第5話

 母が居なくなり、静かになったリビングの床でぼんやり座っていると、莉桜がやれやれと肩を竦め、ソファにどかっと座った。

「疲れた……少し横になるわ」

 そう言って横になる。

 私もゆっくり立ち上がりソファに近づくと、眠っているように見える莉桜の顔はどこか苦しげに歪んで見えた。

 母のことで疲れさせてしまったのかもしれないという申し訳なさもあったが、私だけが傷ついているわけじゃないんだと不思議と安心してしまった。

 邪魔にならないよう隅に座り、背もたれに体を預けて息を吐き出した途端、緊張が解けたのか不意に涙がぼろぼろと溢れた。自分でも抑えられず、莉桜に気付かれないように拭っても止まらない。

 体育座りになって必死に涙を堪えていると、気付いたらしい莉桜がもぞもぞと動く音が聞こえた。

「どうした」

 困惑を隠しきれない声が耳に届いて、なんでもないと言いたくても言えず、嗚咽だけがリビング内に響く。泣いて欲しくないと知っているのに、溢れる涙は止まらなかった。

 酷い。ぐちゃぐちゃだ、全然制御が出来ない。莉桜にがっかりされたくないのに。

 すると、頭に何かが触れた。驚いて顔を上げると、莉桜が相変わらず無表情でぎこちなく私の頭を撫でていた。

「無理すんなよ、止まらないんだろ」

 何故分かったんだろう。

 その優しさが今の私にはもどかしく感じて、思わず手を振り払う。

「いやっていっ、ぅう〜……」

 違うの、本当は頭を撫でて欲しい。もっと私を見て欲しい。でも莉桜を困らせたくない。何で素直になれないんだろう。

 素直じゃない私はきっと可愛くない子供に見えるんだろうな。

「……別に困んないから、好きなだけ泣いてくれていい」

 呆れているはずなのに素直じゃない私を諭すように、低く優しい声で話しかけてきた。

 その瞬間、緊張の糸が切れたようにみっともない声を上げながら泣いてしまった。



 しばらくしてやっと涙が枯れてきたらしく、涙はもう出ないようだ。体がもっと泣きたいとサインを出しているような感覚が残っていて、胸の奥がざわざわして落ち着かない。

 顔を上げて鼻をすすっていると、隣で黙って肩を並べていた莉桜が突然立ち上がったので、思わず目で追う。

「水、持ってくる」

 気付いた莉桜はそれだけ言って、キッチンへ向かっていった。

 その後ろ姿を見ながら、可愛げが無い私に何でそこまで世話を焼いてくれるのだろうとふと考えていた。

 コップ二個と二リットルのペットボトルを抱えて戻ってきた莉桜がソファに座り、キャップを外して水を注いだ。

「ほれ、飲みな」

 たっぷり注がれたコップを手渡され、こぼさないように慎重に持ちながら一口ずつ飲む。水は味がしなくてあまり好きではないが、今日は不思議といつもより美味しく感じた。体が水分を欲しているのだろう。

 飲み干すと、自分のコップに水を注ぎ終えた莉桜が、無言でペットボトルを差し出してきた。

「まだ喉かわいてんなら、遠慮せず飲んでいい」

 差し出されたボトルを受け取り、もう一度コップに注いで飲むと、さっきほどの美味しさは感じられなかった。

 飲み干して一息つき、ふと莉桜の顔を伺う。少し気まずさを感じながら、本当にここに住んでいいのか心配になって、声を絞り出した。

「……あの、ほんとにここにいても、いいんですか?」

 聞いてみると、莉桜はふっと笑った。

「怖気づいたか? 帰るなら今からでも間に合うぞ」

 そう冗談めかして言うと、コップにゆっくりと口をつけた。

「嫌です」

 ムッとして即座にそう答えた。

「だったら遠慮すんな。子供ができることなんて、たかが知れてるんだからさ」

 そうはいっても、どうしてもこの状況を素直に受け入れられない。本当にこんなに都合よく話が進んでいいのだろうか、信じきれないでいた。

「……なんだろう、話がうまくいきすぎて、少し怖いというか」

「ひどい目に遭わされるかもって?」

「い、いえ……そんなこと」

 莉桜が何か恐ろしいことをするなんて考えられなかった。ただ上手い話には裏があるという不安が頭を過ぎったのもあって、即答出来なかった。

「疑うのはいいことだぞ? 昨日なんて、あのまま引いてくれなかったらひどい目に遭ってたんだしさ」

「そうなんですけど」

 改めて冷静に考えたら、あのまま引いてくれて良かったなとは思う。

「ああいうことはできたら、やらない方がいい」

「でも、そうしたらおねえさんが」

「別に恨まないよ。みんな自分が可愛いんだから仕方ない。あたしだったら絶対見捨てるね」

 莉桜の考えに一ミリも共感出来なかった。

 本当にそんな風に割り切れるの? 友達や先輩後輩の痴漢の噂を聞いて、私の中に芽生えていた男性への恐怖が少しずつ増長していったし、その度に何故誰も助けてあげないのか疑心を抱えていた。

「おかしいですよ、助けてもらった方がいいに決まってるじゃないですか。その方が被害も少なくて済むし」

「あのまま連れて行かれて、強姦されちゃっても? あいつらは避妊なんて考えないし、泣いても叫んでもやめない。あられもない姿を撮影されたり、変な薬を飲まされたり、痛めつけられてその場で死んでたかもしれない。助けてもらったとしても『そんな誘惑するような服着てるからだ』とか『油断してたから』って言われる。男だって、冤罪のリスクがあるから助けるのも勇気がいるんだ。そういう覚悟がないやつらが頑張っても、誰も幸せにならないと思う。そうなっても助けてよかったと思えるか?」

「っそ、れは……」

 鋭い顔つきで一気にまくし立ててきたので、怯んで言い返せなかった。

 あのまま連れて行かれたら何かされるかもしれないというのはうっすら分かっていても、莉桜が言うその後の現実までは想像出来なかった。

 痴漢被害で男子を恐れる女子を何人か知っていたが、彼女たちが抱える心の傷を考えることすらしなかった。トラウマになる理由を私は全く理解していなかったのだ。

 唇を噛み締め、俯く。莉桜の言葉が頭の中で何度も反芻し、あの時のお兄さんたちの顔や発した言葉が脳裏に浮かんできた瞬間、恐ろしさがじわじわと迫ってきて、自分がどれほど無防備だったかを思い知られた。

「まぁなんだ……助けてくれたのは感謝してるし、お互いなんもなくてよかったよ」

 ポンと肩を叩かれた。恐る恐る莉桜の顔を見ると、さっきまでの鋭い顔つきの面影はなく、眠そうで覇気のない顔になっていた。

 莉桜がどんな心情で話していたのかは分からない。ただ私を心配してくれていることだけは伝わった。

「……すみません」

 何を言えばいいか分からず、謝るしかなかった。

「わかってくれたならいい。話を戻すけど、なんにでも疑うことは大事だからな。むしろそうしてくれた方が大人として安心できる。ただ、疑い方を間違えてしまえば、あたしは君を守ることができなくなっちゃうってことは覚えておいて」

「どうして?」

「この先どうするかは好きに選べって、さっき言ったろ。あたしらは元から繋がりなんてないし、止める権利もないから、君がこのまま帰ってしまったら、これ以上干渉できなくなる。そうなったら君がどれだけ助けを求めたとして、こっちはなんもしてあげられない」

 それはそうだ。莉桜は先生でも近所のおねえさんでもない、ただの他人だ。莉桜からしてみれば、私と関わる理由なんてない。こうやって私と話しているのでさえ奇跡のはずで。

 ……でも、母へのあの振る舞いを見ていると本当に信用していいか分からない。疑うことは正しいと言ってくれたし、帰るなら今のうちだと言ってくれたのもきっと、私に時間を与えてくれているのかもしれない。

 もう少し考えてみよう。

 ええと、あの母を見て自分と一緒にいた方がマシだと言ってくれた。私にメリットはかなりあると思う。では、莉桜にメリットはある?

 今まで母が求める家事や勉強をこなして、その見返りとして趣味や友達との時間を許されていたと思っている。だからこそ、私の衣食住の見返りを今も求めてこない莉桜のことが理解出来なかった。

 莉桜に何かを返せる理由がなければ難しいんじゃないか。もしかして、私を可愛がるという言葉に含意があったりする? まさか、あのお兄ちゃんたちのように……いや、それはさすがにないか。誰かのために殴ることを躊躇うことはなくても、自分のために暴力を振るうことはしないと信じたい。そうだったとして昨夜、この家に招かれた時点で何かしてきただろうし、母を呼んで説得することもしなかったはず。

 ……あ、分からないから怖い、のかな。

「……多分ですけど、メリットとかがわからなくて怖いんだと思います」

「メリットぉ? なんでそんなこと気にすんの」

 莉桜は馬鹿らしいとでも言うように、やれやれと肩を竦める。

「大人はそうやってメリットを求めるものだと思ってたから」

「あー……まぁ、それはあるけど。こういうのって、あたしには一生縁がない話だと思ってたけどさ、なんとなく面白そうじゃん? メリットだの、こまかいことなんて考えちゃいないよ」

「面白そうって……金があればそういうの、できちゃうんです?」

 ドラマだったらこういうのは面白そうな展開なのは分かる。でも、それはフィクションだから出来るんであって、実際そうなったとしても面倒事にしかならないし、警察か児童相談所に連れていかれるのがオチだと思う。

 この家も一人で暮らしているみたいだし、私を養うくらいの余裕はあるようだから、金に不自由していないのは確かなのだろうが、それでも見ず知らずの子供を面白そうだからって理由で置いてくれるもの?

「いやそんなことないけど。金あっても、そんなめんどくさいことしたかねーな。でも余裕あるからこそ、人に優しくできるのはあるかもしんないね」

 やっぱり面倒臭いのは否定しないんだな。

 すると莉桜がじっとこちらを見つめてきて、一瞬身構えた。

「もしかしてさ、無条件の優しさってやつが怖かったりする?」

 無条件の優しさ……そうか、莉桜に対して信用出来ないと思っているのは、自分に対してなんの見返りも求めない優しさを受けたことが無いからなんだ。

「そう、かもしれないです。おねえさんはいい人だと思うけど、理由もなく優しくされると、何か裏があるんじゃないかって思い込んでしまうというか」

「……ふははっ! うさんくさく見えるのは否定できないなー。っつーか、あたしは君が思うよりいい人じゃないよ。倫理観おかしいって自覚あるし」

 莉桜は体を大袈裟に動かし、心から笑っているようだった。それを見て肩透かしを食らったような気持ちになる。ふとした瞬間に見せるニヒルな横顔が、さらに胸を苦しくさせた。

 悪い人は自分の悪事を隠すことに心情的な理解を持てるけど、もしかして善い人は自分の善意を認めたがらないのだろうか? 善い人の行動にはどこか矛盾を覚えることがある。先ほどのメリットについても、それが矛盾の一つだと感じている。莉桜の笑顔の裏に何かが隠れているように感じて不安に駆られる。

「いい人じゃないって……助けてくれたじゃないですか」

「うーん、助けてくれたから信じるんだったらわかるけど、疑ってんじゃん? その時点でそう思ってなくない?」

「それは……助けてもらったから信じたい、でもそれ以外に信じていい理由がない。そんな感じです」

 そう言うと、莉桜は腕を組んで何かを悩んでいるようだった。

「そうね。君に危害を加えるつもりはない、それはたしかに言えるけど、それを信じるかどうかは君次第だし。一つだけ言えるのは、この生活を捨ててまで未成年に手を出して、人生を棒に振るほどバカじゃないってこと」

 なるほど、それなら理解はする。

 それでも私の知っている大人とはどこかが違う。今まで出会った大人たちは、たとえ善いことをしても、どこかで見返りを求める。利己的な動機で動いていて、それで弱い人々が生きていられる。お金を稼ぎながら弱者を助けて、“善い大人”としての地位を保っているのではないか。そうやって生きるのが正しい大人だと信じていた。

  今の私はその“弱い人々”の一人のはずなのに、莉桜は私に見返りを求めない。それが――怖い。

「そもそもね、君をここに連れて来たのも、泊まる場所を提供しただけ。今日は休みで暇だし、話くらい聞いてやったるわ、それで満足したら大人しく帰ってくれるだろうって思ってたんだよね」

「えっ」

「それがこんなことになるなんて思わなかったなー」

 莉桜は大袈裟に肩を竦めながらやれやれポーズをして笑う。

 ……そういえば昨夜、話くらいは聞いてやるって言って、ここに連れてくれたことを思い出した。本当にそれ以上のことは考えてなかったの?

「それじゃ、結局なんも理由にならないじゃないですか」

「そうかぁ? あたしと暮らした方がマシってのが弱いんなら、納得しそうな理由を作るか」

 そんな軽いノリで考えちゃえるものなの!?

 莉桜の提案に一瞬唖然とした。

「うーん、とはいっても高校生ができそうなことなぁ。わかりやすいのは労働だけど……まず学業を優先しないとまずいっしょ?」

 私の困惑をよそに莉桜は淡々と話を進めていく。

「うーん、成績が落ちてるって言っても、下の下とかじゃないので、部活やめたら卒業はできると思います」

「ふーん。だとしてもさ、文武両道できてないわけでしょ。しかも知らん人と一緒に暮らすのも大変だろうからさ、今はまず生活を安定した上で成績を更に下げないようにする。これが優先だと思う」

「はい、それはわかりますけど」

「明日から手軽にできてかつ、メリットになることかぁ。すぐは思いつかな……あ、メイド」

「はい? めいど……?」

 何かを思い出すように発した言葉らしいが、意味が分からずオウム返ししてしまった。

「うん……メイド服なら入手しやすいし、プレイとして成立するし、ありか」

 真面目な顔で次々と聞き慣れない単語を並べながら頷いていた。置いてけぼりにされている気がして、何とかついていこうと質問する。

「あの、メイドってなんですか?」

「メイドは西洋とかで流行ってたんだけど、制服があるタイプの家政婦みたいなやつだと思えばいい」

 なるほど、メイドは家政婦。家政婦って確か家事手伝いだったよね……つまり。

「家事をすればいいんですか?」

「いやいや、そこまでは求めてなくて。ただの愚痴になっちゃうから話半分に聞いてほしいんだけどさ、毎日クソみてぇに要領の悪いガキと相手してんのよ。そりゃもう疲れんの、精神的にね」

「はぁ、それは大変ですね」

 要領の悪い人を教えるのが大変なのは、私も経験があるから共感は出来るけど。

「そうやってストレスが溜まると、癒しがほしくなるのね。でもロングスリーパーだとゲームする時間もあんま取れないし、疲れてると出かけるのもおっくうになる。そういう時こそ君の出番なんよ。高校生にメイド服を着せる機会なんてそうそうないし、君が嫌がってようが、ここで暮らすならと諦めはつくだろ? ストレス発散としてはちょうどいいから、対価としては十分見合う。ついでにその格好でコーヒー入れてくれたら最高」

 なるほど……そのメイド服がここで暮らすための制服みたいなものだと思えば、学校とさして変わらないだろう。『それがルールだ』と言われれば拒否は出来ない。

「メイド服ってなんだろう。……割烹着とか?」

 純粋な疑問を投げかける。

「ふふっ、そんなメイドいたらちょっとおもろいな。なんだろうね、ドレスなんかな、あれ。フリフリした白黒の服なんだけど、ドレスっぽいのを動きやすく改造した感じかなぁ」

 急に自信がなさそうな説明になる。

 白黒の服で動きやすいドレスっぽいの……か。似合うんだろうか? 制服も着せられている感じがして落ち着かないのに、着て幻滅されないかな。

「そうだ。どっちにしろ、着替えとか買わなきゃだし、ついでにメイド喫茶も行ってみる?」

「めいどきっさ??」

「メイドがたくさんいる喫茶店。最初は居心地悪いかもしんないけど、慣れるとすっげー楽しいよ。もしかしたら使ってないメイド服、貰えるかもしれないし」

 一瞬見せた穏やかな笑顔に心を奪われてしまった。今まで見た笑顔と違って、私の心に入り込んでくるような何かを感じた。



 そこからの記憶は曖昧で気が付けば、電車の隅っこの座席で縮こまっていた。

 学校をサボっていること、誰かにバレたらどうしよう。学校にどうやって連絡が入っているのか分からないけど、こんな堂々と街中に繰り出すのは罪悪感がある。

 昨夜着ていた部屋着の上に莉桜から借りたコートを羽織っていて、私には少々きつく感じる。

 見た目はどう見ても芋っぽくて学生であることを隠せていないと思う。メイド喫茶に行く前に服を見繕ってやるとは言われたけど、それまで心が穏やかでいれない。

 しかも隣で座っている莉桜は、メイド喫茶に行くのも久しぶりだからと言って、楽しそうにRIMEで誰かにメッセージを送っているらしい。

 ……自ら倫理観がおかしいと言っていたことを、一瞬でも納得せざるを得なかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

臆病なあんずは莟(つぼみ)に籠る 燈夜月(ひよづき) @hiyoduki_hazime

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ