【短編小説】微睡み夢みる距離 - Dancing in Twilight -(約11,500字)

藍埜佑(あいのたすく)

【短編小説】微睡み夢みる距離 - Dancing in Twilight -(約11,500字)

●第1章:昼と夜の境界線


 銀座の高級ブティックの大きな窓に映る自分の姿を、ミレイ・カヨコは無意識に確認していた。完璧に整えられた黒髪、控えめな化粧、品のある紺のワンピース??。二十六年の人生で培った「昼の顔」は、もはや仮面というよりも彼女自身の一部となっていた。


「カヨコさん、新作のドレスの在庫確認をお願いできますか?」


 店長の声に、カヨコは優雅に微笑みながら頷いた。


「かしこまりました」


 その仕草には、高級ブティックで五年働いてきた経験が滲み出ていた。


 午後六時、閉店時間が近づいてきた。カヨコは最後の在庫確認を終えると、さっと化粧室に向かった。鏡の前で慎重に化粧を落とし始める。昼の仮面を脱ぐ儀式??。それは同時に、もう一つの顔を準備する時間でもあった。


 化粧室の蛍光灯の下で、カヨコは目の下のくまを見つめた。昨夜も眠れなかった。いや、正確には眠ることを許されなかった。六時間のステージと、その後のVIPルームでの接客。そして帰宅後の心の整理に費やした時間……。


「疲れてるわね」


 鏡に映る自分に呟きかけながら、カヨコは新しいメイクを施し始めた。昼とは打って変わって大胆な赤のリップ、キラキラと輝くアイシャドウ。それは「Mirei」という夜の顔への変身だった。


 渋谷のクラブ『Velvet Dreams』に到着したのは午後八時過ぎ。従業員用の裏口から入ると、既に馴染みの音楽が響いていた。重低音が体の芯まで染み込んでくる。


「あら、ミレイ。今日も綺麗ね」


 楽屋で着替えていると、同僚のルナが声をかけてきた。二十代前半の彼女は、カヨコとは対照的な派手な金髪が特徴的だった。


「ルナも相変わらずセクシーね」


「当然でしょ! 今夜はVIPのお客様が多いみたいよ」


 ルナの言葉に、カヨコは小さく溜息をつく。VIPルームでの接客は、通常のステージよりもずっと神経を使う。客の機嫌を損ねないよう、かといって線は越えないよう??その綱渡りのような駆け引きに、時として疲れを感じることもあった。


 午後九時、最初のステージが始まった。スポットライトを浴びると、カヨコの体は自然と音楽に反応する。昼間の抑制された自分とは別人のように、官能的な動きで観客を魅了していく。ステージ上の「Mirei」は、確かに彼女自身でありながら、どこか遠い存在のようにも感じられた。


 腹の底に応える低音が響き渡る。


 漆黒の闇の中、一筋のスポットライトがステージを切り裂く。その光の中心で、カヨコの体が微かに震えていた。


「Are you ready?」


 DJの声が場内を包み込む。観客の熱気が、じわじわと彼女の肌を焦がしていく。


 そして、音が降り注いだ。


 まるで魂が解き放たれたかのように、カヨコの体が目覚める。R&Bの重厚なビートに合わせて、しなやかな腰が弧を描く。長い黒髪が夜気を切り裂き、艶めかしい軌跡を空中に残していく。


 昼間のブティックで見せる慎ましやかな仕草は、もはやどこにも存在しない。今、ここにいるのは紛れもなく「Mirei」。漆黒のボディスーツに身を包んだその姿は、官能の女神そのものだった。


 音楽が高まりを見せると、彼女の動きはさらに大胆になっていく。スポットライトに照らされた柔らかな肌が、汗の粒とともに妖しく輝きを放つ。胸の谷間から背中にかけて、一粒の汗が滴り落ちる。その様子すらも、完璧な演出の一部のように見えた。


 観客の視線が、まるで実体を持つかのように彼女の体を撫でていく。それを感じながら、カヨコは半開きの唇から微かな吐息を漏らす。挑発的な眼差しで客席を見つめれば、男たちのため息が漏れる。


 ポールに手をかけ、しなやかな脚線美を描きながら優美な一回転。重力すら味方につけたような完璧な動きに、場内からどよめきが起こる。艶めかしさの中にも気品を感じさせる彼女の佇まいは、まさに至高の芸術だった。


 体の内側から湧き上がってくる快感。それは日常のカヨコには決して味わえない、禁断の果実のような甘美さ――。自分でも気づかないうちに、赤く染まった唇が妖艶な微笑みを浮かべている。


 ダンスの途中、ふと客席に目をやると、見覚えのある顔があった。スーツ姿の中年男性――昼間、ブティックに来ていた常連客の一人だ。カヨコの心臓が一瞬止まりそうになる。しかし、プロフェッショナルとしての本能が働き、表情を崩すことなくパフォーマンスを続けた。


 音楽が最高潮に達する中、カヨコの体は極限まで後ろに仰け反る。スポットライトを浴びた瞬間、無数の水滴が宝石のように輝きを放つ。息を呑むような美しさに、場内は一瞬の静寂に包まれた。


 そして、最後の一音と共に、彼女は妖艶なポーズで静止する。


 割れんばかりの拍手が響き渡る中、カヨコは我に返ったように目を瞬かせた。今の自分は、確かに「Mirei」だった。しかし、それは演技でも仮面でもない。抑圧された魂の解放であり、もう一人の自分との完璧な融合だった。


 汗に濡れた体を客席に向けて深々と一礼する時、彼女の瞳には、言いようのない充実感が宿っていた。それは官能と芸術が交差する瞬間を体現した者だけが知る、特別な輝きだった。


 ステージを降りると、楽屋で手が震えていることに気がついた。昼と夜の世界が交差することへの恐怖。それは常にカヨコの心の片隅にあった不安だった。


「大丈夫?」


 ルナが心配そうに声をかけてきた。カヨコは強がりの笑みを浮かべる。


「ええ、ちょっと疲れただけ」


 その夜、カヨコは普段以上に入念にメイクを落とした。湯船に浸かりながら、昼と夜の狭間で引き裂かれていく自分を感じていた。温かい湯が体を包み込むのに、心は少しずつ冷えていくような感覚。


 就寝前、スマートフォンに父からのメッセージが届いていた。

「父の日、時間があったら会えないか?」


 画面を見つめたまま、カヨコは返信できずにいた。十年前、両親の離婚の原因が父の不倫だと知って以来、彼との関係は微妙なものとなっていた。母は再婚し、新しい人生を歩み始めている。そんな中で、自分はこうして昼と夜の世界を行き来している。


 眠れない夜。また一つ、心の重荷が増えていた。


●第2章:揺れる心


 六月のある日曜日、カヨコは原宿の雑踏の中にいた。休日の街は若者で溢れ、彼女はその喧騒に紛れるように歩いていた。


「カヨコ!」


 声の方を振り向くと、幼なじみの美咲が手を振っていた。彼女とは小学校からの付き合いで、カヨコの二つの顔を知る数少ない理解者の一人だった。


「ごめんね、待たせちゃって」


「気にしないで。それより、元気そうね」


 二人はカフェに入り、窓際の席に座った。美咲は広告代理店で働いており、華やかな仕事ぶりをよく話してくれる。しかし今日は、どこか様子が違っていた。


「実は……婚約したの」


 美咲の左手には、さりげない輝きを放つ指輪があった。カヨコは心からの笑顔を浮かべる。


「おめでとう! 素敵な人なの?」


「うん、本当に優しい人で……」


 美咲の幸せそうな表情を見ながら、カヨコは複雑な感情を抱いていた。喜びと羨望、そして自分の人生への不安が入り混じっていた。


「カヨコも、そろそろ本気で考えたら? 将来のこと」


 美咲の言葉は、優しさに包まれていながらも、鋭い刃物のようにカヨコの心を突き刺した。


「わかってる。でも今は……」


 言葉を濁すカヨコに、美咲は心配そうな目を向けた。


「昼も夜も、どっちも私なの。でも、それを受け入れてくれる人なんて……」


 カヨコの言葉は、コーヒーカップの中に溶けていった。


 その夜、『Velvet Dreams』は特別なイベントで賑わっていた。カヨコは通常以上に入念にメイクを施し、衣装を確認する。


「今夜は特別なお客様よ」


 ママが楽屋に現れ、ダンサーたちに告げた。


「IT企業の重役たちが来るわ。きっと、良いチップが期待できるはずよ」


 カヨコは鏡に向かい、最後の仕上げをしていた。そこに映る「Mirei」は、完璧な夜の女神のように見えた。しかし、その瞳の奥には、昼間の美咲との会話が残っていた。


 ステージに上がると、いつもの重低音が体を包み込む。観客の視線を感じながら、カヨコは自分の中の「Mirei」を解き放っていく。腰をくねらせ、艶めかしい視線を投げかけ、時には挑発的な笑みを浮かべる。それは彼女にとって、もはや演技ではなく、魂の解放のような行為だった。


 重低音が床を震わせ、空気を振るわせる。スポットライトが暗闇を切り裂き、ステージ上のカヨコの肢体を浮かび上がらせた。彼女は目を閉じ、深く呼吸する。一瞬の静寂――。そして、体の内側から何かが目覚めていく。


 今夜もまた、「Mirei」が、解き放たれる。


 DJが流すハウスミュージックが、彼女の血管を這うように全身に染み渡っていく。まるで体の中で音が形を成すかのように、カヨコの指先が繊細に震え始める。腕が、まるで夜風に揺れる絹のように、しなやかな弧を描く。


 髪をしならせながら、ゆっくりと上体を反らせる。光に照らされた肌が、真珠のように淡く輝きを放つ。腰のくねりは、まるで深海を泳ぐ人魚のよう。黒のボディスーツが第二の皮膚となって、その動きを――官能的に際立たせる。流れるような自然な動きは、時として観客に彼女が全裸になっているようにも映る。


 カヨコの瞳が、ゆっくりと開かれる。その瞳には、もはや昼の顔の影は微塵もない。漆黒の瞳の奥で、何かが燃えている。それは抑圧された感情の炎。その炎は、彼女の全身を通って指先まで伝わり、空間に放たれていく。


 観客の視線が、まるで触れられるかのように肌を撫でる。カヨコは挑発的な微笑みを浮かべながら、ポールに手を伸ばす。しなやかな指が金属に触れた瞬間、体が宙を舞う。遠心力と重力の狭間で、完璧なバランスを保ちながら、彼女は優美な螺旋を描く。


 汗が光を受けて、宝石のように瞬く。息遣いは荒くなるが、表情には余裕が滲む。それは、もはや演技ではない。魂が躍動する瞬間。「Mirei」という仮面と素のカヨコが、完全に溶け合う瞬間。


 音楽のビートに合わせて、彼女の体が波打つ。その動きは、まるで月に導かれる潮の満ち引きのよう。ステージ上で描かれる曲線の一つ一つが、抑圧された感情の解放を物語っている。官能と芸術が交差する境界線で、カヨコは完全な自由を見出していた。


 フロアに降り立つ彼女の足取りには、女神のような威厳が漂う。客席に投げかけられる視線には、もう迷いはない。それは、自分の全てを受け入れた者だけが持つ、揺るぎない自信に満ちていた。


 ステージ上の「Mirei」は、もはやカヨコのもう一つの顔ではない。それは彼女自身の、最も純粋な表現だった。魂の奥底から湧き上がる感情の全てを、彼女は踊りに昇華させていく。それは時に切なく、時に妖艶に、そして時に激しく??。


 音楽が最高潮に達する中、カヨコの体は完璧なポーズで静止する。その一瞬、時間さえも彼女の前で立ち止まったかのようだった。


 ショーの後半、VIPルームでの接客が始まった。予告された IT 企業の重役たちは、予想以上に上品な態度で接してきた。その中の一人、三十代後半と思われる男性が、特にカヨコに興味を示していた。


「Mireiさん、素晴らしいダンスでしたね」


 丁寧な言葉遣いで、カヨコに話しかけてきた。名刺を見ると、確かに大手IT企業の取締役とある。名前は速水敏之。


「ありがとうございます」


 カヨコは板についた営業スマイルで返す。しかし、速水の次の言葉は、彼女の防壁を揺るがすものだった。


「実は、昼間にお会いしましたよね。銀座の……」


 カヨコの背筋が凍る。しかし、速水は穏やかな表情を崩さない。


「ドレスを選ぶセンスも素晴らしかった。プロフェッショナルとしての姿勢に感銘を受けました」


 その言葉に、カヨコは複雑な感情を覚えた。昼と夜の顔を知られることへの恐怖と、同時に理解を示してくれることへの安堵。それは彼女にとって、初めての経験だった。


 その夜、帰り際に速水から一枚の名刺を受け取った。


「もし良ければ、お話する機会をいただけませんか?」


 カヨコは名刺を受け取りながら、心の中で葛藤していた。これまで、客との個人的な付き合いは徹底して避けてきた。しかし、速水の態度には、どこか他の客とは違う誠実さが感じられた。


 深夜のアパートで、カヨコはベッドに横たわりながら、名刺を見つめていた。美咲の言葉が響く。「そろそろ本気で考えたら?」


 窓の外では、東京の夜景が永遠に続くように輝いていた。その光は、カヨコの心の中の闇を照らすには、まだ弱すぎるようだった。


●第3章:真実の光


 七月の蒸し暑い午後、カヨコは銀座の喫茶店で速水を待っていた。約束の時間より十分早く到着し、何度も化粧直しをしている自分に気づく。今日の服装は、昼の顔でも夜の顔でもない、素のカヨコを表現しようと心がけた。


「お待たせしました」


 速水は時間通りに現れた。スーツ姿はビジネスマンそのものだが、表情は柔らかい。


「こんな突然のお誘いに応じていただき、ありがとうございます」


 二人の会話は、最初は表面的なものだった。しかし、時間が経つにつれ、互いの本音が少しずつ見えてきた。


 喫茶店の柔らかな午後の光の中で、速水は遠い目をしながらコーヒーカップを手に取った。その仕草には、どこか懐かしさを帯びた切なさが滲んでいた。


「実は私も、かつては二つの顔を持っていました」


 その言葉に、カヨコは思わず身を乗り出した。完璧な社会人として見えた速水の意外な告白に、心が揺れる。


「昼はシステムエンジニアとして働きながら、夜は音楽活動をしていた時期があって??」


 速水は僅かに目を細め、十年前の記憶を辿るように言葉を紡ぎ出した。


「渋谷のライブハウスが、私の聖地でした。昼間はオフィスでプログラミングコードと格闘して、夜になると、ギターを手に『TOSHI』という別の自分に変わる。システムの論理的な世界から解き放たれて、魂をかき鳴らすんです」


 速水はそこで一度言葉を切り、窓の外を見やる。通り過ぎる人々の姿に、かつての自分を重ねるように。


「朝五時に帰宅して、二時間仮眠を取って出社する日々。会社では眠気と闘いながらコードを書き、客先での重要なプレゼンの途中で声が枯れかけたこともありました」


 カヨコは息を呑む。その生活は、今の自分と重なるものがあった。


「でも、それは決して辛いだけの日々ではなかった。昼の世界では、システムを通じて人々の生活を便利にする喜びがある。夜の世界では、音楽で誰かの心に触れられる。その両方が、確かに私という人間を形作っていたんです」


 速水の声には力が籠もり、目が輝きを増していく。


「ライブ後に楽屋で汗を拭きながら、明日のプロジェクト会議のシミュレーションをしていた自分。深夜のスタジオで新曲のフレーズを思いついて、会社のホワイトボードにこっそりメモを書いていた日々。それは、私にとってかけがえのない時間でした」


 カップから立ち上る湯気が、追憶の中で揺らめいているかのよう。


「夢を追いながらも現実と折り合いをつけることの難しさは、よくわかります。でも??」


 速水はここで初めて、真っ直ぐにカヨコの目を見た。


「その両方が、あなたという人間なんです。どちらも偽物でも、仮面でもない。ただ、違う角度から輝く、同じ宝石の面のように」


 その言葉は、カヨコの心に深く沈んでいった。窓からは夕暮れの光が差し込み、二人の間にある理解の橋を、優しく照らしていた。


 速水は最後に、懐かしそうに微笑んだ。


「今でも時々、オフィスで締切に追われている時、あの頃の情熱が身体の中で鳴っているのを感じることがあります。それは決して消えない、私という人間の大切な音色なんです」


 その瞬間、カヨコは自分の中の「Mirei」が、決して消し去るべきものではないことを、深く理解したのだった。


 それ以降、二人は定期的に会うようになった。映画を見たり、美術館に行ったり。速水は決してカヨコの仕事を否定せず、ただ彼女の話に耳を傾けた。


 しかし、八月のある夜、その関係に亀裂が入る出来事が起きた。


 『Velvet Dreams』での接客中、突然、見知らぬ女性が現れた。


「あなたが'Mirei'なのね」


 その女性の目には、憎しみの炎が燃えていた。速水の妻だった。


「この泥棒猫。主人を誘惑して、何が楽しいの!?」


 女性の叫び声が、クラブ中に響き渡った。カヨコは凍りついたように立ちすくむ。


 その夜を境に、カヨコの世界は崩れ始めた。速水との関係は終わり、クラブでの評判も傷ついた。昼の仕事にも影響が出始め、客の視線が気になって仕方がなくなった。


 追い打ちをかけるように、父からの連絡が途絶えた。後で知ったことだが、父も『Velvet Dreams』の騒動を耳にしていたのだ。


「やっぱり、私には幸せになる資格なんてないのかもしれない……」


 真夜中のアパートで、カヨコは膝を抱えて泣いていた。そんな時、思いがけない人物から連絡が来た。母だった。


「カヨコ、会えないかしら」


 週末、カヨコは母の住む葉山の家を訪れた。再婚した夫と新しい生活を送る母は、意外にも穏やかな表情でカヨコを迎えた。


「全部、知ってるのよ。あなたの仕事のこと」


 カヨコは息を呑む。しかし、母の次の言葉は、彼女の予想を覆すものだった。


「私も、若い頃は役者を目指していたの。昼は事務員として働きながら、夜はレッスンに通って……でも、結局諦めた。そして、後悔している」


 母の打ち明け話は、カヨコの心に新しい光を投げかけた。


「自分の生き方を、誰かに決められる必要はないのよ。あなたはあなたの人生を生きればいいの」


 母の言葉は、長年カヨコの心を縛っていた鎖を、少しずつ解き放っていった。


●第4章:新たな一歩


 九月に入り、カヨコは大きな決断をする。『Velvet Dreams』を辞めることにしたのだ。しかし、それは逃げるための決断ではなかった。


「ママ、私、自分のダンススタジオを開きたいんです」


 クラブのママは、意外にも理解を示してくれた。


「そう。あなたなら、きっとできるわ。なら、最後のステージは特別なものにしましょう」


 ラストステージの日、クラブには普段以上の客が詰めかけていた。カヨコは、これまでで最高の衣装に身を包む。鏡に映る自分は、もう昔のように引き裂かれてはいなかった。


 音楽が流れ始める。今夜のために特別に選んだ曲は、ビョークの「All Is Full Of Love」。


 カヨコは、昼の自分も夜の自分も、全てを受け入れた踊りを披露した。


 スポットライトが暗闇を切り裂き、ステージ中央に立つカヨコの姿を浮かび上がらせた。シルバーのスパンコールがきらめく衣装は、光の中で虹色に輝きを変える。


 ビョークの歌声が静かに響き始める。カヨコは、まるで風に揺れる花のように、しなやかな動きで物語を紡ぎ始めた。腕が大きく弧を描き、指先まで魂が宿ったかのような表現力で観客の心を捉える。


 ダンスは次第に激しさを増していく。スピンと跳躍を組み合わせた連続技が、まるで解き放たれた蝶のように舞台を彩る。汗が光を受けて、きらめく露のように彼女の肌を輝かせる。


 観客は息を呑んで見つめていた。そこにあるのは純粋な芸術表現の極致であり、魂の解放だった。カヨコの表情には、もはや迷いはない。全ての経験、全ての感情を受け入れ、昇華させた至高の舞だった。


 フィナーレで、カヨコは腕を天井に向かって伸ばし、そして深くしなだれる。万雷の拍手が響き渡る中、彼女の瞳には晴れやかな誇りの光が宿っていた。


 この瞬間、カヨコは完全に自分自身を受け入れ、真の芸術家として生まれ変わっていた。

 観客の中に、美咲の姿があった。涙を浮かべながら、笑顔で見つめている。そして意外なことに、父の姿もあった。何も言葉を交わさなくても、その眼差しに和解の意思を感じ取ることができた。


 最後の一曲が終わり、カヨコは深々と一礼する。割れんばかりの拍手が響く中、彼女は新しい夢に向かって歩き出す決意を固めていた。


 その後の数ヶ月は、夢の実現に向けての準備期間となった。昼のブティックの仕事は続けながら、空き時間には事業計画を練り、融資の相談に行く。美咲が広告の専門家として協力を申し出てくれ、父も出資を申し出てくれた。


 年が明けて一月、カヨコは自分のダンススタジオ「Studio Prism」をオープンさせた。昼と夜の狭間にある、薄暮時をメインの営業時間とした。


「これなら、昼に働く人も、夜に働く人も、どちらも来られるでしょう?」


 カヨコの提案に、母は目を細めて微笑んだ。


●第5章:私だけの輝き


 春の訪れを告げる三月のある日、Studio Prism は開店から三ヶ月を迎えていた。生徒たちの中には、カヨコが『Velvet Dreams』で踊っていた時からのファンもいれば、昼のブティックで出会った客もいた。そして何より、夜のエンターテインメントの世界で働く女性たちが多く通ってくれるようになっていた。


「先生、私も自分の道を見つけられそうな気がします」


 元スナックのホステスだった生徒の一人がそう語りかけてきた時、カヨコは胸が熱くなるのを感じた。


 スタジオでは、ダンスの技術だけでなく、自己表現の方法を学ぶワークショップも開かれるようになった。カヨコは、自分の経験を活かして、生徒たちの心に寄り添うことができた。


「人は誰でも、複数の顔を持っています。それは、決して恥ずかしいことではありません。大切なのは、その全てが自分自身だと受け入れること」


 レッスン後のティータイムで、カヨコはそう語りかける。生徒たちの目が、少しずつ輝きを増していくのを感じることができた。


 また連絡をとるようになった父との関係も、少しずつ修復されていった。時には二人で夕食を共にし、互いの人生について語り合うようになった。


 夜風が冷たく頬を撫でていく。カヨコは有楽町の居酒屋を出て、父と並んで歩いていた。二人の間を、白い吐息が幾筋も浮かんでは消えていく。


 今夜は珍しく、父が酒をほとんど口にしなかった。カウンター越しに、何度も横目でカヨコの表情を窺うような素振りを見せていた。きっと、言いたいことがあるのだろう。そう感じながらも、カヨコは父の言葉を待った。


 駅前の広場まで来ると、父が足を止めた。大きなクリスマスツリーが、凛とした姿で夜空に伸びている。その光が、父の少し白くなった髪を優しく照らしていた。


「この辺り、随分変わったな」


 父の声には、懐かしさと寂しさが混ざっていた。カヨコは黙ってうなずく。かつて父と母と三人で買い物に来た思い出が、遠い日の写真のようによみがえる。


「覚えてるか? お前が五つの頃、あそこの百貨店でバレエシューズを買ってやったこと」


 父が指差した先に、今でも変わらぬ姿で佇む老舗百貨店があった。カヨコの目に、小さな靴を抱えて飛び跳ねていた幼い自分の姿が浮かぶ。


「ええ……真っ白なシューズ。大切にしてた」


「踊るのが好きだったもんな、小さい頃から」


 父の声が少し震えた。夜風のせいではないことは、カヨコにもわかった。


「俺は……」


 言葉が途切れる。父は視線を遠くに向けたまま、深いため息をついた。その横顔に、カヨコは初めて父の老いを感じた。


「俺も、完璧な父親ではなかった。いや、率直に言ってダメな父親だった。愚かな行為でお前と母さんを、傷つけてしまった」


 震える声。握りしめられた大きな拳。父の中で、長年溜まっていた何かが、今、溢れ出そうとしていた。


「でも、今のお前の生き方を誇りに思うよ」


 その言葉に、カヨコの目から涙がこぼれた。


「自分の道を、必死で探して……そして、見つけた。簡単な道じゃなかったはずなのに、お前は逃げなかった」


 父はポケットからハンカチを取り出すと、優しくカヨコの頬を拭った。その仕草は、幼い頃と少しも変わらない。


「きっと、母さんも喜んでるよ。お前のことを、ずっと心配してたから」


 クリスマスツリーのイルミネーションが、ゆっくりと色を変えていく。父の目にも、薄く光が宿っているように見えた。


「お父さん……」


 カヨコは、どれだけの年月、この言葉を待っていただろう。心の中で凍りついていた何かが、少しずつ溶けていくような感覚。


 人混みの中、静かに寄り添って立つ父娘の周りを、冷たい風が優しく包み込んでいった。やがて、小さな雪が舞い始める。初雪。それは、二人の新しい季節の始まりを告げているようだった。


 ある日、スタジオに思いがけない来客があった。速水の妻だった。


二月末のある午後、レッスンが終わり、生徒たちが次々と帰っていった後のスタジオは、不思議な静けさに包まれていた。大きな窓からは、冬の夕暮れ特有の青みがかった光が差し込み、鏡に映る空間全体が幻想的な色合いを帯びていた。


 カヨコは、いつものようにフロアを丁寧に拭き上げていた。ダンスの余韻が残る床は、まるでその日の思い出を吸い込んでいるかのようだ。


 その時、玄関のドアベルが控えめに鳴った。


「申し訳ありません。本日のレッスンは終了して……」


 声の途中で、カヨコは息を呑んだ。そこに立っていたのは、あの日、『Velvet Dreams』で彼女に向かって怒りをぶつけた女性??速水の妻、美津子だった。


 六ヶ月前のあの夜の記憶が、フラッシュバックのように蘇る。クラブの喧騒の中で響いた彼女の叫び声。憎しみに満ちた眼差し。そして、それを見つめる周囲の冷ややかな視線。


 美津子は、以前よりも少しやつれているように見えた。しかし、その目には、あの時のような激しい感情はなく、どこか諦めと、同時に安らぎのようなものが宿っていた。


「お時間、少しいただけませんか?」


 その声は、震えているようでもあった。カヨコは無言で頷き、スタジオの小さな応接スペースへと彼女を案内した。


 二人の間に流れる沈黙。壁の電気時計の秒針の音だけが、やけに大きく響く。美津子は、持参した紙袋から一本の花を取り出した。白い蘭の花だった。


「あの日は、私が間違っていました」


 突然の言葉に、カヨコは目を見開いた。美津子は、花を大切そうに手の中で転がしながら、ゆっくりと言葉を紡いでいく。


「離婚が成立して、三ヶ月になります。実は……敏之との結婚生活は、ずっと前から形だけのものでした」


 窓の外では、街灯が一つ、また一つと灯り始めていた。


「私も、必死で何かにしがみついていたんだと思います。結婚という形に。そして、それが崩れそうになった時、あなたを……敵だと決めつけてしまった」


 美津子の目から、一筋の涙が頬を伝う。カヨコは黙って、ティッシュを差し出した。


「でも、離婚を決意して、カウンセリングも受けるようになって、少しずつ気付いたんです。私自身の中にある、いびつな部分に」


 スタジオの鏡に、二人の姿が映っていた。かつては敵対していた二人の女性が、今は同じ空間で、同じ方向を向いて座っている。


「このスタジオのことを知ったのは、偶然でした。友人が通っているって。でも、ここに来てみたいと思った。それは……きっと、あなたの生き方に、どこか惹かれたから」


 美津子は深々と頭を下げた。その仕草に、かつての高慢さはなく、ただ素直な謝罪の気持ちだけが込められていた。


「このスタジオで、私も踊ってみたいんです。自分自身と向き合うために」


 カヨコは、美津子の手から蘭の花を受け取った。白い花びらが、薄暮の中で柔らかく光っている。


「明日の初心者クラスはいかがですか?」


 カヨコの言葉に、美津子は子供のように嬉しそうな表情を浮かべた。その瞬間、二人の間にあった見えない壁が、音もなく崩れ落ちた。


 窓の外では、東京の夜景が、まるで二人の新しい始まりを祝福するかのように、少しずつ輝きを増していった。


 その言葉に、カヨコは心からの笑顔で応えた。


 Studio Prism の一周年記念パーティーは、生徒たちによる発表会として開催された。会場となった小さなホールは、満員の観客で埋め尽くされた。


 最後を飾るのは、カヨコ自身のソロパフォーマンス。昼と夜の狭間を表現した創作ダンスだった。


 踊り終えた後、観客から大きな拍手が沸き起こる。その中に、かつての『Velvet Dreams』の同僚たち、ブティックの同僚たち、そして家族の姿があった。


 カーテンコールで、カヨコは客席を見渡した。そこには、もう二つの世界は存在しなかった。あるのは、ただ一つの、彼女自身の世界だった。


「これが、私の選んだ道」


 そう呟きながら、カヨコは満面の笑みを浮かべた。三十歳を目前にして、やっと自分だけの輝きを見つけることができたのだ。


 スタジオの窓から差し込む夕暮れの光が、まるで彼女の未来を照らすように、優しく温かだった。


(了)

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