ花も咲かないわ」

 彼女が肩をすくめると、真昼の月の色の髪が揺れた。

 あまりの雨に、花は咲く前から首を落とされ、根を広げるその足は腐ってしまった。

 あれだけ花が美しく咲いていた城の庭は、ぬかるんで立ち入るのを躊躇うほどだった。


 あの竜殺しの後、陛下は竜の骨を使いに持たせてムースペイルへ出奔させた。

 骨の原型の残る美しく水晶に変化するそれを、向こうの王族はたいそう喜んだようだ。

 多くの屈強な傭兵と、綺麗な水で満たされた大量の水瓶も与えてくれた。

 これはありがたいことだった。水路の毒が流れたか確認が取れるまで、その水を配り城下の者に与えることができた。

 城の外で偵察、見張りをする者からも、ヴァルトの動きも止まっていると報告を受けている。

 この雨だ。視界は悪いし足元は最悪。当たり前だった。

 せっかく兵を借りたのだが、正直持て余している。

 一体この雨をどうしてくれようか、と。

 俺たち三人は窓の外に視線を投げた。

 雨の音が激しく聞こえる。ガラスを穿つような勢いだ。

 そうしていると、書庫にノックの音が飛び込んできた。

 陛下が返事をすると、召使だった。

 陛下はその姿を見て軽く手をあげて答えた。

「ああ、鍛冶屋が来たか……グラム」

「はい」

 陛下に出してもらった俺の剣が修理から戻ってきたようだった。

「行こうか」

「かしこまりました」

 俺は部屋の扉に手をかける。

「ありがとう」

 彼女が立ち上がって、扉を開く俺の前を通った。靡いた長い髪から、今は咲いていない花の匂いがした。

「ヨルは教会に戻るか?」

 陛下が俺の前を通り過ぎて、書庫から出る。

 部屋から誰もいなくなって、俺は扉を閉めた。

「そうするわ。さすがにそろそろ雨が止むように祈ってもいいかしら」

 本来、雨は大地を潤し命を芽吹かせる、感謝すべき対象だった。

 出来るだけ大地を濡らしてくれ、飲み水を与えてくれと願うのが筋なのに、あまりに長く強すぎる雨に祈りを届けざるをえない異例の状況だった。

「ああ、頼む」

 陛下はそう言って、側仕えたちと教会に向かう彼女を見送った。

 俺と陛下は並んで玉座の間に戻り、陛下が鍛冶屋から剣を受け取った。

「竜殺しを成し遂げたこれは、もはや魔剣といってもいいかもしれないな」

 だから、と陛下は剣の刀身を眺めた。

 傷一つなく整えられ、冴えた白銀は陛下の髪の色を浴びて美しく光った。

「だから、少し呪(まじな)いをな……紋様を刻ませてもらったよ」

 そして陛下は、再び俺に剣を与えた。

 それは恭しい仕草で、あの叙任式(アコレード)を彷彿とさせる丁寧さだった。

 帰ってきた俺の剣の刀身は、あれほど血と脂で汚れていたことが嘘かのように清らかだった。

 刃こぼれなく、まるで水のように滑らかな輪郭になった刀身に──美しい紋様が刻まれていた。

「その剣で斬るものはよく選べよ」

 まるで刃を使いたくないほどの芸術品になってしまった。しかし手に取れば馴染む、確かに俺の剣だった。

「かしこまりました」

 今更、斬るものなんて俺は悩まない。


 この時、俺はそう思っていた。

 ──だってそうだろう。

 この剣はあなたのための剣だったから。


 今は見えない空色の陛下の目を見て──今は見えない真昼の月の髪を思い出して、俺は剣を鞘にしまった。



 その知らせが来たのはその後のことだった。

「陛下!」

 飛び込んできた家臣は青い顔をしていた。

 何だ、と陛下が目を向けるとすぐにその家臣は口を開いた。

「ギョルド川上部の堤防が決壊したそうです! 念の為に屋上に避難してください!」

「──は」

 陛下はすぐに立ち上がった。

「なんてことだ」

 その知らせを聞いて、俺と陛下が一番に懸念したことは同じだった。

 だけれど、俺はそれを口にはできない。

「ヨルは!?」

 そう、すぐに彼女の名前を呼ぶことが許されるのは──陛下だけだ。

 歯痒い。そして何より、ありがたい。

「教会の者も屋上に避難を始めております!」

 さあ! と家臣に押されて、俺たちは急いで屋上に上がる。

 城の廊下はこんなにも長かっただろうか。

 窓の外の雨の勢いは衰えることがない。容赦がない。

「街の様子は!?」

「まだ詳細は分かりかねます!」

 くそ、と陛下が舌打ちをした。

 その汚い言葉遣いを今は誰も咎めない。咎められない。

 俺は陛下と家臣たちが交わす会話を聞きながら共に階段を上がる。

 彼女はもう屋上に無事にいるだろうか。

 何も気にせず駆け出したかった。

 俺の役目がそれを許さない。

 いつものように陛下は前を歩き、状況説明をする家臣たちがその周りを共に進んでいる。

 押しのけて進みたかった。

 なんでこんな──せめて陛下(あなた)が走ってくれたのなら俺も言い訳できるのに。

 階段を登り、家臣が屋上の扉に手をかけた。

 早く開けろ。

 その仕草にさえ声を出したい衝動を堪えた。

 数秒のことなのに、たった一秒でさえ今は長い。

 扉が開いて──

「ヨル!」

──一番に駆け出したのは陛下だった。

 雨に濡れることも厭わず、尊い御身が一瞬で雨粒に打たれる。

「リー」

 家臣たちが持つ傘の中に彼女は立っていた。

薄暗い景色の中で、彼女の白髪だけが鮮やかに目に映る。

 まるで真昼の月のように、目を引く。

 そんな光を体現するような彼女に、誰もが惹かれてしまうのは──当然だろうと思う。

 彼女の元に駆け出した陛下を、傘を持った家臣たちが慌てて追いかける。

 足元を濡らしながら陛下は進み、その勢いそのままに彼女を抱きしめた。濡れた体で、少し乱暴でさえあった。

 けれど──陛下にはそれが許される。

「無事でよかった」

「なんてことないわ」

 大袈裟ね、と。

 彼女が陛下の背中を優しく叩いた。

 それは穏やかな微笑みだったから、きっと苦しくなるほどには抱きしめていないんだろうな、と分かった。

 抱きしめる権利を得ているくせに、やはり陛下は優しかった。


「護国卿、傘を」

 家臣が俺にも傘を差し出した。

 抱き合う二人は、家臣たちに傘をさされて雨から守られている。

「ありがとう」

 俺は傘を受け取り、自分で広げて雨の中を進んだ。

 広げた傘を、容赦なく雨垂れが穿つ。その音が大きくて、二人の会話が聞こえなくなったから、いっそ傘を捨てたくなった。

 傘の柄を握り直して、二人に歩み寄る。

 石造りの城の屋上は水捌けが悪く、足元に水が染みて気持ちが悪い。

「……グラムも、無事で何よりね」

 陛下から放されたその身を彼女は、自分の髪を撫でてから俺にそう言った。

「……祈国局におかれましても」

 家臣たちが俺たちを見ている。俺はそう返した。

 彼女の長い髪は守られて濡れていない。

 それなのに瞳だけは濡れた草の色をしていた。

 その長くて白いまつ毛に、雨が垂れそうだな、と思う。

 会話はそれだけだった。雨の音に邪魔をされるせいだと思う。

 陛下は家臣に傘をささせて、鋸壁(きょへき)の間から町を見た。

 俺は彼女から視線を外して、自分で傘をさして陛下に後ろを進み、同じ景色を見る。

 雲が低く垂れ込め、雨は槌のように容赦なく落とされている。

「──なんてことだ」

 高い城からでも、その景色はよく見えた。劣化して亀裂の入っていた川の堤防から、水が広がったようだった。水は堤防から溢れ出して、勢いの増した川は氾濫している。

 川の水は周辺の土地を侵食していた。

 石畳で舗装された道や農地、住宅を飲み込んで大きなうねりのように進んでいた。

 屋根の上に乗っている人々もいたが、それも構わず飲み込まれて思わず顔を顰めた。

 洪水となったその川は暴れ、森の木々を引き摺りながら進んでいる。

 雨は容赦なく降り続け、その勢いを加速させるようだった。

 速度は早く、あっという間に城下町にも水は浸水してくる。

「城の門を開放して町の人々を急いで避難させろ!」

 陛下が指示を出すと、数名の家臣たちが雨の中走って階段を降りていった。

「毒が薄まっていたようで、まだよかった……」

 しかしそれでも──目に見えるだけでも、被害は甚大だった。

 空の色は、陛下の目の色ではなく俺の髪色ほどではない。誰の色でもないから誰の指図も受けないと言うような色の、厚い雲だった。



*回想 十五歳①



 その年は城下で流行病が猛威を振るっていた。

 俺の前で、玉座で足を組む陛下が一つ咳をした。

「すまない」

 陛下はすぐにそう言って、口元を拳で押さえたが、その咳は一つ吐き出されると堰を切ったように止まらなくなった。

 その様子を見て、家臣たちの間に緊張が走る。

 一人の家臣が水を運んできた。

 水を、と差し出された陛下は盃に入ったその水を飲んで──盛大に咳込んでむせた。

「陛下」

 がはっ、と喉に水と粘膜が絡まる音が陛下の口から漏れた。陛下は咄嗟に盃を盆に戻し、両手で口を抑える。

「すまない」

 咳き込みながら陛下は言った。

 口から溢れた水と咳を抑えるその両手に──血がついているのを、俺は見た。

「陛下」

 露骨に眉尻を下げた俺の様子に、旧い家臣が違和感に気づいたようだ。

「典医を!」

 家臣たちが忙しなく動き出した。

「大丈夫だ」

 ははは、といつものよう笑うが──その声は掠れていて力がない。休みましょう、と言われて陛下は部屋に連れていかれる。

「グラム、お前は大丈夫か」

「ええ」

 一人分というには大きすぎるが、身分を考えると相応なベッドに寝かされて、陛下は掠れた声で俺に声を向けた。

「わたくしは育ちが悪いので体が強く」

「はは……は!」

 その声にまた咳が混ざって、陛下の体が激しく揺れた。

 こんな時に笑わせるなと、駆けつけていた典医に睨まれる。

「剣士は寝室に不要だ。下がっていなさい」

「……扉の外にいます」

 そう言われて、俺は咳き込む陛下に背を向けた。

 すまない、と言う声はやはり細い。

 典医や家臣たちが寝そべる陛下を囲む。

「グラム」

 扉にかけた手が、その呼び声に引き留められる。振り向いたが、家臣たちに隠れてその顔が見えなかった。

「……彼女を頼む」

 ──陛下は。

 どんな顔をしたのか。

「……かしこまりました」

 見えなくてよかったと、思った。

 俺はそれだけの返事をして、先ほどいた部屋の扉に背を預ける。


 その流行病は死を招く。

 咳から始まり発熱し──まるで火に灼かれるような苦しみの中で死ぬ。

 発症して数日のうちに体を動かすたびに激痛が走るほど重い症状となるその病は、突然町に現れて流行した。

 それはきっと人間の原罪のせいだと、どこかの異端者は言い出したらしく、それを聞いた陛下は面白いなあと笑っていた。

「地獄の業火が現世に降ったというのか!」

 ははは! といつものように笑い飛ばしつつ、施療院の衛生環境を整えるため資金を潤沢に渡し、城に通いで仕事をする者にも金を渡して家で療養させた。

 しばらく城下には出ていなかった。

 それでもこうして──音もなく病は入り込んできた。


 扉の外から、窓を見て空を見る。

 雲は薄く、ガラス越しでも空は果てしなく青い。

 雨が降ることが少ないこの国は、いつも大体晴れ空だ。それでも食糧が豊かなのは、大いなる泉から流れる川のおかげで水には困らないからだ。

 空を見上げる俺の耳に、忙しない足音が複数聞こえた。

 廊下の奥から近づいてくるその足跡は女性らしくて軽い。ただ走る様子は淑女らしくはない。……それもしょうがないことだが。

「グラム!」

 長い服の裾を持って、駆け寄って聖女様が駆け寄ってきた。その様子を、家臣たちが追いかけてくる。

 名前を呼ばれて、目が合った。

 白髪がリズミカルに揺れている。

 俺は軽く頭を垂れた。

 彼女は俺を見ると立ち止まって、肩で息を整えた。肩に乗った白髪が、音もなく流れ落ちて彼女の体にそう。

「リーが、発症したって聞いたの……」

「……つい先ほど」

その熱くなり死に至る症状から、赤死病(せきしびょう)と呼ばれていた。熱で顔が赤くなるからだ。

「……まだ赤死病と決まったわけではないですが」

「けど、咳に血が混ざってるんでしょう?」

「……ええ」

 俺の言葉は気休めにもならなかったらしい。

 咳に血が混じるのは、赤死病の特徴的な初期症状だ。

「今典医が診ています」

「……そう」

 彼女の肩が落ちた。

 感情のまま露骨に落ちた細い肩は、支えがなければ折れそうだった。

 ──腕を動かしたい衝動を、拳をつくってこらえた。

 彼女の傍にいる家臣が、落ち込む彼女の肩を支えた。

「お気持ちは分かりますが、入らない方がよろしいかと……」

 家臣の言葉はもっともだった。

 流行病になっただけあって、それは感染力が強いようだった。

 項垂れる彼女にかける言葉を探すが、やはり俺の探し物は見つからない。

 先に言葉を拾い上げたのは彼女だった。

「貴方は大丈夫なの?」

「ええ……丈夫なので」

 それはよかった。と、彼女は笑わなかった。

「貴方までかかってしまったらと、思うと」

 彼女の目が伏せられて、白くて長いまつ毛がその顔に影を落とした。

 それはどういう意味だ。

 その先はどんな言葉だ。

 震えるまつ毛の理由を聞きたい。

 あなたの顔に影が落ちた理由を知りたい。

 ──やっぱり言葉は見つからない。

「教会に戻るわ。祈ることしか、できないわね」

 それは立派な彼女の務めだった。

 俺は頭を下げて、祈国局である彼女の肩に敬意を表す。その細い肩には、国中の祈りが預けられている。

 彼女は俺の言葉を待たず、長い服の裾を翻して家臣たちと教会に戻るため廊下を歩き出した。

 その背中が消えていったのを見て、俺はまた空に目を向けた。

 真昼の月はない。

 ──今夜は新月か。


 夜になり、城はいつもに増して静かだった。

 まるで怯えるかのような不気味な静寂だった。

 いつもは小声で会話をする蝋燭番も、他愛無いお喋りさえ許されないと分かっている様子で、誰もが口を閉ざしていた。

 ──まるで葬式の前だ。

 自室に戻っても息が詰まると、俺は中庭を散歩している。

 こんな時でも人間以外は雄弁だ。

 鳥は俺に喋りかけてくる。

 一日中緊迫した空気だったから、俺にとってもいい気休めになった。

 月明かりはなく、星は瞬いているがいつもより輝いていない気がするのは──俺自身のせいか。

陛下の容体は芳しくない。

 柔らかな芝を踏みしめ、俺の傍を飛ぶ鳥と会話をしていると──鳥は突然高く飛び上がり俺の視界から姿を消した。

 人の気配が。

 教えてくれた先へ進むと、それは人影というには明るい人形(ひとがた)のような人物だった。

「何をなさっているのですか」

 木の根に座り込むその人物に、俺は声をかける。

「…………貴方を待っていたのよ」

「は!」

 見上げられた緑色の目が、透き通るように綺麗で、思ってもいない声が出てしまった。

 彼女は俺の声に、何よと不満げに頬を膨らませた。

「寂しいと思っちゃいけないの?」

「いやもう、それは……」

 しまった。

 ああもう、と手を伸ばそうとして行き場がなく困ってしまう。

 ああもう。

 あなたのその目に──不意に映ったせいなのに。

 足元を見ても言葉は落ちていない。

 上を向いても、声も流星も降ってこない。

 彼女は木の根で抱えた膝に顔を隠して座り込んでいる。

 ああもう。しょうがない。

「……どうしたんですか」

「…………」

 返事はない。

「祈国局」

 不敬だが催促する。

「………」

 返事はない。

「聖女様」

 不躾だが呼びかける。

「……」

 返事はない。

「…………」

 俺の方が言葉を失ってしまう。

 はあ、と分かりやすく溜息をついたら彼女が顔を上げた。

「名前で呼んだらどうなの?」

「…………は、あ……」

 最後に疑問符をつけそうになって、この返事を慌てて重そうな吐息に変えた。この返事が不満だったらしい。顔を上げて頬を膨らませた。

 とにかく。

「顔を上げていただいてなによりです」

「ずるいわ」

「どこがですか」

「全部よ」

 彼女は不満げに眉間に皺を寄ているが、ずるいのはいつだってあなたの方だ。

 俺はやっぱり何も言えず、分かりませんねと言うように肩をすくめた。

「祈国局の私は、今日の空と同じ食事。断食でお祈りよ」

「……そうですね」

 今更、何を。

 彼女はスッと立ち上がった。服の裾についた草葉が落ちる。

「私の祈りは、意味があるわよね?」

「もちろん」

 その返事には迷わなかった。

「私の願いは、叶うわよね?」

「もちろん」

「…………私たち、ずっと一緒よね?」

 ──それは。

 視線を外そうとした。けどあまりにも強い光に、惹かれたように目が逸らせなかった。

 月は見ていない。

 星だって瞬くから、きっと見逃してくれる一瞬があるはずだ。

「あなたが」

 だから口を開くしかなかった。

 唇が乾燥して、言葉は割れ出るようだった。

「あなたが望むなら」

 流れ星が願いを叶えてくれるなら、きっと俺は必要ない。

 流れ星が願いを叶えるとは限らないから、俺はあなたの騎士だ。

「……ありがとう」

 十分だわ、と彼女が俺の横を通り過ぎた。

「お腹いっぱいになったわ」

「……今宵は断食ではなかったですか」

「貴方って、やっぱり紳士じゃないわね」

 まったく意味がわからない。

 彼女は俺から数歩離れて進み、振り向いて笑った。

「戻るわ、グラム。おやすみなさい」

 ──あまりにも。

 あまりにも、花が咲いたような笑顔だったから、送りましょうか、と準備していた言葉をとうとう言えなかった。



 次の日の朝。

 俺が陛下の寝室に行くと、柔らかな表情をした家臣たちが俺を見て部屋の扉を開けてくれた。

 素直に通されると思わなかった。

 そして家臣たちのその顔に違和感を覚える。

「おはようございま──」

「ははは! グラム! いい朝だなあ!」

 部屋に入った俺に、その声は勢いよく飛んできた。

「……陛下?」

 鳥が花の種にぶつかったように目を丸くする俺の顔を、陛下はいつものように笑った。

 その様子は、強がりでも空元気でもなさそうだった。

 部屋の隅にある典医の様子が、それをよく裏付けていた。

「もうすっかり治った! あれほど熱かった体も嘘のようだ!」

 嘘だろ。一体なぜ──そんな、そんな。

 赤死病の致死率はほぼ百パーセントだ。

 なぜならそれが原因で死んでしまうか、それが死因でないなら先に腹に包丁を刺すしか逃れる術がないほどだ。

「ヨルのおかげだな!」

 陛下が白い歯を見せて笑う。

 ──ベッドサイドに、美しい意匠が凝らされたガラスの盃があった。

「祈りを捧げた葡萄酒を夜に届けてくれたんだ!」

 そのガラスの底には、赤黒い液が少し残っていた。

 確かにそれは、葡萄酒に似た色をしているが。

 だが。


 ──なんてことだ。

 俺は血の気が引いた。

 陛下は血気盛んとはがりに朝日を浴びて伸びをしている。

「さすが奇跡を起こす、我が国の祈国局だ!」

 笑う陛下に、俺は答えられなかった。

 なんてことだ。なんてことだ。

 昨夜、彼女を教会まで送らなかったことを──俺は死ぬほど後悔した。



*現在



 彼女は奇跡を起こしたんじゃない。

 彼女の存在こそが奇跡なんだ。


「なあヨル」

 雨が降りしきり洪水に破壊された街から避難してきた民の存在で、賑やかになった城内。

 それでも玉座の間に立ち入るのは、臣下と俺たちだけだ。

「なにかしら?」

 足を組んで玉座に座る陛下の横で、対の椅子に行儀よく座る彼女は首を傾げた。

「祈ってくれるか」

 奇跡を。

 陛下は彼女に──そう言った。

「かつて赤死病を一蹴したように──奇跡を起こそう」

 あの頃。

 致死率百パーセントの病から復活を遂げた陛下は民に希望を与えた。

 病を運んだと思われる害獣を町から駆除し、水路を整備し衛生環境を整えた。

 僅かにいた野犬や鼠などは町から姿を消した。

 ……ああ、だからあの狼も森に住んでいたのか、と思い出して今更合点がいく。

 そのおかげか病は収束し、以後赤死病にかかる者はいなくなった。

 それが陛下の偉業の軌跡だった。

「この国には神がついている!」

 ヘヴンリーブルーの瞳を細めてそう笑った。


 相変わらず雨の勢いは衰えない。

 まるで剣が降り注ぐようだった。

 城の屋上から見える町のほとんどは浸水していた。

 北部はほぼ濁流に飲まれ、城下はやや水に食われる程度で済んだのが救いだった。

「……そうね」

 その日の夜、新月でもないのに──月は見えなくて分からないが──彼女は断食をして教会に籠った。

 祈国局が祈るなら、きっと大丈夫だと。

城中に避難している民たちは、安心していた。

重い安堵感だった。



 七日目の朝。──雨は止んだ。

 久しぶりに昇った太陽に、安心するより恐怖感を感じた俺は陛下の寝室ではなく教会に向かって駆け出した。

「おはよう、グラム」

 いきなり朝に訪問した俺に、教会の者たちは怪訝そうな顔をしていたけれど、俺を見た彼女はすぐに顔を出してくれた。

 その表情はいつもと同じだった。

 ──あの日の朝、痛々しい顔で笑う顔ではなかった。

「おはようございます……祈国局」

 だから俺は、素直にそう挨拶を返すことができた。


 聖女の祈りは本物だと、民たちは踊るように城を出てそれぞれの生活に戻ろうと出ていった。

「伝説通りの存在だ!」

 ああそうだ。……そうだとも。


『ひとさじの血で傷を癒やし、杯の血で不治の病さえ治してしまう』


 これ以上は思い出したくなかったのに、何度も読んだ伝説だったから、自然と脳裏に蘇る。

『そしてその血をすべて賭せば、枯れた大地でさえ蘇る』

 大丈夫だ、と窓の外を見る。

 まだどこもかしこも濡れているし、靴のソールが水に沈むほど残ってはいるが──きっと大丈夫だ。

 この大地は枯れていない。

 陛下に腕が鈍りそうだ、弓場に行くぞと声をかけられて──お供しますと久しぶりに屋根のない外に出た。

 太陽の光は、やはり陛下と同じ髪の色だった。



***



 災害というのは予告がない。

 もしくは人間は気付かない。

 だから予言を求めて占者を抱えるのだが、当代の国王陛下はそれをしていない。

 曰く、黄金の髪を持つ俺に神の宣託など不要と。

 何があっても陛下はそれを悔いたことがなかったと日記に書いておこう。

 この日記帳もそろそろ残り少ないな、と俺は部屋で残りのページを確認する。

 ──さて、雨が止んだ続きを書こう。

 俺は状況を整理したくて、こんな状況にも関わらずペンを取っている。



 騒々しかった城内が落ち着いて、皆が晴れた空に胸を躍らせた。

 青空と濡れた大地の緑は、まるで人々を外に誘うようだった。

 未だ路面は薄く水が張っていて、家と家の間に洪水で運ばれてきた木々が倒れている。

 無事だった人々は喜びを分かち合いながら、なんとか生活を立て直そうと励まし合っている時だった。

 大地がかすかに震えた気がする。

「なんだ?」

 陛下が弓を下げて視線を宙に彷徨わせたから、俺の気のせいではなかったようだ。──竜を倒した時に、その咆哮のせいかと感じた揺れだった。

「……竜?」

「まさか。生き残りでもいたというのか」

 だとしたら厄介だと、舌打ちの理由は陛下らしい。

 そんな気配はないが、いやに空気が張り詰めている気がする。

 弓場から見えた空に、一斉に木から飛び立った鳥たちの姿が見えた。どこか獣たちの忙しない気配がする。嫌な予感だった。

 まるで大きな獣がすぐそこにいるのに──姿が見えないような、肌にまとわりつく嫌な感じ。

 鳥たちの声を聞こうと、空をよく見て耳を澄ませて、俺は気付いた。

「……狼煙?」

「どうした? グラム」

 陛下が俺の視線を辿って──そして、手に持っていた弓を叩きつけるように落とした。

「ヴァルトか!」

 それは鉱山のある方向から上がっていた。

 山頂から白い煙がゆっくりと立ち上っている。

 まるで晴れたばかりの空に糸を引くかのように、煙は高く上っている。

「くそ! 雨が上がってすぐ仕掛けてくるとは!」

 高山の警戒を緩めたわけではない。ただこの目まぐるしく、激しく変わるこの状況になかなか手が回っていなかったのが現状だ。

 ヴァルトにもこの災害のような六日間の雨は降り注いだだろうに──動き出すのがはやすぎやしないか、と。

 家臣を呼びつける陛下の声を聞きながら、俺はまた空を見て──その白い糸が灰色の巨塔に変化するのを見た。

 ……違う。

 あれは、狼煙なんてものじゃない。

 家臣に話しかける陛下の声を、不敬とかそんなことも考えず遮ってしまったのは違和感に気づいてすぐ。ほぼ反射だった。

「陛下」

「なんだ? グラム……」

 陛下が再び、俺の視線を辿った。

 さらに立ち上る白い狼煙かと思ったそれは、灰色の噴煙に姿を変えていた。

「屋上に! 高いところから確認したほうがよさそうだな!」

「そうですね」

 俺と陛下は、ほぼ駆け出すように城内を進んだ。家臣たちが俺たちの跡をついてきて、騎士団のものも確認のためにと呼びこんだ。

 その間に一度、足元が揺れた。

 俺たちを追いかける家臣が数人躓いた。

 なんだ。

 大地が揺れるなんて──こんなのまるで、怒りそのものじゃないか。

 最期に見た竜の顔を思い出す。

 俺と同じ金色の目。呪いをかけると睨んだ隻眼。


 彼女のところに行きたい。

 何が起きているのか分からない。

 連れて行ったら逆に危険に晒すかもしれないけれど、それでも姿が見えないほうが心配だった。

 けれど陛下は迷わず階段を駆け上がっている。

 教会に行く気はないようだったから──俺も同じように進むしかない。


 俺が一歩先んじて、屋上の扉を叩きつけるように乱暴に開けた。

 鋸壁に駆け寄り、近くなった空を見る。

 ──青空は束の間だった。

 煙は山の頂上付近からだった。だんだんと色濃くなるその灰色に覆われて、空はどんどん暗く染まって行った。

「ヴァルトじゃない……」

共に駆け上がってきた騎士団の者の声だった。

「そんな可愛いものではなさそうだな」

 副団長がその声に答えた。

 低く重たい獣の声だと思ったら、それは地響きだった。山の頂上から噴く煙が暗くなり、空を覆って太陽の光を奪い去った。

 目の前の景色が暗くなり、自分の影さえも分からなくなる。

 一番先に気がついたのは俺だった。

 花粉のように書物で見た雪のように、それは落ちてきた。

 指先で触れると、砂のように容易く崩れて、触れた指先に白い跡を残した。

「……灰だ」

 広げた手のひらに落ちたそれを、陛下が見た。

 空から舞い落ちてきたそれは、灰。

 俺たちはなんでそんなものがと不思議さに顔を見合わせた。

 これはやばいな、と陛下が呟いて、顔を上げた。

「急ぎ町に戻った者を城に避難させろ!」

 突然、山から真っ赤な閃光が迸った。

 一瞬影も残らないほどに明るく照らされた。

 落ちてくる灰の中に、固いものが混じる──手のひらを広げると落ちてきたそれは、石。

 灰色に染められつつある町の景色を背景にして、鉱山から竜の炎を思わせる赤いものが勢いよく噴き出された。

「溶岩だ!」

 そう言ったのは、ムースペイルから呼んだ傭兵だった。

 その言葉を聞いた陛下の目が鋭く光る。

 ──溶岩。

 あれが。

 岩をも溶かす、輪郭を持った灼熱の炎。

 舞う微細な灰が景色を染めようとしている中、その溶岩は噴き出して山の斜面を川の水のように流れ下る。

 まるで化け物だった。

 それは山肌をゆっくりと、しかし止まることなく、町に向かってくる。

「町のものを城に避難させろ! 早く!」

 陛下が指示を出す。

 なあ、──なあ彼女は。

 早く言ってくれ、陛下(あなた)が言い出してくれなきゃ、俺は言及できない。

 まず彼女のことを考えてしまったなんてバレるようなことを、俺が口に出すわけにはいかないんだ。

 陛下は家臣たちに的確に指示を出して、俺の頭を占める彼女のことに言及したのはやっとのことだった。

「教会が一番安全だろう、そこで過ごしてもらっているほうがいいな」

 ああ──駆けつけることも呼び寄せることもできないのか。

 陛下の顔を見ると、苦虫を噛み潰すような顔をしていたから、きっと俺たちは同じ気持ちだった。

 だがしかし、それを表情に出せる陛下が羨ましい。

 俺はできるだけ表情を変えずに、すべての言葉を聞いていた。


 ──彼女が今どんな顔をしているのか。

 あの日の夜、木の根元で一人で座っていた時に見せた顔じゃないといい。

 許しがなければ、駆け寄ることもできない。

 陛下は──俺たちは、避難指示を出すのが精一杯で、それ以外になす術などなかった。

 轟音に大地は震え、噴煙は空を覆って再び俺たちから影を奪った。昼だったのが嘘のように、空が暗い。

 気がつけば灰は袖肩の色を変えるほどだった。手で叩いて払い落とす。

 陛下の頭に積もった灰に気がついて、家臣に傘をさすよう伝えた。

 やっと傘がさされて──そしてまた、山から轟音が響いて大地が揺れた。

 噴煙の切れ間から見えた山頂は、燃え盛って輝いていて、まるで大地の王冠のようだった。

 終わりの見えない噴火。

 空からは灰だけでなく重く尖った石が混じり、俺たちは屋上から避難して屋内に入る。

 もはや溶岩がここまで来ないことを──噴火が収まることを祈るしかない俺たちの後ろで、窓ガラスが割れた。

 火山弾だった。

 足元に落ちてきた破片を見て、まるで破城槌だな、と陛下が笑った。

「さすがに──なす術がないな」

 戦術をどれだけ知っていても、これはもう敵わないと陛下はいつも通りに笑った。

 神の鳥にも神話の竜にも屈しなかった無敵の陛下は、それでもいつものように笑った。



*回想 十五歳②



「お待ちください!」

「いやよ!」

 朝。

 一晩明けて病は治ったが──念のため今日一日は療養することになった陛下の部屋を出て、俺は教会に向かった。

 朝早く現れた黒髪の存在に、教会の者は露骨に顔を顰めた。

 祈国局に会わせてくれと言うと、朝早く何事かと渋られる。

 理由を言うわけにもいかず、言葉を濁していると、その人物たちの奥で──一際目立つ白い頭髪が現れた。

「あ」

 入り口にいる俺を見て──あろうことか、俺たちと教会の者の横をすり抜けて外へと飛び出した。

 祈国局、と俺を阻んでいた人間かわ叫んだ。

「追ってきます!」

 教会の人間は俺の手を掴んで止めようとしたが──足の速さは自信がある。

 俺はその手に捕まることなく、彼女が走り去った方向に向かって駆け出した。

 足の速さには自信があるが迷路を解くのは陛下には敵わない。逃げてくれた先が生垣迷路のある中庭でなくてよかった──と思う。

「お待ちください!」

「いやよ!」

 走り追いかけながら、だんだんと俺と彼女の距離は近付いていく。

 芝生を踏む音は小気味よく、朝早くから勤める庭師の横を彼女が──そして俺が通りすぎた。

 ああ、もう。

 もう何回言うんだろうか。

「お待ちください!」

「いやよ!」

 聖女にあるまじき跳ねっ返りだ。

 俺は走る彼女を追いかけて、だんだんとその髪に手が届くほどの距離になる。

 真後ろに迫る俺の姿に、きゃあ、と彼女が小さく悲鳴をあげた。誰のせいだ。

 芝生を踏みしめる感触は心地よく、音は一定のリズムと、呼吸は二人分。

 花の匂いは、少し濃い。

 俺が走るほどに近付いて、手を伸ばせば彼女の手にきっと届く。

 ──なんと言って引き留めよう。

俺は息を吸い込んだ。

「ヨ──」

「ヨル!」

 吐き出そうとした言葉は同じだったのに、それは俺の声ではなかった。

 彼女の体がピタリと止まった。

 慌てて俺も止まる。というよりは、驚きに体が固まった。慌てて止まったが、彼女の体になんとかぶつからずに済んだ。

「リー!」

 城の廊下に、陛下の姿があった。

 彼女は駆け寄り、その姿に俺はその場に跪く。

「グラムも! ははは! まったく、何をしているんだお前たちは!」

 名前を呼ばれて顔を上げると、彼女はもう陛下の傍にいた。

 その近くにはいつもより多い家臣の姿がある。……体調を心配しているのだろう。

「起きられて大丈夫なのですか」

「ああ」

俺が声をかけたのに、陛下は彼女を見て返事をした。

「礼を言いにきただけだ。──ヨル、昨夜はありがとう」

「いいのよ……よかったわ」

 彼女は陛下と視線を交わらせる。

 やや冷たい水色の瞳と、暖かみのある緑の瞳。

二人が並ぶと美しい色合いだった。

「一晩で……飲んでたちまち治って驚いた。あれはどこの葡萄酒だ?」

「えーっと」

 陛下に聞かれて、彼女が顎に手を当てた。

 ……さりげなく俺を見るなよ。

 彼女のリアクションに、嫌な予想が当たっていたことも分かってしまった。

 だから俺は──耳を澄ませた。聞こえた。

「陛下」

「どうした? グラム」

「……後ろに鼠がいます」

 俺が目線で指し示した、その後ろの壁際には──小さな鼠が一匹。

「うお! まったく」

 獣嫌いの陛下は、驚きに肩を話させてから、いつものように顔を顰めた。

 家臣たちも同じように顔を顰めて、追い出そうとしたようだが──赤死病を媒介させたのは鼠じゃないかと賢者が言い出した矢先だったので、触っていいかと考えあぐねているようだった。

「……教会まで送れずにすまない、自室に戻る」

 陛下は溜息を吐いた。

「頼んだぞ、グラム」

 ──それは。

 俺は横目に彼女の顔を伺った。

 目が合ってしまう。

 ──その言葉は、鼠のことか、彼女のことか。

「……かしこまりました」

 俺が返事をすると、軽く手を振って陛下は自室の方へ戻って行った。

 俺は足元に声をかける。

「……おい、ここを出た方がいいぞ」

 鼠は俺の声に、なんで自分がと首を傾げた。

 一体どこに行けばいいんだ、と聞かれる。

 そう聞かれて俺が言葉に詰まっていると、視界の端で白い糸が揺れた。

「ありがと……その鼠はどうしたの?」

「とりあえず陛下の目につくところからは出た方がいいぞと説得してるんですが」

 新しく住む場所に困るようで、と俺が鼠の言葉を代弁すると、あら、と彼女は閃いたようだった。

「教会に住めばいいわ。奥の方なら人は来ないし」

「いや、それは」

 否定しつつも、妙案だとは思った。

 ずっと城にいた鼠なので、赤死病の菌は持ってはいないはずだ。

 鼠は俺たちの会話でもう許可が出たと勘違いしたようだった。教会の方へ駆け出してしまった。

「あ」

「賢いわね。ほら、追いかけましょ」

 彼女が鼠を追いかけるように──というには余りにも小さな歩幅で歩き出した。

 だから……鼠を追わなきゃいけないから、彼女と教会に戻るのはしょうがないことなのだ。

 俺も彼女を追いかけるように歩き出した。

 小さな歩幅はやはりすぐに追いついた。

 それでも隣ではなく──斜め後ろを歩く。

 彼女の影を守るように。これはこれでもう十分だった。


「……で、なんで逃げ出されたのでしょうか」

「鼠が?」

 彼女の返事は白々しい。

「…………あなたが」

 俺から。

 俺が答えたのに、彼女は黙ってしまった。

 何故か歩く速度を落としてくるので、並んでしまいそうになる。

「……貴方はその確認に来たのよね?」

「そうです」

 彼女の予想通りだ。

 俺は──彼女が葡萄酒だと言って陛下に渡したものの正体を問い正しに来た。

 何も言わないそのリアクションで分かった。俺の予想は残念ながら正しいらしい。

 彼女が葡萄酒だと偽って渡したのは──彼女の血だ。

「……なんで」

 盃いっぱいの血を流すなんて、相当深く切ったはずだ。なあ、相当痛かっただろう。

「……傷なんかないわよ」

 だって。

 彼女はそう言葉を続ける。

「だって、私──そんなの治るもの」

「そういう問題じゃないでしょう!」

 思わず大きな声が出た。

 ハッとして周り確認する。少し先を行く鼠以外に気配ない。

 目の前の彼女を見ると、目を大きく見開いている。

 その瞳は水面に落ちた葉のように揺れていて、しまった、と思う。

 ──乱暴なところなんて、見せたくなかったのに。

「何が問題なの?」

 真正面に見つめられて、俺の方が目を逸らしてしまう。彼女は俺に屈せず、怯えず、毅然とそう返してきた。

「……ですから」

 ああもう。分からないのかよ。

「傷は治る。血はまた創られる。……リーも治った! 何が問題なの!」

 俺の問題なんだ。

 そう言いたい。

 肩を震わせて、自分より身長の高い俺に怯むことなく強気に言う彼女に──自分を曝け出してこう言ってやりたい。

 あなたの問題は俺の問題なんだと。

 だからこれは俺の問題なんだ。

 ──あなたに傷をつけないと誓っていたなのに、何もできなかった俺の問題なんだ。

 けれどこれはきっと暴論だ。

 彼女に直接言える言葉では、ない。

「……そうですね」

 俺の立場では、もう何も言えなかった。

 途端に彼女も肩を落として──何も言わずに俺に背を向けて歩き出してしまった。

 慌てて彼女の影を踏んで追いかける。

 影では、その体のどこに傷がついたのか、分かりようがなかった。

 それでも影にしか交わることができなかった。



*現在



「──そんなこともあったな」

 俺は毎晩つけていた日記帳を閉じた。

 見返したくなって開いていたが、この日記は彼女のその体の証明になってしまうな、と今更気がついた。

 燃やして捨てた方が良いだろうか。

 ……いや、作り話だと思われるだろうか。

 悩むくらいなら燃やしに行った方がいいな。

 明日の朝一で、起きたら陛下のもとに行く前に庭で燃やそう。

 俺はそう決意してベッドに体を預けた。

 幼かった頃、俺がまだ数え方すら知らなかった頃。

 ──路地裏で餌を求めて野犬たちと彷徨っていた頃を思い出す。

 屋根はなかったし、寝床の確保だって大変だった。

 それでも、自分以外の体温を感じながら、自分以外の生き物の寝息を聞いて、穏やかに上下する腹に体を預けて眠るのは──気持ちが良かった。

 路地裏で陛下に見つけられて、それから──ついぞ。ついぞ今日まで。

 誰の温もりを知ることもなく、よく一人で眠れているなと。

 陛下と違って狭いベッドに、少しだけ俺は感謝した。

 もしもと考えてしまうことはある。

 このベッドに一人以外で眠ることがあったなら。寝息が二つ並ぶことがあったのなら。

 ──……けれどそんなことを言ったら、そもそも前提条件が違って、物語なんて始まらなかったから。

 だから。

 俺は、俺たちはこれでよかったんだと、一人用のベッドで丸くなって目を閉じた。


 きっとあの手を掴むことがあったなら、二度と放してやれないし。

 きっと共に眠ることがあったのなら、二度と目覚めなくたっていいとさえ思うのだから。

 だから俺はこれでよかった。

 ──十分だ、と。

 眠りに落ちる前に、真昼の月を思い出した。


 一度だけでも俺に触れて名前を呼んでほしい。

 一度だけでも、あなたの名前を呼ぶことを許されたい。



 俺の朝は早い。

 尊い身分のあの御二方と違って身支度は一人で済ませるし、朝食は粗食だ。……といっても、ここ数日はあるだけマシだ。

 むしろ俺の分など構わなくてもいいというのに、家臣たちが自分の分のパンさえも減らして渡してくるのだから、俺も相当期待されているようだった。──この状況を打破することを。

 黒パンを食べて部屋を出る。

 その前に思い出して日記帳を手に取った。

 誰かに見られてはいけないと、服の中の腹のあたりに隠して、廊下に出た。

 いつものように陛下の部屋に行く前に、今日は庭に出る。

 庭に出て念のため、口元を持っていた白いハンカチで覆い隠した。

 元々持ち歩く習慣などなかったのだが、ここ数日でしっかりとそれを持ち歩くようになったから、必要な時は人間しっかりしているのだなと思う。

 屋根のない場所に出ると、白く舞い飛ぶそれは俺の頭に、肩に柔らかく落ちる。

 ──灰だ。

 いつでも瑞々しかった城の芝は白く覆われ、その上を進む足音は耳に慣れない。

 踏破すれば緑の若草が顔を出すかと思ったが、灰に埋もれて息が詰まったのか、灰の下で緑だったその色は茶色く──そして白く変わり果ててしまった。

 庭を進む。

 ──枯れてしまった。

 視界に入る木も、葉を全て落として細い枝を露わにさせている。

 ──朽ちてしまった。

 井戸の傍の厩を通り過ぎる。

 俺の気配に馬達が鳴いた。餌をくれと、放してくれと言っている。──もう随分餌を貰っていないからだ。

 通るんじゃなかったな、と後悔した。

 無駄に鳴き声を出させて体力を使わせて、可哀想なことをしてしまった。

 俺はその鳴き声を無視して通り過ぎた。チラリと視線を投げれば、誇り高い黄金の馬と、俺の愛馬だけは黙っていた。

 ……分かっているようだった。それが余計に胸が痛い。

 ある程度離れたところで、俺は立ち止まる。

 頭と肩に積もった灰を軽く払い、火をつける準備をしようとしゃがみ込んで──

「ここにいたか! グラム!」

 城の方から、駆け寄ってくる人物がいた。

 傘をさそうとする家臣達よりも足早なせいで、黄金の髪の毛に白い灰を乗せながら進んできた。

「陛下」

 俺は立ち上がり、軽く頭を垂れる。

 追いついてきた家臣が陛下に傘をさした。

「こんな朝早くに、何をしようとしていたんだ?」

「そうですよね………朝、なんですよね」

俺が空を見上げると、陛下も同じように空を見上げた。ああ、と返事をくれたその顎が上がる。

その顎にも、俺と同じように口元を隠す白い布で覆われている。

 ヘヴンリーブルーの瞳が細められた。

「朝のはずだな」

 見上げた空は、厚い雲に覆われていて暗い。

その雲から落ちてくる白いものは、あの噴火による白い灰。

 陛下の瞳と同じ空の色ではなかった。

 あの大雨の続いた六日間よりは静かで、それでも確かに暗い空。静謐で穏やかな闇。

 昼と夜の区別がない日がやってきて、それがまた数日続いていた。

 太陽も月も──どうやらすっかり闇に食べられてしまったようでさえあった。

 空を見上げる俺たちの沈黙の上に、灰は降り注ぐ。

 鉱山の噴火は、この国の半分を燃やし──いや、もはや原型なく溶かした。

 その溶岩の広がり方から、ヴァルトもきっと同様の被害を受けただろうと思われる。

 もはや戦争どころではなくなった。

 賽は放り投げられ、見つけられなくなってしまった。

 休戦にしようと言葉を交わしたわけではないが、ここ数日は手を出すことも──手を出されることもなかった。

 向こうの王が愚かではないことは分かっていたから、陛下もヴァルトに大して侵攻する気もないようだったし──それを行う力は、もうこの国にはなくなった。

 空の光を地に届けさせまいと頑なな雲だから、きっとこの灰はムースペイルにも届いているだろう。

 もう今更、何から助けを求めればいいのかすら分からなかったし、下手に動けば国ごと取り込まれる恐れすらもあるから、身動きが取れなかった。


 溶岩の被害に、国土の殆どが犠牲になった。

 そこに民が住んでいたことすらもはや分からない。そんな跡形になってしまった。

 大量に降った火山灰は川にも降り注いだ。その灰は除去しようとしてもしきれるものではなく、飲み水にも困ってしまった。

 また、噴火と同時に何か有毒なものが出てきたのだろうか──逃げ残った民も咳き込み胸を抑えて倒れ、呼吸に異常をきたして亡くなってしまった。

 豊かな水源は灰釜となり、もともと洪水でダメージを負っていた田畑は跡形もない。

草木も呼吸ができずに枯れてしまった。

 生き物のいない町。呼吸のない町。

 もはや国と呼べる代物ではなかった。

 民のいない国の城だけが、離れていた立地故か無事だった。

 それが幸運なのか──そこで終われなかったことは不安なのか否か。

 きっとこれが城以外で生きる物語だったのなら、もうとっくに終わっているはずだった。


 黙り込んでしまった俺たちの間を、馬の嘶(いなな)きが割った。

 ……グリンブルスティが主人に気付いてあげた声だった。

「グリンか」

 陛下も気付いたようだった。

 人間でさえ食糧に困っている最中で、城に備蓄していた食糧も日々減るばかりだったから、四本足の生き物達にまわせるものなど何もなかった。

 芝でさえ食えたものではなくなって、水でさえ二本足の俺たちが空いた前足で抱えて離さないのだから──絶飲絶食を強いるしかなかった。

 あれほど信頼した友に、俺はもう何もできなくて、この両手は何も持っていなかった。

 その城内での馬の扱いに、ならいっそ放してやろうと言う者もいたが、様々な反対意見が出てそうすることもできなかった。……ただ厩が静かになるのを待つだけだ。

「なあグラム」

「なんでしょう、陛下」

「オレは獣は嫌いだが──」

 陛下が視線を厩に投げた。

「──いっそもう殺してやった方が楽にしてやれるかとも思うよ」

「それは……」

 今度こそ、俺は言葉を見つけるべきだった。

 目を細めた陛下に、何も言えないなんてことが──もう今更あるわけにはいかなかった。

「もしかしたら、北部の……森の奥なら生きている草木があるかもしれませんよ」

 深い森。

 人間界と竜たちが暮らす世界を分けていた深い森。

 馬の分くらいの草はあるでしょう、と俺は付け足した。

「火事で焼け焦げたところにあの噴火だ。もうすべて焦げ付いているだろ」

 答えてくれた陛下の目に光はない。

 灰を降らせるこの暗い空のせいだけではないだろう。

 それでも、と俺は引き下がった。

「せめて放してやるとしても……森の方がいいでしょう」

 それでも──それだから。

 俺の様子に、陛下が視線を外した。

「……お前は優しいからな」

 その答えが、俺の提案を是としたか否としたかなど、聞き返さなくても分かった。

「やることも……やれることもない。オレも行こう」

陛下の言葉を家臣たちが見咎めた。

「陛下!」

「なんだ、いいだろう。その通りだろう」

 うるさそうに言って肩をすくめる。


「このままじゃオレは──いや……オレの王冠を、道化師の飾りみたいにしないでくれよ」

 いつだって、迷路を解くのが早かった陛下。

 コツはずっと右を選ぶことだと言っていた。

 光輝く王冠を持つ彼らしい選択肢の選び方だと俺は思っていた。

 それに、と陛下が言った。

「あの日からだ……竜殺し(あの日)から。何かヒントがあるかもしれん」

 童話の時間は終わりだった。

 今日まで俺たちがいた世界は、優しい物語だった。

 自分たちの物語が童話ではないと気付いてしまったから、もうめでたしめでたしでは終わらない。


 ──数日なにも胃に入れていないというのに、馬たちは気丈にも俺たちと出かけることを了承してくれた。

 ありがとう、と背を叩けば軽く鼻を鳴らして答えてくれた。

「行こう、グラム」

「ええ、陛下」

 黄金の馬の毛並みは、少し荒れたか。

 それでも白くなった大地と暗くなった空の下で、馬に乗る陛下は赫々たる姿だった。

「着いていきますか」

 騎士団副団長が、厩の前の俺たちに言った。

 同じように、口元を布で覆い隠している。

 陛下はグリンブルスティに頭絡をつけ、俺も愛馬のヒルディスの首筋を撫でながら騎馬の準備をしている。

 俺は陛下に視線と返事を委ねる。

 いや、と陛下は首を振った。

「見に行くだけだ……人もほぼいないだろうから、心配あるまい」

 そう聞くだけで町の惨状がよく分かった。

 思わず顔を曇らせてしまう。

 もはや賊などいないだろう。

 仇なすものがいたとしても、食糧に困っているのだ、きっと力はないし俺と陛下自身で十分倒せると見込んでいた。……悲しいことだが。

 それに、訓練を積んだ城の馬──グリンブルスティとヒルディスは足が速い。人の足じゃあ追いついてこられないだろう。

 町では、馬を含めた家畜はもう肉になってしまっているだろうから、追いついて襲われる心配もなかった。

 だから、いつものような護衛はもう必要ない。

 それが分かっているから、口うるさいことが多かった副団長でもすぐに引き下がった。

「なあに、いつものように抜け出すだけだ」

 城を頼んだ、と陛下は言った。

「すぐに戻るさ」

 なあ、グラム。

 そう言う声に軽く笑うだけで返事をする。

 考えがあったから、かしこまりましたとはいわなかった。


 正門から出ようと二人で顔を見合わせた時に、彼女の声が飛んできた。

「待って!」

 害のあるガスの危険性があるから、外では口を布で覆えと言われているのに、彼女はその布で口を覆わず握りしめて、城内からこちらに向かって走ってきていた。

「ヨル」

「リー。どこに行くの」

 城の方から、数人の家臣たちが彼女を追いかけて走ってきている。恐らく勢いのままに飛び出してきたのだろう。

 彼女は馬上の俺たちに顔を向けた。

 そんな彼女に、陛下は笑いながら馬から降りて答える。

「ははは! 遊びに行くんだ! ヨルも行くか!?」

「行くわ」

 彼女の顔を正面で見た陛下の顔が、固まった。

 冗談のつもりだったのだろう。

 そんなの、冗談でも彼女はそう言うに決まったらじゃないか、と俺は肩をすくめた。

「行くわ」

 黙った陛下に、聞こえなかったかとばかりに、彼女がもう一度同じことを言った。

 聞こえないわけがない。

 陛下が彼女の声を聞き漏らすはずがないのに。

「……なあ、ヨル」

 陛下の声は静かに、諭すような声だった。

 この灰の降り方と同じだった。

 陛下はなんと言おうとするのか。

 彼女なんと否定しようとするのか。

 ──いやだ、とまた言うのか。

 あの声で俺以外にそう言うのか。

 彼女の声は落ち着いていた。

「いつだって私たち、三人一緒に出かけていたじゃない」

「それは」

 祈国局、と声がして三人同時に声の方を向いた。

彼女を追いかけて走ってきた家臣たちがだんだんと近付いてきていた。

「……そうだな!」

 陛下が笑った。

 彼女を自分の馬の背に乗せようとしたのか手を伸ばして──

「そうよ」

──返事をした彼女はその手に体を預けず自ら手綱を握り、軽々と黄金の馬の背に乗った。

「行きましょ」

 その様子を見て、陛下が一瞬驚いた顔をした。

 数拍。

 そして笑った。

「ははは!」

「は、ははは」

 俺もその様子に笑ってしまった。

 俺と同じ高さの目線になった彼女は少し得意げだ。

「ほら、行くわよ。王様……騎士様」

 手綱を握った彼女は進めと合図を出したから、賢い馬はそれに従って歩き出した。

「おっと置いていかれるなあ!」

 陛下は俺の後ろに飛び乗った。

 思わぬ騎乗にヒルディスが不満げな声を出した。

「……陛下」

「しょうがないだろう! ヨルはグリンに乗って走り出したんだから!」

「……せめて前にお座りになりますか」

 馬の二人乗りは、後ろの方が乗り心地が悪い。

 安全面を考慮してそう言った俺に、いや、と陛下は首を振った。

「いや、この馬はお前が手綱を握った方がいいだろう」

 乗り方が不躾だと不機嫌になった馬も、その言葉が無礼ではなかったから機嫌を直したようだった。

「かしこまりました」

 捕まっていてくださいね、と言うと陛下の手が俺の腰を持った。

「ロマンスだな」

「ロマンスですね」

 ああもう、まったく──しょうがないな。

「ヒルディス」

 馬は名前を呼ぶだけで進み出した。

 先に行ったその馬と彼女を追いかけて、俺たちも走り出した。


 城を出れば嫌な景色ばかりになる。

 空だって、星空もなければ月だって顔を出してくれない。

 俺たちが進む先に花畑なんてないし──俺はあなたに花の一輪さえも手渡してやれないのに。

 美しいものなど見せられないと分かっているのに、どうして彼女を連れていけると言うのだろう。

 連れていきたくないなと思うのに、彼女が先に進むからしょうがない。

 触れられないのであっても、せめてその影に届く場所へ──追いかけるように城の門を抜けた。


 グリンブルスティとその上に乗る彼女にはすぐに追いついた。

「ははは! ヨルは乗馬が上手くなったな」

「おかげさまでね」

 俺たちは川沿いを北上する。

 大雨と洪水でぬかるんだ道の上に、積もった灰。道は悪い。景色も悪い。

 馬の足音は綺麗ではないが、足跡は綺麗に泥と灰の上に綺麗に残った。

 夜も来なければ朝も来ない世界は、まるで時が止まったようでさえある。

 水というよりは灰を溶かした汁といった感じだが──それでも川の水は流れているから、かろうじて時間は進んでいるのだと思うことができた。

「……布を」

 噴火から数日経ったが、まだガスの影響は心配されている。

 彼女はいつのまにか持っていた布を落としていたようだったから、俺は自分の口元を覆っていた布を取り、渡そうと手に握った。

 駆ける速度に、景色が飛んでいく。

 馬上の彼女と目が合った。

 ──こんな風に目を合わせたのはいつだったか。

 いや──あの日のことを俺は忘れたから、きっと初めてだ。


 俺が隣の騎手に物を渡そうとしていることに気づいて、グリンブルスティがこちらに身を寄せた。

 彼女が片手を手綱から離す。

 俺も白い布を持つ手を伸ばす。

 俺たちの手が、指先が近づく。

 俺の指先が震えるのは、馬で揺れているせいだ。

 あと数センチ。

「──なんだ、危ないな。オレが渡そう」

 俺の後ろの陛下がわずかに身を傾けて、俺が伸ばした手に握るその布を奪い取った。

「ほら」

「あ……ありがとう」

 手を伸ばした彼女はきっと、陛下の名前をいつも通りに呼ぼうとした。

「あ」

 溢れた声は彼女の声。

 強い風が吹いたわけじゃない。

 陛下の手に握られたその布は、彼女の手に渡りそうだったところで誰の手にも掴まれず落ちてしまった。

 その布は一瞬で走り去る景色の奥に消えて、すぐに見えなくなった。

「あ……ごめんなさい、リー」

「いや、オレのせいだ、ヨル」

 陛下は空になった片手で自分の口元を覆う布を取って、改めてそれを彼女に渡そうと手を伸ばした。

 今度はしっかり握らせた。

「……悪かったな、グラム」

「いいえ」

 俺の後ろにいる陛下の表情は分からない。

「バランスを崩さず、ご無事で何よりです」

 この言葉は嘘じゃない。

「リーの分は」

「オレはいい、大丈夫だ」

 俺は黙って騎手に徹した。

 手綱は感情が伝わる。

 馬が俺の様子を伺ったので、大丈夫だと答えた。

気にするな。──なんでもないと。


 進んでも進んでも、景色に希望は見えなかった。

 むしろ進むほどに凄惨さを増すばかりのようでさえあった。

 立っている人間の姿はなく、草木の緑さえ見つけられない。生命の息吹がなく、枯れた大地。

 これがこの国の現状だった。

 一歩進むごとに、その事実は俺たちの肩にのしかかった。

 生き残ったとして、これから生き残れたとして──一体どうやって復興させよう。

 川は濁り大地は焼け焦げ、空から光も注がない。

 これから生きていけるのだろうか。

 この国を捨てたとして、この被害は周辺どこまで広がっているのかも分からない。

 心がこの国を捨てられるのか。


 口を覆う布なしに呼吸するのも実は躊躇う。

 どれほど吸えば致死量になるかも分からない。

 灰はいつまで降り続けるかも分からない。

 川は永遠に綺麗にならない。

 美しかった国はもうない。

 穏やかだった時間はもうない。

 森の奥に希望があるかもしれないと言い出したのは俺なのに、進むほどに後悔する。自信がなくなる。

それでも何かきっと。

 新芽が。滝が。

 生命(リーヴ)の根源があるかもしれない。


 今までなら、これだけ北上すれば甘い匂いを──花の匂いを感じられる場所だった。

 嗅ぐのも躊躇う空気。灰まみれの白い景色。

歯を食いしばって進んで、やっと、森が──森があるはずの場所が見えてきた。

 森は火が飛んできたのだろう、すっかり焼け焦げていた。馬を止めた。彼女を乗せたグリンブルスティも止まる。

「ははは!」

笑ったのは陛下だ。

予告なしに馬から飛び降りた。

「見通しがいいな!」

「……そうですね」

 陛下が森に向かって歩き出した。

 彼女も馬から一人で降りた。俺も馬を降りる。

 賢い馬たちは、目を合わせただけで自分たちは待ってるべきだと分かったようだった。

 その視線に甘える。

「見事に燃えたな」

 鬱蒼と茂る森があったなんて嘘のようだった。

 花畑があったこともきっと夢の出来事だった。


 かつてこの森には、月を映して、星空を浮かばせる泉があった。

 泉はもはや、黒く濁って白い灰を浮かばせ、何も映すことはできない。

 あれほど豊かに水を放っていた滝は、噴火で飛んできたのであろう大小の岩に堰き止められ、僅かに水を落とすばかりだった。


 あれほど激動の数日を過ごして、その勢いそのまま世界が終わるかと思いきや──きっと最後というのはゆるやかに終わるんだろうなと思った。


 進みながら見渡して陛下が言った。

「悲惨だな」

 本当にそうだ。

 森のどこにも命の気配はない。

 あの日の竜の死体でさえもう残っていない。

 まるで全ては夢だったようだ。

 夢であったなら、よかった。起きなくて済むのに。

「陛下」

 悪夢の中で、俺には考えていたことがあった。

 ……周囲には俺たち以外誰もいない。

「なんだ? グラム」

 できれば彼女には見せたくなかった。

 陛下と彼女が俺を見た。

 ……聞かせたくなかった。

 それでも言った。

「俺は死のうと思います」

 この場所が相応しい。

 竜殺しを遂げたこの場所が。

「俺が死んで何かが変わるか、見ていていただけますか」

 見つけるのが上手い陛下に相応しい──いや、一番不似合いなお願いになった。

「は?」

 陛下が眉間に皺を寄せた。

 何を言っている、とその視線は雄弁だった。

 俺はその言葉に至った理由を説明する。

「あの日からです……あの竜を殺した日から」

 黒い狼の背に乗って、俺が剣を突き立てたあの日。

 思えばあの日から天地が荒れた。

「竜は最期に──俺に、呪ってやると言ったんです」

 獣の言葉が、竜の言葉が分かるのは俺だけだったから、俺しか知らないことだった。

 知らせることはないと思っていた。

 きっと呪いの対象は俺だから。

 剣を突き立てた俺だけだから。


 なのに呪いは、世界に牙を剥いた。

 世界の終わりを謳っていたから、きっとそういうことだったのかもしれない。

 死と代償の呪い。

 ならば。

「俺が死ねば──空は晴れるかもしれません」

 空の覇者の首を堕としたのは俺だ。

 同胞だと呼ばれた、かつては汚いと言われた俺の血にも──生贄くらいの価値があるのかもしれない。

 むしろ、そうあってくれ。

 俺の命の理由は忠誠だから。

 俺の命の価値は、あなたたちの命を救うに値するものだと証明してくれ。

「何を言ってるんだ、グラム」

「出来ることを言っているんです、陛下」

 ──俺に出来ることを。

 俺は剣を抜いた。抜いてすぐ灰が落ちて来て、あまりに冴えた刃にすぐに粒子になった。

 刀身に自分自身が映った。

 目の色は今は見えない月の色。龍と同じ満月の目。髪の色は夜の色。月が浮かぶ夜空と同じ色。

忌まれてきた俺の容姿は、呪いの存在に相応しい見目だった。

 刀身は綺麗に映してくれた。

 美しい紋様なのに、それを無駄にするように、今からこの刀身を汚そうとしている。

 まさか自分自身を斬ることになるなんて。

「そんなの根拠がないだろう」

「それでも試す価値はあります」

 可能性を潰していく。俺の命を潰す理由を語っていく。

「そもそも忌み子です。生き残ったことは奇跡で、きっとすべて誤算だった」

「グラム、やめて……」

 彼女の声は震えていた。

 優しいから、きっとそんな顔をするのは分かっていた。

 きっとトラウマになってしまう。

 今後生きる上で、嫌な思い出になるだろう。

 けれど。

 ──あの花のことは忘れていいけど、俺がいたことだけは嫌な思い出としてでも覚えていてほしかった。

 あの花に込められた感情の名は忘れてほしいけど、俺が誓った忠誠だけは嘘ではなかったと覚えていてほしい。

「本気なのか、グラム」

 陛下は俺の願いを聞き届けてくれるようだった。

「本気なんだな」

「やめて! リー、止めて!」

 彼女が縋ったのは陛下だった。

 細い腕で触れたのは、陛下の腕。

 ついぞ触れることがなかったな、と思う。

 今更だ。──それでいいんだ。

 彼女は陛下の肩を揺さぶっている。

 陛下は彼女の視線から逃れるように、目を伏せている。

「とめてよ! やめてよ!」

 ──きっと触れてしまったら、二度と離してやれないから。

 地獄に堕ちる前で良かったと思う。

 剣を構えた。

 自分の腹に。切先を服の上に当てる。

 ここでいいだろうか、と神経を研ぎ澄ませて息を吐き出した俺に、落ち着きを取り戻した彼女の声はよく聞こえた。

「…………ねえ」

 その声に顔を上げる。──震えていた気がしたから。

「──私を、殺して」

 陛下が彼女を見た。

……頼む、震えを止めてやってくれ。

 陛下、あなたは触れられる場所にいるじゃないか。

「ねえ、分かっているでしょう、グラム」目が合った。

 今は見えない若葉の色の瞳。

 言わないでくれ、やめてくれ。──震えているじゃないか。

「貴方なら…………知っているでしょう?」

 それがなんのことか、俺にはよく分かった。

 分かっていたから、黙った。

 だからなんだ。

 あなたの血がなんだという。

 ──俺は貴女を守るって誓ったんだ。

「なんのことだ?」

 今度は陛下が彼女の肩を掴んだ。

「なあ、なんの話だ? オレの知らないことか?」

「リー」

 その手の力は強そうだ。彼女が痛そうに顔を顰める。

 やめてくれ。

 俺は動いていいのか分からない。

「お前たち二人の内緒話か? オレが守ってきたお前たちの!」

「リー」

 やめてくれ。

 陛下、あなたは彼女にそんな触れ方をする人間じゃないだろう。

 俺と違って、優しく柔らかな花を咲かせていたはずだ。なあ。

「なあヨル、オレはお前が生きててくれるならなんだっていいんだ」

 ──きっと陛下は、分かっているのかも知れなかった。

 知っていたのかもしれなかった。

 例えば、彼女の指が割れたガラスの破片を拾った時とか。

 傷ついた瞬間に癒える場面を──パーティーなどで見たことがある可能性があった。

 秘密は秘密でなかったのかもしれない。

「お前がオレのそばにいてくれるなら、なんだっていい」

 陛下は彼女の肩を掴む手を離さない。

 真っ直ぐに彼女を見つめて離さない。

「世界なんてどうだっていいんだ」

 愛してるんだと陛下は溢した。

「愛してる。世界がたとえ終わっても、その時までお前がオレの傍に居てくれるならそれでいい」

 彼女は優しく微笑んだ。

「それだけいいんだ」

 俺の目の前で、彼女が陛下に向けるその表情は、例えるなら慈愛だった。

「ひどいのね」

「知っているだろう」

 知っているわと彼女が答えた。

「優しいことを、知っているわ」

 陛下の手から力が抜けた。

 彼女の肩からするりと手は落ちて、彼女は放される。

「世界を天秤にかけても、貴方が私を選んでくれるのなんて──とうに知っていたわ」

 ありがとう、と彼女は言った。

 まるで別れ際のような言い方だった。

 放された彼女は俺の方に歩み寄る。

陛下はそれを引き止めない。

「ねえグラム」

「……なんでしょうか」

 なぜこんな状況なのに、その瞳は水面のように揺れない。

 真っ直ぐに俺を映すのは──なぜ。

「私は世界を選んでほしいの、分かるでしょう?」

 彼女と世界を天秤に乗せて。

 世界を選んでと、彼女は俺に言った。

俺にそう言うなんて、残酷だと思う。

「分かります」

 けど──そうだと思う。

 彼女の細い肩には、世界は重すぎる。

 きっとその重圧は彼女自身を苦しめる。

 生きていたとして、生きてきたことを後悔するほどに。

「お願いよ、グラム」

 俺はその言葉に、敵わないんだ。

「愛とともになら死んでもいいの」

 なんだよ、それ。

「私がほしいものは貴方が持ってるの。ねえ、ちょうだい」

「──ああもう」

 手を広げて俺に向かってくる様は、刺されようとするようにも、抱きしめられようとするようにも見えた。

「仰せのままに」

 この抱擁は、乱暴すぎて愛し方なんて伝えるようなものじゃない。

「ひどい人ね」

「知っていたでしょう」

 だから嫌だった。

 綺麗な愛し方をしたかった。

 けれど彼女は俺にささやいた。無秩序は愛の類義語だと。ならいいか、と思って──

 俺は剣を持ったそのまま彼女を抱き締めた。

「さいごに、俺の本当の名前を呼んでくれますか?」

 柔らかな感触と、剣を伝って生暖かい液体が俺の手を濡らした。

「ガルム。──俺、ガルムって言うんです」

 ずっと人に呼ばれることがなかった俺の名前。

 陛下に名付けられる前の、俺の真名。

 ──最初から名乗っていたのに、陛下は勝手に名付けてきたんだから、思い出して口元が笑いそうになる。

「私のことも呼んでくれる?」

「ヨル」

 剣から手を離したら、やっと両腕で彼女を抱き締めることができた。

「ヨルズ」

 ──ずっと呼びたかった。

 生暖かい血でなぞってやっと、彼女の輪郭を知った。綺麗な手じゃ浮かび上がらなかった。

血が剣を、俺の手を伝って大地(ヨルズ)に落ちる。

 足元は見ない。

 伝説の確認はしない。

 俺の目には彼女しか映せない。


 ──抱き締めたら離さないって言っただろう。


 足元から、灰の奥の大地が動いた気がした。もしかしたら新芽が出るのかもしれないけれど、もうそんなのどうでもよかった。

「お願いよ──愛してるって、言って」

 なあ、もう、とっくに分かっていただろう。

「俺が、あなたの願いを叶えなかったことがありましたか?」

 俺は彼女を抱き締めてそのまま、泉の中に飛び込んだ。

「─────」

 俺の声は耳元で伝えたから、水面にぶつかる前にしっかり彼女に届いたはずだ。

「私もよ」

 一人じゃない。もう月に見られたっていい。


 これは悲恋じゃない。俺の悲願が叶うまでの物語だ。


 飛び込む間際、彼女が俺を呼んだ声は、永遠に俺のものだ。

 やっと想いを言えた俺も、永遠に──きっと来世も彼女のものだ。


 忠誠だけじゃない。俺のすべてをあなたに。


 水底に月の光が届いた気がするけれど、もうそんなこと構わなかった。



第五章 竜殺しの勇者


 俺の物語はここから始まる。

 さあ本編といこうか。

 

 そう意気込んで、俺は城の中に入る。

 玉座というのは広い部屋のいっそう高いところにあって、招かれた側の俺はそこに座る人物を見上げる形になる。

 そこに座っているのは、金髪の王様。

 この国の国王陛下。

 足を組んで俺を見下ろしている。

「ははは! よく来たな」

 楽にしろ、と言われるが緊張していてそんな余裕はない。

 この陛下はもうずっと長いこと国王としてお勤めの、生ける伝説だ。

 聞くところによると竜に手足がなかった頃から生きているとか死なない呪いにかかっているとか……真偽はよく分からない。

 こうしてご本人に会うと色々考えてしまうな。

もちろん何も言わないが。

 国王陛下は緊張で頭の中でだけ饒舌な俺をよそに、年老いた家臣に手を出して合図をした。

「──剣をここに」

 その言葉に、俺は唾を飲み込んだ。いよいよだ。大きな音が喉から鳴った。他の人に聞こえなければいいな、と思う。

「前へ」

 俺は立ち上がって玉座に近付いて、そのまま直立する。

 どうすればいいのか、緊張でよく分からない。

「……もう一度跪いてくれるか」

 小声で国王陛下が俺に言った。

 意外な優しい声掛けに少し驚く。

 この玉座の間には、俺が連れてきた人たちもいるから面子を立たせてくれたのかもしれなかった。

 言われた通りに跪いて、頭を垂れる。

 すると国王陛下は頷いて、堂々と言った。

「今から勇敢なこの者に剣の授与を行う!」

 お城にいる人たち、俺の仲間たちに向けて、高らかに言った。

「これはこの国に伝わる聖剣」

 俺の前に剣が差し出された。

 顔を上げると、俺の顔が映るくらい磨き抜かれた剣があった。

「剣の名前は──」

 国王陛下が息を吸った。

 近付いてよく分かった。

 陛下の目の色は、吟遊詩人が歌っていたようなヘヴンリーブルーだった。

「グラム──これは、聖剣グラム」 

「グラム……」

 俺は小さく、その剣の名を呟いた。

 呼べば応えるように、その剣は鈍く光った気がした。

「かつて竜殺しを成し遂げた剣だ」

 それは、俺に与えられた聖剣の名前。

 これから旅に出る勇者に、王様から与えられる武器。

「さあ、勇者一行よ。この剣を持って旅に出るがよい」

国王陛下は大きな声で高らかに笑った。

「森の奥から生まれた悪竜を倒してきてくれ。褒美はたんまり用意してあるぞ!」


 ──これは俺の物語。


「かしこまりました」

 陛下、と続けて言ったら驚いたようにその目が見開かれた。

 何か気に障っただろうか、と不安になった。

 数秒経ってから、国王陛下は目を細めたからきっと大丈夫なのだと思う。

「頼んだぞ、勇者……ジークフリード」

 俺と仲間たちは──勇者一行は剣を与えられ、見送られて城を出た。


 これからが、物語の本編だ。

 これは俺の物語。

 これは俺が森に巣食う悪竜を殺すまでの物語。



 竜を倒すために森へ向かう。

 川沿いの道を進んで、俺たちは美しい花畑を見つけて休憩を取ることにした。

 仲間に聞くと、この花はどうやらラーレという名前らしい。

 よくある花だよ、と。

 昔は珍しかったらしいんだけどね、と言われた。

 どうやら花びらの色によって花の意味が違うらしいが、俺はそんなことに興味はなかった。

 喉が渇いたので水面に顔を近づける。

 澄んだ水面に俺の顔はよく映った。

 ギョルド川の水は綺麗だから安心して飲むことができる。冒険において水分補給に困らないというのは、とても助かる。

 両の手をくっつけて杯にして、水で満たして喉を潤す。

 もういっぱい飲もうと水面を見て──目を凝らしてそれに気がついた。

 水底に何か沈んでいるようだった。

 この辺の川はあまり深くなさそうだ。

 手では届かないが──剣ならばどうだろう。

 俺は剣を抜いて、水底に伸ばした。

 何やってんの!? と、仲間が俺の行動に驚いたので説明する。

 剣先で持ち上げるようにして、掘るようにしてやっと浮かび上がった。随分前から沈んでいたようだ。

 剣で掬い取り手元に取る。

 聖剣に対してひどい使い方だと言われたけれど、まあ授与されて俺のものになったのだからいいだろう。

 掬い取ったそれはノートのようだった。

 大きさはちょうど、日記帳程度。

 なにか書いてあるかとめくろうとしたけれど、とても読めるような状態じゃなかった。

「乾かす?」

「それでもインクが滲んでるだろうなあ」

 まあ、川に捨ててあったくらいだ──きっと読まれたいものではないのだろう。

 きっと誰かの物語で、きっと何かの前日譚だ。

 俺は夜のキャンプで薪に燃やしてやろうと決めて──その日記帳を手に取った。

 もう読めないその日記帳が、優しいことばかり書いてあったものならばいいな、と願った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

騎士が愛したのは、忠誠を誓った王が愛する聖女【騎士の前日譚】 鈴木佐藤 @suzuki_amai

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ