第11話

「どうして?」

「君が言ったんじゃないか、助けてって。だから早く!」


 彼は強引に私の手を引こうとした。この手を素直に握ってもいいのだろうか。そんな一瞬の迷いのうちに男が立ち上がった。


「いってぇな! お前も殺すぞ!」


 さきほどまでの表情とは違う血走ったような目を大きく開いていた。明らかに理性を失っているような顔だった。もしかしたら死んでしまうかもしれない。無意識にそう悟るほど絶望的状況は彼が来たからと言って変わるわけじゃない。二人で抵抗したところで抗えないと私は諦めていた。

 それに逃げたところできっと追い付かれてしまう。なら……


「私はいいから、もう行って! 変に同情されるの嫌って言ったでしょ」


 彼の手を振りほどいた。

 私のしたことはまた彼を拒絶することだった。

 その優しさを、差し伸べられた手を振り払った。また私は彼の優しさから逃げたのだ。でもそれ以上にそれに彼に助けてもらうという烏滸がましい気持ちが拭えなかった。何を今さら、って。素直じゃないプライドが、その手を握ることを拒んだ。


「私は、大丈夫だから」


 声が、足が、震えているのが自分でもわかる。

 慣れるはずない恐怖に、なくならない痛みに、私は耐える覚悟なんて端から持ち合わせてなんていない。強がっているだけで本当は怖い。


「いいから行って! あなただけでも逃げてよ!」

「できるわけないだろ!」


 彼のその怒声に場の空気が固まったような、時が止まったような感じがした。その体の中にどれほどの大きなエネルギーを持っていたのか、目の前の男も驚いた顔をしていた。


「もう、嫌なんだよ。見て見ぬふりをして逃げるのは。自分に嘘をついて生きるのは」


 偶然にもそれは今の私と重なるようだった。


「だから僕は君を助けたい! それに、僕は君が好きだから」


 一瞬何を言われたのか理解できなかった。この状況で、何のためらいもなく言われれば誰だってそうなるはずだ。トキメキもドキドキもないシリアスなこの状況で彼は一体何を言っているんだ、って笑いそうになった。でも彼の顔からは一切の冗談も感じない。


 男が大きく吐いた息で、その安心感は打ち破られる。


「はぁ~……萎えたわ」


 ついに男は私たちにずかずかと近寄ってくる。


「どっちから死にたい?」


 彼は私の手を取った。


「とにかく、一緒に逃げるよ。町まで走ればきっと誰か助けてくれる」

「さっきからごたごたうるせぇよ!。俺が一人な訳ねぇだろ? この街には何人か連れがいる。逃げても意味ねぇよ」

「ハッタリだ、それに警察にでも行けば何とかなる」

「なら逃げてみろよ、そいつがどうなっても知らねぇけどな。一人なら確実に捕まえられる。お前らのどっちかは確実に痛い目見るが、それでも逃げれるか?」


 男の言っていることは正論だった。二人で逃げてもきっと誰か一人は捕まってしまうだろう。絶望的な状況は変わらない、なのにどうしてだろうか。さっきよりも怖くない。私は彼の手を無意識に握ってしまっていた。


「町まで逃げ切れば、きっと誰か助けてくれる。それまで逃げれば良いだけだ。それにきっと大きな声を出せば異変に気付いて誰か出てきてくれる。だから、逃げるよ」


 私は静かに頷いた。男の影がどんどん迫ってくる中、私たちはその反対方向を向いて、一斉に……


「西崎さん逃げて!」


 私を引いていた手は反対方向へと、男の方へと向かって勢いよく走っていった。私だけ置き去りに、彼は男へ勢いよく飛び込んだ。が、高校生と大人という差か、そもそも男が大きいからなのか、その力の差は歴然だった。


「おいおい、全然力はいってねぇな! ちゃんと食べてんのか?」


 男は一瞬彼から離れると、彼のお腹目掛けて思い切り腕を振った。

 余程の力なのか彼はうずくまり、腹を抑えてのたうち回った。


「おいおいそんな力込めてないぞ? 大丈夫か? これじゃあ全然もたねぇな」



 男は無理やり彼を起こすと、今度は顔面に向かって腕を振るった。ばちんっと大きな音が鳴り彼の身体が後ろに引かれるように飛ぶ。

 震える足を必死に動かし彼の元へ駆け寄る。


「私のせいだ……」


 もっと早く逃げていれば。もっと早くに人からの優しさを受け取れていれば、こんなことにはならなかった。彼が殴られることもなかった。


「ごめん……本当にもう大丈夫だから。あなただけでも逃げて……」

「それは、できない」

「もう十分だから……」


 ぽつぽつと溢れる涙がコンクリートの床を濡らした。

 辛い。痛い。怖い。色々な感情をぐちゃぐちゃにしたような涙。こんな私のせいで、彼が傷つくのが辛かった。殴られてるわけじゃないのに彼が殴られたとき私も痛かった。彼の優しさが、こんなところで潰えてしまうかもしれないと思うと怖かった。

 自分でもわからない感情に困惑していた。

 でも一つだけ言えることは、自分じゃなく、彼が大事だと思った。だからもう傷ついてほしくない。

 もう少し私が優しさを受け取る準備ができてさえいれば…… もっとちゃんと話していれば。それを今まで無下に扱っていたのは自分だ。

 不幸なのは、理不尽なのは私の環境だけのせいじゃない。私のせいだ。

 だからせめて彼だけは……


「さっきも言ったけど、僕は自分が許せないんだ。君がいじめられていることをしって、僕は立ち向かうことができなかったんだ」


 彼が起き上がる。


「悔しかったんだ。僕は一発殴られてだけで心が折れたのに、君は何発も耐えて、それなのに一切何も言わずに。誰かが助けてくれるって、そうやって逃げてた。でも、恥ずかしいけど姉貴に言われたんだ。やりたくても怖いならやるべきだって。じゃないと後悔するって。だからきっとここで逃げたら僕は後悔してしまう。だから、もう逃げたくない。それにその勇気も、僕は持ってるって」


 大島勇気。それが彼の名前みたいだった。


 「だから行って! 逃げて! もう君の殴られる姿は見たくないんだ。僕は大丈夫だから」

「いやだ! だったら私も逃げたくない!」


 彼の優しさから、臆病な自分からもう逃げたくない。

 もう人の優しさから目を背けるのも、人から貰う感情を拒むことも間違いだって気づけたから。彼から、そしてあの人から教えてもらったから。

 私は、自分に正直に生きてもいいんだ。


 私は彼の手を握った。温かく、男の子の割に小さく柔らかい手を。自然と怖さはなかった。


「私も逃げないから」


 男はまた深く息を入った。


「おっけー、二人とも死にたいってことでいいな。ああ?!」


 より狂気的な目で。こちらをにらんだ。

 そして上着を一枚脱ぐと、勢いよく私たちに飛び掛かる。瞬間



「いたぁぁぁ!」



 焦燥に満ちた声と荒い息遣いが後ろから聞こえ、男も私たちもそちらに振り返る。


「どうして、あなたまで?」


 振り返るとそこにいたのは、同じ愛理たん推しの、あの人が汗だくになって走ってきていた。


「こっちです! 早く!」


 そしてその後ろから駆けつけてくるのは警察官だ。


「っち、なんで!」


 男はすぐにその場から立ち去ろうとしたが警察官の方が早かった。見事に男を無力化させ捕まえる。


「お前、松岡隼人だな。薬物所持及び傷害の疑いで逮捕する!」


 薬物、障害。やっぱり危険な男だったのか。さっきから震えていた膝は緊張感からの解放に力なく崩れ落ちる。


「だ、だ、大丈夫?!」

「私は大丈夫、それより彼が!」

「いや僕も何ともないです」

「いや二人とも頬が赤くなってるから! 全然大丈夫じゃないから!」


 確かにさっきから頬がじんじんと熱を持っていたことを思い出した、が安心感からかそれほど痛くもない。慣れているし。

 ふうう、と彼が息を吐いた。


「よかったぁぁ、無事じゃないけど無事で、ほんとに心配したよ」

「すみません。本当にありがとうございます」


 彼が律儀にお辞儀をした。私も習って頭を下げる。

 彼が来なければ今頃私たちがどうなっていたかわからない。


「ううん。でもよかった、君にも素敵な友達がいるんだね」


 そう言われて気づく。私が思い切り彼の手を握っていることを。

 すぐに振りほどく。


「友達なんかじゃ」

「え? じゃあ恋人?」

「うるさい! そんなんでもないから!」


 赤くなった顔を隠すように後ろを向く。気のせいか相良くんの顔も真っ赤になっていた。きっと殴られたせいだけじゃないだろう。


「でも、とりあえず事情徴収だけは行かないとだから、それだけはお願いね。もちろん僕も付き合うから」

「それだけなら大丈夫」

「僕も大丈夫です。ああ、お礼がまだでしたね。助けていただいてありがとうございます」

「全然。僕は何もしてない。今回は君が、君たちが頑張ったんだよ。でもこれからは気を付けてね」


 どうしてこんなに私に優しくするんだろう。相良くんもそうだけど、こんな性悪な自分を、どうして助けてくれるんだろう。

 でもその答えは、後でもいいか。今は無事だったことに感謝しよう。

 路地を抜けると数台のパトカーが止まっており、野次馬も現場が気になって集まっていた。これを見れば自分がそこそこの大事に巻き込まれたのだと理解し、同時に怖くなった。

 もし二人が来なければ私はどうなっていたんだろう。結果的には助かったけど、もしかしたら相良くんか私のどちらかが大怪我を負っていたかも、それかもっと最悪な結果に……


「西崎さん」


 不意に名前を呼ばれ、彼を見ると彼はその痛々しい頬にそぐわない笑顔を見せた。


「よかったよ、今度は逃げなくて」

「私も。ありがとね色々」

「ううん。僕の方こそ、遅くなってごめん。これからも君を守りたい。好きって言ったのほんとだから」


 そうだったぁぁぁーーー! 私、彼から……

 何も返せなかった。その言葉に今私がどんな感情を抱いているか自分自身わからないからだ。

 だらに問題ができてしまった。それでも、パトカーの光でさえ明るくて愛おしく思えてしまうほどには私も浮かれていたのかもしれない。

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